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「銀河鉄道の夜」他1編(『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より(宝島社文庫)

Zoom読書会 2021.12.19
【テキスト】「銀河鉄道の夜」他、参加者が自分で選んだ1編
      (『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より
      別冊宝島編集部 編(宝島社文庫
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
私は読書量が少ないので、好きな作家の作品を推薦することにした。やはり宮沢賢治の代表作は銀河鉄道の夜ではないかと思う。20年ほど前に、登場人物を猫に置き換えて描かれたアニメ(『銀河鉄道の夜』1985年制作/監督:杉井ギサブロー、原案:ますむらひろし)を観たことが、宮沢賢治を好きになる切っ掛けになった。

<参加者A>
銀河鉄道の夜
◆「銀河鉄道の夜」に初めて触れたのは小学生のころ。死んだ人ばかりだと思って怖くなり、全部読めなかったが、そのあと何回か読んだ。
◆透明感ある描写がきれいで、独自のオノマトペも印象的。文法は終結していないものもある。宮沢賢治だから許されるのかも。
オノマトペだけじゃなく独特の表現も印象に残る。Eさんも独特の表現を上手く使われるけれど、私は使えないのですごいと思う。
◆生きているジョバンニがなぜ銀河鉄道に乗れたのだろう。彼の切符だけ万能券(「ほんとうの天上へさえ行ける切符」)だし。読み返すたび不思議に感じるのだが、今回も思った。
◆「らっこの上着」について。現在、ラッコは絶滅危惧種になっている。作中の時代では、ラッコの上着をよく作っていたのだろうか。
◆私も息子とアニメを観ていたので、「銀河鉄道の夜」というと、やはり猫のイメージがある。

<参加者B>
◆久しぶりに読み返した。原稿が欠けていて、ページが飛んだりしているのは新鮮だった(決定稿ができる前に作者が亡くなっており、編集者が遺稿をまとめた)。
◆私は宮沢賢治の出身地である岩手県と近い秋田県に住んでいる。岩手の人は、宮沢賢治がとても好き。
◆私も、ますむらひろし宮沢賢治作品を原作として描いた漫画などが好き。
銀河鉄道の夜
◆子どもが死ぬ作品には、無条件で興味を引かれる。この作品集には載っていないが、「銀河鉄道の夜」の原型であると思われるひかりの素足もよかった。
◆SF的モチーフが用いられている。その後に作られたSF作品に繋がるのかな。鳥や岩石の描写など、多くの作品に影響を与えている。現代に通じる、元祖のような作品。
◆キャラクターの生死を通して論理的に語っているのは鼻につくが、観念的ダウナーな感じが心地よい。国民的作家だと思う。
「紫紺染について」
◆ドキュメンタリーのように見せかけて、大ぼらを吹くみたいなところを真似したい。

<参加者C>
銀河鉄道の夜
◆小学生のころ、全集に載っており読んだが、そのときは面白いと思わなかった。私は、ジョバンニが授業で銀河を習ったことに影響され夢を見て、また、それが死者を運ぶ列車だったのは、別の何かに影響されたためだと考えた。面白いと感じた箇所は、実はカムパネルラが死んでいたという種明かしのところ。それだけの話として読んだ。「子どもが読むものじゃない。大人になったらわかるのかな」と。
◆ずっとそう思っていて、数十年ぶりに、ほぼ真っ白な状態で再読した。
◆「天気輪の柱」「三角標」など、言葉が独特。
◆ラッコの上着がなぜからかいの対象になっているのだろう。父は漁に出ているのか、監獄に入っているのかわからない。説明がなく雰囲気で読ませようとしている。
◆しかし、ファンタジックな描写、これだけのものが命を持っている理由はある。
◆神、死生観、宗教観など語ればきりがないくらい材料が転がっている。機会があればまた読みたい。有名な作品を読んで、多数に迎合することに抵抗はあるが。
宮沢賢治はここまで文章で表現するのに苦労しているが、アニメの描写力には負けると思う。
よだかの星
◆小学生のとき、学芸会の劇の題材になった。学芸会の脚本では、星になったよだかを見て鷹が「見直した」というようなことを言う。子どもにはそのほうがわかりやすいから。
でも、大人になって改めて読んでみると違う。誰にも認められなくても星になっている。子どものころと、また異なる感想を抱いた。
風の又三郎は、学校の講堂で映画を観て、そのイメージがあった。
一番気に入っているのは注文の多い料理店。面白い。

<参加者D>
銀河鉄道の夜
◆私はだいたい本は最初から読むので、巻頭の解説から読み始めたが、解説の途中で「引っ張られるからだめだ」と思って中断し、「銀河鉄道の夜」を読んで、そのあと読んだ。解説は作品より後ろに載せてほしい。
◆「銀河鉄道の夜」は小学校か中学校の教科書に一部抜粋のかたちで載っていた。全部きっちり読んだのは初めて。
◆たぶん死者を運ぶ汽車なんだろうけれど、ジョバンニはなぜ乗れて、また、最上の切符を持っていたのだろうか。読みながら、ジョバンニも死んでいる、あるいは死にそうな状態にあるのだろうと思っていたが、最後まで読むとそうでもなかった(丘の草の中で眠っていただけ)。死に近い精神状態にあったから? それなら、そういう人は他にもいるはずだが、なぜジョバンニだけが乗れたのか不思議。
風の又三郎
分析しながら読むとすごく楽しそう。方言は難しかった。又三郎(三郎)だけが標準語を話しているのが、彼が異質な存在であることを表していると思った。
注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュは面白い。
「北守将軍と三人兄弟の医者」は終わり方に余韻があって好き。文章もリズムがあって、声に出して読むと楽しい。

<参加者E(提出の感想)>
銀河鉄道の夜
 深い悲哀に満たされた幻想物語。あるいは空想的寓話。行間から伝わってくる無常観、あるいは圧倒的な孤愁感にいたたまれなくなってしまう。
 たいていの幻想作家や喜劇作家はじつはペシミストであったという逸話はよく目にするが、この作者もまた例外ではなかったのだろうと思う。ドストエフスキーが遺したように、やはり「地獄はこの世」なのだろう。宮沢賢治は、恐らく、内なる自己、あるいは「心」の「救い」「慰め」もしくは「支え」を、世俗という眼前の現実では見いだせなかったのではあるまいか。当物語だけでなく、この文庫におさめられたどの作品からも一様に感じられるのは底なしの孤独感だった。彼の世界はとにかく内向的だと感じた。そうしてひどく寒々としている、ように思う。なぜなら行間から感じられる彼の、おそらく農作業中や散歩時の感慨、夢想、想念、思惟、洞察力には「他のだれの意識」も読み取ることができなかったから。いや、しいていえば「人知を超えた」概念または存在だけはそこに許されていたかもしれない。それこそ彼の、「救い」や「なぐさめ」だったのだろうか。つまるところ、彼のゆたかな空想性やアニミズムに満ち満ちた魔術的な世界観は、孤独のみじめさ、切なさの補償だったのではないかと思う。心理的防衛機制でいえば「退行」か。そして「昇華」か。思い通りにいかない世の中、あまりにみじめ、どこまでも空虚でしかない人生を、彼はそうすることでしか受け入れることができなかったのではないかと考えてしまう。このような反応は、いちどでも画や文字を衝動的に描きたいと思ったひとにはよく分かることではないかと思う。苛酷できびしい北国での農作業――それはつらい肉体労働、しかも彼は重い病を抱えていた――、そうした彼の社会的、実際的役割、要するに「表」のじぶんを補うために現れ出た空想夢想を、ありのままに、感じたままに表現したからこそ、彼のことばは現代に生きる同種のひとびと、「生きにくさ」を感じる読み手の胸をつかむのではないかと思われる。そこに、人生としての普遍性が成立しているような気がする。そのような観点に立ってみると、いちど乗ったらあとにはけっして引き返せないこの鉄道は人生そのもののメタファーのような気がしてくる。(そういえば映画『千と千尋』の電車も「行きっぱなし」だったはず)
 行く先々であらわれる世界、出会うひとびとに、作者の投影像・少年ジョバンニは高い感受性をもとにいつも心を乱しているが、そのなかで、とくに力をこめて書かれているのは「前書き」にあったとおり信仰もしくは価値観の「ちがい」についてだろうと思う。
 作者は熱心な日蓮宗信者であったということだが、あくまでも個人イメージとして「攻撃的」「排他的」「閉鎖的」といった同宗に属していた彼が、他の信仰、異なる神、本作ではキリスト教というものに出会ったときの葛藤、戸惑い、根源的懐疑のようなものが、ここには翳深く描かれているように思った。
 あくまでもぼく個人のイメージで「異教徒はすべてそれだけで罪」ととらえている、ように感じられる「日蓮宗」と「キリスト教」(これを象徴しているのが日本人であるというところがまたおもしろい。ものの本によれば、ぼくらは文化的背景上、生涯決して、「原罪」という概念を理解することができないという)それらふたつの属性を背負ったものが同じ電車の同じ席で同じ方向に向かって同じ時間を共有する、というところはひじょうに示唆的だと思う。そうして、彼らそれぞれの「降車駅」が別々である、ということも。サザンクロスの駅で降りる異教の信徒たちを窓越しにみつめるジョバンニ、その前のひとこまで彼らの神を「うそ」と否定した彼のすがたはほんとうに印象深い。そこに敵意はさほど強く感じられず、悪意はなくて、ただたださびしさ、やるせなさがあるばかり。人生あるいは心の「救い」や「なぐさめ」「支え」といったもの――、銀河鉄道という狭く限られた時空間内でたまたま出会った彼らというのは、恐らく同じものを求めて「生きている」「生きていた」はずなのに、けれども双方、すっかり心打ちとけることはなく、じつに冷ややかなしこりを残したままであっさり道が分かれてしまう。ここに底なしの空漠感が出ていると思う。いわゆる「価値観」のちがいによって、世の中にはさまざまな苦悶が生まれているが、けっきょくのところ、少なくとも「信仰上」では、ひとびとが求めているものの究極は同じじゃないか。それなのに、どうしてぼくらはこんなにも切ない想いを共有しなければいけないのだろう。信仰する神がちがえども、あるひとつの線路を走るこの銀河鉄道はだれかれかまわずみんな乗っけて同じ方向に駆けていく。けれどもどうして、ぼくらの心はうまくひとつに溶け合わないのか。日蓮宗、大きな意味でいうところの禅宗は、宇宙そのものを象徴するビルシャナの声に耳を傾けてやがて同一化することを目指しているが、その「ビルシャナ」が象徴しているものは、ヤハウェと同根なのではあるまいか。ぼくらはけっきょく、同じものを見、同じものを求めて同じ道を進んでいるだけじゃないのだろうか。それなのに、ひとびとはどうしてこうも分かり合うことができないのだろう……。こうしたところが、作品がもたらす寂寥感や切なさの源であるように感じた。
 そもそもにして、ギリシア神話由来の星座がお話の背景に使われているところにまたおもしろさがあると思う。当時はすべて(少なくとも西欧諸国)の文明の礎と固く信じられていたといわれるギリシア文化、あるいは地球という一惑星の外に広がる宇宙を舞台にすることで、人間たちのちいささが浮き彫りになり、その「ちいささ」が営む世界ですらうまく息をすることができないじぶんを、作者はひっそり、描きだしているように思う。作中で重複するテーマ「おぼれる」はほんとうに奥が深いと思う。タイタニック号の犠牲者を彷彿させる青年のことば、「助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方が幸福」には強く共感。「ちがい」といえば親友同志であるジョバンニとカムパネルラがラスト、同じ光景のなかにそれぞれ「ちがう」ものを見ているところもまたおもしろい。「親より先に死ぬと地獄」観が強い仏教の影響なのか。それからたぶん、すでに母親を亡くしているカムパネルラを使って、「マリア」のような慈悲深い母性像を同時に表現したかったのか。
 色彩ゆたかな描写同様、このお話は構成もきれいだと思う。先に「ケンタウル祭の夜」という背景を示しておいて、銀河鉄道をいて座の手前、さそり座で終わらせるところ。汽車で再会したカムパネルラの衣服が濡れていたり「青ざめて苦しそうな」顔をしてみせたり、あるいは含みのある言動をさせること。
 自己犠牲や罪の意識、それから貧困や欠落(たとえば父性不在)という暗いテーマと色彩ゆたかな幻想性、心ほどける空想性がうまいこと共存した作品だと思う。暗い宇宙をきらびやかに飾った花々、宝石、もちろん星々、それから音楽には心を深く魅了された。
「お調子者でちょっと嫌なやつ」を思わせるザネリのためにカムパネルラが溺れ死ぬことに想いを馳せるとまた切ない。ほんとう、人生はただ無常と思う。
 意気地はないくせに自尊心だけはやたらと高く、たいてい卑屈でいたく頑な、感受性がじつに鋭いジョバンニ少年――、クラスのなかで(恐らく)ただひとりだけ働く子ども=ひとりの異邦人、の孤独が何も解決されないままお話が幕となるところに作者の深い闇を感じる。親友をからかう同級生たちのじつに拙い行動原理と、彼らにまっこうから抗えないカムパネルラの心の弱さ。それらすべてを「それでもいいか」と包み込んだうえで陥ってしまう空虚感もまた胸が痛い。けっきょくのところ、世俗には安寧が生きる余地などないのかと心を重くふさいでしまった。
 
 併録作品で好きなものはよだかの星。感情移入がしやすい。セロ弾きのゴーシュも親しみやすくて好き。ひと以外のものと関わることで音楽が上達するというのは示唆が深いように思う。(人間のことばの前に動物たちの音楽があったのだと、そういえばどこかの学者が言っていた)「虔十公園林」には救われる。鹿踊りのはじまり」はじつに愉快。「やまなし」の世界観には子どものころから魅了されつづけている。ここにはなかったが「月夜のでんしんばしら」も個人的には印象深い。資本者階級と労働者階級と関係をユーモラスに描いたと思われるオツベルと象はメタファーが深くておもしろい。「氷河鼠の毛皮」「なめとこ山の熊」でとくに顕著に描かれているように思う「犠牲と罪」のテーマには胸を重たくするばかり。生きていくためには犠牲を避けることはできないが「よわきもの」を一方的に搾取しつづけているぼくらにできることといえば感謝すること、敬意を持つこと、それから罪の意識をつねに意識し、そのうえでできるかぎり慎ましく生活することぐらいなのだろう。やはり人生は切ないと思う。「洞熊学校を卒業した三人」を読んでさらに悲しくなってしまった。花とみつばちが示すものもまた空虚。仕事柄、フランドン農学校の豚はひじょうにつらい作品だった。ユゴーの『死刑囚最後の日』よりもよっぽど強く心に迫った。前に屠殺場で聞いたが、豚や牛たちはその眉間に鉄の円柱を打ちこまれるまえ、死を覚悟して泣くそうだ。スーパーに並べられた肉しか知らないぼくらというのはとてもおめでたい連中だと思う。「土神ときつね」もつらいお話。「税務署長の冒険」はわくわくしながら読むことができた。詩ではやはり「永訣の朝」。「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」ここに作者のありのままの心をみた。それから「林と思想」にもいたく共感。春と修羅の行間に抑圧された蒼い激情には胸が共鳴してしまう。

(Eさんの感想を読んで)
C:Eさん、評論を出せばいいのに。
D:詩を書く人の文章っていいですよね。

<参加者F>
◆私の中で宮沢賢治とは、自発的に読むというより、教科書的に押し付けられる印象があって。オツベルと象も、作品より担当教員の顔が浮かんできてしまう。教員と相性が合わなかったのが切っ掛けで国語を学ぶのがいやになり、英語に切り替えた経緯があるので。
銀河鉄道の夜
◆再読。大きくは童話なんだろうけれど、死者の話という印象が強い。
◆非常に神話的な、垂直的世界観。
◆モチーフとなっているのが“川”。銀河も川。一貫して流れている。
ジョバンニの母の「川へははいらないでね。」という台詞があるが、川は“俗世とあの世を繋ぐ境目”のメタファーではないか。そして、天の川が線路となり、そこに登場する汽車は、死者を送る舟の代わりのように読める。
◆結末を見ると、銀河鉄道はあの世に魂を運ぶ汽車であり、SFでよく見る設定の起点はここなのだと思う。
◆死者ではないジョバンニがなぜ乗れたのか?⇒祭りの日は次元が歪み、あの世と一瞬繋がるとされている。作中のケンタウル祭は、盆や彼岸を拡大解釈したような祭りなのかもしれない。天界があって、地上があって、地獄なりなんなりがあって……仏教でもキリスト教でも、他の世界がある。和洋折衷で取り入れたのだろう。
◆乗客は、それぞれの人生により下車する場所が違う。仏教の六道も取り入れている。
◆「天気輪」こそ、輪廻の輪の転輪から派生したのだと思う(「天気輪」は宮沢賢治の造語で、辞書には載っていない)。モデルは輪廻とか転輪かな。
ビルシャナ仏は、輪廻から抜け出した人なので、Eさんの仰ることは一理ある。
◆ダンテの地獄巡りの天上版みたいな感じ。行って戻ってくる巡礼譚。川に落ちて、川に戻ってくる。地上の川、天上の川が繋がって円を描いている。よくできている。
◆私は、ジョバンニとカムパネルラの友情はあまり感じなかった。“身近にある死”を感じさせてくれた。間違っても子ども向けではない。
◆文章は古いけれど上手い。
宮沢賢治が教員として培った理科系・農業系の知識を、オーナメントとして使っている。
◆「らっこの上着」。私は、ジョバンニの父が密漁者なので囃されていると読んだ。宮沢賢治の実家は質屋で、人から搾取しているという思いがあり、そこへジョバンニの“父が密漁で儲けていることの後ろめたさ”を重ねたのでは。推測だけれど。

<参加者G>
銀河鉄道の夜
◆私は授業中に外ばかり見ていたから、先生の影響を受けておらず、押し付けという感じはしない。教科書の印象もなくて。アニメから入って、30代か40代のころに読んだ。
大人として「銀河鉄道の夜」に接して感動した。アニメの美しい世界もよかった。今回も3回は号泣した。死に近い年になって、死者の世界が身近になってきたら、この死生観に共感する。
◆解説できない。なぜかわからないけれど感動して泣いてしまう。腹の底から感動がこみ上がってくる。
宮沢賢治は、大正11(1922)年に最大の理解者である妹のトシを亡くし、その2年後に「銀河鉄道の夜」の初稿を書いている。死んだらどこへいくのだろう、死者はこういうところへ行くのではないかと、自分の悲しみを乗り越えていったのでは。
◆表現方法、描写方法を自分の作品にも取り入れたい。
◆以前、文学学校の講師から「宮沢賢治を受け付けない人が一定数いることを忘れてはならない」と聞いた。ほかで児童文学を学んでいたときもあったが、そこにも「死んだ人のことばかり書いているから」宮沢賢治をきらいな人がいた。
◆敬遠されるのは、どの作品にも宗教くささがあるからだと思う。宮沢賢治日蓮宗に傾倒していたので。
◆現代では定番のようになっているけれど、宮沢賢治の作品が見直されたのはバブルの後で、そんなに定型な人でもない。
◆私は宮沢賢治村上春樹の作品に癒しを感じる。気持ちがしんどい人はそうじゃないかな。健全な人は拒絶反応を起こすのかも。

<フリートーク
【「誰か/何かに影響を受けて書く」ということ】
C:宮沢賢治村上春樹の文章や表現を参考にしたい気持ちはわかるけど、しないほうがいい。誰に影響を受けているかバレるから。換骨奪胎するのならいいけれど。
私は真似をしてしまいそうなので、村上春樹は読まないようにしている。
G:心酔すると作風が似ちゃいますね。村上春樹っぽい作品を読んだことがある。
C:司馬遼太郎的なものや松本清張的なものを書く人もいる。読者としてはいいけれど創作者としては気をつけないと。鑑賞者として読むのと、創作者として読むのは違う。とくに長く残っている作品を読む場合は。
G:書き方がわからないとき、人に「オリジナルはない。脳内の情景はオリジナルで見られるわけがない。だから真似していい」と言われた。ほとんどの芸術は模倣から始まる。
C:それは正論ですけど。やはり自分が好きな作品を取り入れてしまう。
G:いろいろなところから取り入れて、元がわからないようにすればいいのでは。
C:境目が難しいですね。

【国語教育の中の「感想」】
◆C:高校では「現代文」が「論理国語」と「文学国語」に分かれるようになる。賛否はあるが、会社に入ってきて文章を書けない人がいると、なぜ学校で教えないのか、と思う。
◆F:国語教育は、感想文を書かせますよね。私は批評文なら書けるけれど、ですます調の国語感想文が苦手。
ちなみに大学生に批評を書かせたら、ですます調の感想文が出てくる。社会人になる前にやめろ、と言うんですが。
C:修学旅行も、行く前から感想文が決まっている。白紙の状態で書かせない。原爆ドームに行っても、知覧特攻平和会館に行っても感想は同じ。でも、原爆ドームには原爆ドームの、知覧には知覧の感想があるはずなんです。知覧には特攻隊員の前向きな遺書がたくさんある。教師は「これは書かされたのだ」と教える。教え方が決まっている。
F:修学旅行へ行く前に感想文を書かされたりしましたね。当日お腹を壊したと書いたら、本当にお腹を壊したふりをしろよ、という罰ゲームみたいな企画で。
C:私は引率する先生の視点で三十枚くらい書いた。やっぱりこいつは遅刻した、みたいな。それが私の最初の小説かも。
G:私は感想を書かされなかった。
F:私のころはすごく書かされた。だから、大学の評論の課題にも“感想文”を書いてくる学生が多い。

【作者と作品について】
G:「注文の多い料理店、何が面白いのかわからない。
C:わかりやすい。どんでん返しだし。
F:起承転結、絵に描いたようなどんでん返しがある。3分で人形劇にしやすく、コストパフォーマンスがいい。
銀河鉄道の夜に関しては、それが通用しない。宗教くささ・説教くささがある。「動物である以上、何らかの搾取から逃れられない。どう折り合いをつけるのか?」と煩悶している作者の思想が垣間見える。ジャンルは違うが、レフ・トルストイの説教くささを思い出した。
宮沢賢治夏目漱石は気の毒だと思う。作家や作品が定型化しているというか、「安全ですよ」「安心ですよ」というブランドになっているのは、ある意味の権威。国語教育に“スタンダード”として取り入れられて、現代国語とか、そっちに引っ張られてしまうのじゃないかと。アニメになったり、NHKの人形劇になったり……子どもに見せても安全という“パッケージ化”“陳腐化”されて。
実際に作品を読んでみたらそうでもないんだけど。現状では、大事なところを見落としてしまいそうで。手記とか詩のほうが本質に迫れるはず。
死後、大量の春画が出てきたんだけど、死ぬまで表沙汰にできなかった。
G:農民にも肉は食べてはいけないと説いていたけれど、自分は鰻を食べていたし、矛盾を抱えていたと思う。
F:教員だから、(ジョバンニの父が行っていたかもしれない)密漁のことなどは知っていたはず。「自分は後ろめたいお金で生きている」「搾取せずには生きていけない」という思いがあり、逃れるべき銀河、天上を書きたかったのでは。
G:実家が質屋で、貧しい農民たちの着物や質草を扱い、そのお金で生活して……宮沢賢治は熱心な日蓮宗徒だから、罪の意識はあったと思う。
C:肉を食べてはいけない、というのは仏教の教えではない。日本では、天武天皇が肉食禁止令を出したことで混ざってきた。
F:もともとの仏教では、利益のために殺生をしてはならない、としか言っていない。
C:お釈迦様も牛乳を飲んでいたし。断食明けにスジャータから乳粥を与えられている。
宮沢賢治を読書会で取り上げるのは難しいですね。もう語り尽くされているから。銀河鉄道の夜自体では、質屋や妹に触れられていないので絡めていいものかどうか。
G:初めて読む人に、そういう解説はしちゃだめですね。
C:夢から覚めたら、こうなっていた。「不思議の国のアリス」みたいな。銀河鉄道の夜も、それで読んだらいいと思う。

【施すということ】
G:このベスト集には載っていないけれど、私が好きな作品は「蜘蛛となめくじと狸」(※収録の「洞熊学校を卒業した三人」は「蜘蛛となめくじと狸」を改稿した作品)。蜘蛛もなめくじも狸も、みんな死ぬ。最初に「三人とも死にました。」と書かれている。

『100日後に死ぬワニ』ってあったじゃないですか。死ぬのがわかっていると、作品の味わいや風合いが変わってくる。
「蜘蛛となめくじと狸」では、他の生き物を食べて、大きくなって、死んでしまうんですが。
F:宮沢賢治のそういうところが苦手という人が多い。家畜は家畜という線引きがない。共感しすぎている。私は共感しないほうなので、自分の本棚には置かないな、と。
C:線引きは下手かもしれない。生と死も……
F:そこをぼかせる存在を使っているんじゃないかと。この時代、子どもの死亡率は高い。=半分死の世界と繋がっている。だからこそ、銀河鉄道の夜の主軸にあるのは子ども。ジョバンニは生きて、カムパネルラは帰ってこない。
物語はよくできているし、日本語をうまく使っているし、日本文学の宝だと思うし、教科書に載るのもわかるが、人物を調べていくと個人としては苦手。作者についての解説を読むとアレルギー反応が出る人はいると思う。宗教に凝り固まっているというか、実家が裕福な人がやっているな、と鼻につく。作者が見えづらい作家だと、そういうのは少ないんだけど。
(作者が見えてしまうから)私は太宰治も好きじゃない。
G:どこにでも行ける切符は“想像力”。亡くなった人にも会える。農民の気持ちがわからなくても、想像することはできるんじゃないかな。
F:想像を人に押し付けるな、と。色眼鏡で見てるし、農民と同じ生活をしようとしても長く続かない。「農民芸術大綱」とか頑張ってるんだけど。目につく場所にあるから気になるのかなとは思う。
G:マザー・テレサも裕福な家で育った。
F:マザー・テレサも好きではない。功績は認めるけれど。あなたは米を作れないでしょう、私たちを見下しているでしょう、と思ってしまう。
C:偽善っぽく感じてしまうんですよね。
オードリー・ヘプバーンは後半生をユニセフでの仕事に捧げた。彼女のファンであれば好意的に取るけれど……
F:チャリティは施すほうが選ぶんです。選ばれなかったほうはどう思うのか。
C:受け取るほうも、オードリー・ヘプバーンなら受け取る、というような部分はあるので一概には言えない。天皇陛下の被災地訪問も、受け取るほうは感動している。
B:盛岡に「いわて銀河鉄道」という鉄道事業者があって。この名付けは農民側の復讐じゃないですかね。
C:有名だから。恐竜で町おこしみたいな。
F:知名度抜群ですからね。結果としてはそうなっているかな。
ほかの作家にも言えるけど、ある種の押し付けがましさは、健全なら名作につきまとうもの。

【解釈は読み手に委ねられている】
C:ジョバンニの切符。ジョバンニは死んでいないから、あれがないと途中で下りられない。そのための設定として万能な切符があると考えるのはだめでしょうか。意味付けを考えるとファンタジーは成り立たない。
F:どこまでファンタジーとして受け止めればいいのか、調節に時間がかかった。脈絡なくいきなり汽車に乗るので。
C:子どもはそれでいいんです。大人は理屈で読んでしまう。「不思議の国のアリス」だって子どもは受け入れている。
B:ジョバンニの切符は三次元から持ち込んでいる。敢えて語らないことで深みを持たせるというテクニック。未定稿だからかもしれないけれど。
G:鉄道が走っているのは幻想第四次世界ですよね。三次元ではない。
F:そこは深く考えず、夢、でいいかな。
C:みんな理由を求めますよね。「明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか」とか。事実を受け入れればいいのに。
銀河鉄道も、気づけば座席に座っていればいい。文学学校の合評なら、乗り込むところを書けと言われると思う。ファンタジーは理屈を問い詰めないほうが読めるんじゃないかな。
G:ライトノベルの作家さんが仰っていたんです。純文学は理屈を求める、と。
また、リアリティの問題も。背が低い男性と女性を書くとき、男性150cm、・女性170㎝のほうがリアルだろうけれど、ファンタジーなら男性140cmで女性2mのほうが面白い、とも。
C:たとえば、八月に桜が咲いている作品を書いたら「間違い」と指摘されるんだけど、八月に桜が咲くような異世界なのかもしれない。そういう世界だというオチがあるかもしれない。
理由なく書き始めて、発想が出てきたときに、その発想のまま書いたらいい。
F:こういうジャンルと思って読むから受け入れることができる。宮沢賢治の作品は起承転結がはっきりしているので、銀河鉄道の夜は彼にしては珍しい作品だなと思った。解釈は読む人に委ねられている。