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『ダーティホワイトボーイズ』スティーヴン・ハンター、公手成幸訳(扶桑社ミステリー)

Zoom読書会 2021.10.30
【テキスト】『ダーティホワイトボーイズ』
      スティーヴン・ハンター、公手成幸訳(扶桑社ミステリー) 
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者F)>
読書会に参加させてもらったので、自己紹介的な意味で推薦した。森見登美彦『熱帯』(文春文庫)も考えたが、他のメンバーが推薦しないであろうこの作品のほうを選んだ。
『ダーティホワイトボーイズ』を読んだとき、書き手として衝撃を受けた。ちらっと登場するお菓子のメーカーに至るまで丹念に作りこまれており、どのシーンを書くにも相当な手間がかかっているはず。精度の高い工芸品のような小説であり、読んで得るものが多いのではと思う。

<参加者A(提出の感想)>
 現代アメリカ社会の闇とそのひそやかな灯火の系譜について書かれた大作。シンプルにおもしろい。作者の構成力と作中にしかけられた様々な「対比」には胸があつくたかぶった。また、日本人にはなじみの薄い問題、「銃」「差別」「絶望的に圧倒的な格差」について深く考えさせられる作品でもある。いくつもの意思や風習や利害の糸がカオスにからまる多民族国家ならではの濃い暗やみを、作者はするどく洞察しているように思う。映画『アメリカンヒストリーⅩ』同様、いちど触れると、「差別」や「銃問題」についてうかつに意見することができなくなってしまうだろう。
 冒頭から張られた伏線、「ライオン」「不倫」そして「ルータ-ベイスの過去」の本編への絡ませ方が絶妙にすばらしかった。さらに、「多視点型」の特性を活かした作者のストーリー展開も秀逸。読者の気持ちを心地よくもてあそぶ。巧妙に張られた「糸」の扱いと回収に身がふるえた。ひとつの視点ですこし先の「みらい」をわざわざ見せておいてから、別の視点で当該のエピソードを深く掘り下げ、たいていの読者が予想した絵とは異なる結果を示してみせる。小説の神髄は構成という考え方を痛感。それと、このお話は見かけこそ男性性あるいは父性原理のはたらきが明白に強化されているが、しかし、逆にいえば、それだけ女性性の受容力が背景で深くはたらいているともいえると思う。その境界にたたずむリチャードという「未成熟」の成長はこのお話の裏のテーマだったかもしれない。それぞれの登場人物の掘り下げはひじょうに深く、感情移入がわきやすい。それから、各人物に設定された機能と役割は分かりやすくて親しみ深い。「力」のオーデル、「魔法」のリチャード、という印象。お話としてはあきらかに端役であるはずの人物にすら、作者はひとつの深い人生を用意している。それぞれが織り成す糸たちが作品自体を多彩にしていくように思った。作者は椅子に深く身をしずめるタイプなのだろうか。
 個人的に、この作品でもっとも感銘を受けたのは「対比」の力のはたらきだった。寓話的でとても好き。血と汗と泥のにおいがしみついた暴力的な世界観でありながら、この作品は文章表現がひじょうに詩的。色彩豊かでたびたび恍惚。まずはこの対比に強く惹かれた。車中からの情景描写はナボコフの『ロリータ』に比肩するものがあると思う。純情でうつくしい。詩情豊かな情景描写を示したあとで展開される活き活きとしたスラング=けっしてきれいとは呼べないことば使いの対比もよかった。
 ときおり出てくる観念的な文章表現もたまらない。作者もひとりの詩人なのだろう。それから、なんといってもふたりの主役、ラマーとバドの対比がすばらしい。彼らはある意味、ひとりの男性性として扱うことができると思う。社会的にはどう考えても害悪だがひとつの小集団の父としては圧倒的な魅力を誇るラマーと、その反対に社会的には立派で安定している立場でありながら、小集団の父としては堕落、精神的にも軟弱で頼りない人物として描かれているバド。彼らに共通しているのはやはり、抑制をうしなった個人主義と揶揄される現代アメリカ社会が抱える「闇」だろう。自分自身にうそをつかないラマーとその対極に位置したバドの構図もまた寓話的。そこに人間としての普遍性な絵が描き出されているように思う。ラマーの強い意思力があらわれたことば、「やらねばならないことはやらねばならない」を、ラスト、バドの口にのぼらせたことは非常に印象深い。また、ふたりはそれぞれ、おのれの選んだ「しごと」になみなみならぬ熱意と誇りを持って生きているように思う。ふたりそれぞれの経験則から導き出された言動には笑みがこぼれた。皮肉なのは、その「しごと」に打ち込む姿勢が家庭に濃い影を落としているのがバドであり、ラマーは逆に円満と呼べる環境をつくり上げているという点。ひとの心を読むのが巧い「カリスマ」としてのラマーと、実直なたたき上げの一般人、バドの対比がここにも出ている。あわれにもなるがおもしろい。また、「冷酷だがどうも詰めがあまい」といった印象のあるラマーの人間性はいいなと思う。あきらかに知識階級に属していないラマーが「絵」というものに強く心を惹かれる、それが「心の支え」として定着する、といったシーンはとても印象的に残っている。「対極するふたつの概念のあいだでつねに均衡を保とうとする」とされる心のはたらき、その不可思議さがぼくにとっては魅力だった。
「看守ハリーの死」「ケーキによる家庭的な一体感」「息子のホームランによる出血」(事前に行った性交では血は出なかった)「バドの平手打ち」などなど、心を打たれるシーンが多かった。妄想に過ぎないが、作者の本作のモチーフは「ドラクロワのライオンの絵」と「不倫相手を救ったヒーロー像」なのではないかと考えている。こういったジャンルの小説ははじめて読んだが、じぶんでも驚くほどに深く熱中してしまった。構成力と対比がひかる、心浮き立つ作品だった。

<参加者B>
◆私の読書の原動力は興味と好奇心だから、「読書会で皆さんの意見を聞いて、いろいろな視点を持てるのは楽しいな」と、Aさんの感想を伺って思った。
◆『ダーティホワイトボーイズ』はドラマを観ているようで淀みがなく、読みやすいけれど、進んでいくとしんどかった。なんでだろうと考えた。男性性の部分に疎外されているからだろうか。私は、女性性についてはそこまで深く感じなかった。
◆いろいろな人の人生が書かれているのが面白い。ルータ-ベイスとか。
リチャードは、かつて母親の言うことを奴隷のように聞いており、今なお幼稚なフラストレーションを持っていた。彼には女性経験もない。でも、P713で「とうちゃん!」と言うところで決定的な変化が訪れる。
ラマーにも優しい部分があったが、彼にもリチャードのような決定的な変化の瞬間があったのだろうか。
◆皆さんの意見を聞いてみたい。

<参加者C>
◆面白くて一気読みした。私は小説でも漫画でも、動きのあるシーンを読むのが苦手なのだが(格闘シーンやカーチェイスのシーンなど)、この作品のアクションシーンはスピード感や迫力を感じられて楽しめた。
◆長いけれど中だるみがなく、緊張感が保たれていると思った。途中、バドが車のタイヤを調べに農場へ来たときは本当にはらはらした。この時は見つからなかったけど、ここでバドが農場の様子を知ったことが最後の戦いで役立ったり、伏線がすごい。長いけれどストーリーの上で無駄がないと感じる。
◆バドが煮え切らなくて、読んでいてもどかしかった。どっちでもいいからはっきり決めやがれ、と(笑)。最後まで読むと、バドのその態度は終盤のカタルシスへ導くための積み重ねだとわかる。わかるんだけど、対照的にきっぱりさっぱりしたラマーを魅力的に感じる。
◆ラマーたちが「家族」でケーキを囲むところがすごく好きで、この生活がいつまでも続いてほしい……と思わせられてしまった。それは展開として絶対ありえないし、ラマーは必ず死ぬ役どころなんだけど、だからこそ魅力的というか。
◆はっきりしないバドも含めて、キャラクター造形がとてもいい。序盤のバドは煮え切らないけれど、最初にラマーたちと戦ったときはカッコいいと思ったし、「これはモテるな」と納得した(フィクションの中では、なぜモテるかわからないキャラクターがモテたりしていることも多いので)。オーデルもいいし、リチャードもいい。ラマーの魂や血はリチャードに受け継がれたのかな。ラマー・パイは死なず、みたいな。

<参加者D>
◆こんな分厚い小説を読んだことがないので無理かなと思い、章に分けて、少しずつ読んでいこうと決めて読み始めたが、面白さに惹かれてどんどん読み進めてしまい、結局一週間もかからず読み終えてしまった。私は純文学などを味わいながら読むことが多く、ストーリーに引きずられて読むことはあまりないけれど、この作品は続きが気になった。
◆私は面白いと感じただけで、ディテールをあまり分析できなかった。ただ「面白かった」の一言に尽きる。夢中になって読んだので書評的なことは言えないなという感じ。
◆食べ物もおいしくなさそうだし、人が死んでいくのもえげつない。そして私は銃社会で人が死ぬことは嫌い。でも面白い。とくにオーデルは読ませる。ラマーの死に方も、顔が半分なくなったとか、えげつないのだが、それでも読める。自分の中の悪に気づいた。
◆ラマーは人でなしの大悪党だけど、バドよりラマーのほうが好き。読んでいてラマーを応援してしまう。悪人に感情移入してしまうのが不思議。
◆読者として見たとき、バドのほうが嫌い。美味しいところだけとって、自分が破滅するのもいやで、ジェンにもホリィにもいい子ぶって……私はこういうタイプの人が苦手なので。
オーデルはいい。台詞の訳し方もいい。死に方もオーデルらしい。
◆ルータ-ベイスも危うくていい。自分が惨殺した両親のベッドで寝ている。こういうキャラクターは好き。
◆面白いだけじゃなくて感動もある。いつもラマーの後ろについていってるだけだったリチャードがラスト、ラマーのようになって尊敬を集める。こういう終わり方があるのか、と思った。
◆自分自身、見てはいけないダークサイドを見てしまった。新しい世界を切り拓いていただいたので感謝しかない。

<参加者E>
◆私の主観的なところから見ると(論理ではなく感情的な部分で)、爽快感はなく嫌悪感が続いていた。「ファミリー的なもの」「男らしくしろ」という部分に抵抗があったので。ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』に嫌悪感があったのと似ている。
◆感情とはある程度別にして、見えたこととして。もっとも目についたのは、銃とかじゃなく「人種主義」。白人的な“絶対的な優位性”が貫かれている。白人の権威主義に固着するのはラマーやバドの個々人に限ったことではなく、オクラホマ州の州立マカレスター重犯罪刑務所という場所の特性にある。オクラホマ州はかなり田舎で白人が多い。ざっくり言うと、トランプ前大統領の支持層が強いような地域。有色人種がいても住む場所は分かれている。自分ではレイシストではないと思っていても、有色人種と一緒にいたくないと考える人がたくさんいる風土。
マカレスター重犯罪刑務所でピンときたのは、ジョン・スタインベック怒りの葡萄』。主人公がマカレスター重犯罪刑務所から出てくるところから始まる。貧しい白人層ばかり登場し、彼らは、優遇されている異人種への抵抗感を持っている。
『ダーティホワイトボーイズ』では名言されていないが、白人でプロテスタントでヨーロッパルーツで社会的に不利で……その人たちがどうやって自分のアイデンティティを守っているのかがキャラクターの奥に見えた。
◆また、ラマーやバドは男性でいることに固着している。男性が女性をリードして家庭を築いていくという価値観、「自分は強くあらねばならない」という想い。
バドは子どもに付き添うなど、家族を大切にしている体で振る舞っている。男性と女性のアンバランスな関係性。そこが侵されたら猛烈に怒り出すなど、ある種の暴力性がある。
ラマーの場合、黒人の男性に襲われることを一番危惧している。ドッグスタイルで抑え込まれて、絵面的にも下に置かれるのはもっとも屈辱的であり、無自覚なアイデンティティに関わる。
「よき夫でなくてはならない」という強迫観念、「とうちゃん」としての立ち居振る舞い、強くあるために銃で武装すること。その象徴として銃や、ライオンのイメージがある。ラマーはリスクをわかっていても、ライオンのタトゥーを入れようとしている(=強さの象徴を身体に刻もうとしている)。
◆以上は浅はかな「強さ」の追求であり、ラストはなるべくしてなったんだろうと思う。
◆リチャードは重要なキャラクター。彼にはラマーのような男らしさはないが、ラマーの想いを言語化できるメンターとしての補助役であり、作品においてはトリックスター的な役割を担っている。
◆リチャードはラストで銃の引き金を引く。「銃の引き金を引くことで男性になれる」というのはアメリカ的なマッチョイズムであり、黒人への威圧的な態度で終わるのは、異人種より優位にありたいという想いの表れである。
◆この作品には、作者のアメリカを見る眼差しがよく出ている。
◆現在、仕事で、ロビン・ディアンジェロ『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』を取り上げているので、このタイミングで『ダーティホワイトボーイズ』を読んでよかったと思う。

<参加者F>
◆10年ぶりに読み返したが、やはり面白い。忘れている部分もあり、「後半どうなるんだっけ」と思いながら読んだ。Aさんの感想も楽しく読ませていただいた。
◆ネットでいろいろな人の感想を読んでいると、「すごく面白かった」と書いている人が、バドのことをずっと「パド」と書いていて、最初から最後までパドって読んでたんかい、と思ったり(笑)
◆『ダーティホワイトボーイズ』は、スティーヴン・ハンターが手がけるスワガー・サーガの外伝的な位置づけの作品。スワガー・サーガは、ラマーの父親を射殺したハイウェイパトロールの息子、ボブ・リー・スワガーが主人公である。
◆リチャードが印象に残る。彼は読者に一番近く、狂言回し的な役割を担っている。
この作品は、何者でもなかったリチャードが通過儀礼を経て、ダーティホワイトボーイズになるという物語でもある。
◆よくあるハリウッド的なストーリーだがディテールの作り込みで読ませる。物を書くときの参考になると思う。
スティーヴン・ハンターには『四十七人目の男』という日本を舞台にした作品があるが、私には今一つで、この作者はアメリカしか書けないのかなと思った。その点、この作品はすべてアメリカなので自信を持って薦められた。
◆Aさんは感想にて「絶望的な格差を感じた」と仰られたが、ラマーはもっとましな環境に生まれていても、やることは変わらなかったという示唆が作中にある。
◆社会問題に触れずに抽出しているところが職人芸だ。
◆バドは自分が権威主義者であることに自覚的で、自分の考えが古くなりつつあることも理解している。
◆締め方にも余韻があり、いい。(P730「ああ、ライオンよ。」)

<フリートーク
【作品の舞台である土地について】
D:作品の俯瞰的な構造どうこうより、こんなアメリカ、こんな社会には住みたくないと思った。
E:オクラホマは、あまりテレビに映らないアメリカという感じ。近くのショッピングセンターまで数十キロ。マカレスター重犯罪刑務所はそんな中にあって、難攻不落の刑務所として知られている。
D:作品に情緒的なものが少なく、男性性が強調されている。
E:脱走したあとは情緒的。「とうちゃん」「かあちゃん」という家族的な在り方が、田舎の人間関係みたいで。これもバドとの対比になっている。脱臭が巧い。本当はすごく臭いんだけど。血抜きをして「記号」にしている。
D:家族としての在り方がティピカルで。
E:「西海岸はアメリカではない」と言う人もいる。リアルなアメリカには絶対的な格差がある。
オクラホマが舞台になる小説には、丁寧に「お母さん」「お父さん」と訳していても、原文ではオクラホマ弁で「かあちゃん」「とうちゃん」のような感じ。べっとりとした人間関係で、横の繋がりがある。そういう層には受ける作品だと思う。
D:広大な土地にハイウェイが続いて、車でデニーズやショッピングセンターに行って。私たちの場合は飲食店に行こうと思ったら10分歩けば行けるんだけど。
E:だから、一度にいっぱい買えるコストコが便利。オクラホマシティだとまだ街だけど、ちょっと離れると本当に田舎。一番怖いのは、何もない平原で車が動かなくなること……。
使ってはいけない言葉だけど、英語で“Okie(オクラホマ野郎)”というと田舎者という意味になる。他の作品で、白人同士で協力しあって、教会とか出てきて、寄った先で田舎者と言われる、みたいなものがある。あと、そこにもマッチョイズムが現われている。
D:ドラマ『大草原の小さな家』を思い出した。父性と母性。子どもがいて、生きていかなければというところでは父性が大事になってくるんだろうな、と。
E:自分たちで開拓して。だから自分の身を守るために銃を持つんだ、となる。
D:すごく怖い世界ですよね。銃はすぐ人を殺せる。
E:この作品の(アメリカの)読み手は、それなりに銃に親しんだ人が多いはず。成人するまでに射撃実習に参加したり、女の子は誕生日プレゼントに小さい銃を貰ったりする。
リチャードの「銃を撃ったことがない」というのは「男じゃない」を意味する。「撃って一人前になれ」は「いい加減童貞を捨てろ」みたいな意味合いになる。私はそこに暴力性のようなものを感じたのだけれど。
ラマーにしろバドにしろC・Dにしろ、コーチ的なところがある(C・Dはバドと息子たちを飲みに誘っていた)。ある意味で上下をつけながら世界を紡いでいく。いくら脱臭されていても臭いな、と。

【作品における男性性、父性について】
D:私が一番臭いと思ったのは冒頭。男性の性的魅力に重きを置いている。ホリィにしてもバドを褒め称えるし。
E:冒頭は白人と黒人との対比。黒人は肉体的に優位にいるんだけど、ラマーはもっと上だ、という。黒人に負けないぞという強さの誇示的な部分もあるのでは。
最初(P10)と最後(P728)に「ダーティホワイトボーイズ」という単語が出てきて、構成的にすごく技工を凝らしているなと思った。「ダーティホワイトボーイズ」はチンピラ、くらいかな。アメリカでは肌の色はとても重みがある。白人のチンピラを指すときには「white……」とつくけれど、黒人のチンピラは「黒人」のままで、一般の黒人と区別しない。
D:男性性、父性が強調されているのと同時に、女性性も強調されている。男性から見て女性はこうあってほしい、というような。男性であるラマーやオーデルはキャラが立っているから想像しやすいけど、女性のジェンやホリィからは無理やり作った女性神話みたいなものを感じる。ホリィは最後に頬をぶたれるし。
B:ホリィ、アホみたいですよね。旦那が殺されても平然としているし。
D:ホリィは男性の理想では。性的魅力に富んで、ちょっとお馬鹿で、旦那がラマーに殺されたのに、バドを褒め称えて……。
B:年齢もバドの22歳下で。
E:私は男性だけど、積極的に電話してって言われたらうんざりしますね、個人的には。
D:私の世代にはこういうタイプの女性が多い。演歌の世界みたいな。
E:ものの考え方の単位が「家」なんです。その人に尽くすのがベター、みたいな。個々人同士の信頼関係というより、昔から決まっているキャラクターを演じてください、みたいな。私はそういうのがしんどい。父親、母親以外のものになってはいけない、というようなものが。
男はガス抜きができる。バドは家庭に収まりきらない感情をホリィで発散している。それが黙認される風土がある。女性が同じことをすると、一回で姦通罪的に見られるであろう息苦しさが鼻についた。私の感情的なしこりは、そこに端を発している。
D:ルータ-ベイス以外の女性は人物像が作り込まれておらず、お人形のようだと感じた。それが、しんどい人にはしんどい。私はここに描かれている男性を面白いと思えるから楽しめたけれど。
E:私はこういうタイプの男性と喧嘩して。10年20年経っても、やっぱり喧嘩している。「兄貴」的なものを持ち出されて、話がまとまらない。
D:岸和田とか、イメージに近いよね。
E:結婚も早かったりしますね。そして横の繋がりが強い。それが苦手で出る人もいる。
D:俺が面倒見てやる、みたいなものが。
E:刑務所や牢獄の人間関係って、ある種、兄弟分のような、家族的な関係性がなくはないと思う。
B:ケルアックの『オン・ザ・ロード』、私も苦行だった。あと、ドラマ『ウォーキング・デッド』も苦行で。サバイバルのところで銃を持ちだすのが父性的で、抒情がなくて。ゾンビ映画は好きなんだけど。
E:オン・ザ・ロード』は、そういうものを出して、移動していくのが醍醐味なんだろうなと思う。ヒッピー世代の人が見るとまた違うかも。
D:エンターテイメントとしては面白かったけど、父性や男性性を考えてしまうと……
E:アナザーアメリカみたいなものへの、取っ掛かりになるかも。

【「肉体」的なキャラクターと「精神」的なキャラクター】
D:今までこういう作品を読んだことがなかったけど、すごく面白かった。私は銃社会とか父性とかライオンとか嫌いなんだけど、本当に面白くて。
E:肉体と精神とを分けると、ラマーはすごく肉体的な人。タトゥーにこだわるところからも、それがわかる。ラマーは自分を言語化できない。だから拳にタトゥーがある。彫るとき、痛いのは嫌なんだけど、それでも彫ろうとする。ラマーには自分を表現する手段が他にない。その意を汲んで表現するのがリチャード(タトゥーのデザインなど)。
「肉体」はラマーやバドで、それをある種観念化しているリチャード(:いろいろな意味でグレーゾーンな存在)は、この作品におけるトリックスターである。
D:リチャードの使い方が巧い。
E:(この物語は)ある種の怪談なのでは。リチャードはラマーに執着し、最終的にラマーに取り込まれてしまう。私はそこに爽快感を覚えなかった。怪物に憧れて、自分も怪物になってしまったように感じた。
D:ラストにカタルシスを感じるか感じないか、人によって違う。
E:感じなかったら怪談なんです。

【映像化を意識?】
B:バドは死ななかった。何回も死にそうだったのに助かるのがアメリカ的。
D:ラマーとの最後の戦いで死んだみたいなミスリードがあるけど、結局自分だけ家族のもとに戻って、いいようになって……
F:一回死んだように思わせる演出って、映画でもよくある。
E:シルヴェスター・スタローンシュワルツェネッガー的な。
F:作者は商業作家なので、映画化を見越して書いていると思う。脚本に起こしやすそう。
E:登場人物が使う銃の指定があるとも見れる。

【作中の料理など、ディテールの作り込みについて】
D:料理。アメリカ的に、美味しそうに書いてるつもりなんだろうけど、なんかぱさぱさしてる。
F:ホーホーケーキとか食べてみたい。そういうディテールが好き。
B:ホーホーケーキ、自動販売機のケーキだから味はどうなんだろう。
E:アメリカは味よりも、お腹が膨れたらいい、みたいなところがある。油ものを油で揚げたり、一番小さいサイズを頼んでも日本での大盛りくらいの量だったり。
B:作中に出てくるお店もデニーズだし、特に食べてみたいとは思わなかった。
E:デニーズで客がいくら払って、金庫にいくらあるかがリアル。(客が)ホームフライドやパンケーキをちまちま食べて……というのが、数字として生々しい。
D:食べ物含めて、ディテールを作り込んで、独特な世界観を構築できている。たとえばここにシーザーサラダとか出てきても似合わない。
E:サラダを食べるのは富裕層。ここでは、とりあえず安くてお腹にたまるものを食べる。アメリカには、ハンバーガーを食べたら野菜を摂ったことになる、と言う人も。ハンバーガーにはトマトが入ってるから。