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『高丘親王航海記』澁澤龍彥(文春文庫)

Zoom読書会 2022.06.26
【テキスト】『高丘親王航海記』澁澤龍彥(文春文庫)
【参加人数】出席4名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者E)>
以前持っていた文庫本の字が小さくて、読めなくなったから新版を買い直した。
古い版の小さい字が読めたくらい昔(十数年前)に一回読んだだけなのに、情景が自分の中に残っている。文章は忘れているけれど、描かれた情景が十何年も色褪せずに残っているのがすごいと思い推薦した。

<参加者A>
◆読み始める前は高丘親王についての知識がなく、航海記というタイトルとカバー絵から、若い皇子が冒険するのかと思っていたので、67歳の主人公で驚いた。しかし親王は若々しく好奇心旺盛、よく笑う温厚なキャラクターでとても好感が持てた。病に倒れて死ぬ間際までそれが変わらず、一貫して天竺を目指し続けているのがよかった。
◆基本的に親王に害をなす人物が出てこない。航海記だが、親王の内面的な話であると思った。しかし、私としては、真臘(カンボジャ)や盤盤、南詔国といった国々に連れて行ってもらって、また、幻想的な光景を見せてもらって、とにかく楽しかった。だからこの作品を本当の意味で理解できていないと感じる。ただ、親王のような生き方・死に方をしたい。
◆あとがきで高橋克彦が「若い人たちにどれだけ理解されるだろうか……」と書いていたのと、感想を検索していて「(この本は)終活本」という言葉を見つけたのもあって、もうちょっと年をとってから読み返してみたい。
◆書き方も面白い。P15で「エンサイクロぺティック」という言葉が出てきて、現代語をふんだんに使うのだなと了解した。P38、「大蟻食いという生きものは、いまから約六百年後、コロンブスの船が行きついた新大陸とやらで初めて発見されるべき生きものです。」という台詞を登場人物に言わせていて、すごく面白かった。メタ的というか(作中で言うアナクロニズム)。
◆大抵の場合、一生懸命読んでいって夢オチだったら怒るけれど、この作品は許せる。夢と現実が地続きになっているからだろうか。むしろ、親王が目覚めるシーンがなかったら「夢じゃないのか?」と困惑した(笑)。
◆秋丸と春丸のエピソードが好き。輪廻転生を表しているのだろうか。秋丸と春丸は、人とは少し違う存在なのかもしれない。本人たちも無自覚だが、不思議な鳥の化身であるとか。火の鳥など、甦る鳥の話は世界にある。
◆物語をずっと貫いているのは薬子。とても印象的。親王にとってのファム・ファタールか。

<参加者B>
◆好きな感じの作品。
◆ちょうど(自分の)新作で扱っていた世界に近く、あと1ヵ月早く読みたかった。
◆奇譚。ストーリーテリングというより、文体、教養、センス・オブ・ワンダーに引っ張られながら読める。
◆半分は夢の話。夢の世界に行って帰る。しかし、夢だったはずの盤盤のパタリヤ・パタタ姫が現実(?)に登場し、親王に死に方を示唆してくれる。夢と現を分けられない作品で、そこが気持ちいい。
◆テーマは「国を出ること」「旅すること」だろうか。空海和上が「あなたは渡天の旅をする」と言っていたように。旅をする動機については、わかったようなわからないような感じだが。
◆ざっくり面白かった。

<参加者C>
◆高丘親王の兄にあたる阿保親王墓所とされる古墳が芦屋市にある(※阿保親王塚古墳。本来の被葬者は不明)。なお、阿保親王在原業平の父である。
隣町に関わりのある人なので名前だけは知っている。
薬子の変を扱う歴史小説で高丘親王を主人公として書けないか調べたことがあるが、67歳で広州から天竺へ向かった資料しかなかった。あの辺りの歴史は面白いので書きたかった。幻想的ではない普通の歴史小説を、だが。
◆『高丘親王航海記』は、話には聞いていたが読んだことはなかった。こんな面白い話だったのかとわかってよかった。
◆夢と現実、過去と未来が同じ平面で語られている。マルコ・ポーロコロンブスが出てきても何の違和感もなく読めて不思議。
◆背景に書かれているのが仏教的な輪廻転生。私たちが普段から慣れている仏教の考え方。そのような頭で読めば違和感がない。
前回、読書会で取り上げた森見登美彦『熱帯』も、この作品も、狙っているのは同じようなところではないか。アプローチが似ている(『熱帯』は私にとって違和感があったが)。読者がどこまでついていけるのか試されている。
◆意味ありげなことが書いてある。深掘りしたくなるが、深掘りして考えたことが正しいか、果たして疑問。どれだけ深く掘り下げても、いろいろな見方ができることにしかならないのでは。
◆『西遊記』などのように、面白おかしく読める、で充分では。考えると迷い込む。もっと素直に読んでもいいと思う。
◆面白かったのは薬子の「卵生したい」。1979年、女優の秋吉久美子が結婚会見で「(子どもを)卵で生みたい」と言ったのを思い出した。
A:私はパタリヤ・パタタ姫で『パタリロ!』を思い出しました(笑)。パタリロも島国の王様だし。どうもパタリロのほうが前からあったみたいなんですが。

<参加者D(推薦者)>
◆Cさんが仰るように、深く考える作品というより、読むに任せて雰囲気を味わうものだろうと思った。私は、深読みが必要な純文学や、ガジェットや伏線がある小説は読み解けないので、幻想的な小説のほうが読みやすい。
◆澁澤龍彥はやはり変わっていると思った。マルキ・ド・サドを紹介したり、髑髏などをコレクションしたり、趣味的にもすごく変わっている。そういう、独特の世界観を持っているのだろう。
◆『高丘親王航海記』は、15年前からしばらく参加していた読書会で教えてもらった。読書が好きでたまらないという読み手が集まるレベルの高い読書会だった。そこで、「澁澤龍彥は自分の描写力に絶対的な自信を持っている(自分のイメージを客観的に書き写すことができる)」と聞いたのが印象に残っている。
◆描写力ももちろんだが、私が感銘を受けたのは文章力。私にとって昭和60年代は最近。最近なのに、漢文的な古語のような特殊な文章なのがいい。(この中で)若いAさん、読めた?
A:いくつか単語は調べましたが、文章自体はすんなりと入ってきました。
◆知性あふれる品位ある文章。平易な文章の中にそのまま入れたら変だけど、噛み砕いてから自分の作品に入れたら面白いと思う。

<参加者E(提出の感想)>
〈全体について〉
 異界旅行記、あるいはユートピア物語。現実と夢が織りなす怪奇幻想ファンタジーとも呼べるだろうか。想像力を心地よく刺激する作品。ぬるま湯につかったまま浅い夢をみているような気分だった。世界観、描写、語り手の立ち位置、どれもが好み。文章表現の多彩さ、豊富さにもうっとりした。作者の語り口には独特のリズム感があって好き。
 年代記という堅苦しい外枠と、カオスで粘弾質な中身のアンバランスさもたまらない。仏教思想というか東洋思想を背景にした「死と再生」、そして観念的にじわじわ迫る「美とエロス」の表現もすばらしかった。仏道帰依者を主人公に立てながら、甘美で濃密なエロスを、あくまでも「かすかにおいたたせる」レベルで演出してくる作者の意図と表情を想像して笑う。文学作品だなあと思う。
 主人公が初老の男で、航海が思い通りに進まないことから『オデュッセイア』を連想。時代が日本という「国家」の黎明期に近いこともその印象を持った理由かもしれない。ポセイドンの怒りを買ったオデュッセウスの漂流は男性的で直線的という印象だったが、このお話は同じ「漂流」物語でも女性的で円環的との印象を受けた。
 澁澤龍彦の小説は初。彼が紹介してくれる本はマニエリスム(不自然な人工美)のイメージが強かったが、この作品は水や月、蝶やオウム、孔雀などの自然美が印象的でおもしろかった。あいまい、受容、未分化、母なるもの……東洋を濃く感じた。
 作者自身の感情はあまり感じなかった。ただ、好きな世界を好きなように描いた、という印象。「境界」の視点、とも呼べるかもしれない。作者はたぶん、否定されようが肯定されようがどちらでも構わないんじゃないかと思った。(ただの妄想) 

〈ラストについて〉
 理想郷=ユートピア=「どこにもない場所」であるから「どこにでもある」と解釈可能なラストはとてもいい。人生の知恵として救いがあるように思う。カルヴィーノの『見えない都市』(引きこもって妄想旅行)もいいけれど、目的へむかって実際的に行動した後の、どこか道半ば的な「渡天」もすてき。胸に響く。(もっとも、天竺にたどり着けたかは不明)行動を起こしたうえで散るのならそれも本望、そして美かなと。
 そもそも、ラストに主人公が「不在」というのがおもしろい。(正確には「骨」で登場)親王の「肉血」は虎が、「たましい」はカリョウビンガ(鳥女)が天竺=理想郷まで運ぶ、というこの展開は寓意的解釈がゆたかだと思う。
(そういえばキィアイテム「真珠」は魚人の涙。海(下方)――地(平行)――天(上方)という、三方向への力の傾きがひそかに関係している点も胸がおどる)
「乙女の昇天」のモチーフもよかった。中性的かつ境界的な存在である春丸(秋丸)ならではの巧みな配役。『百年の孤独』のレメディオスとちがい、半獣化して昇天するところに懐深い混沌――アニミズムや動物的なにおいを感じた。それからエロスも。 秋丸・春丸両者が親王に強い想いを抱いていた節が随所にみられるところも興味深い点。彼とふたりの「昇天」は、精神的な「結合」を表しているのかもしれない。
 また、「カリョウの声を聴いたのだから、天竺についたも同然」といった同行者ふたりは男性脳的な正当化がうかがえて哀れ。同じ巡礼仲間でも、「昇天」と「在俗」を分けたのは「蜜人」の砂漠だったのかもしれない。あの砂漠は性欲と不浄(とりわけ仏法者の肉体的な死)が深く関係している。もしかしたら、親王と春丸はそこでいったん死んだあと、幽体して生き返ったのではないかと勝手に妄想。「すれちがい」もそれで説明がつくのではないだろうか。(鏡の国は彼岸の一種だったかもしれない)

〈輪廻転生――秋丸・春丸・薬子について〉
 秋丸と春丸。鏡なのか陰陽なのか、対極するようでじつは同一であるこのふたりもまたさまざまな解釈ができると思う。冠された名前はどちらも「境界」「つなぐもの」「あいまい」を連想する季節。個というものに大した意味はなく、たましいとしての連続性こそ生物というか命の本懐であると示唆しているような気がする。古代インド思想を強く反映しているようで好き。「秋丸」がもともと「死んだ男」の名前だったところも空想がふくらむ。
 薬子というキャラクターはさらに魅力的だった。しょせんは親王の妄想、錯覚――、仏教徒として受けてきた暗示のためなのかもしれないが、作中あちこちに立ち現れる彼女の「幻影」はおもしろい。
 親王一行は原則仏の徒であり、そもそも物語自体が巡礼の旅なのだから、性欲の対象としての女性美は表立って強調されない。けれども各所に女の幻影がちらついている。多くの場合、それは薬子を連想させるものばかり。彼女はまさに「女」だが親王にとっては同時に「母」と呼べるひとだと思う。であるから親王の彼女に対する胸の内はひどく入り組んでいるように感じられ、それはオイディプスに近いんじゃないかと思う。
親王は、初老というより青年――プエル・エテルヌス(永遠の少年)のイメージが強い)
 作中のエロス表現の対象がすべて一般的な肉体美や情欲を基にしたものではなく、半獣人や屍体から発せられたものであるのは、「母という女」に強い感情を抱きつづける主人公の、いたく難解な精神構造が関係している結果、とも考えることができるかもしれない。 
 そんな親王の「女性観」を、もっとも象徴的にあらわしているのがカリョウビンガじゃないかと思う。(物語としても重要な役割を担っているが)カリョウは人頭鳥身の半獣半人。「美女の顔」と「豊満な肉体」を持っているが下半身は鳥。(下半身、というところがまたおもしろい)人間と鳥の境界的な存在だが、そのどちらにも属さない。この「あいまいさ」は、同時に、「母と女」のあいだに立つものと解釈されるように思えてならない。
 仏の声と形容されるその安らぎは母性を連想、美女だが野性的な肉体(あるいは動物的なにおいを放つ肉体美)は「母」と「女」どちらも連想、そして、「翼をもった女」というのは男性視点の理想的な女性像を連想し、これはすなわち「女」につながる。あくまでも個人的な妄想にすぎないが、カリョウビンガとは親王の内的な「女性像」をそっくりかたちにしたものではないかと思う。(いわゆるアニマ⇒しかも段階1~段階4まで包括)
 彼の母性への粘着質な憧憬は、いわゆる胎内回帰願望を連想させ、それが作品の通奏低音になっているとすれば、ここにもまた、東洋的な円環構造を見出すことができ、「見かけ上、結局は目的地までたどり着けない結末」も含め、直線的で父性的な『オデュッセイア』とはあざやかな対比をみせているように思った。
 その意味で、薬子の「石」はとても重要な役割を果たしているのではないだろうか。
冒頭では「天竺まで飛んでいけ」。しかしラスト付近では「日本まで飛んでいけ」。ここにもまた円環構造。この底深き安心感、あるいは慈愛、包みこむようなあたたかさは、母性のはたらきが格段に強いといわれるうちの国特有のものじゃないだろうか。
また「石」(真珠)を親王の喉から取り出すシーンも印象的。それは「姫」の役割であり、母親役の薬子の仕事ではなかった。(もっとも、姫自体、薬子の幻影のひとつだろうが)
 男ののどに指をつっこむ若い女は母性と官能を合わせ持つ。寓意的解釈がゆたかに感じられるこの発想と配役はほんとうにすばらしいと思う。
 関連して、親王が真珠をのみこむシーンも意義が深い。仏教でもっとも恥ずべきことのひとつは「執着」。親王はあきらかに真珠に対して強い感情を示しており、しかも幼少期にも一度やっている。極論すれば成長していない。人間的な弱さのあらわれ。これもまた「呪われた」航海の理由だろうか。
 最後に、このエピソードに限らず、「夢」が現実の親王に多大な影響を与えている点はおもしろい。『胡蝶の夢』じゃないけれど、夢と現実はやはり密接に関係し合っているように思う。ボルヘスの『夢の本』に紹介されているとおり、夢が与えてくれる知恵や恩恵はけっして蔑ろにしていいものではないだろう。

〈その他〉
ジュゴンが唐突に再登場して笑ってしまった。「しゃべる大アリクイとメタ視点」や、親王が長期不在であるにもかかわらず、ずいぶん暢気な同行者など、この作品にはコミカルな面も多かったように思う。個人的にその温度感――、斜にかまえた感じは嫌いじゃない。薬子=巫女、親王の呼び名が「みこ」「ミーコ」も言葉遊びのようで楽しい。
◎「異界」を不自然なく展開していくためか、慎重で巧妙に張りめぐらされた地の文やセリフは印象的だった。(例P16「天竺はもうすぐおれの手のうちだぞ。」~こんなことばを闇に向かって吐きちらしていた。吐きちらされたことばはたちまち風に吹き飛ばされて、物質のように切れ切れに海の上をころがって行った)⇒実際はたどり着けず漂流する。

〈各エピソードについて〉
◎しゃべる大アリクイと蟻塚の話が夢落ち
 ⇒『オデュッセイア』によれば夢はふたつの門からやってくるという。ひとつは偽り、もうひとつは予言。メタ視点で語られる未来もその線では筋が通っているように思う。

◎カリョウビンガ
 ⇒この物語の重要なキィ。つばさを持った「女」が暗示するものは空想力を刺激する。仏教では「女」はそれだけで穢れとされて忌避されてきたはず。しかし、親王を動かしている熱源は薬子=「女」。天竺とは仏法の聖地。経験ゆたかな航海士でもたどり着けなかった理由はやはりそれなのか。鳥や蝶が象徴するのは「たましい」。それも含めて、作中のカリョウビンガの用い方や演出方法は、作者の観念イメージが巧みに練られた結果だったのかと思う。あるいは作者自体の主題だったか。(だいたい、「女」をできるだけ排しようと努める仏教世界の高次元に「美女」が出てくること自体滑稽な気がする)

◎夢を食う動物・獏
 ・獏のフンがあまい香りで恍惚を誘うという演出
  ⇒「今昔物語」を連想。(身分の高い女性の排泄物に恍惚となる男)
 ・悪い夢ばかりで活力を失う獏
  ⇒おもしろい視点で印象的。
 ・夢を喰われて活力を失っていく親王
  ⇒夢という心の支えや慰め、あるいは存在証明や「影」をなくして衰弱していくさまは非常に印象的。
 ・親王が夢を媒介に姫とつながっていると思いこむ。
  ⇒事実はちがう。男性の切ないロマン性が感じられる。

◎犬人間
 ・性器に鈴は悲哀すぎて背筋が凍る

◎蜜人
 ・高僧=学問を積んだひとの脳は糖分でいっぱいだという。馥郁は納得。
 ・砂漠で自転車(のようなもの)をこいでいるうち、恍惚となって空を飛ぶシーンには参ってしまった。発想力が秀逸すぎる。
 ・夢のなかで自分を見るシーンは印象的。(夢占いでは己を見つめ直したいという願望)
 ・P145「ああ、やっぱりそうだったのか。」
 ⇒この感覚が「悟り」なのかなと思った。 

◎極彩色の鳥の羽根をまとった少女・春丸
 ⇒鳥肌が立つほどに好きな演出。再生を象徴。ラストへの伏線のはたらきもあるかも。
 ・「卵生」の女はやはり薬子を連想させる。
 ・雷が女をはらませる 
 ⇒ゼウスを連想。龍や蛇は天にも水にも関係が深く印象的。神話的。

鏡池
 ・水面に映らない顔 
  ⇒影(=心の支え、補償)が失われている
  ⇒親王の心身がもはや現実のものではないことが示唆されているようでおもしろい。
 ・秋丸と春丸の夢のなかでの二重舞
  ⇒「死と再生」を象徴?(夏至冬至の祭りを連想)
 ・鏡に憑かれた王
  ⇒黒魔術的。作者の趣味か。
 ・自分たちの幻とすれちがう
  ⇒鏡の世界からの連想か。夢と現実の交差点だったのか。

◎真珠
・真珠が鮫人の涙という設定は興味深い。カリョウビンガを天上異界の代表とすれば、鮫人は海底異界の代表。その産物である真珠がやがてラストの昇天につながるのは示唆的。 

ラフレシアによる女人ミイラ
 ⇒発想に高揚。(妙に官能を刺激する)
 ・半裸の女性ミイラにネクロフィリアを想起。禁じられた美とエロス。女と仏道を考える。
 ・「子を産むと死」という命運
  ⇒寓意として鋭いと思う。わが子のために自己犠牲に傾く姿勢は女ではなくて母かなと。
 ・ピラミッド=地上の高みで死を想うシーンは印象的。 

◎餓虎投身
 ⇒仏法説話のように自己犠牲や利他が主体ではなく、「天竺に行きたい」というエゴイズムが行動熱源であるところに感銘。さすが澁澤龍彦と思う。
 ⇒はじめの晩は失敗して帰ってくるというのも妙味。現実的でもあるし、あるいは姫の死との関連を想起させるための演出だったかもしれない。「神は偶然にこそ宿る」

◎薬子が石を放る
 ⇒現実の石も消えている
 ⇒巧みな演出。そもそも「石」がそこらへんに落ちていたものというのがすてき。

<フリートーク
【作中エピソードの元ネタについて】
D:私が印象に残ったのは単孔の女。後宮は、どこかテーマパーク的。私の青春時代、怖いお化け屋敷もあったけど……。
C:あれはたぶん江戸川乱歩(の影響)。人間の剥製を作ったり、パノラマ島を作ったり……影響を受けているのでは。
D:昔、そういう喫茶店がありましたよね。1,000円くらい払ってお茶を飲む……。
C:蝋人形館みたいなね。作中に出てくるもの発想はわりと思いつくんですよ。(「卵生したい」も)秋吉久美子の会見を聞いて書いたのかな、と思ったし。深掘りすると、そういうのが出てくる。獏が夢を食べるのも一般的。それらを巧く取り入れてアレンジするのが腕の見せ所。
D:どう描写するかですよね。書き方によっては、獏とか手垢がついた発想って言われそうだけど。捨身飼虎……虎に食べられるとか、どこかで見たような話を書き出しているのがいい。
A:Eさんの感想を読んで思ったけれど、確かにギリシャ神話的な部分も感じますね。
C:深掘りすると粗が見える……と言うと、評価された作品に対して僭越だけど。面白かったからこそ、ついついケチをつけてしまう。
D:この作品について深掘りするところはあまりないかな。
C:これを肴に、あれこれ想像しながら語り合うのはいいかも。

【夢と現実、作品と現実の関わり】
D:暑さは伝わってくるけど飢餓感がない。食事のシーンがまったくない。ファンタジーだからリアルな部分を書いていない。
C:全部、夢の話として書いたのではと思う。過去や未来に行ってるけど、すべてが夢ではないか。現実の高丘天皇は天竺を目指して旅立ったが、この作品では夢ということにしたのでは。
D:獏のことも夢なのにパタリヤ・パタタ姫は再登場しますもんね。
C:夢オチではなく、夢そのもの。死ぬ間際の親王が見た夢、という設定ではないか。そう考えるとすんなり受け入れられる。
D:幽霊船で真珠を飲み込む。夢の話のはずなのに、真珠が死因になっているのも……
C:姫に真珠を取ってもらったらすっきりしたとあるが治っていない、全部、夢。薬子が投げた光る石のイメージを引きずっていると解釈した。
D:この作品を書き上げたのが6月、作者が亡くなったのが8月。真珠が喉に引っかかって声が出なくなって死ぬというのは下咽頭癌の比喩だろうか。
C:私の父もそうだったのだけど、死ぬ間際には子どものころを盛んに思い出す。澁澤龍彥もそうだったのでは。自分の夢として書かず、小説として書いた。分析しないほうがいいと言っておきながら、してしまっているけど。
D:年を取れば取るほど、子どものときの思い出が甦ってくる。間の50年、60年がすっぽ抜ける。昨日のことは覚えていないのに、昔のことはリアルに思い出せる。
C:小学校の同級生はフルネームで覚えているけど、高校の同級生は顔も覚えていなかったり(笑)。

【書き方やプロットの有無について】
◆D:(地の文に)いきなり作者が出てくる。
C:メタ構造だから一人称では書けない。これはこれでいいのでは。

◆D:秋丸と春丸はなんだろう。アンチポデスを表しているのかな。
C:口から出任せでは。最初は秋丸しか構想していなかったかもしれない。途中で思いついて……とか。真似したらだめですよ。最初は書けても、100枚200枚続けると息切れする。
D:いいなと思う文章を二つ三つ、現代的に書いたら作品が品よくなるのでは……。

◆D:儒艮が喋っていますね。
C:また秋丸(本当は春丸だけど)の前に出てくるのがいい。
B:ぬるっと逃げる感じがしてなかなか語りづらいけど儒艮好きですね。帰ってくれって言われて、もう出てこないのが可哀そう。もう1回出るのかなと思ったら出ないし。
C:何のために出てきたのか考えたらわからないけど、出てきて嬉しかったですね。
B:プロット立てずに、その場その場で書いているのかも。旅行記ってそういうものだし。 
D:確かに、「あれ?」って思うところが結構あった。突然、違うストーリーになってて。
B:ありますね。はるばる南詔国から帰ってきたけど、仕事を依頼してきたアラビア人はどうなったのかな、とか。
C:それを自然に読ませるのが巧い。澁澤龍彥だから許される。
D:これだけ夢を使われたら、どっちでもいいや、ってなる。
C:批評家や読書家がああだこうだ言うだろうな、それらしいこと喋るだろうな、と思いながら書いたのかも。

【仏教的死生観とキリスト教的死生観】
D:仏教というより澁澤龍彥の死生観かな。
C:仏教を熟知していなくても、(日本では)身近にあるから私たちにとって理解しやすいのでは。輪廻転生を使って、こういうことを書きたいんだなと伝わってくる。キリスト教圏の人には伝わらないと思う。
逆に、3月に読書会で取り上げた『屍者の帝国』(伊藤計劃、円城塔著)は新しく復活する話。キリスト教に親しんでいる人は違和感なく読めるかも。
A:確かに私も、輪廻とか生まれ変わる話に違和感を感じない。転生ものの作品など、輪廻転生に馴染みのない国の人はどう感じるんだろう。
D:キリスト教では、死んだ者は生まれ変わらない。そして、イエスが復活するときに復活する。

【その他】
D:私は子どものころ、輪廻転生には馴染みがなかった。いいことをしたら極楽、悪いことをしたら地獄へ行くと聞いていた。極楽と地獄を描いた漫画があって。血の池とか釜茹でとか。
C: 時代に合わせて、わかりやすい教えに変わっていく。極楽と地獄は、グリム童話的な勧善懲悪でわかりやすい。
D:子どもを躾けるために。
C:今では、その躾け方はよくないと言われている。「あのおじさんに怒られるからやめなさい」みたいな、悪者を作るやり方は。本当にいいか悪いかは置いておいて。
D:恐怖で支配するのはよくないですね。