読書会LOG

R読書会/Zoom読書会

『老乱』久坂部羊(朝日文庫)

R読書会 2023.03.04
【テキスト】『老乱』久坂部羊朝日文庫
【参加人数】9名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者A)>
◆転勤で岡山を去ることになったので、最後に紹介させていただけてよかった。ただ、暗く苦しいテーマの作品で申し訳ない。
久坂部羊はもともと好きな作家なので手に取った。その後、ヘルパーの資格を取ったとき、読み直して面白いなと思ったので今回推薦した。
認知症に関してはフィクション・ノンフィクション問わずいろいろな本が出ているが、老いていく本人の心情を綴っているものはあまりない。認知症患者自身は行動の意味が繋がっているのに、周囲はそう受け取ってくれないのがリアルで怖ろしく、心理ホラーの側面があり、怖々と読んだ。
◆あまり文学的ではないので読書会にはどうかとも思ったが、認知症患者の考え方がよくわかり、大介護時代に相応しい作品。

<参加者B>
◆なかなか手がつかなくて読めるか心配だったが、読みだしたら一気にすっと読めた。
認知症の人の心理を書いているのもそうだが、介護する側の焦りも丹念に描かれており勉強になった。また、考えさせられた。
◆和気医師から心構えを聞く場面が一番のクライマックス。治したいと思い過ぎてしまうとよくない。現状を受け入れることでかえって相手の感情が落ち着いてうまく回る――理想論過ぎないかと抵抗を持つが改心してやってみたらうまくいった、と捉えていいと思う。
「先々に余計な不安を巡らせてしまう」というのは介護に限らず、いろいろなことに当てはまるのでは。現代は我々を不安に陥れる情報に溢れている。マスコミも世の中の悪い面を探し過ぎて追い込んでしまう現状に思いを馳せた。

<参加者C>
◆身につまされる。年齢的に私が介護することになる人がいるので参考になった。実際、当事者になったら、なかなか小説のようにはいかないだろうが。
◆情報を提供する小説としては優れていて勉強になった。
◆幸造の日記も正常との境を行きつ戻りつ。最後は安心したが、乱れる場面は辛いなと思った。どうやって立ち直っていくのかどきどきした。
◆雅美が勉強して方向修正をしているのが偉い。自分が同じ立場になったらできるだろうか?
◆当事者に当てはまる立場だと辛い。若い人は理解できるだろうか。私が若いころ、有吉佐和子恍惚の人』が流行ったが当時は読む気がしなかった。20代の人は『老乱』を読めるのかな。

<参加者D>
◆私も大変面白く読んだ。Aさんが仰られたように文学的ではなく社会派の作品。
◆雅美が本質に入っていくのがすごい。また、幸造の日記は(作者に)想像力がないと書けない。作者が実際に父親の介護を経験したといっても幸造側(介護される側)ではない。認知症の人に対する想像力がすごく、非常に温かい。
◆交通事故や賠償額の心配、介護施設に預けるくだりにしても具体的で、その辺りも素晴らしい。心配事の9割は起こらないという言葉もあるが、人間は先々の想像をする。大事なことだが、想像し過ぎるのは諸刃の剣。
ネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスが生き残ったのは想像力があったからだという説がある。(その説が正しいかはわからないが)これから取れる作物の量を想像したり、宗教で人をまとめて結束したり……。それが今も続いており、「事故を起こしたらどうしよう」「女性を襲ったらどうしよう」と不安になり、生きづらくなっている。ホモ・サピエンスの特質の悪い面が出ている。
とはいえ、楽観的に受け入れればいいというものでもない。事故を起こしてもいけないし、セクハラをしてもいけないし、世の中のルールは守らなくては。やはり背に腹は代えられない。小説なので幸造が気持ちよく亡くなったが、現実ではそうはいかない。だが参考にしたい。
認知症も認知の軸だと思って、患者が赤を黄色と言っても否定してはならない。害がなければ、本人がそう思っているのだからそれでいい。

<参加者E>
◆分厚いから不安だったが、読み始めたら一日で読めた。認知症の高齢者による事故も実際にあったし、私の周りにも心配な人が増えてきた。他人事ではないので怖くて仕方がない。
◆私はこんな目に遭いたくないので安楽死を希望している。迷惑をかけたくない、馬鹿にされたくないと思うのは苦しいだろうし、その時点で死にたい。
◆雅美は最初ヒステリックであわあわしていたが、和気医師のもとへ何度か行って変わる――という描写に、作者は女をわかっていない、女を馬鹿にしている、と感じた。そんな性格の人はちょっと勉強したところで変わらないし、女性にも落ち着いている人はいる。
◆百から七を引いていく計算をやってみたら難しかった。作中で付き添いの息子・知之もわからなくて焦っていたが。もともと数字や漢字が苦手な人もいるし、得意不得意があるなと思う。
D:認知症でなくても、掛け算で七の段がぱっと出てこない、とかありますよね。
F:部首が同じ漢字を書くのも難しい。
A:難しいですよね。
作者が医師だから読む気になる。医師が書いていなかったら読むかな?
◆主観が幸造だったり、息子の妻・雅美になったりする。それがスムーズで巧い。私は一人称しか書いたことがないからすごいと思う。
B:視点の切り替わりを章番号で表している。認知症の外からの視点(雅美や知之、新聞記事)はアラビア数字、認知症の視点(幸造)は漢数字。
A:幸造(認知症)視点だけだとわからないから。巧いですよね。
B:雅美視点から見た同じ場面を、続けて幸造目線で書いていたり。
D:立体的ですよね。
◆今、死んでいく男の小説を書いており、この作品は参考になった。最後は主人公が死ぬんだけど、希望を入れないといけないのかな。ラストをどうしようか考えていて、その点でも勉強になって。死んでいく人の心の在り方、心が平安になっていくことが希望に繋がるのかな。

<参加者F>
◆介護の問題は私自身が日常茶飯事なので、読んでびっくりすることはなかった(私自身、認知症ではないが要介護認定の申請をしているので)。読んでいて退屈だった。
◆「介護がうまくいかない最大の原因は、家族が認知症を治したいと思うことだ」。これが作者の一番伝えたいことではないか。
◆知之、雅美を軸に模範的な家族で、幸造は幸せだったのではと思う。こういう家族は実際にいるのだろうか。小説として救いがなくてはならないので、一つの模範的な家族像を示しながら、その間の現実を描いたのではないかと思いながら読んだ。
芥川賞候補作になった「あくてえ」。その作者である山下紘加が「一般的に言いにくいことを書くのが小説」と言っていたが、私は「ババアの生きがいは食べて寝て排せつする、人の人生まで食っている……」と書いてあるのを読んでショックを受けた。芥川賞候補になるのは、このようなテーマを日本中で真剣に考えているから。だから売れる。
『老乱』も著者は小説家であると同時に医者で、認知症について知ってほしいと思い、書いたのではないか。小説というより、記録のように感じながら読んだ。若い人には、こういう本を読むことで「そうなんだ」とわかるのでは。
認知症を治そうと思ってはいけないんですね。
A:和気医師、教義的な感じがして私は好きじゃなかったんですが、言っていることは納得できました。
F:私自身、ちょっとしたことで傷つきますね。怒っても何もないから怒らないでほしい(笑)。
去年、呼吸が苦しくなって病院に行ったら心臓が弱っていた。死の適齢期だと思って、救急車を呼ばずに綺麗に死にたい。でも、こういう家族に囲まれて天国に行けたらとも思う。今は一人暮らしだけれど。
A:介護の学校に行っているとき、先生にもこの作品を読んでもらったが、こんなに綺麗にいくケースは少ないそう。

<参加者G>
[事前のレジュメより]
《他人事の気がしなかった》
 孫娘に「ジイジ、呆けちゃったんじゃない」と指摘された場面で、幸造じいさんが情けなく死んでしまいたかったと思うところがあります。私の体験ですが、この一月、妻と旅行に行きました。翌朝、妻がきょろきょろしているのです。「どうしたの?」と聞くと、「ここはどこ?」と心配そうにしています。冗談なのかとも思ったのですが、そうではないようです。その前日に気になる行動がありました。新幹線から在来線に乗り換える直前、「お父さん、切符がないの」とあちこちのポケットを探していました。私が妻のバッグを調べると、いつもは物を入れない横のポケットに切符が入れてありました。忘れないようにそうしたのでしょうが、妻はそれを忘れていました。私は、二つの出来事を結びつけ認知症ぽい症状だなと思いました。
「あんた、呆けちゃったんかい」
 私は不用意に言葉を発してしまいました。妻は、ショックだったのでしょう、彼女は極度にうろたえました。
 本当に他人事ではありません。妻の症状がどんどん進行するのが心配なのです。地元には認知症の専門病院があるので、一緒に行こうと考えています。なんと言って勧めれば自尊心を傷つけないのでしょうね。妙案を考えているところです。

《三人称の視点》
 三人称の視点で書かれていますが、エピソードごとにその中心人物の視点で描かれるので、一人称と同じように心理描写が深く書かれていると思いました。

《日記が効果的》
 エピソードごとに幸造の日記を見せられます。症状が進行したとき、その時の感情が書かれているため、認知症患者の心情がよく分かります。私も妻に対応するとき、そうしようと思ったことがいくつもあります。

[以下、読書会にてGさんの発言]
◆私も他人事には思えない。妻と旅行したとき、心配なことがあった。二日目の朝に妻が「ここはどこ?」と言い、急に体が萎んでしまったように見えた。
専門病院に行くと、簡単な計算もでき、MRIで見ても委縮しておらず、ごく軽度の認知症かなと言われた。今度は血流検査を受けさせようと思っている。
◆『老乱』を読んで、幸造さんのケースなど、いろいろな事例を知りショックを受けた。これからは気をつけようと思う。この本に感謝している。
B:体験を重ねて、自分は駄目なんだなと傷ついている。
E:主人公(幸造)の性格が真面目ですよね。

<参加者H>
◆この作品を読んで将来の勉強になったし、皆さんの話を伺えてよかった。レビー小体型認知症の患者の幻視を再現した映像を観たことがある。蛇がいる、少女が浮いている……その人にとっては現実なのに、呆けていると言われたら辛いなと思った。自分の将来、ない姿ではないな、とも。
◆幸造が亡くなるとき苦しまなかったと書かれているのだけが救いだった。
私の母も、苦しまず亡くなったと施設の人に言われたので、これからそれを信じようと思った。

<参加者I>
◆最終的に希望を持たせる作りになっており、作品としては好感を持った。穏やかな結末にほっとした。読み物として読みやすく、あっという間に読めた。
◆しかし、現実はもっと厳しいはず(もちろん作者も承知しているだろう)。幸造はもともと穏やかな人柄で、家族も息子・息子の妻・孫に至るまで優しい人たちだったが、例えば元気なときに周りに辛く当たるような人物であったならこうはならない。また、実際施設から引き取ることが可能な家庭は少ないだろう(家計が厳しいと言っても、主人公たちの家には余裕がある。何より、家族は人間ができている)。理想ではあるけれど、すべての介護に当てはめるのは難しいと感じた。
◆ただ、車の事故やセクハラ、徘徊など、認知症のさまざまな問題を自然に盛り込んでいるストーリーの組立は非常に緻密で、さすがプロだと感心した。

<フリートーク
【登場人物の造形について】
B:最初、家族像がぼんやりしていて、途中で書かれるのが後出し気味かなと思ったけど、P340に幸造が阪神・淡路大震災のとき働いていたと書かれていて……認知症ではない我々も忘れていることがあるというメッセージかな、と思った。
それにしても、もっと早く家族のディテールを教えてくれてもよかったのでは。
F:この家族、出来過ぎている。もうちょっと雅美さんが本音を言ってもいいかな、と。
G:妻にもこの作品を読んでもらったが、雅美さんが立派だと言っていた。
A:かなりハッピーエンドですよね。
G:うちの子は近くにいないから幸造さんが羨ましいのかな。
F:(作者は)そういう意味でも書いたのでは。周りに本音を散りばめながら。あまりに現実が悲惨で大変だから。
気になるのは、雅美や知之の立ち位置がちゃんとしていないと感じる部分があったこと。
E:そう。雅美の考えが急変するのはありえない。
あと、幸造がケアマネ―ジャーの女性をパンツ一丁で待っているというのは例が極端。
B:そこは小説ですから。ただ、雅美のキャラづけには私も違和感を持った。あんなに我が強くヒステリックな人が心を入れ替えるだろうか。女性を馬鹿にしていると言われるのもわからなくもない。ありふれた女性として造形され、最後は聖母のようになる。男の理想ですよね。例えば、「親が離婚しているから人の痛みがわかる」というように人物像を掘り下げていたら、また印象が違ったかも。
E:たとえ改心しても、実際の生活があるから甲斐甲斐しく介護できないと思う。
F:幸造の息子で雅美の夫である知之。現実も、男の人ってこんな感じじゃないかな。心配するのはお嫁さん。
B:知之も、男の基準からすると相当できた人。父親の幸造とも仲がいいし。普通の男はもっと自分勝手で荒っぽい。男親にここまで愛情があるかどうか。
A:包丁で切りかかる場面も、ああはならないですよね。
B:切りかかられて感謝の気持ちになるかどうか。
E:現実でも認知症の可能性がある人が、家族を殺害した事件が起こりましたね。
これ、あっと言う間に読めてしまうの、どうしてなんだろう。
A:あまり深読みしなくていいからかな。
E:幸造がどうなるのか気になって読み進められる。
F:知之は製薬会社勤務で、経済的に恵まれた家族。
G:離れて暮らしている長女はお金を出してないよね?
F:出さなくても大丈夫、この家族は。幸造もガス会社に勤めていたし。
G:合理的に考えたら幸造さんが住まなくなった家は売ったほうがいい。現実には、生前贈与したほうがいいという子どももいる。
F:私、していますよ。家は息子の名義になっている。
G:法律が変わって、生前贈与加算が7年に延長されたから早くしないと。
E:私は全部自分で使う(笑)。いろいろなところへ行って、美味しいもの食べて。
C:家は売ったほうがいい。雅美も売ったことで気分が変わった。
A:息子夫婦の合理的なところ、悪くない。
E:でも、幸造に黙ってサインさせるのがリアルで。
A:幸造の気持ちが書かれていて可哀想ですね。

【重いテーマの描き方や文体について】
G:アラビア数字の章と漢数字の章の構成はどう捉えれば?
B:アラビア数字の章は、外から見た認知症(新聞記事含め)。漢数字の章は当事者の視点。
E:こういう構成ってよくあるんですか?
B:あるかもしれないけど、この作品ではとくに効果的。
A:両方から書かないと成り立たないですからね。洗面台のシーン(十八章、19章)は幸造と雅美、両面から書いていて衝撃的。よくできている。
F:作者は介護をしているとき記録していたと思うんです、書こうとして。記録ですよね。私は小説とは思えなかった。
E:フィクションだけど、現実の事件・事故を入れており興味を引かれる。なぜかすごく読みやすかった。
B:凝った比喩などがないからわかりやすい。Twitterで見た指摘だが、川端康成『雪国』も、比喩になっているのは最初だけであとは描写。いい描写って明晰なんですね。
D:高尚なことを書こうという邪な気持ちがない。
B:下手なことを隠すために凝りに凝った文章を書く必要がない。
H:私はエッセイの文章とかが読みやすいですね。
A:重いテーマなのに読んでいて暗くならない。
B:陰鬱にならず、ところどころほんわかした描写が差し挟まれる。奥さん同士の会話だったり、施設の人たちとの良好な関係だったり。
D:雅美は結構理詰めで動く人だから、彼女自身の性格の明るさでカバーしてるんじゃないかな。
E:死んでいく男の小説を書くにあたって、トルストイ『人生の道』を読んだ。トルストイは重いテーマをどう書いたか知りたくて。
A:もう全部書かれたんですか?
E:まだ。心理描写が難しくて。死んだことないから……(笑)。
一同:(笑)

【自分の将来について】
A:認知症は患者本人に目的がある。
G:幸造視点で「(周囲が)俺のことを監視している」という箇所があったが、認知症患者本人はそう感じるんだと思った。私の妻は「馬鹿にして」と怒るが、すごく身構えているのがわかる。感受性は衰えていない。
E:余計敏感になったりするんですよね。
F:私も自分が呆けたらどうしようかと……
E:大丈夫です、心臓で逝きましょう!(笑)
G:日本は行政がしっかりしているから。若い人に任せましょう。
F:私は87歳になるけれど、頭ばかりしっかりしていて。グループホームって認知症にならないと入れないんです。
E:心臓が弱いほうが勝ちですよ。すぐ死ねるから。
D:どういう価値観!?(笑)
F:まだバイクに乗れるんです。紫のバイク。有名なんですよ(笑)。
A:そりゃそうですよ、そんな色のバイク乗ってたら(笑)。
E:大丈夫です、楽勝です。バイクであちこち行ってください!
A:Eさんは認知症になる前に死にたいと仰ったが、久坂部羊介護士K』という小説があって。主人公はまったく違うけど、テーマ的にこの作品の続編のような感じ。介護施設で起きた入居者の転落死を扱っている。
B:施設内での殺人事件は現実にもありますね。
E:物価が上がって、社会保障費も上がっていって……若い人も大変だけど、歳を取っても大変。
A:30章(P341)「過去と未来がなくなって現在だけに生きる認知症高齢者は、現在だけがある子どもと同じ。……死を思わずに毎日を暮らせるのは、人生の最期の日々に神が与えた恵み、とすら呼ぶ人もいます」(社会学者 上野千鶴子)。過去や未来を心配せず、今のことだけ。綺麗事かもしれないけれど。
F:Aさんはそういう仕事に就いておられるのですか?
A:将来就こうと思っていて。甘い仕事ではないのはわかっているんですが。
F:私は一人暮らしだから毎日覚悟しています。私の心臓の心配をしてくれた人が、その5時間後に心疾患で亡くなって。私のほうが先だったのに。順番はないんです。一回り下の人が亡くなることもある。だから一日一日を大切にしています。

『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫)★Zoom読書会

Zoom読書会 2023.01.28
【テキスト】『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫)
【参加人数】出席6名、感想提出2名

<推薦の理由(参加者F)>
推薦した理由は、AさんがTwitterで「面白い」と書かれていて、また、R読書会で取り上げたあとも「最高に面白い」と聞いたので、ぜひ読んでみたいと思い、推薦した。

<参加者A>
◆前に読んだときは面白さに気を取られたが、今回は技巧に注目した。とはいえ、やはり面白かった。
「エピローグ 人質」の探偵役が聾唖者の木堂先生なのは、筆談で文字に残るやり取りをさせて、最後まで登場人物が書いた文章のみで作品をまとめるためなんだな、と感心した。
◆どの時点で「人質」の構想があったのか、製作過程について考えるのも楽しい。3作目の「赤い手」には船山姓の人物が登場するが(前沢良子を取り上げた産婦人科医)、「悪魔」「人質」の船山太一の関係者なのかと思ってしまう。この時点ではすべての作品を繋げようと思っていなかったので、同じような名前になってしまったのでは。
◆私はやはり「赤い手」がアイデアとしてすごいと思った。公文書だけでこんなに人の人生が書けるんだと感心した。最後は公文書じゃなく手紙だけれど、最後まで公文書だけにしたらどうなるのか見てみたい。でも、『十二人の手紙』だから手紙じゃないといけないのか。
◆内容としては「桃」が好き。中学校とかの教科書に載せてほしい。作中作の完成度も高いと思う。
◆純粋に面白いと思ったのは「鍵」。どんでん返しがあり、最後はほっとして終わる。すごくサービス精神を感じる。
◆全体について。すべてが登場人物の書いた文章で作られており、しかもその中で本当のことが書かれているとは限らない。(作中の)書き手が意図的に真実を語っていない、または嘘をついている可能性があり、それが効果を生んでいる。

<参加者B>
◆久しぶりの昭和の空気を感じてよかった。景気のいい、元気な空気(もちろんいろいろあったのだろうが)。小道具がパリのブランド品だったり、コミュニズムだったり。
◆信用できない語り手など、サービス精神があってコスパのいい小説。
「エピローグ 人質」。オールスターだけど、「プロローグ 悪魔」の船山太一、「鍵」の木堂先生以外は出番が少ないので、他の登場人物ももっと絡めてほしかった。現代のエンタメはもっと緻密に作るから気になったのかも。
◆一つ引っかかったのは、「赤い手」で、前沢良子が昭和20年にカナダ人に引き取られたとあるが、あの時代に可能なのか? ということ。
◆全体的に面白く、対価のいい小説だった。

<参加者C>
◆楽しく読んだ。昭和の男尊女卑的な香りがしたものの、面白かった。
◆人間のどうしようもなさ、愚かさ、タイミング……。あのとき出会わなければ、ということがあるのでは。
解説にもあったが、心もとない人生で人間ができるのは祈ることしかない。人間は最終的なことしかできないのかと、ふと思った。
障がい者など、立場の弱い人が描かれているが、人を見下している感じがした。

<参加者D>
◆私も読書会のテキストとして読むのは2回目になるが、作品の読み方がわからなかった。井上ひさしは『ひょっこりひょうたん島』の原作を書いた劇作家・放送作家でもある。物語の作り方に一部の隙もない。再読してみると、隙がないゆえに人間らしさを感じられない。よくできた短いドラマを見ているようだった。
「シンデレラの死」。不幸な女の子が夢を目指し頑張るが、つけこまれて自殺する。読者は7通の手紙を読んで事の次第を知ったつもりになるけれど、それは彼女の自作自演だった。自分自身に悲しい嘘をついて自死に至った女の子の不幸を描いたのだろうか。昭和のころ流行った、よろめきドラマを思わせる。
今は不幸な話でも、希望を持たせる作りにするのでは。その意味で、少し時代遅れだと感じた。
◆手紙なので昭和を感じた。女性の手紙は女性らしい書き方。今は性別がわからない書き方が多い。古く感じる書き方があるんだと思った。
◆最近、谷崎潤一郎春琴抄』を読んだのだが、エッセイ風に書くと何十年経って読んでも古さが薄まる気がした。語り手である「私」が佐助と春琴のことを調べて、推察を交えながら書いており、古さを感じなかった。『十二人の手紙』を読んでそれに気づいた。

<参加者E>
◆大変面白かった。時代が反映されているとか、いろいろな見方があるが、私はあまり深く捉えずに読んだ(作者は考えていたのかもしれないが)。
◆仕掛けに満ち溢れた作品集。なりすまし、一人二役、一人芝居……いくつも出てきて、読んでいるうちにだんだん慣れてくる。手紙の書き手は本物か偽物か、三、四話目から用心しながら読んだ。そういう読み方でいいのでは。
◆注意して読んで、気づいたのは「赤い手」のドライバーと「第三十番善楽寺の繋がり。名前を記憶していれば気づく書き方。途中途中で、名前をばらまきながら書いており、なかなかのテクニシャン。読者が気づかなくても最後に明らかにするからいいという書き方。ミステリーでも気づく人と気づかない人がいる。そういう部分が同じ。
◆全体的に、恵まれない、悲しい人の話が多い。裏側を書かないといけないので、そのようになるのだろう。
◆手紙と言いつつ、こんな回りくどい手紙は書かない。普通は目的から書く。たぶんこれは手紙ではない。(読者に向けて)「気をつけて読め」とわざと書いた。
小説はもどかしさを出すためにこんな書き方をする。それもテクニック。すべては作者の仕掛けかなと思った。
◆私は仙台に住んでいたことがある。作中にドミニコ修道院が出てくるが、近くに聖ドミニコ学院という学校があり、それを思い出した。
天元台のスキー場は、高速道路を下りて米沢に向かう途中にあり、遊んでから仕事へ行っていた後ろめたい思い出の場所。(場所に馴染みがあるので)読んでいて、そういう個人的な楽しみがあった。
「ペンフレンド」。自分の小説でもアイデアを生かせそう。
「第三十番善楽寺。中学校の社会科で共産主義について学んだが、資本主義は能力に応じて、共産主義は必要に応じてもらうと聞いて「嘘だろ」と思ったが、これを読むと「ありかな」と感じた。さりげなく啓蒙している。他のエピソードも、じっくり読むと発見があるのでは。

<参加者F(推薦者)>
◆とても面白くて2日くらいで読んだ。もったいないから1日1編にしようと思っても、次々読んでしまった。だから内容をあまり覚えておらず、感想を聞きながら「そうだった」と思い出した。
面白い本は(印象に)残らない。心にずしっとこないから、後からくちくち思わなくていい。
井上ひさしは私が若いころ、劇団などの脚本家として売り出していた。幕が開く当日に台本がまだできていない、どうするんだというときに、人間じゃない顔をして「やっとできた」と持ってきた、というエピソードが印象に残っている。
◆多産な作家。『十二人の手紙』が面白かったので井上ひさしの他の本も買った。『新釈 遠野物語』はあっという間に読んだ。次は『吉里吉里人』を読みたい。時間があるとき、ほっこり面白がりたいときにちょうどいいかな。
◆私は昭和生まれだが、『十二人の手紙』は昭和そのものだと思った。完全に男尊女卑。人間関係が大変で、一人ひとりがすごく不幸。昭和のにおいがした。そこが面白いといえば面白い。
令和になってよかった。社会的にはいろいろあるが、深い関係はなく、個人で生きていける。恋愛して、あるいは夢を追いかけて自殺するとかあまりない。今生きるのは楽だなと思う。
◆面白かったのは「泥と雪」
「桃」は心が痛い。私はロータリークラブに勤務していたが、施設の子どもたちへのプレゼント計画などしょっちゅうあった。そのとき施設長が「貰うものは貰うが、あなたたちに期待しない」と仰って、それに対し「もうあげない」となったのを思い出した。実話としてあった。上流のご婦人方の暇つぶしは罪作りだ。
「第三十番善楽寺。資本主義もそうだが、キリスト教の教会でもそう。働きが悪い者にも等分に分ける。家族が多い人はたくさん取る。
ソ連が崩壊したのは、国営の農場があり、働かなくてもお金が貰えるから。考えながら読んだ。

<参加者G(提出の感想)>
 赤の他人のペルソナが切り替わる瞬間の、得も言われぬグロテスクさが臭い立つ、全体的に優れた作品群だったように思う。そのおどろおどろしさは、自分自身の歪な多面性の写し鏡のようにも思えた。
 手紙という小さなスペースに発露されたパーソナリティは、だからこそ一句一文が濃密極まりない。信用できない差出人が認めた断片的な物語が如意自在と広がり、顛末へと収斂されていく構成は、作品ごとに若干の落差を感じるものの、アイディアの輝きに溢れている。奇怪な研磨を施された宝石を敷き詰めた小箱のような作品群でした。
 ただ「エピローグ 人質」は、蛇足感が否めない。各主要人物が物騒なカーテンコールに総出した際の高揚も束の間、その実は「悪魔」の後日談の域を超えておらず、なんだか肩透かしといった印象。事件の真相の蓋然性を語る「鍵」の主役である鹿見木堂氏以外の影が薄いように感じた。やるのであれば、もう100ページ足してでも、全員の活躍を見てみたかった。フィナーレにふさわしい活躍が、キャラクター達への最大の祈りなのではないかな、と個人的には思う。

<参加者H(提出の感想)>
 心おどる連作短編集。これほど純粋にたのしめた作品はひさしぶり。手紙=形式として一方通行を余儀なくされた文字列の、各行間から浮かび上がるさまざまな人間性と、余白が示す語られぬ重みに一喜一憂。手紙特有の親密な語りかけに、ついつい情を覚えてしまう。作者はそれを、たくみに利用・誘導しては読み手の心を猫のようにもてあそぶ。女のうそはとくに恐い。解説が指摘するところの「多様な演技性」は演出としても物語としてもおもしろかった。物語としては人情譚に類するか。あたたかな人間愛を感じる一方、業深き生きものとしてのぼくらに対するつめたい毒も宿されている。それぞれの「手紙」は原則独立しているが、ところどころ関係していて心憎い。世の中という広大な樹海に、うっすらのぞく縁の糸。その表現に強く感銘。ラストはオールスター構成だが、逆に考えたら、あの「事件」に直接関わったひとびとの手紙をまとめて公開した物語、と呼べるかもしれない。作者はとにかく、読み手の心をくすぐるのが巧い。二転三転する場面には翻弄された。作者の笑みが頭に浮かぶ。知恵をしぼるのに苦心したかもしれないが、作者はきっと、基本的にはたのしんで書いていたんじゃないかと想像。あふれる創造性、奇抜な発想は心地いい。ふとだれかに薦めたくなるすばらしい一冊だった。

『悪魔』上京した田舎娘の話。都市や男、金によってだんだん「けがれる」清純さの段階性が読みどころ。白い絹ほど汚れやすいということか。愛ゆえの悲劇。さらりと描かれた背景設定は巧み。そして悲痛。よくある話かもしれないが、一方通行かつ純粋無垢な文面だからこそ、響くものが深い。かつ「先生」に出す手紙には淡い影が見出され、少女でいながら、女という生きものの恐ろしさが垣間見えている。
『葬送歌』どんでん返しがおもしろい。「戯曲」の目的に目を見ひらいた。女のうそとしたたかに肝が冷える。先生はどんな顔をしただろう。
『赤い手』強い印象を放つ作品。公的文書で人生を編むなんて。結末はかなしい。「もしも」と思ってしまうじぶんがいる。構成としても物語としても胸がふるえた作品だった。書類のなかに、すでに知った名前が出てきていないかチェックしてしまう。医師の「船山」(『悪魔』の社長の性)が気になって仕方なかった。でも、なんとなく覚えた「古川俊夫」はのちに忘れられない印象を残した。
『ペンフレンド』めずらしく「男」がしかけた物語。とちゅうで気づいてしまったが、構成はおもしろかった。(いくらなんでも手紙の日付をきちんと記憶しているのは不自然)全体的に説明調だったのも気になった。作者はそこまで計算していたのだろうか。「幸ちゃん」「弘ちゃん」は冒頭作『悪魔』姉弟を連想。心憎い演出。ここでもまた、女のうそとしたたかさが上をいく。うまくやったと思いこんでいるうちは、真実の扉は遠いということ。男は生涯、女の手の上でもてあそばれる運命か。
『第三十番善楽寺すばらしい作品。ラストは泣いた。『乳と卵』とか『異邦人』とか、自己を押し殺して生きるタイプの主人公が、ラストで抑圧をほどく構成はとにかく弱い。すばらしい作品。それしかことばがない。
『隣からの声』冒頭からつづく不自然さ――手紙ですべてを語ろうとする話者に違和を覚えながら読み進む。「もう電話しろよ」と何度つぶやいたことだろう。しかしラストで腑に落ちた。病的とも感じた夫への依存症もうなずけた。個人の心理分析から社会、人間というものの闇へ迫った作風は個人的に好き。経済を重視するあまり、大切なものを傷つけ失ってきた時代の罪が浮かび上がる。
『鍵』ものの見事に翻弄された。前作の影響か、仕事のために愛や情、あるいは責任を軽んじた男の話かと最初は思った。仕事を楯に家庭や妻から逃げようとするあまえの構造。あるいは意地や、男としての劣等感が主題……。そう考えて憤慨したのがよくなかった。完全に作者の虜。ろうあ者は電話ができない、という設定が巧みに活かされた作品だと思う。また、美人画ばかり描いていた男が結婚を機に「山」=男性性や神性の象徴を描きはじめた点は興味深かった。しかし女はおそろしい。そういえばこの婦人は元プロか。うそなんてお手のもの。情をくすぐるのもまた巧み。見破った絵描きの慧眼もすばらしいが、結果的に目的を果たした女のうそはただ感服……。
『桃』冒頭、程度の低い偽善のおしつけに胸が悪くなったが、園側の「返信」は考えることが多かった。純粋な善とは、傷を負ったものでしか成し得ないのか。長く飲食業についているが、暗い過去を持っているひとほど、思慮もことばも態度もやさしい。日常会話のささいな語句がきっかけで、だれかの心が傷つくことを知っている。彼らはぜったい、「不幸な」なんて言葉は使わない。幸も不幸も、他者の視点が決めていいことでないと身を持って知っているから。「~あげる」なんて表現はちいさな悪よりよっぽど業が深いと思う。蹂躙された「桃」は原罪を象徴しているようで印象強い。ひとは罪を意識しなければ目が覚めない。金持ちのおばさまたちの道楽会は、一生目を閉じたままだろう。
『シンデレラの死』胸の痛む話。上京娘の理想と現実が巧みに交差。少しばかりの真実が入り混ざった虚構世界はとても悲しい。故郷でみたあわい夢は泡のように儚く消えた。手紙の書き手は「悲劇のヒロイン」を演じることでしか、じぶんを保てなかったのだろう。そうしてやがて、虚構世界にじぶんのリアルをのまれてしまった。心のよりどころ、なぐさめに命を奪われた彼女は、傍からみると「悲劇」かもしれないが、あまい夢にひたったまま、じぶんの意思で生を終えたその生きざまは、安寧の一形態ではないかと思ってしまう。いずれにせよ、ひとは死ぬ。「好きなときに牢獄から出る自由」は神さまのすてきなプレゼント。まずしい弁当=耐えられない恥を、さらりと覆い隠してくれたふたりの教師のさりげないやさしさは胸を打つ。母子寮の闇はおそろしい。人間心理のあざやかな演出が際立つ悲哀譚。
『玉の輿』最後まで読んで仰天。「手紙の書き方」の引用だけで物語を作るとは。にやにや笑う作者の顔を想像。「心」のままに記された文章は、はじめと終わりだけということか。納得のいく背景設定も見事と思った。テーマが決まった連作ならではの楽しみ方ができる作品と思う。アルコール依存の父親像はとても堪える。
『里親』中野先生まさかの登場に笑ってしまった。しかもヒール。さらに虚しい最期を遂げる。彼にモチーフはいたのだろうか。小物っぷりが印象深い。ラストは失笑してしまう。申し訳ないが噴き出してしまった。聞き間違いで殺された先生には気の毒だけれど、日ごろから信頼関係を築いてこなかった落ち度もある。書き手としては優秀だが、先生の器ではなかったのかもしれない。献身的に動く女性と、それを受け入れあたたかく見守ろうとする親族のすがたにほっこりした。おはなしを動かすふたりの男はどこまでも滑稽な道化の印象。世の中や歴史の男性性を、ひっそりとあざ笑っているような気がした。
『泥と雪』計略の物語。救いの手紙は真っ黒だった。この物語はいったいどこへ落ち着ける気なのだろうとつぎつぎページをめくったが、ラストはことばを失った。「勧善懲悪」の観点からすると、女の罪はおごりだろうか。手紙の報いは手紙で受ける――。学生時代、恋文はもらってすぐに捨てたというその非情さが、長い時を経て、手紙によって報復される、こう考えるとまあ腑に落ちないこともない。雪のような初恋を、泥でけがした罪は重いということか。もっとも差出人はすでに他界しているけれど。ここでもまた、女のうそが話の力点。男は駒として使われるだけ。冒頭の『悪魔』の少女が、旦那の心をうまいこと乗っ取ったパターンが今作か。その意味では、この連作短編は、「女」というものが紆余曲折をたどりつつ、したたかに成長している物語、と呼ぶことができるのではないかと思う。翳と業のあまりの深さにむなしくなるが。
『人質』まさかの総出演作。ご丁寧に登場人物それぞれの登場話まで記されている。彼らの「その後」は原則的にほっとした。移入した感情を、きちんと発散させる構成はおもしろい。人質たちがトイレの窓から落とす手紙、という形式で、最後まで手紙物語をつらぬく姿勢はすてき。この本は、あくまでも「手紙」が動かす物語。凝りに凝って、最後の「会話」も筆談の記録という構成。すばらしい。徹底に努める意識と美学とその実践はまさにプロフェッショナルだと思う。犯人の動機と要求は胸にしみた。人情譚の極意ここにあり、という印象。温度感が絶妙と思う。「探偵」役の推理も見事だった。姉を想う弘の執念はすさまじい。女のうそとちがい、男のうそが歴とした「犯罪」にカテゴリされる点もおもしろいところ。男は歴史を記し、女は物語をつむぐ、とだれかが書いていたけれど、同じ「うそ」でもふたつの意味はずいぶんちがう。心おどるエンターテインメント性の裏で、ひそやかに暗示される世のすがた、人間の本質に感銘を受ける。
 純粋な気持ちで出会えてよかったと思える本。すてきな時間を過ごせた。

<フリートーク
【構成について】
F:「プロローグ 悪魔」。こんな絵に描いたような裏切りを最後に持ってこられると作られた話だと感じてしまう。あまりにえげつなかった。
A:今流行りのエッセイ漫画に出てくる不倫する男と同じような手口ですね。
F:今もあるの?
A:そういう実話風の作品、よく読みますね。
F:何にせよ「エピローグ 人質」はとってつけたように感じた。
A:聾唖者の木堂先生は探偵役になるためのキャラクターですよね。どの時点で全部の話を繋げようと思ったんだろう。苗字や名前が同じでも、たぶん関係ない人もいるし……。
E:連載のときは「プロローグ」と付いていなくて、途中で思いついたのかも。エピローグがないと各作品が繋がっていると気づかない人もいる。
A:「里親」「鍵」の「和子」も別人だろうけど、名前が被ってるんですよね。
E:井上ひさしは失敗に気がついて巧く進めている。
B:現実にも同姓同名の人はいるし、意図的に被せて真実味を出そうとしたのでは。
E:仙台で多い苗字(工藤やショウジなど)を使っていたら仙台に縁のある人はそう思ったかもしれないが。
工藤姓は工藤祐経がルーツ。個人的にはそんな歴史的なことも盛り込まれていたら、もっと面白かったかな。

【手法について】
A:とくにエンタメを書かれる方にお訊きしたいのですが、「赤い手」はどうですか?
E:思いつく人は多いけど、実際に書こうとしたらなかなかできない。「玉の輿」の、手紙の書き方の例文で作品を作るのも。井上ひさしはアイデアを温めていたと思う。
B:広く言うとモキュメンタリーの手法かな。それらしく作る。手紙より、上手くハマると効果的。
E:以前、領収書や請求書だけで小説を作ろうとしていた人がいたが、失敗していたと思う。
B:名声のある人が一作だけやるから許される。
E:良い子は真似しちゃダメ(笑)。
A:うすた京介武士沢レシーブ』という漫画の最終回で、ページが足りないから冒頭~ラストシーンの間を年表で飛ばして……っていうのがあって(笑)。1回しか使えない手法ですよね。

E:「ペンフレンド」と「泥と雪」では同じ手法を2回使っている。「シンデレラの死」「隣からの声」も相手がいない、または相手を自分が演じている。自分で自分の物語を作った。書き手(登場人物)が信用できない。
F:「シンデレラの死」、可哀そうですよね。
B:私は一番可哀そうだと思わなかった。立て直せるし、死ぬ必要はなかった。他の登場人物は外的要因だが。
E:こういう人の境遇を書いた。
D:「シンデレラの死」というタイトル、いいですよね。
E:彼女はシンデレラじゃなかった。
D:日付順にイロハに並んでいるけれど、㋭と同じ日に㋬が来て。困ったことがあったんですよね。
F:夢に縋らないと生きていけない。一人でこういうこと書いて。可哀そう。
E:警官は学校に送るんですよね。余計なことだけど、そうしなければ物語が終わらない。読者のために種明かしをする。
B:警官の手紙の書き方がひどい。「(大劇団から引き合いが)全然こない」「まったくの弱小プロ」……。
E:作者がわざとそういう手紙を書かせている。
A:わからないまま終わらせないというサービス精神を感じます。
F:『新釈 遠野物語』もそう。読者に対して誠実。

E:手紙らしくない。嘘臭さがあり、読者は「何か始まるぞ」と思う。
F:どれもこれも臭みがありますよね。
E:わざとにおわせている。綺麗に読んでもらったら困るから。

【その他】
C:私は手法や技巧という読み方ではなく、井上ひさしという作家はどういうことを訴えたかったのか、どういう人だったのか興味がある。
F:井上ひさしが元妻と裁判になっていたのを覚えている。
A:別の読書会では、幼いころ孤児院に預けられるなど転々としていたから、弱い立場の人に寄り添う視線があるのでは、との意見が出た。

B:「赤い手」のマリア・エリザベート。あの時代の日本にカナダ人はいるのかな。
A:公文書という設定だから作品中では実在しているのだろうけれど、現実の日本ではどうなんでしょうか。井上ひさしは孤児院にいたことがあるので、その辺りは正確に書くのでは。高校や大学も実在の学校を使っているし。
E:修道院や学校は残っていた。聖ドミニコ学院は戦前からあった。作中のドミニコ修道会に近いのかな。外国人がいた雰囲気はある。
F:戦後間もない広島を作品に書かれた方がいて、その中に牧師さんが出てきたので、残っていた人もいるのでは。

B:「桃」。「(桃の栽培は)山形・宮城以北では無理」という文章があったが、今は秋田の北の端(鹿角市)で育つような桃がある。
E:お金がついたから(笑)。
B:その村の桃、今だったら女子高生が食べた桃、って売り出せそう。
A:SNSで話題になりそうですよね。

C:やはり昭和を感じる。
F:昭和はよかったというけど、経済成長の中で働く男性は人の心を失くして、奥さんは泣いていた。あれがよかったかはわからない。
A:今は育児をする父親も増えてきましたね。
F:そのぶん収入は減るけれど、子育てを一緒にできるのはいい時代だと思う。
C:バブルのころの価値観の一つに、「いい大学に入って、結婚して、家庭を築いて……」というものがあったが、当時学生だった私は反発を感じていた。現代でいうと贅沢かもしれないが。
F:女性は「売れ残り」と言われるから、こぞって結婚した。しなくてもいいのに。
A:今は大学を出て、いい会社に入ってもずっと勤められるかわからない。年金も貰えるかわからないし。
E:年金は税金なんですよ。積み立てと錯覚させてしまったのが失敗のもと。税金にしてしまえばいいんです。
B:理不尽だから文句を言っています(笑)。払って橋の建設なんかに使われるならいいけど。
E:橋も理不尽ですよ。
B:橋は受益者がいる。
E:でも年寄りにとっては理不尽。
制度は理不尽なものなんです。公平だというのは錯覚。年金も積み立てだと勘違いを煽り立てる人がいるから、多くの人が「払うと損をする」と思ってしまっている。税金は払っているにも関わらず。払わざるを得ないのが年金なんです。そういうふうにならないと政府は成り立たない。年金のような手厚い制度があるのは日本くらい。ノルウェースウェーデンのように消費税20%払えば違うかもしれないけれど。消費税は上げない、年金も出す……だから成り立たない。

 

井上ひさし『十二人の手紙』はR読書会でもテキストになりました! 読み比べたら、メンバーが変わると、出る意見も変わるんだなとわかって面白いです。

『やし酒飲み』エイモス・チュツオーラ、土屋哲訳(岩波文庫)

R読書会 2023.01.28
【テキスト】『やし酒飲み』エイモス・チュツオーラ、土屋哲訳(岩波文庫
【参加人数】9名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者I)>
数年ほど前から岩波のTwitter公式アカウントが話題にしていてタイトルだけは知っていた。そして最近、地元の市民講座(文学関連ではなく認知心理学の講座。文体ごちゃまぜの効果、という話)を受けたとき、思いがけず話題に出てきた。
敬語ではなかったのに途中で敬語が混ざったり、敬語からぞんざいな文体になったりという、基本的には話し言葉の分析中心だが、書かれたものについても言及があった。三島由紀夫のエッセイや、小説作品ではこの『やし酒飲み』が取り上げられていた。アフリカの作家が神話・伝説をもとにして書いたと聞いて、私の好きなジャンルだと思い購入した。
皆さんが読んだり書いたりしているリアリズムの小説とは異なっており、どう感じられるか興味があったので推薦した。

<参加者A>
[事前のレジュメより]
《冒頭で神話系の作品と気付いた》
 やし酒飲みが酒造り職人を連れ戻すために旅をする物語。主人公は、怖ろしいほど酒を飲む男だ。午前中に一人で150樽飲んでしまう。一樽18L(一斗樽)としても、2700Lを飲む計算になる。長男に甘い父親は、9平方マイル(約14km²)のやし園を与え、専属のやし酒造りを雇った。
 主人公は超人間的な男で、「この世のことならなんでもできる、やおよろずの神の〈父〉」なのだ。冒頭でこの話は神話系の物語だなと思った。

《「完全な紳士」が一番印象に残るエピソード》
 奇妙な生き物に娘を誘拐された。助けてくれたら娘を嫁にやる、やし酒造りの行方も教えると言われ救助に向かう話。日本の神話や民話でもよくあるパターンである。
 「完璧な紳士」の設定にはびっくりした。こういう発想のできる作者はすごい。この完璧な紳士の容姿に惹かれた娘が追跡してみると、この紳士は身体の部位が借りた物でできた生き物だった。所有者に返してしまうと残った部位は頭蓋骨だけだ。おどろおどろしい姿を見て、娘は逃げようとするが無駄だった。その化け物は、娘の首に貝のたがをはめ穴倉へ閉じこめた。市場で「完全な紳士」を見かけた主人公は、彼を追跡する。この紳士の容姿は主人公が見惚れて夢心地になるほどの美しさだった。
 頭蓋骨一家との闘いの場面が面白かった。「わたし」がトカゲ・空気・鳥に変身する。敵側がそれに対応してくる戦術が予想外なものばかりで、感心させられた。

《様々な土地で様々な生き物と出会う》
 旅の途中出会う様々な人々の、奇妙な生き方に「あっ!」とびっくりさせられた。ドラム・ソング・ダンスの3人、背丈が400mもある白い柱の生き物、原野の国のオガ屑の王様、音楽好きな幽霊島の人々。読み終わって振り返ると、手強い相手は、「不帰の天の町」の住人と「飢えた生き物」だったように思える。化け物から逃れる方法は、日本の民話(一寸法師など)と似ていた。

《もっと凝縮した物語にできないか》
 読み物として考えた場合、同じようなパターンの話が多すぎて、奇抜な生き物が登場しても読者は飽きてしまう。「完全な紳士」、「誠実な母」、「赤い町の住人」、「死者の町」、「飢饉で苦しむ故郷」~これら五つほどのエピソードに絞るべきではないか。

《危ない場面で妻の機転や洞察力が危機を救う》
 旅の初めは単なる同行者であった妻が、だんだん主人公が困ったところで適切な助言をする重要な存在となっていく。

[以下、読書会にてAさんの発言]
◆1ページ目を開いて神話だとわかって、写実的ではないなと思い、読む意識を変えた。
◆一番印象に残ったのは完全な紳士。日本の民話でも、主人公がある村を訪れると、娘を攫われて困っていた長者が「娘を助け出してくれたら嫁にやる」と言うパターンがある。『やし酒飲み』では、やし酒造りの行方も教えてくれている。
完全な紳士についていったら、紳士は体から借りた部位を返しながら歩いていき、最後は頭蓋骨になってしまった。こういう話を作ったナイジェリアの人の発想はすごいと思った。
◆やし酒飲みがやし酒をどのくらい飲んだかというと150樽。午前中に2700リットル飲んでしまう話。設定としては古事記と同じように神様で、超能力を持った人物として描かれている。
◆物足りなかったのは、同じパターンが続くから飽きてくるところ。物語として読む立場からすると、もう少し凝縮してほしかった。
(凝縮するとして)残してほしいエピソードは完全な紳士、誠実な母、赤い町、死者の町、飢饉の話。それくらいにしたほうが、ドキドキ感があったのでは。
◆妻の立場が途中から重要な人物に変わる。最初はただ一緒に旅をする女性だが、途中から予言者になる。面白い書き方。

<参加者B>
◆発想の豊かさがすごい。ナイジェリアの自然、歴史……。書くものは歴史や生活に縛られている。だからこそ作品が生まれる。
◆読後感が愉快。日本人と価値観が違う。場面転換の鍵になる部分も違う。再読して拾い直したい。
◆習いたての英語のような、とつとつとした語り、息をつかせない展開が魅力。ヘタウマというのだろうか。
◆日本の私小説で書かれる独白がまったくない。潔い行動で次々進んでいく。私がいつも読んでいる小説と違っており、小説の作りについて考えた。

<参加者C>
◆わからないながらも、とても面白く読んだ。おとぎ話をわくわくしながら読み進めた子供のころを思い出した。
◆日本や他の国の神話やおとぎ話に近い部分がたくさんあった。特別な力を持った主人公が冒険をして故郷に帰ってくるところ、知恵によって異形の者を倒したり、異形の者から逃げるところ、死者を探して死者の国へ行って帰る展開など。
死者は生者と逆……というのは日本にもあって、着物の合わせが逆だったり、屏風を逆さにしたりする風習があるが、世界の離れたところでもそういう認識がされているのが面白い。神話やおとぎ話が似ていることも。私は民俗学や、話の伝播などに興味があるので、そういう視点でも楽しく読んだ。
◆日本と違うと感じた部分は、ウェットさや陰惨さをあまり感じないところ(訳しているからかはわからないけれど)。出ていけと言われたら「わかった出ていく」みたいな感じだし、くよくよ悩んでいるより行動しろ、みたいなパワーを感じた。そうしなければ死んでしまうからかもしれないが。
A:息子を焼き殺す。陰惨じゃないですか?
C:陰惨というより神話に近いかなと。ヒルコとか淡島みたいな。
◆アフリカにあるような森林をさ迷ったことはないが、日本の山や海に、どうしようもない恐怖というか畏怖を感じることはある。自然と人間、精霊と人間の関係を考えた。
◆英語で読めないのが悔しい。解説を読んで、きっと味わい深い文体なんだろうなと思ったので。
◆また読書会でマジックリアリズムの作品も取り上げてほしい。南米文学など有名なのでしたか。

<参加者D>
◆自分で手に取る小説ではない。推薦していただいてありがとうございます。
◆いろいろな国に行って、出てくる敵を倒したり、国王に会ったり……ドラクエ世代としては楽しんで読んだ。ジュジュや魔法を使うなど童話的だとも感じた。
I:奥さんと会話すれば攻略のヒントが出てくる、みたいな(笑)。
◆主人公が成長しているといえばしているのかな。奥さんはだんだん神秘的になっていく。
◆表現が独特で、生物がおどろおどろしい。水木しげるゲゲゲの鬼太郎』のように愉快でもある。あまり暗い印象はなく、楽しく読んだ。
とはいえ、息子を躊躇なく殺しているのだが、そこも淡々としている。主人公が煩悩のままに生きているのが面白かった。
◆文体は考えられているのかもしれないし、拙いのかもしれないし、とにかく思うまま自由に書かれている。展開が早い。都合がよすぎるけど、どんどん進んでいく。凝縮されていて楽しい。
◆ストーリーで心に残ったのは、誠実な母の白い木に入る前、戸口の男に「死」を売り渡しているくだり。「死」をお金で売るとか面白い。「死なない」ことは、後でちょくちょく関係してくる。

<参加者E>
◆アフリカ文学は初めて読んだ。評論家などは、日本文学から見ると幼稚と言うかも。
◆いろいろな神話が出てくるが、面白かったのは完全な紳士が体を返していくところ。また、命を売ったり、恐怖心を貸したり……こういう発想は、普通に生活しているとなかなか出てこない。命を売ってしまえば死なない、というのは便利。使えるなという気がした(笑)。
◆私は、ですます調が混ざっているのに気づかなかった。文章に厳しい人なら指摘するだろうが、私は今気づいた。混ざっていても意外に違和感がないなと感じた。
I:崩れた英語を訳者が工夫して日本語にした。成功しているかどうかはわからないが。
E:「私の人生と活動」を読んで納得した。作者はちゃんとした教育を受けておらず、よく書けたなと思う。

<参加者F>
◆紹介していただかないと読むことはなかった。ありがとうございます。
◆『やし酒飲み』という人を食ったタイトルが面白くて。作者名も読みにくく、いい味を出している。
◆「幼稚」や「童話」という話もあるが、メタファーとして読むと社会批判が入っていて、(作者の)相当な頭の良さを感じた。

〇高価な酒をたくさん飲む、富のある人が、酒を飲めなくなる⇒飢餓を表す
〇アフリカの飢餓を解決するために立ち上がった。
〇ジュジュ⇒知恵や科学
  作者は鍛冶屋で道具や武器を作っており、科学を大事だと思っている。
〇1つの卵が打ち出の小槌のように使われ、割れた後、食べ物ではなく虫が出てくる
   ⇒諸刃の刃のような、西洋諸国の甘い誘惑に乗ったアフリカの悲しさ
〇「ドラム」「ソング」「ダンス」⇒アフリカの文化
   ドラムはものを伝えるための手段

一つひとつにメタファーがある。全部織り込んで、平明な言葉で繋げているのは相当な才能。解説を読んだら、奥行きがぐっと深まる。
◆西洋諸国ではアフリカ文学の最高峰と言われるが、アフリカでは評価が低いのがわかる。
白い木の「誠実な母」は明らかに白人。白人を悪く言っていない。
『やし酒飲み』が書かれたのは、西側のアフリカへの関わり方が甘かった20世紀の前半頃。それ以降、西洋諸国はアフリカの自然を破壊した。現代のアフリカ人の意識が、作品が書かれたころとずれているからでは。
◆メタファーとしてすごいと思ったのは、縄ばりの掟があり入っていけないから、あっさり引き下がるところ。自然界はそう。ハイエナでもハゲタカでも、マーキングした場所以外は乱獲しない。乱獲するのは人間だけ。そのあたりのことがきっちり書かれている。
◆自然と人間の関わりも、温い日本とはまったく違って、畏怖の念を持って接している。
E:ナイジェリアに行った友人によると、毎日が命の危機だそう。警備員と番犬がいて、みんなが武器を持っている。
I:やたら森林(ブッシュ)が出てくる。日本人はアフリカと言うと砂漠や草原をイメージしがちだが、この作品では西部の赤道付近が舞台になっている。
H:今でも森林地帯は残っているんでしょうか。
D:郊外にはあるのでは。ナイジェリアの首都とかはオイルマネーですごく発展していますね。
I:西洋の植民地化で発展して今では都会。
F:でも格差は激しい。
「赤ん坊の死者」が狂暴。乳児の死亡率が高いから、このように書いたのでは。
I:日本でも子どもの幽霊は怖がられる。世界共通。子どもが死ぬことが多い国では、(赤ん坊の幽霊が)大挙して襲ってくる。
F:水子とか怖いですよね。
I:わりと人類共通ですね。
◆面白いと思ったのは、「こういう顛末です」と作者がまとめるところ。飄々としている。
I:講談みたいに(笑)。
F:陰惨な話だけど淡々としている。
あと、裁判(P151~)。天国で取立てるために死んだ債務取立人、結末を見届けるために死んだ男……もうユーモラスで。そうか、お金返さなくていいんだ、と(笑)。
3人の妻の愛情を秤にかけるのも解決していない。判定せず、そのまま。おおらかというか、物事に結論はないんだなと思った。

<参加者G>
◆文体がごちゃまぜで、猫田道子『うわさのベーコン』を思い出した。
◆惹きこまれて読み始め、トルストイや、アンデルセンの「パンをふんだ娘」を思い出しながら夢中で読んだ。
◆ジュジュの使い方。ジュジュでお金を出すのではなく、働いてお金を稼ぐ。そこが面白い。力ではなく知恵だけをジュジュからもらって、自分が動かなくてはいけない。いい加減なようでちゃんとしている。
I:変身する話は世界的に多い。魔法が出てくる物語では「変身」は基本。エジプトでもメソポタミアでも。変身能力は古くからある魔法のイメージ。あまり即物的でないというか、直接どうこうしようではなく、姿を変えるというファンタジックさが基本としてある。
◆不帰の天の町で理不尽な仕打ちを受けるが、どうしてあそこまで理不尽なのかわからなかった。3ヵ月治療をした、とかリアルで。書き手としては始末しながら書いているのかな。
◆奥さんをかばう、というのが全然ない。奥さんが強い。途中から予言者のようになってしまっていて。最初はアンデルセン童話に出てくる愚かな子(「パンをふんだ娘」の主人公)みたいだったのに。
やし酒飲みさんは最初から淡々、飄々としてあまり変わらないが、女性は変化している。
I:奥さんは困ったときに使われるアクセサリ的存在。人形に変えられてポケットに隠されたり、予言をしたり。妻としての人格がなく、都合よく使われている感じがする。

<参加者H>
◆皆さん、深く読んでおられるので、読み方を学ばせていただきたい。読み方がわかれば、書き方もわかるのではと思う。
◆私はどちらかというと解説のほうが面白かった。
◆私にとっては難解で、苦しくなり、途中で本を伏せてしまった。卵を得たあたりから読み方が変わって、悲しかったり辛かったり、感情を揺さぶられるようになった。「一個の卵が全世界を養った」というところで言い知れない感動、温かいものを感じた。いろいろな苦難を乗り越え卵を得て……とても大事なもののように思う。
「面白い」という読み方はできなかった。
◆読んでいて、ほっとしたところは誠実な母との出会い。
◆聖書の奇跡物語を読んでいるようだった。作者はキリスト系の学校に行っていたそうだが、そういったものも底を流れているのでは。
I:いろいろ読み取り方はあると思う。私は聖書に詳しくないので共通点はわからないが、死者を蘇らせるのは表面的な目的で、最終的にはすべての人を救う卵を持って帰る――神が人間に卵を授けるために彼を向かわせたと読み取ることができる。
H:P162「やし酒飲みと専属のやし酒造りの物語りは、これで終わりです」から後のほうが面白かった。「地の神」と「天の神」が喧嘩をする。捧げ物をして最後は天の神が勝った。聖書に似ているのでは。
I:一番最後に出てきた神への捧げ物。そういう儀式が興る謂れ、説話がついているのが面白い。
H:読者のことを考えずに自由に書かれていている感じがした。
◆推薦者の方が、どういう感じで推薦してくださったのか知りたい。

<参加者I(推薦者)>
◆世間で受け入れられ、流行っている小説と毛色が違う。そういう方にお薦めするには適当ではない。
◆読んでいて昔話調であっけらかんとしていたり、出鱈目だったりする「面白い側面」と、赤ん坊の死者、卵のムチなどの「シリアスな側面」があるのだが、これは講談に結構近い。ある森へ入ったら、こんな化け物が出てきて、こう切り抜けて……と、同じような話が多い漫然としたところが。『西遊記』などでも、次の町や村に入ると化け物がいて、三蔵法師を取って食おうとするので倒して……という話が多い。近代のリアリズム小説が根付く前、人々はこのような、ある意味出鱈目なほら話を面白がっていたんだなと再認識させられた(酒を午前中に150樽も飲めるわけがない)。昔話にも、怠けている男の鼻が伸びるとか、想像力豊かな話がふんだんにあったが、我々はリアリズム病に罹って面白さを捨ててしまった。

<フリートーク
【他の神話や作品と比較して】
B:1600年代に『ドン・キホーテ』がミゲル・デ・セルバンテスによって書かれてから350年くらい経って、アフリカでこういう作品が書かれている。
I:ジョナサン・スイフトガリヴァー旅行記』は1710~1720年代。社会批判をほら話のオブラートで包んでいる。
対して、『やし酒飲み』は社会批判よりも、豊かさや単純なユートピアに対する憧れ、アフリカの伝統的価値観、という側面が強い。卵が壊れてムチが出てくる現実は厳しく、ユートピアではない。
B:その話が受け入れられたということ?
I:どうでしょう。どちらかというと、説話文学として歓迎されている――つまり、ギリシャ神話やメソポタミア神話のようなものがアフリカにもあるという興味で読まれているのでは。死んだ人を呼び返そうとする話はギリシャ神話や日本神話にもある。ギルガメシュ叙事詩ギルガメシュも、友人が死んでショックを受け、不死を求めて旅に出ている。
死者や聖霊は、霊魂のみ・魂のみの存在ではなく、ちゃんと肉体を持っている(生者の肉体とは異なるが)。生者とは別の場所へ行くだけ(=平行他界)。でも、天の神と地の神は違う。神は天の上にいるんだ、と宗教観が発展して終わったのが面白い。小説としてより、比較神話学的に興味深かった。
E:作者が独立運動をしていたとか、そういう話はないから、寓話として読まなくても、アフリカって面白い、と読んでもいいのかな。
I:私はユートピアとノスタルジー性のファンタジーとして読んだ。
E:(作者は)どちらかというと都会的な人なんでしょう。
I:アフリカだと、東部のマサイ族のイメージが強いが、作者は西部のヨルバ族。聞き馴染みがないと思うが、私は神話が好きで、世界の神話をまとめた本に載っていたから知っていた。斧の姿をした雷神(シャンゴ)がいる、とか。
F:ハウサ族、イボ族、ヨルバ族はナイジェリアの3大民族ですね。
D:会社で「何を読んでるんですか」と訊かれてアフリカ文学と答えたら、賢そうに思われました(笑)。
C:(笑)。訳のおかげかもしれないけれど、文章に引っかかるところはなかったですね。想像するのが大変だったけど……膝に目が、とか。雰囲気で読みました。
I:水木しげるを思い出しますね。
C:Dさんも『ゲゲゲの鬼太郎』と仰っていたし、ネットでいろんな人の感想を読んでも「水木しげる」と書いている人がいて。土着性が似てるのかな?
I:諸星大二郎の『マッドメン』を持ってくればよかった。舞台はパプアニューギニアなんですが、精霊が出てきて、近いところがある。
『やし酒飲み』を映像化する場合、精霊はどう描写するんだろう。
G:舞台化されたそうですが、どんな感じだったんでしょう。
I:黒タイツになってしまえば「いない」ってことにできますね。

【自分の作品に生かせるか】
F:『やし酒飲み』を読むと、私たちが書いている作品の独白とか、シャーペンが転がって……みたいな、ちまちました描写ってどうなんだろうと思いますね。
I:細やかな心情を分析して言語化するのが日本の伝統。日本人は私小説的情緒に非常に適している。
C:でも、ラストに困ったら「以上が顛末です」って、やってみたい(笑)。
A:私は『一寸法師』を小説として書いた。川では舟に乗り換えて……みたいなリアルタッチで。打ち出の小槌は、原子力のように人間の力では制御できないもの、とした。最後は燃やしてしまうんだけど。そうしたら、小説の講師に「面白くない」と言われて。何か別の要素がないと小説として成り立たない。難しいことをやりすぎたと感じて、日本の民話を現代風に書くのを諦めた。民話はもともとすごく文学性がある。『やし酒飲み』を読んで、私は無理なことをしていたんだな、と改めて思った。宗教観とか、いろいろなことを弁えていないと、オリジナルの『一寸法師』を超えることはできない。
I:昔話をリアリティに置き換えて書く面白さもあります。
C:空想科学読本』的な面白さ。
B:でも難しいですよね。
I:ファンタジックな面白さを否定してしまうことになるから、それ以上を持ってこなければいけない。
B:『やし酒飲み』、語り口がいいですよね。今まで取り上げた本もそうだけど、書き手によって文体がぜんぜん違う。
F:Eさんが「ですます調が混ざっていたけど引っかからなかった」と仰っていたように訳が巧い。ヨルバ語が混じった英語で書かれた原文も素晴らしいんでしょうね。
C:原文が読めたら、もっと楽しめるんだろうけれど。アゴタ・クリストフ悪童日記』もシンプル。
D:アゴタ・クリストフは母国語ではない言語で書いている。
I:シンプルと言えば、カズオ・イシグロもですね。

『線は、僕を描く』砥上裕將(講談社文庫)

Zoom読書会 2022.12.18
【テキスト】『線は、僕を描く』砥上裕將(講談社文庫)
【参加人数】出席7名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者G)>
◆私はそこまでいろいろな本に触れてきたわけではないが、最近読んだ中で一番良かった本として推薦した。
◆学生のころから20年ほど弓道をしている。弓道の師匠との会話や技術が、作中の水墨画の描写と似ている部分があり、自分自身を諭せてよかった。
◆私には弓道があったが、ほかの方には作品中に自分と重なる部分があるのかわからない。ふっと本に入って感銘を受ける部分があるのか知りたい。
◆また、私は映画やコミカライズもすべて見たが、小説だけで読みやすかったかどうかも伺ってみたい。

<参加者A>
◆読みやすいかどうかで言うと、すごく読みやすかった。私も読書会を主宰しておきながらあまり本に触れておらず、しんどくなったら途中で止めるか、オーディオで聴くようにしているが、この作品はちゃんと読めた。
◆だいたい筋書きは予想がつき安心してストーリーを追っていけるのだが、それでいて面白い。
水墨画を描いている描写に紙面を割いている。絵を描いている人や、Gさんのように弓道をしている人は楽しめるだろうけれど、絵心がない私は読み飛ばした。人によってはスリリングな場面かもしれないが、私は頭で再現できなくて、動画サイトで探し「あ、こういうことか」と理解した。
◆第四章まで面白く読み進めて、気がついたら感動していた。どうなるかわかっていたけれど、じんわり涙が出てきて「よかった」と感じた。すごくいい本なので、今度ビブリオバトルで、この読書会の皆さんの感想を入れつつ推薦しようと思う。
◆若い作者だけあって美人が好きなんだと感じた。手練手管のあるベテラン作家だったら女性をこれほど美しく書かず、個性的で一つ特徴がある……みたいに表現するのでは。若さを感じた。

<参加者B>
◆ものを作る人にはとくに響く作品では。日本の小説は水墨画に例えられ、余白を大切にするというか、書かずに読者に想像させることが大切と言われる。登場人物の心情を説明しすぎるな、削れ、と(ちなみに描写を丹念に重ねる海外小説は油絵に例えられる)。
また、小説の先生に「もっと力を抜いて書け」と言われたことがあり、実際、流れるように書いた作品のほうが褒められたので、そこも水墨画と似ていると思った。
そして、(どの芸術でも言えることだが)技術が優れているだけではいい作品ではないところも共通している。絵でも小説でも演劇でも、自然体になって、生命を表現することが大切なのだろうか。
◆主人公・霜介がとんとん拍子にレベルアップしていくなと思ったが(もちろん本人は苦しんでいるし、努力もしているが)、周りが見える人物、観察力がある人物、考え続けられる人物として設定されているので説得力がある。実際、どんな分野でも始めてすぐ頭角を現す人はいるので、ありえないことではないのかな。
◆作品として見たとき、展開の仕方がすごく上手いと思った。例えば第三章で植物園に行くシーン。私だったら主人公が自発的に春蘭を見るために足を運ぶとか書きそうなんだけど、この作品では、古前君と川岸さんに、千瑛の別れ話の現場検証のため連れて行かれるというのが面白かった。周りのキャラクターを上手く使っている。しかも古前君と川岸さんは付き合いかけ。読者を飽きさせない工夫がある。
◆植物園のシーンP263に「僕らのような人間にとって」という一文があり、霜介が水墨画を描く側になったのがさらりと示されているのがよかった。また、千瑛が描きたい薔薇についても書かれており、第一章の伏線回収になっている。
◆エンタメ的に見ると、第二章の後ろのほうで、普段は軽い西濱さんが実力者である描写がなされるのにグッとくる。最初は通りすがりの兄ちゃんみたいに出てきた西濱さん。各キャラクターの造形は王道だけれど(だからこそ?)それぞれ確実にツボを押さえている。西濱さんが選んだ赤いスポーツカーとか小道具もいい。第三章で斉藤さんメインのシーンがあるのもよかった。
◆個人的に、出てくるキャラクター同士が無理にカップルになる展開は好きではないが、この作品では必然性があっていい。学園祭の古川君と川岸さんは、霜介が両親を思い出すために必要だったので。
◆敢えて悪い人が出てこないようにしているのも読後感がいい理由。悪意を持った登場人物が一人もいない。霜介の叔父もすごくいい人。

<参加者C>
水墨画というテーマが小説と親和性が高いのに驚かされた。小説で絵を表現することに不信感があったが、読み進めると印象が変わった。内的な宇宙に絵で触れる面白い内容。
◆表現する人にとっては何かしら刺さる。誰かに認められたい気持ち、作品に出る歪み、すけべ心……共感するところがあった。
◆ただ、前半の200ページは読むのが怠かった。もともと霜介自身にモチベーションがなく、誰かに引っ張られて水墨画を始める感じがしたので(主人公に水墨画を始める動機があったのではなく、「いいね」と言われたから描き始めたのがしんどかった)。
◆公募展で白黒つけるという勝負のオチはなんとなく予想がつくが、テーマは別にあるのでそれはそれでいいと思った。
◆一人称視点で語られるが、序盤や終盤で千瑛の視点を入れて、霜介のジレンマに気づくシーンがあれば、さらに読みやすくなるのかな。
◆古前君が面白かった。

<参加者D>
◆売れている作家の作品として興味深く、面白く読めた。最初は文体に馴染めず、細かいツッコミどころはあったが読みやすかった、
◆自身の創作と関連して考えることがあった。魂が乗り移るような瞬間があった作品は評価が高かった経験があり、自分の作品について考えるきっかけになった。
◆リアリティがない。湖山先生の教え方が優しすぎる、古前君が失礼な部分など。

<参加者E>
◆率直に言って大変面白い。また、読みやすかった。構成がいいのかな。わかりやすく書いてある。水墨画と文章作品に共通するところがあるから身につまされるところが多い。
◆ただ映像で観るのと文章で読むのはやや違う。映像で観たかった。線の引き方など一生懸命書いてあるが、流れるような線とか濃淡のつけ方とか、なんとなく雰囲気はわかるが、現実にどうなるか具体的に伝わってこない。どう読み取るか、限界があるのかな。
◆心理描写を交えながら動作を書き、スピードが速い・遅いなど変化をつけて書かれている。私に水墨画や絵を描いた経験があればついていけるだろうが、(絵に)疎いのでついていけなかった。すべての読者には通じない。
ただ、ストーリーを重視する人は(描写を)読み飛ばしても問題ない。
◆作者が本当に書こうとしていることを私が理解できているのか、掴めないことが多かった。湖山先生の教え方が抽象的。最高の技法、形のないものに形を与える……含蓄があるかもしれないが具体的に伝わってこない。『美味しんぼ』に出てくる達人みたいな、思わせぶりで抽象的な言葉が重なる。それ以上書けない。映像で表現するのも難しいといえば難しい。絵を2つ並べればいいのだろうか。コミカライズは作者の水墨画を使っているから表現できたのかな。映画でも作者が描けばいいのか。
文章だけでそこまで読み解けるか難しい。視覚的な芸術を文章で表現するときは、読み手がたぶんこうだろうと割り切らなくてはならない。ある意味で勉強になった。
◆素直なストーリー展開。起伏がない(失敗したり悩んだりの起伏はあるが、場面的な起伏はない)。悪者や邪魔者がおらず、ストーリーに波風が立たない。作り物めいている。
湖山先生が最初から最後まで(霜介を)褒めっぱなし。褒め言葉が続くからアクセントがほしい。叱られて落ち込むという起伏くらいあってもよかった。
◆一度も本物の蘭を見ないで蘭を描く練習をしているのが、いかにも伝統的だと感じた。今はリンゴを描くなら、リンゴそのものを見て描けと言われる。でも水墨画は師匠の絵を模写するところから始める。(第三章で植物園に行くが)応用になるまで観察を入れてはいけないというのは日本の技法なのか。その辺りも含めて水墨画の世界の勉強になった。線を重んじるのが日本らしい(西洋は色を重ねて作る)。
◆面白かった、役に立った――その両面でよかった。

<参加者F>
◆読みやすかった。読み始めて一気に読めた。
◆絵を描いている描写がいい。説得力がある。水墨画をやってみたくなった。
◆主人公の成長を追っていくのがよかった。私は焼き物に興味があって四君子を調べたことがあるが、絵だとこうなるのか。
◆ストーリーは類型的。起こりそうなことが起こるが処理が上手い。
◆翠山賞に収まる伏線も上手いが、私は「血筋」と「天才」が嫌いなので、賞は作品に出ていない人が獲ってもよかったと思う。
◆主人公は、先生の孫娘が一皮剥けるための当て馬に使われたとも取れる。
◆叔父さんを展覧会に呼ばないのか、法学部は続けるのか……など気になった。
◆心より技術で書いている。エンタメだから文句は言わないが、作り物感がある。創作周りはこんなに雰囲気がよくない。小説周り、面倒くさい人ばかりじゃないかと(笑)。
◆モダンエンタメ。ストレスフリーに読める。無理解な人がいない、恥をかかない、都合が悪い人がいないとも言える。荒木飛呂彦は「悪い展開があると読者が離れる」と言っていたが、読者が離れるから漫画的に書いたのか。想定読者がナイーブ過ぎでは。(主人公のことで)千瑛に負い目を感じさせているところが現代の読者ポイントかな。
◆メタ的なところは鼻につく。
水墨画の衰退へ警鐘を鳴らすという言い訳を用意しているのが上手いなと思った。

<参加者G(推薦者)>
◆この話は好きすぎていろいろ調べた。作者のインタビューを読んで、もっと説明していたら解消できていたのに、という部分がある。漫画だとわかりやすかった。霜介は最初、死んだような人間で、水墨画を教えてもらって生き返ることができた。湖山先生の「私もそのバトンを渡さなければ」という描写もある。この小説だけでそこまで読み込むのは無理。また、漫画や映画では千瑛の視点もある。そのほうがわかりやすく感動できる。
◆作者のインタビュー記事に「水墨画のことをもっと知ってほしい」と書かれていた。水墨画を伝えたい気持ちが強いから描写が細かい。正直、10年前なら読み飛ばしていたが、齢を重ねて読書会に参加するようになって、1つの作品を吟味することが身に付いたのかなと思った(昔は長い小説を2、3日で読んで、読んだことに満足していたので)。
水墨画の描写は1回読んだだけでは頭に入ってこない。むしろ動画で観るのはいいこと。わからないことを調べて自分の知識にする。本を読むのは知らない知識を得ること。それで知った気になるのは駄目だが、擬似的に自分の経験にして活かしていく。昔は早食いのように読んでいたが、(この作品を)4回読んで改めて考えさせられた。
水墨画の描写は1回目に読んだときは飛ばし、後からちゃんと読んで水墨画に挑戦したい気持ちが出てきた。私も動画を観て、こんな絵が描けるんだと水墨画への興味が湧いたので、作者の意図に沿う読み方ができたのかなと思う。
◆千瑛の美人描写については、美人に書きたかったというより、薔薇のように情熱的な女性を書いたら、あんな感じになったのかなと思った。
◆湖山先生が言っていた「できることが目的じゃない。やってみることが目的」「まじめというのは悪くないけれど自然ではない」は、私も悩んでいる人に対して結構使う。自然に頑張れる時間は限られているから頑張らなくていい、と。
◆小説泣かせと言えば小説泣かせ。「見ればわかる、言葉はいらない」……小説でこんなことを言うのも何だが、実際私もきれいなものを見て言葉が出ないときがあった。師匠が弓を引くのを見て、こんなのあるのか、と。15年前、衝撃的だったのを思い出した。
◆千瑛が霜介の絵を見て言った「どうしてこんなに美しいものが創れるの?」。私もかつて弓道の師匠を見てそう思ったが、師匠は「いらないことをしないだけ。無駄なことをしないんだよ」と仰った。その言葉が本を読んで帰ってきた。師匠は85歳で退かれたが、今になって違うところから言われてガツンと殴られた。
「無駄を省け。たった一筆でさえ美しい。結果で美しいのではなく、一から十まで美しい」。水墨の小説で言われると思わなかった。
◆創作や何かの活動をしている人にとって引っかかる部分がある作品なのかな。
◆(霜介の成長が)とんとん拍子なのは私も思ったが、藤井聡太にしろ大谷翔平にしろ、小説に書いたら「ありえない」と言われるような人間が実際にいる。作者は本当にいると思って書いているのでは。ありえない描写だけど、ありえるのかな。1回目読んだときは「ありえない」という気持ちが強かったが。

<参加者H(提出の感想)>
 青年の死と再生、および自立の物語。「水墨」というミクロコスモスが舞台。心に空白を抱えた若者が創作を通して生きるよろこびを取り戻していく。
「喪失」や「欠如」を抱えた主人公は「昔話」の定型パターン。「死と再生」はそれだけ普遍的なテーマだと再認識。暗く地味、という印象が強い「水墨」観とは対照的に、キャラクターの個性が活き活きしていてよく動く。役割も明白で、色あざやかに分化され、かつ、水墨の多様な手法もあらわしていて巧みと感じた。
 物語は多くのひとに共感を呼びやすい構造だと思った。創作にたずさわる生き方をしている人間には尚更だろう。ただし「とくに若い世代に」、とは思う。正直いって、冒頭の展開は辟易だった。主人公が水墨に出会うまでは自然だったが、初登場時のヒロインには困ってしまった。彼女の「勝負」という語句は、ラストまで消化できず。勝ち気で挑戦的なヒロインの性質は、内向的で冷静、客観的な主人公と好対照をみせているが、戯画化がひどすぎる。彼女の「若い情熱」が主人公の「再生」に必要なのはよく分かるが、「勝負」はあまりにも軽薄すぎる語句だろう。白けてしまい、いったん本を閉じた。(ヒロインは登場時だけ別人みたい)また、「才能」「運」「天才」「勝負」といった安価なシンボルが頻出し閉口。華やかではあるが抵抗を抱く。
 しかし、作者の目的が、「水墨」の広報あるいは啓蒙だとすれば、冒頭の展開は理解できた。ちいさな世界を知らしめるため、ドラマチックな玄関が必要と判断されたのだろう。
 ラストも同じ考えで受け入れた。初道者である主人公の受賞は現実的に不可解。(入賞がせいぜいだろう)作者あるいは編者は、主人公に特別な賞をあたえることで、「水墨」というちいさな世界そのもの――まるで時代の「空白」に、花を、そしてひかりを与えたかったのかもしれない。もっとも、歴史に名を残すような画家というのは、往々にしてこういうものなのかもしれないが。また、「愛とは心の傾き」(ダンテ)を前提とした場合、「愛」がこもった作品は「審査員」の心を貫く、と読み取れるこのラストは、多くの創作者にとっては希望と呼べるかもしれない。
 冒頭とラストには戸惑うも、一章の終わりから夢中になる。ある職種の世界観が人生そのものに根ざしていく過程はよかった。過去のじぶんを重ね合わせる。
「水墨」に関連した部分の描写は詩的ですてき。胸を貫くことばが多かった。『蜜蜂と遠雷』の演奏パートを想起。心に空白を抱えた若者が縁や人情によって再生していく、という構造は『ひと』とよく似ている。どちらの本も大衆に歓迎されている点から、時代や世間が要請している「原型」が見て取れるように思った。
 また、実際に水墨に携わっているものでなければ分からないような臨場感や知恵、感覚、体験(先生の作品をコピーするなど)、何より作者のたましいを熱く感じることができた。禅に「十牛図」という思想があるがイメージがよく重なった。「求道者」型には共通の概念なのだろう。先生の手本をひたすら真似する主人公には強い共感。学ぶの語源はまねる。世間との関係をいっさい断ち切り、書いて書いて書きまくる時期はすばらしい。単調行動の無心の反復。どの世界にも必要な過程だろう。器用もセンスも関係ない。からだで覚える。それだけ。「力を抜く」「手を止める」「イメージをふくらませる」この時期の描写も身に親しく、「無駄を省く」も感銘。作者の経験と苦悶がうかがえる。技術の上達と共に変化していく心もようも読みどころだった。腕が上がり、自信がついて「描きたい」と思う。のぞみ、欲求、リビドー、創作意欲、自己顕示欲、創造心、それから性愛。創作によって活性化していく心はすてき。
 先生が「不在」中に大きく進歩する点も印象深い。「ただ描くだけでよかった」段階を終え、じぶんの画を模索しはじめる。このとき、対象の実物を目にし「本当はどう描いてもいいのではないか」と感じた点はおもしろい。美とは心のゆらぎ。「その瞬間」をほんのひとときで表現するという水墨は、東洋美観の結晶のようで興味を持った。実際に水墨を描くシーンの迫力には息をのむ。活字とは思えない緊張感だった。
 主人公の「ガラスの部屋」は親近感。この心の空白と紙の空白を重ねるところは見事と思った。観念的なものを機能的に用いている点は勉強になる。だだっ広く生活感の乏しい主人公の部屋に、日常のぬくもりが満ちていく段階も印象的。ヒロインはふさいだ心を刺激するもの、ひらくもの、導くものであり、かつ、「水墨」の説明者として効率よく働いている。恋もまた、心を活性化させるためには欠かせない要素だと思う。
四君子」は水墨の世界ではおなじみなのだろうが、外部の人間にとって想像しやすいテーマだった。「崖蘭」は特にすてき。
「勇気はなければ線は引けない」「描かないことが究極」これらのセリフは印象的だった。実際に描いているもののことばだと思う。「絵とは絵空事」ということばも出てくるが、これはまさに真だろう。表現とは、内界に取りこまれたシンボルの「再現実化」だとすれば、技や流儀や慣習などの形式に執着せず、心のままに描くのがもっとも自然で基本であって究極だろうか。もちろん、厳しい鍛錬が前提。トーベ・ヤンソンは「洞察」について「見抜くこと」とあらわしたが、「本質をとらえること」が創作の基本であり奥義であるとするならば、先生の教えは懐深い。
 完成された美は他人の美。学ぶことはまねることだが、そのままでは先がない。技術の向上やリアリティに執着し、心に余裕が持てなかったヒロインがだんだんと脱皮していくさまはすてきだった。「月影の椿」が示唆するものはとても深い。彼女に足りなかったものは「余白」=「描かないこと」すばらしい流れ。
 時おり描写される「遺されたもの」としての主人公の心情は胸が痛んだ。
 芸術に身を捧げるには生活の保障が必要、という背景設定は印象強い。少なくとも主人公とヒロインは働かなくても暮らしていける。ここは悲しい暗示だった。
「菊」のパートは圧巻だった。菊は死者と関連が深い花。「試練」としても、過去の「受容」という意味でも巧い展開。さらにヒロインとの絆も深化させる。「救い」と「再生」が強く感じられた。書き終わったあとの描写がまたいい。「菊の芳香と墨の香りが部屋を満たしていた」主人公の過去と現実、内と外におだやかな調和が生まれている。
「水墨とは線を描くもの」⇒「人生とは一本の線」⇒「引かれた線を歩くのではなく、自分で線を引いていく」この三段論法もすてき。
 表現の対象は鏡。感動をとらえ、瞬間をかたちにすること。これが美の祖型であり、イメージが十分に満ちたとき、手は自然と動き出す。ここの下りも感銘深い。
「完成ではない」「命と共にあり、命の一つだと知った瞬間、そこに意思はなかった。経験だけがあった」グリム童話『小人の靴屋』を思い起こさせるこのフレーズはたまらない。「魔法」の力で描いているうちは、まだほんものではないということ。作者もまた、発展途上の書き手ということか。その点、作中の先生はまさに先生だと思う。
 冒頭は戸惑ったが、全体的には感慨深い一冊だった。求道者タイプにはよく響くだろう。人生の救いと希望が感じられる。

B:私も恩田陸蜜蜂と遠雷』の演奏シーンを思い出した。演奏している/描いているシーンを読んで、天才ってこんなふうなのかな、って。

<フリートーク
【小説として、どこまで書くべきか】
A:Gさん、4回読まれたんですか?
G:楽しくて楽しくてしょうがなかった。過去に2回読んでいて、今回ざっと3回目、4回目は気になったところだけ。
A:4回読めるって、すごい気に入ってる。
E:4回読んだら、赤くないのに赤く見えるとか、水墨未経験の人間にもピンとくるのかな。水墨で描かれた薔薇の絵が赤く見えるのは、見る側が赤い薔薇しか想起しなかったからかもしれない。あくまで霜介の感想であって、誰が見ても赤いのかどうか書いていないから。
G:4回読んでもわからない。
E:わからなくていい。雰囲気が伝われば。(G:私もそう思う。)
素数のくだりは、写真を撮っている人ならわかるかも。「二枚目になると懐かしさや静けさやその場所の温度や季節までも感じさせるような気がした」……現実に2枚の絵を並べないとわからないことが文章で伝わるのか。
G:イメージしたものを過去見たことがあるかが大きい。
E:経験があればわかるかもしれないことも伝わらない。
G:習字を習っていて先生が書いた字と自分が書いた字は違う、とか、近い経験があればイメージがつきやすい。私はここ2、3年で水墨画が好きになり、展覧会に行き現実の水墨画を見て、荒さや画素数の表現はわかるなと思った。
E:私はコンピューターの画像処理で色調を変えたりしていた経験があるからわかる部分がある。小説から離れた、自分の経験が理解を助けている。小説に書かれているからわかるんじゃなく、経験で補完している。他からの補強でわかるのは小説としてどうなのか。特に特殊な世界を書く場合。本来、小説だけで読者を理解させなくてはならないのでは。
G:読みにくいですか?
E:読みやすい。『蜜蜂と遠雷』や『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子による漫画作品)と同じように、半分わかって半分わからない。私たちは音楽を実際に聴いて比べてもわからない。その辺りの難しさ。
水墨の世界を小説で書く挑戦をしたのは素晴らしい。半分お仕事小説。ストーリーは二の次で、水墨のよさを伝える。
G:作者は2作品が没になっており、その次の3作目がこの作品(デビュー作)。1作目は動物が喋る話だったそう。編集者と話して、(作者が知っている)水墨の世界を書いてみようということになったらしい。水墨の啓蒙もあるが、編集者としてもそちらのほうがいい作品、となったのでは。
デビュー後2冊目は視能訓練士の話。身内が視能訓練士だそう。話を聞いて、現実に即した描写をするのが得意なのかな。
メフィスト賞は友人に誘われて、推理に強い賞とは知らずに出したみたい。
E:現実には大谷がいても、大谷を主人公にして作品を書いてはいけない。これはそれに近い。ストーリー展開が弱気だと感じる。それを押し隠すように、水墨の描写が優れている。
G:ストーリー的には目新しくない。
E:漫画になりやすいし、評判になったら読者もつく。映画で人気がある俳優が演じるとみんな観るだろうし。ストーリー展開は、そのレベルだといいのかな。小説的に考えるとどうだろう。
G:小説が一番入りにくいかも(映画は尺が足りなくて入りづらいんだけど)。とっつきづらいから推薦してどうなんだろうと思っていた。
専門分野を本に書くって難しいと思う。私も弓道を広めたい気持ちがあって、文章で書くとしたらどう伝えればいいんだろうと考えたとき、ここまで感覚的に書く勇気はない。もっとわかりやすく青春ものとか、そういう方向性じゃないと書けないだろうな、と。これだけ水墨画水墨画を描く技術に特化したのはすごい度胸だと感じる。
A:私は最近音楽を始めたんです。先生は優れた人で、指導するときの表現方法がすごい。「この曲は縦に伸ばすんです」とか。ソムリエがワインを表現するときのように音楽を表現してくれる。例えばスタッカートでも「途切れ途切れに」じゃなく、とても文学的な表現をする。だから弓道も書けるんじゃないですかね。
E:音楽もだし、スポーツでも指導者が「柔らかく」とか言うが、これは経験している人でないとわからない。“スタッカート”なら歯切れよくやりなさい、だと理解できるが、それを感覚的・抽象的に言われると、わかったようなわからないような気になる。文学的に素人にはわからないようにしか書けない。
A:音楽の先生の表現は、文学に触れている私には伝わっている。わからない人もいるけれど。やっぱり想像力が大切。今までの経験で補完する。言葉だけでは通じない。
E:小説に書かれていない情報をどこまで使っていいのか悩ましい。
例えば「IT企業はブラックだ」と書いてある小説があって、多くの読者は聞きかじった情報からそれは真実だと判断してしまうんだけど、現実はそうでもない。小説に書いていないことまで織り込んで読んでいいのだろうか。
A:私は経験でしか読めないですね。
E:小説の中に書いていることだけで判断するのが理想。
F:補完していいんじゃないですかね?
E:程度の問題なんですよ。「代官」=「悪代官」と読んでしまうとかは先入観だけど、代官についてすべてを書いてしまうと小説にならないし。
C:例えば『鏡の国のアリス』に出てくるジャバウォックは誰も見たことがない。そんな話をしているような。私は『線は、僕を描く』を読んで、水墨画を心の中にイメージしたが、それでいいんじゃないかと。SFにしてもファンタジーにしても、竜や巨人は見たことないから、読者は何となく「こんな感じじゃないのか」と想像している。この作品の水墨画もそれに近いのでは。
E:竜を書くときは「こんな竜」だと説明する。「竜」としか書いていないファンタジーは成り立たない。いろいろな竜がいるし、それぞれの物語の中で「こんな竜」という設定がある。読者はテキストから情報を得ながら読む。作品の中でどこまで説明しなくてはいけないのかという問題。
基本的な私の考えとしては小説に盛り込んでおくべき。誰しもが持っているイメージ、ある程度一般的なイメージとい読者は竜のイメージを等しく持っていない。っても境目がいろいろある。どこまでがその境界か見極めなければ。
A:命を描けということでは?

【「伝える」ということ】
E:独特な世界、ものの見方がある。絵画教室ではリンゴを見てリンゴを描く。蘭を知らなくても、水墨画の蘭を見て勉強しろ――普通の絵、一般的な絵と違うと感じなかった?
G:同じことを思った。水墨画では実物の春蘭を見ても、お手本がなくては描くことができない。敢えて現物を見せなかったのは、筆の動かし方などを学ぶためだろうか。
E:そう書かれているならよくわかる。でも、私の知識では現物を見て描くのが一般的で、その知識が邪魔をする。てっきり(霜介が)実物の春蘭を見て描いていると思ったのに、あれは単なる線の練習だったのか、と。霜介は春蘭を植物園で見るまで知らなかった。読者がもともと持っていた知識・情報が邪魔をしてくる。植物園のシーンより前に、実物の春蘭を見ていないという情報を入れてもいいのでは。
G:実際、作者も大学時代に水墨を始めたが(高校までは書道を中心にしていた)、師匠が多くを教えてくれない人で、あとから「これが大事だったのか」とわかってきたそう。だから実体験に基づくところが大きい。経験がないと、その指導法が適切なのか独特なのか、それとも普通なのかわからないが、作中で「湖山先生の教え方が特殊すぎる」とあるので、実際はもっと先に実物の春蘭を見るのかも。興味を誘った時点で作者の意図に嵌まっている。
Eさんのお話を伺って、物書きの視点だと感じた。書き手として完結しておかなければならない。自分の中のハードルを高めている。ここまで伝えれば、じゃなく、自分の中でどこまで伝えられるか。私は弓道を教えるとき、10人いて7、8人に伝わればと思っている。
E:それと同じで100%評価される作品もない。
G:この作品を読んで自分の生き方を考えさせられた。私もどちらかというと技術を追求していた。細かい技術よりも自分自身をぶつける――救われた。
皆さん、少しずつ引っかかる部分があったようで、読書会のテキストに選んでよかった。
A:今度、ビブリオバトルでGさんの感想をお借りします(笑)。
Gさんの言葉で心打たれたのは、「美人を書こうとしたのではなく、薔薇のような女性を描こうとしたら美人になった」。大変よかった。ありがとうございます。

【冒頭で「掴む」大切さ】
D:Eさんが仰った「物語に起伏がない」。今の若い人はハラハラドキドキを煩わしいと感じるから、平坦な物語が流行っているのだろうか? 編集で反映されているのかな。
A:未来が塞がれている若い人にはキツいんじゃないか。
E:そんなに起伏がない話あります? 危機が訪れないと話が成り立たない。飽きさせないためには、味付けとして多少の波乱万丈が必要。喧嘩したり、仲違いしたりして回収されていく。
A:起伏は必要だけど、人間ドラマとしてすごくしんどいのが辛いのでは。あからさまなドロドロとか。
E:ストーリーの展開で、とんとん拍子で受賞しました、じゃなく、怒られた落ち込みがあるともっと喜ばれるのでは。歌でいうサビがほしい。
A:最近の音楽はサビがないですか?
G:むしろサビから始まっている。サブスクでたくさん聴けるからイントロで飽きられたらそこまで。開始一秒から山場。
E:江戸川乱歩賞の心得は「冒頭で死体を転がせ」。2枚目か3枚目で事件を起こす。今の読者は10枚も20枚も読んでくれないから。時代として、飽きたらポイされる。
冒頭で事件がなくても読み続けてもらえるのはネームバリューのある人。そこまでハードルが高い。
A:作品に死体をいれましょう!
B:1文字目からサビを入れましょう!

「大聖堂」(『Carver's Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選』より)レイモンド・カーヴァー、村上春樹訳(中公文庫)

Zoom読書会 2022.11.19
【テキスト】「大聖堂」(『Carver's Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選』より)
      レイモンド・カーヴァー村上春樹訳(中公文庫)
【参加人数】出席9名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者I)>
私はフランス文学、ロシア文学、日本の近代文学をよく読んできたが、アメリカ文学は申し訳程度にしか読んでいない。若いとき、アメリカ文学の乾いた文体に馴染めなかったので。しかし、大人になったら楽しめるようになった。今回の読書会で考察を深めたい。
また、村上春樹が好きなので、今回のテキストを通して、村上春樹の話も交えてできればと思う。

G:来週、ビブリオバトルにこの本を引っ提げていきます。皆さんの感想を自分の感想みたいに言うので、そこのところご了承を(笑)。

<参加者A>
◆読んでよかった。希望に満ちた話ではないけれど心に温かいものが残る作品もあった。わたしは純文学のような意図がわかりにくい作品は苦手だけれど、読んで「ああ、いいな」と思えた。
「大聖堂」は再読。前回読んだのは10年以上前。そうだったなと思い出し、手繰り寄せながら読んだ感じ。アムウェイのくだりだけ覚えていた。
語り手の態度は客観的に見たら失礼だと感じるが、こういう部分が自分にもあると思った。本質を理解できていないのに、頭とか良識で理解したような気になるのは傲慢だと反省した。
「ささやかだけれど、役にたつこと」が一番好き。登場人物たちが一緒に食事をするシーンというのを私自身が好きだからかもしれないけれど(一緒に食事をすることで関係が深まった感じがするからだろうか。自分でも作品を書くとき、意識して入れている)。
パンが本当に美味しそうだった。たとえば子供が死んで悲しくても、人は食べなくてはならないんだと思った。

<参加者B>
◆主人公は人並みに恵まれて経済的に余裕もある。物質社会において幸福とは何か、どうやって見えないものと折り合いをつけてきたのか考えさせられた。
◆大聖堂は、キリスト教が信仰されていたときはランドマーク的な意味合いがあったが、今はがらんどうになってしまっている、ということを表したかったのだろうか。

<参加者C>
◆私も妻がいるので、主人公の、妻が昔親しかった人の訪問を厭う気持ちはわかる。
前回のテキストの『出身国』も読むだけ読んでよくわからなかったが、昔読んだ乱歩もよくわからなかったので、よくわからないものなのかなという気持ちで読んだ。
◆中盤はただのかけあい。仲良くなっていく過程。
大麻合法ドラッグか、煙草を吸っているのと同じ感覚なのかわからなかったが、この話では悪いものだというイメージはなかった。
◆終盤の、主人公と盲人が手を重ねて絵を描く場面。私が習字を習っているとき、先生に手を持ってもらって書いたことがあるが、普通の感覚と全然違う。他の人の手がかぶさって書くというのは。感覚でダイレクトに伝わってきたのを思い出した。
◆「まったく、これは」。最後に発見があった感じで締めている。何を発見したか、まだピンとこないが、目を開けていいと言われても開けなかったから、盲人の世界だけでなく、精神性の新しい世界が開けたのかなと感じた。それは大聖堂という宗教的なものかもしれないし、内面的なものかもしれない。
「ぼくが電話をかけている場所」太宰治人間失格』を読んでいるときを思い出した。駄目だな、と安堵する。駄目な人たちだけど、どこか明るい。
◆前半の短編は意味のわからないものが多くて、読み返さなきゃと思う。

<参加者D>
レイモンド・カーヴァーを読むのは初めて。「大聖堂」までしか読めていないが、紹介していただいてよかった。
私は毎日放送の『プレバト!!』の俳句の企画を面白く観ている。その中でフルーツポンチ村上さんは半径30cmを俳句にすると先生に言われていたが、その村上さんの俳句のような作品だと思った。
なかなか気づかない、人の心を形にしているのかな。物語の提示の仕方、書き方に気づきが多い。
◆大聖堂はその街の信仰の中心というイメージだそうだ。
◆盲人ロバートの来訪を主人公が歓迎していない、ロバートの妻が黒人と知り、尚更よく思っていないことが読者にわかるように書かれている。
ロバートは体格が良く快活で、読者にとっても意外性がある。
◆主人公は目が見えているのに、テレビに映る大聖堂をうまく説明できない。自分が上のはずなのに、下にいるはずの盲人に見下されていると感じる。ロバートはテレビから流れてきたことを繰り返す。ここで魅力的な人物と絵が描かれる。
◆主人公とロバートは手を重ねて大聖堂を描く。ここで物語の質が変化したと感じた。
上手く描けない私をロバートが励まし、絵を完成させる。ここで物語が反転。
主人公がロバートによって自身の傲慢さに気づかされ、浄化される。「差別はいけない」「謙虚さ」の、観念的ではない提示の仕方だ。
一読して、何を書こうとしたのか考えさせられた。その時間の密度が濃くて楽しかった。
「足もとに流れる深い川」。釣りの最中、水死体を見つけ警察に届ける。女性に手をかけたのではという夫への不信。「裏切り」という言葉は出てこないが、夫は無関係だとは言わせていない。読み手はその一点に心を巡らす。
最後に「彼女はまだほんの子供だったのよ」という言い訳で終わる。言い訳に至る心の機微に惹かれる。

<参加者E>
◆初レイモンド・カーヴァー。なるほど、賞を獲った作品だと思った。
◆主人公の持つ偏見は共感のハードルが高くなく、物語に入っていける。「妻との関係が気に入らない」という嫉妬を混ぜることで、どのくらい偏見があるか、読者側に委ねているのも意図的。そのくだりがないと哀れみや説教っぽさを感じて面白くなくなるだろう。
◆P161「彼はその相手の女の顔をちらりと見ることもできなかったのだ」と気の毒に思うなど、主人公は偏見もあるが思いやりもあるという造形も技巧的。
盲人ロバートも世慣れてコミュニケーション力が高い。私に全盲の知り合いはいないのでリアリティがあるかわからないが、そう類型的に纏めようとすること自体不適切なのかもしれない。内省を促される。
◆大聖堂という建築物、信仰モチーフもアメリカ人には響くのだろうか。
◆作品が細やかな配慮の集合体であり、名手だと思った。上手すぎて言うことがあまりない。
◆とにかく、今夜はステーキ焼いて、ウィスキー飲もうかなと思いました(笑)。

<参加者F>
◆カーヴァーは持っており、何回も読んだので、読書会に復帰できるかな、と。※Fさんは久しぶりの参加
◆小説は読んで忘れるけれど「大聖堂」は好きで覚えている。
盲人と妻がテープでやりとりしていて、主人公は入る余地がないので嫉妬している。現れた盲人は想像と違い、取っ付きやすい人物だった……
◆初めから全盲なら高さもわからない。空の色や建築を指先で可視化して、盲人と主人公が輝いている空間を二人で作っていくという印象が前からあった。主人公がどこかの時点で、盲人と自分の「(差別ではないほうの)違い」を超えた感じがする。大聖堂を描く手前でそんな感じがして、一緒にやろうという気持ちを持ったところから変わってきて。
主人公が妻と盲人のテープでのやりとりに入り込めず嫉妬したのと同じで、今度は妻が、描く作業に入ってこられない。垣根を越えた穏やかさ。光のある空間、見えない光……読んでいると、私はすごく光を感じる。
「ぼくが電話をかけている場所」。作者はアルコール依存症を克服した。私もアル中末席なんですが、施設にリアリティを感じた。煙突掃除の彼女といるところが好き。

<参加者G>
◆私は「大聖堂」を読むのは2回目。1回目は海外文学の読書会のときで、読んでよかったと思った。再読でも夢中になった。私もIさんと同じで村上春樹が好き。村上春樹が自分にぴったりな作家を選んで翻訳しているから(村上春樹レイモンド・カーヴァーに)共通点があるのかな。翻訳するにあたって村上春樹風に変えているところもある。言い回しや言い癖……。気持ちよく読めた。一作一作、感動しながら読んだ。頭ではなく神経的なものが合う。
◆CさんやFさんも挙げられていたが「ぼくが電話をかけている場所」。不思議な安心感がある。社会から脱落して、どうしようもない人の集まり。私は鬱で3ヶ月間入院していたが、不思議と温かかった。社会的地位がない人、後がない人……居直っていて、お互いに温かい。関係性を大切にする繋がりを彷彿する。
「でぶ」も好き。カーヴァーは食べ物を美味しそうに書いている。「大聖堂」のストロベリーパイ、なんでこんなに美味しそうなのか。スカロップト・ポテトはステーキに添えたら美味しい。とくに描写はないけれど、文脈の中で美味しそうに感じる。
パンもめちゃくちゃ美味しそうだし。食べるとき無心になって、食欲の奴隷って言うとあれだけど……生命力、かな。
「足もとに流れる深い川」。各作品に出てくる男の人たちは似ている。感受性がない、深いところに心が及ばない……「大聖堂」の主人公は途中で目覚めるけれど。
この作品でも、少女の死体を放置して、自分たちは平気でウィスキーを飲んでおり、妻としてはそこが許せない。死んだ少女は子供だったのに放ったらかしにしていた、その心。
魂の在り様がすごく乾いている男性と、それに気づいた女性との確執を描いている作品が多いのではと思った。
◆日常の中の異物感。普通に暮らしているところに女の水死体が入ってきて、完璧な断裂が起こる。「でぶ」も異物が入ったことで何かに気づいてしまった。
「あなたお医者さま?」も、日常の中の異物感があり、そこに人間としての真実があるのではと思う。世間では認められて、家庭を持っている人の欠落したもの。人間の魂として一番大切なものがそこにあるから惹かれるのかな。

<参加者H>
「大聖堂」をメインで読んだ。よく考えられた作品。意図も(正解かはわからないが)わかりやすい。めでたしめでたしで読んでしまってはいけないと思うが起承転結的によくできている。
◆主人公が、妻と男の友人との関わりを気にしている。一般的に、「自分が知らない妻の友人」というのは、友人が男性であっても女性であっても、夫は間に入りづらい。妻の友達に対して、旧知の間柄のように話題を探して入っていくことは私にはできない。もし妻と友人の会話に入っていくとしたら、座席とかしょうもないことを訊いてしまうのではないだろうか。でも、それでは物語にならないから、妻の友人を盲人に設定し、テープでのやりとりを持ってきてギャップを作る。段差ができてストーリーになる。上手く物語を作っている。そこが作者の意図。スムーズに書かれている。
◆よく「登場人物が勝手に動き始めた」と言うが、登場人物が勝手に動き出すことはない。必ず作者がコントロールしている。いかに気づかないように読ませるかが作者の腕。二人で一緒に大聖堂を描くが、巻き込まれた過程が面白い。構造がわかりやすく、先が読めてしまうところを、いかにありふれた話にしないか、段差がある物語を作っていけるかというところに腕がある。作者の意図が前面に出ている。意図を張り巡らして作られた作品。
◆盲目という設定を今の日本で使えるだろうか。アメリカと日本が違うのか、時代が違うのか。「でぶ」も身体的な部分を道具立てにしてしまうのをどう思われるか。現代の作家の新しい作品として読むとどうか。ある程度、評価が定まったカーヴァーだから読める。時代によって違ってくるのかな。
◆一番よかったのは「ささやかだけれど、役にたつこと」。一番、物語性がある。手に汗握る、スリルとサスペンス。パン屋さんがよく使われている。撹乱要素であり、エンディングの主要なキャラクター。第三者を上手く使ってエンディングに繋ぐのは、オー・ヘンリーを思い出した。

<参加者I(推薦者)>
「大聖堂」。1回目は読んでよくわからず、ラストは印刷ミスかと思った。2回目読むとユーモラスで面白い。登場人物はそれぞれ鈍感だが、それぞれ馬鹿ではない。キャラクターが上手い。とくに盲人が秀逸。
◆男性なので夫を擁護したい。妻が鈍感。ラストに妻に「何してるのよ?」と言わせるのが痛快。どこかユーモアを交えた書き方が魅力。
◆なぜ大聖堂を描くのかわからない。盲人と絵を描くところに意味はないんじゃないかと思う。一番つまらない読み方は、細部にこだわって「謎だ」となること。もったいない。
◆このような終わり方は好きだが、最近は好まれないのかな。

<参加者J(提出の感想)>
〈全体について〉
 広く奥深い解釈が可能な寓喩と、心の機微を的確にとらえた「ちいさなしるし」(心理があざやかに反映された動作の描写)が特徴的な短編集。簡素かつ平明な文体で語られる何気ない日常の断片――、これらに刻みこまれた象徴性と鋭い人間洞察が読みどころ。魚釣り、川と死体、夫婦の隙間、神経質な母、酒好きの父。同じモチーフがいくつかの作品に共通しているのは印象的。作風としては小川洋子さんを連想。日常に潜んだちいさな異物に焦点。寓話的でもある。ただし、カーヴァー作品の登場人物たちは、神や信仰を失った現代人の、リアリストとしてのさびしさや空白感が顕著だと思う。

〈表題作『大聖堂』について〉
 何か本質的なもの、いわゆる「イデア」と呼ばれるものに迫った作品であると思う。
 他の多くの作品同様、ここでも夫婦の隙間というモチーフが使われている。思慮が深いとは呼びがたい夫と、神経質な妻の組み合わせは何度も出てくるパターン。彼らの関係が決して「良好」でないことも定型。少なくとも一緒にベッドへ入る関係ではないとの描写がある。この作品のみならず、作品集全体として、主人公格の男と女の決定的な違いとは、「心のつながり」を求めているかどうかだろうと思う。作者の描く「男」像が求めているのは、どの作品でも自己本位の快楽ばかり。酒、性、釣り(趣味)。女はそんな夫にうんざりしつつ、日々黙って耐えている――、そんな構図が目立つ印象。
 ところがこの短編だけ、妻の方には心のなぐさめが用意されている。かつての同僚である盲人の男との交際。軍人である夫に付き添って、あちこちの基地を移動する生活に閉口、薬物自殺を試みるほど気がふさいでいるこの妻は、テープレコーダーによる一風変わった文通だけが心の支え、あるいはなぐさめになっている。(そういえば、夫が幼なじみであり、まだ無知で無垢だった若いじぶんをすっかり委ねてしまった、という構図は「足もとに流れる深い川」と酷似)
 この妻が「詩人」であり、盲人には生活に起こったことのみならず、願望混じりの妄想(離婚や別居)までも洗いざらい吐露しているところはおもしろい。妻にとって、盲人はどこか神のような立ち位置にあるのかもしれない。神を失った現代人の、心もようの一端が描かれているような気がする。
 夫は盲人にいちども会ったことがない。「顔をさわらせる」ほど妻とは親密な間柄である盲人のことを、あまり快く思っていない。そして、「心のつながり」を求める生き方をしていない彼には、盲人夫婦の愛というものが理解できない。「愛する相手の瞳に自分の姿が映らない女の気持ち」「かわいいなどと称賛のことばはかけられない」「表情も化粧もファッションも無意味」と狭い価値観で一方的にあわれんでいる。
 要するに、彼にはじぶんに「みえないもの」はただみえない。みようともしない。そうしたことを想像することもできないから、盲人相手に車窓の話をしてしまう。彼の世界は子どものように独善的で狭窄。そんな彼の心をなぐさめるのは現物的で即効性があるものばかり。しかし妻との関係は良好ではなく、欲求不満や空白感を薬物でまぎらわせるも、夜は悪夢に苦しめられている。無意識レベルで人生が行き詰っているといえるだろう。そんな彼にひとつの光明をもたらしたのは、他でもなく彼が煙たがっていた盲人だった。そもそもこの盲人というのが、見た目・性質と共に彼の価値観を大きく揺らがす存在だった。彼はここで、じぶんの知らない世界や価値観というものが世の中に存在していることを肌で知る。そうして、偶然観ていたテレビ番組から、彼は「大聖堂」というものについて、盲人に説明を試みることになる。このとき、妻が同じ空間で「眠っている」という設定は寓話のにおいがして好き。妻はそこにいながら意識はない。(あるいはそのふりかもしれないが)人生としての意味でいえば、片方の目は閉じている、という状態だろうか。
 信仰心を持たない夫にとって、大聖堂とは特に興味がないもので、たまたまテレビで扱われていた話題に過ぎない。(「神は偶然に宿る」という言葉が浮かぶ)「神とは、信仰とは何か」夫と盲人はこれらについてほとんど知らない。けれども盲人は、夫に「大聖堂」とは何か描写するよう要望する。共通認識が不可能な状態からの説明。異国語を勉強したものならこのような状況は心当たりがあると思うが、この場合の問題点は相手の目がみえないこと。しかし夫は投げ出さず、持てる知識を総動員して説明を試みる。ここで浮き彫りにされるのは、そもそも認識とは何かということ。ぼくらが「知っている」ものとしてとらえている「何か」とはけっきょく、個人の知識や経験、習慣や固定概念で構築され、勝手に色付けされているものに過ぎず、その説明がいかに多くのひとの共感を得ようとも、「真」という実像はけっしてとらえることができないだろうとのつめたい暗示がうかがえる。作者はここに、人間の限界をひっそりと強調する。そのうえで、次のステップに進む。「大聖堂」というものを紙に描こうということになる。夫の描く手に盲人が手を重ね、描かれるものを感覚で感じ取ろうという試み。作品として巧いのは、この場面にいたる前に、「大聖堂」というものの国ごとのさまざまなかたちや定義が先に紹介されていること。大聖堂という一語でおさまる壮大な建物は、じつのところ定型がなく、懐深く自由な建築物であることが示される。そのうえで実際の創作へ移行――、漠然としたイメージあるいは心のかたちを何かで表現しようとする運びはとてもいい。創作とは、すべからく「みえないもの」をかたちにすること、ここを鋭く突いている。こうなってくると、読者もまた、夫といっしょに大聖堂を描いてしまう。盲人にうながされ、夫はやがて目を閉じる。盲人にリードされながら、夫はじぶんの内なる「大聖堂」、作品の主題としては「みえないもの」をかたちにしようと手を動かす。書き上がったものに具体的な言及はない。しかし、「それ」はもう、作品世界を遠くはなれて読者の心にひそかに浮かび上がってしまっている。描き出されたのは、視覚情報に左右されない、限りなく本質的な「大聖堂」であるだろう。それはたしかに個人の内的世界に創造されたものだろうが、目を閉じて、心で描いたものであるだけに、みえないもの――、ひとびとの深層にひそむ普遍的無意識下の「大聖堂」と呼ばれるもの、あるいはそれに類した認識そのもの、そう名指していいものではないかと思う。少なくとも作中の夫が描き出したのは、「大聖堂」というイデアだったと信じたい。ラストの止め方はすばらしかった。「まったく、これは」のあとに訪れる余韻、残響、空白感はすてき。「私は自分の家にいるわけだし、頭ではそれはわかっていた。しかし自分が何かの内部にいるという感覚がまるでなかった」との心理描写からは魂の遊離が感じられ、読後、しばらくは心地いい浮遊感につつまれた。

〈他の作品について〉

「でぶ」
 個性的な体型を持った、紳士的な大食漢の話。暗喩されているのは妊婦の心理なのだろうか。この点についてはぼくにはよく分からない。「彼」がつくったものをなんでも余裕たっぷりに受け入れていく男のすがたに、語り手は「女」として心をゆらす。受容する、呑みこむ、といった女性性の力のはたらきが底部にうごめいているようには思う。よろこびでもあるし、また、じぶんがじぶんでなくなっていくような、得体の知れない不安もある、ということか。地の文(物語世界)と並行して演出される「現在時間」(語り手がまさにしゃべっている時)はおもしろかった。読み手は箱眼鏡でものぞきこむようにして、作中の世界をたのしめる。「男との会話」シーンと「作業」シーンはきっちりと分けられているが、スタッフ専用スペース(内)とお客さんのスペース(外)というレストランとしての厳格な仕切りを連想させて親近感があった。

「サマー・スティールヘッド」
 思春期にさしかかる少年の心象世界が寓意的に描き出された作品。みごと、と思う。「釣り」という男の子が夢中になりやすい「あそび」に混在した「性」の描写がものすごく印象的。にごった水から魚を釣り上げること、それは、無意識という深い水からじぶんの意思で得体の知れない何かを現実にあらわすこと、だろうと思う。主人公が釣り上げた魚は二匹。一匹目は「無抵抗」で「みたこともない」(緑色)のマス。二匹目はかなりの大物。これら二匹の共通点は、見た目こそ魚だが、じつは正体がよく分からない何か。二匹目など、男の子たちには魚に見えたが、母親には「蛇」と呼ばれる。この部分はかなり示唆的。「蛇」から連想するイメージは豊か。(男性心理の夢想とロマンは女には理解してもらえないだろう。父親の対応には焦りというか恥のようなものが感じられておもしろい)
 夢想と共に生きる男の子たちが寒さにがたがた震えながら=心身的にあたたかいもの、つまり愛に飢えていると解釈――、ようやく釣り上げた大物の正体は、おそらくカオスに生息するもの、未成熟な性を象徴するものだったのだろう。この大物に付された「みにくい」形容――「傷だらけ」で「やせすぎている」「灰色にたるんだ腹」は、「性」や「おとな」に対する子どもの鋭い洞察を読み取ることができると思う。この主人公の「性」認識とは、いわゆる「めざめ」の段階であり、完全に自己本位の世界にとどまっている。女を夢想し、射精するよろこび。そこに愛は存在しない。そうした独善性、もしくは「無知」「未知」という後ろめたさが、二匹目の大物に暗示されているような気がする。「未成熟」「現実化しない理想」(あるいは「限りなく理想に近い現実」)、そして「まだ遠い大人の世界」を連想させる大物を、「両手で抱きかかえてつかまえる」少年のすがたは印象深い。また、あまりに生々しく描かれた少年像――(両親のつめたい不穏を鋭敏に察知する感受性と注意できない心の弱さ、嘘、たばこ、自慰といった「自立」への不可避な発達段階、釣りに対する童心、甘美で自己都合でどこか謙遜している妄想性)と、限りなくリアルな非現実性の境界性というか絶妙な溶け合い方はすばらしかった。
 ラスト「魚の開いた口から水が入り、残された体の端っこから出ていった」との描写は目的を遂げたあとの男性心理のむなしさというか脱力感が的確にあらわれているような気がする。男はものごとを「点」でとらえ、女は「線」でとらえるということ。魚の「取り分」で応酬するふたりの男子に、民族や国同士の軋轢を連想。寓意が深く、写実性も幻妖性も抜群で、心つかまれる作品。

「あなたお医者さま?」
 夫婦の隙間を突いた話。魔が差す、ということばが浮かぶ。妻の不在中にかかってきた一本の電話が、男にちいさな冒険心を起こさせる。日常のなかにひそんだ異世界への入り口が深夜の電話という設定は親近感がある。不信やいら立ち、疑い、ちょっとした恐れを抱きながらも、しかしついつい女の声に耳をかたむけ、彼女からの電話を期待してしまう男の心理は滑稽だが、これこそ男の心の実像なのではないかと思う。頼られることに悪い気はせず、「あわよくば」という希望も抱く。種をまくのが男の仕事か。ちょっとあわれ。とうとう女に会いに行くとき、さりげなく爪のチェックをしているところは印象的。ところが相手宅で帽子をかぶったままであるところに、主人公の心の弱さや罪の意識が見え隠れして好感。逆に、主人公に対して執拗に電話をかけてくる女の心理を想像すると悲しくなる。育児はとてもつらい仕事だろう。心やからだの空白を、何かで埋めたいと願う心理はけっして否定できるものではないと思う。ラスト、「あなたじゃないみたいよ」という妻のセリフはまるで子に対する母親のようでおもしろい。

「収集」
 失業中の男の話。別居中なのか離婚なのか、妻とは一緒に住んでいない。「古い人生と新しい人生の境界」を描いた物語だと認識。根拠は、現在の住居からは「すぐに出ていくつもり」という描写と、「不在の妻」にひそやかに関連した男が病的な執拗さで清掃していくカーペットに「日々失っていく自身の身体の細かな断片がうまっている」という説明があることから。新しい人生につながる「報せ」を待っていた男に訪れたのは「過去の清算」、あるいは「対面」という構図はおもしろい。男の無意識の願望、後悔、あるいは後ろめたさのようなものが、「彼」というセールスマン、強引で一方的で理性や常識では理解しきれない来訪者を生みだしたのかもしれない。彼の清掃がやがてベッドルームに及ぶところ、「最高出力」を用いるところは印象深い。こういったシュールレアリスム的なおはなしはとても好き。

「足もとに流れる深い川」
 妻としての暗い想いが克明に描き出された作品。「強姦され殺された女性」に、語り手の妻は過去のじぶんを投影している。「彼女はまだほんの子ども」この言葉には若さゆえに無知だったじぶんへの後悔と嘆きが濃くあらわれているように思う。勢いや流れのままに身をまかせた男が愛していたのは、じつはじぶんそのものではなく、単に若い肉体ではなかったか。そうして、いちど気が済んでしまえば、今度は「社会上のステータス」や「生活の手足」として利用されるだけ。そうした失意や困惑、夫や自己への憤りやうんざりさがひしひしと伝わってくる。水面に浮いた女の死体、流されて、やがて男たちに発見され、ナイロンひもで手首を木にむすばれる。これらの伝聞イメージに妻がじぶんを重ねてしまったのは、夫へのちいさな不満、あるいは不信が日常的にたまっていたからだと思われる。たしかに妻は神経質にちがいないが、しかし、「だまって長く耐えていた」という心労を想像すると胸が痛む。当作品集には「夫婦の隙間」というモチーフがとかく多いが、この作品は女性が語り手ということもあってか、ぼくにはもっとも共感が深かった。どこの世界でも、男なんて甘ったれでだらしない。いつだって子どものように浅慮で幼稚。そのくせ、じぶんのエゴが一人前だと評価されていなければ気が済まない。ここに描かれている夫像は、じぶんの欲動にとても素直。酒、釣り、性欲。したいと思ったらがまんしない。黙って自己を押し殺している妻とは対照。こちらの気持ちをおもんばかっているようで、実のところいつだって自分の正当化に尽くす夫をふがいなく思っても無理はない。信頼なんてもうできない。何気なく流れていく日常におけるひそかな変化、些末な違和、漠然とした不安、ふと省みた過去のじぶん――、こうした暗くもやもやとした感情が見事に集約された「足もとに流れる深い川」というタイトルには肌がふるえる。そのままの意味で、奥深い作品。

「ダンスしないか?」
 妻に離縁されたと思われる男の話。室内にあったものを、ヤード・セールとしてそっくりそのまま庭先に出して売り出す、というやけっぱち加減はたまらなく愉快。通常は「家」に閉ざされて見えない私生活、内的世界、あるいは妻との過去を何も隠さず世間にさらす、そして売る。何もかもを清算し、すっかり失くしてしまおうと望む。ここまで極端な行動をとった男の心理を想像すると切なくなる。(「収集」と似たようなモチーフ)ふたりのベッドに寝転ぶ若いカップルに、男は何を思ったのだろう。人間心理を反映させた簡素で的確な動作の描写は印象的。ラスト、女が抱いた「相手に伝えられない感情」とは、あわれ、さびしさ、母性のようなものなのだろうか。いずれにしろ、ヤード・セールの男が成熟した大人でないことだけは確かだろう。

「ぼくが電話をかけている場所」
 アルコール中毒療養所の話。「大人ではない親たち」のすがたが印象的。人間とはあまりに弱く、何かに依存しなければとても生きていくことができない。こうした「心のすきま」という人間のリアルが、秋風のようにひっそりと胸にしみいってくる作品だった。さびしさと孤独で息がつまりそうなのに、「彼女」への電話は乗り気になれない。理由は「元気であって欲しいと思うが、まずいことがあったとしたらそんな話は聞きたくない」から。この一文に主人公の稚拙さと軟弱さがよくあらわれているように思う。彼の愛は、少年のように独善的で傷つきやすい。幸福を招くというロキシーのキスを求める彼の弱さ、何かにすがろうとする気持ちはひどく切ない。ひとはけっきょく、何かと深く共依存しながらでないと生きていくことはできないのだろうか。

「ささやかだけれど、役にたつこと」
 不意に訪れた喪失の話。胸が痛む内容だが、この両親に心から共感はできなかった。パン職人の執拗な電話はたしかに不必要なことだと思うが、親たちの対応も「成熟した」ものとはいい難いと思う。神経質で視野狭窄な女。そんな妻にただ無力で、パン屋からの電話にも冷静に対処しなかった夫。「大人ではない親たち」のモチーフがここにも表れているように思った。「待つ家族」にできることは「お祈り」だけ」との描写があったが、彼ら夫婦には深い信仰心は感じられない。神(という支え)を失った現代人の闇と問題点が浮き彫りにされているように思った。院内での喫煙や個人情報の流出には時代を感じた。「子どもの死」のあと、「子供部屋のドアを閉めた」という一文には目が熱くなってしまった。すすり泣きとコーヒーメーカーの音の描写にも胸を打たれた。ひとりもののパン職人の仕事というのが「家族のよろこび」を目的としている、という指摘には考えさせられた。個人的にきついひと言。伏線や展開は巧妙と感じた。パン屋という役割がうまく活かされていると思う。同時に、傷ついた心をあたたかく再生させる力も感じる。

「使い走り」
 チェーホフの臨終の話。チェーホフが好きだったという作者もまた、死後の世界になぐさめを見出していなかったのだろうか。死の間際のシャンパンのシーンはすてきだった。「人の声も聞こえず、日常世界の物音も聞こえなかった」「そこにあるものはただ美と平和と、そしての死の壮大さであった」厳粛さと沈黙が支配する彼の最期は印象的。「彼は鞄を手に取り、部屋から、そしてさらに言うならば歴史からすがたを消した」という医者の去り際のシーンもいいなと思う。ホテルのボーイの役割は観念的だった「死」を現実の世界へつなぐことだったのではないかと思う。偉大なる芸術家の死を公にする、という責務を負わされ、彼がはじめてしたことは床のコルクを拾うこと――あまりに日常的なじぶんのちいさな職務であったことは印象深く親近感がわいた。

「父の肖像」
 エッセイ。「使い走り」にみられたモチーフが多くみられた。作者はあきらかに父の死とチェーホフの死をリンクしている。(臨終の酒とか、灰色の顔とか)作者の小説に登場する父親像――、酒好き、女好き、釣り好きはすっかり腑に落ちる。たびたび移動したという父の血は、どうやら作者もきっちり受け継いでいるもよう。父と同じ名を持つ子どもというテーマはぼくらにはすこし分かりにくい。自己同一性は弱まるのだろうか。それとも、だからこそ顕示しようとして強い力がはたらくのだろうか。筆名をちがう名まえにしなかったところは興味深い。父への感謝と尊敬、遠い距離感がしみじみと伝わる文章だった。

「レモネード」
 ある想い、ある心情について特定のリズムを持って描くこと。それを詩と呼ぶのなら、今作もやっぱり詩なんだろうなとは思う。息子の死と父の罪悪感が切実に伝わってくる。生きた音楽のように感じられるところが「詩」の形態の魅力なのか。トングで運ばれる子どもの画は胸が痛む。イノセンス、ということばが浮かんだ。レモネードを飲みたい。何気ない日常に深い翳を招いた原因が純情というのは悲しい。

「おしまいの断片」
 あらゆる望みというものは、けっきょくのところ自己顕示欲、あるいは承認欲求を満たしたいだけの薄っぺらでちっぽけな欲動に過ぎない。もって、人間はとてもちいさい。卑小でおろかだ。いつだってじぶんのことでいっぱいで、何の価値も見いだせない。でも、そんなうつろな器を満たすあたたかいもの、やさしいものってとてもいいよね。いずれにせよ、ぼくらは望んで生まれてきたわけじゃない。だったら、他人に極度に迷惑をかけない範囲で、それぞれちいさな心を満たしながら生きていってもいいんじゃない? そんなどこか開き直って楽観的な、かつ、いたく無常的なメッセージがこめられているような気がした。

<フリートーク
【大聖堂】
H:「大聖堂」は、どこを切っ掛けにして組み立て始めたのだろう。作者自身が、テレビで大聖堂が映っているのを観て、絵を描くシーンを閃き、盲人の設定を思いついたのでは。
G:やっぱり大聖堂が先にあったんでしょうね。
H:だから相手の目が見えていないほうがいい。
G:キリスト教圏の人には親しまれているから、描写してくれと言う人は目が見えない人。
H:日本人だったら大阪城でいい。大聖堂を被せる意味はあったのか。大きい建物ならなんでもいいのでは。
G:「信仰の空虚さ」とかを読み取る人もいるけど……
H:それは穿ち過ぎでは。
G:私もそう思う。
I:カーヴァー自身の信仰心はどうだったのだろう。
G:巻末の年譜や訳者あとがきでも特に触れられていないですね。
H:キリスト教でも信仰が幅広く分かれているから、一概に信仰心とか言いにくいのでは。
I:アルコール依存症なら縋るものが必要だったかも。
F:今、レイモンド・カーヴァーを検索したんだけど、アルコホーリクス・アノニマス(通称AA)に入っていますね。このグループは自分で定義した神様を信仰するのを薦めている。だからカーヴァーも特定の宗教じゃなくても、自分が定義した神様の概念を持っている可能性が高い。
AAでは、自分の名前を出さず、体験談を話す。外に持ち出さない。名前を明かさない。
H:キリスト教の告解のような。
F:それに近いことを断酒でやる。
C:年譜に「セント・ピーターズ教会で追悼式が行われる」とあるのでカトリックですね。プロテスタントではない。熱心かはわからないが、セント・ピーターズ教会はニューヨークで最古のカトリック教会なので、それなりに信仰しているのかな。
G:熱心に信仰していたら作品に表れるから、熱心ではない。私たちも死んだらお寺で葬式をするし。
カーヴァーが亡くなったのは50歳なんですね。若すぎる。一番書けるときじゃないですか。
H:今だったら50歳から書き始める人もいる。
G:経験も総合したら50代が一番書ける。これからというときに……悔しかったでしょうね。

【サマー・スティールヘッド】
B:とても粘っこくて瑞々しい。思春期の鬱屈した感じ。大人にも子供にもなれず、両親としても扱いづらい……よく描けている。すごく面白く読んだ。
G:一番好きな作品だけど読み返せない。魚をとってきたのに両親から無視されて肉の塊になって。悲しさに入ってしまいそうで。
H:実際にこういう経験ない? 子供のころ、自分はやったつもりなのに、大人からけんもほろろに扱われて。それを表した、いい作品。こういう作品はよくあるが秀逸。
G:(読者の)経験に直に触れてきますね。

【ぼくが電話をかけている場所】
C:だめな話を楽しそうにしている。(自分に置き換えると)飲み会とか、そんな話が多いかな。仲のいい人と集まって飲んで、その感じに近い。
「大聖堂」のように何を言いたかったのか考えさせられる作品も好きだが、本を読んですっきりしたい気持ちがあるので、読んでなるほどと完結するのが性に合っている。読んだ中では起承転結の「結」がわかりやすいのかな。
G:Fさん、アル中の人って実際にこんな感じ?
F:這い上がっている人もいるし、途中で死ぬ人もいるし……こんな感じですよ。再飲酒しちゃう人多いです。喜怒哀楽のどの感情にもお酒が付き物になって、やめられなくなる。
G:神経が張りつめてしんどくて、お酒を飲んだときだけほっとする。
F:そこが逆転して、アルコールで破滅する。この作品では優しい家族と繋がっているけど、本当は離婚される方が多い。
カーヴァー自身は断酒に成功して、肺がんで亡くなった。
G:カーヴァーは妻とも関係が悪くない。
F:カーヴァーの妻であるテス・ギャラガーの著書『ふくろう女の美容室』に、「大聖堂」と対をなす作品「キャンプファイヤーに降る雨」が収録されている。「大聖堂」を妻の立場で書いている。
A:アンサーソングみたいな。
G:二人で作品を仕上げていった。

【ささやかだけれど、役にたつこと】
H:夫婦は電話の意図を確かめないで、一方的に感情で動く。未熟といえば未熟なんだけど、こういう状況に置かれたら誰でもこうなるんじゃないかな。未熟とは違うと見たほうが読み方が深まるのでは。
A:これ、パン屋さん悪くないですよね?
H:悪くない。相手の立場に立って慰めていた。悪かったよ、と。こういうの、オー・ヘンリーに出てくる気がした。

【参加者が一番好きな作品】
G:皆さん、一番好きな作品はどれですか?
D:「大聖堂」。最後の一文を読んで、主人公がそこに至るまでを想像するのがいい。文化や信仰を代表する大聖堂というのがぴったりくる。
F:「ぼくが電話をかけている場所」
I:「ぼくが電話をかけている場所」は、私もだんぜんこちら側でアル中っぽいところがあって。家族がいて仕事もしているけど共感するところがある。そういう人種にしかわからないほろ苦さが魅力。あと、「ささやかだけれど、役にたつこと」が好きですかね。
アメリカ文学はマッチョな印象があって避けていたけど、アメリカ映画や文学に繊細な作品があると知って読み始めた。
H:「ささやかだけれど、役にたつこと」
A:私も「ささやかだけれど、役にたつこと」が一番好きですね。

『推し、燃ゆ』宇佐見りん

R読書会 2022.11.12
【テキスト】『推し、燃ゆ』宇佐見りん(出版社の指定なし)
【参加人数】6名、感想提出2名(事前1名/後日1名)
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者H)>
◆R読書会に参加して初めての推薦。
◆小説学校の86歳の先生が「昔の作品はいいけれど最近はつまらない作品ばかりだ。でも『推し、燃ゆ』はすごくいいから読んでください」と仰ったので手に取った。実際に読んで、すごく衝撃を受けた。

<参加者A>
◆とてもいい作品を紹介してくださってありがとうございます。宇佐見りんさんの『くるまの娘』(『推し、燃ゆ』の次の作品)を読んで、面白い人だなと思っていたので、『推し、燃ゆ』を読むチャンスを与えていただいてよかった。
◆私も本当によく書けていると感心した。情報量が多いが、すべて1つのテーマに向かっており無駄がなく安定感がある。奇をてらわず淡々と描写している。例えば祭壇の様子、生活が荒れていく過程……。若いのにこれだけ書けて、この先どうなるのだろう。
◆私自身は推し活はしたことがないが、どちらかというとオタクに近いので、あかりの状態を異常とは感じずに共感できた。衝撃より共感が強い。推し活をしている人たちも同じ地平に繋がっている。
◆Cさんの事前レジュメに、悲しい気持ちになって払拭できなかったとあるが私もそう。出口がない。悲しくなるのもわかる。傷つきたくないから一方的な関係を大事にして、相互関係ではなく自分なりに解釈したものを発信する。リアルな交流はなく、殻の中で傷つかないようにしている。殻の中で肉を排除し、肉に対する嫌悪感が強まっていって(プールから上がってくる同級生がアシカやイルカやシャチに見える)、最終的には自分のこともできなくなってセルフネグレクトに至る。私も人のためにご飯を作るのに慣れてしまっているけれど、自分のためだけにご飯を作るのは面倒に思う。爪を切るとか、生活のごみを片付けるとか、自分のための仕事って案外重い。セルフネグレクトが究極の生活力の限界。最後に綿棒をぶちまけるのは、なんとも悲しい。四つん這いになって生きていく。肉が削ぎ落されて、骨と皮だけになった彼女はどうやって生きていくのか。
◆母親が冷たいですよね。これも作者の狙いなのかな。違和感を感じました。(作品において)ただのパーツでしかないというか。娘が骨と皮だけになって推しを推している、宗教に頼っているような状態になってしまい、高校も辞めて居場所がなくて。それに対して、こんなドライな対処しかしないのは現代を表しているのか? テーマではないので書かなかったのか?

<参加者B>
芥川賞の受賞が決まってすぐに読んだ。衝撃だった。書き始めから書き終わりまでの熱量の維持をすごく感じた。読み直して面白かったのが、「まざま座」とか、「ウンディーネの二枚舌」とか、「水平線に八重歯を喰い込ませて」とか、言葉の選び方が面白くて、突き放して作品を作っているんだなと思った。また、主人公のブログにコメントを寄せる人たちと「あたし」の持ちつ持たれつの関係がよく描かれているのを新しく感じた。
◆主人公の気持ちが盛り下がっていく様子がすごくうまく書けている。
◆バイト先での心理描写が見事。(作者は)実際に定食屋でのバイトを経験されたのかな。
◆年齢差を感じさせられた作品。今の私には自分を無にして推すものはない。その意味でも若い人ならではの感性・感覚だ。だから「あたし」の一人称が空回りして感じられる部分もあった。でも長さを感じさせず、話も破綻しておらず、若い作者だけれどさすがだと思った。
最後に散らす綿棒は白い骨のように感じた。祖母が亡くなって、祖母の家に一人で住むようになって……書き手はわざと(主人公と家族を)離したんだろうな。もしかすると死んでいく方向もあったが、這い蹲って綿棒を拾うシーンは、生きづらさの中でも生きていこうというのを感じた。

<参加者C>
[事前のレジュメより]
《読み終えて》
◇無性に寂しい気持ちになって、なかなか払拭できなかった。あかりはどうなるのだろう。腐ったカップ麺などが散らかる部屋で、埃にまみれて衰弱死してしまうのだろうか? 彼女は推し(上野真幸)と出会い、夢中になることができた。彼がいなかったら、彼女の人生はそれこそ真っ暗だった。
◇バイト先の様子や片付けができないなどなど……。主人公あかりは、明らかに発達障害と思われる。
 この作品は発達障害の少女が見た現代の世の中を描いた物語だ。異質な世界を独特な表現で描くので迫力がある。
・蝉が耳にでも入ったように騒がしかった。(学校でレポートを忘れた時の混乱ぶり)
・せわしなく動けばミスをするしそれをやめようとするとブレーカーが落ちるみたいになって……(バイト先の定食屋でパニックになった時)
・頭には常に靄がかかったようになり
・海水をたたえた洞窟に、ぼおと音が鳴り響くような気味の悪さがただよっていて(中略)胃をつつき回した。
・闇は生あたたかくて、腐ったにおいがした。
・生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。
・お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。

《祖母と母親》
◇彼女たちの確執があるようだが、これが気になって仕方なかった。
「母は散々、祖母にうちの子じゃないと言われて育ってきたらしい。」
 母親も発達障害の症状があるのかもしれない。それで手に負えなくて祖母はこう言ったのじゃないか? 姉(ひかり)はあかりの苦しみを理解しようとしているが、母親は次女を重荷のように感じている。いや、そう描かれていると思った。母親の対応がもっと違っていれば、あかりがこんなに追い詰められなくてすんだのに、と思う。――あっ、うちで購読している朝刊が、八日から生活欄で発達障害の連載をはじめた。

[以下、読書会にてCさんの発言]
◆読まずに置いていたら妻が先に読んで「すごくいい。若いのに非常に描写力がある。これを読まないと損をする」と言われて読み始めた。
◆読み終わって、寂しいお話だなと思った。半日くらい何もしたくなくなって、ぼーっとしていました(笑)。
一同:(笑)
◆私が中学生のころの感覚と似ている。勉強ができなくて、数学や物理の板書がわかりかけたときに消される。だから勉強というと、きれいになった黒板のイメージしかない。あれを思い出して寂しくなった。劣等生の生きづらさ。
◆主人公は発達障害。病院で検査したとあった。両親は知っているが経済的援助だけで支援しない。とくに母が変。母も発達障害ではないかと思う。遺伝するので。
例えば、物の処理ができない、位置関係の理解が苦手、片付けができない、人との交わり方が非常に下手……。主人公も同時に二つ三つのことができない。バイト先で、たくさんの注文がくるとパニックになってしまう。
◆主人公の祖母が母にうちの子じゃないと言っていたのは、母も自分のことができない不器用な子だったからでは。それで突っ放し、今でも突っ放し……。母と祖母の関係、亡くなって病院に行くところでも変だと思う。
朝日新聞の連載『「ツレ」が発達障害 ふりまわされる、でも愛している』を読んで、やはり主人公は発達障害だと思った。発達障害の子を持つ親のネットワークがある。主人公の両親は(発達障害について)学んでいない。もし学んでいれば、追い込まれて食べ物も作らないようにはならなかったのでは。もう少し、自分の能力を発掘できていたのでは。
A:でもブログを書くのは上手い。
C:そういうのはできるんでしょうね。現代っ子だから。こういう世界を書けるのはすごい。私もびっくりした。
H:発達障害とか言われているけど、昔はそんなになかったと思う。
A:簡単にレッテルを貼りすぎるきらいもある。
C:昔は研究もそんなに進んでいなかった。30人に2人は発達障害だという。今は低学年には2人の先生がついている。
H:今はすぐ発達障害じゃないかと言われる。
C:学校の先生がすぐ疑いを持ってしまう。自分の指導の至らなさを棚に上げて。
H:今は病院で、こういうときはこうしたらいいとアドバイスをたくさんくれる。昔はそういうのがなかった。
A:あかりちゃん(主人公)のときはなかった。
C:でもこれリアルタイムですよね。
H:(主人公の)母や先生がそういう教育を受けていない。
E:アンテナがある人とない人がいますからね。

<参加者D>
◆私はこの小説を読んで、感想と言うより、職業柄どうしてあげたらいいんだろうと思って、客観的に見れなかった。Cさんが仰ったように、(主人公は)発達障害だと思うんですけど、客観的に見たとき、ブログはすごく上手なんですよね。文章はちゃんと理路整然と書ける。できることとできないことの落差が激しい。文章はちゃんと書ける、でも漢字は書けない。落差が激しいから第三者から見るとサボっているようにしか見えず、発達障害とはわからなくて。とくに親は理路整然と話をするのを知っているから、「そんなことない、サボってるだけだ」としか見えないし、認めたくない。指摘されて子どもを病院に連れていくのは素晴らしいことで、その階段を上がれない人が多い。また、病院で診断されても認めない親が多い。そうすると普通学級に入れられるから、いじめの対象になってしまう。
発達障害でなくても、英語の聞き取り・会話はできるが読むことができない子など、ここはできて、ここはできないというところがある。
『推し、燃ゆ』の主人公は理路整然と話せるし、口答えもできるし、バイトもできるし、なかなか難しい。
◆冷静になって作品として読むと、描写がきれい。「ため息は埃のように居間に降りつもり……」、「夜の海の匂いがただよっていた」という言い方は本当に言葉選びがすごく指摘で、こういうところでこの作品の厚みが出てくると思った。ただ発達障害の内側を書きましたと言うんじゃなくて、そういう文学作品としての厚みが。

<参加者E>
◆私はこの作品では、Cさんみたいに飲み込まれて落ち込まないように、敢えて距離を離して読んだ。距離を取って読んでみると、作品としてちぐはぐな部分が結構あった。
◆例えば、(専門家ではないので正確にはわからないが)子どものころに漢字の間違いがたくさんあった子が、予測変換だけで誤字なく書けるのか。漢字の判別がつかないはずだと思う。
発達障害というところを抜きにして見ると、現代の普通の若者の青春としてリアル。推し活に入れ揚げてしまう、自分の気に入った対象以外に対しては冷淡な関係しか構築したくない、関係性を選り好みする、友達とも表面的にしか付き合っておらず会ったときにはペルソナを被って本当の自分を出さない。親はいわゆる毒親で子どもの気持ちに寄り添ってくれず自分の都合ばかりを押し付ける。とくに女性の親が毒親として告発される作品は最近たくさんあり(エッセイ漫画などに多い)、現代の若者の一般的な悩みや生活の喜びがリアルに書けている。だから発達障害という要素を敢えて入れてしまったのは、この作品にとってよかったのかどうか、ちょっと思う。
◆皆さんのお話を聞いて思ったのは、主人公が受けている診断は発達障害だけではなく摂食障害もあるんだな、と。よく作中で吐いている。ゴミ屋敷みたいになっているのもよくある話で――干物女っていうんですけど、すごく現代的。だから逆に言うとすぐ発達障害などのレッテルを貼られるのも現代の一つの問題かもしれない。
◆ネットの感想や考察を当たると、三島由紀夫金閣寺』と比較しているものが結構あった。私もなんとなくそう感じていた。ものすごく優れた描写力で心理を分析していて、分析されている視点人物は障害を抱えている。非日常の対象にものすごく入れ込んでいて、最後は決定的なところに至ろうとするけど――みたいな部分が結構似ている。
小説の技法として比べたとき、『金閣寺』は主人公の視点ではあるがあくまで三人称。だから、どもりの主人公が言語化できないような精神の内容を詳細に書いていて、それがすごくリアリティがある。
対して、『推し、燃ゆ』は一人称。明らかに主人公の視点で書かれているが、主人公が自分で言語化できないところまで書かれているので、作者と主人公の間の距離はちゃんと取れているのかという問題がある。
◆作品中のネットのコメントがものすごくリアル。ショックなファンのコメントもそうだし、アンチがアイドルやそのファンを攻撃するいやらしいコメントがとくにリアルに感じられて面白かった。
◆ラストシーン。綿棒の形は大腿骨に似ている。最初から決め打ちして逆算して作ったんだと思うが、前半のボリュームが勝ち過ぎて、かえって取ってつけたようになっている。
◆ラストの前にすごくぞわっとなった部分があった。推しが結婚して相手と住んでいるかもしれない自宅に押し掛けて、でも決定的な破局を迎えないまま曖昧な着地をする――これは日本の小説にすごくよくある展開。西洋の小説だったら容赦せず、ここで決定的なカタストロフィを描く。私の読書量はそんなにないけれど、そう思う。
言ってみれば、推し活とは、自己の空虚さを推しの輝きで埋めようとすること。はっきり言ってある種の信仰的なものだし、ストーカー的でもある。だから、最終的には自宅まで突っ込んで行って何かしてしまうところまで書くべきなんじゃないか、小説としてこう展開すべきなんじゃないかと思ったりするが、作者はそれを選ばなかった。(推しの自宅で何かすることの)次にありえそうなのは、帰ってきて、おばあちゃんの家に火をつけること。『推し、燃ゆ』ですからね。最後、その辺までいくんじゃないかと思ったけど、そこまでいかずに曖昧な決着をする。すごく日本的だな、と。
A:作者の宇佐見りんさんは『くるまの娘』もそうだが、毒親とのネガティブ・ケイパビリティを選んで書く。だからさっきEさんが仰られたような、とことん突き詰めてカタストロフィに至るんじゃなく中途半端な状態で締めて、そこに希望がある、というのが好きなのではと思う。
D:現代人って、Aさんが仰られる感じで生きてるんじゃないですかね。仕事もできなくて、でも火もつけられない。
A:(火をつけるとか)そういうことしようとするなら新興宗教に走るしかない、みたいな。宗教なら答えがあってはっきりするから。答えがないままに現実社会を受け入れようとすると、否定的な状況を引き受けたまま生きなきゃならない。
D:生きにくい。
H:年配の男の人って、自分たちは企業戦士として生きてきた。だから今の若い人のもやもやや鬱々とした生きづらさがまったく理解できないみたい。そういうエッセイを書いている若い女性に「全然わからない」と言っていた。生ぬるいとか、そんなふうに受け取るから作中の両親もそうなのかなって。
E:ある意味で贅沢な悩みなんですよね。その悩みすら持てる状態にすらないというのが底辺の生活だったり。現実的なところを向上させていく時代が長かったわけだし、実際そういうふうに生きてきた人も多いから。今はそれが幸か不幸か達成されてしまったので、その上で人としてどうなのか悩めるようになった。その基盤すらない時代に生きてきて、基盤を作った人から見ると、甘ったれたことを言っているようにしか見えないというのはある。
H:まず生活していけないから甘ったれたことを言っていられない。
A:基盤がないところに基盤を作る目標のほうが、ある意味シンプル。だから頑張れる。
H:社会がそうだったから。
A:頑張ったら頑張っただけ稼げて、電化製品も買えたし、そういう時代ではあった。
H:今は結婚する・しないも選べてしまう。昔だと適齢期みたいなのがあったけど。
C:私の年代は生まれたばかりのころは食べ物がなくて、いつもお腹を空かせていた。でも大人になると毎年賃上げがあって、上がったぶんが給料日に出てくる。ボーナスにも跳ね返る。だから人生は明るくなるばかりだった。頑張っていけば幸せがいっぱいという感じで働いていた。仕事をリタイアすると、暮らせるだけの年金もいただけるし。
ところが20代の若者にこう言われた。「Cさんの世代は食い逃げの世代だ。働けば賃金が上がってボーナスが貰える。年金が貰える。私たちの世代は、年金保険料は上がっていくのに自分が貰えるかわからない。そういう時代に生きているので、Cさんの世代に立派なことを言われても説得力がない」と。その方は東南アジアなどを数年かけて旅行していて、私が「こんな大事なときに遊び歩いていていいのか」と言ったことへの反論だった。
A:象徴的な話ですよね。
C:今考えてみると、世界をさまよって歩くって大事な行動。できれば日本の若者みんなやってほしい。そして、自分が生きていくのにどこが一番いいか、選択できるくらいの余裕を与えたら、彼らはもっと力を発揮するんじゃないか。若い人と年寄りが喋れる場所はいいですよ。そういう場所も今無くなっていっている。断絶。アメリカ的な断絶もあるけど、日本の若者と年寄りとの断絶もありますね。
A:昔は角棒振り回して、授業に行かなくても一流企業へ就職できたわけですからね。今は一生懸命に授業を受けていても就職すら難しい。
H:国葬のデモへの参加が就活に影響するから怖くて行けない」と言う人がいてびっくりした。
A:ネットで発信しても内定貰うのにウケがよくないとか。
D:民主主義じゃないですよね。
H:就活だって、みんな同じ服着て、同じ受け答えばかり。それで切られてばかりいたら本当に生きてく意味がわからなくなる。

<参加者F(事前提出の感想)>
1)宇佐見りんという作家が書いた本に触れたのは初めてです。2020年度の下半期に芥川賞をとったということも知りませんでした。しかも21歳の若さで。
2)人気タレントの推しが人を殴った所から始まって、最後に推しが引退をし、「一人の人間、人」になるまで、推しを推し続ける「あたし」の生活を描いた青春小説と捉えて読みました。
3)推しを推し続ける「あたし」の生活をテーマにして、これだけの小説が書ける宇佐見りんという作家の筆力にまず感嘆しました。凄いと。
4)しかし、私個人は冷ややかな気持ちで読みました。人生で一番大切な時を、こんな事に夢中になってしまって可哀そうにと。他に自分の背骨になるものを見出すことはできなかったのだろうかと思ったからです。
5)しかし別の視点から捉えますと、現実にも未来にも希望を見出せないでいる現代の若者たち。宇佐見りんは、何か無心に追い続けたい若者たちの心理を、小説で代弁しているかもしれないと同情もしました。読みが浅くてすみません。合評会での皆様の意見を楽しみに待たせて頂きます。
6)P9「寝起きするだけでシーツに皺が寄るように」~の4行。歳の差はあっても私の気持ちと一緒と嬉しくなりました。
P123~125~最後まで。「あたし」の気持ちが私にもよくわかります。物を投げつける所、後片付けが楽な物を選んで投げている所など可笑しかったし、何もかも投げ出してはいないのだと安心しました。
 特に最後の方、さすが小説家と思いました。ひょっとしたら宇佐見りんは構想の段階で、起承転結の「結」の方を先に書いていたのかもしれないとさえ思いました。
7)小説と時代背景とは関係ないでしょうか。日本を含め世界が核の危機にさらされている今でも、こんな小説が芥川賞に選ばれるだろうかと、気持ちが遊んで時にはこんな事も思いました。

<参加者G(後日提出の感想)>
◆日程を勘違いしてしまい申し訳ありませんでした。
◆『推し、燃ゆ』は読んだタイミング的にも、とても抉られる話だった。私事だが、ずっと追いかけているアーティストの新譜発売とコンサート日程の発表があり、昔だったら躊躇なく限定盤を予約していただろうし近場の公演はいくつか申し込んでいたはずなのに、今は迷いなく通常盤を予約して一公演だけを狙うようになったのを、寂しく思っているところだったので。
いわゆる推し活よりも現実的なもの――税金とか保険料とか仕事とか(人によっては家庭とか)そちらを重要視するのは大人としては当然で、たぶん大多数の人には褒められるんだろうけれど、失くしてしまったものは確実にある。
身を削って応援しているときしか得られない充実感というのがあって、人生が終わるとき、あの時期が最高にきらきらしていたと懐かしく思い出すのだと思う。だから私は主人公がとても眩しく、ときに妬ましく感じながら読んでいた。推しのマンションまで行くところからラストまでは、水が上から下に流れるみたいに、ああそうするよなと、すとんと腑に落ちた。あかりちゃんもこちらに来られてしまいましたか、と。
◆作品としても、とてもよかった。私も推し活(「推し」とか「推し活」という言葉ではないのだが)みたいな作品を書きかけていて、テンションは近かったのだけれど、作者の語彙の豊富さや表現力に圧倒された。なので、いったん没にして書き直します。
◆個人的に気になったのは、推しの引退で終わったこと。本当の卒業というのは、推しがまだ活動しているのに熱が冷めてしまうことだと思っていて、この作品ではまだ「好き」だから――「好き」のまま瞬間固定されてしまったので、推し活が終わったわけではないのではということ(だから推しの自宅に押し掛けて迷惑をかけるようなことはしないし、推しの評判を落とすことはしない)。終わったのは彼女の青春だと感じた。ラスト、片付けが楽な綿棒を選んでぶちまけたところがとくに。現実と折り合いをつける、折り合いをつけてしまった、折り合いをつけるようになってしまった。
◆私も(主人公を通して見る)主人公の推しを魅力的だと感じた。それは主人公の気持ちや観察力をしっかり書けているということ。主人公の推しに魅力がなかったら、この作品が成立しないので、ああ、素晴らしいなと思った。
◆この議事録をまとめながら、青春と追っかけを描いた雨宮処凛バンギャル ア ゴーゴー』(講談社文庫)を読書会で推薦しても面白そうだと思ったのですが、文庫本で全3巻とボリューミー過ぎるので無理だなと諦めました(笑)。機会がありましたら是非。

<参加者H(推薦者)>
◆この作品は台風の日の朝から読み始めて、午前中には読み終わった。私は集中して読める本があまりないのだけど、最初から最後までお茶も飲まずに一気に読んでしまった。そのくらい衝撃だった。
◆電車の中で本を読んで落ち着くっていうの、すごくわかる。私も家で読むより、イオンや喫茶店のざわざわしたところで読むのが好き。コロナ禍が始まってからは行けなくて、でも家では集中できなくて。一番共感した。
◆『推し、燃ゆ』というのは、炎上して燃えてなくなるというイメージで読んだ。推しの真幸くんが炎上して普通の社会人になって、主人公にとっては燃えていなくなってしまう。それが「燃える」と言えるから、すごくいい題名だと思った。
◆主人公の推しである真幸くんは小さいときから子役をしており、作り笑いをしたら大人が「可愛い」と言ってくれて、そのまま育ってしまった。この作品は、主人公だけでなく真幸くんの成長も書いている。
◆この本を紹介してくれた小説の先生は、最近読んだ本でよかったのは村田沙耶香コンビニ人間』と、『推し、燃ゆ』だと仰っていた。『コンビニ人間』にも似ている部分があって。冒頭から「コンビニエンスストアは、音で満ちている」と書いており、発達障害の症状の一つに「音に敏感」というのがある。先生はそういう内面的なものが好きなのかなと思って、私は生徒として読んだ。
◆先生が仰るのは「対峙させるものを書け」。主人公を存分に痛めつけなくてはならないと教わっている。それを意識して読むと、主人公vs家族(母親が冷たいのはわざと書いていると思う)、主人公vs学校、主人公vs社会、主人公vs普通の生活、主人公vs推しの炎上とグループの解散……ありとあらゆるものに反対して戦っている。主人公に戦わせるのは物語の基本。だから、いろいろなものをこれでもかというほど出しているのでは。
書き手として読んで、すごく基本に忠実に書いているなと思った。
◆「開いたときに黒くならないように書け」とも言われる。漢字ばかりにならないように。この作品は句読点の使い方とか、漢字と平仮名のバランスが上手だなと思った。私だったら句点にするところを読点にしていたり、すごく計算されていると思った。
A:基本に忠実ですよね。書いている内容は危なっかしい話ですけど。)
見本のような本でしたね。主人公に対してサディスティックに追い込んで書けって言われてもなかなか書けない。ここまでするかってくらい書いている。
◆あと、先生がいつも言われているのは「五感を書け」。でも『推し、燃ゆ』の感覚は5つじゃなくて、痒み、痛覚、暑いとか寒いとかの体感感覚、筋感覚、腱の張力、関節の位置感覚とかがあるなと思った。あと内臓の感覚。空腹感や吐き気、便意、体温、血圧……五感を超えて臓器感覚を駆使して書いているのがすごい。
・「眼球の底から何かを睨むような目つき」
・「右の眼と左の眼の奥に感じる吐き気は」
・「鼻から息を漏らして肯定した。」
こんなの考えたことがない。真似したい。自分の小説で、嫌なことがあったときの描写で「自分の中にどろっとしたものが流れた。そのとき指がぴくっと跳ねる」みたいに書いたら先生がすごくほめてくれた。真似をしたら書けるのか、と思った。
とにかく、すごく刺激的だった。帯に推薦の言葉がついているけど、私だったら「皮膚と内臓の感覚を思う存分楽しめる一冊」って書くかなと思った。
C:五臓六腑って言うけど、どれが一番いいかな、書くには。やっぱ胃袋かな。
H:胃の表現ってよく出ますよね。今までもあるからよくないかも。
B:自分の身体的な感覚としてそういうのを感じることはないですか? それを書けばいいのでは。
C:息ができなくなったことはある。自分の作品で「息ができなくなって自分の筋肉で呼吸した」と書いたけど、臓器で書くってそんな感じかな。
H:書こうとしたらすごく難しい。書いてみてください(笑)。胃が痛いとか胃がむかむかするときはあるけど、それをこの作品みたいに描写して書こうと思ったら難しくて。外部から情報を感じるセンサーって、視覚が87%なんだそうです。だから見た目はよく描写されている。でも皮膚感とか平衡感覚みたいなもの、本当に読んだことなかったなぁって。「足の爪にかさついた疲労が引っ掛かる。」……疲労に足の爪を持ってきちゃうんだって。
C:ありきたりじゃない、本人の表現なんですよね。

<フリートーク
【推し活の本質】
E:この中に出てくる「推し活」というものについて、もうちょっと考えてみたいと思って。作者は推し活というものの心理的な意義を分析して、戦略的に書いている気がした。ただ自分が推し活をしていて好きだからと突っ込んだものでは絶対ない。
最初、推しがピーターパンの舞台を演じている。これは本当にわかりやすくて、推し活というのはピーターパンシンドロームだとまず言っている。大人になりたくない人が、推しが描き出す舞台という純粋性の中に没入していく、日常(=醜い大人の世界)を忘れる。舞台上の推しの世界だけが子どもの世界で、ずっとその中にいたいというピーターパンシンドロームの話。それが推し活の本質だと思うし、すごくわかってるなって思った。途中にもいろいろ描写があって、重さを背負って大人になるのがいやだみたいな部分もあったけど、本当に大人になってしまうと案外この肉体ってちっとも重くもなんともないんですよね。普通じゃん、当たり前じゃん、っていう。でもそれを重たいものとして感じてしまうのが思春期。思春期のささくれた心をすごくしっかり描いていると思うので、青春小説として完璧なんじゃないかと思う。
A:すごく純粋ですもんね。肉欲みたいなものを嫌う。推しに対しても疚しい気持ちを抱かない。
E:だから、会話はするけどまったく心は通っていない友達(成美)と対峙させている。その友達は推しと繋がろうとしていて、実際に繋がったと自慢してくる。
A:結婚したいとか手を触れたいとか思っていない。
E:そういうものじゃないんだ、と。俗世じゃない。推し活はきらきらした存在を見るための信仰なんだ、ときっちり書いている。ただ、私が現代の推し活文化にいまいち馴染めないというか、ちょっと危機感を抱くのは、それって主体性の放棄なんじゃないかと思うから。
H:でも、主婦で子どもがいるけど追っかけしている、という人はいっぱいいる。主体性の放棄というより、生活に夢や潤いをもたらすためのものでは。
E:その程度で留まっていればいいんですけどね。
A:主婦の場合と、作中のあかりさんの場合はちょっと違うかもしれませんね。
D:主婦は食べ物を削って推しに入れ揚げていないし。
E:逆に推し活の邪魔になるから、煩わしい家庭を持ちたくないという人もいる。そうなってしまうと人生の主客が転倒してしまう。ある意味では宗教の信者のように、自分の生活の潤いみたいなものをすべて投げ打って、推しに注いでいく。
D:若い人たちの危うさですよね。
E:だから、一瞬の純粋性を、生活のすべてを投げ打ってまで追い求める必要があるのか、すごく疑問に思ってて。
明確に書いてはいないけど主人公には摂食障害もあって、食べ物を戻したりしている。美味しい、という感想が出てこない。でも人間、食べたら美味しいんですよ。この作品はエッジを効かすために家庭のささやかな喜びみたいなものはすべて捨象してしまっているんですけど、現実にはありますよね、どんな些細なことであれ。読んでいて思ったのは、ただの日常って本当にこんなに凄惨なものなのかっていう。みんなただの日常がいやだから夢の世界に逃げ込もうとするんだけど、若い人が好むアニメや漫画、若い人自身の創作によくあるように日常って凄惨で厭わしいものなんだろうか? って、私なんかは思っちゃうんですよね。コンビニのお菓子だって美味しいし(笑)。
H:小さいときから食事って美味しかったですか?
E:美味しかったですね。
H:そうなんだ。小さいときって味がわからなかった。

【参加者それぞれの解釈】
C:Eさんは距離を取って読んだというけど、私は読んでいて主人公・あかりさんになりきってしまった。自分があかりさんの状態で読むと、定食屋で働く描写はすごいと思った。それから推しのマンションまで行くシーン。道に迷ったりバスも乗り間違えたり、帰りも同じようになってしまって、朝出たのに戻ってきたのは14時。発達障害と書かないで、あかりさんはこういう場合こういう生きづらさを感じると、ここまでかというくらい緻密に書いている。だからあかりさんはそう思うだろうなと納得する。
D:いろんな症状の人がいるから生きづらいと思う。
C:そういう人がこういう場にいたら生きづらさを感じるだろうなということを、あかりさんを描くことによって私たちに示している。それはある意味で成功しているのでは。
H:私は、Cさんの「寂しい気持ちになった」とは正反対で、この作品に希望を見出した。
私自身、仕事や介護、家事に疲れて全然動けなくなったときは何もできないけれど、あかりさんは物を拾って片付けている。いくところまで追いつめられているのに部屋を片付けているところに希望が見えた。人によって受け取り方が違うんだと改めて思った。
C:「生きていたら、老廃物のように溜まっていった」なので希望ないですよ。
H:老廃物が溜まるというのは生きているってこと。だから私は頑張ろうという決意じゃないですか。「生きていたら、あたしの家が壊れていった」って、それは祖母の家。自分の家じゃない。人から与えられたものは壊れていく。自分の力で掴んでいないから。
C:自分の存在自体が社会的に無駄で、生きていることで社会を壊す象徴として書いているのかなと思った。
E:特性などのせいで、ただ生きているだけで関係性を壊してしまう、という。
H:私はそうは思わなくて、自分から掴んでいかない限り大人にはなれない、と受け取った。祖母の家は主人公の家ではない。自分が自立して部屋を借りなきゃ。
A:その意味では「あたしの家」じゃないですね。自分の居場所はむしろ携帯の中の四角い場所だったりする。
H:私がこの作品を読んで若い人がどう感じるか気になるのは、人から与えられたものって薄っぺらいんじゃないか、って思ったから。自分から掴んでいかない限りはどこにいても自分の物ではないから、という感覚で読んだ。
だからすごく疲れているのに自分の手で物を片付けるのはこの子の出発点だと思った。ここからこの子はスタートするんだと捉えた。
彼女は自分がこういう人間なんだと、最後のほうでは理解している。だから、こうやって這い蹲って生きていくんだって希望に見えた。
E:ネットで見た意見だが……推しのアイドルがアイドルをやめて人になった。だからそれに合わせて主人公もただの推し活者じゃなくて人になろうとした。人になったアイドルを推し続けるために自分も人になるという究極の推し活だ、という意見があった。
ある意味で人になろうという出発点というふうに取れる。
H:だから私は拍手して終わった。頑張れよ、って。
E:村田沙耶香コンビニ人間』の話があったけど、あの作品の主人公もコンビニという修道院に身を捧げるシスター。でも途中で出てきた変な男と偽装交際みたいなことをして「人間のふり」を始める。でも結局それができなくて修道院(=コンビニ)に入り直す。結局、人になろうとしてできなかった究極のカタストロフ。日常とか現実とか人間性を否定してコンビニに突入する、ある意味決定的な最後を書いており、その点『コンビニ人間』のほうが優れている。『推し、燃ゆ』は、コンビニ人間でいうとまだ中盤とも言える。
H:私には、自分の居場所を掴んで、自分と言うものを理解して、これから苦労するだろうけれど生きていく、っていう決意表明に思えた。
E:あの状態から何の助けもなく生きていくのは相当難しいですよ。
H:何とかなるよ、若いから。
人によって捉え方が違うんだって、すごくびっくりした。
C:私もびっくりした。希望が見えたっていうのは。
H:すごく見えた。私はあまり発達障害というのを意識して読んでないんです。
C:私も読んでいるときは発達障害だと思わずに読んだ。あとで新聞の連載を読んで「これか」と思って。
Hさんはお姉さん(主人公・あかりの姉、ひかり)のことはどう思う? できたお姉さんですよね。
H:(あかりの)唯一の理解者みたいな。
C:私はこの存在がすごくいいなと思った。
H:そうですよね。全然何もなかったら本当に追い込まれちゃうけど。
C:きっとお姉さんが世話するんじゃないかな、あかりちゃんを。
H:鬱症状のある20代の方が、この作品のラストで希望を感じて「生きていこう」と思った、と仰って。不安定でも明日に向けて生きていこう、という終わり方をしているのかな。

【表現について】
E:これは身体感覚の描写が非常に優れていて、優れているゆえに作品のテーマと微妙にミスマッチ。肉を厭う、骨だけになりたいという身体感覚は世俗的なものだが耽美に書かれていて。スクール水着を着ている同級生が「アシカやイルカやシャチを思わせる」とか、わりとおかしみのある描写だし、身体感覚好きじゃん、嘘つくな、って思って(笑)
H:でも身体感覚、内臓感覚的なものをばんばん書いている本って今まで読んだことなくて。だからすごいなって思った。「焦りばかりが思考に流れ込んで乳化するみたいに濁っていく。」って何それ! って。すごい書き方。描写が全然違う。
C:わからなかったのが、バイトのシーン「ブレーカーが落ちるみたいになって」。
E:「頭が真っ白になる」って表現があるけど、逆に真っ暗になっちゃうんですね。
C:もうひとつわからなかったのが「解釈」。
E:これは主人公が推しの言葉を教典のように捉えている表れ。推しの表面的な言葉から真意を読み取らなくてはならない。だから常に解釈してるんです。推しは基本的に素直な表現をしない人なので、そこから読み取れる本心を考える。言い方は悪いけれど、教祖様の言葉を「こう言っているけど、本当はこんな意味なんだよ」と解釈している。
H:前のめりに深みにハマる人の心理を調べてみたんだけど、「周りが見えなくなりがち」。改善法は「メタ認知を鍛える」「客観的に見つめる癖をつける」とあって。でも物を書くときって絶対客観的ですよね?
A:そうでもないんじゃないかな。
D:場合による。
H:あとハマりやすいタイプは「ストレス解消が上手くない人」「深夜までゲームをしたり、整理整頓が苦手で部屋が散らかっている人」。散らかっていると自分のコントロールがしにくくなるそう。集中したいときは部屋を片付けろというけど、それができない人。あと「周りの意見に左右されやすい人」「一人を好む人」。そういう人はリスクが高いみたい。一人を好む人は鏡を置くだけでも効果があるって書いてあった。
E:ある意味ではメタ認知的にこの小説を作ったと言えますね。

【実際の症状を作品に書くとき】
D:例えば発達障害を抱えている主人公を書こうとしたときに調べるじゃないですか。調べて、(書いたものと)辻褄が合わないことがあったら、どの程度許容しますか? この設定としてこの場面がほしい、というときがある。矛盾している……でも人間ってそんなに典型的でもないし。
H:『推し、燃ゆ』の中に発達障害っていう言葉は出てますか?
D:出てこないです。
E:ぼかしてるんです。
D:設定すると制約がかかってくる。(この作品では)例えば漢字が書けない。漢字は書けないけど理路整然と文章は書ける。学習障害があるのにこういう文章を書けるわけがないとか、その辺りの制約。
A:整合性ばかり求めてもつまらない。
H:言葉を出しちゃったら傷つく人がいる。だから言葉を出さずに遠回しに書いてるな、と。
E:批判も受けやすくなりますしね。実際、当事者の声もいくつかあった。
D:やっぱりこんなことはあるとか、ないとかですか。それを覚悟で書かないといけないのかな。
A:人によって症状は多岐にわたるし。
D:どこまで整合性を持たせるのか難しい。
A:宇佐見りんさんはものすごく勉強している。その上で形を崩している。知っていて崩すのと、知らないで崩すのは違う。知っていて崩すのはいいのでは。知らずに書くのとは温度が違う。
D:主人公は自分ではないので、こういう設定にしようとか、こういう人にしようとか、考えて人物を作るけれど、そのときに、こんなことできっこない、というのを書いていいのか悪いのか。
H:広い読者の中には発達障害と思って読まない人もいるから、決めつけないほうがいいかも。
A:発達障害だと病名は出していないけど、少なくとも病んでいる。「病気を言い訳にしているのがこの小説の欠点だ」と言う批評家もいる。病気を出さずに、推し活の苦しさや現代の生きづらさを普遍的に書いたほうがよかったんじゃないか、と。ぎりぎり病名を出さずぼかしているところはある。ずるいといえばずるい。
H:そのほうが受け取り方が広がっていいと思う。
A:発達障害に関する本ではないですからね。
D:ただ自分で設定したときに(書くのが)難しい。
E:実際ここまでちゃんと診断が出ているんだとすると、親として真面目に医療や福祉に繋がろうとしますよね。
D:実際問題、難しいです。母親が(子どもの発達障害を)認められたとしても、ネックは父親。
A:昔はネガティブに捉えられていたけど、今は弁護士や医者でも発達障害です、と言う人が出てきているし、希望がある。
D:ただ、本人がしんどいのに親が認めないのはかわいそう。

【参加者の推し】
H:私自身は推したことがない。周りには追っかけとかしている人がいるけど、私は一つもなくて。
B:中学や高校のとき、下敷きに挟んだりしませんでしたか?
H:なんにもない。
B:私はクール・ファイブが好きでした(笑)。
A:渋い!(笑)
一同:(笑)
B:あのときの自分と、『推し、燃ゆ』の、推しに対する熱量は違う。病的にもたれかからないと生きられないのが現代なんだ、と。
A:逆に切実なものを感じますね
D:皆さんの推しは何ですかって訊きたかったんです。
A:私は推しというか、ミスチルはずっと好きでしたね。
H:私が中学生のときはグループ・サウンズの絶頂期だからジュリーとか人気で。私は東京に住んでいたんだけど、学校の先生が各家庭に「コンサートに行かないように」って呼びかけていた。私自身は(ジュリーが)きれいだなとは思ってたけど、だからどうだっていうのは全然。
推し、ありましたか?
E:ギャグ漫画の好きなキャラクターの絵を自分で描いていたくらいかな。
D:私は今、藤井風に凝っています(笑)。
A:今ほど二次元とかブラウン管の向こうに推しがいるっている時代ではない。
B:Aさんも大人になってからですもんね、ミスチルだと。
C:私も別になかったんじゃないかな。青春時代は剣道に打ち込んでいて、それでくたくたになっていた。朝も夜も練習して。
D:今ほど情報量もないですよね。
C:それもある。下宿していたし、テレビも観なかったし、ラジオも聴かなかった。
D:私たちの世代も、『明星』とか『平凡』とか買わないと情報がなかったし、買うお金もなかったし。

「出身国」(『出身国』より)ドミトリイ・バーキン、秋草俊一郎訳(群像社ライブラリー)

Zoom読書会 2022.10.29
【テキスト】「出身国」(『出身国』より)
      ドミトリイ・バーキン、秋草俊一郎訳(群像社ライブラリー)
【参加人数】出席7名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者H)>
◆私自身が知っていたわけではなく、たまたま知り合いからいただいた本。その知り合いも、読後に感じるものはあったが言語化できなかったそうで、私の感想を聞きたいとのことだった。しかし私も読んで内容を把握できなかった。今回読み返しても漠然としかわからなかったので、皆さんの感想や解釈を伺いたい。
◆著者はウクライナに生まれロシアに住んでいた。現在、ロシアのウクライナ侵攻が行われている中、文化や情勢を越えて、人間同士として知り合う機会にもなるかなと思う。

<参加者A>
◆一応、全作品読んだがかなり苦戦した。
読みながら、以前フォークナーで苦戦したことを思い出した。訳者あとがきに、著者が影響を受けた作家としてフォークナーの名前もあったので「お」と思ったのだが、影響を受けたからというより、「一文の息が長く(中略)関係詞節や副詞節の発達したロシア語の特性」(訳者あとがきより)が大きいのではと考え直した。言語の特性として一文が長くて、主語がわからなくなったりするのだろうか、と。文章の意味を噛み砕くのに気を取られてしまった。
「出身国」は、なぜマリヤが男を連れ帰ってきたのか、家が寒くなるというのは比喩か……など腑に落ちなかったが、受けていないはずの弾丸が男の体からでてきたところで、これは現実的な話ではないんだとわかった。マリヤは“聖母マリア”だろうか? 「測量技師」に出てくるマリヤとは別人だろう。
ほか、“死んだ画家パール”は、この短編集の他の作品にも出てくる(他の作品では死んでおらず、生きているとき、老いたときが描かれている)。繋がりがわからないけれど、同じ世界観なのだろうか。
「出身国」以外で印象に残ったのは「奈落に落ちて」の構成。同じ場面を異なる人物の視点で描いていて惹きつけられた。町の人たちが口々に言う台詞も面白い。何より、「おとりなさいな」と言う女性の存在が魅力的だった。
「根と的」「測量技師」は、テーマが掴みやすく(本当に掴めているかはわからないが)比較的読みやすかった。「根と的」は兄と弟の憎悪、「測量技師」は家族を支配しようとする父親の話だととったので、わかりやすかったのかも。この2作は、読み方によってはロシアと旧ソ連の国々の関係を表しているような気がした。
◆少し前、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』を読む機会があり独ソ戦の雰囲気をイメージしやすかった。

<参加者B>
◆今回、この作家のことを初めて知った。表題作「出身国」は歯が立たなかった。他の作品は物語として理解できて面白かった。
「測量技師」。“子供らみなの母”はウクライナだと思って読んだ。測量技師の男はロシア。ロシアがウクライナをみんなの母親、みんなに奉仕させるような扱いをした。そう読むと、現ロシア大統領が言ってもおかしくない言葉がたくさん出てくる。
・P166、後ろから4行目「国家とは人間の生活とは無縁で、ただ自然の力のようなものでしかなく(後略)」
書き手は、私たち(日本人)が国に守られている感覚とは違い、国家を当てにしていないのだと思った。
・P171の2行目「地球の崩壊だけが最終的な死を意味する」は、核兵器を連想させる。
著者が住んでいる世界、国と国との関係を、家庭に置き換えていると感じた。
ジョージ・オーウェル『動物農場』では社会主義世界を農園に例えている。「測量技師」ではロシアとウクライナを作品にしたのだと思った。
◆小説の作り方として新鮮。他の作品も、それぞれ作り方が違っていて才能を感じた。

<参加者C>
◆結構苦戦した。文体が支離滅裂で読みにくい。「ああ、文学だな」と思った。エンタメ性がない。私の中で「文学」とは「エンタメ性の欠如」なので。
◆ロシアらしいと感じた。私はそんなにロシア文学に触れていないが。
◆寓話なのかなと思った。寓意は何なのか、見えないしとっつきにくい。90年代のロシア社会に生きている人なら、ああこうだな、と受け入れられるのかな。
◆射撃が得意で、死の予感に怯え、死にそうになる男。そんな男と夫婦になる女。90年代のロシア人にはヒットするキャラ造形なのだろうか。
◆マッチョな雰囲気、破滅的な状況、最後に確信を得る=ソ連崩壊、冷戦終結で、このあとどう生きるか……と読めるが、実際はもっと込み入っている。
内的弱みを周りに見せないスラブ的ハードボイルド感が面白かった。
◆P14、死んだ男の服を着るときの台詞が面白かった。
「武器」。まともに読んだのは「出身国」「武器」で、「武器」のほうが好き。社会を受け入れがたい人の話。社会で生きると真綿で締められる、みたいなことを物理的なものとして描いている。コアな部分を守るところもわかる。同じような感覚を抱いている人を救うものになる。いい小説だった。

<参加者D>
◆こういう、改行がなく暗い雰囲気の作品は嫌いではない。
◆(ロシア文学の)ドストエフスキーは大学のころから好きで、わりと読んできた。ドストエフスキーの作品には闇の部分もあるが、宗教的な光や救いがある。しかし、今回のテキストには救いがない。この閉塞感やしんどさはどこから来るのだろう。ロシアウクライナに詳しくないが、戦争の歴史からだろうか。一読しただけではわからない。ことさら難解に考える必要はなく、苦悩はシンプルに戦争の歴史と捉えていいのでは。

<参加者E>
◆難解というかわかりにくい。読み進める中で「今の文はどういう意味?」と戻らなければならなかった。
私は、ストーリーラインを追って雰囲気を掴むという読書スタイルなのだが、この作品は雰囲気を掴めなかったので、一文一文咀嚼しなくてはならなかった。
◆でも感覚的に好き。閉塞感、圧迫感、非現実的なもの、暗さ、重さ、救いのなさ、希望のなさ……そういったものが私に合う。だから好き。
◆(「出身国」の)マリヤが好き。彼女は訳わからないんだけど。駅で男を拾ってきて、きれいな服を着せて……“結婚”が持つ一般的な意味とは違って、とにかく世話をする。猫を拾ってきて世話をするような母性を感じる。家に入れたら“家族”。原始的な、女性に備わった感情、と言ったら差別かもしれないが。だから“マリヤ”(聖母)なのかな。
◆戦争の経験を持つ男。生きた鼠を撃って生き甲斐を感じる。狂気じみたところが好き。異常な感覚がいい。
◆滅びゆく一族と発展していく一族の境にいると確信する。狂気的でいい。
◆心臓に弾丸……ファンタジーじゃないですよね。私は比喩やファンタジーだとは感じなかった。皆さん言語化しにくいと仰っていたが、私もそう思う。現実でもない、ファンタジーでもない、比喩でもない。自分の中に、そういう異物がエイリアンとして入っていても違和感がない。
◆冷え冷えとしている。寂れ感と、寒さと、変人と、狂気と、異常さと、ちょっと歪んだ母性と。醸し出すすべてが好み。難解だけれど好き。

<参加者F>
◆ありきたりの作品ではない。既視感がまったくない。それだけで特別なものがありそうと思わせる作り方。それがいいのかわからないけれど。
◆難解は難解。難解なのは構わないけれど、どれか一つにしてほしい(この作者の作品に慣れると難解でもないのかもしれないが)。
・まず文章が難解。翻訳は結構上手いと思う。慣れたら多少わかりやすくなるかもしれないが、取っ付きが難解。
・次に、ストーリーが難解。この人たちは何なんだ、と。何をしているのか? どういう展開になっているのか? それを“取っ付きにくい”という言葉にしておく。
・そして、登場人物の考え方が難解。ロシアやウクライナの人ならわかるかもしれないが。
カフカ『変身』やガルシア・マルケス百年の孤独』のように、身近になってくると難解さがなくなってくるが、身近になっていない段階で与えられたからわかりにくい。
◆中身は、文章を咀嚼しながら読んだらだめ。分析しながら読んだらわからなくなる。一気にさらっと読んでしまわないと。(一文が)長い文章は一気に読んだほうがいい。
◆ロシアやウクライナを念頭に置きがちだが、作品だけで考えたほうがいい。今起こっている戦争の状況に当てはめていいのか? それによって考え方が違うかも。
◆マリヤはなぜこの男を拾ってきたのか。P10「マリヤの母はわからずじまいだったが」……こう書いているということは駅で何かがあった(書いていないが)。同じP10に、やらかしかねないという意味の文章があったので、いきなり連れてきたと読んでしまいがちだが、理由がある。それは読者が考えなさい、ということ。その省略が、伝わってくるところと伝わってこないところがある。
◆ラスト、「うちに帰ります」とは、マリヤのもとへ帰るということ。マリヤは男を理解している。マリヤの母親は男を理解していないが、マリヤは理解している。
◆男は血統に執着してる。その血統書は本物なのか? 私は作為的な系図のように読んでしまう。七代前の祖先から弾丸を受け継いだというとファンタジーになるが、現実に弾丸を受けたのでは?
血統と思い込んでいるだけなのかも。「すべてがわかったよ」。自分の考えが妄想だとわかってマリヤのもとに帰る――とも読める。
◆作品との付き合い方に慣れれば読めるのでは。「兎眼」はわかりやすい。嫌っている軍隊の同僚を殴って懲罰房に入れられるが、その同僚が轢かれそうになったら助けてやる。文章も込み入っておらず、非常に読みやすい。
◆全部読めなかったが、全作品読めばこの作者にもうちょっと慣れていけたかも。もう少しチャレンジしてみたい。サボっていたのを反省している。

<参加者G(提出の感想)>
〈表題作について〉 
「過去に存在した人間」が時を越えてふたたび世にあらわれる、という筋書きは『ドグラ・マグラ』のようでおもしろかった。己の血統書を後生大事に持ち歩き、「じぶんとは何か」とつねに黙考している主人公は、神をうしなった現代人の根源的不安に深く通じるものがあり、人間の普遍性をするどく貫いていると感じた。作者のたましいの叫びがダイレクトに伝わってきて、好きな作品。住んでいる家を冷気で満たす、という主人公にはマジックレアリズムが感じられて高揚。結婚相手の娘は気づかず、その母は寒さに耐えきれず家を出る、という展開はシュールレアリスム性も宿し、暗喩としてもすばらしい。マリヤのあまりの視野狭窄と夢想傾向、病的な執着質と狂乱的な心の飢えは魅力的。七つの白い歯と「イデヤ」の髪の毛(失った本質)を持ち歩き、環境の秩序にきびしく、射撃が得意という主人公と合わせて、キャラクターははっきりしていてイメージしやすい。同居する娘にたいして何も言えない母親像も印象深く、彼女の夢「雌牛が死ぬ」と主人公の夢「黒馬が駆ける」の対比はみごとと思った。主人公を苛ませていた耳鳴りは、内側から湧き上がってくる、ことばにならない衝動の象徴だったのだろうか。主人公はそれを「心臓の呻り」と表現したが、その心臓に鉛の弾が食い込んでいたと明かされるラストは肌がふるえた。彼は「鉛玉を抱えて生きてきたもの」として、ようやくじぶんが誰かを知る。いや、そのための足掛かりを得た、というべきか。「じぶんとは何か」についての確信ではなく、その方向性はみえたということ。七代前の先祖のからだを持って生まれた彼からは、けっきょく、個というものに大した意味も価値もないのだ、という切ない命題が引き出されてしまう。霧がかったような曖昧な作品集だが、この作品と「武器」からは作者の鮮明な心の裡がのぞけた気がする。

〈全体について〉
 自閉的で奇異な文章表現が特徴的な短編集。神経症的でとにかくミクロな世界観。つめたく荒廃した作風および物語は、重たい霧に閉ざされていて輪郭がつかみにくい。全体に共通したテーマは自己不在ゆえの存在証明という印象。作者は作品を描くことで自己を模索しているのかもしれない。「どこにもいないじぶん」を対象に「じぶんとは何か」と問いかけつづけているイメージ。だからつかみにくいのだろうか。作者の自己不在感はもともとの気質、あるいは器質と、戦争という不安定で荒廃した環境が形成に大きく関与したものと考えられる。離人症ではあるかもしれないが境界性障害の色合いはうすいイメージ。自閉症気味ではあるかもしれないが、からだはきっと丈夫だろう。「戦争」から連想する作家アゴタ・クリストフのような危うさや硬質な透度は感じられなかったし、ビアスのように万人に読まれるような昇華力もない。一文あたりの文字量と魔術的な世界観の反映から『精霊たちの家』のイサベルを思い浮かべたが、彼女のような社会性もとぼしい。色彩や音楽も感じられなかった。灰色で無味乾燥の荒寥地帯、とのイメージが強い。作品はとにかく個人的で作者はとにかく渇いている。うるおいは一切感じられない。一部を除き、物語というよりは記録という印象。ただ、それをあらわす言葉が文学的なだけ、ともいえるかもしれない。魔術的な雰囲気も持つが、それは作者の好みが反映されただけ、という程度。作品全体に通底しているのはどこまでも現実的・剛直で荒々しい男性性。冷徹で厳格な分断が目立ち、視野や世界観はしごく狭い。まるで奥深い谷のようにどこまでも陰鬱で個人的。かといって、哲学や宗教など「共通した」認識や価値観をいしずえにしているわけでもなく、心理学的見地から客観視しているわけでもなく、正直、「どこ」に心をひっかけて読んでいいのか分からなくなる。その「不在感」こそが、おそらく作者の文学テーマであり、作品全体のテーマなのだろうが、それにしたって他者のいばしょが狭すぎる。人生の普遍的知恵や訓戒にもとぼしく、さらには物語としての立体性にも欠けたうえ寓意性も不完全、表題作とつづく二編はともかく、他の作品は私小説特有のたましいの叫びを宿しておらず、ただただ読者を迷子にしやすい本、と呼ぶことはできると思う。個人的に、作品集全体として共鳴できたのは、作者そのひとの自己不在感と詩人性の二点だけだった。感性のままに特異な文章を用いる作家は好き。奇をてらったり装飾に凝ろうとした印象はうすく、ただ、感じたものを感じたままに描いたのだろう。ムージルのように読んでいて無条件に心がおどる文章はまさに本ならではの楽しみのひとつ。閉塞的で狭量、やや独善的なきらいもあるが、この作家の場合、心の空白を表現しようとした結果、密な文章が生まれたのではないかと考えると胸が痛む。ノイズが多い文体との印象はぬぐい切れないが、だからこその滋味を感じることはできる。少なくとも、ひとりの人間が生きた記録にはなるだろう。ありのままの自分とその世界観を実直に、真摯に表現しようとした作家と呼べるだろうと思う。どこまでも「個人的な」短編集。

〈短編集として〉
 短編集の流れは整理ができているという印象を持った。
「出身国」→自己の存在を直線的にうったえる。(自己発露)
「葉」→自己認知欲求のようなものがうかがえる。自伝的な印象が強かった。(内省、回想)
タイトルの「葉」はじぶんという樹が宿したひとひらの記憶、という印象を持った。「葉が落ちる音さえひろえる聴力」「ずっと集めていた葉に火をつける」などの描写は作者の心情を語るものとして奥深い。ラスト、白煙となって空にのぼった「葉」たちからは虚無感や無常観のようなものがうかがえて印象的。
「武器」→心の最深部、もっとも傷つきやすいもの、守りたいものを言及。(自己沈潜)
「奈落におちて」「兎眼」→戦争関連。おそらく自身の体験談がわずかに反映。(自己の精神構造を解剖しようとした試みか)
「根と的」「測量技師」→作者自身からやや距離を置いた話、という印象。聞き語りか、習作か、自己表現の一環なのか。己の気質に共鳴する部分があったのだろう。(自己というものを外側から表現)「測量技師」のラストが表現しているもの(自分の両腕が銃を差し伸べる)は、なけなしの良心だったか諦観だったか、それとも不安だったのか。

〈その他〉
・孤独な少年と知恵者の老婆がたびたび登場するのは印象深い。両親の影はうすい。作者は愛に飢えていたのだろうか。それとも生来の器質として、愛を知ることができなかったのだろうか。
・夢、とりわけ動物の夢が作品を影から支えているところも興深かった。夢はまた、作者の心を支え、なぐさめているものなのかもしれない。作者の隠された欲求や内なるゆたかな感情表現を想像。
・「女」がほとんど前に出てこない作風は特徴的。活発に動きまわるのは表題作と「葉」くらい。戦争体験という男性社会が関係しているのだろうか。単にコミュニケーション障害なだけなのか。
・地の文に会話を織りこむ手法は好み。「他人との交流」も過去のもの(作品化)となってしまえば、作者の内なるカオスに内包されるということか。同じ意味の文章をやや表現を変えて二度つづけてくり返すのは心地いい倒錯感をいだけて好き。主人公の内的世界と外的世界が平行して混ざり合っている印象。(P94 これはあの女じゃない。これがあの女だ。(中略)今、女は言う――こっちに来て。女は言った。「こっちに来て」)
・奇異で独特の文体、あるいは世界観というのは創作者にとって絶大な武器となるだろうが、しかし用い方はひじょうにむずかしいと痛感。たましいがこもった私小説なら読者の胸にひびきやすいが、それを他人の話、聞き語り、客観視点の創作に用いてしまうとかなり味気なく、ただバランスが悪いだけのように感じてしまった。なんというか、不自然。機能とそれに見合った装飾が合っていない。物語も文章表現もどっちつかずでどちらも頭に入らない。せっかくのすてきな表現も靄がかって心に響きにくい。何か共通したテーマ、哲学なり宗教なり社会問題なり音楽なり、人生や人間としての普遍性を礎石にすれば読者にも読みどころはあるだろう、とは思う。もしくは寓意性を高めるか。物語の筋としても特に風変りなことはなく、悪くいえばよくある話で、「あるニュース」をただ独自の言語であらわしただけ、とも取れてしまう。奇異な文体を用いるのなら、じぶんのことか、魔術的なおはなしか、もしくは寓話か、とつめたく限定してしまう。じぶんの武器を殺すような後半の作品は個人的にかなり残念で仕方なかった。

A:いつも肯定的なGさんが今回厳しかったですね。
E:寓話的なところや観念的なところはGさんの作品にもある。理解できるからこそ厳しくなるのでは。

<参加者H(推薦者)>
◆総評として、破滅的な人物で統一された物語。傾向として、男はトラウマや破滅。女性は快楽、性……本来命を繋ぐ役割なのに破滅に向かっている。
◆皆さん、理解できない、ぴんとこないと仰ったが、私としては主観的で視野狭窄的な部分にぴんとくる。頑固というか、いじけてるというか、そこにシンパシーを感じる。

<フリートーク
【物語のつくりについて】
E:視野狭窄。この言葉なんだな、私が探していたの。一点しか見ていなくて、すごく近づいたらぼやける。ぼやけるところを観念的に捉えて表現している。それで視野狭窄になるんだなと、GさんとHさんの感想をお聞きして思った。
H:多くの作品では、人が別の人と関わって傾向が変わったというのがあるが、バーキンはそれがない。自分は自分。葛藤より拒絶が強い。
E:人同士が関わっているのではなく(人間ドラマではない)、お互い、冷たい氷に囲まれて孤立している。Gさんは自己不在感と仰っていた。
H:自己不在感――ぴんとくる。自分の意志ではなく、何かのトラウマに動かされている。
「武器」。武器が好きというより、(敵に)怯えている。そこに自己不在感を感じた。
E:「出身国」でも、自分の血統書を持ち歩いていた男が、心臓の弾丸が見つかってから初めて、自分が何なのかわかった。自分を探していた。
F:私の解釈は少し違う。男とマリヤは理解しあっている。孤立した状況を描いているのではない。駅で何かがあった。マリヤが男を理解していることは、彼女の母親との対比において表されている。マリヤは没交渉なのではなく、男を連れ帰っている。それを想像すれば難解ではない。
最後、すべてがわかって「うちに帰るんだ」。この場面を読んで、男は妄想していたんだと思った。七代前の祖先の受けた銃弾が体から出てくるなどありえない。(血統が)男の妄想だとしたら、それは男が受けた弾丸ということになる。血統は、男が考えた設定だと読み解くほうが自然か。
心臓の呻りは、体調の不安定さを表す。射撃場で働いて安定していたが倒れた……唐突ではなく、説明がつく流れ。
H:確かに、倒れたのも、くも膜下出血など脳の病気であるかのように読み取れる描写もあった。物語としてのセオリーを前提に置くと解釈が分かれる。男の走馬灯で、ずっと夢だという解釈もできる。
F:そういうふうなつくりが面白いといえば面白い。誰が読んでも同じように読めるより、解釈に幅があって読み応えがある感じがするのはそこなのかも。

【それぞれが象徴するものについて】
C:皆さん、陰鬱と仰っていたが、「出身国」の終わり方は希望があると思った。確信を得るためなら、ぶっ倒れてもいい。
E:「出身国」、いい終わり方ですよ。
D:爽やかな終わり方。自国のアイデンティティを取り戻す。
マリヤは聖母マリア=母なるもの、イデヤはプラトンイデア論で説いているイデア
この主人公は、マリヤも義母も目に入っていない。精神的な理念、真実が大切。あるいは、希望のない、光のないほうへ行ったほうが、主人公は幸せなのかなと思って。
E:この主人公、幸せなのか不幸なのか、どっちなのかな。幸せとか不幸とか考えてないように見える。
F:主人公はマリヤに連れて来られた。嫌々いるわけではなく。伝わるものがあったのでは。マリヤは主人公を結構理解している。母が巾着を取り上げなきゃと言ったとき、個人の自由だと反論した。ここだけ読んでも、マリヤが彼を理解していることがわかる。マリヤが自分を理解していると彼は気づいている。だから家に来て、結婚までしている。
E:マリヤの母は、男がバターを持つと固くなるのを見ている。マリヤは男が冷たいとは思っていない。
F:「冷たい」と感じるのは男を理解していないということ。母親との対比で、マリヤは男を理解しているのがわかる。
E:「出身国」は母性がテーマかな。私は10年以上前、息子を嫁にとられた女が、犬に母性を注ぐ作品を書いたことがある。母性はそんなに美しいものじゃない。母性は本能。私はマリヤから愛や理解は感じない。
H:マリヤの母性は「旦那の趣味がパチンコでもいい」みたいな感じか。
E:だから母性を注ぐ対象は犬でもいい。
H:母性というより受容かな。
F:私は母性というより理解だと思う。息子の生き方を理解してやるのは母性ではない。
歯を持っていてもいい。気にするのはおかしい、と母に言う。このように一場面、マリヤが男を理解しているシーンを書いておけば、読者がそこを読み解ける。
B:私も母性より理解だと感じた。マリヤは男を理解している。
でも、何を書いているのかわからなかった。何がテーマなのか、何を書こうとしているのか。
F:訳のわからない血統に執着していた男が、すべて(妄想だったと)わかって、そこから解放される。そう読めば意図がわかる。
B:男は巾着袋を持って「うちに帰ります」と言う。書き手は何を伝えたかったのか?
F:テレビドラマのように「マリヤのもとに帰ります」と書けないので、近いことを書いているのでは。自分を理解してくれる人が、少なくとも一人はいる。そこまで骨組みを言うとださいので、はっきり書けない—―意地の悪い見方だが。
D:私は「母性」で納得がいく。マリヤは母性の象徴。最後は胎内回帰願望。
F:そうかも。はっきり書いてしまうとださいので、こういう書き方になっている、と。
E:アイデンティティである髪や歯は守っているけど、心臓の弾丸ではっきりしたので、マリヤのもとへ帰るわけじゃないですよね。
B:帰るのは出身国。
F:出身国より、血統、出自とか、そんなイメージ。タイトルに出身国とあるから別のイメージをしてしまうが。タイトルに影響されすぎていませんか。男は血統を大事にしていたわけではない。滅びゆく一族に戻りたいとは思わない。
B:著者が生まれたウクライナについて調べた。領土を奪われて、一番多いときは13に分けられていた。「ウクライナ」とは「辺境」という意味。国がバラバラになった歴史を書き記す活動が行われていた。1991年にやっと独立した。そこに住んでいる人たちであれば、出自、出身国に強い想いを持っていて当たり前。奪ったり奪われたり、激しい歴史の中で、こういうものができるのか、と。
島国に住んでいる日本人にはわからない。日本人には書けないし、理解するのも難しい。そういう意味で新しかった。
F:歴史をどこからスタートさせるか。キエフ公国があって、モスクワ公国があって。キエフが辺境というのは今の考え方。
奪ったり奪われたりは、どこでも起こっている。それは日本だって一緒。人間の歴史は程度の差こそあれ同じなので、地方特有のものと考えていいのか。
物語の中で触れられていない以上、作品は作品として切り離したほうがいいのでは。

【フィルター越しに小説を読むことについて】
B:この作品の書き方が特異に見えた。自分が書く上で、読者から特異に見えるものは何だろうかと考えた。
F:読者にはそれぞれフィルターがある。でも読むときは、素面で読んでいいのでは。書くときはフィルターを外すことは難しいけれど、読むときは外したほうがいいと思う。
B:フィルター越しだと楽しめないですよね。
F:私は作品に書かれているものだけで読みたい。日々いろいろな情報が入ってくるけれどシャットアウトして。
B:最近、そういう気持ちを忘れているので、取り戻そうと思う。
E:フィルターありますよね。こんな感じか、とか。年を取ると経験則が働いてしまって。そうすると面白くなくなる。

【小説を聴くことについて】
E:一文一文を読み飛ばせなかったが、Fさんは大体の意味を取って読んだほうがいいと仰った。そんな気がする。咀嚼するのではなく、舌先で転がすのではなく。
F:朗読を聞いているような感じで読んでいくのはどうかな。後ろに戻れないから流れていく。文章の流れに乗っていける。自分自身が朗読をしているつもりで読む。わからなくても無視する。そうやって読み進めていく中で辻褄が合ってきたらラッキー。
E:味わうような文章ですよね。全体のカラーとか、そういうものを。いちいち分析的に読んでいたら、そんなアホな、となる。
A:私は無理かも。読むのと聴くのって、脳の使う場所が違うじゃないですか。口承文芸とかも好きだし、本当はできるようになりたいんだけど。
F:聴くのは右脳を使う。絵面として読む。訓練として、倍速で聴いてみるといいかも。
E:Kindleに読み上げ機能があるから使ってみては。
F:Wordにもありますね。