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R読書会/Zoom読書会

『共喰い』田中慎弥(集英社文庫)

Zoom読書会 2021.11.27
【テキスト】『共喰い』田中慎弥集英社文庫) 
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
◆読んでいて、風景がとても想像しやすかった。映画は観ていないのに、「映画を観たんだっけ?」と錯覚してしまうくらい頭に浮かぶ。作者は家に引きこもっていたそうだが、それでも新鮮な景色を描けるんだと驚いた。このような作品を取り上げるのも面白いかなと思い、推薦した。
◆非常に綿密に推敲されている。
◆仁子さんのキャラクターが魅力的ですごくいい。

<参加者A(提出の感想)>
「父と子」あるいは「母と子」を題材にした中編。もしくは単純に「血」がテーマだろうか。はじめ「父殺し」がモチーフだと思っていたが読後の印象は「解呪」のように感じた。冒頭から張られた圧迫感や閉塞感がやんわりほどけるラストはすてき。「戦争のきずあと」が色濃く反映された町が舞台というのはひじょうに奥深い設定だと思う。 
 文章表現は「特異」という印象で、作者が持ち前の感性のままに世界を写し取っていると感じた。そのくせ、物語の構成はよく鍛錬された文学的理性の力がひじょうに強い。主人公・遠馬がみずからの「血」を意識しめざめていく過程や「祭りの大雨」をピークに持っていくためのプロット上のしたたかさや周到さは感覚だけでつくりあげられるものではないと思う。「降らない雨」がもたらす作品全体への抑圧感はとてもよかった。感性と理性、あるいは鍛えられた思考力、それらの共生する作品はやはりいい。
「血」と「父と子」ですぐに思い浮かんだのは沢木耕太郎の『血の味』だったが、こちらは同テーマを取り扱っていながらもそれまでの、少なくともぼくが知っているかぎりの「父殺し」譚の様相とはずいぶん違った。このお話を支配しているのは水の力、しずかでかつしたたかな女性原理の力であるとぼくは思う。物語終盤に用意された大雨もまた女性性の象徴だろう。あらゆるものを受け入れ、包みこみ、もしくはおおいつくし、大地と水との境界線さえもあいまいにしてしまうその力はただただ崇高だと思う。性交時に痛みをおぼえながらもがまんしつづけ、その父から暴行を受けても遠馬を責めず、表面上はもの穏やかにじぶんを保とうとする千種の強さと深さはまさに水。魚もごみも排泄物も、水はすべてを受け入れる。そんな千種のセリフ「殺してくれるなら誰でもいい」は胸がしめつけられるほどに鮮烈だった。さらにまた、彼女が遠馬のひとつ年上であるという設定は印象深い。
「青年」を主人公に据え、「父なるもの」を怪物あるいは神になぞらえてそれを退治する「試練」譚は豊富にあるが、今作は本来男性性の力であるはずの「切断」が女性によって行使されている。ここが、この物語の最大の特徴だと思った。切断役の仁子はそもそもとしてみずからの「手」がすでに切断されている、という点も物語としての魅力のひとつ。グリムの『手なし娘』を彷彿させるかのじょは、義手という新しいじぶん=金属(切断や加工をイメージ)の存在と、魚をさばく(やはり切断)のが生業、というふたつの設定を備えており、いま思えば物語冒頭からすでにラストの配役が違和感なく遂げられるよう、粛々と準備されていたことがうかがえる。遠馬からみた「橋の上の両親の影」はひじょうに示唆的だと思った。どこか神話的だとも感じた。はじめ、タイトルの『共喰い』は子が「父殺し」をするさまを象徴しているのだと思っていたが、ひとりの「息子」からみれば、「親」というあるひと組の男女のすがた、そのけっして理解できない異質さや奇怪さという意味では「同類」だったのかもしれない。(残念ながらぼくにはタイトルの真意が分からなかった)あるいは、『共喰い』をしようともして実現できなかった青年の無力さや空虚さを強調するための選択だったのだろうか。雨によって境界線がとろけた世界、「橋」というふたつのものをつなぐ場所で「影」となった男女が命をかけて混じり合うさまは人間としての普遍性を暗示しているように思えてならない。
「負の連鎖」を止めるために罪(あくまでも社会的な)を犯したかのじょ、仁子は、しかしながらけっきょくのところ、やはり「子」の「母」であったことはけっして揺るがず、そんなかのじょが「しごと」後にはなったひと言、「終わったけえ、帰ろういね」には目元をあつくしてしまった。このことばにはかのじょというものがすべて詰まっているように思う。また、ここで義手を失ったこと、そしてしばらくなかった月経が再開したという点はものすごく印象深い。(そもそもこの「義手」という負い目を持ったじぶんをひとりの「女」してみてくれた「父」に対するかのじょの想いはとても切ない)まるでおとぎ話のように、人生寓話としての知恵が深いように感じた。このお話は作品後半の「祭り」と「大雨」に合わせてだんだんと上昇曲線を描いていくが、この「祭りの大雨」(=神なるものを背景にした女性性の象徴)はいわゆるところの「死と再生」を司っているのだろう。ここでひとつの死があって、そうしてひとつの再生が行われる。であるからぼくはこのお話のテーマを「解呪」と受け取ったのだろう。
 気の毒なのは主人公の遠馬であって、彼がこの作中で主だってあてがわれている役割はただただ観察と内省である、という印象。ほとんど傀儡。作者に、あるいは物語にとっての。いつも周囲、もしくは内的な衝動に流されそしてひたすら追われているだけ。みずからの意思で能動的に行ったことは性欲を満たすことと父に対する反抗だけ。それもあくまでも態度だけ。実際的な意味において、なにか周囲に大きな影響を与えることはとくに何もしていないような気がする。(読み方が浅いだけだろうか)ラスト、母によってその「呪われた」血の力に何かしらの変化はあったかもしれないが、ぼくにはそれが、かんぜんに消え去ったように思えない。なぜなら血は血だから。それは経験や意思や精神力でどうにかなるほど軽薄なものではないだろう。そういう点もひどく気の毒。父を殺そうとしたときの母のことば、「お前には無理だ。殴られたこと、ないんじゃろうかね」はあまりにも痛烈すぎた。ただ、彼がうなぎ釣りをやめない理由、「親子三人で過ごせる」というところは心から共感できたし胸をつかれる切実さも感じた。
 そもそもこのお話に出てくる男性たちの無力さや愚鈍さといったらほんとうに救いがないと思う。けれどもこれは現在田舎に居を置いているぼく自身がひしひしと感じていることでもある。田舎の男というのはとにかく自立していない。まったく子ども。いつまでも子ども。生き方がだらしないし考えは浅いし行動は軽い。それもこれも、「母性」があまりにあまやかしすぎるから。そういう意味では作中の舞台となったちいさな町はいま現在のこの国をうまくあらわしていると思う。ここに作者のなげきと諦観と、あるいは他でもない自己に対する虚しさや失望感を強く感じた。そして同時に深く共鳴。この国の太陽神は世界的にめずらしく「女性」であるが、それにしたって男どもの頼りなさ、思慮の浅さはほんとうになげかわしいことだと思う。本来の意味でいう「父なるもの」が不在の家、そしていつまでも「過去」が滞留しつづける町、というのはまさに言い得て妙だと思った。作中に用意されたもうひとつの母性、琴子ではないが、腹に「子」を宿した後、ひっそりと去っていくのがじつは賢明なのかもしれない。少なくともその独立心・自由意思に強い好感。
 この作品はまた描写がとてもよかった。作者がみたものを感じたままに書き出した、という印象。個人的には油絵のように感じた。あるいは水銀のようだと思った。重く、分厚く、どこかなめらか。そして沈黙。重苦しい沈黙の画。「時間」に関する描写もすてき。その緩慢さ、鈍重感は懊悩する青年によく似合う。それから、「雨」によって境界があいまい、カオスになったラストの世界観はほんとうにすばらしかった。圧巻。マジックレアリズム的な表現は大好き。多くの芥川賞作品同様、ここでもやはり、夢とうつつが入り乱れた幻想怪奇表現が取り入れられている。もっとも、今作はあくまでも遠馬個人の観念的世界観にしか過ぎなかったのだろうけど。作品を飾る声なき登場「人物」たち、蝸牛、熊蝉、蟹、鷺、赤犬、虎猫たちの存在感もまたおもしろかった。漢字のインパクト以上に文学作品的役割をみごとに果たしていると思った。活き活きとした方言もまた魅力。「死にゆくことば」を大切にしたいというのは同じ考え。
「少年時代のある成長」を取り扱ったように思う併録作品は胸をほんのりとつかまれる印象だった。じぶんが一歩、「おとな」と呼ばれる年代に踏み出したのはいつだったろうと淡い郷愁感にとらわれた。瀬戸内寂聴さんとの対談はなかなか興味深かった。田中慎弥さんの「言葉というのは蓄積」ということば、そして寂聴さんの(私小説は)「本当は三分、あとの七分はつくりもの」には感銘を受ける。また、宇野千代さんの言であるという「文学の究極は宗教につづく」にも胸を突かれた。
 どことなく寓話的なにおいを放つ、「死と再生」の雨のお話。

<参加者B>
◆そんなに長くない作品なのに濃度が高く、非常に読み応えがあった。私は読むのは遅いほうではないと思うが時間がかかった。読みにくいが嫌な読みにくさではなく、噛み応えがあるという感じ。私は普段はさらさら読める小説を読むことが多いので、久々に歯応えのあるものを食べたな、という印象。
◆内容も描写も生々しくて綺麗なものは出てこないのだが不思議と不快感は覚えず、逆に神聖にすら思えた。ある種神話のような。
◆Aさんが書面で述べられたように橋は「境界」。川辺の物語であるというのが象徴的だと思う。母は橋で父を殺すことによって、川辺にいる息子を踏み止めさせたのか。
◆P57からは夢かと思った。結果的に夢ではないのだけど、白昼夢というか、この血からは逃れられないのではという怖れが見せた悪夢であるように感じた。
◆P81。父を刺したあと、仁子さんの義手から、ぽこん、という音がするところがいい。
◆映画では遠馬を菅田将暉さんが演じているそう。上手い俳優さんなので、ちょっと観てみたい。
◆併録の「第三紀層の魚」。「共喰い」のすぐあとに読んだので、読み始めたときは、「共喰い」と同じく少し昔が舞台だと思っていたが、P95で第一次安倍内閣と思われる記述が出てきて、2006年から数年後の話だとわかった。釣りとか魚とか詳しくないけれど、この話は結構好き。この作品も「共喰い」も、時間というものへの想いが打ち出されていたと思う。
◆巻末に瀬戸内寂聴さんとの対談が載っている。今月、寂聴さんが亡くなって間もないので巡り合わせを感じた。

<参加者C>
◆正直、全然合わなかった。まず「ああ、“文学”だな」と思った。序盤、川にゴミが溢れているのが丁寧に書かれていて、“不快さ”そのものを提示してくるのが文学的。エンタメ作品だと、描かれたシーンはのちのちストーリーに関係してくるが、純文学にはそれがない。また、テーマ性にぶら下がっているのではない。取っ掛かりを潰している堅牢な城のような印象。「わかりにくさが文学だよね」というふうな。この作品を読んで、私の中にある“文学”に対する毒を理解した。
◆描写については刺さるところがあった。吊り上げられた鰻の描写(P33~34)など。
“不快さ”を前面に出す部分は、村上龍限りなく透明に近いブルー』に近いものを感じた。『限りなく透明に近いブルー』の描写は不快さを前面に出しているにも関わらずスタイリッシュで(私に)刺さったので、『共喰い』のねばつく描写も刺さる人には刺さるのだと思う。

<参加者D>
◆先ほど読了したばかりなので、Aさんのように精緻なことは言えない。
『共喰い』は話題になりすぎ逆に手が伸びなかったので、いい機会を与えてもらった。
◆すごい作品。場面が生々しく描かれている。
かつて佐藤春夫石原慎太郎太陽の季節』を批判したが、現代では、「こんな性的な描写が許されるのか」など野暮なことを言う人はいないだろうから開き直って書ける。
◆子が、父世代をどう乗り越えていくのかという父と子の物語。主人公は反抗的でありながら宿命的にも考えており、新しい。
タイトルが「共喰い」なので、遠馬が父を殺すのだろうと思って読んでいたら、父を殺したのは母だった。小説的には遠馬が殺さなければならないのでは。遠馬に、母が父を殺してしまったという感慨があればいいのだが、それもなかったので引っかかった。
◆父と子の話を書くのに、これほどえげつない世界を書かなくてはならなかったのか? 中上健次作品の舞台になった「路地」をイメージして書いたのだろうか。「川辺」は、読者に世間と離れたイメージを湧かせるために設定された街だと思うが、「(被差別部落である)路地」ほどの必然性はあるのか。
◆ストーリーがあるような、ないような、詩的な作品。この作品を詩的というとギャグみたいだが、「ストーリーがないこと」が詩的。
以前、川上チューターが「きみらの小説には詩心がない」とおっしゃったとき、私は「詩人の小説にはストーリーがないじゃないか」と言い返した。小説にはいろいろな書き方がある。
◆描写は丹念で(自分が書く上で)参考になるところがたくさんあった。読み飛ばして差し支えのない部分もたくさんあるのは、文学作品だからだろう。
エンタメ作品ではストーリーに関係ない精密な描写はできない。ストーリーを追うためには、どこまで描写するのかという問題を考えさせられた。

<参加者E>
◆忙しい中読んだので、読み飛ばしているところがあるかも。
◆大きくは「父殺し」の物語(ex:ソポクレス『オイディプス王』)。父殺しを経て男性がアイデンティティを確立していくと想定される。
◆気になったのは特異な風景。とくに、魚屋の魚や鰻など、食用の魚のイメージが核心になっているのでは。主人公の異性に対する露骨な制欲、同じような意識を持つ父親への嫌悪が、魚と重なる。ぬめぬめとした川の様子や船虫等の生物が、体液・血・体・性行為と関わってくるのではないか。
主人公が行き来する川辺には生活排水や排泄物がそのまま流れ込んでいる。現代ではクリーンアップされて表には出てこないが、もともと魚は生活排水や汚物を糧にしていた。主人公の父がその魚を糧にして、また排泄する。⇒循環
主人公は表層意識では父を嫌悪しているが、逃れられないという煩悶がある。自分も父と同じようになってしまうのではという煩悶がメインテーマ。しかし、父を殺したのは主人公以外の人間なので、主人公は嫌悪するものから脱せられずループになってしまうのでは。
◆嫌悪感はそうなかった。絶賛する気持ちにはなれないが悪くない。(この作品は)これはこれでありだなと。
私が子どものころは昔ながらの田舎の生活がぎりぎり残っていて、動物の死骸を川に流し、それを食べて育った魚を人間が食べるということがあった。今考えると気持ち悪いなと思う。
血と同じように逃れづらい、田舎の土地の閉塞感も書かれていたような気がする。

<参加者F>
◆読むのは2回目。1回目は芥川賞を受賞したとき。作者が「もらっといてやる」と言っていたので、気になって読んでみた。その発言は文学に対する矜持からくるものなんだと思う。
◆再読して、最初に読んだときの気持ち悪い感覚がよみがえってきた。ここに描かれているような目を背けたいもの(排泄物を食べた魚、臭い、人間くささ、閉塞感、生々しい人間の欲)をすべて詰め込んでいる。
今はトイレで立ち上がった瞬間に水が流れるので排泄物を見ることがない。現代で排斥されようとしている原始的なもの、汚いものを全部書いている。
◆私は純文学を書いていたが、ミステリーや時代小説などのエンタメ作品へ転向した。エンタメは汚いところを見なくてすむから楽しい。純文学を書いていたときは、自分の心を抉りながら本質的なものを絞り出すように書いていて、それを思い出した。純文学とは、こういうのを言うんだ、と。作者が痩せているのは、絞り出すように書いているからではと感銘を受けた。
◆読んで最初に感じたのは、女性の逞しさ。たとえば琴子さんは、遠馬に「ひどく頭の悪い女」(P15)と思われているが馬鹿ではない(ただ、身重で逃げるのは体に負担がかかるので、この部分は、作者が妊娠した女性について知らないなと思った)。
作中の男性は本能に従うだけ。遠馬も父を乗り越えていない(父を殺したのは仁子さんなので)。女の強さ、男の不甲斐なさが描かれている。
◆男のどうしようもない性欲とサディズム・血の宿命など、世界観を作り込み、書き込んでいったのだろう。
◆「親を乗り越える」のような、テーマを書かないのが純文学。答えがないところを追求しているんだと思う。そこがエンタメ的な読み方と異なる。
◆印象としては「青い」。すごく力を入れて書いたのでは。描写は精密すぎて、隙間もないように書かれている。
一つの小説にこんなに力を注ぎ込んだら、多産できない。作者は就職もアルバイトもせず小説を書いていた。そこまでしないと、これほどの描写は書けないんだと思った。
◆食べ物の描写がいい。ご飯が美味しそうで。世界観に合わない食べ物は出てこない。たとえばグラタンとか。

<参加者G(推薦者)>
◆描写は細かいけれど嫌悪感はなく、気持ち悪くもなかった。汚い部分や灰汁を絞り出しているとも感じない。リアリズムを感じるだけ。20年くらい前、雨季のマニラにいたことがあり、その風景を思い出した。
また、DVに関してもリアリティがあって、醜悪なものをフィクションで書いているという気もしない。だから、露悪的だと思わなかったし、汚さも感じなかった。
◆女性が魅力的。とくに仁子さん。義母になるはずだった人が差別的な発言をしたとき掴みかかったり。また、琴子さんに対しての嫉妬もない。
琴子さんもまとも。遠馬に「自分と、自分の親のこと、ばかって思うくらいなら出て行ったほうがいい」と真っ当なことを言う。
◆私は、主人公は仁子さんだと思っていた。遠馬の影が薄いから。遠馬は作中の出来事を通して精神的に何かを乗り越えるわけではないし、養護施設で暮らすようになって生活が変わったという感じもない。
◆遠馬が父と同じように女性を殴るようになるのかはわからない(スイッチはあるが)。答えはない。
◆川と川でないところの区別がなく混じり合ってしまっている場面は秀逸。何かが起こって、水が引くと元に戻る。赤犬が恐らく溺れ死んでいるという描写もよい。
◆作者の他の作品でも、緻密な描写を少しずつずらしていって、世界がおかしくなっていく過程を描いている。緻密だからこそできるのだと思う。

<フリートーク
【「川辺」のような地域はあるのか? また、「川辺」を設定した意味とは?】
F:汚さを感じなかった? 私は汚さを書こうとしていると思った。
E:汚さというか生々しさ。露悪的までは行かないかな。「嫌悪感は抱かれるだろうな」という書き手の意識を感じる。
F:昭和中期はこんな感じだった。日本で一番汚いと言われる大和川の辺りに住んでいたが、作中に出てくる川のようで。そのあと、尼崎の神崎川近くに居を移して、そこもものすごく臭かった。
D:あれは工場排水。通学のとき見ていたけど、確かに見ただけで臭ってきそうだった。でも作中の川の汚さは、私たちの見た戦後の汚さとはまた違う。高度成長を遂げたあとでもこういう場所が残っている、というイメージ。それをどう捉えるか。このような内容を書くために、このような世界を作り出した。作者が閉鎖的な地域の出で、それを書いているとは思えない。引きこもりの閉鎖的とは違うから。でも、読者は作品と作者を結び付けて読む。それが作者の企みではないか。
「今どきは批判的に読む人も少ないだろう」と、敢えてこういうものを作り出したのでは。
F:必死に世界観を作ろうとしている努力の跡が見える。
D:こんな異常な地域はないし、こんな異常な家族はない。でも、もしかしたら……と思わせる実力がある。ニュースで出てきたら騒がれるだろうけれど、小説の世界だと異常だと感じない。
F:私は、DVは小説世界だけでなく日常的にあるんじゃないかと思う。殴られている親とか子どもとか、たくさんいるのでは。
D:たくさんはいないと思う。過大に報道されているのでは。作中のような状況はよくあることと読むのか、ありえないことと読むのか、どちらが正解かはわからない。ただ、作品世界のように、みんながその状態をある程度受け入れているという状況はたぶんない。殴られていることを、本人や周りが批判しないという状況は在り得るのか? 私はないと思う。小説的虚構で、読者に「ある」と思わせるのが作者の意図じゃないかと。
E:作品の舞台となっている川辺だったり、その釣りをするところだったりが、現実云々ではなくフィクションを大前提と考えて、有機的な存在として完成度が高く感心した。
魚を捌いたり、船虫がたかったり、雨が降って土が崩れて……その循環が、一つひとつの細かな描写で表されている。ミクロでは、個人の排泄物や精液も循環している。描写が塩臭かったり生臭かったりするから生々しくはあるが、観念的な捉え方もできる。
個人的に、私は小さい頃、虫がたかるところを見る機会が多かったので、そういう部分にこだわりがある。作者も見ていたのでは……という共感性を持った。「それはどう分解されるんだろう?」という興味。そのようなミクロ/マクロを描いている部分が評価されたのだとうと思う。
F:この小説は、川の臭いより、血の臭いが強い。経血とか、仁子さんが捌く魚の血とか。魚って、すごく血生臭いんです。
E:ここは、川っていうか河口なんですね。鰻は回遊魚だから。海水と淡水が混在した汽水域で、いろいろなものが混じるところ。「臭い」が強調されるのは地理的要因もある。
先週、河口の街に行く機会があったが、潮の満ち引きはすごいと思った。作中でも、海との境界線上である川辺に神社があったり、祭りをしたり、生理中は鳥居を避けたり……聖域の循環を、体の循環と重ねている。
B:「川が女の割れ目」(P19)とありましたね。
E:それがメタファーになっている。生活排水や排泄物などが大地に溶けたあと、どう自分に還るのかが描かれているので。
F:かつて仁子は生理中には鳥居を避けていた。父を殺したあと、生理が再開する。伏線がすごい。

【タイトルについて】
F:何が「共喰い」だろう? 鰻の頭と父親の男性器、それが共喰いだと単純に思っていたけど、もっと深いんですよね。
D:家族全員が共喰いし合っている。遠馬も仁子も。
E:町全体が小さな虫かごなのかなと。虫かごに入れると共喰いし合う。私が目についたのは、排泄物を食べた魚を食べるところ。掘り下げたら何かあるんだろうな、と。基本は二重以上の意味で使っているんだと思う。

【小説の小道具としての「魚」について】
F:私は併録の「第三紀層の魚」は読む気がしなかった。魚ってタイトルだし。
D:肉はイメージとして生臭くない。魚は多くの人が自分の手で捌くから臭いを知っており、作品に使いやすい。
E:魚は捌くと赤身が見えるから、自分の内面や粘膜下の性器と類似する。また、鰻についてくるぬめりの、意味のわからない気持ち悪さ。
F:魚は漬け置きしないと、いつまでも臭い。内臓とか。
昔は、店で「魚を下ろしてください」とは言えない雰囲気があった。主婦はできて当たり前、のような。今は自分で処理している人はあまりいない。
E:自分で動物を潰すこともなくなりましたね。昔は、鶏なら自宅で潰していた。私は、むごいとも残酷とも思わないが、今だと動物虐待に見える人もいる。初めて見る人はグロテスクに感じるかもしれない。
G:私は魚を捌いたことがない。ベジタリアンだったので。肉は息子のためだけに買っていた。
D:「魚は生臭い」というイメージが使えるのは、あと10年くらいかもしれない。
G:常識は変わりますからね。昔は電車で煙草を吸っていたり……
E:映画館でも煙草を吸っていましたね。
煙草と言えば、遠馬が煙草も酒も嗜まない、というのは、「父親と同じではない」というアイテムでは。「放っといても、いずれやるようになるよ」と示唆しているのかも。
D:遠馬はまだ17歳だから、どちらとしても使える(同じではない/いずれやるようになる)。

芥川龍之介賞受賞について】
F:私は、芥川賞の候補に挙がった作品を読んで受賞作を予想するというイベントに参加していて、この作品もその際に取り上げたのだが、選考委員が評価するだろうなと思った。
(選考委員の)宮本輝『泥の河』も生々しい作品。
D:『泥の河』は小説より映画がよかった。子どもたちが可愛くて、生々しさが中和されている。

【巻末の、作者と瀬戸内寂聴さんとの対談について】
E:電子書籍には瀬戸内寂聴さんとの対談は収録されていないので、皆さんの話を聞いて知った。一番合わなさそうな人と対談してるなって(笑)。
瀬戸内寂聴さんの作品は読んだことがあるが、頭の中が恋愛だけという印象を受けた。もっとほかのことに目を向けてもいいのでは、と思った。
この二人の対談はどんな感じだったんだろう。
F:「共喰い」のあとだったので、対談を読んで救われた。
G:田中慎弥さんは)好青年ですよね。
B:(寂聴さんは)あなた恋愛しなさい、みたいな……
F:「早く孫をみせてあげるのも孝行ですよ。……これは尼さんのことば。ほんとは恋愛はじゃんじゃんして、結婚なんかしない方が、いい小説が書けると私は信じています。……これは小説家のことば。」(P205)。いい感じの対談になっている。田中慎弥さんは素直だと思う。
D:こういうのは、お酒でも飲んでやったら楽しいんですよ(笑)。

【周囲との関係について】
D:作中、琴子さんは家を出て行くけど、遠馬が出て行く物語は書けないのだろう。
小学校のころ、学級委員の女の子がいろいろ世話を焼いてくれたのを思い出す。多分、私のことを好きだったんだと思うけど。
E:私は「あなたのために」というのが透けて見えるのがいやで。後々、何か買わされるんじゃないかと(笑)。
F:母性は無償なんです。
D・E:だから煩わしい。
E:私はお金を払っているときのほうが安心する。一番の愛情表現は「声を掛けないこと」だと思っているので。
人の言葉を額面通りに受け取らない人が一定数いる。私がそうなんですけど……話していて、次はどういう手で来るか予想する。我が家では家族で読み合いをするので、長考しているときは沈黙が続く。だから一定時間、一人にしてもらえないと疲弊するんです。
仕事で人と話すことが多いので、帰ったら疲弊して動けなくなる。フランクな会話は苦手ですね。
もしかしたら田中慎弥さんも同じなのではと考えつつ。作中で近所の人が「馬あ君」と呼んでくるのを主人公が快く思っていないのは「裏に何かあるのでは」と探っているからかも。
F:仁子さんと琴子さんは温かく見てくれている。
D:母親が二人いる。違うテイストの母親が二人。それぞれが、もう片方からの逃げ場になっている。
E:(仁子さんと琴子さんは)「売り場が違う」。それぞれに対する振る舞いをしなくてはならない面倒さがある。
D:遠馬が二人を取り持っている部分もある。遠馬の存在が家族のバランスを保っている。
E:どちらにもいい顔をしながらバランスを取って、どちらの母にも父を挟んで子どもとしてバランスを取っている。
私も自分の母と祖母の間を行き来していたところがあるので、この人の前ではこうしよう、こちらの人の前では……と考えていた。どうすれば大人が喜ぶのか、子どもは学習するというのが実感でわかる。コミュニケーションは戦略だと学習した。
D:田中慎弥さんに母は1人。想像で書いたなら大したもの。
E:大したものですね。「もらっといてやる」と言った背景には、相当な思いがあったはず。