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R読書会/Zoom読書会

「大聖堂」(『Carver's Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選』より)レイモンド・カーヴァー、村上春樹訳(中公文庫)

Zoom読書会 2022.11.19
【テキスト】「大聖堂」(『Carver's Dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選』より)
      レイモンド・カーヴァー村上春樹訳(中公文庫)
【参加人数】出席9名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者I)>
私はフランス文学、ロシア文学、日本の近代文学をよく読んできたが、アメリカ文学は申し訳程度にしか読んでいない。若いとき、アメリカ文学の乾いた文体に馴染めなかったので。しかし、大人になったら楽しめるようになった。今回の読書会で考察を深めたい。
また、村上春樹が好きなので、今回のテキストを通して、村上春樹の話も交えてできればと思う。

G:来週、ビブリオバトルにこの本を引っ提げていきます。皆さんの感想を自分の感想みたいに言うので、そこのところご了承を(笑)。

<参加者A>
◆読んでよかった。希望に満ちた話ではないけれど心に温かいものが残る作品もあった。わたしは純文学のような意図がわかりにくい作品は苦手だけれど、読んで「ああ、いいな」と思えた。
「大聖堂」は再読。前回読んだのは10年以上前。そうだったなと思い出し、手繰り寄せながら読んだ感じ。アムウェイのくだりだけ覚えていた。
語り手の態度は客観的に見たら失礼だと感じるが、こういう部分が自分にもあると思った。本質を理解できていないのに、頭とか良識で理解したような気になるのは傲慢だと反省した。
「ささやかだけれど、役にたつこと」が一番好き。登場人物たちが一緒に食事をするシーンというのを私自身が好きだからかもしれないけれど(一緒に食事をすることで関係が深まった感じがするからだろうか。自分でも作品を書くとき、意識して入れている)。
パンが本当に美味しそうだった。たとえば子供が死んで悲しくても、人は食べなくてはならないんだと思った。

<参加者B>
◆主人公は人並みに恵まれて経済的に余裕もある。物質社会において幸福とは何か、どうやって見えないものと折り合いをつけてきたのか考えさせられた。
◆大聖堂は、キリスト教が信仰されていたときはランドマーク的な意味合いがあったが、今はがらんどうになってしまっている、ということを表したかったのだろうか。

<参加者C>
◆私も妻がいるので、主人公の、妻が昔親しかった人の訪問を厭う気持ちはわかる。
前回のテキストの『出身国』も読むだけ読んでよくわからなかったが、昔読んだ乱歩もよくわからなかったので、よくわからないものなのかなという気持ちで読んだ。
◆中盤はただのかけあい。仲良くなっていく過程。
大麻合法ドラッグか、煙草を吸っているのと同じ感覚なのかわからなかったが、この話では悪いものだというイメージはなかった。
◆終盤の、主人公と盲人が手を重ねて絵を描く場面。私が習字を習っているとき、先生に手を持ってもらって書いたことがあるが、普通の感覚と全然違う。他の人の手がかぶさって書くというのは。感覚でダイレクトに伝わってきたのを思い出した。
◆「まったく、これは」。最後に発見があった感じで締めている。何を発見したか、まだピンとこないが、目を開けていいと言われても開けなかったから、盲人の世界だけでなく、精神性の新しい世界が開けたのかなと感じた。それは大聖堂という宗教的なものかもしれないし、内面的なものかもしれない。
「ぼくが電話をかけている場所」太宰治人間失格』を読んでいるときを思い出した。駄目だな、と安堵する。駄目な人たちだけど、どこか明るい。
◆前半の短編は意味のわからないものが多くて、読み返さなきゃと思う。

<参加者D>
レイモンド・カーヴァーを読むのは初めて。「大聖堂」までしか読めていないが、紹介していただいてよかった。
私は毎日放送の『プレバト!!』の俳句の企画を面白く観ている。その中でフルーツポンチ村上さんは半径30cmを俳句にすると先生に言われていたが、その村上さんの俳句のような作品だと思った。
なかなか気づかない、人の心を形にしているのかな。物語の提示の仕方、書き方に気づきが多い。
◆大聖堂はその街の信仰の中心というイメージだそうだ。
◆盲人ロバートの来訪を主人公が歓迎していない、ロバートの妻が黒人と知り、尚更よく思っていないことが読者にわかるように書かれている。
ロバートは体格が良く快活で、読者にとっても意外性がある。
◆主人公は目が見えているのに、テレビに映る大聖堂をうまく説明できない。自分が上のはずなのに、下にいるはずの盲人に見下されていると感じる。ロバートはテレビから流れてきたことを繰り返す。ここで魅力的な人物と絵が描かれる。
◆主人公とロバートは手を重ねて大聖堂を描く。ここで物語の質が変化したと感じた。
上手く描けない私をロバートが励まし、絵を完成させる。ここで物語が反転。
主人公がロバートによって自身の傲慢さに気づかされ、浄化される。「差別はいけない」「謙虚さ」の、観念的ではない提示の仕方だ。
一読して、何を書こうとしたのか考えさせられた。その時間の密度が濃くて楽しかった。
「足もとに流れる深い川」。釣りの最中、水死体を見つけ警察に届ける。女性に手をかけたのではという夫への不信。「裏切り」という言葉は出てこないが、夫は無関係だとは言わせていない。読み手はその一点に心を巡らす。
最後に「彼女はまだほんの子供だったのよ」という言い訳で終わる。言い訳に至る心の機微に惹かれる。

<参加者E>
◆初レイモンド・カーヴァー。なるほど、賞を獲った作品だと思った。
◆主人公の持つ偏見は共感のハードルが高くなく、物語に入っていける。「妻との関係が気に入らない」という嫉妬を混ぜることで、どのくらい偏見があるか、読者側に委ねているのも意図的。そのくだりがないと哀れみや説教っぽさを感じて面白くなくなるだろう。
◆P161「彼はその相手の女の顔をちらりと見ることもできなかったのだ」と気の毒に思うなど、主人公は偏見もあるが思いやりもあるという造形も技巧的。
盲人ロバートも世慣れてコミュニケーション力が高い。私に全盲の知り合いはいないのでリアリティがあるかわからないが、そう類型的に纏めようとすること自体不適切なのかもしれない。内省を促される。
◆大聖堂という建築物、信仰モチーフもアメリカ人には響くのだろうか。
◆作品が細やかな配慮の集合体であり、名手だと思った。上手すぎて言うことがあまりない。
◆とにかく、今夜はステーキ焼いて、ウィスキー飲もうかなと思いました(笑)。

<参加者F>
◆カーヴァーは持っており、何回も読んだので、読書会に復帰できるかな、と。※Fさんは久しぶりの参加
◆小説は読んで忘れるけれど「大聖堂」は好きで覚えている。
盲人と妻がテープでやりとりしていて、主人公は入る余地がないので嫉妬している。現れた盲人は想像と違い、取っ付きやすい人物だった……
◆初めから全盲なら高さもわからない。空の色や建築を指先で可視化して、盲人と主人公が輝いている空間を二人で作っていくという印象が前からあった。主人公がどこかの時点で、盲人と自分の「(差別ではないほうの)違い」を超えた感じがする。大聖堂を描く手前でそんな感じがして、一緒にやろうという気持ちを持ったところから変わってきて。
主人公が妻と盲人のテープでのやりとりに入り込めず嫉妬したのと同じで、今度は妻が、描く作業に入ってこられない。垣根を越えた穏やかさ。光のある空間、見えない光……読んでいると、私はすごく光を感じる。
「ぼくが電話をかけている場所」。作者はアルコール依存症を克服した。私もアル中末席なんですが、施設にリアリティを感じた。煙突掃除の彼女といるところが好き。

<参加者G>
◆私は「大聖堂」を読むのは2回目。1回目は海外文学の読書会のときで、読んでよかったと思った。再読でも夢中になった。私もIさんと同じで村上春樹が好き。村上春樹が自分にぴったりな作家を選んで翻訳しているから(村上春樹レイモンド・カーヴァーに)共通点があるのかな。翻訳するにあたって村上春樹風に変えているところもある。言い回しや言い癖……。気持ちよく読めた。一作一作、感動しながら読んだ。頭ではなく神経的なものが合う。
◆CさんやFさんも挙げられていたが「ぼくが電話をかけている場所」。不思議な安心感がある。社会から脱落して、どうしようもない人の集まり。私は鬱で3ヶ月間入院していたが、不思議と温かかった。社会的地位がない人、後がない人……居直っていて、お互いに温かい。関係性を大切にする繋がりを彷彿する。
「でぶ」も好き。カーヴァーは食べ物を美味しそうに書いている。「大聖堂」のストロベリーパイ、なんでこんなに美味しそうなのか。スカロップト・ポテトはステーキに添えたら美味しい。とくに描写はないけれど、文脈の中で美味しそうに感じる。
パンもめちゃくちゃ美味しそうだし。食べるとき無心になって、食欲の奴隷って言うとあれだけど……生命力、かな。
「足もとに流れる深い川」。各作品に出てくる男の人たちは似ている。感受性がない、深いところに心が及ばない……「大聖堂」の主人公は途中で目覚めるけれど。
この作品でも、少女の死体を放置して、自分たちは平気でウィスキーを飲んでおり、妻としてはそこが許せない。死んだ少女は子供だったのに放ったらかしにしていた、その心。
魂の在り様がすごく乾いている男性と、それに気づいた女性との確執を描いている作品が多いのではと思った。
◆日常の中の異物感。普通に暮らしているところに女の水死体が入ってきて、完璧な断裂が起こる。「でぶ」も異物が入ったことで何かに気づいてしまった。
「あなたお医者さま?」も、日常の中の異物感があり、そこに人間としての真実があるのではと思う。世間では認められて、家庭を持っている人の欠落したもの。人間の魂として一番大切なものがそこにあるから惹かれるのかな。

<参加者H>
「大聖堂」をメインで読んだ。よく考えられた作品。意図も(正解かはわからないが)わかりやすい。めでたしめでたしで読んでしまってはいけないと思うが起承転結的によくできている。
◆主人公が、妻と男の友人との関わりを気にしている。一般的に、「自分が知らない妻の友人」というのは、友人が男性であっても女性であっても、夫は間に入りづらい。妻の友達に対して、旧知の間柄のように話題を探して入っていくことは私にはできない。もし妻と友人の会話に入っていくとしたら、座席とかしょうもないことを訊いてしまうのではないだろうか。でも、それでは物語にならないから、妻の友人を盲人に設定し、テープでのやりとりを持ってきてギャップを作る。段差ができてストーリーになる。上手く物語を作っている。そこが作者の意図。スムーズに書かれている。
◆よく「登場人物が勝手に動き始めた」と言うが、登場人物が勝手に動き出すことはない。必ず作者がコントロールしている。いかに気づかないように読ませるかが作者の腕。二人で一緒に大聖堂を描くが、巻き込まれた過程が面白い。構造がわかりやすく、先が読めてしまうところを、いかにありふれた話にしないか、段差がある物語を作っていけるかというところに腕がある。作者の意図が前面に出ている。意図を張り巡らして作られた作品。
◆盲目という設定を今の日本で使えるだろうか。アメリカと日本が違うのか、時代が違うのか。「でぶ」も身体的な部分を道具立てにしてしまうのをどう思われるか。現代の作家の新しい作品として読むとどうか。ある程度、評価が定まったカーヴァーだから読める。時代によって違ってくるのかな。
◆一番よかったのは「ささやかだけれど、役にたつこと」。一番、物語性がある。手に汗握る、スリルとサスペンス。パン屋さんがよく使われている。撹乱要素であり、エンディングの主要なキャラクター。第三者を上手く使ってエンディングに繋ぐのは、オー・ヘンリーを思い出した。

<参加者I(推薦者)>
「大聖堂」。1回目は読んでよくわからず、ラストは印刷ミスかと思った。2回目読むとユーモラスで面白い。登場人物はそれぞれ鈍感だが、それぞれ馬鹿ではない。キャラクターが上手い。とくに盲人が秀逸。
◆男性なので夫を擁護したい。妻が鈍感。ラストに妻に「何してるのよ?」と言わせるのが痛快。どこかユーモアを交えた書き方が魅力。
◆なぜ大聖堂を描くのかわからない。盲人と絵を描くところに意味はないんじゃないかと思う。一番つまらない読み方は、細部にこだわって「謎だ」となること。もったいない。
◆このような終わり方は好きだが、最近は好まれないのかな。

<参加者J(提出の感想)>
〈全体について〉
 広く奥深い解釈が可能な寓喩と、心の機微を的確にとらえた「ちいさなしるし」(心理があざやかに反映された動作の描写)が特徴的な短編集。簡素かつ平明な文体で語られる何気ない日常の断片――、これらに刻みこまれた象徴性と鋭い人間洞察が読みどころ。魚釣り、川と死体、夫婦の隙間、神経質な母、酒好きの父。同じモチーフがいくつかの作品に共通しているのは印象的。作風としては小川洋子さんを連想。日常に潜んだちいさな異物に焦点。寓話的でもある。ただし、カーヴァー作品の登場人物たちは、神や信仰を失った現代人の、リアリストとしてのさびしさや空白感が顕著だと思う。

〈表題作『大聖堂』について〉
 何か本質的なもの、いわゆる「イデア」と呼ばれるものに迫った作品であると思う。
 他の多くの作品同様、ここでも夫婦の隙間というモチーフが使われている。思慮が深いとは呼びがたい夫と、神経質な妻の組み合わせは何度も出てくるパターン。彼らの関係が決して「良好」でないことも定型。少なくとも一緒にベッドへ入る関係ではないとの描写がある。この作品のみならず、作品集全体として、主人公格の男と女の決定的な違いとは、「心のつながり」を求めているかどうかだろうと思う。作者の描く「男」像が求めているのは、どの作品でも自己本位の快楽ばかり。酒、性、釣り(趣味)。女はそんな夫にうんざりしつつ、日々黙って耐えている――、そんな構図が目立つ印象。
 ところがこの短編だけ、妻の方には心のなぐさめが用意されている。かつての同僚である盲人の男との交際。軍人である夫に付き添って、あちこちの基地を移動する生活に閉口、薬物自殺を試みるほど気がふさいでいるこの妻は、テープレコーダーによる一風変わった文通だけが心の支え、あるいはなぐさめになっている。(そういえば、夫が幼なじみであり、まだ無知で無垢だった若いじぶんをすっかり委ねてしまった、という構図は「足もとに流れる深い川」と酷似)
 この妻が「詩人」であり、盲人には生活に起こったことのみならず、願望混じりの妄想(離婚や別居)までも洗いざらい吐露しているところはおもしろい。妻にとって、盲人はどこか神のような立ち位置にあるのかもしれない。神を失った現代人の、心もようの一端が描かれているような気がする。
 夫は盲人にいちども会ったことがない。「顔をさわらせる」ほど妻とは親密な間柄である盲人のことを、あまり快く思っていない。そして、「心のつながり」を求める生き方をしていない彼には、盲人夫婦の愛というものが理解できない。「愛する相手の瞳に自分の姿が映らない女の気持ち」「かわいいなどと称賛のことばはかけられない」「表情も化粧もファッションも無意味」と狭い価値観で一方的にあわれんでいる。
 要するに、彼にはじぶんに「みえないもの」はただみえない。みようともしない。そうしたことを想像することもできないから、盲人相手に車窓の話をしてしまう。彼の世界は子どものように独善的で狭窄。そんな彼の心をなぐさめるのは現物的で即効性があるものばかり。しかし妻との関係は良好ではなく、欲求不満や空白感を薬物でまぎらわせるも、夜は悪夢に苦しめられている。無意識レベルで人生が行き詰っているといえるだろう。そんな彼にひとつの光明をもたらしたのは、他でもなく彼が煙たがっていた盲人だった。そもそもこの盲人というのが、見た目・性質と共に彼の価値観を大きく揺らがす存在だった。彼はここで、じぶんの知らない世界や価値観というものが世の中に存在していることを肌で知る。そうして、偶然観ていたテレビ番組から、彼は「大聖堂」というものについて、盲人に説明を試みることになる。このとき、妻が同じ空間で「眠っている」という設定は寓話のにおいがして好き。妻はそこにいながら意識はない。(あるいはそのふりかもしれないが)人生としての意味でいえば、片方の目は閉じている、という状態だろうか。
 信仰心を持たない夫にとって、大聖堂とは特に興味がないもので、たまたまテレビで扱われていた話題に過ぎない。(「神は偶然に宿る」という言葉が浮かぶ)「神とは、信仰とは何か」夫と盲人はこれらについてほとんど知らない。けれども盲人は、夫に「大聖堂」とは何か描写するよう要望する。共通認識が不可能な状態からの説明。異国語を勉強したものならこのような状況は心当たりがあると思うが、この場合の問題点は相手の目がみえないこと。しかし夫は投げ出さず、持てる知識を総動員して説明を試みる。ここで浮き彫りにされるのは、そもそも認識とは何かということ。ぼくらが「知っている」ものとしてとらえている「何か」とはけっきょく、個人の知識や経験、習慣や固定概念で構築され、勝手に色付けされているものに過ぎず、その説明がいかに多くのひとの共感を得ようとも、「真」という実像はけっしてとらえることができないだろうとのつめたい暗示がうかがえる。作者はここに、人間の限界をひっそりと強調する。そのうえで、次のステップに進む。「大聖堂」というものを紙に描こうということになる。夫の描く手に盲人が手を重ね、描かれるものを感覚で感じ取ろうという試み。作品として巧いのは、この場面にいたる前に、「大聖堂」というものの国ごとのさまざまなかたちや定義が先に紹介されていること。大聖堂という一語でおさまる壮大な建物は、じつのところ定型がなく、懐深く自由な建築物であることが示される。そのうえで実際の創作へ移行――、漠然としたイメージあるいは心のかたちを何かで表現しようとする運びはとてもいい。創作とは、すべからく「みえないもの」をかたちにすること、ここを鋭く突いている。こうなってくると、読者もまた、夫といっしょに大聖堂を描いてしまう。盲人にうながされ、夫はやがて目を閉じる。盲人にリードされながら、夫はじぶんの内なる「大聖堂」、作品の主題としては「みえないもの」をかたちにしようと手を動かす。書き上がったものに具体的な言及はない。しかし、「それ」はもう、作品世界を遠くはなれて読者の心にひそかに浮かび上がってしまっている。描き出されたのは、視覚情報に左右されない、限りなく本質的な「大聖堂」であるだろう。それはたしかに個人の内的世界に創造されたものだろうが、目を閉じて、心で描いたものであるだけに、みえないもの――、ひとびとの深層にひそむ普遍的無意識下の「大聖堂」と呼ばれるもの、あるいはそれに類した認識そのもの、そう名指していいものではないかと思う。少なくとも作中の夫が描き出したのは、「大聖堂」というイデアだったと信じたい。ラストの止め方はすばらしかった。「まったく、これは」のあとに訪れる余韻、残響、空白感はすてき。「私は自分の家にいるわけだし、頭ではそれはわかっていた。しかし自分が何かの内部にいるという感覚がまるでなかった」との心理描写からは魂の遊離が感じられ、読後、しばらくは心地いい浮遊感につつまれた。

〈他の作品について〉

「でぶ」
 個性的な体型を持った、紳士的な大食漢の話。暗喩されているのは妊婦の心理なのだろうか。この点についてはぼくにはよく分からない。「彼」がつくったものをなんでも余裕たっぷりに受け入れていく男のすがたに、語り手は「女」として心をゆらす。受容する、呑みこむ、といった女性性の力のはたらきが底部にうごめいているようには思う。よろこびでもあるし、また、じぶんがじぶんでなくなっていくような、得体の知れない不安もある、ということか。地の文(物語世界)と並行して演出される「現在時間」(語り手がまさにしゃべっている時)はおもしろかった。読み手は箱眼鏡でものぞきこむようにして、作中の世界をたのしめる。「男との会話」シーンと「作業」シーンはきっちりと分けられているが、スタッフ専用スペース(内)とお客さんのスペース(外)というレストランとしての厳格な仕切りを連想させて親近感があった。

「サマー・スティールヘッド」
 思春期にさしかかる少年の心象世界が寓意的に描き出された作品。みごと、と思う。「釣り」という男の子が夢中になりやすい「あそび」に混在した「性」の描写がものすごく印象的。にごった水から魚を釣り上げること、それは、無意識という深い水からじぶんの意思で得体の知れない何かを現実にあらわすこと、だろうと思う。主人公が釣り上げた魚は二匹。一匹目は「無抵抗」で「みたこともない」(緑色)のマス。二匹目はかなりの大物。これら二匹の共通点は、見た目こそ魚だが、じつは正体がよく分からない何か。二匹目など、男の子たちには魚に見えたが、母親には「蛇」と呼ばれる。この部分はかなり示唆的。「蛇」から連想するイメージは豊か。(男性心理の夢想とロマンは女には理解してもらえないだろう。父親の対応には焦りというか恥のようなものが感じられておもしろい)
 夢想と共に生きる男の子たちが寒さにがたがた震えながら=心身的にあたたかいもの、つまり愛に飢えていると解釈――、ようやく釣り上げた大物の正体は、おそらくカオスに生息するもの、未成熟な性を象徴するものだったのだろう。この大物に付された「みにくい」形容――「傷だらけ」で「やせすぎている」「灰色にたるんだ腹」は、「性」や「おとな」に対する子どもの鋭い洞察を読み取ることができると思う。この主人公の「性」認識とは、いわゆる「めざめ」の段階であり、完全に自己本位の世界にとどまっている。女を夢想し、射精するよろこび。そこに愛は存在しない。そうした独善性、もしくは「無知」「未知」という後ろめたさが、二匹目の大物に暗示されているような気がする。「未成熟」「現実化しない理想」(あるいは「限りなく理想に近い現実」)、そして「まだ遠い大人の世界」を連想させる大物を、「両手で抱きかかえてつかまえる」少年のすがたは印象深い。また、あまりに生々しく描かれた少年像――(両親のつめたい不穏を鋭敏に察知する感受性と注意できない心の弱さ、嘘、たばこ、自慰といった「自立」への不可避な発達段階、釣りに対する童心、甘美で自己都合でどこか謙遜している妄想性)と、限りなくリアルな非現実性の境界性というか絶妙な溶け合い方はすばらしかった。
 ラスト「魚の開いた口から水が入り、残された体の端っこから出ていった」との描写は目的を遂げたあとの男性心理のむなしさというか脱力感が的確にあらわれているような気がする。男はものごとを「点」でとらえ、女は「線」でとらえるということ。魚の「取り分」で応酬するふたりの男子に、民族や国同士の軋轢を連想。寓意が深く、写実性も幻妖性も抜群で、心つかまれる作品。

「あなたお医者さま?」
 夫婦の隙間を突いた話。魔が差す、ということばが浮かぶ。妻の不在中にかかってきた一本の電話が、男にちいさな冒険心を起こさせる。日常のなかにひそんだ異世界への入り口が深夜の電話という設定は親近感がある。不信やいら立ち、疑い、ちょっとした恐れを抱きながらも、しかしついつい女の声に耳をかたむけ、彼女からの電話を期待してしまう男の心理は滑稽だが、これこそ男の心の実像なのではないかと思う。頼られることに悪い気はせず、「あわよくば」という希望も抱く。種をまくのが男の仕事か。ちょっとあわれ。とうとう女に会いに行くとき、さりげなく爪のチェックをしているところは印象的。ところが相手宅で帽子をかぶったままであるところに、主人公の心の弱さや罪の意識が見え隠れして好感。逆に、主人公に対して執拗に電話をかけてくる女の心理を想像すると悲しくなる。育児はとてもつらい仕事だろう。心やからだの空白を、何かで埋めたいと願う心理はけっして否定できるものではないと思う。ラスト、「あなたじゃないみたいよ」という妻のセリフはまるで子に対する母親のようでおもしろい。

「収集」
 失業中の男の話。別居中なのか離婚なのか、妻とは一緒に住んでいない。「古い人生と新しい人生の境界」を描いた物語だと認識。根拠は、現在の住居からは「すぐに出ていくつもり」という描写と、「不在の妻」にひそやかに関連した男が病的な執拗さで清掃していくカーペットに「日々失っていく自身の身体の細かな断片がうまっている」という説明があることから。新しい人生につながる「報せ」を待っていた男に訪れたのは「過去の清算」、あるいは「対面」という構図はおもしろい。男の無意識の願望、後悔、あるいは後ろめたさのようなものが、「彼」というセールスマン、強引で一方的で理性や常識では理解しきれない来訪者を生みだしたのかもしれない。彼の清掃がやがてベッドルームに及ぶところ、「最高出力」を用いるところは印象深い。こういったシュールレアリスム的なおはなしはとても好き。

「足もとに流れる深い川」
 妻としての暗い想いが克明に描き出された作品。「強姦され殺された女性」に、語り手の妻は過去のじぶんを投影している。「彼女はまだほんの子ども」この言葉には若さゆえに無知だったじぶんへの後悔と嘆きが濃くあらわれているように思う。勢いや流れのままに身をまかせた男が愛していたのは、じつはじぶんそのものではなく、単に若い肉体ではなかったか。そうして、いちど気が済んでしまえば、今度は「社会上のステータス」や「生活の手足」として利用されるだけ。そうした失意や困惑、夫や自己への憤りやうんざりさがひしひしと伝わってくる。水面に浮いた女の死体、流されて、やがて男たちに発見され、ナイロンひもで手首を木にむすばれる。これらの伝聞イメージに妻がじぶんを重ねてしまったのは、夫へのちいさな不満、あるいは不信が日常的にたまっていたからだと思われる。たしかに妻は神経質にちがいないが、しかし、「だまって長く耐えていた」という心労を想像すると胸が痛む。当作品集には「夫婦の隙間」というモチーフがとかく多いが、この作品は女性が語り手ということもあってか、ぼくにはもっとも共感が深かった。どこの世界でも、男なんて甘ったれでだらしない。いつだって子どものように浅慮で幼稚。そのくせ、じぶんのエゴが一人前だと評価されていなければ気が済まない。ここに描かれている夫像は、じぶんの欲動にとても素直。酒、釣り、性欲。したいと思ったらがまんしない。黙って自己を押し殺している妻とは対照。こちらの気持ちをおもんばかっているようで、実のところいつだって自分の正当化に尽くす夫をふがいなく思っても無理はない。信頼なんてもうできない。何気なく流れていく日常におけるひそかな変化、些末な違和、漠然とした不安、ふと省みた過去のじぶん――、こうした暗くもやもやとした感情が見事に集約された「足もとに流れる深い川」というタイトルには肌がふるえる。そのままの意味で、奥深い作品。

「ダンスしないか?」
 妻に離縁されたと思われる男の話。室内にあったものを、ヤード・セールとしてそっくりそのまま庭先に出して売り出す、というやけっぱち加減はたまらなく愉快。通常は「家」に閉ざされて見えない私生活、内的世界、あるいは妻との過去を何も隠さず世間にさらす、そして売る。何もかもを清算し、すっかり失くしてしまおうと望む。ここまで極端な行動をとった男の心理を想像すると切なくなる。(「収集」と似たようなモチーフ)ふたりのベッドに寝転ぶ若いカップルに、男は何を思ったのだろう。人間心理を反映させた簡素で的確な動作の描写は印象的。ラスト、女が抱いた「相手に伝えられない感情」とは、あわれ、さびしさ、母性のようなものなのだろうか。いずれにしろ、ヤード・セールの男が成熟した大人でないことだけは確かだろう。

「ぼくが電話をかけている場所」
 アルコール中毒療養所の話。「大人ではない親たち」のすがたが印象的。人間とはあまりに弱く、何かに依存しなければとても生きていくことができない。こうした「心のすきま」という人間のリアルが、秋風のようにひっそりと胸にしみいってくる作品だった。さびしさと孤独で息がつまりそうなのに、「彼女」への電話は乗り気になれない。理由は「元気であって欲しいと思うが、まずいことがあったとしたらそんな話は聞きたくない」から。この一文に主人公の稚拙さと軟弱さがよくあらわれているように思う。彼の愛は、少年のように独善的で傷つきやすい。幸福を招くというロキシーのキスを求める彼の弱さ、何かにすがろうとする気持ちはひどく切ない。ひとはけっきょく、何かと深く共依存しながらでないと生きていくことはできないのだろうか。

「ささやかだけれど、役にたつこと」
 不意に訪れた喪失の話。胸が痛む内容だが、この両親に心から共感はできなかった。パン職人の執拗な電話はたしかに不必要なことだと思うが、親たちの対応も「成熟した」ものとはいい難いと思う。神経質で視野狭窄な女。そんな妻にただ無力で、パン屋からの電話にも冷静に対処しなかった夫。「大人ではない親たち」のモチーフがここにも表れているように思った。「待つ家族」にできることは「お祈り」だけ」との描写があったが、彼ら夫婦には深い信仰心は感じられない。神(という支え)を失った現代人の闇と問題点が浮き彫りにされているように思った。院内での喫煙や個人情報の流出には時代を感じた。「子どもの死」のあと、「子供部屋のドアを閉めた」という一文には目が熱くなってしまった。すすり泣きとコーヒーメーカーの音の描写にも胸を打たれた。ひとりもののパン職人の仕事というのが「家族のよろこび」を目的としている、という指摘には考えさせられた。個人的にきついひと言。伏線や展開は巧妙と感じた。パン屋という役割がうまく活かされていると思う。同時に、傷ついた心をあたたかく再生させる力も感じる。

「使い走り」
 チェーホフの臨終の話。チェーホフが好きだったという作者もまた、死後の世界になぐさめを見出していなかったのだろうか。死の間際のシャンパンのシーンはすてきだった。「人の声も聞こえず、日常世界の物音も聞こえなかった」「そこにあるものはただ美と平和と、そしての死の壮大さであった」厳粛さと沈黙が支配する彼の最期は印象的。「彼は鞄を手に取り、部屋から、そしてさらに言うならば歴史からすがたを消した」という医者の去り際のシーンもいいなと思う。ホテルのボーイの役割は観念的だった「死」を現実の世界へつなぐことだったのではないかと思う。偉大なる芸術家の死を公にする、という責務を負わされ、彼がはじめてしたことは床のコルクを拾うこと――あまりに日常的なじぶんのちいさな職務であったことは印象深く親近感がわいた。

「父の肖像」
 エッセイ。「使い走り」にみられたモチーフが多くみられた。作者はあきらかに父の死とチェーホフの死をリンクしている。(臨終の酒とか、灰色の顔とか)作者の小説に登場する父親像――、酒好き、女好き、釣り好きはすっかり腑に落ちる。たびたび移動したという父の血は、どうやら作者もきっちり受け継いでいるもよう。父と同じ名を持つ子どもというテーマはぼくらにはすこし分かりにくい。自己同一性は弱まるのだろうか。それとも、だからこそ顕示しようとして強い力がはたらくのだろうか。筆名をちがう名まえにしなかったところは興味深い。父への感謝と尊敬、遠い距離感がしみじみと伝わる文章だった。

「レモネード」
 ある想い、ある心情について特定のリズムを持って描くこと。それを詩と呼ぶのなら、今作もやっぱり詩なんだろうなとは思う。息子の死と父の罪悪感が切実に伝わってくる。生きた音楽のように感じられるところが「詩」の形態の魅力なのか。トングで運ばれる子どもの画は胸が痛む。イノセンス、ということばが浮かんだ。レモネードを飲みたい。何気ない日常に深い翳を招いた原因が純情というのは悲しい。

「おしまいの断片」
 あらゆる望みというものは、けっきょくのところ自己顕示欲、あるいは承認欲求を満たしたいだけの薄っぺらでちっぽけな欲動に過ぎない。もって、人間はとてもちいさい。卑小でおろかだ。いつだってじぶんのことでいっぱいで、何の価値も見いだせない。でも、そんなうつろな器を満たすあたたかいもの、やさしいものってとてもいいよね。いずれにせよ、ぼくらは望んで生まれてきたわけじゃない。だったら、他人に極度に迷惑をかけない範囲で、それぞれちいさな心を満たしながら生きていってもいいんじゃない? そんなどこか開き直って楽観的な、かつ、いたく無常的なメッセージがこめられているような気がした。

<フリートーク
【大聖堂】
H:「大聖堂」は、どこを切っ掛けにして組み立て始めたのだろう。作者自身が、テレビで大聖堂が映っているのを観て、絵を描くシーンを閃き、盲人の設定を思いついたのでは。
G:やっぱり大聖堂が先にあったんでしょうね。
H:だから相手の目が見えていないほうがいい。
G:キリスト教圏の人には親しまれているから、描写してくれと言う人は目が見えない人。
H:日本人だったら大阪城でいい。大聖堂を被せる意味はあったのか。大きい建物ならなんでもいいのでは。
G:「信仰の空虚さ」とかを読み取る人もいるけど……
H:それは穿ち過ぎでは。
G:私もそう思う。
I:カーヴァー自身の信仰心はどうだったのだろう。
G:巻末の年譜や訳者あとがきでも特に触れられていないですね。
H:キリスト教でも信仰が幅広く分かれているから、一概に信仰心とか言いにくいのでは。
I:アルコール依存症なら縋るものが必要だったかも。
F:今、レイモンド・カーヴァーを検索したんだけど、アルコホーリクス・アノニマス(通称AA)に入っていますね。このグループは自分で定義した神様を信仰するのを薦めている。だからカーヴァーも特定の宗教じゃなくても、自分が定義した神様の概念を持っている可能性が高い。
AAでは、自分の名前を出さず、体験談を話す。外に持ち出さない。名前を明かさない。
H:キリスト教の告解のような。
F:それに近いことを断酒でやる。
C:年譜に「セント・ピーターズ教会で追悼式が行われる」とあるのでカトリックですね。プロテスタントではない。熱心かはわからないが、セント・ピーターズ教会はニューヨークで最古のカトリック教会なので、それなりに信仰しているのかな。
G:熱心に信仰していたら作品に表れるから、熱心ではない。私たちも死んだらお寺で葬式をするし。
カーヴァーが亡くなったのは50歳なんですね。若すぎる。一番書けるときじゃないですか。
H:今だったら50歳から書き始める人もいる。
G:経験も総合したら50代が一番書ける。これからというときに……悔しかったでしょうね。

【サマー・スティールヘッド】
B:とても粘っこくて瑞々しい。思春期の鬱屈した感じ。大人にも子供にもなれず、両親としても扱いづらい……よく描けている。すごく面白く読んだ。
G:一番好きな作品だけど読み返せない。魚をとってきたのに両親から無視されて肉の塊になって。悲しさに入ってしまいそうで。
H:実際にこういう経験ない? 子供のころ、自分はやったつもりなのに、大人からけんもほろろに扱われて。それを表した、いい作品。こういう作品はよくあるが秀逸。
G:(読者の)経験に直に触れてきますね。

【ぼくが電話をかけている場所】
C:だめな話を楽しそうにしている。(自分に置き換えると)飲み会とか、そんな話が多いかな。仲のいい人と集まって飲んで、その感じに近い。
「大聖堂」のように何を言いたかったのか考えさせられる作品も好きだが、本を読んですっきりしたい気持ちがあるので、読んでなるほどと完結するのが性に合っている。読んだ中では起承転結の「結」がわかりやすいのかな。
G:Fさん、アル中の人って実際にこんな感じ?
F:這い上がっている人もいるし、途中で死ぬ人もいるし……こんな感じですよ。再飲酒しちゃう人多いです。喜怒哀楽のどの感情にもお酒が付き物になって、やめられなくなる。
G:神経が張りつめてしんどくて、お酒を飲んだときだけほっとする。
F:そこが逆転して、アルコールで破滅する。この作品では優しい家族と繋がっているけど、本当は離婚される方が多い。
カーヴァー自身は断酒に成功して、肺がんで亡くなった。
G:カーヴァーは妻とも関係が悪くない。
F:カーヴァーの妻であるテス・ギャラガーの著書『ふくろう女の美容室』に、「大聖堂」と対をなす作品「キャンプファイヤーに降る雨」が収録されている。「大聖堂」を妻の立場で書いている。
A:アンサーソングみたいな。
G:二人で作品を仕上げていった。

【ささやかだけれど、役にたつこと】
H:夫婦は電話の意図を確かめないで、一方的に感情で動く。未熟といえば未熟なんだけど、こういう状況に置かれたら誰でもこうなるんじゃないかな。未熟とは違うと見たほうが読み方が深まるのでは。
A:これ、パン屋さん悪くないですよね?
H:悪くない。相手の立場に立って慰めていた。悪かったよ、と。こういうの、オー・ヘンリーに出てくる気がした。

【参加者が一番好きな作品】
G:皆さん、一番好きな作品はどれですか?
D:「大聖堂」。最後の一文を読んで、主人公がそこに至るまでを想像するのがいい。文化や信仰を代表する大聖堂というのがぴったりくる。
F:「ぼくが電話をかけている場所」
I:「ぼくが電話をかけている場所」は、私もだんぜんこちら側でアル中っぽいところがあって。家族がいて仕事もしているけど共感するところがある。そういう人種にしかわからないほろ苦さが魅力。あと、「ささやかだけれど、役にたつこと」が好きですかね。
アメリカ文学はマッチョな印象があって避けていたけど、アメリカ映画や文学に繊細な作品があると知って読み始めた。
H:「ささやかだけれど、役にたつこと」
A:私も「ささやかだけれど、役にたつこと」が一番好きですね。