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R読書会/Zoom読書会

『螢・納屋を焼く・その他の短編』村上春樹(新潮文庫)

R読書会 2024.04.27
【テキスト】『螢・納屋を焼く・その他の短編村上春樹新潮文庫
【参加人数】6名(感想提出1名)
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦者:参加者A>
◆地元の図書館で開催されている読書会でテキストに挙がった。その時は読み切れなかったが、絶対に面白そうなので読んでおかなければと思った。
◆また、前回のR読書会でテキストになった『年月日』(閻連科・著)は、内実があり、命に向かう大地の文学だったが、村上春樹の作品には空虚で死を見つめているような部分があり、いい対比になるのではと推薦した。
村上春樹は売れすぎているゆえにちゃんと読まれていないのではという気がして、初期短編を通し、本当はどんな作家なのか見直してみるのも面白いのではと思う。

<参加者B(欠席)>
[事前提出のレジュメ]
ある時「春樹はミソジニーだからノーベル文学賞は獲れない」との声を耳にした。その一言に簡単に洗脳されてしまい、以来、春樹が刺さらなくなっていた。今回、せっかく春樹を読む機会を与えてもらったので、できるだけバイアスのかからない状態で本作と向き合っていきたい。
「螢」……春樹風の言い方をすれば、やはり村上春樹はおそろしいほど文章がうまい。洗いざらしの木綿のシーツが薫風にそよいでいるような、柔らかく透き通った空気感を彷彿とさせる。たぶん執拗なくらいの推敲を経ているのだと思う。そして「~~はよく知らないけど」とか「確かなことは覚えていないけど」といった断定を避けて煙に巻く言い回しがよくでてくるが、そうすることによって謎が広がり、読み手を一面的な見方ではなく多面的な考え方へと導いている。君が代国旗掲揚という国家主義的な要素も変に政治的にならないよう気配りしつつも不気味な雰囲気を残している。寮の同居人とのやりとり、自死(?)した友人の彼女との交流が低温な口調で語られているが、核心をつくようでぼかし、何事もないようで事が運ばれていくなど、読み手をはぐらかすのが上手い。ただし女性との関わり合いはどこかよそよそしくぎこちない。テーマを限定する必要はないが、強いて言えば彼女のことば「ちゃんとした言葉って、いつももう一人の私の方が抱えていて、私は絶対に追いつけないの」のあたりに隠されているのではないか。概念と表象のずれのようなものが作品全体の底流に流れている。「正確な言葉を探そうとするとそれはいつも僕には手の届かない闇の底に沈みこんでいた」などにもそれをみることができる。最後の螢の描写が素晴らしい。インスタントコーヒーの空き瓶に入れられた螢は自分の想像していた、幻想的な光を放つ螢ではなく、死にかけた弱々しい螢だった。「たぶん僕の記憶が間違っているのだろう。螢の灯は実際にはそれほど鮮明なものではなかったのかもしれない」。そのあたりから屋上に上がって螢を空に放つくだりは実に美しく読んでいてうっとりした。

「納屋を焼く」……この作品も哲学的なテーマが透き通った文体の奥に見え隠れする。「要するにね、そこには蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ」など、有るような無いような不確かな存在が描かれている。納屋はあるのかないのか、彼女は消えたのか、生と死、などなど存在と不在を行ったり来たりする。またこの作品には、納屋を焼くという行為は一般的には悪だが、善悪の基準など不確かなものではないかという問いかけも込められている。「雨と同じですよ。雨が降る。川があふれる。何かが押し流される。雨が何かを判断していますか?」。なおこの作品は1983年に発表された。朝の連続ドラマ「おしん」が大ヒットし、辛抱して働けば家庭を持ち、家を建て、孫に囲まれた豊かな老後が送れると考えられていた頃だ。当たり前のことだが、小説はその時代の世相を映し出す。本作品も例外ではない。31歳の主人公(小説家)からすでに結婚していて経済的な不安など感じられない。彼はジャズを聴きローストビーフのサンド(クレソン入り)を食べる。フォークナーも「納屋は燃える」という小説を書いているが、主人公はもっと怒りを持っているし、生活も逼迫している。2019年には韓国でこの2作を下地にした映画『バーニング』が作られた。映画の主人公は春樹作品のような安全圏内に生息する既婚者ではなく格差社会貧困層に属す独り身の男に設定されている。春樹に生活感を求めるのは筋違いかもしれないが、先に映画を見てしまったわたしとしては、映画の主人公のほうに引っ張られ、春樹作品の主人公にはうすらさむいものを感じた。作品に世相の流行を過度に落とし込むと、その時はいいが、逆に経年劣化が激しいのではないか。

「めくらやなぎと眠る女」……「螢」と構造がよく似ている。「螢」では世離れした同居人と亡くなった友人の彼女が登場するが、「めくらやなぎと眠る女」では年下のいとこと入院中の友人のガールフレンドが出てくる。ここでも女性はどこか病んでいて、ミッション系の女子学生という設定だ。構造が似ているとはいえ、話の中身はそれぞれで、この作品にもいろいろな哲学的なテーマが込められている。時計によって刻まれる時間。時間というものが数字によってしか表現できない不思議。バスに乗り込む大勢の謎の老人。宗教か?マルチか?と思わせぶりだが、答えは明かさない。バスという閉ざされた空間のなかで得体のしれない団体客と同席したときの、ぞわぞわとした感覚が魔法のような筆力で描かれている。友人のガールフレンドが語るめくらやなぎの話も謎めいている。風とか、時間とか、痛みなど、かたちのないものがさまざまな言い方で出てくる。いとこの難聴の様子を絶妙に言い当てている。→「そうだなあ……ちょうどラジオのチューニングが悪くなるようなかんじだね。波が上下するみたいにだんだん音が弱くなってさ、それで消えちゃうんだけど、消えちゃってしばらくするとまた波が上下するみたいに音がせりあがってきて、それでいちおう聴こえるようになるんだ」。形容の仕方が抜群なのはもちろんだが、特に音楽(レコードやラジオ)を絡ませて形容させると春樹の独壇場だなと思った。とはいえ、読後にいちばん残ったのは疎外感だった。春樹作品には「そうそう!この感覚よ」と共感する一方で「自分はこんなにもデリケートではいられないな」と読み手を遠ざけるところがあるような気がする。

<参加者C>
村上春樹の作品は「ノルウェイの森」と何作かを読んで嫌いになった。
◆でも「納屋を焼く」がすごく面白かった。どこが面白かったのかわからないので皆さんの感想を伺いたい。
◆Aさんが「(村上春樹の作品は)生ではなく死を見つめている」と仰られたが、私も漠然とそう感じた。

<参加者D>
◆私は村上春樹の短編は初めて。……「風の歌を聴け」は短編?(※2017年4月にR読書会のテキストになった)
A:風の歌を聴け」は中編ですかね。
◆私の息子は村上春樹が好きではなくて。高校のときに読んで、比喩表現について考えるのがくたびれると言っていた。
今回、短編集を読んで本当にそうだなと思った。一遍いっぺん考えなくてはならなかった。息子に対して、初めて「そうだな」と思った(笑)。
◆すとんと納得できたのは「納屋を焼く」。他の作品は、これは何を意味しているのか、小人は何か……考えてくたびれた。ぼんやりとは読めない、きっと。

<参加者E>
村上春樹の作品は「風の歌を聴け」をはじめ初期のものをいくつか読んでいたが、短編集は初めて。
村上春樹の初期短編だけあって、長編にも見られるモチーフがたくさん出てきて、そういう意味でも楽しめた。逆を言えば、もっとまっさらな状態で読みたかったという気もする。
「螢」は、背表紙にもあるように「ノルウェイの森」の原点なのだろうと思った。私が「ノルウェイの森」を読んだのは20代前半の頃で、そのときはよくわからなかった。「羊をめぐる冒険」は面白かったが。
でも、現在「螢」を読んで、「僕」や「彼女」の喪失感みたいなものが少しわかった気がする。20代前半の頃は友人を亡くしたことがなかったけれど、今はそうではないので。青春時代を一緒に過ごした人を亡くすのは、家族や親族を亡くすのとはまた違う喪失感がある。
「納屋を焼く」の「彼女」は、「羊をめぐる冒険」に出てくる素敵な耳を持つ女の子・キキを思い出した(キキはもっと書き込まれているので、より魅力的)。
耳というモチーフは「めくらやなぎと眠る女」にも出てくるし、村上春樹の中で何かあるのかな。
「納屋を焼く」の、男性2人・女性1人で大麻を吸って女性が寝て……って、レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」のシチュエーションですよね。村上春樹が翻訳していた作品。
あれは主人公と盲人の心が通いあう、明かりが灯るような場面でしたが、「納屋を焼く」は真逆な気がします。主人公と「彼」は、まったくわかりあっていない。
◆他にも「双子」とか、神戸っぽい風景とか、私が読んだ村上春樹作品のキーワードがたくさん出てきて楽しめた。
◆まっさらな気持ちで読めたのが「踊る小人」村上春樹作品では、わりと現実と地続きの作品ばかり読んでいたので面白かった。小人にのっとられそうという不穏な雰囲気も好み。何かのメタファーとして考えてもいいのだろうが、話として純粋に面白いと感じた。
「三つのドイツ幻想」「冬の博物館としてのポルノグラフィー」は「羊をめぐる冒険」序盤の、水族館で鯨のペニスを見るシーンを思い出した。
ヘルマン・ゲーリング要塞 1983」も素敵な文章だと思った。
村上春樹作品を読み返したくなった。初期から読んでいって「国境の南、太陽の西」の途中で挫折したんですが……。

<参加者F>
◆私の息子は、作品に由来したメールアドレスにするくらい村上春樹が大好きで。なんでそんなに好きかわからなかったんですが、私も『東京奇譚集』を読んで、その中の1編をすごく好きになった。長編で読んだのは「海辺のカフカ」くらい。売れてるから読むというわけではないので。
「めくらやなぎと眠る女」には別バージョンがあり、そちらのほうが短い。私の好きな部分が全部カットされていた。
「螢」。後半の螢の場面がすごくいいなと思った。
「じゃんけんで負けて螢に生まれたの」という池田澄子さんの俳句を思い出した。螢からみんないろいろなことを考えるんだと思いながら読んだ。
「踊る小人」。象の工場が面白くって。こういうの苦手な人は本当に苦手なんだろうな。
「冬の博物館としてのポルノグラフィー」。面白い。こう来るんだ、と。現実と妄想が曖昧になりながら、ときに我に返って、というところが面白いなぁと読んだ。
「ヘルWの空中庭園も、私はヘンデルの音楽が好きなので「聴こえる」と思いながら読んだ。ほんとヘンデルだ、と。好きだから、好きという気持ちが先に来る。この作品は読んでいなかったので、読めてよかった。
「納屋を焼く」もいい。(新しい版の)P77「年老いた醜い双子みたいによく似ている」という文章などすごい。
村上春樹はすごく推敲するそう。
G:書くのが嫌いで推敲が好き、推敲するために書いているって。勇気をもらった(笑)。

<参加者G>
◆私は村上春樹作品が苦手で。「ノルウェイの森」でひっかかって挫折した。でも、やっぱり気になってちょくちょくいろいろ読んでいる。でも「海辺のカフカ」も一人だと挫折したから、友人を誘って読書会をした。そうでもしないと最後まで読めない。
Aさんが村上春樹作品を推薦したのが意外で、どうしてなのか教えていただくために今日この読書会に来た。
村上春樹のエッセイはすごく優れている。小説とは真逆の、砕けてわかりやすい書き方がされていて、それを読んでいる限りは尊敬できる作家。
◆今回のテキストは著者が35歳くらいのときの作品。確かに若い人の文章だと感じる。村上春樹は今(※2024年4月27日現在)75歳で、私は71歳だから年代としては変わらない。マリファナ、ヒッピー、ベトナム戦争……雰囲気がわかる。マリファナを回して吸うの流行っていたんですよ。今なら問題になるけど。でも偽物ばかり出回っていて、私は本物に当たったことはない。「どうなるんだろ」って吸うんだけど、偽物だからどうにもならない(笑)。「帰るか」みたいな(笑)。
ウッドストック・フェスティバルも。3日間で40万人集まったとか、読んで昔を思い出して楽しかった。
村上春樹の作品の基礎は若いときから同じ。言い回し、比喩、テーマ……作家って、ずっと同じものが続いていくの?
◆「~はよく知らないけど」「確かなことは覚えていない」「僕の記憶が」などストーリーを展開させるのに必要な言葉が散りばめられている。
私は(自分の作品で)「そういえば」と繋げることが多いが、「私の記憶が」と書いて違う場面を持ってくる方法もあるのかと勉強になった。
◆物語として面白かったのは「踊る小人」「螢」「納屋を焼く」はわかりづらい。「めくらやなぎと眠る女」は、バスがどうなるんだと思っていたらどうもならなくてがっかり。展開しないんかい、と。
「冬の博物館としてのポルノグラフィー」は声に出して読んでもわからなくて。ただ、文章はすごい。「そんな意識の回路の道のりに一度習熟してしまえば、誰でもあっという間に冬の博物館にたどりつける」……たった35歳なのにこんな文章を書けるのは天才だからなんだろうな。
◆このあと、Aさんのご意見を伺うのが楽しみ。

<参加者A(推薦者)>
◆たぶん参加者の中で、村上春樹作品を一番読んでいないのは私です。「ノルウェイの森」、「風の歌を聴け」を読んで、「ねじまき鳥クロニクル」は積んでいる。
◆皆さん、村上春樹ってどういう作家だと思われていますか?
C:同じテーマを繰り返して書く人。「ノルウェイの森」も「螢」も同じ話に読める。「めくらやなぎと眠る女」も似ている。「風の歌を聴け」も同じだと感じる。新しい作品は読んでいないから、(読んだ中では)あれしかないと思っている。想像力を働かせて作品を作るのかな。
G:いつもいろいろな音楽が出てくる。書くときも音楽を流しているそう。
D:私が読んだのは「1Q84」と「騎士団長殺し」、「風の歌を聴け」くらい。

<フリートーク
【納屋を焼く】
◆C:話を作るときに心の底にあるテーマを探し、掘り下げていく書き方がある(R読書会メンバーの渡谷さんは5年ほどかけて書くと仰られていた)。
そういう書き方とは別に、まず書きたいテーマがあって、それを書くために思い出や聞いた話をテーマに合うように組み立てていく方法もある。
D:私は日常の中で、心に浮かび上がってくるいろいろなことを考え続けて――ほとんどは忘れるんですが――自分なりの答えが出たときに書いてみよう、となる。
今回のテキストの「納屋を焼く」もそうなんじゃないかな。私は、「納屋を焼く=殺人」だと読んだ。女の子が一人いなくなっているけれど誰も気づかない。他人に対する無関心さをテーマにしているのではないか。自分が書きたいと思っていることとリンクしたから、そう解釈したのかもしれないけれど。
A:「納屋を焼く」は最初に読んだ(「螢」が「ノルウェイの森」の下敷きになった作品だとわかっていたから)。もうなんというか、えっ、こういうことでまさか、みたいな。すごくびっくりした。普通の物語を求める読者からしたら意味わからないでしょ。
D:私は殺人だと解釈したから、わかった気がしたんです。「彼」が気持ち悪く思えて。誰から見ても完璧な、モラル溢れる感じの気持ち悪さ。豪華な食事を持ってくるのも気持ち悪い。
C:この作品は、すごくシュッとした男性を出したから成功している? 何を書いているかわからないけれど面白い、というのは成功じゃないですか。そういう意味で読者を騙しているというか。
A:これ、どういうメタファーか結構わかった気がする。私も最初、彼女が消えたのは殺されているのではと思ったんです。でも、ミステリー的なことを書こうとしているんじゃ全然ないな、と。
「納屋を焼く」の感想をネットで検索すると、海外の作品を下敷きにしているということがわかった。フォークナーの作品であったり、「ティファニーで朝食を」だったり(「彼女」とホリーには共通点が多い)。
蜜柑むきのパントマイムが何を意味するかわかりました?
C:「ないことを忘れる」?
G:悲しい話ですよね。
D:「彼女」がいなくなっても誰も気づかないんです。
A:それはどっちでもいい。主人公は「彼女」を心配しないけど、冷たいわけでもない。
私は、「蜜柑むきのパントマイム=小説を書くこと」というメタファーだと思ったんです。人物や物語は存在しない。でも、ないのを忘れて演じてみる。
C:私じゃ、そんなふうには書けないなぁ(笑)。
A:一旦、存在しないという真実は忘れてやってみよう――ないものをあるように見せるのが彼女の仕事。パントマイムの練習は、小説を書くことのパラレルではないかと読んだ。
D:作り上げた人物は現実にいないけれど、私の中にはあるんですよね。書いているときは、ある。
C:真実を書いていますよね。
A:村上春樹は逆で、現実もないと思っているんです。左翼運動と近しいところにあって、それが駄目になるところも見た。
理想としていることは成立しえない。小説も真実も存在しない。でも、ないのを忘れて書くんだ、と。
実際読んで感じたのは、登場人物の女性に内面がないということ。
C:女性の造形は共通していますよね。
A:納屋=イノセントだという解釈があって。大人になると、無垢さはもう捨ててしまって存在しない、でも欲しいじゃないかというときがある。結局、実体のない蜜柑も使われない納屋も、顧みられないイノセントじゃないか、と。
村上春樹は2009年のエルサレム賞受賞スピーチで「高くて頑丈な壁と、そこにぶつかって割れる卵があったら、私は常に卵の側に立つ」という話をしたじゃないですか。世界と人間の在り方だと、私たちは割れる卵のほうになる。壁は抗えないもの。卵はイノセントじゃないかな。「納屋を焼く男」がその壁というわけです。
イノセントに価値を見出している人がいたら社会は回らない。貿易の仕事をしていてインモラルな「彼」は、社会を存続させるためにイノセントを焼くんです。

◆G:今とはだいぶ違う。「彼女」は、収入が足りないぶんはボーイ・フレンドに援助してもらっているけれど、体を売っているわけではない。この時代は学生運動もあって「連帯」という意識があった。学生同士のいじめではなく、先生対生徒、社会対弱者。
私もボーイ・フレンドの鍵をいっぱい持っていた。それでいないときに入って。連帯があった時代が懐かしい。
私は、「彼女」は死んだのではなく消えたのだと思う。
A:私はパパ活的な関係を想像したんですが。
G:いやらしい関係はなかった。ブルジョワに対する憎しみがすごかった。
A:この女性は芸能界みたいなところに足を踏み入れかけていたり、伝手がある。資本主義の、人を食い物にする構造の中で存在を消された女性だと読んだ。
つまり、主人公から「彼女」を奪って納屋を焼いていく「彼」は小説家である主人公と真逆の存在。敵ではないけれど。だから立ち位置を認めない。だからどの納屋が焼かれるのか気になる。
G:主人公は孤独。「彼女」は消えるし、納屋を見張っているし……。私、お母さんとして心配になって(笑)。そんなことしてたら捕まっちゃう、って。
「彼女」を理解しようとしているのに、いなくなった「彼女」の部屋にメモを挟んで帰っても連絡こないし。自分は近づこうとしているけど相手は遠ざかっていくことってあるなと思いながら読んだ。P82「住所録はぎっしりいっぱいだけど、あの子には友だちなんていないんです。いや、でもあなたのことは信頼してましたよ(中略)もう行きます」凄い孤独。
繋がりたいと思っているのに孤独。
D:P83に「彼女は消えてしまったのだ」ってあるから、自分の意思で消えたわけじゃないと思う。自分の意思なら、「納屋を焼くんです」と繫がらないから。
A:小学校の学芸会のことを思い出しているとき、「納屋を焼くんです」という言葉に割り込まれた。学芸会の記憶=イノセントの象徴。
「螢」で、友達が自殺することも主人公にはどうしようもできない。
私が読んだいくつかの村上春樹作品には、どうしようもないことに直面したときの無力感が書かれている。「納屋を焼く」は、イノセントの維持の困難性、小説の困難性について書いた作品ではないか。「彼」は確実に納屋を焼いていて、主人公は焼かれたことに気づいていない。「彼」は「俺の仕事は完璧だ」と去っていった。
どう思われます?
D:主人公はおばかさんだなって。納屋じゃないだろう、って。
F:短い作品でこれだけ意見が出るのはすごいですね。
A:ストレートには書いていないですからね。
C:作者はストーリー全体を俯瞰して、主人公に納屋をうろうろ探させることにした。キャラクターどうこうではなく雰囲気づくりというか。
A:焼く納屋を探しに行くのは馬鹿ですが、犯罪を未然に防げるかはわからないけど、そういう興味でやっていると思う。
結局のところ、「彼」が納屋を焼くか焼かないかが気になって、学芸会の子狐や手袋のことをすっかり忘れている。それが「彼」のかけた詐術。もっと新美南吉を思い出さなきゃ。そうすれば彼女のことも忘れない。
詐術にかかって、自分のイノセンスも失くすし、彼女もいなくなる。「資本主義に乗せられて、本来やるべきでないことをさせられて、何かを見失っているんじゃないか」と読める。
主人公は(納屋を探すという)徒労に近いことをして、どこかで納屋を焼かれているんだなとギリギリ気づく。イノセンスは自分の手元に残る。

◆P66「時々納屋を焼くんです」で思考を断ち切られるシーンについて
G:すごいよね、この書き方。
A:思考しているところに割り込まれたということですね。
D:割り込まれたってわかりますもんね。
E:今だとラノベなんかで結構あるけど、この作品が書かれた1980年代としては画期的では。
G:真似したいと思ったら、よくあるんだ。
E:ありますね。あと、「」の後ろの部分(」)だけ取ったりとか。自分でやったら誤植に見えるって言われて直したけど……
A:効果があるように使わないと。
こっちとしては思考を続けたかったけど割り込まれた、みたいに。
D:意味があるってすごいわかりますよね。
G:「時々納屋を焼くんです」が真ん中でも上でもなく、下にあるからいい。

◆G:NHKで『特集ドラマ バーニング』(2018年/韓国/イ・チャンドン監督)ってドラマが放送されていましたね。
A:ドラマは二次創作だから別の作品ですね。

【踊る小人】
A:「踊る小人」P91で出てきた、主人公に向かって指を鳴らすシーン。「納屋を焼く」でも出てくるけれど、主人公を詐術にかけるとき、(主人公の思考を)止めるんですよね。
しかし「踊る小人」も面白い。読んだばかりだから思うのかもしれないが、オーウェルの『1984』みたいな革命が起こって、アザゼル(※アシモフ『小悪魔アザゼル18の物語』に登場する悪魔)みたいなのが出てきて…………R読書会で読んだやつじゃん、って(笑)。
E:小人って、小さな妖精みたいなものなのですか。私は低身長症の人だと思っていた。森も出てくるから、白雪姫の小人のようなイメージだった。
A:私はとんがり帽子のピエロみたいなイメージ。
G:私は人間の膝くらいの身長の小人を想像していた。小さすぎると踊りが見えないから。

F:夢の中かと思ったら夢じゃない。よくわからなくなってくるのが巧い。
A:「踊る小人」の後半、彼女がダンスしているところ(P118)。「僕がひとつの夢のために別の夢を利用しているのだとしたら、本当の僕はいったいどこにいるのだろう」……これはくそーっという感じ。こう書くか、と。
実際のところ本当の僕はどこにいるんだ、でもどこにもいない。村上春樹の主人公はみんなそうだと思うんですけど。
一言で言えば、小人の踊りは、観客の中にあって自分では気づかなかったことを引っ張りだす(これは“納屋を焼く”のと同じです)。そういうものを資本主義は焼いていく。普段使われていないから本人さえ気づかなかったこと。そういうものがあってほしいけれど、資本主義はそんなものなくてもいいと更地にしていく。思い知らされた。
G:そこにいてそこにいない、みたいな。村上春樹の短編小説「パン屋襲撃」でも、パン屋が襲われているのに日本人カップルは普通にごはんを食べている。私はわからなかったけど海外の人が読むと納得している。日本人は何があっても見て見ぬふり。何もしない。自分がそこにいるんだけどいない。実態がぼやけている。
A:前回取り上げた『年月日』(閻連科・著)は、俺が死んでも何かを残すんだという生の実感たるものがあったが、村上春樹の作品は生の実感というものから距離を取っている。
C:それが作家としての特徴というか、違いだから受け入れられる。村上春樹は世界中で読まれているが、多くの人に、生きている現実を感じられない虚しさがあって受け入れられたのではないかと思う。
A:やはり学生運動の世代だから資本主義体制との距離や批判がある。我々の真実の旗のもとに……と大上段にはやらないけれど、大事なものを忘れていませんか、とこっそり書く。
C:みんな思っているから、なんかわからないけど納得するわけだ。上手ですよね。
『年月日』が、もし主張をそのまま書いたものだったら読まれない。民話のようなかたちで突き詰めたから読まれる作品になった。読者の目が向くように書くことの大切さを感じる。

【めくらやなぎと眠る女】
G:短い作品でいろいろな意見が出て面白い。村上春樹の作品が外国でも評判いいのが不思議。
F:「めくらやなぎと眠る女」はフランスでアニメ化されていますね。
C:短いバージョンがあるんですよね。何がなくなっているんですか?
F:バスの場面がごっそりなくなっている。作者がこの作品を好きだったのか、そういうふうに書き直したみたいですね。
「めくらやなぎと眠る女」は400字詰め原稿用紙換算約80枚を約45枚にした。4割減らしたことになる。減らしたバージョンを読んだけど、バスを待っているシーンは「(バスを待っているときって)こんな感じだなぁ」「時計を何回も見るところとかいいなぁ」と思わされて、とても巧い。
これだけのことにどれだけ枚数を費やしているのか。これだけ費やされるとよくわかる。
D:(書く上で)これを、そういうふうにここまで引っ張れる作風にするのは難しい。引っ張ることのできるトーンに持っていくのが。
あまり意味はないけれどそれを読ませちゃう、というところがすごいのかなと思うし。
G:いとこのキャラクターがそれを可能にしている。
A:実際、いとこの耳の治療に向かっているわけで、最後は循環バスに乗って帰るだけだから何もなくて当たり前ですよね。
C:ただ細かく書けば「読ませる文章」になるわけではない。主人公の性格など、ほとんど書いていないけれど伝わる……そういう書き方をしている。
キャラクターをもっと細かく書けば伝わりやすいと思うが、敢えて書かない。長く、細かく書けば読み手はうんざりするから。巧いですね。

【三つのドイツ幻想】
A:セックスの話題も血が通った感じがしない。でも好きなんですよね。
G:冬の博物館……意味わからない。
A:「冬の博物館としてのポルノグラフィー」……普通逆で「ポルノグラフィーとしての冬の博物館」ですよね。この解釈がわからない。
G:「ちょっとした距離がある」って書いてるけど、すごく距離がある。わからない。
F:でも好きです。
G:「朝の静かな光と、ひっそりとした性行為の予感が、いつものように溶けたアーモンドみたいに、博物館の空気を支配している」……嘘おっしゃい(笑)。
F:小川洋子『薬指の標本』と少し似てますよね。
E:それ思いました。
F:P184「僕の思いちがいでなければ」P185「僕はなんといっても、つまり、うまく言えないけれど、僕自身なのだ」……言い聞かせるようなところがあって、ああそうかと思いながら読んだ。読み手に確認させるみたいに。
G:ずるいよね(笑)。
F:博物館が日常に侵食しているのか、ゆらゆらしてわからないところも好き。よくわからないけど好き。
A:規模の小さい博物館ですよね。行政的に運営されているのではなく、私設博物館のような。
F:どうしてこれがポルノグラフィーかわからない。
G:「ヘルマン・ゲーリング要塞 1983」。P192「何が似ているわけでもないのに、その二人はどこかでひっそりと結びついている」……よくわからなくて。
F:よくわからないとは思いますね。
G:この書き方、すごく計算されていて。自分で書くときに使おう、これ(笑)。
F:そう思うことって誰しもあるだろうし、そのまんま使うのは難しい。
G:日本人からするとドイツってわからないし。
F:「ヘルWの空中庭園の十五センチだけ浮いた空中庭園も。
G:それもわからない。落ちた人もいるし。
D:でもこれ高く上がると流されて危ないことになるんですよね。十五センチってところがすごい。
A:十五センチって空中かな?(笑)
D:空中なんです!(笑)上がっている意味があまりないですよね。
F:十五センチでも上がっていることに意味がある。
D:不思議なことは不思議ですよね。

【その他】
◆G:地元の図書館で読書会があるのいいですね。
A:広島県立図書館では読書会用の目録があって、その中から貸し出してくれる仕組みができている。
月に1回など開催するペースを決めて、目録から選び、年度初めに提出すると必要な冊数をキープしてくれる。10冊くらいストックしてあるのかな。
G:岡山でもやってほしい。提案してみようかな。

◆G:小説の学校の先生が言っていたのは、最近、理由のわからない、説明がないとわからないのに、いきなり始まる作品が増えた。
A:なろう系ですね。
E:ハイコンテクストというか。背景とか文脈とか……お約束がわからないと読めない。
A:ジャンルものですね。池波正太郎の作品とか、時代劇を観たことのない人が手に取ってもわからないのと同じ(ちなみに池波正太郎は文章の省き方がすごく上手くて勉強になります)。
D:こういう世界観で読んでね、みたいな。
F:池波正太郎も今読んだら少し古い感じがする。
D:古い時代の話ですし(笑)。
F:砂原浩太朗は時代小説なのに文章が新しい。1969年生まれだから今55歳。平仮名が多くて、決めるところだけ漢字が入っていたり、新しいなと思って。人から聞いて読んだのだけど、こんなふうに時代小説を読んだら違うだろうなぁって。