読書会LOG

R読書会/Zoom読書会

『推し、燃ゆ』宇佐見りん

R読書会 2022.11.12
【テキスト】『推し、燃ゆ』宇佐見りん(出版社の指定なし)
【参加人数】6名、感想提出2名(事前1名/後日1名)
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者H)>
◆R読書会に参加して初めての推薦。
◆小説学校の86歳の先生が「昔の作品はいいけれど最近はつまらない作品ばかりだ。でも『推し、燃ゆ』はすごくいいから読んでください」と仰ったので手に取った。実際に読んで、すごく衝撃を受けた。

<参加者A>
◆とてもいい作品を紹介してくださってありがとうございます。宇佐見りんさんの『くるまの娘』(『推し、燃ゆ』の次の作品)を読んで、面白い人だなと思っていたので、『推し、燃ゆ』を読むチャンスを与えていただいてよかった。
◆私も本当によく書けていると感心した。情報量が多いが、すべて1つのテーマに向かっており無駄がなく安定感がある。奇をてらわず淡々と描写している。例えば祭壇の様子、生活が荒れていく過程……。若いのにこれだけ書けて、この先どうなるのだろう。
◆私自身は推し活はしたことがないが、どちらかというとオタクに近いので、あかりの状態を異常とは感じずに共感できた。衝撃より共感が強い。推し活をしている人たちも同じ地平に繋がっている。
◆Cさんの事前レジュメに、悲しい気持ちになって払拭できなかったとあるが私もそう。出口がない。悲しくなるのもわかる。傷つきたくないから一方的な関係を大事にして、相互関係ではなく自分なりに解釈したものを発信する。リアルな交流はなく、殻の中で傷つかないようにしている。殻の中で肉を排除し、肉に対する嫌悪感が強まっていって(プールから上がってくる同級生がアシカやイルカやシャチに見える)、最終的には自分のこともできなくなってセルフネグレクトに至る。私も人のためにご飯を作るのに慣れてしまっているけれど、自分のためだけにご飯を作るのは面倒に思う。爪を切るとか、生活のごみを片付けるとか、自分のための仕事って案外重い。セルフネグレクトが究極の生活力の限界。最後に綿棒をぶちまけるのは、なんとも悲しい。四つん這いになって生きていく。肉が削ぎ落されて、骨と皮だけになった彼女はどうやって生きていくのか。
◆母親が冷たいですよね。これも作者の狙いなのかな。違和感を感じました。(作品において)ただのパーツでしかないというか。娘が骨と皮だけになって推しを推している、宗教に頼っているような状態になってしまい、高校も辞めて居場所がなくて。それに対して、こんなドライな対処しかしないのは現代を表しているのか? テーマではないので書かなかったのか?

<参加者B>
芥川賞の受賞が決まってすぐに読んだ。衝撃だった。書き始めから書き終わりまでの熱量の維持をすごく感じた。読み直して面白かったのが、「まざま座」とか、「ウンディーネの二枚舌」とか、「水平線に八重歯を喰い込ませて」とか、言葉の選び方が面白くて、突き放して作品を作っているんだなと思った。また、主人公のブログにコメントを寄せる人たちと「あたし」の持ちつ持たれつの関係がよく描かれているのを新しく感じた。
◆主人公の気持ちが盛り下がっていく様子がすごくうまく書けている。
◆バイト先での心理描写が見事。(作者は)実際に定食屋でのバイトを経験されたのかな。
◆年齢差を感じさせられた作品。今の私には自分を無にして推すものはない。その意味でも若い人ならではの感性・感覚だ。だから「あたし」の一人称が空回りして感じられる部分もあった。でも長さを感じさせず、話も破綻しておらず、若い作者だけれどさすがだと思った。
最後に散らす綿棒は白い骨のように感じた。祖母が亡くなって、祖母の家に一人で住むようになって……書き手はわざと(主人公と家族を)離したんだろうな。もしかすると死んでいく方向もあったが、這い蹲って綿棒を拾うシーンは、生きづらさの中でも生きていこうというのを感じた。

<参加者C>
[事前のレジュメより]
《読み終えて》
◇無性に寂しい気持ちになって、なかなか払拭できなかった。あかりはどうなるのだろう。腐ったカップ麺などが散らかる部屋で、埃にまみれて衰弱死してしまうのだろうか? 彼女は推し(上野真幸)と出会い、夢中になることができた。彼がいなかったら、彼女の人生はそれこそ真っ暗だった。
◇バイト先の様子や片付けができないなどなど……。主人公あかりは、明らかに発達障害と思われる。
 この作品は発達障害の少女が見た現代の世の中を描いた物語だ。異質な世界を独特な表現で描くので迫力がある。
・蝉が耳にでも入ったように騒がしかった。(学校でレポートを忘れた時の混乱ぶり)
・せわしなく動けばミスをするしそれをやめようとするとブレーカーが落ちるみたいになって……(バイト先の定食屋でパニックになった時)
・頭には常に靄がかかったようになり
・海水をたたえた洞窟に、ぼおと音が鳴り響くような気味の悪さがただよっていて(中略)胃をつつき回した。
・闇は生あたたかくて、腐ったにおいがした。
・生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。
・お骨をひろうみたいに丁寧に、自分が床に散らした綿棒をひろった。

《祖母と母親》
◇彼女たちの確執があるようだが、これが気になって仕方なかった。
「母は散々、祖母にうちの子じゃないと言われて育ってきたらしい。」
 母親も発達障害の症状があるのかもしれない。それで手に負えなくて祖母はこう言ったのじゃないか? 姉(ひかり)はあかりの苦しみを理解しようとしているが、母親は次女を重荷のように感じている。いや、そう描かれていると思った。母親の対応がもっと違っていれば、あかりがこんなに追い詰められなくてすんだのに、と思う。――あっ、うちで購読している朝刊が、八日から生活欄で発達障害の連載をはじめた。

[以下、読書会にてCさんの発言]
◆読まずに置いていたら妻が先に読んで「すごくいい。若いのに非常に描写力がある。これを読まないと損をする」と言われて読み始めた。
◆読み終わって、寂しいお話だなと思った。半日くらい何もしたくなくなって、ぼーっとしていました(笑)。
一同:(笑)
◆私が中学生のころの感覚と似ている。勉強ができなくて、数学や物理の板書がわかりかけたときに消される。だから勉強というと、きれいになった黒板のイメージしかない。あれを思い出して寂しくなった。劣等生の生きづらさ。
◆主人公は発達障害。病院で検査したとあった。両親は知っているが経済的援助だけで支援しない。とくに母が変。母も発達障害ではないかと思う。遺伝するので。
例えば、物の処理ができない、位置関係の理解が苦手、片付けができない、人との交わり方が非常に下手……。主人公も同時に二つ三つのことができない。バイト先で、たくさんの注文がくるとパニックになってしまう。
◆主人公の祖母が母にうちの子じゃないと言っていたのは、母も自分のことができない不器用な子だったからでは。それで突っ放し、今でも突っ放し……。母と祖母の関係、亡くなって病院に行くところでも変だと思う。
朝日新聞の連載『「ツレ」が発達障害 ふりまわされる、でも愛している』を読んで、やはり主人公は発達障害だと思った。発達障害の子を持つ親のネットワークがある。主人公の両親は(発達障害について)学んでいない。もし学んでいれば、追い込まれて食べ物も作らないようにはならなかったのでは。もう少し、自分の能力を発掘できていたのでは。
A:でもブログを書くのは上手い。
C:そういうのはできるんでしょうね。現代っ子だから。こういう世界を書けるのはすごい。私もびっくりした。
H:発達障害とか言われているけど、昔はそんなになかったと思う。
A:簡単にレッテルを貼りすぎるきらいもある。
C:昔は研究もそんなに進んでいなかった。30人に2人は発達障害だという。今は低学年には2人の先生がついている。
H:今はすぐ発達障害じゃないかと言われる。
C:学校の先生がすぐ疑いを持ってしまう。自分の指導の至らなさを棚に上げて。
H:今は病院で、こういうときはこうしたらいいとアドバイスをたくさんくれる。昔はそういうのがなかった。
A:あかりちゃん(主人公)のときはなかった。
C:でもこれリアルタイムですよね。
H:(主人公の)母や先生がそういう教育を受けていない。
E:アンテナがある人とない人がいますからね。

<参加者D>
◆私はこの小説を読んで、感想と言うより、職業柄どうしてあげたらいいんだろうと思って、客観的に見れなかった。Cさんが仰ったように、(主人公は)発達障害だと思うんですけど、客観的に見たとき、ブログはすごく上手なんですよね。文章はちゃんと理路整然と書ける。できることとできないことの落差が激しい。文章はちゃんと書ける、でも漢字は書けない。落差が激しいから第三者から見るとサボっているようにしか見えず、発達障害とはわからなくて。とくに親は理路整然と話をするのを知っているから、「そんなことない、サボってるだけだ」としか見えないし、認めたくない。指摘されて子どもを病院に連れていくのは素晴らしいことで、その階段を上がれない人が多い。また、病院で診断されても認めない親が多い。そうすると普通学級に入れられるから、いじめの対象になってしまう。
発達障害でなくても、英語の聞き取り・会話はできるが読むことができない子など、ここはできて、ここはできないというところがある。
『推し、燃ゆ』の主人公は理路整然と話せるし、口答えもできるし、バイトもできるし、なかなか難しい。
◆冷静になって作品として読むと、描写がきれい。「ため息は埃のように居間に降りつもり……」、「夜の海の匂いがただよっていた」という言い方は本当に言葉選びがすごく指摘で、こういうところでこの作品の厚みが出てくると思った。ただ発達障害の内側を書きましたと言うんじゃなくて、そういう文学作品としての厚みが。

<参加者E>
◆私はこの作品では、Cさんみたいに飲み込まれて落ち込まないように、敢えて距離を離して読んだ。距離を取って読んでみると、作品としてちぐはぐな部分が結構あった。
◆例えば、(専門家ではないので正確にはわからないが)子どものころに漢字の間違いがたくさんあった子が、予測変換だけで誤字なく書けるのか。漢字の判別がつかないはずだと思う。
発達障害というところを抜きにして見ると、現代の普通の若者の青春としてリアル。推し活に入れ揚げてしまう、自分の気に入った対象以外に対しては冷淡な関係しか構築したくない、関係性を選り好みする、友達とも表面的にしか付き合っておらず会ったときにはペルソナを被って本当の自分を出さない。親はいわゆる毒親で子どもの気持ちに寄り添ってくれず自分の都合ばかりを押し付ける。とくに女性の親が毒親として告発される作品は最近たくさんあり(エッセイ漫画などに多い)、現代の若者の一般的な悩みや生活の喜びがリアルに書けている。だから発達障害という要素を敢えて入れてしまったのは、この作品にとってよかったのかどうか、ちょっと思う。
◆皆さんのお話を聞いて思ったのは、主人公が受けている診断は発達障害だけではなく摂食障害もあるんだな、と。よく作中で吐いている。ゴミ屋敷みたいになっているのもよくある話で――干物女っていうんですけど、すごく現代的。だから逆に言うとすぐ発達障害などのレッテルを貼られるのも現代の一つの問題かもしれない。
◆ネットの感想や考察を当たると、三島由紀夫金閣寺』と比較しているものが結構あった。私もなんとなくそう感じていた。ものすごく優れた描写力で心理を分析していて、分析されている視点人物は障害を抱えている。非日常の対象にものすごく入れ込んでいて、最後は決定的なところに至ろうとするけど――みたいな部分が結構似ている。
小説の技法として比べたとき、『金閣寺』は主人公の視点ではあるがあくまで三人称。だから、どもりの主人公が言語化できないような精神の内容を詳細に書いていて、それがすごくリアリティがある。
対して、『推し、燃ゆ』は一人称。明らかに主人公の視点で書かれているが、主人公が自分で言語化できないところまで書かれているので、作者と主人公の間の距離はちゃんと取れているのかという問題がある。
◆作品中のネットのコメントがものすごくリアル。ショックなファンのコメントもそうだし、アンチがアイドルやそのファンを攻撃するいやらしいコメントがとくにリアルに感じられて面白かった。
◆ラストシーン。綿棒の形は大腿骨に似ている。最初から決め打ちして逆算して作ったんだと思うが、前半のボリュームが勝ち過ぎて、かえって取ってつけたようになっている。
◆ラストの前にすごくぞわっとなった部分があった。推しが結婚して相手と住んでいるかもしれない自宅に押し掛けて、でも決定的な破局を迎えないまま曖昧な着地をする――これは日本の小説にすごくよくある展開。西洋の小説だったら容赦せず、ここで決定的なカタストロフィを描く。私の読書量はそんなにないけれど、そう思う。
言ってみれば、推し活とは、自己の空虚さを推しの輝きで埋めようとすること。はっきり言ってある種の信仰的なものだし、ストーカー的でもある。だから、最終的には自宅まで突っ込んで行って何かしてしまうところまで書くべきなんじゃないか、小説としてこう展開すべきなんじゃないかと思ったりするが、作者はそれを選ばなかった。(推しの自宅で何かすることの)次にありえそうなのは、帰ってきて、おばあちゃんの家に火をつけること。『推し、燃ゆ』ですからね。最後、その辺までいくんじゃないかと思ったけど、そこまでいかずに曖昧な決着をする。すごく日本的だな、と。
A:作者の宇佐見りんさんは『くるまの娘』もそうだが、毒親とのネガティブ・ケイパビリティを選んで書く。だからさっきEさんが仰られたような、とことん突き詰めてカタストロフィに至るんじゃなく中途半端な状態で締めて、そこに希望がある、というのが好きなのではと思う。
D:現代人って、Aさんが仰られる感じで生きてるんじゃないですかね。仕事もできなくて、でも火もつけられない。
A:(火をつけるとか)そういうことしようとするなら新興宗教に走るしかない、みたいな。宗教なら答えがあってはっきりするから。答えがないままに現実社会を受け入れようとすると、否定的な状況を引き受けたまま生きなきゃならない。
D:生きにくい。
H:年配の男の人って、自分たちは企業戦士として生きてきた。だから今の若い人のもやもやや鬱々とした生きづらさがまったく理解できないみたい。そういうエッセイを書いている若い女性に「全然わからない」と言っていた。生ぬるいとか、そんなふうに受け取るから作中の両親もそうなのかなって。
E:ある意味で贅沢な悩みなんですよね。その悩みすら持てる状態にすらないというのが底辺の生活だったり。現実的なところを向上させていく時代が長かったわけだし、実際そういうふうに生きてきた人も多いから。今はそれが幸か不幸か達成されてしまったので、その上で人としてどうなのか悩めるようになった。その基盤すらない時代に生きてきて、基盤を作った人から見ると、甘ったれたことを言っているようにしか見えないというのはある。
H:まず生活していけないから甘ったれたことを言っていられない。
A:基盤がないところに基盤を作る目標のほうが、ある意味シンプル。だから頑張れる。
H:社会がそうだったから。
A:頑張ったら頑張っただけ稼げて、電化製品も買えたし、そういう時代ではあった。
H:今は結婚する・しないも選べてしまう。昔だと適齢期みたいなのがあったけど。
C:私の年代は生まれたばかりのころは食べ物がなくて、いつもお腹を空かせていた。でも大人になると毎年賃上げがあって、上がったぶんが給料日に出てくる。ボーナスにも跳ね返る。だから人生は明るくなるばかりだった。頑張っていけば幸せがいっぱいという感じで働いていた。仕事をリタイアすると、暮らせるだけの年金もいただけるし。
ところが20代の若者にこう言われた。「Cさんの世代は食い逃げの世代だ。働けば賃金が上がってボーナスが貰える。年金が貰える。私たちの世代は、年金保険料は上がっていくのに自分が貰えるかわからない。そういう時代に生きているので、Cさんの世代に立派なことを言われても説得力がない」と。その方は東南アジアなどを数年かけて旅行していて、私が「こんな大事なときに遊び歩いていていいのか」と言ったことへの反論だった。
A:象徴的な話ですよね。
C:今考えてみると、世界をさまよって歩くって大事な行動。できれば日本の若者みんなやってほしい。そして、自分が生きていくのにどこが一番いいか、選択できるくらいの余裕を与えたら、彼らはもっと力を発揮するんじゃないか。若い人と年寄りが喋れる場所はいいですよ。そういう場所も今無くなっていっている。断絶。アメリカ的な断絶もあるけど、日本の若者と年寄りとの断絶もありますね。
A:昔は角棒振り回して、授業に行かなくても一流企業へ就職できたわけですからね。今は一生懸命に授業を受けていても就職すら難しい。
H:国葬のデモへの参加が就活に影響するから怖くて行けない」と言う人がいてびっくりした。
A:ネットで発信しても内定貰うのにウケがよくないとか。
D:民主主義じゃないですよね。
H:就活だって、みんな同じ服着て、同じ受け答えばかり。それで切られてばかりいたら本当に生きてく意味がわからなくなる。

<参加者F(事前提出の感想)>
1)宇佐見りんという作家が書いた本に触れたのは初めてです。2020年度の下半期に芥川賞をとったということも知りませんでした。しかも21歳の若さで。
2)人気タレントの推しが人を殴った所から始まって、最後に推しが引退をし、「一人の人間、人」になるまで、推しを推し続ける「あたし」の生活を描いた青春小説と捉えて読みました。
3)推しを推し続ける「あたし」の生活をテーマにして、これだけの小説が書ける宇佐見りんという作家の筆力にまず感嘆しました。凄いと。
4)しかし、私個人は冷ややかな気持ちで読みました。人生で一番大切な時を、こんな事に夢中になってしまって可哀そうにと。他に自分の背骨になるものを見出すことはできなかったのだろうかと思ったからです。
5)しかし別の視点から捉えますと、現実にも未来にも希望を見出せないでいる現代の若者たち。宇佐見りんは、何か無心に追い続けたい若者たちの心理を、小説で代弁しているかもしれないと同情もしました。読みが浅くてすみません。合評会での皆様の意見を楽しみに待たせて頂きます。
6)P9「寝起きするだけでシーツに皺が寄るように」~の4行。歳の差はあっても私の気持ちと一緒と嬉しくなりました。
P123~125~最後まで。「あたし」の気持ちが私にもよくわかります。物を投げつける所、後片付けが楽な物を選んで投げている所など可笑しかったし、何もかも投げ出してはいないのだと安心しました。
 特に最後の方、さすが小説家と思いました。ひょっとしたら宇佐見りんは構想の段階で、起承転結の「結」の方を先に書いていたのかもしれないとさえ思いました。
7)小説と時代背景とは関係ないでしょうか。日本を含め世界が核の危機にさらされている今でも、こんな小説が芥川賞に選ばれるだろうかと、気持ちが遊んで時にはこんな事も思いました。

<参加者G(後日提出の感想)>
◆日程を勘違いしてしまい申し訳ありませんでした。
◆『推し、燃ゆ』は読んだタイミング的にも、とても抉られる話だった。私事だが、ずっと追いかけているアーティストの新譜発売とコンサート日程の発表があり、昔だったら躊躇なく限定盤を予約していただろうし近場の公演はいくつか申し込んでいたはずなのに、今は迷いなく通常盤を予約して一公演だけを狙うようになったのを、寂しく思っているところだったので。
いわゆる推し活よりも現実的なもの――税金とか保険料とか仕事とか(人によっては家庭とか)そちらを重要視するのは大人としては当然で、たぶん大多数の人には褒められるんだろうけれど、失くしてしまったものは確実にある。
身を削って応援しているときしか得られない充実感というのがあって、人生が終わるとき、あの時期が最高にきらきらしていたと懐かしく思い出すのだと思う。だから私は主人公がとても眩しく、ときに妬ましく感じながら読んでいた。推しのマンションまで行くところからラストまでは、水が上から下に流れるみたいに、ああそうするよなと、すとんと腑に落ちた。あかりちゃんもこちらに来られてしまいましたか、と。
◆作品としても、とてもよかった。私も推し活(「推し」とか「推し活」という言葉ではないのだが)みたいな作品を書きかけていて、テンションは近かったのだけれど、作者の語彙の豊富さや表現力に圧倒された。なので、いったん没にして書き直します。
◆個人的に気になったのは、推しの引退で終わったこと。本当の卒業というのは、推しがまだ活動しているのに熱が冷めてしまうことだと思っていて、この作品ではまだ「好き」だから――「好き」のまま瞬間固定されてしまったので、推し活が終わったわけではないのではということ(だから推しの自宅に押し掛けて迷惑をかけるようなことはしないし、推しの評判を落とすことはしない)。終わったのは彼女の青春だと感じた。ラスト、片付けが楽な綿棒を選んでぶちまけたところがとくに。現実と折り合いをつける、折り合いをつけてしまった、折り合いをつけるようになってしまった。
◆私も(主人公を通して見る)主人公の推しを魅力的だと感じた。それは主人公の気持ちや観察力をしっかり書けているということ。主人公の推しに魅力がなかったら、この作品が成立しないので、ああ、素晴らしいなと思った。
◆この議事録をまとめながら、青春と追っかけを描いた雨宮処凛バンギャル ア ゴーゴー』(講談社文庫)を読書会で推薦しても面白そうだと思ったのですが、文庫本で全3巻とボリューミー過ぎるので無理だなと諦めました(笑)。機会がありましたら是非。

<参加者H(推薦者)>
◆この作品は台風の日の朝から読み始めて、午前中には読み終わった。私は集中して読める本があまりないのだけど、最初から最後までお茶も飲まずに一気に読んでしまった。そのくらい衝撃だった。
◆電車の中で本を読んで落ち着くっていうの、すごくわかる。私も家で読むより、イオンや喫茶店のざわざわしたところで読むのが好き。コロナ禍が始まってからは行けなくて、でも家では集中できなくて。一番共感した。
◆『推し、燃ゆ』というのは、炎上して燃えてなくなるというイメージで読んだ。推しの真幸くんが炎上して普通の社会人になって、主人公にとっては燃えていなくなってしまう。それが「燃える」と言えるから、すごくいい題名だと思った。
◆主人公の推しである真幸くんは小さいときから子役をしており、作り笑いをしたら大人が「可愛い」と言ってくれて、そのまま育ってしまった。この作品は、主人公だけでなく真幸くんの成長も書いている。
◆この本を紹介してくれた小説の先生は、最近読んだ本でよかったのは村田沙耶香コンビニ人間』と、『推し、燃ゆ』だと仰っていた。『コンビニ人間』にも似ている部分があって。冒頭から「コンビニエンスストアは、音で満ちている」と書いており、発達障害の症状の一つに「音に敏感」というのがある。先生はそういう内面的なものが好きなのかなと思って、私は生徒として読んだ。
◆先生が仰るのは「対峙させるものを書け」。主人公を存分に痛めつけなくてはならないと教わっている。それを意識して読むと、主人公vs家族(母親が冷たいのはわざと書いていると思う)、主人公vs学校、主人公vs社会、主人公vs普通の生活、主人公vs推しの炎上とグループの解散……ありとあらゆるものに反対して戦っている。主人公に戦わせるのは物語の基本。だから、いろいろなものをこれでもかというほど出しているのでは。
書き手として読んで、すごく基本に忠実に書いているなと思った。
◆「開いたときに黒くならないように書け」とも言われる。漢字ばかりにならないように。この作品は句読点の使い方とか、漢字と平仮名のバランスが上手だなと思った。私だったら句点にするところを読点にしていたり、すごく計算されていると思った。
A:基本に忠実ですよね。書いている内容は危なっかしい話ですけど。)
見本のような本でしたね。主人公に対してサディスティックに追い込んで書けって言われてもなかなか書けない。ここまでするかってくらい書いている。
◆あと、先生がいつも言われているのは「五感を書け」。でも『推し、燃ゆ』の感覚は5つじゃなくて、痒み、痛覚、暑いとか寒いとかの体感感覚、筋感覚、腱の張力、関節の位置感覚とかがあるなと思った。あと内臓の感覚。空腹感や吐き気、便意、体温、血圧……五感を超えて臓器感覚を駆使して書いているのがすごい。
・「眼球の底から何かを睨むような目つき」
・「右の眼と左の眼の奥に感じる吐き気は」
・「鼻から息を漏らして肯定した。」
こんなの考えたことがない。真似したい。自分の小説で、嫌なことがあったときの描写で「自分の中にどろっとしたものが流れた。そのとき指がぴくっと跳ねる」みたいに書いたら先生がすごくほめてくれた。真似をしたら書けるのか、と思った。
とにかく、すごく刺激的だった。帯に推薦の言葉がついているけど、私だったら「皮膚と内臓の感覚を思う存分楽しめる一冊」って書くかなと思った。
C:五臓六腑って言うけど、どれが一番いいかな、書くには。やっぱ胃袋かな。
H:胃の表現ってよく出ますよね。今までもあるからよくないかも。
B:自分の身体的な感覚としてそういうのを感じることはないですか? それを書けばいいのでは。
C:息ができなくなったことはある。自分の作品で「息ができなくなって自分の筋肉で呼吸した」と書いたけど、臓器で書くってそんな感じかな。
H:書こうとしたらすごく難しい。書いてみてください(笑)。胃が痛いとか胃がむかむかするときはあるけど、それをこの作品みたいに描写して書こうと思ったら難しくて。外部から情報を感じるセンサーって、視覚が87%なんだそうです。だから見た目はよく描写されている。でも皮膚感とか平衡感覚みたいなもの、本当に読んだことなかったなぁって。「足の爪にかさついた疲労が引っ掛かる。」……疲労に足の爪を持ってきちゃうんだって。
C:ありきたりじゃない、本人の表現なんですよね。

<フリートーク
【推し活の本質】
E:この中に出てくる「推し活」というものについて、もうちょっと考えてみたいと思って。作者は推し活というものの心理的な意義を分析して、戦略的に書いている気がした。ただ自分が推し活をしていて好きだからと突っ込んだものでは絶対ない。
最初、推しがピーターパンの舞台を演じている。これは本当にわかりやすくて、推し活というのはピーターパンシンドロームだとまず言っている。大人になりたくない人が、推しが描き出す舞台という純粋性の中に没入していく、日常(=醜い大人の世界)を忘れる。舞台上の推しの世界だけが子どもの世界で、ずっとその中にいたいというピーターパンシンドロームの話。それが推し活の本質だと思うし、すごくわかってるなって思った。途中にもいろいろ描写があって、重さを背負って大人になるのがいやだみたいな部分もあったけど、本当に大人になってしまうと案外この肉体ってちっとも重くもなんともないんですよね。普通じゃん、当たり前じゃん、っていう。でもそれを重たいものとして感じてしまうのが思春期。思春期のささくれた心をすごくしっかり描いていると思うので、青春小説として完璧なんじゃないかと思う。
A:すごく純粋ですもんね。肉欲みたいなものを嫌う。推しに対しても疚しい気持ちを抱かない。
E:だから、会話はするけどまったく心は通っていない友達(成美)と対峙させている。その友達は推しと繋がろうとしていて、実際に繋がったと自慢してくる。
A:結婚したいとか手を触れたいとか思っていない。
E:そういうものじゃないんだ、と。俗世じゃない。推し活はきらきらした存在を見るための信仰なんだ、ときっちり書いている。ただ、私が現代の推し活文化にいまいち馴染めないというか、ちょっと危機感を抱くのは、それって主体性の放棄なんじゃないかと思うから。
H:でも、主婦で子どもがいるけど追っかけしている、という人はいっぱいいる。主体性の放棄というより、生活に夢や潤いをもたらすためのものでは。
E:その程度で留まっていればいいんですけどね。
A:主婦の場合と、作中のあかりさんの場合はちょっと違うかもしれませんね。
D:主婦は食べ物を削って推しに入れ揚げていないし。
E:逆に推し活の邪魔になるから、煩わしい家庭を持ちたくないという人もいる。そうなってしまうと人生の主客が転倒してしまう。ある意味では宗教の信者のように、自分の生活の潤いみたいなものをすべて投げ打って、推しに注いでいく。
D:若い人たちの危うさですよね。
E:だから、一瞬の純粋性を、生活のすべてを投げ打ってまで追い求める必要があるのか、すごく疑問に思ってて。
明確に書いてはいないけど主人公には摂食障害もあって、食べ物を戻したりしている。美味しい、という感想が出てこない。でも人間、食べたら美味しいんですよ。この作品はエッジを効かすために家庭のささやかな喜びみたいなものはすべて捨象してしまっているんですけど、現実にはありますよね、どんな些細なことであれ。読んでいて思ったのは、ただの日常って本当にこんなに凄惨なものなのかっていう。みんなただの日常がいやだから夢の世界に逃げ込もうとするんだけど、若い人が好むアニメや漫画、若い人自身の創作によくあるように日常って凄惨で厭わしいものなんだろうか? って、私なんかは思っちゃうんですよね。コンビニのお菓子だって美味しいし(笑)。
H:小さいときから食事って美味しかったですか?
E:美味しかったですね。
H:そうなんだ。小さいときって味がわからなかった。

【参加者それぞれの解釈】
C:Eさんは距離を取って読んだというけど、私は読んでいて主人公・あかりさんになりきってしまった。自分があかりさんの状態で読むと、定食屋で働く描写はすごいと思った。それから推しのマンションまで行くシーン。道に迷ったりバスも乗り間違えたり、帰りも同じようになってしまって、朝出たのに戻ってきたのは14時。発達障害と書かないで、あかりさんはこういう場合こういう生きづらさを感じると、ここまでかというくらい緻密に書いている。だからあかりさんはそう思うだろうなと納得する。
D:いろんな症状の人がいるから生きづらいと思う。
C:そういう人がこういう場にいたら生きづらさを感じるだろうなということを、あかりさんを描くことによって私たちに示している。それはある意味で成功しているのでは。
H:私は、Cさんの「寂しい気持ちになった」とは正反対で、この作品に希望を見出した。
私自身、仕事や介護、家事に疲れて全然動けなくなったときは何もできないけれど、あかりさんは物を拾って片付けている。いくところまで追いつめられているのに部屋を片付けているところに希望が見えた。人によって受け取り方が違うんだと改めて思った。
C:「生きていたら、老廃物のように溜まっていった」なので希望ないですよ。
H:老廃物が溜まるというのは生きているってこと。だから私は頑張ろうという決意じゃないですか。「生きていたら、あたしの家が壊れていった」って、それは祖母の家。自分の家じゃない。人から与えられたものは壊れていく。自分の力で掴んでいないから。
C:自分の存在自体が社会的に無駄で、生きていることで社会を壊す象徴として書いているのかなと思った。
E:特性などのせいで、ただ生きているだけで関係性を壊してしまう、という。
H:私はそうは思わなくて、自分から掴んでいかない限り大人にはなれない、と受け取った。祖母の家は主人公の家ではない。自分が自立して部屋を借りなきゃ。
A:その意味では「あたしの家」じゃないですね。自分の居場所はむしろ携帯の中の四角い場所だったりする。
H:私がこの作品を読んで若い人がどう感じるか気になるのは、人から与えられたものって薄っぺらいんじゃないか、って思ったから。自分から掴んでいかない限りはどこにいても自分の物ではないから、という感覚で読んだ。
だからすごく疲れているのに自分の手で物を片付けるのはこの子の出発点だと思った。ここからこの子はスタートするんだと捉えた。
彼女は自分がこういう人間なんだと、最後のほうでは理解している。だから、こうやって這い蹲って生きていくんだって希望に見えた。
E:ネットで見た意見だが……推しのアイドルがアイドルをやめて人になった。だからそれに合わせて主人公もただの推し活者じゃなくて人になろうとした。人になったアイドルを推し続けるために自分も人になるという究極の推し活だ、という意見があった。
ある意味で人になろうという出発点というふうに取れる。
H:だから私は拍手して終わった。頑張れよ、って。
E:村田沙耶香コンビニ人間』の話があったけど、あの作品の主人公もコンビニという修道院に身を捧げるシスター。でも途中で出てきた変な男と偽装交際みたいなことをして「人間のふり」を始める。でも結局それができなくて修道院(=コンビニ)に入り直す。結局、人になろうとしてできなかった究極のカタストロフ。日常とか現実とか人間性を否定してコンビニに突入する、ある意味決定的な最後を書いており、その点『コンビニ人間』のほうが優れている。『推し、燃ゆ』は、コンビニ人間でいうとまだ中盤とも言える。
H:私には、自分の居場所を掴んで、自分と言うものを理解して、これから苦労するだろうけれど生きていく、っていう決意表明に思えた。
E:あの状態から何の助けもなく生きていくのは相当難しいですよ。
H:何とかなるよ、若いから。
人によって捉え方が違うんだって、すごくびっくりした。
C:私もびっくりした。希望が見えたっていうのは。
H:すごく見えた。私はあまり発達障害というのを意識して読んでないんです。
C:私も読んでいるときは発達障害だと思わずに読んだ。あとで新聞の連載を読んで「これか」と思って。
Hさんはお姉さん(主人公・あかりの姉、ひかり)のことはどう思う? できたお姉さんですよね。
H:(あかりの)唯一の理解者みたいな。
C:私はこの存在がすごくいいなと思った。
H:そうですよね。全然何もなかったら本当に追い込まれちゃうけど。
C:きっとお姉さんが世話するんじゃないかな、あかりちゃんを。
H:鬱症状のある20代の方が、この作品のラストで希望を感じて「生きていこう」と思った、と仰って。不安定でも明日に向けて生きていこう、という終わり方をしているのかな。

【表現について】
E:これは身体感覚の描写が非常に優れていて、優れているゆえに作品のテーマと微妙にミスマッチ。肉を厭う、骨だけになりたいという身体感覚は世俗的なものだが耽美に書かれていて。スクール水着を着ている同級生が「アシカやイルカやシャチを思わせる」とか、わりとおかしみのある描写だし、身体感覚好きじゃん、嘘つくな、って思って(笑)
H:でも身体感覚、内臓感覚的なものをばんばん書いている本って今まで読んだことなくて。だからすごいなって思った。「焦りばかりが思考に流れ込んで乳化するみたいに濁っていく。」って何それ! って。すごい書き方。描写が全然違う。
C:わからなかったのが、バイトのシーン「ブレーカーが落ちるみたいになって」。
E:「頭が真っ白になる」って表現があるけど、逆に真っ暗になっちゃうんですね。
C:もうひとつわからなかったのが「解釈」。
E:これは主人公が推しの言葉を教典のように捉えている表れ。推しの表面的な言葉から真意を読み取らなくてはならない。だから常に解釈してるんです。推しは基本的に素直な表現をしない人なので、そこから読み取れる本心を考える。言い方は悪いけれど、教祖様の言葉を「こう言っているけど、本当はこんな意味なんだよ」と解釈している。
H:前のめりに深みにハマる人の心理を調べてみたんだけど、「周りが見えなくなりがち」。改善法は「メタ認知を鍛える」「客観的に見つめる癖をつける」とあって。でも物を書くときって絶対客観的ですよね?
A:そうでもないんじゃないかな。
D:場合による。
H:あとハマりやすいタイプは「ストレス解消が上手くない人」「深夜までゲームをしたり、整理整頓が苦手で部屋が散らかっている人」。散らかっていると自分のコントロールがしにくくなるそう。集中したいときは部屋を片付けろというけど、それができない人。あと「周りの意見に左右されやすい人」「一人を好む人」。そういう人はリスクが高いみたい。一人を好む人は鏡を置くだけでも効果があるって書いてあった。
E:ある意味ではメタ認知的にこの小説を作ったと言えますね。

【実際の症状を作品に書くとき】
D:例えば発達障害を抱えている主人公を書こうとしたときに調べるじゃないですか。調べて、(書いたものと)辻褄が合わないことがあったら、どの程度許容しますか? この設定としてこの場面がほしい、というときがある。矛盾している……でも人間ってそんなに典型的でもないし。
H:『推し、燃ゆ』の中に発達障害っていう言葉は出てますか?
D:出てこないです。
E:ぼかしてるんです。
D:設定すると制約がかかってくる。(この作品では)例えば漢字が書けない。漢字は書けないけど理路整然と文章は書ける。学習障害があるのにこういう文章を書けるわけがないとか、その辺りの制約。
A:整合性ばかり求めてもつまらない。
H:言葉を出しちゃったら傷つく人がいる。だから言葉を出さずに遠回しに書いてるな、と。
E:批判も受けやすくなりますしね。実際、当事者の声もいくつかあった。
D:やっぱりこんなことはあるとか、ないとかですか。それを覚悟で書かないといけないのかな。
A:人によって症状は多岐にわたるし。
D:どこまで整合性を持たせるのか難しい。
A:宇佐見りんさんはものすごく勉強している。その上で形を崩している。知っていて崩すのと、知らないで崩すのは違う。知っていて崩すのはいいのでは。知らずに書くのとは温度が違う。
D:主人公は自分ではないので、こういう設定にしようとか、こういう人にしようとか、考えて人物を作るけれど、そのときに、こんなことできっこない、というのを書いていいのか悪いのか。
H:広い読者の中には発達障害と思って読まない人もいるから、決めつけないほうがいいかも。
A:発達障害だと病名は出していないけど、少なくとも病んでいる。「病気を言い訳にしているのがこの小説の欠点だ」と言う批評家もいる。病気を出さずに、推し活の苦しさや現代の生きづらさを普遍的に書いたほうがよかったんじゃないか、と。ぎりぎり病名を出さずぼかしているところはある。ずるいといえばずるい。
H:そのほうが受け取り方が広がっていいと思う。
A:発達障害に関する本ではないですからね。
D:ただ自分で設定したときに(書くのが)難しい。
E:実際ここまでちゃんと診断が出ているんだとすると、親として真面目に医療や福祉に繋がろうとしますよね。
D:実際問題、難しいです。母親が(子どもの発達障害を)認められたとしても、ネックは父親。
A:昔はネガティブに捉えられていたけど、今は弁護士や医者でも発達障害です、と言う人が出てきているし、希望がある。
D:ただ、本人がしんどいのに親が認めないのはかわいそう。

【参加者の推し】
H:私自身は推したことがない。周りには追っかけとかしている人がいるけど、私は一つもなくて。
B:中学や高校のとき、下敷きに挟んだりしませんでしたか?
H:なんにもない。
B:私はクール・ファイブが好きでした(笑)。
A:渋い!(笑)
一同:(笑)
B:あのときの自分と、『推し、燃ゆ』の、推しに対する熱量は違う。病的にもたれかからないと生きられないのが現代なんだ、と。
A:逆に切実なものを感じますね
D:皆さんの推しは何ですかって訊きたかったんです。
A:私は推しというか、ミスチルはずっと好きでしたね。
H:私が中学生のときはグループ・サウンズの絶頂期だからジュリーとか人気で。私は東京に住んでいたんだけど、学校の先生が各家庭に「コンサートに行かないように」って呼びかけていた。私自身は(ジュリーが)きれいだなとは思ってたけど、だからどうだっていうのは全然。
推し、ありましたか?
E:ギャグ漫画の好きなキャラクターの絵を自分で描いていたくらいかな。
D:私は今、藤井風に凝っています(笑)。
A:今ほど二次元とかブラウン管の向こうに推しがいるっている時代ではない。
B:Aさんも大人になってからですもんね、ミスチルだと。
C:私も別になかったんじゃないかな。青春時代は剣道に打ち込んでいて、それでくたくたになっていた。朝も夜も練習して。
D:今ほど情報量もないですよね。
C:それもある。下宿していたし、テレビも観なかったし、ラジオも聴かなかった。
D:私たちの世代も、『明星』とか『平凡』とか買わないと情報がなかったし、買うお金もなかったし。