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R読書会/Zoom読書会

『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫)★R読書会

R読書会 2022.10.01
【テキスト】『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫)
【参加人数】9名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者H)>
ここ最近の読書会は、『戦争は女の顔をしていない』など大作が多く、私個人としては忍耐が必要な読書だったので、忍耐せずとも読める作品を推薦した。だからと言って決して薄っぺらな内容ではない。皆さんの執筆の参考になればと思う。

<参加者A>
◆Hさん、たびたび読みやすい短編集を推薦してくださり、ありがとうございます。
井上ひさしの作品は初めて読んだ。楽しいことばかりじゃなくてドロドロした展開もあるが、非常に人間的な作品だと感じた。
井上ひさしWikipediaで調べたら生き様がすごい。母に孤児院へ預けられる、妻への家庭内暴力、自殺未遂、離婚など波乱万丈。小説に深みが出るのはこのためかと雑感として思った。
◆私は短編を読むとき、点数をつける癖がある。この短編集だと(エピローグは別として)、〇が3個ついたのが一番好きな「鍵」。唯一、ハッピーエンド的な終わり方。プロローグからずっと人間の泥臭さで裏切られてきたので、ここへ来てほのぼのしてよかった。
次が「泥と雪」。〇〇△。惜しい。出来過ぎている感じがあって、こんなに巧く真佐子を騙せるものかと思って次点にした。真佐子が第二の人生を夢見るのに共感し、それが嘘だったことを悲しく感じた。真佐子に共感しながら読めて楽しかった。
その次が「里親」。ありがちといえばありがちだが、殺人事件が起こる展開に惹かれた。

<参加者B>
◆『十二人の手紙』が刊行されたのは1978年。NHKで放送された『ひょっこりひょうたん島』(1964~1969年)の少しあとで、小説『吉里吉里人』(1981年)と近い時期。
◆読んで、日本語の巧みさを感じた。
◆私は「桃」が好き。でも一番印象に残っているのは「プロローグ 悪魔」
◆一人が何人かに手紙を書いていくだけで、読者はその人がどんなふうなのか、どうなったのか、どう考えたのか、わかるようになっている。手紙という形式が、読み手の理解を助けている。

<参加者C>
◆同じ人間が書いても、宛先が違えばまったく違う文章になる。一人の人間が、相対する人によって、いろいろな面を見せるのが面白かった。
◆私が一番好きなのは「鍵」。どんでん返しに次ぐどんでん返しでミステリーらしい作品。木堂先生はわかりやすく探偵役だったな、と各章を読み進めていたら、エピローグでも探偵役を担っていたので、そのために作られた人物かなと思った。
「赤い手」の、出生届や死亡届など届出を並べていく手法は新鮮だった。それだけで一人の人間の生涯を描き、読者に悲しみを感じさせられることに驚いた。
「桃」もいい。誰もが持ちうる傲慢さについて考えた。作中作は難しいと思うが、そのクオリティもすごい。
◆私は、エピローグはなくてもいいかなと思った。もちろん、西村さんと弘子さん・高橋さんと美保子さん、古川さんと扶美子さんが結婚して幸せそうなこと、水戸悦子さんが元気そうなことなど、近況が知れて嬉しかった人たちも多いが、無理に繋げなくてもよかったのでは。

<参加者D>
◆最初に手に取ったときはコロナ禍で読書会が延期になり、読むのを中断した。その後、途中から読んだら訳がわからなくなって、また最初から読み始めた。
◆一ヵ所に集まった人たちの人生を描いていく手法は(この場合、人質になった人たち)、映画では飛行機が墜落したり、ビルが倒壊したりするときに使われる。最後に全員集まるのが予想できていなかったので、該当箇所を拾って読み直した。
◆一番好きなのは「泥と雪」。今でいうロマンス詐欺と同じ手口だろうか。焦ったり迷ったりしたら、こんなこともあるのかなと思った。
◆真佐子は船山太一と結婚して船山姓になっていたが、なぜわざわざ「船山」にしたのか。「赤い手」でも船山という医師が出てくるし、ややこしい。そこがわからなかった。
「葬送歌」聖心女子大学文学部国文科……実在する大学名を使うのはありなのか。実在する大学名だからこそ、「中野慶一郎展」準備委員会がリアリティを持つが、大丈夫なのかなと思う。
◆一つ一つのショートストーリーを最後に集約させるのはさすが。

<参加者E>
[事前のレジュメより]
≪1≫「桃」でいろいろ考えさせられた
 〇地方都市の名士たちが構成員であるボランティア団体『サロン・ド・シャリテ』が、養護施設『白百合天使園』への二百三十五万円の寄付とボランティア活動を申し入れた。天使園側は、寄付金はいただきたいが奉仕活動はお断りしたいと返答した。園長は「一日母親」の奉仕活動を断る理由を理解してもらうために、ある小説を送る。それが「桃」という作品だった。
〇村長が、桃を村の特産にするために桃の木の改良を積み重ねてきた。やっと十個ほど実をつけるようになり、県の職員がその桃を視察にくることに決まった。その日の朝、ボランティアで訪れていた人形劇サークルの女子学生たちがその桃を食べてしまう。県の役人に認めてもらえれば、村への補助金が出るかもしれなかった。努力の実をつまれてしまった村人は、桃を盗んでしまう学生の人形劇など観ようとしなかった。園長は、「相手に一番必要な物は何であるかを理解しないで為される善意などは役に立たない」と伝えたかったようである。
 〇熟慮した『サロン・ド・シャリテ』はこの地方都市の小中学生のために、二十三万五千本の鉛筆を送る。一人当たり一打の鉛筆なら、約二千人分である。でも、この結論に私はすっきりしなかった。「一日母親」を発案したサロンの会員は、『白百合天使園』の孤児救済の活動を高く評価していたはずである。ならば、天使園の希望通り、寄付金をこの施設へ寄付するのが筋である。
 〇『サロン・ド・シャリテ』は生真面目なボランティア団体だが、根っこに施しをする団体の傲慢さが見え隠れする。「私たちの善意を断るなら、いいですよ。別のところに差し上げましょう」という結論に至ったのだろう。

≪2≫「第三十番善楽寺」を読んで
[イ]四国八十八ヵ所と言われているが、実は札所の寺は八十九カ所ある。このことを知らなかった。
[ロ]「その人の必要度に応じて分配すればいい」古川俊夫の出したアイデアが『つばめ共同作業所』を救った。出来高払いでもなく、一律平等払いでもないこの分配法は、まさに共産主義的な分配方法ではないのか! しかし、適切な分配方法のように思えたが、この方法にはある条件が必要である。こういう分配が可能になるには、作業所の収入が十分に確保されなければいけない。この作業所の現状をみると、この分配方法には現実味がないようだ。

≪3≫「泥と雪」
 浮気相手の女が、彼の妻が離婚に同意するように仕組んだ策略だった。妻は、まんまと嘘の手紙とブランド品のプレゼント作戦にはまってしまう。なんだか、一途なものが損をする後味の悪い作品だった。

≪4≫「シンデレラの死」の結末にびっくり
 仕掛けの巧妙さに騙された。物語は主人公が「もう夢を見るのは嫌」と書き残して自殺する悲劇なのに、見事に騙されて爽やかだった。
 主人公・塩沢加代子が高校の元担任に書き送った手紙は、事実と大きく違うものだった。青木卓二という担任さえ実在していない。一流劇団が公演する演劇の主役になったことや連続ドラマの主演抜擢もでたらめだった。私が騙された理由は、手紙文の持つ、本人の感情の起伏が綴られている真実っぽさだった。
 私の書く小説は、「ひねりがない」とよく言われる。井上氏の趣向に触れて、もっと熟慮して書かねばと痛感した。

≪5≫やはり全作品を読まないといけなかった
 この期間忙しくて、全作品を読む余裕がなかった。目次をさらりとみて、十三作品は独立した作品だと思い込み、プロローグの「悪魔」などいくつかの作品を飛ばして読んだ。ところが、最後の「人質」を読み始めて、「悪魔」を読まなければ謎解きの意味が理解できないことに気付いた。「人質」は設定が緻密な作品なのに変な読み方をしたので、その面白さを十分に味わえなかった。真面目に、しっかり読まないといけないぞと思い知らされた。

[以下、読書会にてEさんの発言]
◆私は、時間がないので端折って何編か読んだら全然わからない。全部読まないといけないと思ったときには、もう遅くて(笑)。
◆13作品あるのだが、本気で訴えているような心情を伝えるときには手紙形式っていいのだなと感じた。手紙文の味わいで小説を作っているのが魅力的。仕掛けが巧くて、読者が驚く結末に持っていく。
◆私が一番面白かったのは「シンデレラの死」。第二位が「第三十番善楽寺。三位はありません。

<参加者F>
◆何年か前、書店の平台で見つけて手に取った(そのときは読書会のテキストになると思っていなかった)。井上ひさしらしい作品だなと思って読んでいたらどんでん返しがあって。本当に井上ひさしらしい、サービス精神溢れた作品だなと感じた。
今回、読書会用の目で再読するとツッコミどころがたくさんあった。
◆書き過ぎているところがいっぱいある。例えば「赤い手」の最後の手紙。届け出を読んで想像する面白さがあるので、経緯を書いている手紙がないほうが読者に想像させられるのでは。
私は届出のみで突っ走ったほうがいいと思ったが、最後の手紙があるから井上ひさしなのかな。すごくサービス精神があるので、気づかない人にも気づかせるために。そういうところも含めて井上ひさしらしい。
この作品を発表前の事前合評にかけたら「手紙はないほうがいい」という意見が出そう(笑)。
◆私の一番はいろいろ考えさせられた「赤い手」。二番は「プロローグ 悪魔」。すとんと終わるところがいい。最後の一言(「差し入れありがとう。(中略)でも弘の行方は探さないでください。(後略)」がよかった。

<参加者G>
◆最初から最後まで面白かった。井上ひさしの小説は初めて読んだ。離婚したときに週刊誌が騒いでいたこと、次は亡くなったときの報道を覚えていて、これまで記憶にあった井上ひさしはそれだけだった。
◆手紙文で書かれているが、小説の楽しさですらすら読ませていただいた。
◆こういう書き方があるんだと楽しく読めた。この本を読み始めたとき、NHKの『芥川賞を読む。~“正しさの時代”の向こうへ~』という番組を観て、「こう書いたんだ」「小説ってこう書けばいいんだ」と思ったのと重なった。
いろいろな着想や書き方があり、私も書いてみたいという気持ちを与えてくれた。
◆興味を持ったのは「赤い手」の最後の3行ほど(印をつけている)。

<参加者H(推薦者)>
◆手紙、筆談、メモ、死亡届や調書等の届出など、すべて「文字」だけで作られており、すごい。会話文があったとしても、筆談の中で、誰々がこう言った……と書かれている。
◆手紙は熱意が伝わりやすい。漠然と客観的な言葉が並んでいるのではなく、誰かが誰かに宛てた言葉の熱が面白い。文字という媒体だけでここまで物語を作り上げる、井上ひさしの才能を感じた。プライベートは苦しかったのかもしれないが。あるいは、プライベートが苦しかったからこそ才能が育ったのかもしれない。とにかく素晴らしい。
「赤い手」は文書で構成されているのに人生が映し出されている。公正証書だけで小説が作れる。書いた作品がつまらなくなるのは、場所や名前が漠然としているからでは。
◆『十二人の手紙』では、最低12人の人生が書かれているが、その一つ一つが独立していて面白い。私が書くと各登場人物が似たような設定になってしまうが、井上ひさしは一人一人に照準を合わせ設定しており、天才だなと思う。
◆人間は嘘をついたり騙したりするが、この作品では、嘘をつく理由の根っこが温かい。例えば「鍵」では、茶番を仕立てて、木堂を過酷な環境から遠ざけようとしたのが動機。温かさを感じる。
「桃」では、自分の行為が本当に子どもたちのためになるか考えが及ばないものの、善意なのはわかる。温かい。
マウントを取ったところがなく、苦労した井上ひさしならではの目線の低さを感じる(現実ではどんな人かわからないが)。
◆一番好きなのは「桃」。手法として感心したのは「赤い手」
◆以前、Dさんが「どんでん返しが許されるのは1回だけ」と仰られていたが、「鍵」は何回かどんでん返しがある。それはいいのだろうか。
「泥と雪」の手法も印象に残った。私もまんまと引っ掛かった。
参加者D:私は引っ掛からなかった(笑)。)
さすがDさん! 私は愛人の罠に引っ掛かっておりました……(笑)。

<参加者I>
◆全部面白かった。今のようにインターネットが発達していない時代ならでは。手紙が重要な役割を担っていた時代をリアルに書き残し、今に伝えてくれている。
メタフィクションという手法があるが、この作品は小説内の手紙や文書など、メタだけでできている。こういう手法があるんだと驚いた。
◆一般的に一人称の語り手を「信頼できない語り手」というが、この作品では誰もが信頼できない語り手になっている。語り手が嘘をつこうと思えばいくらでもつけると読者はわかっているのに、手紙形式だと本当のこととして読んでしまう。読者は、作中の手紙の読み手と同じ体験をする。素晴らしい。参加型のような小説だと思った。
◆特に素晴らしいのが「赤い手」。信頼できない語り手と、完全な事実である届出が混ざっているのが絶妙。完全な事実からは明らかな想像ができ、人物像を形作ることができる。こんなことが可能なんだと思った。
「シンデレラの死」。手紙に振ってある記号(イロハニホヘト)は何だろうと読み進めていくと、(手紙が)証拠物件だった。特殊な記号を振ることで普通の手紙ではないと、予め読者に示してくれている。
すごく悲しい話。ここまで自分の望みを書いて、投函せずにおいて、返事も自分自身で書いて……。この作品も特殊だと思った。
「泥と雪」も印象的。最初に渡した手紙が泥と雪まみれになったと書いていたので、ストレートに恨んでいるから嵌めようとしているのか、あるいは旦那が友達に妻を嵌める手伝いをさせているのか、と予想しながら読んだが、真相は旦那の愛人の仕業だった。ひねりが足りないのでは。もっと深みがほしかった。ただ略奪してやろう、という設定は女を馬鹿にしている。旦那の愛人より、旦那のほうが主人公との関係が深いはず。黒幕は、旦那の愛人でないほうがいい。
「桃」。金持ちの奥さんたちの純益金の使い道についてのやり取りも面白いが、桃のエピソードがさらに面白い。作中に山形や宮城が登場するのは、井上ひさしが東北に縁があるから?
参加者E:そうです。※井上ひさし山形県出身で、宮城県の孤児院に預けられていた。)
東北という舞台設定が合っている。湿り気があって。例えば鹿児島とかだと違う。
◆他にない小説だなと思った。
◆プロローグに出てくる幸子の弟がどうなったのか気になっていたので、まさかこういうふうに解決するとは。伏線をこう回収するんだと驚いた。

<フリートーク
【各作品について】
◆「赤い手」
D:「赤い手」、みんな読めるんだ。最初見たとき読む気がしなくて、(届出は)いらないんじゃないかと、最後の手紙だけ読んだ。めんどくさい、なにこれ、って思って。私は家電の説明書とかも面倒で。
F:そういう人のために、最後の手紙があるのかな。井上ひさしのサービス精神。
私は(届出と届出の間の)空白に想像力を掻き立てられた。
H:何年に生まれて、養子になって、孤児院へ入って……届出だけでも物語が生まれる。
普通の小説も、書くときに、こういうプロットを作ればいいなと思った。これ、プロットですよね。ここまで作れば書きやすい。
I:届出だけで、理由は書いていないんですよね。5W1Hの「WHY?(なぜ?)」を想像させる。
D:私は「赤い手」苦手。これを一つの文学として書いてしまうのがすごい。

◆「隣からの声」
D:「隣からの声」。騙された、びっくりした。
H:それは騙される。これも示唆に富んでいますよね。
I:幼いときの経験があるから悲しいですよね。

◆「里親」
D:「里親」。里親と砂糖屋の聞き間違いは笑えた。
I:聞き間違いで殺してしまった悲劇。エピローグに和子が出てくるけれど、これはいつ?
C:和子からの最後の手紙に「信州飯田へ出かけようとして(中略)ホームのベンチで三面記事を眺めていますと(後略)」とあった。人質事件が起こったのは同じ東北の米沢市。最後の手紙を出したあとでは。

◆「泥と雪」
I:mixiでもできそう。
C:今だとSNSに置き換えてミステリーを書けそうですよね。Facebookで嘘書いて、ネットで検索したら引っかかるようにスポーツの大会記録のページとか作って……

◆「葬送歌」「赤い手」「第三十番善楽寺」「里親」「エピローグ 人質」
E:「エピローグ 人質」がすっきりしない。騙され捨てられた姉の復讐のため、弟が人質を取って立てこもる。弟が姉のために、ここまでするかな? しっくりこなかった。全作品を総合する作品にしては不十分。
あと、「赤い手」で気になったのは“あかぎれ”。私は宮城県で、“あかぎれ”は“垢切れ”。でも作者は、手が赤くなって切れるから“赤切れ”としている。苦労して手がひび割れるなら、“垢切れ”のほうがいいのでは。
F:いろいろなことの辻褄を合わせるために無理はある。
「葬送歌」では中野慶一郎が自分の小説を元に書かれた戯曲を、そうと気づかずに酷評しているが、現実だと自分で書いた作品を忘れるはずない。中野先生、推理小説家として「里親」で再登場しますよね。弟子の作品のアイデアを盗んだ人として。
I:“船”がつく名前が多いから紛らわしい。一人一人、書き出していけば繋がりが見えるのかな。
F:「赤い手」の前沢良子を取り上げた産婦人科医が船山喜八。船山姓だけど「悪魔」「人質」の船山太一とは関係ない?
C:和子さんも二人いる。(「里親」の主人公・和子と、「鍵」の鹿見家お手伝いさん)
H:「赤い手」で交通事故を起こした古川俊夫は「第三十番善楽寺に登場しますよね。
I:お遍路さんになって、記憶喪失になって……古川が結婚したのは誰?
F:古川が行った先(高知)の施設の職員。
I:繋がっていると思って読んでないから覚えていない。
H:わざと平凡な名前にしていますよね。
C:メモを取りながら読んでいったほうがいいかも。最後、登場人物たちの消息がわかってほっとした。
I:古川は、どうなったのか丁寧に書かれている。
登場人物の名前、意外と忘れますよね。忘れてて、「あ、そうだったのか」って読み直す。
F:読書会のテキストになってないと、そこまで仕掛けがあることに気づかないかも。
I:普段はもっと時間をかけて読むし、忘れるよね。

◆「ペンフレンド」
I:ここまでで話題になっていないのは「ペンフレンド」
C:誰も死んでないし、誰も酷い目に遭ってないし(笑)。実際、エピローグで弘子と西村は結婚している。
A:よくできているけど、あんまり目立たない。
C:人間は今でも変わっていない。手紙がメールやSNSになってもありそうなエピソード。

◆「玉の輿」
I:「玉の輿」はどうですか?
H:手紙をカーボン紙で複写するとか面白い。
A:しきたりが厳しい家に嫁いだから。皮肉ってますよね。
F:最後の引用元。これ、本当に引用したんじゃないかな。
C:手紙の書き方の本から小説が作れると思って書いたのかも。引用元まで含めて創作だったらすごいですよね。
I:引用元、本当にある本なのかな。(検索して)実業之日本社……ある。鶴書房……「かつて存在した」。
C:読者に調べさせられるのがすごい。村上春樹が実在しない作家を実在したように書いたみたいに、まったく架空の本でもそれはそれで面白かったかも。
そういえば、作品の最後に参考文献の一覧があって、ほぼ実在してるんだけど、一冊だけ架空の本(著者・出版社も架空)っていう小説を見たことがあります(笑)。

【文体について】
D:「泥と雪」。女を馬鹿にしているんじゃないかと思った。
I:時代をすごく感じる。そういう時代だったから。
B:手紙の書き方も、昭和の書き方ですよね。今の若い人が書いたら、こうはならない。時代がよく出ている。
D:昭和が漂うといえば、「おこっちゃいやです。」(「玉の輿」)とか、口調が面白かった(笑)。
I:時代を映している、というか。今BSで昭和の映像作品を観ているが、現代とは喋り方が違う。この手紙みたいな台詞が出てくる。井上ひさし放送作家だし、そう書くのが自然だったのでは。
B:現代は喋り方が違う。今を残すって大事なのかな。
『十二人の手紙』は作品によって文体が違うけれど……
I:文体は息遣いみたいな感じがあって。意識して変えていかないと、誰が書いたものかわかってしまう。自然に身についているものだから、意識して変えないと変わらない。
D:私は全然ギャルじゃないけど、ギャルを書くのが得意。ギャルになったことはないけど楽しくて(笑)。
I:好きだから、よく見て観察しているんじゃ。
D:そうかも。ネイルも、ギャルの子がいるところに行く。楽しい。
B:私が20年前に、あるおじさんを観察して書いた文章があって、今の作品に取り入れたいけど、そうするとそこだけ文体が違って。どちらかの文体に合わせないといけないのだけど。
I:20年前の文章をそのまま書いては駄目。昔書いたほうを改稿したほうがいい。感性も文章のキレも変わっているから、一から全部書き直すべき。
B:今よりも昔のほうが人物をよく観察できていた。その細部を入れたい。今書いている作品の登場人物にはモデルがいなくて、モデルがいる人物を出すと違和感がある。
D:おじさんを書かないか、他の人物を細かく書くか……。
I:現実にあることを小説に書くと、読者にはどうでもいいことだったりする。現実の重みに小説が引っ張られすぎる。時間が経って、現実と想像の境界線がなくなるくらいでちょうどいいのでは。事実も想像で埋めるほうがリアリティが出る場合もある。
A:Bさんの仰っていること、わかります。事実かどうかはともかく、10年前の感性は今、再現できない。感覚はわかります。
I:特定の人物だけを細かく書くなら、登場人物に語らせる。『十二人の手紙』でもボールペンが滑った(=余計なことを書いてしまった)とある。登場人物の主観なら、そこだけ詳しくても違和感がない。読者は「その語り手の癖かな」と思ってくれる。

【手紙形式であることの意味や、作品の仕掛けについて】
I:この作品はどうやって作っていったのか。最初にプロローグとエピローグがあって、後から各章を作ったのか、それとも最後に各章を繋げたのか。エピローグから見ると、脇役をクローズアップしたのが各章ということになる。
C:探偵役は木堂先生。
F:木堂先生が聾唖者というのが大きい。
H:誰かが文字によって語らなきゃいけないから。
I:『十二人の手紙』を映像化するのは不可能なはず。手紙なので。「シンデレラの死」とか、絶対無理ですよね。井上ひさし放送作家をしていたから、映像にできないところに文学の意義を見出したのでは。想像力を働かせないと読めない作品。(「赤い手」の)届出とか、特にそうですよね。そういうところも面白い。
D:自分の作品の参考にできるかと言われるとしにくい。
I:参考にはしづらい。人間が書けないと駄目だな、とつくづく思わされた。
A:“信頼できない語り手”っていうけど、特に手紙形式だと、ころころ騙されますね。
I:谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』は日記を盗み読みしている気分になる。読者は、日記や手紙には嘘はないと思ってしまう。
A:手紙になっていると、喋るよりも、信憑性が一段階高くなる。なぜか本当にあったことなのかなと思う。
F:アガサ・クリスティの作品に、語り手が犯人というものがあって。読者は語り手が言うことは本当だと思ってしまう。確かに嘘は書いていないんだけど。言葉が足りないだけで。
C:叙述トリックもバリエーションがありますね。語り手や語られている人物が、実は人間じゃなかった、大人だと思わせて子どもだった、若者だと思わせて老人だった……。今お薦めしたいけど、叙述トリックが使われていると知らない状態で読んでほしい(笑)。
H:叙述トリックのような仕掛けがある映画もある。仕掛けは、受け手が驚く発想があれば1つだけでもいい。
昨日観た映画。女の子が男に追われているんだけど、誰もそれを信じてくれなくて、逃げ回った末、ラストで追い詰められ男を刺してしまう――と見せかけて自分を刺した。そうして、周りの人も男が悪いと納得するというストーリーだった。
I:どんでん返しは、観客や読者の死角を突くから面白くなる。女の子を応援しているからカタルシスもある。
B:あと、精神軸が通っている。男が怖いっていうのがあるから、ラストが効く。女の子は、自分を助けるにはどうしたらいいか必死で考えている。

【作者・井上ひさしについて】
H:井上ひさしの「汚点(しみ)」という短編小説があって、何も読む気がしないときでも、その作品だけは読める。思い出すだけで涙が出る。
A:私は今回の読書会で初めて井上ひさしの作品を読み、図書館で井上ひさしの本を借りた。
I:私も(井上ひさしを)初めて読んだかも。
F:離婚するとき、週刊誌に出たのを覚えている。
A:2015年に、前妻の娘と後妻が「ひょっこりひょうたん島」の上演を巡って争っていたり……
I:周りがそんなふうだから興味があったのかな。「何を考えているんだろう」って。
H:井上ひさし自身がトラブルメーカーというのもあるかも。クールにぱっぱっと切り捨てるんじゃなくて、お前も好きだよ……みたいな。

【エンターテイメントと純文学について】
H:エンタメ小説もたまにはいいですよね。
D:今行っている小説教室で、先生に「純文学を書きたい」と言ったら「これも純文学ですよ」って言われて。エンタメと純文学の違いは何?
H:文体に重きを置いているのが純文学、ストーリーに重きを置いているのがエンタメ、かな?
I:エンタメは読者にカタルシスを与えるもの。純文学はそうでなく、読んで感情を動かされたなら、嫌な気持ちで終わってもいい。
エンタメは、ストーリーがエキサイティングだったり、知識欲が満たされたりして「面白かった」で終わっていい。純文学はストーリーテリングじゃなくてもいい。中間小説は、どのどちらも満たしたもの。
D:じゃあ私はエンタメになるのかな。
I:Dさんにはサービス精神があるのでは。「読者を面白がらせたい」という。
D:真面目に書いたら、「私が書かなくてもいい、誰かが書くだろう」って思う。

【その他】
◆D:実在の大学名とか、作品に出していいのかな?
I:ただ単に「入学した」とかならいいのでは。教授が何した、みたいな、名誉毀損にならなければ。
D:自分をナウシカだと思い込んでいる子を書くのはあり?
I:いいのでは。商標登録されていたら駄目だけれど。ディズニーのキャラクターは書評登録されていますよね。
C:商標登録されているか、簡単に調べられるサイトがある。
※特許情報プラットフォーム(J-PlatPat) https://www.j-platpat.inpit.go.jp/

◆D:昔は愛人業――愛人であることを仕事にしていた人がいて、それが社会に認められていた。今は「囲われている」は差別用語になる。
F:今は「パパ活」になっているのでは。
D:パパ活」っていうと、もっと軽そうな……。ご飯食べに行ったりとか。
I:マンション買ってもらう人もいるんじゃ。
確かに私が子どものころは「お妾さん」がいた。同級生に、保護者である母親と苗字が違う子がいて。その子は父親に認知されているから、父親の苗字を名乗っていたんですね。
昔はそれが普通で差別もなかった。今のほうが息苦しい。

 

井上ひさし『十二人の手紙』はZoom読書会でもテキストになりました! 読み比べたら、メンバーが変わると、出る意見も変わるんだなとわかって面白いです。