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「銀河鉄道の夜」他1編(『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より(宝島社文庫)

Zoom読書会 2021.12.19
【テキスト】「銀河鉄道の夜」他、参加者が自分で選んだ1編
      (『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より
      別冊宝島編集部 編(宝島社文庫
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
私は読書量が少ないので、好きな作家の作品を推薦することにした。やはり宮沢賢治の代表作は銀河鉄道の夜ではないかと思う。20年ほど前に、登場人物を猫に置き換えて描かれたアニメ(『銀河鉄道の夜』1985年制作/監督:杉井ギサブロー、原案:ますむらひろし)を観たことが、宮沢賢治を好きになる切っ掛けになった。

<参加者A>
銀河鉄道の夜
◆「銀河鉄道の夜」に初めて触れたのは小学生のころ。死んだ人ばかりだと思って怖くなり、全部読めなかったが、そのあと何回か読んだ。
◆透明感ある描写がきれいで、独自のオノマトペも印象的。文法は終結していないものもある。宮沢賢治だから許されるのかも。
オノマトペだけじゃなく独特の表現も印象に残る。Eさんも独特の表現を上手く使われるけれど、私は使えないのですごいと思う。
◆生きているジョバンニがなぜ銀河鉄道に乗れたのだろう。彼の切符だけ万能券(「ほんとうの天上へさえ行ける切符」)だし。読み返すたび不思議に感じるのだが、今回も思った。
◆「らっこの上着」について。現在、ラッコは絶滅危惧種になっている。作中の時代では、ラッコの上着をよく作っていたのだろうか。
◆私も息子とアニメを観ていたので、「銀河鉄道の夜」というと、やはり猫のイメージがある。

<参加者B>
◆久しぶりに読み返した。原稿が欠けていて、ページが飛んだりしているのは新鮮だった(決定稿ができる前に作者が亡くなっており、編集者が遺稿をまとめた)。
◆私は宮沢賢治の出身地である岩手県と近い秋田県に住んでいる。岩手の人は、宮沢賢治がとても好き。
◆私も、ますむらひろし宮沢賢治作品を原作として描いた漫画などが好き。
銀河鉄道の夜
◆子どもが死ぬ作品には、無条件で興味を引かれる。この作品集には載っていないが、「銀河鉄道の夜」の原型であると思われるひかりの素足もよかった。
◆SF的モチーフが用いられている。その後に作られたSF作品に繋がるのかな。鳥や岩石の描写など、多くの作品に影響を与えている。現代に通じる、元祖のような作品。
◆キャラクターの生死を通して論理的に語っているのは鼻につくが、観念的ダウナーな感じが心地よい。国民的作家だと思う。
「紫紺染について」
◆ドキュメンタリーのように見せかけて、大ぼらを吹くみたいなところを真似したい。

<参加者C>
銀河鉄道の夜
◆小学生のころ、全集に載っており読んだが、そのときは面白いと思わなかった。私は、ジョバンニが授業で銀河を習ったことに影響され夢を見て、また、それが死者を運ぶ列車だったのは、別の何かに影響されたためだと考えた。面白いと感じた箇所は、実はカムパネルラが死んでいたという種明かしのところ。それだけの話として読んだ。「子どもが読むものじゃない。大人になったらわかるのかな」と。
◆ずっとそう思っていて、数十年ぶりに、ほぼ真っ白な状態で再読した。
◆「天気輪の柱」「三角標」など、言葉が独特。
◆ラッコの上着がなぜからかいの対象になっているのだろう。父は漁に出ているのか、監獄に入っているのかわからない。説明がなく雰囲気で読ませようとしている。
◆しかし、ファンタジックな描写、これだけのものが命を持っている理由はある。
◆神、死生観、宗教観など語ればきりがないくらい材料が転がっている。機会があればまた読みたい。有名な作品を読んで、多数に迎合することに抵抗はあるが。
宮沢賢治はここまで文章で表現するのに苦労しているが、アニメの描写力には負けると思う。
よだかの星
◆小学生のとき、学芸会の劇の題材になった。学芸会の脚本では、星になったよだかを見て鷹が「見直した」というようなことを言う。子どもにはそのほうがわかりやすいから。
でも、大人になって改めて読んでみると違う。誰にも認められなくても星になっている。子どものころと、また異なる感想を抱いた。
風の又三郎は、学校の講堂で映画を観て、そのイメージがあった。
一番気に入っているのは注文の多い料理店。面白い。

<参加者D>
銀河鉄道の夜
◆私はだいたい本は最初から読むので、巻頭の解説から読み始めたが、解説の途中で「引っ張られるからだめだ」と思って中断し、「銀河鉄道の夜」を読んで、そのあと読んだ。解説は作品より後ろに載せてほしい。
◆「銀河鉄道の夜」は小学校か中学校の教科書に一部抜粋のかたちで載っていた。全部きっちり読んだのは初めて。
◆たぶん死者を運ぶ汽車なんだろうけれど、ジョバンニはなぜ乗れて、また、最上の切符を持っていたのだろうか。読みながら、ジョバンニも死んでいる、あるいは死にそうな状態にあるのだろうと思っていたが、最後まで読むとそうでもなかった(丘の草の中で眠っていただけ)。死に近い精神状態にあったから? それなら、そういう人は他にもいるはずだが、なぜジョバンニだけが乗れたのか不思議。
風の又三郎
分析しながら読むとすごく楽しそう。方言は難しかった。又三郎(三郎)だけが標準語を話しているのが、彼が異質な存在であることを表していると思った。
注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュは面白い。
「北守将軍と三人兄弟の医者」は終わり方に余韻があって好き。文章もリズムがあって、声に出して読むと楽しい。

<参加者E(提出の感想)>
銀河鉄道の夜
深い悲哀に満たされた幻想物語。あるいは空想的寓話。行間から伝わってくる無常観、あるいは圧倒的な孤愁感にいたたまれなくなってしまう。
たいていの幻想作家や喜劇作家はじつはペシミストであったという逸話はよく目にするが、この作者もまた例外ではなかったのだろうと思う。ドストエフスキーが遺したように、やはり「地獄はこの世」なのだろう。宮沢賢治は、恐らく、内なる自己、あるいは「心」の「救い」「慰め」もしくは「支え」を、世俗という眼前の現実では見いだせなかったのではあるまいか。当物語だけでなく、この文庫におさめられたどの作品からも一様に感じられるのは底なしの孤独感だった。彼の世界はとにかく内向的だと感じた。そうしてひどく寒々としている、ように思う。なぜなら行間から感じられる彼の、おそらく農作業中や散歩時の感慨、夢想、想念、思惟、洞察力には「他のだれの意識」も読み取ることができなかったから。いや、しいていえば「人知を超えた」概念または存在だけはそこに許されていたかもしれない。それこそ彼の、「救い」や「なぐさめ」だったのだろうか。つまるところ、彼のゆたかな空想性やアニミズムに満ち満ちた魔術的な世界観は、孤独のみじめさ、切なさの補償だったのではないかと思う。心理的防衛機制でいえば「退行」か。そして「昇華」か。思い通りにいかない世の中、あまりにみじめ、どこまでも空虚でしかない人生を、彼はそうすることでしか受け入れることができなかったのではないかと考えてしまう。このような反応は、いちどでも画や文字を衝動的に描きたいと思ったひとにはよく分かることではないかと思う。苛酷できびしい北国での農作業――それはつらい肉体労働、しかも彼は重い病を抱えていた――、そうした彼の社会的、実際的役割、要するに「表」のじぶんを補うために現れ出た空想夢想を、ありのままに、感じたままに表現したからこそ、彼のことばは現代に生きる同種のひとびと、「生きにくさ」を感じる読み手の胸をつかむのではないかと思われる。そこに、人生としての普遍性が成立しているような気がする。そのような観点に立ってみると、いちど乗ったらあとにはけっして引き返せないこの鉄道は人生そのもののメタファーのような気がしてくる。(そういえば映画『千と千尋』の電車も「行きっぱなし」だったはず)
行く先々であらわれる世界、出会うひとびとに、作者の投影像・少年ジョバンニは高い感受性をもとにいつも心を乱しているが、そのなかで、とくに力をこめて書かれているのは「前書き」にあったとおり信仰もしくは価値観の「ちがい」についてだろうと思う。
作者は熱心な日蓮宗信者であったということだが、あくまでも個人イメージとして「攻撃的」「排他的」「閉鎖的」といった同宗に属していた彼が、他の信仰、異なる神、本作ではキリスト教というものに出会ったときの葛藤、戸惑い、根源的懐疑のようなものが、ここには翳深く描かれているように思った。
あくまでもぼく個人のイメージで「異教徒はすべてそれだけで罪」ととらえている、ように感じられる「日蓮宗」と「キリスト教」(これを象徴しているのが日本人であるというところがまたおもしろい。ものの本によれば、ぼくらは文化的背景上、生涯決して、「原罪」という概念を理解することができないという)それらふたつの属性を背負ったものが同じ電車の同じ席で同じ方向に向かって同じ時間を共有する、というところはひじょうに示唆的だと思う。そうして、彼らそれぞれの「降車駅」が別々である、ということも。サザンクロスの駅で降りる異教の信徒たちを窓越しにみつめるジョバンニ、その前のひとこまで彼らの神を「うそ」と否定した彼のすがたはほんとうに印象深い。そこに敵意はさほど強く感じられず、悪意はなくて、ただたださびしさ、やるせなさがあるばかり。人生あるいは心の「救い」や「なぐさめ」「支え」といったもの――、銀河鉄道という狭く限られた時空間内でたまたま出会った彼らというのは、恐らく同じものを求めて「生きている」「生きていた」はずなのに、けれども双方、すっかり心打ちとけることはなく、じつに冷ややかなしこりを残したままであっさり道が分かれてしまう。ここに底なしの空漠感が出ていると思う。いわゆる「価値観」のちがいによって、世の中にはさまざまな苦悶が生まれているが、けっきょくのところ、少なくとも「信仰上」では、ひとびとが求めているものの究極は同じじゃないか。それなのに、どうしてぼくらはこんなにも切ない想いを共有しなければいけないのだろう。信仰する神がちがえども、あるひとつの線路を走るこの銀河鉄道はだれかれかまわずみんな乗っけて同じ方向に駆けていく。けれどもどうして、ぼくらの心はうまくひとつに溶け合わないのか。日蓮宗、大きな意味でいうところの禅宗は、宇宙そのものを象徴するビルシャナの声に耳を傾けてやがて同一化することを目指しているが、その「ビルシャナ」が象徴しているものは、ヤハウェと同根なのではあるまいか。ぼくらはけっきょく、同じものを見、同じものを求めて同じ道を進んでいるだけじゃないのだろうか。それなのに、ひとびとはどうしてこうも分かり合うことができないのだろう……。こうしたところが、作品がもたらす寂寥感や切なさの源であるように感じた。
そもそもにして、ギリシア神話由来の星座がお話の背景に使われているところにまたおもしろさがあると思う。当時はすべて(少なくとも西欧諸国)の文明の礎と固く信じられていたといわれるギリシア文化、あるいは地球という一惑星の外に広がる宇宙を舞台にすることで、人間たちのちいささが浮き彫りになり、その「ちいささ」が営む世界ですらうまく息をすることができないじぶんを、作者はひっそり、描きだしているように思う。作中で重複するテーマ「おぼれる」はほんとうに奥が深いと思う。タイタニック号の犠牲者を彷彿させる青年のことば、「助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方が幸福」には強く共感。「ちがい」といえば親友同志であるジョバンニとカムパネルラがラスト、同じ光景のなかにそれぞれ「ちがう」ものを見ているところもまたおもしろい。「親より先に死ぬと地獄」観が強い仏教の影響なのか。それからたぶん、すでに母親を亡くしているカムパネルラを使って、「マリア」のような慈悲深い母性像を同時に表現したかったのか。
色彩ゆたかな描写同様、このお話は構成もきれいだと思う。先に「ケンタウル祭の夜」という背景を示しておいて、銀河鉄道をいて座の手前、さそり座で終わらせるところ。汽車で再会したカムパネルラの衣服が濡れていたり「青ざめて苦しそうな」顔をしてみせたり、あるいは含みのある言動をさせること。
 自己犠牲や罪の意識、それから貧困や欠落(たとえば父性不在)という暗いテーマと色彩ゆたかな幻想性、心ほどける空想性がうまいこと共存した作品だと思う。暗い宇宙をきらびやかに飾った花々、宝石、もちろん星々、それから音楽には心を深く魅了された。
「お調子者でちょっと嫌なやつ」を思わせるザネリのためにカムパネルラが溺れ死ぬことに想いを馳せるとまた切ない。ほんとう、人生はただ無常と思う。
 意気地はないくせに自尊心だけはやたらと高く、たいてい卑屈でいたく頑な、感受性がじつに鋭いジョバンニ少年――、クラスのなかで(恐らく)ただひとりだけ働く子ども=ひとりの異邦人、の孤独が何も解決されないままお話が幕となるところに作者の深い闇を感じる。親友をからかう同級生たちのじつに拙い行動原理と、彼らにまっこうから抗えないカムパネルラの心の弱さ。それらすべてを「それでもいいか」と包み込んだうえで陥ってしまう空虚感もまた胸が痛い。けっきょくのところ、世俗には安寧が生きる余地などないのかと心を重くふさいでしまった。
 
 併録作品で好きなものはよだかの星。感情移入がしやすい。セロ弾きのゴーシュも親しみやすくて好き。ひと以外のものと関わることで音楽が上達するというのは示唆が深いように思う。(人間のことばの前に動物たちの音楽があったのだと、そういえばどこかの学者が言っていた)「虔十公園林」には救われる。鹿踊りのはじまり」はじつに愉快。「やまなし」の世界観には子どものころから魅了されつづけている。ここにはなかったが「月夜のでんしんばしら」も個人的には印象深い。資本者階級と労働者階級と関係をユーモラスに描いたと思われるオツベルと象はメタファーが深くておもしろい。「氷河鼠の毛皮」「なめとこ山の熊」でとくに顕著に描かれているように思う「犠牲と罪」のテーマには胸を重たくするばかり。生きていくためには犠牲を避けることはできないが「よわきもの」を一方的に搾取しつづけているぼくらにできることといえば感謝すること、敬意を持つこと、それから罪の意識をつねに意識し、そのうえでできるかぎり慎ましく生活することぐらいなのだろう。やはり人生は切ないと思う。「洞熊学校を卒業した三人」を読んでさらに悲しくなってしまった。花とみつばちが示すものもまた空虚。仕事柄、フランドン農学校の豚はひじょうにつらい作品だった。ユゴーの『死刑囚最後の日』よりもよっぽど強く心に迫った。前に屠殺場で聞いたが、豚や牛たちはその眉間に鉄の円柱を打ちこまれるまえ、死を覚悟して泣くそうだ。スーパーに並べられた肉しか知らないぼくらというのはとてもおめでたい連中だと思う。「土神ときつね」もつらいお話。「税務署長の冒険」はわくわくしながら読むことができた。詩ではやはり「永訣の朝」。「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」ここに作者のありのままの心をみた。それから「林と思想」にもいたく共感。春と修羅の行間に抑圧された蒼い激情には胸が共鳴してしまう。

(Eさんの感想を読んで)
C:Eさん、評論を出せばいいのに。
D:詩を書く人の文章っていいですよね。

<参加者F>
◆私の中で宮沢賢治とは、自発的に読むというより、教科書的に押し付けられる印象があって。オツベルと象も、作品より担当教員の顔が浮かんできてしまう。教員と相性が合わなかったのが切っ掛けで国語を学ぶのがいやになり、英語に切り替えた経緯があるので。
銀河鉄道の夜
◆再読。大きくは童話なんだろうけれど、死者の話という印象が強い。
◆非常に神話的な、垂直的世界観。
◆モチーフとなっているのが“川”。銀河も川。一貫して流れている。
ジョバンニの母の「川へははいらないでね。」という台詞があるが、川は“俗世とあの世を繋ぐ境目”のメタファーではないか。そして、天の川が線路となり、そこに登場する汽車は、死者を送る舟の代わりのように読める。
◆結末を見ると、銀河鉄道はあの世に魂を運ぶ汽車であり、SFでよく見る設定の起点はここなのだと思う。
◆死者ではないジョバンニがなぜ乗れたのか?⇒祭りの日は次元が歪み、あの世と一瞬繋がるとされている。作中のケンタウル祭は、盆や彼岸を拡大解釈したような祭りなのかもしれない。天界があって、地上があって、地獄なりなんなりがあって……仏教でもキリスト教でも、他の世界がある。和洋折衷で取り入れたのだろう。
◆乗客は、それぞれの人生により下車する場所が違う。仏教の六道も取り入れている。
◆「天気輪」こそ、輪廻の輪の転輪から派生したのだと思う(「天気輪」は宮沢賢治の造語で、辞書には載っていない)。モデルは輪廻とか転輪かな。
ビルシャナ仏は、輪廻から抜け出した人なので、Eさんの仰ることは一理ある。
◆ダンテの地獄巡りの天上版みたいな感じ。行って戻ってくる巡礼譚。川に落ちて、川に戻ってくる。地上の川、天上の川が繋がって円を描いている。よくできている。
◆私は、ジョバンニとカムパネルラの友情はあまり感じなかった。“身近にある死”を感じさせてくれた。間違っても子ども向けではない。
◆文章は古いけれど上手い。
宮沢賢治が教員として培った理科系・農業系の知識を、オーナメントとして使っている。
◆「らっこの上着」。私は、ジョバンニの父が密漁者なので囃されていると読んだ。宮沢賢治の実家は質屋で、人から搾取しているという思いがあり、そこへジョバンニの“父が密漁で儲けていることの後ろめたさ”を重ねたのでは。推測だけれど。

<参加者G>
銀河鉄道の夜
◆私は授業中に外ばかり見ていたから、先生の影響を受けておらず、押し付けという感じはしない。教科書の印象もなくて。アニメから入って、30代か40代のころに読んだ。
大人として「銀河鉄道の夜」に接して感動した。アニメの美しい世界もよかった。今回も3回は号泣した。死に近い年になって、死者の世界が身近になってきたら、この死生観に共感する。
◆解説できない。なぜかわからないけれど感動して泣いてしまう。腹の底から感動がこみ上がってくる。
宮沢賢治は、大正11(1922)年に最大の理解者である妹のトシを亡くし、その2年後に「銀河鉄道の夜」の初稿を書いている。死んだらどこへいくのだろう、死者はこういうところへ行くのではないかと、自分の悲しみを乗り越えていったのでは。
◆表現方法、描写方法を自分の作品にも取り入れたい。
◆以前、文学学校の講師から「宮沢賢治を受け付けない人が一定数いることを忘れてはならない」と聞いた。ほかで児童文学を学んでいたときもあったが、そこにも「死んだ人のことばかり書いているから」宮沢賢治をきらいな人がいた。
◆敬遠されるのは、どの作品にも宗教くささがあるからだと思う。宮沢賢治日蓮宗に傾倒していたので。
◆現代では定番のようになっているけれど、宮沢賢治の作品が見直されたのはバブルの後で、そんなに定型な人でもない。
◆私は宮沢賢治村上春樹の作品に癒しを感じる。気持ちがしんどい人はそうじゃないかな。健全な人は拒絶反応を起こすのかも。

<フリートーク
【「誰か/何かに影響を受けて書く」ということ】
C:宮沢賢治村上春樹の文章や表現を参考にしたい気持ちはわかるけど、しないほうがいい。誰に影響を受けているかバレるから。換骨奪胎するのならいいけれど。
私は真似をしてしまいそうなので、村上春樹は読まないようにしている。
G:心酔すると作風が似ちゃいますね。村上春樹っぽい作品を読んだことがある。
C:司馬遼太郎的なものや松本清張的なものを書く人もいる。読者としてはいいけれど創作者としては気をつけないと。鑑賞者として読むのと、創作者として読むのは違う。とくに長く残っている作品を読む場合は。
G:書き方がわからないとき、人に「オリジナルはない。脳内の情景はオリジナルで見られるわけがない。だから真似していい」と言われた。ほとんどの芸術は模倣から始まる。
C:それは正論ですけど。やはり自分が好きな作品を取り入れてしまう。
G:いろいろなところから取り入れて、元がわからないようにすればいいのでは。
C:境目が難しいですね。

【国語教育の中の「感想」】
◆C:高校では「現代文」が「論理国語」と「文学国語」に分かれるようになる。賛否はあるが、会社に入ってきて文章を書けない人がいると、なぜ学校で教えないのか、と思う。
◆F:国語教育は、感想文を書かせますよね。私は批評文なら書けるけれど、ですます調の国語感想文が苦手。
ちなみに大学生に批評を書かせたら、ですます調の感想文が出てくる。社会人になる前にやめろ、と言うんですが。
C:修学旅行も、行く前から感想文が決まっている。白紙の状態で書かせない。原爆ドームに行っても、知覧特攻平和会館に行っても感想は同じ。でも、原爆ドームには原爆ドームの、知覧には知覧の感想があるはずなんです。知覧には特攻隊員の前向きな遺書がたくさんある。教師は「これは書かされたのだ」と教える。教え方が決まっている。
F:修学旅行へ行く前に感想文を書かされたりしましたね。当日お腹を壊したと書いたら、本当にお腹を壊したふりをしろよ、という罰ゲームみたいな企画で。
C:私は引率する先生の視点で三十枚くらい書いた。やっぱりこいつは遅刻した、みたいな。それが私の最初の小説かも。
G:私は感想を書かされなかった。
F:私のころはすごく書かされた。だから、大学の評論の課題にも“感想文”を書いてくる学生が多い。

【作者と作品について】
G:「注文の多い料理店、何が面白いのかわからない。
C:わかりやすい。どんでん返しだし。
F:起承転結、絵に描いたようなどんでん返しがある。3分で人形劇にしやすく、コストパフォーマンスがいい。
銀河鉄道の夜に関しては、それが通用しない。宗教くささ・説教くささがある。「動物である以上、何らかの搾取から逃れられない。どう折り合いをつけるのか?」と煩悶している作者の思想が垣間見える。ジャンルは違うが、レフ・トルストイの説教くささを思い出した。
宮沢賢治夏目漱石は気の毒だと思う。作家や作品が定型化しているというか、「安全ですよ」「安心ですよ」というブランドになっているのは、ある意味の権威。国語教育に“スタンダード”として取り入れられて、現代国語とか、そっちに引っ張られてしまうのじゃないかと。アニメになったり、NHKの人形劇になったり……子どもに見せても安全という“パッケージ化”“陳腐化”されて。
実際に作品を読んでみたらそうでもないんだけど。現状では、大事なところを見落としてしまいそうで。手記とか詩のほうが本質に迫れるはず。
死後、大量の春画が出てきたんだけど、死ぬまで表沙汰にできなかった。
G:農民にも肉は食べてはいけないと説いていたけれど、自分は鰻を食べていたし、矛盾を抱えていたと思う。
F:教員だから、(ジョバンニの父が行っていたかもしれない)密漁のことなどは知っていたはず。「自分は後ろめたいお金で生きている」「搾取せずには生きていけない」という思いがあり、逃れるべき銀河、天上を書きたかったのでは。
G:実家が質屋で、貧しい農民たちの着物や質草を扱い、そのお金で生活して……宮沢賢治は熱心な日蓮宗徒だから、罪の意識はあったと思う。
C:肉を食べてはいけない、というのは仏教の教えではない。日本では、天武天皇が肉食禁止令を出したことで混ざってきた。
F:もともとの仏教では、利益のために殺生をしてはならない、としか言っていない。
C:お釈迦様も牛乳を飲んでいたし。断食明けにスジャータから乳粥を与えられている。
宮沢賢治を読書会で取り上げるのは難しいですね。もう語り尽くされているから。銀河鉄道の夜自体では、質屋や妹に触れられていないので絡めていいものかどうか。
G:初めて読む人に、そういう解説はしちゃだめですね。
C:夢から覚めたら、こうなっていた。「不思議の国のアリス」みたいな。銀河鉄道の夜も、それで読んだらいいと思う。

【施すということ】
G:このベスト集には載っていないけれど、私が好きな作品は「蜘蛛となめくじと狸」(※収録の「洞熊学校を卒業した三人」は「蜘蛛となめくじと狸」を改稿した作品)。蜘蛛もなめくじも狸も、みんな死ぬ。最初に「三人とも死にました。」と書かれている。

『100日後に死ぬワニ』ってあったじゃないですか。死ぬのがわかっていると、作品の味わいや風合いが変わってくる。
「蜘蛛となめくじと狸」では、他の生き物を食べて、大きくなって、死んでしまうんですが。
F:宮沢賢治のそういうところが苦手という人が多い。家畜は家畜という線引きがない。共感しすぎている。私は共感しないほうなので、自分の本棚には置かないな、と。
C:線引きは下手かもしれない。生と死も……
F:そこをぼかせる存在を使っているんじゃないかと。この時代、子どもの死亡率は高い。=半分死の世界と繋がっている。だからこそ、銀河鉄道の夜の主軸にあるのは子ども。ジョバンニは生きて、カムパネルラは帰ってこない。
物語はよくできているし、日本語をうまく使っているし、日本文学の宝だと思うし、教科書に載るのもわかるが、人物を調べていくと個人としては苦手。作者についての解説を読むとアレルギー反応が出る人はいると思う。宗教に凝り固まっているというか、実家が裕福な人がやっているな、と鼻につく。作者が見えづらい作家だと、そういうのは少ないんだけど。
(作者が見えてしまうから)私は太宰治も好きじゃない。
G:どこにでも行ける切符は“想像力”。亡くなった人にも会える。農民の気持ちがわからなくても、想像することはできるんじゃないかな。
F:想像を人に押し付けるな、と。色眼鏡で見てるし、農民と同じ生活をしようとしても長く続かない。「農民芸術大綱」とか頑張ってるんだけど。目につく場所にあるから気になるのかなとは思う。
G:マザー・テレサも裕福な家で育った。
F:マザー・テレサも好きではない。功績は認めるけれど。あなたは米を作れないでしょう、私たちを見下しているでしょう、と思ってしまう。
C:偽善っぽく感じてしまうんですよね。
オードリー・ヘプバーンは後半生をユニセフでの仕事に捧げた。彼女のファンであれば好意的に取るけれど……
F:チャリティは施すほうが選ぶんです。選ばれなかったほうはどう思うのか。
C:受け取るほうも、オードリー・ヘプバーンなら受け取る、というような部分はあるので一概には言えない。天皇陛下の被災地訪問も、受け取るほうは感動している。
B:盛岡に「いわて銀河鉄道」という鉄道事業者があって。この名付けは農民側の復讐じゃないですかね。
C:有名だから。恐竜で町おこしみたいな。
F:知名度抜群ですからね。結果としてはそうなっているかな。
ほかの作家にも言えるけど、ある種の押し付けがましさは、健全なら名作につきまとうもの。

【解釈は読み手に委ねられている】
C:ジョバンニの切符。ジョバンニは死んでいないから、あれがないと途中で下りられない。そのための設定として万能な切符があると考えるのはだめでしょうか。意味付けを考えるとファンタジーは成り立たない。
F:どこまでファンタジーとして受け止めればいいのか、調節に時間がかかった。脈絡なくいきなり汽車に乗るので。
C:子どもはそれでいいんです。大人は理屈で読んでしまう。「不思議の国のアリス」だって子どもは受け入れている。
B:ジョバンニの切符は三次元から持ち込んでいる。敢えて語らないことで深みを持たせるというテクニック。未定稿だからかもしれないけれど。
G:鉄道が走っているのは幻想第四次世界ですよね。三次元ではない。
F:そこは深く考えず、夢、でいいかな。
C:みんな理由を求めますよね。「明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか」とか。事実を受け入れればいいのに。
銀河鉄道も、気づけば座席に座っていればいい。文学学校の合評なら、乗り込むところを書けと言われると思う。ファンタジーは理屈を問い詰めないほうが読めるんじゃないかな。
G:ライトノベルの作家さんが仰っていたんです。純文学は理屈を求める、と。
また、リアリティの問題も。背が低い男性と女性を書くとき、男性150cm、・女性170㎝のほうがリアルだろうけれど、ファンタジーなら男性140cmで女性2mのほうが面白い、とも。
C:たとえば、八月に桜が咲いている作品を書いたら「間違い」と指摘されるんだけど、八月に桜が咲くような異世界なのかもしれない。そういう世界だというオチがあるかもしれない。
理由なく書き始めて、発想が出てきたときに、その発想のまま書いたらいい。
F:こういうジャンルと思って読むから受け入れることができる。宮沢賢治の作品は起承転結がはっきりしているので、銀河鉄道の夜は彼にしては珍しい作品だなと思った。解釈は読む人に委ねられている。

『共喰い』田中慎弥(集英社文庫)

Zoom読書会 2021.11.27
【テキスト】『共喰い』田中 慎弥(集英社文庫) 
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
◆読んでいて、風景がとても想像しやすかった。映画は観ていないのに、「映画を観たんだっけ?」と錯覚してしまうくらい頭に浮かぶ。作者は家に引きこもっていたそうだが、それでも新鮮な景色を描けるんだと驚いた。このような作品を取り上げるのも面白いかなと思い、推薦した。
◆非常に綿密に推敲されている。
◆仁子さんのキャラクターが魅力的ですごくいい。

<参加者A(提出の感想)>
「父と子」あるいは「母と子」を題材にした中編。もしくは単純に「血」がテーマだろうか。はじめ「父殺し」がモチーフだと思っていたが読後の印象は「解呪」のように感じた。冒頭から張られた圧迫感や閉塞感がやんわりほどけるラストはすてき。「戦争のきずあと」が色濃く反映された町が舞台というのはひじょうに奥深い設定だと思う。 
文章表現は「特異」という印象で、作者が持ち前の感性のままに世界を写し取っていると感じた。そのくせ、物語の構成はよく鍛錬された文学的理性の力がひじょうに強い。主人公・遠馬がみずからの「血」を意識しめざめていく過程や「祭りの大雨」をピークに持っていくためのプロット上のしたたかさや周到さは感覚だけでつくりあげられるものではないと思う。「降らない雨」がもたらす作品全体への抑圧感はとてもよかった。感性と理性、あるいは鍛えられた思考力、それらの共生する作品はやはりいい。
「血」と「父と子」ですぐに思い浮かんだのは沢木耕太郎の『血の味』だったが、こちらは同テーマを取り扱っていながらもそれまでの、少なくともぼくが知っているかぎりの「父殺し」譚の様相とはずいぶん違った。このお話を支配しているのは水の力、しずかでかつしたたかな女性原理の力であるとぼくは思う。物語終盤に用意された大雨もまた女性性の象徴だろう。あらゆるものを受け入れ、包みこみ、もしくはおおいつくし、大地と水との境界線さえもあいまいにしてしまうその力はただただ崇高だと思う。性交時に痛みをおぼえながらもがまんしつづけ、その父から暴行を受けても遠馬を責めず、表面上はもの穏やかにじぶんを保とうとする千種の強さと深さはまさに水。魚もごみも排泄物も、水はすべてを受け入れる。そんな千種のセリフ「殺してくれるなら誰でもいい」は胸がしめつけられるほどに鮮烈だった。さらにまた、彼女が遠馬のひとつ年上であるという設定は印象深い。
「青年」を主人公に据え、「父なるもの」を怪物あるいは神になぞらえてそれを退治する「試練」譚は豊富にあるが、今作は本来男性性の力であるはずの「切断」が女性によって行使されている。ここが、この物語の最大の特徴だと思った。切断役の仁子はそもそもとしてみずからの「手」がすでに切断されている、という点も物語としての魅力のひとつ。グリムの『手なし娘』を彷彿させるかのじょは、義手という新しいじぶん=金属(切断や加工をイメージ)の存在と、魚をさばく(やはり切断)のが生業、というふたつの設定を備えており、いま思えば物語冒頭からすでにラストの配役が違和感なく遂げられるよう、粛々と準備されていたことがうかがえる。遠馬からみた「橋の上の両親の影」はひじょうに示唆的だと思った。どこか神話的だとも感じた。はじめ、タイトルの『共喰い』は子が「父殺し」をするさまを象徴しているのだと思っていたが、ひとりの「息子」からみれば、「親」というあるひと組の男女のすがた、そのけっして理解できない異質さや奇怪さという意味では「同類」だったのかもしれない。(残念ながらぼくにはタイトルの真意が分からなかった)あるいは、『共喰い』をしようともして実現できなかった青年の無力さや空虚さを強調するための選択だったのだろうか。雨によって境界線がとろけた世界、「橋」というふたつのものをつなぐ場所で「影」となった男女が命をかけて混じり合うさまは人間としての普遍性を暗示しているように思えてならない。
「負の連鎖」を止めるために罪(あくまでも社会的な)を犯したかのじょ、仁子は、しかしながらけっきょくのところ、やはり「子」の「母」であったことはけっして揺るがず、そんなかのじょが「しごと」後にはなったひと言、「終わったけえ、帰ろういね」には目元をあつくしてしまった。このことばにはかのじょというものがすべて詰まっているように思う。また、ここで義手を失ったこと、そしてしばらくなかった月経が再開したという点はものすごく印象深い。(そもそもこの「義手」という負い目を持ったじぶんをひとりの「女」してみてくれた「父」に対するかのじょの想いはとても切ない)まるでおとぎ話のように、人生寓話としての知恵が深いように感じた。このお話は作品後半の「祭り」と「大雨」に合わせてだんだんと上昇曲線を描いていくが、この「祭りの大雨」(=神なるものを背景にした女性性の象徴)はいわゆるところの「死と再生」を司っているのだろう。ここでひとつの死があって、そうしてひとつの再生が行われる。であるからぼくはこのお話のテーマを「解呪」と受け取ったのだろう。
気の毒なのは主人公の遠馬であって、彼がこの作中で主だってあてがわれている役割はただただ観察と内省である、という印象。ほとんど傀儡。作者に、あるいは物語にとっての。いつも周囲、もしくは内的な衝動に流されそしてひたすら追われているだけ。みずからの意思で能動的に行ったことは性欲を満たすことと父に対する反抗だけ。それもあくまでも態度だけ。実際的な意味において、なにか周囲に大きな影響を与えることはとくに何もしていないような気がする。(読み方が浅いだけだろうか)ラスト、母によってその「呪われた」血の力に何かしらの変化はあったかもしれないが、ぼくにはそれが、かんぜんに消え去ったように思えない。なぜなら血は血だから。それは経験や意思や精神力でどうにかなるほど軽薄なものではないだろう。そういう点もひどく気の毒。父を殺そうとしたときの母のことば、「お前には無理だ。殴られたこと、ないんじゃろうかね」はあまりにも痛烈すぎた。ただ、彼がうなぎ釣りをやめない理由、「親子三人で過ごせる」というところは心から共感できたし胸をつかれる切実さも感じた。
そもそもこのお話に出てくる男性たちの無力さや愚鈍さといったらほんとうに救いがないと思う。けれどもこれは現在田舎に居を置いているぼく自身がひしひしと感じていることでもある。田舎の男というのはとにかく自立していない。まったく子ども。いつまでも子ども。生き方がだらしないし考えは浅いし行動は軽い。それもこれも、「母性」があまりにあまやかしすぎるから。そういう意味では作中の舞台となったちいさな町はいま現在のこの国をうまくあらわしていると思う。ここに作者のなげきと諦観と、あるいは他でもない自己に対する虚しさや失望感を強く感じた。そして同時に深く共鳴。この国の太陽神は世界的にめずらしく「女性」であるが、それにしたって男どもの頼りなさ、思慮の浅さはほんとうになげかわしいことだと思う。本来の意味でいう「父なるもの」が不在の家、そしていつまでも「過去」が滞留しつづける町、というのはまさに言い得て妙だと思った。作中に用意されたもうひとつの母性、琴子ではないが、腹に「子」を宿した後、ひっそりと去っていくのがじつは賢明なのかもしれない。少なくともその独立心・自由意思に強い好感。
この作品はまた描写がとてもよかった。作者がみたものを感じたままに書き出した、という印象。個人的には油絵のように感じた。あるいは水銀のようだと思った。重く、分厚く、どこかなめらか。そして沈黙。重苦しい沈黙の画。「時間」に関する描写もすてき。その緩慢さ、鈍重感は懊悩する青年によく似合う。それから、「雨」によって境界があいまい、カオスになったラストの世界観はほんとうにすばらしかった。圧巻。マジックレアリズム的な表現は大好き。多くの芥川賞作品同様、ここでもやはり、夢とうつつが入り乱れた幻想怪奇表現が取り入れられている。もっとも、今作はあくまでも遠馬個人の観念的世界観にしか過ぎなかったのだろうけど。作品を飾る声なき登場「人物」たち、蝸牛、熊蝉、蟹、鷺、赤犬、虎猫たちの存在感もまたおもしろかった。漢字のインパクト以上に文学作品的役割をみごとに果たしていると思った。活き活きとした方言もまた魅力。「死にゆくことば」を大切にしたいというのは同じ考え。
「少年時代のある成長」を取り扱ったように思う併録作品は胸をほんのりとつかまれる印象だった。じぶんが一歩、「おとな」と呼ばれる年代に踏み出したのはいつだったろうと淡い郷愁感にとらわれた。瀬戸内寂聴さんとの対談はなかなか興味深かった。田中慎弥さんの「言葉というのは蓄積」ということば、そして寂聴さんの(私小説は)「本当は三分、あとの七分はつくりもの」には感銘を受ける。また、宇野千代さんの言であるという「文学の究極は宗教につづく」にも胸を突かれた。
どことなく寓話的なにおいを放つ、「死と再生」の雨のお話。

<参加者B>
◆そんなに長くない作品なのに濃度が高く、非常に読み応えがあった。私は読むのは遅いほうではないと思うが時間がかかった。読みにくいが嫌な読みにくさではなく、噛み応えがあるという感じ。私は普段はさらさら読める小説を読むことが多いので、久々に歯応えのあるものを食べたな、という印象。
◆内容も描写も生々しくて綺麗なものは出てこないのだが不思議と不快感は覚えず、逆に神聖にすら思えた。ある種神話のような。
◆Aさんが書面で述べられたように橋は「境界」。川辺の物語であるというのが象徴的だと思う。母は橋で父を殺すことによって、川辺にいる息子を踏み止めさせたのか。
◆P57からは夢かと思った。結果的に夢ではないのだけど、白昼夢というか、この血からは逃れられないのではという怖れが見せた悪夢であるように感じた。
◆P81。父を刺したあと、仁子さんの義手から、ぽこん、という音がするところがいい。
◆映画では遠馬を菅田将暉さんが演じているそう。上手い俳優さんなので、ちょっと観てみたい。
◆併録の「第三紀層の魚」。「共喰い」のすぐあとに読んだので、読み始めたときは、「共喰い」と同じく少し昔が舞台だと思っていたが、P95で第一次安倍内閣と思われる記述が出てきて、2006年から数年後の話だとわかった。釣りとか魚とか詳しくないけれど、この話は結構好き。この作品も「共喰い」も、時間というものへの想いが打ち出されていたと思う。
◆巻末に瀬戸内寂聴さんとの対談が載っている。今月、寂聴さんが亡くなって間もないので巡り合わせを感じた。

<参加者C>
◆正直、全然合わなかった。まず「ああ、“文学”だな」と思った。序盤、川にゴミが溢れているのが丁寧に書かれていて、“不快さ”そのものを提示してくるのが文学的。エンタメ作品だと、描かれたシーンはのちのちストーリーに関係してくるが、純文学にはそれがない。また、テーマ性にぶら下がっているのではない。取っ掛かりを潰している堅牢な城のような印象。「わかりにくさが文学だよね」というふうな。この作品を読んで、私の中にある“文学”に対する毒を理解した。
◆描写については刺さるところがあった。吊り上げられた鰻の描写(P33~34)など。
“不快さ”を前面に出す部分は、村上龍限りなく透明に近いブルー』に近いものを感じた。『限りなく透明に近いブルー』の描写は不快さを前面に出しているにも関わらずスタイリッシュで(私に)刺さったので、『共喰い』のねばつく描写も刺さる人には刺さるのだと思う。

<参加者D>
◆先ほど読了したばかりなので、Aさんのように精緻なことは言えない。
『共喰い』は話題になりすぎ逆に手が伸びなかったので、いい機会を与えてもらった。
◆すごい作品。場面が生々しく描かれている。
かつて佐藤春夫石原慎太郎太陽の季節』を批判したが、現代では、「こんな性的な描写が許されるのか」など野暮なことを言う人はいないだろうから開き直って書ける。
◆子が、父世代をどう乗り越えていくのかという父と子の物語。主人公は反抗的でありながら宿命的にも考えており、新しい。
タイトルが「共喰い」なので、遠馬が父を殺すのだろうと思って読んでいたら、父を殺したのは母だった。小説的には遠馬が殺さなければならないのでは。遠馬に、母が父を殺してしまったという感慨があればいいのだが、それもなかったので引っかかった。
◆父と子の話を書くのに、これほどえげつない世界を書かなくてはならなかったのか? 中上健次作品の舞台になった「路地」をイメージして書いたのだろうか。「川辺」は、読者に世間と離れたイメージを湧かせるために設定された街だと思うが、「(被差別部落である)路地」ほどの必然性はあるのか。
◆ストーリーがあるような、ないような、詩的な作品。この作品を詩的というとギャグみたいだが、「ストーリーがないこと」が詩的。
以前、川上チューターが「きみらの小説には詩心がない」とおっしゃったとき、私は「詩人の小説にはストーリーがないじゃないか」と言い返した。小説にはいろいろな書き方がある。
◆描写は丹念で(自分が書く上で)参考になるところがたくさんあった。読み飛ばして差し支えのない部分もたくさんあるのは、文学作品だからだろう。
エンタメ作品ではストーリーに関係ない精密な描写はできない。ストーリーを追うためには、どこまで描写するのかという問題を考えさせられた。

<参加者E>
◆忙しい中読んだので、読み飛ばしているところがあるかも。
◆大きくは「父殺し」の物語(ex:ソポクレス『オイディプス王』)。父殺しを経て男性がアイデンティティを確立していくと想定される。
◆気になったのは特異な風景。とくに、魚屋の魚や鰻など、食用の魚のイメージが核心になっているのでは。主人公の異性に対する露骨な制欲、同じような意識を持つ父親への嫌悪が、魚と重なる。ぬめぬめとした川の様子や船虫等の生物が、体液・血・体・性行為と関わってくるのではないか。
主人公が行き来する川辺には生活排水や排泄物がそのまま流れ込んでいる。現代ではクリーンアップされて表には出てこないが、もともと魚は生活排水や汚物を糧にしていた。主人公の父がその魚を糧にして、また排泄する。⇒循環
主人公は表層意識では父を嫌悪しているが、逃れられないという煩悶がある。自分も父と同じようになってしまうのではという煩悶がメインテーマ。しかし、父を殺したのは主人公以外の人間なので、主人公は嫌悪するものから脱せられずループになってしまうのでは。
◆嫌悪感はそうなかった。絶賛する気持ちにはなれないが悪くない。(この作品は)これはこれでありだなと。
私が子どものころは昔ながらの田舎の生活がぎりぎり残っていて、動物の死骸を川に流し、それを食べて育った魚を人間が食べるということがあった。今考えると気持ち悪いなと思う。
血と同じように逃れづらい、田舎の土地の閉塞感も書かれていたような気がする。

<参加者F>
◆読むのは2回目。1回目は芥川賞を受賞したとき。作者が「もらっといてやる」と言っていたので、気になって読んでみた。その発言は文学に対する矜持からくるものなんだと思う。
◆再読して、最初に読んだときの気持ち悪い感覚がよみがえってきた。ここに描かれているような目を背けたいもの(排泄物を食べた魚、臭い、人間くささ、閉塞感、生々しい人間の欲)をすべて詰め込んでいる。
今はトイレで立ち上がった瞬間に水が流れるので排泄物を見ることがない。現代で排斥されようとしている原始的なもの、汚いものを全部書いている。
◆私は純文学を書いていたが、ミステリーや時代小説などのエンタメ作品へ転向した。エンタメは汚いところを見なくてすむから楽しい。純文学を書いていたときは、自分の心を抉りながら本質的なものを絞り出すように書いていて、それを思い出した。純文学とは、こういうのを言うんだ、と。作者が痩せているのは、絞り出すように書いているからではと感銘を受けた。
◆読んで最初に感じたのは、女性の逞しさ。たとえば琴子さんは、遠馬に「ひどく頭の悪い女」(P15)と思われているが馬鹿ではない(ただ、身重で逃げるのは体に負担がかかるので、この部分は、作者が妊娠した女性について知らないなと思った)。
作中の男性は本能に従うだけ。遠馬も父を乗り越えていない(父を殺したのは仁子さんなので)。女の強さ、男の不甲斐なさが描かれている。
◆男のどうしようもない性欲とサディズム・血の宿命など、世界観を作り込み、書き込んでいったのだろう。
◆「親を乗り越える」のような、テーマを書かないのが純文学。答えがないところを追求しているんだと思う。そこがエンタメ的な読み方と異なる。
◆印象としては「青い」。すごく力を入れて書いたのでは。描写は精密すぎて、隙間もないように書かれている。
一つの小説にこんなに力を注ぎ込んだら、多産できない。作者は就職もアルバイトもせず小説を書いていた。そこまでしないと、これほどの描写は書けないんだと思った。
◆食べ物の描写がいい。ご飯が美味しそうで。世界観に合わない食べ物は出てこない。たとえばグラタンとか。

<参加者G(推薦者)>
◆描写は細かいけれど嫌悪感はなく、気持ち悪くもなかった。汚い部分や灰汁を絞り出しているとも感じない。リアリズムを感じるだけ。20年くらい前、雨季のマニラにいたことがあり、その風景を思い出した。
また、DVに関してもリアリティがあって、醜悪なものをフィクションで書いているという気もしない。だから、露悪的だと思わなかったし、汚さも感じなかった。
◆女性が魅力的。とくに仁子さん。義母になるはずだった人が差別的な発言をしたとき掴みかかったり。また、琴子さんに対しての嫉妬もない。
琴子さんもまとも。遠馬に「自分と、自分の親のこと、ばかって思うくらいなら出て行ったほうがいい」と真っ当なことを言う。
◆私は、主人公は仁子さんだと思っていた。遠馬の影が薄いから。遠馬は作中の出来事を通して精神的に何かを乗り越えるわけではないし、養護施設で暮らすようになって生活が変わったという感じもない。
◆遠馬が父と同じように女性を殴るようになるのかはわからない(スイッチはあるが)。答えはない。
◆川と川でないところの区別がなく混じり合ってしまっている場面は秀逸。何かが起こって、水が引くと元に戻る。赤犬が恐らく溺れ死んでいるという描写もよい。
◆作者の他の作品でも、緻密な描写を少しずつずらしていって、世界がおかしくなっていく過程を描いている。緻密だからこそできるのだと思う。

<フリートーク
【「川辺」のような地域はあるのか? また、「川辺」を設定した意味とは?】
F:汚さを感じなかった? 私は汚さを書こうとしていると思った。
E:汚さというか生々しさ。露悪的までは行かないかな。「嫌悪感は抱かれるだろうな」という書き手の意識を感じる。
F:昭和中期はこんな感じだった。日本で一番汚いと言われる大和川の辺りに住んでいたが、作中に出てくる川のようで。そのあと、尼崎の神崎川近くに居を移して、そこもものすごく臭かった。
D:あれは工場排水。通学のとき見ていたけど、確かに見ただけで臭ってきそうだった。でも作中の川の汚さは、私たちの見た戦後の汚さとはまた違う。高度成長を遂げたあとでもこういう場所が残っている、というイメージ。それをどう捉えるか。このような内容を書くために、このような世界を作り出した。作者が閉鎖的な地域の出で、それを書いているとは思えない。引きこもりの閉鎖的とは違うから。でも、読者は作品と作者を結び付けて読む。それが作者の企みではないか。
「今どきは批判的に読む人も少ないだろう」と、敢えてこういうものを作り出したのでは。
F:必死に世界観を作ろうとしている努力の跡が見える。
D:こんな異常な地域はないし、こんな異常な家族はない。でも、もしかしたら……と思わせる実力がある。ニュースで出てきたら騒がれるだろうけれど、小説の世界だと異常だと感じない。
F:私は、DVは小説世界だけでなく日常的にあるんじゃないかと思う。殴られている親とか子どもとか、たくさんいるのでは。
D:たくさんはいないと思う。過大に報道されているのでは。作中のような状況はよくあることと読むのか、ありえないことと読むのか、どちらが正解かはわからない。ただ、作品世界のように、みんながその状態をある程度受け入れているという状況はたぶんない。殴られていることを、本人や周りが批判しないという状況は在り得るのか? 私はないと思う。小説的虚構で、読者に「ある」と思わせるのが作者の意図じゃないかと。
E:作品の舞台となっている川辺だったり、その釣りをするところだったりが、現実云々ではなくフィクションを大前提と考えて、有機的な存在として完成度が高く感心した。
魚を捌いたり、船虫がたかったり、雨が降って土が崩れて……その循環が、一つひとつの細かな描写で表されている。ミクロでは、個人の排泄物や精液も循環している。描写が塩臭かったり生臭かったりするから生々しくはあるが、観念的な捉え方もできる。
個人的に、私は小さい頃、虫がたかるところを見る機会が多かったので、そういう部分にこだわりがある。作者も見ていたのでは……という共感性を持った。「それはどう分解されるんだろう?」という興味。そのようなミクロ/マクロを描いている部分が評価されたのだとうと思う。
F:この小説は、川の臭いより、血の臭いが強い。経血とか、仁子さんが捌く魚の血とか。魚って、すごく血生臭いんです。
E:ここは、川っていうか河口なんですね。鰻は回遊魚だから。海水と淡水が混在した汽水域で、いろいろなものが混じるところ。「臭い」が強調されるのは地理的要因もある。
先週、河口の街に行く機会があったが、潮の満ち引きはすごいと思った。作中でも、海との境界線上である川辺に神社があったり、祭りをしたり、生理中は鳥居を避けたり……聖域の循環を、体の循環と重ねている。
B:「川が女の割れ目」(P19)とありましたね。
E:それがメタファーになっている。生活排水や排泄物などが大地に溶けたあと、どう自分に還るのかが描かれているので。
F:かつて仁子は生理中には鳥居を避けていた。父を殺したあと、生理が再開する。伏線がすごい。

【タイトルについて】
F:何が「共喰い」だろう? 鰻の頭と父親の男性器、それが共喰いだと単純に思っていたけど、もっと深いんですよね。
D:家族全員が共喰いし合っている。遠馬も仁子も。
E:町全体が小さな虫かごなのかなと。虫かごに入れると共喰いし合う。私が目についたのは、排泄物を食べた魚を食べるところ。掘り下げたら何かあるんだろうな、と。基本は二重以上の意味で使っているんだと思う。

【小説の小道具としての「魚」について】
F:私は併録の「第三紀層の魚」は読む気がしなかった。魚ってタイトルだし。
D:肉はイメージとして生臭くない。魚は多くの人が自分の手で捌くから臭いを知っており、作品に使いやすい。
E:魚は捌くと赤身が見えるから、自分の内面や粘膜下の性器と類似する。また、鰻についてくるぬめりの、意味のわからない気持ち悪さ。
F:魚は漬け置きしないと、いつまでも臭い。内臓とか。
昔は、店で「魚を下ろしてください」とは言えない雰囲気があった。主婦はできて当たり前、のような。今は自分で処理している人はあまりいない。
E:自分で動物を潰すこともなくなりましたね。昔は、鶏なら自宅で潰していた。私は、むごいとも残酷とも思わないが、今だと動物虐待に見える人もいる。初めて見る人はグロテスクに感じるかもしれない。
G:私は魚を捌いたことがない。ベジタリアンだったので。肉は息子のためだけに買っていた。
D:「魚は生臭い」というイメージが使えるのは、あと10年くらいかもしれない。
G:常識は変わりますからね。昔は電車で煙草を吸っていたり……
E:映画館でも煙草を吸っていましたね。
煙草と言えば、遠馬が煙草も酒も嗜まない、というのは、「父親と同じではない」というアイテムでは。「放っといても、いずれやるようになるよ」と示唆しているのかも。
D:遠馬はまだ17歳だから、どちらとしても使える(同じではない/いずれやるようになる)。

芥川龍之介賞受賞について】
F:私は、芥川賞の候補に挙がった作品を読んで受賞作を予想するというイベントに参加していて、この作品もその際に取り上げたのだが、選考委員が評価するだろうなと思った。
(選考委員の)宮本輝『泥の河』も生々しい作品。
D:『泥の河』は小説より映画がよかった。子どもたちが可愛くて、生々しさが中和されている。

【巻末の、作者と瀬戸内寂聴さんとの対談について】
E:電子書籍には瀬戸内寂聴さんとの対談は収録されていないので、皆さんの話を聞いて知った。一番合わなさそうな人と対談してるなって(笑)。
瀬戸内寂聴さんの作品は読んだことがあるが、頭の中が恋愛だけという印象を受けた。もっとほかのことに目を向けてもいいのでは、と思った。
この二人の対談はどんな感じだったんだろう。
F:「共喰い」のあとだったので、対談を読んで救われた。
G:田中慎弥さんは)好青年ですよね。
B:(寂聴さんは)あなた恋愛しなさい、みたいな……
F:「早く孫をみせてあげるのも孝行ですよ。……これは尼さんのことば。ほんとは恋愛はじゃんじゃんして、結婚なんかしない方が、いい小説が書けると私は信じています。……これは小説家のことば。」(P205)。いい感じの対談になっている。田中慎弥さんは素直だと思う。
D:こういうのは、お酒でも飲んでやったら楽しいんですよ(笑)。

【周囲との関係について】
D:作中、琴子さんは家を出て行くけど、遠馬が出て行く物語は書けないのだろう。
小学校のころ、学級委員の女の子がいろいろ世話を焼いてくれたのを思い出す。多分、私のことを好きだったんだと思うけど。
E:私は「あなたのために」というのが透けて見えるのがいやで。後々、何か買わされるんじゃないかと(笑)。
F:母性は無償なんです。
D・E:だから煩わしい。
E:私はお金を払っているときのほうが安心する。一番の愛情表現は「声を掛けないこと」だと思っているので。
人の言葉を額面通りに受け取らない人が一定数いる。私がそうなんですけど……話していて、次はどういう手で来るか予想する。我が家では家族で読み合いをするので、長考しているときは沈黙が続く。だから一定時間、一人にしてもらえないと疲弊するんです。
仕事で人と話すことが多いので、帰ったら疲弊して動けなくなる。フランクな会話は苦手ですね。
もしかしたら田中慎弥さんも同じなのではと考えつつ。作中で近所の人が「馬あ君」と呼んでくるのを主人公が快く思っていないのは「裏に何かあるのでは」と探っているからかも。
F:仁子さんと琴子さんは温かく見てくれている。
D:母親が二人いる。違うテイストの母親が二人。それぞれが、もう片方からの逃げ場になっている。
E:(仁子さんと琴子さんは)「売り場が違う」。それぞれに対する振る舞いをしなくてはならない面倒さがある。
D:遠馬が二人を取り持っている部分もある。遠馬の存在が家族のバランスを保っている。
E:どちらにもいい顔をしながらバランスを取って、どちらの母にも父を挟んで子どもとしてバランスを取っている。
私も自分の母と祖母の間を行き来していたところがあるので、この人の前ではこうしよう、こちらの人の前では……と考えていた。どうすれば大人が喜ぶのか、子どもは学習するというのが実感でわかる。コミュニケーションは戦略だと学習した。
D:田中慎弥さんに母は1人。想像で書いたなら大したもの。
E:大したものですね。「もらっといてやる」と言った背景には、相当な思いがあったはず。

『流浪の月』凪良ゆう(東京創元社)

R読書会 2021.11.27
【テキスト】『流浪の月』凪良 ゆう(東京創元社) 
【参加人数】7名
※今回はオンラインでなく、久しぶりの対面形式でした。

<推薦の理由(参加者A)>
凪良ゆうの『滅びの前のシャングリラ』を読み、ページを繰る手が止まらなかった。「読ませる力」がすごい。出来事に想いを乗せて語っているように感じたから、読みやすかったのだろうか。
読書会や合評会で「読みやすい」と言うと、肯定的な意味で取る人と、否定的な意味で取る人がいる。(否定的な人は)「読みやすいけど漫画的、アニメ的」というふうに。私自身は読みやすいほうが好きなのだが、なぜ人によって違いがあるのかと思い、この作者の作品を推薦した。
参加者G:Aさんは『滅びの前のシャングリラ』を挙げられたが、私は『流浪の月』のほうが、より人間が書けていると思い、こちらをテキストに推した。

<参加者B>
◆今回で読むのは2回目。去年の11月(1年前)は、今村夏子『むらさきのスカートの女』、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』、村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』、凪良ゆう『流浪の月』の4冊を読み、その中で一番印象が薄かった。
◆私は表紙にこだわるのだが、『流浪の月』の単行本の表紙はアンティークで素敵だと思った。
◆読みやすかった。一章「少女のはなし」が頭に入らなかったが、終章「彼のはなし」を読んだとき、一章がリフレインで響き渡った。一章だけを読むと誰の話なのかわからない。こういうふうな、かき乱される書き出しがあるのだと感心した。
◆一章はルビが多く、なんでこんなに振るのかと思っていたが、章が進むと減っていき、(一章のルビの多さは)9歳の少女目線だからだとわかった。
◆一章で、更紗の父が亡くなり、母がいなくなるという急展開をさらりと書いているので、もっとすごいことが起こるんだと予感させられた。
◆テーマは【事実と真実の間には月と地球ほどの隔たりがある】だと思う。(物語の中で)人々の憶測と偏見が続くのだと読み取れた。
◆結末にも事実と真実が両方入っていると思った。
更紗と文が社会に晒されて(2人以外から見れば)不幸な境遇だけれど[=事実]、2人は不幸ではない[=真実]。
また、タイトルにも真実が隠れていると思う。表紙の英題は『The Wandering Moon』で、「wandering」には「流浪」のほかに「漫遊」という意味がある。更紗と文が流離いを楽しんでいることを表しているのでは。:流浪[=事実]、漫遊[=真実]
⇒更紗と文は世間から見ると可哀想な存在だが、2人にとっては世間などどうでもよくて、2人でならどこへでも行ける。そんなテーマが隠されているのでは。
◆子どもがいないから自由だというのがある。子どもがいると社会と対決していかなくてはならないので。更紗も文も性的対象者がいないという設定が巧い。

<参加者C>
[事前のレジュメより]
 読み終わって、人間って複雑なんだな、めんどくさい生き物なんだなと思いました。梨花が彼等の理解者でいてくれてほっとしました。
 《1》ストーリーを紡ぐ密度が濃く、展開が巧い
亮が更紗の態度の変化に気付き『calico』まで尾行してきた場面から物語の進行が速くなります。私はどきどきしながらページをめくりました。
 《2》繊細な人物描写
  どの頁を開いてもこの作者独自の表現があり、人物の心理をこれでもか、これでもかと深掘りする手法に圧倒されました。
 《3》登場人物の設定
 同じような環境で育った人物を揃えました。トラウマを抱え、自分が何者であるかを探っているような人物たちです。この中で、安西さんは、適当に雑さがあってちゃらちゃらしているようで芯の強い部分があります。私はこの人物に好感を持ちました。DV男の本質を知っており更紗の力になる人物です。更紗と文は繊細すぎるところがあるので、彼女がいることでこの小説の質を高めたように思います。
 谷さんの存在も大きいと思います。彼女がいることで、ノーマルな男女の恋愛とロリコンの違いがクローズアップされ、谷さんの言葉や行動が、文の苦悩を理解する上でとても大切な役割を果たします。最終盤で、文は第二次性徴のときに発達が停まってしまう病気を抱えていたことが分かります。
 《4》各章につけられた小見出しに違和感
 「彼女のはなし」など、抽象的な小見出しにした理由が分かりません。四章を「彼のはなし」にして文の視点で描くためかな、と邪推しちゃった。四章だけが説明調になっているのが気になりました。二十年もの期間を書くには、説明が多くなるのは仕方ないでしょうが、違和感は残ります。終章「彼のはなしⅡ」も、視点は更紗で書いた方がいいように思いました。
 《5》心に残る文章はいくつもありましたが、店を辞めるときの更紗の想いが胸に刺さりました。「優しい人だ。だからこそ、こんな優しい人ともわかり合えないことに絶望してしまう」(P256)

[以下、読書会にて参加者Cの発言]
◆この本を読んでショックを受けた。
◆まず残ったのは亮くん。執拗なDVにびっくりした。彼の父親もそういう傾向なのが興味深い。
◆次に、週刊誌による暴露とインターネットでの中傷。この2つが文と更紗を社会から排除していく。
◆そして、どのページを開いても人間が掘り下げられていること。作者の文章力はすごい。
◆一番の悲劇は、更紗が孝弘から猥褻行為を受けたところ。その成育歴が、セックス抜きの人間関係を求めていくことに繋がる。そういう意味では清潔感のある作品。
◆私が背伸びをしているのかもしれないが批判的に思う部分もある。「彼のはなし」をなぜつけたのかということ。私は、文の説明調の四章ではなく、あくまで更紗の視点で書いたほうが深みが出るのではと思う。
B:私は四章の「彼のはなし」で文の事情がよくわかった。文学的にどうとかは置いておき、読みやすかった。
E:四章の内容を、更紗視点の本編に入れるといいのだろうか。
B:文の事情は、これまでの更紗視点である程度わかっているから、敢えて入れたのでは。
C:大人になれない、裸になれないという話を集中的に書きたかったのだろうが、私は本編に入れてほしかったと思う。

<参加者D>
◆オンライン環境が整っていなかったので、久しぶりに参加させていただく。
◆読みやすい。読ませるだけの文章力がある。女性作家の作品は巧いと思う。表現も巧いし、(読んでいて)まいったと思わせられる喩えが入っていたり……。見たことのない表現が多く、プロの力を感じた。
◆作者は「事実と真実の違い」に視点がいき、この作品を書くことを思いついたのだろうか。
監禁、DVなど現代の社会問題をうまく取り込んで読者を惹きつける。
◆キャラクターを上手に作れば、小説としては半分成功したようなものだと聞いたことがある。作者は、更紗と文という対照的なキャラクターを形作った。2人以外の登場人物も「ここまでの人はいないだろう。でも、もしかしたらいるかも」とぎりぎり思わせる設定で巧いこと書かれている。
◆私もCさんと同じで四章はいらないと思った。
LGBTはよく小説で取り上げられるが、第二次性徴が来ない病気を扱った小説はこれまでなかったのでは。
C:(登場人物の)安西さんのことはどう思った?
D:子どもを置いて遊びに行く人はいても、ここまでの人は……と思うが、いるかもしれない。
B:安西さんが沖縄旅行から帰ってこない場面はシングルマザーへのバッシングみたいに感じて私は嫌だった。
D:実在し得る限界というか、実在するかもしれない、そういう人ばかりが出てくるのが小説なのかな。
G:デフォルメしている。
C:亮くんの従妹の泉ちゃんもいいキャラクターですね。更紗(と読者)に、亮くんの過去を伝える役割を担っている。
D:亮くんもいい。好きだからやってしまうというところが巧く書かれている。
谷さんも極端。登場人物は極端な人ばかり。
G:みんな欠けてるんですよね。

<参加者E>
◆二章「彼女のはなし」は9歳の更紗視点なので、子どもが知らないであろう慣用句などは使わないように書かれていた。
◆更紗と文の認識も違っているところが面白かった。更紗は、文は少女しか好きになれないと思っているが、実はそうではない。
C:(2人の認識が)すれ違っている。読者には四章で、文が抱える問題が明かされるけれど、更紗にはわかっていない。いろんな角度から人間を描いている。
E:キャラクターを立てるために特徴をつけたのかなと思う。
◆ラストで文が「どこでもいいよ」と答えるのなら、文の孤独をもっと掘り下げるべき。例えば文が、亮くんに殴られる更紗を、身を挺して助ける場面などがあれば想いを描けたのでは。
あるいは、「彼のはなし」の中で、更紗のおかげで自分の気持ちが変わったと書かれていたら、はっきりわかるかなと思う。
◆私はこの本を物足りなく感じた。書き方のせいだと思う。
A:あっさりしすぎてるとか。
E:「赤い薔薇」というと赤い薔薇を思い浮かべるが、「赤い薔薇」を別の言葉で表現してほしい。私は純文学をたくさん読んできたから、頭の中でイメージを作っていくほうに慣れている。そこが物足りないんだろうと。

<参加者F>
◆今、皆さんの意見を伺って、タイトルについて考えた。登場人物はみんな欠けている。欠けているから「月」。欠けている登場人物全員が「流浪の月」なのかなと思った。
◆すごく巧みな作品。紹介していただいてよかった。
◆展開は意表をつくものではなく、例えば、亮くんがサイトで文のことをばらすのは予想がつくのだが、そのとおりになっても目が離せないし、飽きさせない。心の動きを描くのが巧みなのだと思う。現実にあり得る/あり得ないじゃなく、この世界ではこうなのだと読者に納得させる心理描写が見事。
◆それだけではなく、プロットがとても精密で、谷さんが更紗をストーカーとして派出所に突き出したところが、のちのち警察署のシーンに生きてくるところなど、すごく練られている。設計図を見てみたい。自分で書き出してみたら勉強になるだろうなと思った。
私の場合、プロットを立てて書いたらプロットに引っ張られてしまい、登場人物の行動に無理が出てしまう。プロにはそれがない。登場人物が自然に動いている。
◆書き方もいい。亮くんなど、もっと悪者にもできるのに、人は一面ではないということをちゃんと表している。最近、エッセイ漫画などで、明らかに相手を悪役として描写している作品が多く違和感を感じていた。エッセイは主観的なものなので仕方ないかもしれないが、小説だと、より人を多面的に描けるのだろう。
亮くんの苦しみも伝わってきて、彼もどこかで救われたらいいなと思う。そう感じさせるほど立体的に描けている。
◆エンタメを意識して書かれた作品は、ひっかからず、すらすら読めるから印象に残りにくいというのはあるかもしれない。同じくBL出身である作家・一穂ミチ『スモールワールズ』を読書会で取り上げたときも「印象に残らない」という意見があった。ただ、忘れたと思っていても、何かの折に強く思い出すというのは(エンタメ作品に限らず)あるのではないか。
◆感想としては、人間関係のかたちに名前をつける必要はないというのに納得した。私はもともと「友達」とか「親友」とか、自分で定義したり、お互いで言い合ったりしていることが不思議だった。「一緒に○○したい人(ご飯を食べたい、こんな話をしたい、など)」でいいと思っている。
だから文と更紗と梨花(安西さんも含めるかもしれない)、その関係がとても心地よかった。善意を寄せてくれる人とでさえ隔たっていく世界だけど、救いがある。

<参加者G>
◆アイスクリームはご飯ではないというところ(=固定観念の話)から始まるのが示唆的。「普通に」社会へ出て、恋愛して、結婚して……そこから弾き出された人間はどうするのか? という問いかけ。
◆事実と真実の乖離を描き、キリキリする雰囲気を醸し出している。
◆一番印象に残ったのは亮くん。DVをする人間の本質をよく捉えた描き方がなされている。読んでいて、ぎょっとしたのが、P208「どうして許可されなくちゃいけないの?」と更紗が返すと「え?」となる場面。自分がマウントを取っている自覚がない。亮には、「(自分が)許してやっている」、自分は絶対善だという潜在意識がある。自分が相手より上であると思っているDV加害者の特徴がよく出ていた。
DVは連鎖する。亮くんの父親も、かつてDVをしていた。自分が心底愛したり愛されたり、同等の人間関係を築いたことのない人間を巧く描いている。
2022年公開予定の実写映画で、亮くんを横浜流星さんが演じるそうなので頑張ってほしい(更紗は広瀬すずさん、文は松坂桃李さん、谷さんは多部未華子さんが演じる)。
◆更紗も谷さんも、文の真実(体のこと)を知らない。その秘密が剥がれていく四章を読んで私は附に落ちたが、ぼかしたほうが考える余地ができて、文学的価値は上がるのかもしれない。なにもかも説明してしまうので、Eさんが仰られたような「物足りなさ」を感じるのだろう。作者にはっきりとしたイメージがあり、言葉遣いにも若者言葉(「やばい人」など文学的ではない言葉)が多いから、軽いエンタメになってしまうのかも。
私自身は、エンタメと純文学を分けるのは好きではない。人間が描かれていればいいと思う。

<フリートーク
【タイトルについて】
B:タイトルの『流浪の月』が小説中に出てこない。私はエッセイを書いているが、作品の中にタイトルに使われている言葉が出てこなければならないと講師に言われた。
G:エッセイは目的を持ってテーマについて書いているから内容を示す必要があるのでは。小説は暗示するもの。
B:私は『流浪の月』というタイトル、すごくいいと思う。
G:私はこの作者はタイトルをつけるのが下手だと思った。安っぽく感じるというか。
C:私もタイトルはいまいちだと感じる。

【登場人物の造形について】
◆B:小説の書き方を習っているとき、「(作品に)悪者を投入したら面白くなる」と教わった。プロの作品はよく考えて書かれている。

◆B:更紗が誘拐されたと報道されていたのに、(更紗の母親の)灯里さんが出てこないのがショックだった。結局、最後まで出てこない。
C:確かに最初にしか出てこない。
G:彼女はまったくべたついていない。
F:作中で更紗が考えたように外国にいたのかも。灯里さんが最初しか出てこないのは、更紗の状況を作るための、作劇上の都合なんでしょうけど。
D:(読者が)ついていけるギリギリの人ばかりが登場するが、一番ついていけなかった展開は、文が更紗を家に置いていたところ。もうちょっと裏付けがほしかった。
C:私は、その部分はよかったと思う。文は、自分を成長しないトネリコと重ねていて、女の子に興味があるわけではないのに女の子を見ていて。自分と同じような目をした更紗を放っておけなかったのだ、と。
A:文が9歳の更紗を放っておけなかった理由は第四章でわかる。第四章は蛇足的と感じる部分もあるが、腑に落ちた。
D:文の問題は、少女が好きなことではなく、体のこと。どこかで打ち明けないと心が保たないですよね。
B:でも、文も更紗も「言えない」。だから惹かれ合う。
G:更紗が文についていったのはシンパシーを感じたから、だと。
C:更紗は文の家で自由を発散していた。
A:文の家にいたときの更紗は、彼女の母親のように自由だったのに、三章で真逆になって。三章くらいから、面白いなぁと思って読んでいた。

【作中で扱われている社会問題について】
B:9歳の更紗が、孝弘に猥褻行為をされたことを言えないのはわかる。でも24歳になったのだから、(文に対する誤解を解くために)警察で説明するべきだと、読んでいて苛立ちを感じた。こんなふうに読者をもどかしく感じさせるのもテクニックかな。本当のことを話して、みんなが納得する展開になっても違うと思うし。
日本の性暴力に対する認識は諸外国と比べて遅れている。家族間の性暴力は、「嫌がっていなかった」というような理由で無罪になることも多い。被害者は、(加害者以外の)家族のことを考えてしまい、強く主張できるはずないのに。作中では、そういう問題提起もされている。
G:立場を利用しての虐待は、海外ではとても嫌われますよね。
B:そして、ソーシャルメディアでの誹謗中傷。今、社会が抱える問題を扱っている。この作品が書かれたのは2019年。何年かあとには、誹謗中傷への対処が適切になされるようになっているかもしれない。
E:イムリーな問題を扱っているから映画化もされるのだと思う。
D:最初から映画化を狙って書いているのかも。
B:作中にいくつかの問題(性暴力、誹謗中傷、DV、身体の問題など)が描かれるが、どんな人も、どこかに引っかかるのでは。
私の知人の女性は、子育てが一段落したので仕事復帰しようとしたら、それをよく思わない彼女の夫が口をきかなくなるということがあった。これもDVだと思う。
A:私は夫の立場ですけど、なぜ反対するのかわからない。世帯収入が増えるのに。
D:日本の男性は、まだそういう人が多いかも。
G:妻のほうがDV加害者である場合もある。事実と真実は、実際に入っていかないとわからない。
D:亮くんが『calico』で梨花の写真を撮ってサイトに投稿する場面には感心した。確実に文へダメージを与えられますよね。
C:亮くんの再教育は大変だと思う。
A:亮くんも苦しんでいる。
B:ストーカーにならないように別れないと。彼女が何も言わずに去ったら「何で?」となる。
G:亮くんの場合は未練じゃなくてDV。
ストーカーというと、今は、昔の恋人をネットで検索しない人は少ないんじゃないかな。
A:ネットのデジタルタトゥーは刺さりますね。半永久的に消えない。
D:匿名で好き勝手書ける世界を作ったのがおかしいと思う。新聞などには、まだ社会的責任がある。

【書き方について】
◆B:更紗と文の再開が自然で巧い。職場の苦手な先輩にカフェに連れていかれて……という展開は、私だったら思いつかない。
一章は9歳の更紗の視点で書かれているが、9歳はP27の2行目「自分を律して(中略)大変な労力を必要とした。」とは言わないのでは。
E:ただ、子ども視点になるよう、気をつけて書いているのがわかる。

◆B:P21「湊くん、わたしもぎゅってして」のあたりなど、作者は筆が乗って、流れるように書いていると感じる。
この作品は文学的ではないけど内容は濃い。
G:タイプ的には桐生夏生さんに近いかな。桐生さんよりも軽くて現代的だけど人間の心理を書いているところが。
B:人はしばしば、他人に取り扱い注意のシールを貼りたがる。「あの人には近づかないほうがいい」というような。私はそれによって先入観を持たないように気をつけている。

◆A:一人称で、語り手が感じたことだけ書いている。読みやすいけど残らない、面白くないという人もいる。
B:「薔薇は赤い」と書いたほうがいいという人もいる。そこは読者の好み。
A:意味があるなら、わかりづらかったり、読みづらかったりしてもいいと思う。
G:文体に酔わせるスタイルとかもありますしね。

『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ、斎藤真理子訳(筑摩書房)

R読書会@オンライン 2021.10.31
【テキスト】『82年生まれ、キム・ジヨン』 
      チョ・ナムジュ、斎藤真理子訳(筑摩書房) 
【参加人数】8名

<推薦者の理由(参加者A)>
女性史に詳しいFさんが参加してくださるということで、女性に関わる作品を取り上げようと話をしていた。
『82年生まれ、キム・ジヨン』はフェミニズムの入り口のような作品。フェミニズムに詳しい人もそうでない人も、作品を通して話し合えればと思った。

<参加者A>
◆印象に残った部分はたくさんあるが、とくにP98。就職がなかなか決まらないジヨンが父から「おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」と言われたとき、母オ・ミスクが言い返す場面で、本当にこの人は逞しいなと思った。
◆ジヨンが結婚したチョン・デヒョンは理解のあるいい夫なのだが、ジヨンが心を病んだとき、「家事を手伝う」と言ってしまう。P137の、「その「手伝う」っての、ちょっとやめてくれる?(中略)この家はあなたの家でしょ? あなたの家事でしょ? 子どもだってあなたの子どもじゃないの?」というところがとても刺さった。夫自身の家事でもあるのに「手伝う」というのが腹が立つ。
私自身も家で主人といる時間が長いが、この作品を読んで目が覚めた。
◆小説中に、現実の統計や初任給などの数字を入れているのが新しいスタイルだと思った(日本の小説の書き方には縛りがあるので)。言いたいことのためには形式にこだわらないというのを新鮮に感じた。
◆啓蒙小説のような社会的メッセージを持った作品は、書かれた時代には読者に切り込んでくるが、文学的価値や普遍性はあるのか、つい考えてしまう。
たとえば小林多喜二蟹工船』(昭和4年発表)は、今読んでも新しいとは感じない。あるいは、今も搾取の構造があるので普遍性があると受け入れられているのか。
「社会的な旬」というのはどうなのか、皆さんの意見を聞きたい。
◆女性解放を扱った、イプセン『人形の家』は今でも読まれているし、十年後、二十年後にも読まれていると思う。時代を超えた普遍性がある作品には、どのような要素があるのか。
◆夫婦で『82年生まれ、キム・ジヨン』の映画を観て、主人は嫌がるだろうと思ったのだが、そんなことはなかった。ジヨンの夫チョン・デヒョンを俳優のコン・ユが演じていたからでは。
映画では、ジヨンに寄り添うデヒョンが本当に優しかった。男の人にはジヨンの気持ちはわからないのではと思う。わかろうとすることが大切なのだけど。男性からの意見を聞きたい。

<参加者B>
◆この本は、日本で出版されてすぐに買って読んだ。内容は忘れていたが、読み終わって自分の人生に引き付けて考えたとき、私自身の個人的な問題だと思っていたことが、社会的・政治的問題なのだとわかって涙が出そうになったことを覚えている。
夫婦間で問題があっても、個々の性格や考え方などいろいろな要素があるのだからと考え、それが社会問題だとは気づいていなかった。
◆この作品を読んで私の人生が変わるかというと、変わらないだろうという気もした。
◆「キム・ジヨン」とは、韓国の82年生まれの女性に一番多い名前。平均的な女性を取り上げて、率直に問題を提示している。書き方は凝っておらず、精神科医のカルテという形でキム・ジヨンの人生を辿っていく。技にとらわれない力強さがある。
◆小説として生き残れるかと考えると、人物がステレオタイプであり不満足な部分もあると思った。
◆男性からの視点はどうか、気になった。

<参加者C>
◆読むのは今回で2回目。
◆私が書くということを最初にしたのは男女共同参画のレポート。それは表などを入れて結論へ導くものだった。始まりがレポートだったので、その後小説を書き始めたとき、小説は描写や模写が大事だと言われて戸惑った。この作品には数字がたくさん出てくるので、小説とはどういうものか考えた。
◆この作品のような形なら自分にも書けると思ったのだが、やはりこの作品は文学的にも優れている。憑依という導入で、話を引っ張っていくという手法など。
◆読んで実態としては納得するだろうけれど、日本人男性には受けないだろうし、文学として納得されるのだろうか。
◆書いてあることは全部“あるある”。私は主人公のジヨンより上の世代だが、正社員として働いていたとき、会社の若い女性は「女の子」と呼ばれていた。当時は「セクハラ」という言葉もなかった。
◆ジヨンの母が娘二人の部屋に世界地図を貼ったのが印象的だった。
私の母親は、親から「本を読むな」と言われてショックを受けたそうだ。かつて女は賢くないほうが好ましいとされていたが、時代はどんどん変わっているんだと思う。

<参加者D>
◆この作品の舞台は韓国だが、日本でも同じようなことはあると感じた。セクシャルな意図はないが女性の体に触れる人(そういう人は男性には触らない)、明らかにセクシャルな意図で女性に卑猥な質問を投げかける人などに遭遇したことがあるので。もちろん男性が、女性あるいは同性からセクハラ被害を受けることもあるので、片方の性だけが被害者になるとは言わないが。
この作品の感想をいくつかネットで読んだが「日本も昔はこんなことがあった」という意見を見て、「今もある!」と思った。
◆私は86年生まれで、高校までの出席番号は男子が先だったと思う(今は男女混合の出席番号も増えているのだろうか)。作品中にあるような不利益を被らなかったので、疑問を持つことはなかった。
◆学校で記憶に残っているのが、修学旅行の説明の後、女子だけ残されて、生理になったときの対応を話されたこと。その後、男子が「女子だけお菓子食べてる」って言っていてちょっと面白かった。
体が違うので、その差を勘案した役割を振ることは必要だと思う。力の差もあるので。
でも「女性だからスポーツ詳しくないよね」みたいに、男女に関係ないはずのことを言われると引っかかる。
擦り合わせというか、お互いの違いを認めた上で差別をなくしていかなくてはと思う。
◆『82年生まれ、キム・ジヨン』は、小説としてはメッセージ性が強すぎると感じた。
ただ、どんな女性も主人公に共感できる作りになっているのがよい。もっと文芸っぽくしてしまうと、そのキャラクター自身の問題で、読者が「私には関係ない」と思ってしまいそうなので。ジヨンを個性的に書きすぎてもいないし、でもちゃんとリアリティーがあるように造形している。誰にでも当てはめられるようなバランスが絶妙。
◆文学的価値や普遍性について。私は、この作品の作者は、未来に残そうとして書いているのではないと思う。この本をきっかけに、一人でも多くの人が考える切っ掛けになって、男女差別がなくなればいいと考えているのでは。
男女差別がなくなっても、また新たな差別が生まれたとき、差別を扱った作品として再び読まれることがあるかもしれない。

<参加者E>
◆とても話の構成が見事。冒頭はジヨンの中に義母や友人が現れる憑依から始まり、その後は数年ごとを1章としてジヨンの人生が語られ、韓国社会の問題が明かされる。それらはすべて精神科医の目線である。最終章で、精神科医は自分の家庭に思いを馳せる。彼は妻の気持ちを理解したつもりでいるが、最後に、無意識下にある女性への無理解が暴かれる(P166、6行~P167)。巧く書いていると思った。
女性蔑視の描写を積み重ね、それを韓国社会の問題へと繋げる構成が一番素晴らしく、文章もわかりやすい。
◆情景描写や心情描写が少なく、そういった意味での感動は薄いが、さらっと書かれているのが効果的。

<参加者F>
◆読むのは2回目。
◆1回目はすごくブームになっているときに読み、とても怖かった。何が怖かったと言うと、キム・ジヨンの話だけで終わるのではなく、精神科医が納得して理解したようなことを語っておきながら、ドアから1枚外に出ると彼も同じだったというところ。出口がない結末になっているというのが怖い。その怖さが伝わってくることが怖い。
◆でも、読んでいて、どこか救いがあるところもある。母オ・ミスクが父にぽんぽん言うところ、痴漢に遭ったら一人で抱え込まずに「痴漢が悪い」と納得するコミュニティ、会社での先輩女子社員の関わりなど。「女の敵が女」にならない。姑や姉がジヨンの味方をしてくれるのも救い。
被害者であるのに怒られたら、言い返す術を身につける。⇒ドアを開けて外に出ることはできないけれど、窓はある。ドアを開けたら壁なのはわかっているので読むのは辛いが、窓があるので読み返そうと思った。
◆私自身は創作をしないが、創作をする人のご意見に頷くことがあった。
◆文学的評価について。
ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』(1852年)はかつて文学的価値が低いとされていたが、70年代に再評価され、現在に至っている。
シャーロット・パーキンス・ギルマン『黄色い壁紙』(1892年)もフェミニズムに寄りすぎているという声があったが再評価されるようになった。この作品は、ある女性が産後に精神を病んで追い詰められていく話である。医療という名目で監禁されて活動を禁じられ、彼女はどんどん精神を蝕まれていく。医者の言うことを受け入れているのが『82年生まれ、キム・ジヨン』と似ている。
奴隷制度やフェミニズムを真っ向から書いていると「文学的にどうなのか」という理由をつけて抑圧されたりする。私は自分が読んで面白かったらいいと考えている。
◆SFや推理小説も含め、翻訳文学が読まれない時代が続いているが、『82年生まれ、キム・ジヨン』を切っ掛けに、女性が登場する海外文学を読もうという人が増えており、画期的な出版物だったのではないかと思う。

<参加者G>
◆参加した後で男性が私だけだと気づいて怖くなっているのですが(笑)。
◆私自身に遅めの韓流ブームが来ておりドラマなどを観ているので、今回の作品を紹介していただいてよかった。
◆実態としては変わりきれないところがたくさんある、ジェンダーのうねりがある時代を引き継いだ「今」を生きる女性を描いているから、共感を呼んだのかなと思う。
◆韓国らしい物語だと思った。競争社会の中を必死に生きていく女性が、男女平等はあるのかと苦しんでいるドラマに引き込まれた。
◆救いのあるエピソードがあまりないので、しんどいなと思いながら読んだ。ここ数ヶ月、仕事について悩むことが多く、心が弱っているからだと思うが、ジヨンの就職から退職に至るまでに共感した。
救いのあるエピソードは、「1982年~1994」年の、出席番号順に給食を食べることに意見して、順番を変えられたところか。
キム・ジヨンにはさまざまなことが降りかかってくる。社会に対抗できない女性がゆらゆらと揺られていくというのは読んでいて辛かった。
「女性だからかな」「もうちょっと何とかできないのかな」と考えてしまう自分が、デヒョンや精神科医と同じに感じられて落ち込み、トラウマのようになった。
もっと女性の強さとか成功体験があればと思ったが、これが頑張る女性がぶつかってきた壁なのか。読んで勉強し、自分の誤った壁を正さなければならないと感じた。
参加者A:男女問わず、いろいろな人の中に入って抉るという、作者の意図が成功している。

<参加者H>
◆刊行されてすぐに読んで、自覚していなかった辛さに気づかされた。
結婚していたころ、旦那の付属物のような自分に違和感があった。仕事をしながら家のことを回して……思い返すと無理をしていた。「家庭に馴染めない私が欠落しているのかな」と思っていたが、私だけがそう感じているのではないのだとわかった。
◆何をフェミニズムと見なすのかを考えさせられた。
専業主婦であること・仕事をしないことを良しとして、そこに幸せを見出す人もいる。一人ひとりの立場も性格も違うのに、何を以て「恵まれない」と言うのかと。
◆韓国は日本に似ている。少し前の日本かとも思うが。
精神科医の視点で書いたのが成功していると思う。普通、データなどは小説中に入れられないが、カルテという形でジヨンとジヨンの家族の話を描きながら、エビデンスを与えている。
◆「キム・ジヨン」は、82年に韓国で出生した女の子の中で一番多い名前。主人公は、虐げられている大勢の中からはみださない、類型的な人物に造形されている。
多くのフィクションでは、もっと悲惨な境遇にある人をピンポイントで抉るように書いてあり、読者に「私より辛い人がいる」という救いを与えるが、この作品は逆。
女性だけでなく世間一般の男性も当てはまるように(自分のことだと思えるように)設定されている。
◆すごく細かく書かれているので人物が記号になっていない。母のオ・ミスク、姉のキム・ウニョンのキャラクターも秀逸。そして、歳の離れた弟を設定しているのが素晴らしい。キム・ジヨンの家族に男の子がいないと、この物語は成立しない。伝えたいことがあって、登場人物たちを作っている。
一回目に読んだときはただ抉られ、二回目を読んでこれらのことを考えた。
◆映画も観たが、映画ではジヨンの祖母世代・母世代が描かれておらず、旦那も優しいので、彼女が我儘に見えてしまう。旦那を男前の俳優が演じているから尚更。
小説では、祖母、母、娘……世代を重ねて迫ってくる。祖母世代より母世代、母世代よりジヨンのほうがましな環境に身を置いている。そこに救いを見出した。
次の世代は、もっと変わっていればいいなというメッセージを感じた。作中に提示されているデータも含め、二回目はものすごく入ってきた。
◆作っていることが成功している。感動するような小説ではないが、広く読者にアピールして、考えさせる力がある。
◆私自身が男女差を感じたのは社会人になってから。高校は理系のクラスで女子が少なかったから大事にされたし、大学は逆に女子が多かったので男子が小さくなっており、それまで女性だから損をしたということはなかった。
社会人になって勤めた会社で、女性だけがトイレ掃除をしなくてはならなくて、それがとても惨めな気がした。男子トイレを掃除しているときに男性が入ってきたりして。上司に言うと、女だからだというふうな言われ方をして悔しかった(ちなみに、その上司の後任は海外経験がある人で、それからは女性が大事にされるようになった。日本とアメリカはこんなに違うのかと思った)。
あのとき悔し泣きしたことは忘れていない。そういうのが度々あったら病むな、と思う。読者がそれぞれの経験を喚起させられるのだろう。

<フリートーク
【データを入れる書き方について】
A:統計などのデータを入れるのは小説より随筆の書き方に近いかも。以前、Eさんの作品を読ませていただいたとき、随筆だと思って読んでいて、ご本人にそうお伝えしたら「随筆に見えるように書いたんです」と仰られたことがあって。
『82年生まれ、キム・ジヨン』もカルテに見える効果を狙ったのだろうけれど。Eさんはどう思われますか?
E:作り方に成功していますよね。カルテだから情緒に偏ったりしない。精神科医という設定だからこそできたんだと。

【日本のジェンダーギャップについて】
A:フェミニズムのラインは難しい。この作品の主人公は、ごく普通の人。ジェンダーギャップは必ずあるし、気づかないままのことを気づかされるので、読んでいて辛いのでは。
私は内助の功を発揮するのが当たり前だと思って生きてきたので、家父長制の被害者というより加害者かもしれない。正直、フェミニズム運動というのに眉を顰めていたこともある。
しかし、人間として選んで生きる権利は、誰しもが平等に持っている。女性が自分で選んで家庭に入っている場合もあるが、女だからと押し付けられている場合もある。
『人形の家』のノラは家を出て、クリスティーネは愛する人のために生きることを選ぶ。男性のサポートに回ることがフェミニズムに反しているわけではない。自分で選んだかどうかである。
◆文学的価値の有無より、一つの差別がなくなることが大切だし、そうなっても次の差別が生まれて……物事は流動的だなと感じた。
◆Fさん、韓国のジェンダーギャップと日本の違いは感じましたか? 日本は、権力側にいる人の意識も低い。「わきまえない女」など反発があったが、なぜ悪いのかわかっていない。韓国と比べたら、韓国のほうが進んでいるのではと私は思う。
F:私は仕事柄、女子学生の就職活動や、彼氏との関係などの話を耳にする機会が多いが、この作品を読んだらとても身につまされる。全部“あるある”で、日々起こるいろいろなことはすごく似ている。韓国人女性はずばりと抗議するし、表現も直截的だが、日本ではやんわり言わないと総スカンになるので、日本人女性は真綿で包んだような言い方になる。日本のほうが進んでいるとはまったく思わない。
C:英会話の先生が言うには、「自分は英語ができない」と言う日本人は、「自分は英語ができる」という韓国人よりも、英語を話せる場合が多い。自分を表現する力や発言力は、韓国の若い人のほうがしっかりしている。ジェンダーギャップ指数も日本は120位、韓国は102位。(ここでは韓国も決して高くないが)日本は遅れていると思う。

【作中における「憑依」の意味】
A:気になるのは「憑依」について。大学で一緒だったチャ・スンヨンがデヒョンに告白したことなど、ジヨンが知らないはずのことも語っている。
H:私もそこだけがわからなくて。「憑依」というのも作られた状況ですよね、精神科医にかかる状況へ持っていくための。「憑依か、憑依でないか断定できない」とするために先輩の話を入れたのかな。実際にジヨンが知らなかったかはわからないし。夫がそう思っていただけかもしれない。
C:憑依現象を伏線として期待していても解決しない。そこに文学的意味があるみたい。
E:私は、「女性が一人の人間として見られていない」という象徴かなと思った。
H:憑依を解決するための話じゃなくて、あくまで材料ということか。
A:映画ではジヨンは回復する。ジヨンが小説を書くことで自己実現し、元気になって終わる。小説の、精神科医によるラストもないので、また違った作品になっているんです。
H:エンターテイメント映画の観客は、病気に対する結末を描いていないと納得しない。
フェミニズムを意識した映画だと『はちどり』(2018年、韓国)のほうが深いし抉られる。『はちどり』は一人の人間を掘り下げるような、いわゆる文学的な描き方かな。
F:私は映画の『82年生まれ、キム・ジヨン』を観ていないんだけど、レビューを見ていたら、小説のいいところが消えているような気がする。映画では、夫がいい人で、病気が治れば解決する……みたいな。誰にでも当てはまる話じゃなく、キム・ジヨンの話に落とし込んでいる。それだと「夫がいい人でよかったね」「病気が治ってよかったね」ってなってしまう。
原作小説だと、(夫のデヒョン以外の)男性には名前が付いていないんですよね。映画だと俳優のビジュアルのインパクトで話がそちらに引っ張られていっちゃうような気がして。だから観ていない。

【表紙について】
C:表紙に描かれている女性に顔がないのは「あなただけが特別な人じゃない」ということを表しているそう。表紙に、誰の顔を当てはめてもいい、と。
A:深い。「アイデンティティがない」という意味かと思っていた。

【日本における、ジェンダーを取り巻く環境】
C:日本って、いろいろ盛り上がらないな、と。ハッシュタグ#MeTooとかもあったけれど、そこまでじゃなかった。欧米では社会現象になったんだけど。
F:医大に女子が入れなかった事件でも、デモはあったけど、集まった人はそんなに多くなかった。
H:日本の女性は女性差別について、どの程度問題視しているのかな。
F:今の女子学生に意見を求めると、「(女性差別は)絶対だめ」と即答する。
私たちの時代は差があるのが普通だったから、当たり前に受け入れていたけれど。私が通っていた高校も、男子と女子で定員が違った。女子と男子の定員は1:2。だから概して女子のほうが成績がよかった。今でも都立高校は男女同数入学させるという理由で、女子のほうが成績がよくないと入れないところがある。
H:当時は納得していましたよね。
F:だから、昔より良くはなってる。でも、(「女性差別は絶対だめ」と言った学生に)「そのためにあなたは何をするの?」と訊くと、答えが返ってこない。LGBT差別についても「おかしい」と即答するけれど、「デモがあるけど行く?」と訊くと「わからない」と言う。
私たちは「(差別は)仕方ない」と流してきた世代だから、自分がデモに行ったりポスティングをしたりしたとき、それを若い人たちに伝えていきたい。デモは決して特殊な人がやることじゃない、と。
A:男性社会に染まりすぎて、フェミニズムの進行を阻んでいる女性もいる。私自身、良妻賢母が当たり前だったから、男性社会・女性社会というベクトルがまったくなかった。男性社会をバリバリ支えていた加害者だったかもしれない。
H:私も加害者側の気がする。
A:加害者と被害者が一人の中にある。女性だから得した面もあるし。
H:今勤めている会社は、女性が働きやすい環境。でも男性に比べて給料は下がるし、ステップアップもしづらい。それで良しとしている女性もいる。
F:男性の中にも、給料が下がっても無理のない働き方をしたいという人もいるから、裏を返せば、男性にも選択肢がないということ。
H:忙しくて病んでしまった男性もいる。
F:自分で選んだのではなく、「男性はがむしゃらに働け」と誘導されているなら、加害者ではなく被害者。全員が被害者。
H:男性でも女性でも、本人が選んで、上手く回っているなら押し付けることはない。そう思ってしまうことは加害者側かな。
E:コロナ禍で食べていけなくなって売春をした女性が摘発されたというニュースを聞いた。売春した側を罰する法律はあるけれど、買春した側を罰する法律はない。生きるための最後の手段として体を売らなくてはならなかった女性は罰せられるのに、なぜ買ったほうは罰されないのか。
C:ある大学の先生が、「危険な商売をしているのはよくないから国営にするべきだ」とか言っていて。なんだそれは、と思った。

【性差別以外の差別を扱った文学について】
A:社会が変われば女性が解放されるというが、それに見合う責任も発生してくる。
C:ジェンダー」とは「女性差別」という意味ではなく、生物学的な性別に対して、社会的・文化的につくられる性別のこと。
H:男女とも「人間として」ということですよね。性別・人種問わず、同じ条件で選ばれなければならないと思う。
C:トニ・モリスン『青い眼がほしい』はとても胸に迫ってきた。「秘密にしていたけど、1941年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。」という書き出しが怖いと思った。
F:『青い眼がほしい』は大学のときに読んで、すごいと思った。卒論のテーマにトニ・モリスンを選んだ。私の人生を変えた本。授業で学生に紹介したら涙ぐんでいた。
C:誰かが悪者なんじゃなくて、悪者は誰もいない。
F:最初は通常の文体から始まって、それがだんだんぐちゃぐちゃになっていくのが気持ち悪い。
C:なぜマリーゴールドは咲かなかったのか。自分が悪かったと。深く植え過ぎたのかと思ったけれど、町と土が合わなかったせいだと……
F:語り手である少女は、黒人であるため酷い目にあい続けている同級生の女の子を見ていることしかできない。壊れていく彼女を見ているしかない。壊れていく少女は家庭が崩壊するのは自分のせい、「私がもっと可愛ければ両親は喧嘩しないのに」と思い込んでいる。
C:この作品にはデータとか出てこなくて。それがすごい。少女の設定が残酷で怖かった。社会の矛盾をあれこれ書くのではなく、一人に焦点を当てている。
F:卒論を書くために読んだときは、黒人で同じ境遇にいる人に向けて書いているんだと思った。刺さる人にだけ刺さればいい、と。
トニ・モリスンの作品にも憑依や幽霊が出てくる。登場人物たちはそれについては流していて、(なぜ憑依が起こったり幽霊が出てきたのかという)説明もつくんだけど、オチはない。
『ビラヴド』(Beloved、1987年)という作品がある。生まれた赤ちゃんを殺す話で、赤ちゃんはその理由を知っていて幽霊として帰ってくる。そこから話が始まる。

【その他】
C:『SKY 캐슬』という韓国ドラマがあって(邦題『SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜』)、とても面白い。韓ドラはいいですよ。『ミセン』という、雇用形態の格差などを描いた作品もお薦め。
C:女性の生きづらさを描いた作品だと、レティシア・コロンバニ『三つ編み』もよかった。インド人・イタリア人・カナダ人、境遇が違う女性たちの人生が交わっていくところが面白い。

『ダーティホワイトボーイズ』スティーヴン・ハンター、公手成幸訳(扶桑社ミステリー)

Zoom読書会 2021.10.30
【テキスト】『ダーティホワイトボーイズ』
      スティーヴン・ハンター、公手成幸訳(扶桑社ミステリー) 
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者F)>
読書会に参加させてもらったので、自己紹介的な意味で推薦した。森見登美彦『熱帯』(文春文庫)も考えたが、他のメンバーが推薦しないであろうこの作品のほうを選んだ。
『ダーティホワイトボーイズ』を読んだとき、書き手として衝撃を受けた。ちらっと登場するお菓子のメーカーに至るまで丹念に作りこまれており、どのシーンを書くにも相当な手間がかかっているはず。精度の高い工芸品のような小説であり、読んで得るものが多いのではと思う。

<参加者A(提出の感想)>
 現代アメリカ社会の闇とそのひそやかな灯火の系譜について書かれた大作。シンプルにおもしろい。作者の構成力と作中にしかけられた様々な「対比」には胸があつくたかぶった。また、日本人にはなじみの薄い問題、「銃」「差別」「絶望的に圧倒的な格差」について深く考えさせられる作品でもある。いくつもの意思や風習や利害の糸がカオスにからまる多民族国家ならではの濃い暗やみを、作者はするどく洞察しているように思う。映画『アメリカンヒストリーⅩ』同様、いちど触れると、「差別」や「銃問題」についてうかつに意見することができなくなってしまうだろう。
 冒頭から張られた伏線、「ライオン」「不倫」そして「ルータ-ベイスの過去」の本編への絡ませ方が絶妙にすばらしかった。さらに、「多視点型」の特性を活かした作者のストーリー展開も秀逸。読者の気持ちを心地よくもてあそぶ。巧妙に張られた「糸」の扱いと回収に身がふるえた。ひとつの視点ですこし先の「みらい」をわざわざ見せておいてから、別の視点で当該のエピソードを深く掘り下げ、たいていの読者が予想した絵とは異なる結果を示してみせる。小説の神髄は構成という考え方を痛感。それと、このお話は見かけこそ男性性あるいは父性原理のはたらきが明白に強化されているが、しかし、逆にいえば、それだけ女性性の受容力が背景で深くはたらいているともいえると思う。その境界にたたずむリチャードという「未成熟」の成長はこのお話の裏のテーマだったかもしれない。それぞれの登場人物の掘り下げはひじょうに深く、感情移入がわきやすい。それから、各人物に設定された機能と役割は分かりやすくて親しみ深い。「力」のオーデル、「魔法」のリチャード、という印象。お話としてはあきらかに端役であるはずの人物にすら、作者はひとつの深い人生を用意している。それぞれが織り成す糸たちが作品自体を多彩にしていくように思った。作者は椅子に深く身をしずめるタイプなのだろうか。
 個人的に、この作品でもっとも感銘を受けたのは「対比」の力のはたらきだった。寓話的でとても好き。血と汗と泥のにおいがしみついた暴力的な世界観でありながら、この作品は文章表現がひじょうに詩的。色彩豊かでたびたび恍惚。まずはこの対比に強く惹かれた。車中からの情景描写はナボコフの『ロリータ』に比肩するものがあると思う。純情でうつくしい。詩情豊かな情景描写を示したあとで展開される活き活きとしたスラング=けっしてきれいとは呼べないことば使いの対比もよかった。
 ときおり出てくる観念的な文章表現もたまらない。作者もひとりの詩人なのだろう。それから、なんといってもふたりの主役、ラマーとバドの対比がすばらしい。彼らはある意味、ひとりの男性性として扱うことができると思う。社会的にはどう考えても害悪だがひとつの小集団の父としては圧倒的な魅力を誇るラマーと、その反対に社会的には立派で安定している立場でありながら、小集団の父としては堕落、精神的にも軟弱で頼りない人物として描かれているバド。彼らに共通しているのはやはり、抑制をうしなった個人主義と揶揄される現代アメリカ社会が抱える「闇」だろう。自分自身にうそをつかないラマーとその対極に位置したバドの構図もまた寓話的。そこに人間としての普遍性な絵が描き出されているように思う。ラマーの強い意思力があらわれたことば、「やらねばならないことはやらねばならない」を、ラスト、バドの口にのぼらせたことは非常に印象深い。また、ふたりはそれぞれ、おのれの選んだ「しごと」になみなみならぬ熱意と誇りを持って生きているように思う。ふたりそれぞれの経験則から導き出された言動には笑みがこぼれた。皮肉なのは、その「しごと」に打ち込む姿勢が家庭に濃い影を落としているのがバドであり、ラマーは逆に円満と呼べる環境をつくり上げているという点。ひとの心を読むのが巧い「カリスマ」としてのラマーと、実直なたたき上げの一般人、バドの対比がここにも出ている。あわれにもなるがおもしろい。また、「冷酷だがどうも詰めがあまい」といった印象のあるラマーの人間性はいいなと思う。あきらかに知識階級に属していないラマーが「絵」というものに強く心を惹かれる、それが「心の支え」として定着する、といったシーンはとても印象的に残っている。「対極するふたつの概念のあいだでつねに均衡を保とうとする」とされる心のはたらき、その不可思議さがぼくにとっては魅力だった。
「看守ハリーの死」「ケーキによる家庭的な一体感」「息子のホームランによる出血」(事前に行った性交では血は出なかった)「バドの平手打ち」などなど、心を打たれるシーンが多かった。妄想に過ぎないが、作者の本作のモチーフは「ドラクロワのライオンの絵」と「不倫相手を救ったヒーロー像」なのではないかと考えている。こういったジャンルの小説ははじめて読んだが、じぶんでも驚くほどに深く熱中してしまった。構成力と対比がひかる、心浮き立つ作品だった。

<参加者B>
◆私の読書の原動力は興味と好奇心だから、「読書会で皆さんの意見を聞いて、いろいろな視点を持てるのは楽しいな」と、Aさんの感想を伺って思った。
◆『ダーティホワイトボーイズ』はドラマを観ているようで淀みがなく、読みやすいけれど、進んでいくとしんどかった。なんでだろうと考えた。男性性の部分に疎外されているからだろうか。私は、女性性についてはそこまで深く感じなかった。
◆いろいろな人の人生が書かれているのが面白い。ルータ-ベイスとか。
リチャードは、かつて母親の言うことを奴隷のように聞いており、今なお幼稚なフラストレーションを持っていた。彼には女性経験もない。でも、P713で「とうちゃん!」と言うところで決定的な変化が訪れる。
ラマーにも優しい部分があったが、彼にもリチャードのような決定的な変化の瞬間があったのだろうか。
◆皆さんの意見を聞いてみたい。

<参加者C>
◆面白くて一気読みした。私は小説でも漫画でも、動きのあるシーンを読むのが苦手なのだが(格闘シーンやカーチェイスのシーンなど)、この作品のアクションシーンはスピード感や迫力を感じられて楽しめた。
◆長いけれど中だるみがなく、緊張感が保たれていると思った。途中、バドが車のタイヤを調べに農場へ来たときは本当にはらはらした。この時は見つからなかったけど、ここでバドが農場の様子を知ったことが最後の戦いで役立ったり、伏線がすごい。長いけれどストーリーの上で無駄がないと感じる。
◆バドが煮え切らなくて、読んでいてもどかしかった。どっちでもいいからはっきり決めやがれ、と(笑)。最後まで読むと、バドのその態度は終盤のカタルシスへ導くための積み重ねだとわかる。わかるんだけど、対照的にきっぱりさっぱりしたラマーを魅力的に感じる。
◆ラマーたちが「家族」でケーキを囲むところがすごく好きで、この生活がいつまでも続いてほしい……と思わせられてしまった。それは展開として絶対ありえないし、ラマーは必ず死ぬ役どころなんだけど、だからこそ魅力的というか。
◆はっきりしないバドも含めて、キャラクター造形がとてもいい。序盤のバドは煮え切らないけれど、最初にラマーたちと戦ったときはカッコいいと思ったし、「これはモテるな」と納得した(フィクションの中では、なぜモテるかわからないキャラクターがモテたりしていることも多いので)。オーデルもいいし、リチャードもいい。ラマーの魂や血はリチャードに受け継がれたのかな。ラマー・パイは死なず、みたいな。

<参加者D>
◆こんな分厚い小説を読んだことがないので無理かなと思い、章に分けて、少しずつ読んでいこうと決めて読み始めたが、面白さに惹かれてどんどん読み進めてしまい、結局一週間もかからず読み終えてしまった。私は純文学などを味わいながら読むことが多く、ストーリーに引きずられて読むことはあまりないけれど、この作品は続きが気になった。
◆私は面白いと感じただけで、ディテールをあまり分析できなかった。ただ「面白かった」の一言に尽きる。夢中になって読んだので書評的なことは言えないなという感じ。
◆食べ物もおいしくなさそうだし、人が死んでいくのもえげつない。そして私は銃社会で人が死ぬことは嫌い。でも面白い。とくにオーデルは読ませる。ラマーの死に方も、顔が半分なくなったとか、えげつないのだが、それでも読める。自分の中の悪に気づいた。
◆ラマーは人でなしの大悪党だけど、バドよりラマーのほうが好き。読んでいてラマーを応援してしまう。悪人に感情移入してしまうのが不思議。
◆読者として見たとき、バドのほうが嫌い。美味しいところだけとって、自分が破滅するのもいやで、ジェンにもホリィにもいい子ぶって……私はこういうタイプの人が苦手なので。
オーデルはいい。台詞の訳し方もいい。死に方もオーデルらしい。
◆ルータ-ベイスも危うくていい。自分が惨殺した両親のベッドで寝ている。こういうキャラクターは好き。
◆面白いだけじゃなくて感動もある。いつもラマーの後ろについていってるだけだったリチャードがラスト、ラマーのようになって尊敬を集める。こういう終わり方があるのか、と思った。
◆自分自身、見てはいけないダークサイドを見てしまった。新しい世界を切り拓いていただいたので感謝しかない。

<参加者E>
◆私の主観的なところから見ると(論理ではなく感情的な部分で)、爽快感はなく嫌悪感が続いていた。「ファミリー的なもの」「男らしくしろ」という部分に抵抗があったので。ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』に嫌悪感があったのと似ている。
◆感情とはある程度別にして、見えたこととして。もっとも目についたのは、銃とかじゃなく「人種主義」。白人的な“絶対的な優位性”が貫かれている。白人の権威主義に固着するのはラマーやバドの個々人に限ったことではなく、オクラホマ州の州立マカレスター重犯罪刑務所という場所の特性にある。オクラホマ州はかなり田舎で白人が多い。ざっくり言うと、トランプ前大統領の支持層が強いような地域。有色人種がいても住む場所は分かれている。自分ではレイシストではないと思っていても、有色人種と一緒にいたくないと考える人がたくさんいる風土。
マカレスター重犯罪刑務所でピンときたのは、ジョン・スタインベック怒りの葡萄』。主人公がマカレスター重犯罪刑務所から出てくるところから始まる。貧しい白人層ばかり登場し、彼らは、優遇されている異人種への抵抗感を持っている。
『ダーティホワイトボーイズ』では名言されていないが、白人でプロテスタントでヨーロッパルーツで社会的に不利で……その人たちがどうやって自分のアイデンティティを守っているのかがキャラクターの奥に見えた。
◆また、ラマーやバドは男性でいることに固着している。男性が女性をリードして家庭を築いていくという価値観、「自分は強くあらねばならない」という想い。
バドは子どもに付き添うなど、家族を大切にしている体で振る舞っている。男性と女性のアンバランスな関係性。そこが侵されたら猛烈に怒り出すなど、ある種の暴力性がある。
ラマーの場合、黒人の男性に襲われることを一番危惧している。ドッグスタイルで抑え込まれて、絵面的にも下に置かれるのはもっとも屈辱的であり、無自覚なアイデンティティに関わる。
「よき夫でなくてはならない」という強迫観念、「とうちゃん」としての立ち居振る舞い、強くあるために銃で武装すること。その象徴として銃や、ライオンのイメージがある。ラマーはリスクをわかっていても、ライオンのタトゥーを入れようとしている(=強さの象徴を身体に刻もうとしている)。
◆以上は浅はかな「強さ」の追求であり、ラストはなるべくしてなったんだろうと思う。
◆リチャードは重要なキャラクター。彼にはラマーのような男らしさはないが、ラマーの想いを言語化できるメンターとしての補助役であり、作品においてはトリックスター的な役割を担っている。
◆リチャードはラストで銃の引き金を引く。「銃の引き金を引くことで男性になれる」というのはアメリカ的なマッチョイズムであり、黒人への威圧的な態度で終わるのは、異人種より優位にありたいという想いの表れである。
◆この作品には、作者のアメリカを見る眼差しがよく出ている。
◆現在、仕事で、ロビン・ディアンジェロ『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』を取り上げているので、このタイミングで『ダーティホワイトボーイズ』を読んでよかったと思う。

<参加者F>
◆10年ぶりに読み返したが、やはり面白い。忘れている部分もあり、「後半どうなるんだっけ」と思いながら読んだ。Aさんの感想も楽しく読ませていただいた。
◆ネットでいろいろな人の感想を読んでいると、「すごく面白かった」と書いている人が、バドのことをずっと「パド」と書いていて、最初から最後までパドって読んでたんかい、と思ったり(笑)
◆『ダーティホワイトボーイズ』は、スティーヴン・ハンターが手がけるスワガー・サーガの外伝的な位置づけの作品。スワガー・サーガは、ラマーの父親を射殺したハイウェイパトロールの息子、ボブ・リー・スワガーが主人公である。
◆リチャードが印象に残る。彼は読者に一番近く、狂言回し的な役割を担っている。
この作品は、何者でもなかったリチャードが通過儀礼を経て、ダーティホワイトボーイズになるという物語でもある。
◆よくあるハリウッド的なストーリーだがディテールの作り込みで読ませる。物を書くときの参考になると思う。
スティーヴン・ハンターには『四十七人目の男』という日本を舞台にした作品があるが、私には今一つで、この作者はアメリカしか書けないのかなと思った。その点、この作品はすべてアメリカなので自信を持って薦められた。
◆Aさんは感想にて「絶望的な格差を感じた」と仰られたが、ラマーはもっとましな環境に生まれていても、やることは変わらなかったという示唆が作中にある。
◆社会問題に触れずに抽出しているところが職人芸だ。
◆バドは自分が権威主義者であることに自覚的で、自分の考えが古くなりつつあることも理解している。
◆締め方にも余韻があり、いい。(P730「ああ、ライオンよ。」)

<フリートーク
【作品の舞台である土地について】
D:作品の俯瞰的な構造どうこうより、こんなアメリカ、こんな社会には住みたくないと思った。
E:オクラホマは、あまりテレビに映らないアメリカという感じ。近くのショッピングセンターまで数十キロ。マカレスター重犯罪刑務所はそんな中にあって、難攻不落の刑務所として知られている。
D:作品に情緒的なものが少なく、男性性が強調されている。
E:脱走したあとは情緒的。「とうちゃん」「かあちゃん」という家族的な在り方が、田舎の人間関係みたいで。これもバドとの対比になっている。脱臭が巧い。本当はすごく臭いんだけど。血抜きをして「記号」にしている。
D:家族としての在り方がティピカルで。
E:「西海岸はアメリカではない」と言う人もいる。リアルなアメリカには絶対的な格差がある。
オクラホマが舞台になる小説には、丁寧に「お母さん」「お父さん」と訳していても、原文ではオクラホマ弁で「かあちゃん」「とうちゃん」のような感じ。べっとりとした人間関係で、横の繋がりがある。そういう層には受ける作品だと思う。
D:広大な土地にハイウェイが続いて、車でデニーズやショッピングセンターに行って。私たちの場合は飲食店に行こうと思ったら10分歩けば行けるんだけど。
E:だから、一度にいっぱい買えるコストコが便利。オクラホマシティだとまだ街だけど、ちょっと離れると本当に田舎。一番怖いのは、何もない平原で車が動かなくなること……。
使ってはいけない言葉だけど、英語で“Okie(オクラホマ野郎)”というと田舎者という意味になる。他の作品で、白人同士で協力しあって、教会とか出てきて、寄った先で田舎者と言われる、みたいなものがある。あと、そこにもマッチョイズムが現われている。
D:ドラマ『大草原の小さな家』を思い出した。父性と母性。子どもがいて、生きていかなければというところでは父性が大事になってくるんだろうな、と。
E:自分たちで開拓して。だから自分の身を守るために銃を持つんだ、となる。
D:すごく怖い世界ですよね。銃はすぐ人を殺せる。
E:この作品の(アメリカの)読み手は、それなりに銃に親しんだ人が多いはず。成人するまでに射撃実習に参加したり、女の子は誕生日プレゼントに小さい銃を貰ったりする。
リチャードの「銃を撃ったことがない」というのは「男じゃない」を意味する。「撃って一人前になれ」は「いい加減童貞を捨てろ」みたいな意味合いになる。私はそこに暴力性のようなものを感じたのだけれど。
ラマーにしろバドにしろC・Dにしろ、コーチ的なところがある(C・Dはバドと息子たちを飲みに誘っていた)。ある意味で上下をつけながら世界を紡いでいく。いくら脱臭されていても臭いな、と。

【作品における男性性、父性について】
D:私が一番臭いと思ったのは冒頭。男性の性的魅力に重きを置いている。ホリィにしてもバドを褒め称えるし。
E:冒頭は白人と黒人との対比。黒人は肉体的に優位にいるんだけど、ラマーはもっと上だ、という。黒人に負けないぞという強さの誇示的な部分もあるのでは。
最初(P10)と最後(P728)に「ダーティホワイトボーイズ」という単語が出てきて、構成的にすごく技工を凝らしているなと思った。「ダーティホワイトボーイズ」はチンピラ、くらいかな。アメリカでは肌の色はとても重みがある。白人のチンピラを指すときには「white……」とつくけれど、黒人のチンピラは「黒人」のままで、一般の黒人と区別しない。
D:男性性、父性が強調されているのと同時に、女性性も強調されている。男性から見て女性はこうあってほしい、というような。男性であるラマーやオーデルはキャラが立っているから想像しやすいけど、女性のジェンやホリィからは無理やり作った女性神話みたいなものを感じる。ホリィは最後に頬をぶたれるし。
B:ホリィ、アホみたいですよね。旦那が殺されても平然としているし。
D:ホリィは男性の理想では。性的魅力に富んで、ちょっとお馬鹿で、旦那がラマーに殺されたのに、バドを褒め称えて……。
B:年齢もバドの22歳下で。
E:私は男性だけど、積極的に電話してって言われたらうんざりしますね、個人的には。
D:私の世代にはこういうタイプの女性が多い。演歌の世界みたいな。
E:ものの考え方の単位が「家」なんです。その人に尽くすのがベター、みたいな。個々人同士の信頼関係というより、昔から決まっているキャラクターを演じてください、みたいな。私はそういうのがしんどい。父親、母親以外のものになってはいけない、というようなものが。
男はガス抜きができる。バドは家庭に収まりきらない感情をホリィで発散している。それが黙認される風土がある。女性が同じことをすると、一回で姦通罪的に見られるであろう息苦しさが鼻についた。私の感情的なしこりは、そこに端を発している。
D:ルータ-ベイス以外の女性は人物像が作り込まれておらず、お人形のようだと感じた。それが、しんどい人にはしんどい。私はここに描かれている男性を面白いと思えるから楽しめたけれど。
E:私はこういうタイプの男性と喧嘩して。10年20年経っても、やっぱり喧嘩している。「兄貴」的なものを持ち出されて、話がまとまらない。
D:岸和田とか、イメージに近いよね。
E:結婚も早かったりしますね。そして横の繋がりが強い。それが苦手で出る人もいる。
D:俺が面倒見てやる、みたいなものが。
E:刑務所や牢獄の人間関係って、ある種、兄弟分のような、家族的な関係性がなくはないと思う。
B:ケルアックの『オン・ザ・ロード』、私も苦行だった。あと、ドラマ『ウォーキング・デッド』も苦行で。サバイバルのところで銃を持ちだすのが父性的で、抒情がなくて。ゾンビ映画は好きなんだけど。
E:オン・ザ・ロード』は、そういうものを出して、移動していくのが醍醐味なんだろうなと思う。ヒッピー世代の人が見るとまた違うかも。
D:エンターテイメントとしては面白かったけど、父性や男性性を考えてしまうと……
E:アナザーアメリカみたいなものへの、取っ掛かりになるかも。

【「肉体」的なキャラクターと「精神」的なキャラクター】
D:今までこういう作品を読んだことがなかったけど、すごく面白かった。私は銃社会とか父性とかライオンとか嫌いなんだけど、本当に面白くて。
E:肉体と精神とを分けると、ラマーはすごく肉体的な人。タトゥーにこだわるところからも、それがわかる。ラマーは自分を言語化できない。だから拳にタトゥーがある。彫るとき、痛いのは嫌なんだけど、それでも彫ろうとする。ラマーには自分を表現する手段が他にない。その意を汲んで表現するのがリチャード(タトゥーのデザインなど)。
「肉体」はラマーやバドで、それをある種観念化しているリチャード(:いろいろな意味でグレーゾーンな存在)は、この作品におけるトリックスターである。
D:リチャードの使い方が巧い。
E:(この物語は)ある種の怪談なのでは。リチャードはラマーに執着し、最終的にラマーに取り込まれてしまう。私はそこに爽快感を覚えなかった。怪物に憧れて、自分も怪物になってしまったように感じた。
D:ラストにカタルシスを感じるか感じないか、人によって違う。
E:感じなかったら怪談なんです。

【映像化を意識?】
B:バドは死ななかった。何回も死にそうだったのに助かるのがアメリカ的。
D:ラマーとの最後の戦いで死んだみたいなミスリードがあるけど、結局自分だけ家族のもとに戻って、いいようになって……
F:一回死んだように思わせる演出って、映画でもよくある。
E:シルヴェスター・スタローンシュワルツェネッガー的な。
F:作者は商業作家なので、映画化を見越して書いていると思う。脚本に起こしやすそう。
E:登場人物が使う銃の指定があるとも見れる。

【作中の料理など、ディテールの作り込みについて】
D:料理。アメリカ的に、美味しそうに書いてるつもりなんだろうけど、なんかぱさぱさしてる。
F:ホーホーケーキとか食べてみたい。そういうディテールが好き。
B:ホーホーケーキ、自動販売機のケーキだから味はどうなんだろう。
E:アメリカは味よりも、お腹が膨れたらいい、みたいなところがある。油ものを油で揚げたり、一番小さいサイズを頼んでも日本での大盛りくらいの量だったり。
B:作中に出てくるお店もデニーズだし、特に食べてみたいとは思わなかった。
E:デニーズで客がいくら払って、金庫にいくらあるかがリアル。(客が)ホームフライドやパンケーキをちまちま食べて……というのが、数字として生々しい。
D:食べ物含めて、ディテールを作り込んで、独特な世界観を構築できている。たとえばここにシーザーサラダとか出てきても似合わない。
E:サラダを食べるのは富裕層。ここでは、とりあえず安くてお腹にたまるものを食べる。アメリカには、ハンバーガーを食べたら野菜を摂ったことになる、と言う人も。ハンバーガーにはトマトが入ってるから。

『動物農場〔新訳版〕』ジョージ・オーウェル、山形浩生訳(ハヤカワepi文庫)

R読書会@オンライン 2021.09.25
【テキスト】『動物農場〔新訳版〕』 
      ジョージ・オーウェル山形浩生訳(ハヤカワepi文庫) 
【参加人数】6名

<推薦者の理由(参加者F)>
文学学校へ通っていたとき、こんな作品があると教えてもらって手に取った。童話を読んでいるように面白く読めたが、権力を痛烈に批判しており、こういう形で言いたいことを言えるんだと衝撃的だった。
(私たちが普段書いている小説と)作り方は全然違うけれど、書くときの参考にできるかと思い、そして純粋に作品として面白いので薦めさせていただいた。

<参加者A>
◆とても読みやすく、最後まで一気に読めた。書かれていることはソビエト連邦社会主義への批判であり、社会主義そのものだと思った。寓話の形にすると、他の国に当てはめることもできるし、言論の統制が厳しい場所に当てはめることもできるし、読む人の現状にも当てはめることもできる。ただ面白いだけではなく普遍性がある。
◆以上のようなメリットの他に、寓話にする必然性はあったのかという気もする。社会主義をそのまま具体的に書いてもよかったのではないか。ジョージ・オーウェルソ連にいたわけではないので、敢えて寓話にした意味とは?

<参加者B>
◆社会風刺的な作品が好きなので、大変面白く読ませていただいた。ジョージ・オーウェルの作品は初めてで、『1984年』などディストピア作家のイメージだったが、『動物農場』を読むとコミカル社会派という感じ。悲惨だけど明るい。
◆作者は社会主義や人間の闘争に絶望していたのか、それとも希望を持っていたのか?
◆忠実なボクサー=思考停止した直情型の人間は政府にとっては格好の餌食。可哀そうだが最後に救いはあっていい。それが作者の優しさだろうか。
◆自分たちで作った国で暮らそうと社会主義を打ち立てるが、権力の座についた瞬間に腐敗していく。権力の構造が無限に繰り返されているのが無駄なく描かれていく。このループは永遠に続くのかと悲しくなった。
◆ハヤカワepi文庫の山形浩生の訳本には、序文から解説(訳者あとがき)まですごく詳しく載っており、最後まで読むと作者の意図がわかる。

<参加者C>
◆私は角川文庫の高畠文夫の訳本(1972年発行、1991年に改版)で読んだ。こちらもオーウェルの生涯など解説が充実しており、わかりやすかった。
ジョージ・オーウェルは『1984年』がよく話題に上るが私はまだ読んでいないので、(この『動物農場』を読んで)そちらも絶対読まなければと思った。
◆こういう形で象徴的に書いたから少ない分量で構図を描いてみせられる。
リアルなドラマにしてしまうと、人間の人格にフォーカスを当てなくてはならない(人物像を膨らませて、人間ドラマにしなくてはならなくなる)。そうすると構図としての社会批判、スターリニズム批判からずれてしまう。なので、動物化カリカチュアして書いている。うまいこと締まった作品。
◆どんどん戒律が詐術で変えられていき、やがて「四本足はよい、二本足は悪い」までひっくり返してしまう。結末をどうするのかなと思っていたが、そんなことまでひっくり返すのかと驚いた。権力者を甘く見ていた。
◆革命後の苦しい生活を素晴らしいと信じ込まされている動物たちは、格差社会で生きる私たちと変わらない。誰にでもチャンスがあると言われているが、実際にそれを手にすることは難しい。我々は本当に自由なのか? それとも奴隷なのか?
スターリニズム批判を超えて、どんな時代でも通じる権力批判になっている。

<参加者D>
◆1944年に書き上げられた作品だが、70年以上前に書かれたものとは思えない。権力を手に入れたらこうなるんだということがよく描かれており、恐ろしい。
◆(ハヤカワepi文庫の山形浩生の訳本に)序文や解説が載っているので、とてもわかりやすかった。動物を使った作者の意図も理解できた。
ソ連の率いる社会主義国家を批判しようとして書かれた作品。序文案には、かなりのページを割いて報道の自由にも言及している。なぜ作者が批判をしているのか、この版にはすべて書いている。
◆最初は序文や解説を読まずに本文を読んでいたので、現在の社会主義国家のことを連想したが、日本も報道の自由が怪しいところにきている。世界報道自由度ランキング2021年版だと日本は67位(参考:1位・ノルウェー、2位・フィンランド、3位・スウェーデン、4位・デンマーク、5位・コスタリカ……42位・韓国)。プロパガンダも気をつけているが、とんでもない言葉が人の口から上がってきている。特定の政党を推していないと反日であるかのような風潮なども。気をつけないといけないと思った。

<参加者E>
◆推薦していただいでよかった。本当に偶然だが、一週間前の読書会で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を読んだばかりなので。オーウェルはハクスリーの教え子で、『1984年』と『すばらしい新世界』はディストピア文学の双璧をなすと言われている。本当にタイミングがよく、読書の神様っているんだなと思った。
◆この小説は現代において、社会主義への批判というより、すべての権力への批判として読めると思い、そこに寓話にする意味を感じた。
権力を持った者が、最初はまともなことを言っていても(本人も本当にそう思っているのかもしれない)だんだん権力に溺れてしまう。すごく普遍的だと思う。
◆私は豚よりも、他の動物の態度が気になった。でも、自分がそうでないと言い切れない。(戦争で死ぬかもしれないが)ヒツジでいるのが一番楽だろうし、ボクサーでいるのは幸せであるとも思う。
一週間前の読書会も踏まえてだが、「考えること」「学ぶこと」の大切さを強く感じた。権力側は、私たちが無知であることを望んでいる。だから、考えることや学ぶことをやめてはならない。
ジョージ・オーウェルオルダス・ハクスリーの作品をもっと読んでみたいと思った。
◆序文と解説は必要だけど、本文のあとから読むべきだと思った。最初から社会主義批判として読むと見落としてしまうこともあるだろうし、自分の頭で考えるべきこと、気づくべきことも多いはずなので。

<参加者F(推薦者)>
◆バイブルみたいに読んだらと言われている本。実際に読んで、多くの人に読み継がれている理由がわかった。

<フリートーク
【なぜ権力者の象徴が豚なのか】
B:なぜ権力者の象徴が豚なのかわからなかった。
C:豚には欲の深い動物というイメージがあるのでは。
D:馬のボクサーは必死に働いて(男性)、クローバーはお母さんのように動物たちを庇護して(女性)、モリーはリボンや砂糖を気にして(女性)……女性蔑視的な意味合いもあるのかな。
C:三鷹の森ジブリ美術館の運営するサイトでアニメ『動物農場』(イギリスのアニメーションスタジオ・ハラス&バチュラーが1954年に制作)の予告編や寸評が観られる。宮崎駿氏らの解説も。「今、豚は太っていない(「動物農場」を語る/宮崎駿インタビューより)」。
・アニメ映画『動物農場』公式サイト https://www.ghibli-museum.jp/animal/top.html
・予告編 https://www.ghibli-museum.jp/animal/trailer/
・「動物農場」を語る https://www.ghibli-museum.jp/animal/neppu/

【寓話とした意味】
A:Cさん。登場人物を「人間」として書くと構図はぼやけてしまうものですか?
C:具体的な人物として書くと、人物の運命を描くためにドラマが増えてしまって、構図を描くということがぼやけてしまう。
A:人物造形に力が入ってしまって。
C:人間のドラマにしてしまうと、どうしても人間ドラマになってしまう。構図よりそちらに焦点が当たりやすくなる。

【大衆の意識について】
D:最近、ウィズセンター(男女共同参画推進センター)で、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著『戦争は女の顔をしていない』を借りて読んだ。第二次世界大戦で志願し従軍したが、戦後は世間から白い目で見られ、戦争体験を隠さねばならなかった女性たちを扱ったノンフィクション。自分から戦争に行ってしまうという風潮は恐ろしいし、気をつけたい。
B:作者は作中でヒツジのような奴隷根性も批判している。庶民のプライドの無さが権力者を温存している、と。
D:不当な扱いに甘んじている動物たちのほうも批判していますね。ベンジャミンは動物たちに真実を教えようとすればできたのに、シニカルに横目で見ているだけ。
B:冷笑的な知識階級を、もっとも憎んでいる。
D:読んで、「選挙に行かないと」「政治に参加しないと」と思わせられた。
B:私たちだって、安い物があったらそちらを買って思考停止して……ポピュリズムに流れて支配階級を支えているようなところがある。引きずり下ろしてはいない。
D:日本も本当の意味では自由がない。
私は、皇族制度は人権無視だと感じる。皇族が必要なのかアンケートもしないし。イギリスでは「女王の存在は観光に貢献しているし……」という意見が出てくるけど、日本ではそういうことすら書いてはいけない。1944年のイギリスではソ連を悪く言ってはいけないという風潮があったようだが、それは今の日本の風潮と同じ。
B:人間って変わってないんだな、と。
D:憲法九条を守る活動をしている人も高齢化している。そういえば岡山は静か。大阪の人とオンラインで通話しているとデモ隊が通る音が聞こえてきたりする。
B:岡山は保守王国ですからね。

<雑談>
(通信が不安定でメンバーが抜けたり、連絡しあったりしていた)
A:呼びに行って帰ってこない……。
E:ホラー映画みたいな(笑)。
A:(ホラー映画では)なんで行っちゃうんだろうね。
E:コロナ禍でも自分は大丈夫だと思って旅行へ行って感染する人がいるし。画面越しと違って、実際にその場にいたら危ないことに気づかないものなのかな。
A:アメリ同時多発テロを契機とした対テロ戦争のとき、(戦争に)行ったらまずいなって思って。行く兵士が可哀そうだと。でも、国のためを思っている彼らにそう言うのは失礼な気もして……。その時代の中にいると声を上げられないのかも。
D:ブッシュの大統領二期目が決まったとき、「なんで」という声もあった。反対する人がいても、その声は届かない。

『すばらしい新世界〔新訳版〕』オルダス・ハクスリー、大森望訳(ハヤカワepi文庫)

Zoom読書会 2021.09.18
【テキスト】『すばらしい新世界〔新訳版〕』
      オルダス・ハクスリー大森望訳 (ハヤカワepi文庫) 
【参加者】7名

<推薦者の理由(参加者G)>
単純に「好き」だから推薦した。ディストピアを描いた作品は、世界について考えさせてくれる。また、暗示や教育について、皆さんの意見が聞きたかったというのも理由。

<参加者A>
◆名前だけは聞いたことはあったが読む切っ掛けがなかったので、紹介していただいてよかった。
◆なかなか興味深く面白かった。1932年に発表された作品だが、私が高校時代に読んでいたSFのようであり、また、その頃のSFと比べても遜色がない。今の時代でも読める作品。
◆現代とは科学技術の発達の方向が違うことは置いておき(作中では、通信設備を担いでいたり、ドローン技術がなかったりする)、よく考えて書かれている。
◆発表当時は社会風刺として効いていたかもしれないが現代とはずれている。展開は巧く、論旨は納得できる。
◆野蛮人ジョンと世界統制官ムスタファ・モンドの論争の場面(第17章)では両方の論が納得できるように書かれており、そういう意味では上手に物語が作られている。
ただ、ジョンとムスタファ・モンドがどうして対等に論争できているのか、また、この論争はストーリー上適当なのか疑問が残る。作者が読者のために論争しているのでは。
ナチスの優生思想、英国の階級社会などを取り入れた世界観。現代に書くなら、もう少し違うものになるのかもしれない。その辺りからも、当時の人の考えを知ることができて面白く読めた。
◆階級の設定も興味をひく。たとえば最下級のイプシロンは家畜のような扱いで、条件づけにより、家畜的であることに幸せを感じるように作られている。単細胞ではないけれど単細胞分裂のように、一卵性多胎児として増えていく不気味さがある。
方向づける教育はナチスドイツだけでなく、当時の日本でも行われていたのを思い出して、少し恐ろしく感じた。そのような教育は現代でも一部の国で行われており、今後そういう世界になりかねない――そんな漠然とした不安を覚える世界を巧く作り出している。
◆翻訳上の問題化もしれないが、「野蛮人」という呼称はどうなのか。野蛮人というと相当遅れた人種を想像するので、記号化して別の単語を当てはめたほうがよかったのでは(記号化:たとえば……新型コロナウイルスの集団感染を「クラスター」と呼び、今は「クラスター」といえば損型コロナウイルスの集団を指す言葉になっている)。
光文社古典新訳文庫の『すばらしい新世界』では、植松靖夫氏の丁寧な解説が巻末に載っているが、その内容に引っ張られてしまう。もう少し読者に考えさせるほうがいいのでは。

<参加者B>
◆1932年に発表された作品だが、本が読める端末や香りを出す装置など、当時はなかったが現代にある技術が描かれていて、作者の想像力がすごいと思った。
◆描かれているのは、“社会の不平等”が明らかになってきた時代だろうか。
◆私は最近、心の安らぎを求めてゾンビ映画を観ており、その際「みんなゾンビになってしまえばいいんじゃないのか」「人類は滅亡してもいいんじゃないか」と思っていたので、この作品には考えさせられた。この作品の世界ほど人工的に作られた、統制された社会となれば、人類は存続する意味がないのでは。
◆テーマは「幸せについて」。幸せとは、ということがたくさん書かれていた。野人ジョンは自ら“不幸”を選んだ。彼の自死の原因は、不本意ながらソーマを服んで乱交してしまったことが切っ掛けだが、ソーマを服むことは作品中の世界における文明人の幸せである。文明人の幸せとは、“その瞬間の幸せ(私たちで言うところの、お菓子を食べているときの幸せ、空が青くて気持ちいいときの幸せ、など)”であり、それが提供される世界だが、瞬間的な幸せはいずれ逃げていく。人間の“その瞬間の幸せ”ならわかるが、各自にとって最善の幸せとは? 悲しみの中の幸せというものもあるだろう。統制された社会は続いていくと思うが、それはレールを敷かれた幸せしか感じない世界である。

<参加者C>
◆私はSFが好きだがこの作品は読んでいなかったので、いい機会だった。科学万能の、楽しげなディストピアだと感じた(冷戦期に書かれたディストピア作品などには、もっと暗い雰囲気のディストピアが登場するので)。
◆ストレートに怒りを書いたら怒りがにじむ作品になるが、明るく書いている。
◆未来の描写も、書きすぎていないのがいい。宇宙人も出てこないし。
ヘリコプターが実用化されたのは第二次世界大戦後だから、1932年に発表されたこの作品の中で使っているのは慧眼だと思う。
◆小説としては引っかかる。第1章~第3章の会話での説明や、ジョンとムスタファ・モンドの会話でシェイクスピアを引用している部分など。この時代の読者は許容できたのだろうが、現代の読者だと我慢がきかないのでは。
◆ジョンが極端な人物として描かれているため、物腰が洗練されているムスタファ・モンドのほうに共感しやすい。
◆自分が属していない文明圏のことは、ディストピアに見えるのかもしれない。
◆現代とこの作品中の世界は似ていないかな。今の日本で問題になっているのは社会の分断なので。

<参加者D>
◆翻訳された文を読むのが苦手な私でも読みやすかった(原書や他の訳本を読んだわけではないので、もともと読みやすいのか、訳のおかげなのかはわからないが)。
◆所長がレーニナのお尻を叩くところ(P26)は「ん?」と思ったが、読み進めていくと、この世界の価値観が明かされていき「なるほど」と腑に落ちる。社会が変われば常識やマナーも当然変わっていくのだろう。固定観念が破られ、自分の足元がぐらぐらと揺れる感じがする。私たちが当たり前だと思っている価値観や常識がどれほど脆いものか、考える切っ掛けになった。
◆ムスタファ・モンドの話を聞いていると、管理された世界が幸せのように思いかけるのだが、ソーマ(麻薬)漬けであることや、気持ちを押さえつけなくてはならないことを考えると、やはり違うなと思う。
◆“幸せ”と同時に“不幸になる権利”についても考えた。
◆条件づけは、現代日本の育児や学校教育でも普通に行われていることでは。教育とは洗脳であり、刷り込みでもあるはず。親や教師が正しいと思うことを伝えるしかないが、それは別の世界においては正しくないのかもしれない。

<参加者E>
◆私は、この世界がディストピアであるとは感じず、私自身が理想とするユートピア小説として読んだ。皆さんが「カースト的に差別/区別されていいのか」とか、「そうしてまで人類が続く必要があるのか」と仰ったのを聞いて、私は異常なのかと思った。
◆こんな世界になったらすごくいいと感じる。ソーマで苦しみや悲しみを忘れて幸せになれる。「悲しみがあるからこそ幸せを感じられる」という考えが一般的だと思うが、楽しみがあれば苦しみもある……そういう教育を受けているからでは。
私はそうは思わない。危険思想なのかな? ソーマがあったら服みたい。老いや病気、悲しみ、嫉妬の塊なので。不幸とは思わないが、自分自身の存在が重すぎてにっちもさっちもいかないから、忘れることができたら、と感じる。
◆家畜は不幸を感じない。私は小説を書くなど、頭脳的なことをしているときは楽しくないが、ジャガイモの皮むきなど単純作業はとても楽しい。イプシロンが不幸とは思わない。私は、条件づけで肯定されるなら、いくらでもイプシロンになる。
◆幸せは脳内物質によってもたらされる。作者のハクスリーもドラッグ中毒者。ドラッグで陶酔しているときにユートピアが見えるのでは。ハクスリーが「すばらしい新世界」をアイロニーで言っているのかどうかわからない。アイロニーで書いているとは思うが。

<参加者F>
◆『すばらしい新世界』は別の読書会でも取り上げたことがあるので、読書会のテキストとして読むのは二回目。
また仕事柄、学生への課題として出している作品でもある。一般的な感想は言われ尽したと思うので、また違う角度で話すことにする。
オルダス・ハクスリーは、よくジョージ・オーウェルと比較される。オーウェルディストピアが徹底的な圧力と監視によるものであるのに対し、ハクスリーのディストピアは真綿で首を絞めていくような世界。
◆作品世界のベースは現実社会で先行する教養によるところが大きいので、その当時の社会批判になる。
・(Aさんが指摘された)優生学は入っていると思う。作者の祖父のトマス・ハクスリーは動物学者で優生学と関わりがある人なので。
・当時、社会の分断もあった。1930年代では、中流階級の英語と下層階級の英語は通じない。
◆タイトル「すばらしい新世界」は、シェイクスピアの『テンペスト』の第五幕「O brave new world,. That has such people in't!(ああ、すばらしい新世界。こんな人たちがいるなんて!)」から(『すばらしい新世界』P193に引用)。追放された貴族が孤島を植民地のようにしながら暮らし、最後は文明世界に帰っていく……「brave new world(すばらしい新世界)」は文明世界に帰っていくヒロインの台詞である。
ハクスリー『すばらしい新世界』ではそこを転倒させている(=野人が新世界に入っていくが絶望する)。
植民地主義と深い関わりがある『テンペスト』をこの作品に引用しているのには意味がある。植民地は外国の土地や人間を利益のために均一化する(サトウキビの栽培だけをさせてほかの発展を認めない、など)。頭脳作業で全体を把握してるのは上層部だけで、先住者は教育による条件づけにより、ある面において家畜化されている(=個々の個性はなく、社会に対する義理だけを立てる)。
すばらしい新世界』には、「人を家畜化する」植民地的な発想がバックにある。
ディストピアなど管理社会の小説を書く人は植民地に関わっているのではないだろうか。ジョージ・オーウェルもイギリス植民地時代のビルマで警官をしていた。人を家畜化するという発想はヨーロッパの植民地主義からくるものだと推察する。だからこそ今でも読むに耐えうる。
◆「brave」は「すばらしい」と訳されているが、今では「勇敢」という意味である。『テンペスト』はシェイクスピアの時代に書かれた作品で、「すばらしい」という使い方は1930年代当時でも違和感があったが、ハクスリーはわざと用いている。→古いものへの愛着が管理社会へのアンチテーゼになっている。
◆ジョンとモンドの理屈の取り合いの中の「科学における発見は、どんなものでも破壊につながる可能性を秘めている。だから、科学でさえも、ときには潜在的な敵と見なさねばならない」(P312)に注目したい。
シェイクスピアの時代、「化学(science)」には「知識」「知恵」という意味があった。論争を読んでいくと、野人ジョンのほうは「科学」を「知識」「知恵」と捉えているきらいがある(つまり、この論争では古語と現代語がないまぜになっている)。ジョンは「知識」「知恵」が具体的に何を意味しているかはわからないが、「何かを動かすもの」だと理解している。
即ち、この場面には、「知識」は安定した社会の潜在的な敵となるという意味が込められている。
◆支配層は、社会が完全に分断して下層階級は脳が退化しても構わないと思っている。
◆主観的にはとても気持ちのいいディストピアというのが、この作品のキモだと思う。その世界はジョンから見ると不快なのだが、ジョンの住んでいた世界も、外側の人から見ると不快に感じられる。その対立。

<参加者G(推薦者)>
◆言いたいことは、だいたい言っていただいた。
◆『すばらしい新世界』は最近出会った本。
◆教育や暗示は怖い。
私は16歳のころから料理の仕事をしてきたが、16・17歳からやってきたことは頭を使わなくても体が勝手に動く。こういうことかと感銘を受けた。
また、私はもともと文章を書くことや物語を作ることが好きだったが、文章や物語について学校で学んで、自分のリズムで書けなくなった。「こうしなくてはならない」という暗示に、中途半端にかかってしまったのかも。
完全に条件づけされたら幸せなのだろうと思う。
◆現代では、大方の意見に否定的なことを言うと嫌がられる風潮がある。自分の意見を通すと批判されるから大多数と同じことしか言えない。「個人」が死んでいく。
毎日さまざまなニュースや情報が流れ、情報の海に溺れている感じ。将来的に、その情報はコントロールされるのでは。
すばらしい新世界』は、そんな現代社会の行き先に思える。『1984年』の世界はさらに先か。
◆書くというのは、自分の中にあるものを表現するということ。流行や風潮に流されず、自分のものを書ければいいなと思う。
◆冒頭部分の説明は多いが、読者へのナビゲーションの役割があるのかもしれない。
◆第17章のムスタファ・モンドと野人ジョンの場面は好き。科学者の自分を殺したモンドと、それができないジョン。狡猾な老人と青年の対比は普遍的で、100年後であってもこの作品は読まれるのでは。
◆科学的には現代と違うが、イメージによって当たっている部分も多い。たとえば(精神的に)子どもでいなければ生きていけないところなど。
◆現代は父親による管理、父性原理が強い。関西が元気なのは母親が強いからじゃないかと思う。母性原理を見直してほしい。

<フリートーク
ディストピアにおける父性と母性、家族】
E:私は子どもを育てることにエネルギーを注いできたが、母性が本当に必要なものなのか疑問に思う。人間の幸せは、自分の世界を作って自分の幸せを追求するものだと思うが、母親は、子どもがいると自分を犠牲にできてしまう。
「母性は神様のようにすばらしい」と思っている人も多いけれど、果たしてそうだろうか。子どもがいないほうが自由に生きられる。
G:確かに、子どものほうでも親に依存してしまうことだってある。
F:この作品ではfamily(家族)の概念自体が猥褻なものとして排除され、消されている。ムスタファ・モンドが語るところによると、惹かれ合って家族を作るのは「執着」であり、バランスを欠いたもの。母性にはいい面もあるが、子どもからすると母性が恐怖に転化する場合もある。それをこじらせるとミソジニーになるケースも。逆も然りで、父親や父性に関しても同じことが言える。
親が子どもに執着するとバランスを欠いてしまう、ならどうしたらいいか? 「生まれる」という概念をなくしてしまえばいい。家族でなく、Cluster of α、Cluster of βというセットにしてしまって。
この作品には、「家族」というものの冷酷な解体という側面もある。人間の感情を極めて家畜化し、動かないようにする手段として、男女に執着を持たせない。執着は国家元首や社会全体に対するものであるようにする。
他のSF作品でも結構見られる。「“パパ”“ママ”それは何だ?」みたいな。そんな世界においては、(「家族」「パパ」「ママ」などが)モラル的によくない言葉になってしまう。
G:僕が読んできた作品のディストピアは父性が強い。母性がテーマのものはあるのか?
F:まだ読んでないが、2021年4月刊行の『マザーコード』(キャロル・スタイヴァース著/早川文庫SF)とか。最近流行ったのはマーガレット・アトウッド侍女の物語』、続編の『誓願』(いずれも早川書房)。キャサリン・バーデキン『鉤十字の夜』(水声社)では、ナチスが勝利した世界が何百年も続いて、ユダヤ人の代わりに女性が迫害される男社会になっている。ちなみに作者は女性。
しかし私が思うに、女性至上の世界であろうと結果は同じ。一つのことに執着してしまう、執着したゆえにトラブルになる。ムスタファ・モンドから見ると「そら見たことか」と。
ディストピアとは、削ぎ落としが極端になったらどうなるかという思考実験的な面もある。
G:Eさんは子育てした経験をお持ちだが、瓶詰めで人間を作るのがいいなと?
E:思う。妊娠したときから自分の体ではなくなる。人間として限界。出産・育児は楽しい仕事ではない。言葉はよくないが、子どもは親を裏切るし、裏切らなくちゃいけない(=反抗期を経て独立しなくてはならない)。だから母親は、子どもに裏切られるという試練を受ける。
女にとって家族とは、男の人の世話をすること。自分に好きな人ができても不倫とか言われるし。人を好きになるのは自然なことなのに、そういう価値観って何だろう。
ハクスリーの価値観はわからないけれど、女性の体を「むちむち」と表現していたり、作品の中でエッチなことばかりしている。

【尊厳について】
E:なぜ痛みとか苦しみ、執着が悪いのか。
F:いい悪いより、それをよしとする世界、よしとしない世界がぶつかって、わちゃわちゃしているのがこの作品。「安定しているがどうか」という見方。人間にとってどちらがいいのかと問われているのでは。
E:(現実世界の)テロリストも、本を読んだりしていたら自爆しないのではないかな。
F:すばらしい新世界』の世界に欠けているのは個人の尊厳。死ぬまで安定しているとか、ある種の尊厳はあるが、自発的に何かをする尊厳がない。(その世界の)外から見ると非常に尊厳がない。野人ジョンが怒るのはそこ。
(現実世界で)自爆テロを行う人も尊厳に欠けている。自爆すれば神がユートピアで尊厳を与えてくれる、という考え。本人たちが入ってるぶんには快適だから、自分に尊厳がないことがわからない。そこにややこしさ、めんどくささがある。
A:尊厳が必要だとかメインだとか、そうなのだが、それだって条件づけ。条件づけられたジョンがそれを述べているにすぎない。たとえばキリスト教の世界にはキリスト教の条件づけが、イスラム教ではイスラム教の条件づけがある。片方からしか見ていない。
ディストピアであり、ユートピアでもあるのがこの小説。
G:私は料理の仕事をしてきたのだが、和食と洋食では包丁の持ち方から違う。一定のエリアで正しいことが他では悪。生きていることは不安定。
E:作者の価値観がわからない。アイロニーなのか、本当にすばらしいと思っているのか。両方を提示して、結論は読者が決めるということか。
F:だからこそ現代まで読まれている。作者はわかったうえで放り投げている。読む人も敢えて確定しない人が多いのでは。
A:相対性理論は確かな軸がない。いろいろなところに軸がある。すべて自分自身が中心。今まで経験してきたことに基づくしかない。人はみんな違うので紛争があるのは仕方ない。
条件づけによってすべての人を愛せる世界になっても、誰かが嫉妬を持ったら終わってしまう。「自分の相方を誰かに奪われてしまう」という気持ち(所有欲)がなければ不倫は成り立たない。領土だってそう。奪われたら奪い返さなくてはならない。すべてが中心なら紛争があるのは当たり前。
F:そこで『オセロー』を引用しているのは巧み。疑いだしたらきりがないから管理者はそれがないようにしている。
A:シェイクスピアも権威。
F:イギリスの上層階級が共有している知識だから出した、という面もあるかも。
A:野人ジョンがシェイクスピアを出したからあのような議論になったが、彼がシェイクスピアを知らなかったら別の議論になる。

【世界と人類の存続について】
F:ディストピアを描いた作品で)主人公はその世界に馴染まない人物として設定される。あるいは他所から来た人。
1984年』だと体に異常があって馴染めない、というふうな。『すばらしい新世界』の場合は生産の際のミスによる欠陥。そういうキャラクターが違和感を感じ、物語になる。技巧というか流儀。
A:ものすごく脆弱な世界だな、と。アルコールを間違えて混入したり、22年後に眠り病になったり(P258)。誰かの人為的なミスによって崩れてしまう世界だということを随所で示唆している。そういえば、現代でもワクチンに異物が混入していて騒ぎになっているが……。
E:個性はなくならないと思う。この世界、ある程度の個性は残っている。(バーナードの)アルコールの影響だけじゃなくて。
A:でも途上で個性を殺していっている。
G:Bさんが仰られたみたいに、そうまでして人類は必要なの? となる。
B:生物はよく滅亡しているし。恐竜とか。
A:この世界は自然的じゃなく人為的。種が存続していいのか考えていない。
G:確かに。そんなこと考えていない。安定と維持だけ。惑星がなくなるまで続けばいい、という感じ。
A:私たちだって考えていない。いずれα、βみたいな超人類が出てきたりして……あまり続かないほうがいいのかも。
G:ネットの中に漂うみたいな進化はないかな。素粒子になったりして。

現代社会における「ソーマ」】
F:ソーマは寓話的。現代日本だとSNSの「いいね」の数がソーマに近い。何かあったらコネクトして憂さを晴らす。ネット上の固定化した階級の中で生きていく。あるネットの言説を信じる人、信じない人で分かれる。自分が心地よい情報を摂取して生きていく。ソーマの寓話は現代でも通じる。
G:安部公房の『砂の女』みたいな。
F:ネットにリソースを提供するのは、無賃労働や搾取に通じる。現代日本もあまり笑っていられない。仮に異星人が外から見たら「何やってるんだ」となるかも。
A:きっと将来、SNSは禁止されると思う。麻薬だって昔は合法だった。
G:今問題になっているネットいじめも、その布石だったり。
A:人間はそういう麻薬的なものを根絶できない。禁止するほうが不自然。だから容認したらいいという考えもある。新しいユートピアができるかもしれない。実現するには実験しなくてはならないか。

【余暇の過ごし方について】
E:マルクスが「4時間労働になったら余暇は何をすればいいんだ」と言っていたけれど共感する。
F:マルクスの娘婿(ポール・ラファルグ)も言ってますね。労働に最適化されすぎて。
A:「仕事」とされていることが肩書に置き換わってしまっている人がいる。4時間労働になると4時間しか威張れないから、そういう人にとっては都合が悪い。
E:労働抜きにしても、余暇の使い方が上手くないのでは。
A:人間には、他人より優れた者になりたいという欲求がある。小説を書きたい人は小説を書くし、絵を描きたい人は絵を描くし……自分が得手とすることを求めてさまよっている。仕事が得意な人は、それに逃げ込んでしまう。
E:時間があってもすることがないというのは苦痛。
A:そういうときはタガを外す。不倫やギャンブルで時間を潰す人も出てくる。
E:すばらしい新世界』では、異性との交流が幸せ、と言っている。
F:それは、性行為から快楽と生殖を切り離しているため。責任がなく快楽だけが残るのでレジャーになる。

【母性について、「見られていること」について】
G:『バルーン・タウンの殺人』(松尾由美)の殺人犯も、人工子宮が普及した社会の物語。私はどうしても「母性」が核になってしまう。
A:「母性」一言で言っても、貧困のために子どもを売り飛ばしていた時代の母性と、現代の母性は違う。上流階級であっても、子どもから引き離された母親に母性は出てくるのか? 北条政子のように息子を死に追いやってしまうかも。
E:性神話というものがある。子どもを母親に任せていたら楽だし。
A:私たちの世界の「母性」をSFに当てはめるのがおかしい。
(物語の世界において)条件づけで母性を否定させるより、自然に持っていかないといけないのに。これがSF世界の矛盾しているところ。
F:イギリスの圏内に限ったことじゃないけど、生まれがいい人は子供時代、母親でない人に預けられるので、母親が遠くなる。男は男の中だけで育つ。チャールズ皇太子は母親である女王に会うときは緊張するそうだ。いい家であればあるほど母親と遠くなる。
核家族で温かく見守られている、というのは最近の概念。ジョージ・オーウェルは、労働階級の母子はいいなと見ていたが。
E:プロテスタントから見たら聖母マリアは人間。神様ではないけれど信仰されている。人間は母性に憧れる。
A:マリアは父親なくイエスを生んでいる。だから神なんです。
G:マリアは観音的なもの?
E:マリア観音ってあるし。
G:観音様が見ている、というような。
F:ビッグ・ブラザー※が見ている(※『1984年』より)。「見られている」という気持ちの顕在化。
G:それ!
E:自転車を漕いでいるときマスクは意味ないんだけど、してしまう人がいるのは、他人からの監視ではなく、自分自身からの監視によるものかも。
F:それがやがて他人への監視になる。「自分はちゃんとしているのに」という。
B:若いころ、日本で嫌なことがあって、移住しようとカナダで出産した。私はマスクをする意味がないときには外している。同調圧力がいやで。