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R読書会/Zoom読書会

『年月日』閻連科、谷川毅訳(白水社)

R読書会 2024.03.02
【テキスト】『年月日』閻連科、谷川毅訳(白水社
【参加人数】5名(感想提出1名)
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦者:参加者A>
とても印象に残っていた本。トウモロコシなど身近なものを登場させ、主人公を苦しめている自然を創り上げているのがすごい。この読書会には自分で作品を書いている方が多いので、参考になるのではと思い、推薦させていただいた。
E:いつ頃読まれたんですか?
A:3年くらい前です。大江健三郎が「すごい想像力」と評しているのを知って手に取った。素晴らしかった。
F:著者の作品で最初に読んだのが『年月日』ですか?
A:いいえ。『愉楽』『太陽が死んだ日』も読んでいたし、『丁庄の夢 中国エイズ村奇談』もめちゃくちゃ面白いです。
著者は1958年生まれ。その年、毛沢東大躍進政策が始まったが失敗、4500万人の飢饉による死者が出た。また、1966年から1976年には文化大革命が行われており、激動の時代を生きてきた。中国に住みながら、社会と自分たちを冷静に見つめ、作品として紡いでいる。
『丁庄の夢 中国エイズ村奇談』は農民に血を売らせる売血政策により、村民たちがHIVに感染してしまった村の話。売血を勧めた村長の息子がやり玉に上げられ、それでも仲良く暮らしていこうということになったが、最終的に息子も村長を殴り殺してしまう。悲惨な話だが、『年月日』と同じく読みやすい。中国に暮らす人の生き様を淡々とした目で描いている面白い作家。閻連科が日本を見たら、閻連科独特の物語が生まれるのだろうなと思う。
E:『丁庄の夢』は長いですか?
A:長編小説(単行本で358ページ)だけどドタバタ喜劇のようで読みやすい。
E:『年月日』を読んでよかったので『炸裂志』を買ったら分厚くて……辞書? って感じの本が届いて(笑)。二段組で字も小さくて……読みました?
A:持ってはいます(笑)。あれは特別すごいです。 ※単行本で480ページ
E:獄中にでも入らないと読めない……。あんな恐ろしいのが届くとは。
A:いつか読もうと思ってます(笑)。

<参加者B(欠席)>
[事前提出のレジュメ]
このたびは欠席となり申し訳ございません。『年月日』閻連科についての感想です。
風の音、日照りの焼ける色と音、荒涼と続く渇いた大地の匂い、枯れ草を踏んで歩く音、洪水のようなネズミの大移動、夜を徹したオオカミとの睨み合い、少しずつ少しずつ伸びていくトウモロコシの成長の音、先じいが必死に鍬を入れる音、そして先じいに撫でられて涙する盲犬メナシなどなど、すべてが生命力と深い哀愁に満ち満ちていて、欺瞞や虚飾にまみれ、バベルの塔を支配する欲望に突き動かされているだけのようなロシアのウクライナ侵攻、イスラエルガザ紛争の渦巻く現代を生きる自分たちに、おい、目を覚ませと冷水をぶっかけられたような気がした。
この世で大事なものは何か、この地球の大地で守るべきものは何か。その根源的な問いを突きつけられた思いだ。
先じいは骨と皮になっても闘い続ける。どんなことをしてでも1日でも1時間でも長生きをしてトウモロコシを実らせようとする。この枯れ果てた大地にたった一粒でもいい、命あるトウモロコシの種を残そうとした。そして愛する者のためならば命懸けのイカサマだってする。その壮絶なサバイバル、諦めない闘争心、生への執着心は我欲ではない。たった一本のトウモロコシという命あるものを後世のために繋げようとしている。この世界観にただただ圧倒された。人間というのも地球上の一種の生き物に過ぎないという世界観は『ザリガニの鳴くところ』(ディーリア・オーエンズ著)などにも通じるもので、人類に明日があるとしたら考えなくてはいけないテーマ(人間中心→地球中心)でもあると思う。
また生まれ変わったらオレは獣になる、メナシはオレの子どもに生まれろ、との言葉にも震えた。壮絶な話なのに決して悲壮的ではなく青い空に白い月が掛かっているような希望を感じる。
あとがきによると閻連科という人はこういう雄大自然主義的な作品を書く人ではなく「論争を引き起こす作家」「凶暴な作家」(本人曰く)だという。他の作品も読んでみたいと思った。また閻連科は重度のヘルニアを患い激痛のなかこの作品を執筆したという。たまたま骨折で寝たきりになってしまい、何一つ思うようにならない今のわたしとすれば、この作品の一字一句が突き刺さってきた。特に先じいとメナシとの触れ合いのくだりでは涙が止まらなかった。彼らが魂と魂で会話しているからだ。そこへいくとわたしなんぞはああなんと表面的で薄っぺらい言葉ばかりを消費しているのだろう。恥ずかしくなった。しかしそれにしてもこの時期にこの作品に出会えて良かった。
推薦してくださったAさん、ありがとうございました。またみなさんもどんどん本を推薦してください。

E:じゃあ『炸裂志』をお薦めしますか?(笑)
A:『愉楽』もいいですよ。中国の農民がレーニンの遺体を持って帰る……すごい想像力で描かれた作品です。

<参加者C>
◆ただ生き延びる話ではなく、トウモロコシを守り、次の世代に繋げるために生きるという話なのがよかった。確実に死ぬとわかっていながら希望を守り抜く姿が格好いいと思った。
また、自分が死ぬか盲犬が死ぬかの賭けで、必ず盲犬が生き残るよう細工をしていたのが温かい。ただの優しさではなく、彼になら今まで守ってきたトウモロコシを任せられるという強い信頼を感じられる。信念と信頼、未来への希望が胸に残った。
◆絶えず困難が降りかかってくる話だが、希望(トウモロコシ)と、盲犬への信頼があるので、読むのを辛く感じることはなかった。
◆オオカミのシーンは緊迫感がある状況のはずだが、助かるのだろうなと冷静に読めてしまったのがやや不満。とはいえ、エンタメではなく寓話にそんなことを言うのは野暮かもしれない。作者はこのシーンにしっかり筆を割いているので、何か意味があるのだろうとも思う。
F:オオカミのシーン、長いですよね。

<参加者D>
◆駆け足で読んだので吟味するほど読めていない。
◆著者の他の作品でどうかわからないが比喩がたくさん使われている。自然物を擬人化して命あるもののように例えたり、ネズミの足音を雨音に例えたり、比喩の多用が作品世界に合っていた。
実際、この作品は読んで感動するけれど現実にはありえないじゃないですか。いわゆる小説というより神話や寓話に近しい。太陽の光に重さがある、とか。大地や自然に囲まれていることが比喩の多用で表現されていて面白い。
◆私自身、(比較的田舎でも)都市的市民として生きている。そのような生活をしている人間がこの作品を読んだとき、どう受け取ればいいか戸惑う。
人間が一万年くらいやってきた営みである農業――生命を生み出すためにどれほどの努力が必要かということを突きつけられ、「先じいたちのようには生きられないぞ」「ひ弱だ」と言われたように感じた。
A:閻連科の父は農民。この作品は一週間で書き上げた(きっとゾーンに入ったのだと思う)。父の長い苦しみを物語として吐き出したかったのではないか。
D:現代日本で暮らす私たちの社会背景からは生まれてこない文学だと思った。

<参加者E>
◆中国人だということで偏見の目で本を取ったが、冒頭の書き出し「年月はあぶられ」「数珠つなぎに出てくる太陽」……こんなの読んだことないと思って、その素晴らしさで最後まで読んだ。
◆先じい、メナシ、ネズミ、オオカミ、トウモロコシ……それだけの登場キャラクターでこれだけのものが書けるんだと感動した。ドラマが行き詰まるといろいろなキャラクターが出てきて展開するけど、そうはならず、(作中で)生きている人間は先じいだけ。ページをどんどん繰っていって、一日で後ろのほうまで読んだ。こんなすごい作家がいるんだと驚いた。紹介していただいてよかった。今までいろいろな本を読んだけど、この作品が一番かもしれない。
◆三人称で淡々と書かれている。一人称なら主人公の気持ちが浮き上がってくるけれど日記のようになるから、この作品は絶対に三人称でないといけない。私、この作品を一人称にしてみたんです。そうしたら、三人称でなければこの雰囲気が出ないとわかった。
◆私は家で野菜を作っているが、トウモロコシは一本ではなく、複数本を何列も植える。一本だと受粉が難しいから。そのことを知らない読者も多いと思う。一本のトウモロコシ……すごく少ない希望なんですよ。成長してもほぼほぼ穫れない、確率として低い……(作者はそれを知っていて書いている。閻連科からの果たし状みたいな)。ここにすごく意味がある。最後、先じいは、少ない希望のために自分の体へトウモロコシの根を巻き付ける。
A:そうなのですね。七粒だけというのも少ないんですね。
◆一つ気になるのが、なぜネズミを最後まで食べないのかということ。中国にはネズミ料理がある。どういうことなのか不思議。
C:私も不思議でした。地域によって食文化が違うからですかね?
◆どうしてフランスで推薦図書になったか知りたい。
A:登場人物として「自然」があると思うんです。環境問題に関連してかな?
E:フランスって文法からして哲学的になると思うんですよ。私、『年月日』は哲学書だと感じていて。たとえば地震があって、家が潰れていても「ここを離れない」っていうお年寄りがいますよね。子育て中の母親とかだったら避難するじゃないですか。でも、年を取った人には選択肢がないんです。先じいは、守り抜いたトウモロコシを、みんなが帰ってきてから役立ててほしい。それは無理な話なんです。私は、こうはなりたくない。若い人たちのように移動する。
◆Bさんも犬(メナシ)のことに触れられていたが、私はこんな残酷なこと書けない。野良犬を連れてきて太陽に向けて放置して……そんなにしておいて最期まで一緒に、なんてないと思う。犬に忠誠心を期待しすぎ。
D:それはフィクションだから。
E:私なら書かない。動物愛護団体がクレームをつけるんじゃないかってくらいの残酷さ。
D:本当にこのような儀式があるかはわからないが、似たようなことはあると思う。
E:それはもちろん世界中で生贄の儀式があったはずだけど、愛犬家にこの作品のファンが多いというのが解せない。
D:作者は作品に書いていることすべてを肯定してるわけではないので。おそらく、ひどい目に遭い、目を失いながらも生き延びたメナシについて書きたかったのだと思う。
E:私は作者が犬をどう考えているのかが気になった。
台北のラーメン屋に行ったとき、現地の人が「ラーメンの肉は全部犬ですか」って、店の人に訊いたんです。日本人なら冗談だと思いますよね。
弱肉強食。弱い者は喰われる。だから、オオカミとの対峙を書きたかったのかなと思った。

<参加者F>
◆1ページ目でほんとにガツンときたので、すごいと思った。
オノマトペも独特。私はオノマトペをこんなふうに使っている作品を読んだことがなくて。「日の光はヒリヒリ」、「落ちる音がホトホト」、「心の中でコトリと音を立てた」……オノマトペで作品世界に引きずり込まれていく感じがした。この系統の作品はあまり読んだことがなかったが、とてもよかった。
◆犬(メナシ)のこと。P21「盲犬は先じいの指から手首へと、まるで十里も二十里も距離があるかのようにゆっくりとなめていった」……あるなぁ。犬は本当にこういう感じでなめてくるんです。情景が浮かぶよう。ここで愛情や信頼関係が生まれた。
◆太陽に鞭をふるうところ。極限になると私も先じいと同じことをするかもしれない。作者は自分が寝たきりのときに想像力を働かせて、こういうシーンを書いたんだ……いや、寝たきりだからこそ書けたのか。
◆オオカミの場面が本当に長かったので、私も何か意味があるのかなと思った。私の読みが浅く、読み取れなかったが。
C:筆を割いて、力を入れて書いていますよね。
◆未来がないだけ、絶望感だけではないのがよかった。七粒のトウモロコシ、いいですね。私はトウモロコシを育てた経験がないので、葉が一枚ずつしか出ないことなどは知らなかった。
◆私と著者は年齢が近い。毛沢東が一番力を発揮していた時期、小学生だった。中国で育った著者は私以上に毛沢東の力を感じながら育ったのではないか。
A:文化大革命が終わったのが著者19歳のとき、天安門事件が31歳のとき。著者の背景が気になりますよね。
F:日本とはだいぶ違う国だったはずだから知りたいですね。いい作品を本当にありがとうございます。

<フリートーク
A:自分の体を肥料にするという最後がすごかった。こういうふうにまとめたか、と。
E:作中の大地はどれぐらい暑いのか。人間は体温が42度を超えると脳の機能が衰えてしまう。熱中症で熱が上がると危険。
C:水滴が地面につく前に蒸発するって相当暑いですよね。

【オオカミの場面の解釈】
E:オオカミの場面が長いが、「オオカミは群れるが人間の自分は一人だけ、でも人間だから負けない」ということを書きたかったのでは。
D:オオカミに襲われたら話が終わってしまうので、襲われないのは当然として、それならなぜその場面を書いたのか? というのは読み取りが難しい。
F:オオカミもこの場面のみで、後はもう出てこないですしね。
D:オオカミはそこまで空腹ではない。先じいを眺めるだけの余裕がある。
A:中国の上層部を揶揄しているとか? 農民は命を守るので精一杯だが、上層部は余裕がある。
D:ネズミは農民に近いですね。人間と食べる物も同じ。文化大革命が吹き荒れた中国の民衆を表していると読める。最初、ネズミを食べなかったのは嫌悪感が強かったからかな。オオカミも党の上層部と読めなくもないが、そうすると矮小化されてつまらなくなってしまう。この作品が持っているのは、もっと大きなもの。
F:ネズミは食べないのにたばこは吸うんですね。
C:たばこ、民家に置いてたのかな。
D:在庫があったんでしょうね。昔はたばこが袖の下みたいな感じで流通していたし。

【作者の背景について】
E:日本ってコンビニがあったり、すごく便利ですよね。でも「便利」ってどうなんだろう。私、怪我のせいで運転ができなくてバスや徒歩で生活しているんですが、車で走っていたときとは違うものが見えてきて。著者も、ヘルニアで日常と違う状態に置かれて、大地と対峙する物語が生まれたのではないか。
D:自分自身の生命の危機だから、自らの根源が作品として出てきた。農村的な背景ががっつり書かれているのもそのためでは。現代の日本人だと、こういう作品は書けない。
A:日本人ならではのものになりそうですね。
E:日本とは飢えと孤独のレベルが違うはず。
D:現代の中国の都会はITなども進んでいるが、この作品が書かれた1997年は途上だっただろうし。
E:日本の若者の生き甲斐がないとかいうのは、恵まれた環境でそう感じているだけ。「世界を見ろ」と思う。海外に行かなくても「この作品を読め」って。
D:自分の環境と違うものに触れたとき、電気が走る人と、何だこれとなる人がいる。読み取る想像力が及ばなくて価値に気づかないこともある。
E:若い人の中には「マッチ売りの少女」が理解できない人もいるとか。まずマッチが何かわからなくて、なんでそれを売るの、なぜ死ぬの、と。
二十四の瞳』と聞いて「怪獣映画?」となったり(笑)。
A:2008年のリーマンショックの際、中国では、失業した人たちが、故郷に帰り農業をしようとしてもすでに土地はリゾート開発業者に売られていて、耕す土地もない状態になっていた。
建てたマンションも全部廃墟になっていたり……
E:あれも日本人から見たら訳がわかりませんよね。中国は先払い。払っても建たないことがある。
A:土地を売った農民はお金があるから、お金を貸して利子を貰おうとしたけれど、そのまま逃げられたり……
F:『年月日』は30年ほど前(※1997年)に書かれた作品なんですね。
E:今も中国では貧富の差が激しいけれど、人口が多いから富裕層が9900万人もいる(※2023年7月、中国アウトバウンド観光研究所[COTRI]発表)。閻連科は大学の教授にまでなって成功した。
A:閻連科が日本に住んでいたとしたら、どんな話が書けるんでしょうね。
『父を想う ある中国作家の自省と回想』というエッセイも読んだけど良かったですよ。エッセイは難しいことが書いてあって、小説のほうは面白いです。

【年代によっての捉え方の違い】
E:これから、“推し本”を紹介する冊子を作るのですが『年月日』を推すことにしました。『年月日』はどういう人が読むかな?
C:若い人とかどうですか? フランスでは中高生の推薦図書のようですね。ぐっと若い人が読んだら、私たちとはまた違う感じ方をするはず。多分、年代によって受け取り方が違いますよね。
A:Cさんは如何でしたか?
C:私は先じいの生き方は格好いいと思ったけれど、Eさんはこうなりたくないって仰られていましたね。

【作品の外国語訳について】
D:訳者もすごいですね。日本語訳が上手い。オノマトペの日本語表現は訳者の手柄。原文ではどんな感じなんだろう。
E:フランス語ではどうなんだろう? 読めたらいいんですが。
D:この作品、フランス語に合いそうですよね。
E:閻連科、『炸裂志』だと著者名に「イエン・リエンコー」って振り仮名が振ってあります。
D:日本語読みにするか、中国語読みにするか、議論になりますね。