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『猫狩り族の長』麻枝准(講談社)

Zoom読書会 2021.08.28
【テキスト】『猫狩り族の長』麻枝准講談社
【参加人数】6名

<推薦者の理由(参加者F)>
作者である麻枝准は、ビデオゲームビジュアルノベルの作家。テキストと同時に流れる音楽の作詞作曲もしているのでミュージシャンという側面も持っている(余談:『鬼滅の刃』の主題歌で有名になったLiSAのメジャーデビュー曲を作ったのも麻枝准)。サブカルチャーの世界でのキャリアが長く、著作もサブカル関連のものが多い。2016年に突発性拡張型心筋症を患い、その後も活動を続けていたが、近年消息が途絶えていた。その間に本作を書いていたようだ。
作者の小説家としてのキャリアはゼロなので、小説を読み慣れた人・書き慣れた人・作者の作品を知らない人の意見を聞いてみたいと思い推薦した。

<参加者A>
◆作者がゲームなどのシナリオライターと聞いたので、その情報に引っ張られて読んだ。
◆2010年に第5回ポプラ社小説大賞を受賞した『KAGEROU』を思い出した。(『KAGEROU』は結構好きな作品)。テーマが似ている。
◆百合(女性同士の関係)や猫など、売れ線要素をきっちりと取り入れている。商業的にしっかりしているなという印象。今後、映画化などがあるのではないか。
◆キャラクター性や掛け合い等はライトノベル的。時椿が天に向かって叫ぶところなど滑っている気がしたが、読み進めていくと気にならなくなった。
◆十郎丸の思考には元ネタ(哲学)がある、と明示しなくてもいいと思った。「十郎丸は中学生みたいなことを考えているのではない」という言い訳をしているように感じる。
◆ラストは手堅く感動性もあるが、唐突でしっくりこない。伏線はあったのか? また、エンターテイメントとしては、もうひとつふたつ何かがあったほうがいいと思う。
プロトコル(約束事、読む上での手がかり・足がかり。たとえば「この物語だと超自然的要素はこのくらい……」というような)が不在。
◆読み終わった結果、ちゃんとしていたと思う。なんとなく好きになる。プロが書いた『KAGEROU』かな、と。『KAGEROU』はテーマ性と作者の筆力が噛み合っていなかった。『猫狩り族の長』を読んで、私の『KAGEROU』に決着がついた。
◆本に付いている帯に書かれていることは余計だと思った。(作品の内容が)作者のことだと引きずられて読み始めてしまうので。

<参加者B>
◆Aさんが「(小ネタが)滑っているとおっしゃったが、私は自分自身が滑ってしまって、どこに読む手掛かりを見出せばいいのかわからなかった。
◆滑っていたが最後で引っかかった。ラストで救われた。すごく深みが出てきた。崖から落ちたあと、長い時間が経って再開して、十郎丸が亡くなる。そのラストが好き。
◆私は純文学小説を書いているが、言いたいことを十書くのではなく一か二だけ書いて、読者に考えさせる。この作品ではすべて言葉で説明しているので、作者が言わせているというのが透けてみえてしまう。読者の考える余地(=行間)がないので、薄く感じた。読者の入る隙がなく、全部「こう読みなさい」と言われている感じがする。
◆読み進めるのがしんどかったが、最後はすかっとした(カタルシスがあった)。
◆たとえばゲームだったら、設定された場所に行って、目的のものをゲットして、今までの主張をそこで述べていく……というように進むのだろう。この作品の、そのような話の持って行き方に、ラノベを受け入れられない自分自身の体質を実感した。作品には、深みとか余韻、読者の入る隙がほしい。
◆十郎丸の言葉遣いが気になる。なぜ棒読みのような男言葉で書かなくてはならなかったのか。

<参加者C>
◆私にとっては読みやすくなかった。作品に入っていけず苦労した。Bさんがおっしゃったように、(作品の中に)私の居場所がなかったし、登場人物の誰にも同調できなかった。また、この一文が余計だというところが結構あった。
◆死と再生を扱った物語。ペシミズム(厭世観悲観主義)は好きだが、マーク・トウェインなどと比べると奥行きがない。
◆説明調。物語ではなくて音楽だと思った。詞でもない。マイクに向かって叫んでいることが文章になっているようだ。
◆本でも絵でも、思っていることをモチーフに表現するが、この作品は直接的すぎて入ってこない。
◆物語ではなく作者個人のカタルシスに重点が置かれている。物語ではなく「作者が思っていること」。愚痴や承認欲求を高いところからユーモアに包んでほしかった。満たされているけれど満たされないって不幸だよね、ということを、外から書いているのだったらいいのだが。
◆普段から作者のほかの作品に触れている人だと入りやすいのかも。作者の過去作を知らない状態で入ると辛いかな。
◆塔神坊(※モデルは東尋坊と思われる)も、風の匂いや海の匂いがしない。作者が今まで音楽で表していた部分は、文章で表現できなかったのかも。
◆ジャズハウスのシーンはむちゃくちゃ好き。その部分は音がした。作者の感性に触れた気がした。
◆ラストも嫌いじゃない。ウィトゲンシュタイン「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」。
◆苦労して読んだし、こんな世界があるんだと勉強になった。

<参加者D>
◆悪くない。結構面白かった。ただし、ラストまで読んでの感想。読書会だから最後まで読むが、そうでないと途中で閉じていたかも。
⇒この作品自体がそのような作りである。ラスト近くまで日常が続き、第八章でまとめ(十郎丸のSNS)が入っている。それまでは、そのためにあると意味はわかるのだが、辿り着くまでにへこたれる読者がいるだろう。損な作りだと感じる。
◆掛け合いが面白い。ネタが多く、よく尽きないなと思う。深刻なことを茶化していたり、皮肉を込めていたり……どのような意図があるのか読者はいろいろ考える。
◆二人の関係がどう変化しているか読み取れたら成功なんだと思う。そこをどう読まれるのかで違ってくるのかな、と。
◆面白いのは、最初にマウントをとっていたのは十郎丸だが最後で主客転倒するところ。
◆ラストで、死んだと思っていた時椿が帰ってくる。戻ってきてよかったと思えるのはいいが、外から見た世界について語っていないのが残念だった。確かに外の世界は想像で書くと馬鹿馬鹿しくなるし難しい。結局、展開の中でうまくごまかされてしまった。小説だからいいのだが、少しもやもやとする。
◆十郎丸が時椿の言葉で言えば美人で非の打ち所がないと書かれているが、喋り方でそのイメージが浮かばなかった。北川景子で読もうとしても和田アキ子になってしまう。ギャップを表そうとしたのだろうが、読者としてはついていけなかった。
◆ジャズの部分は良かった。ただ、「ワルツ・フォー・デビー」のイメージが違う。作者には別のイメージがあったのだろうか。コード進行を読み直してもいいかなと思った。

<参加者E>
◆私はすらすら読めた。
◆登場人物同士の掛け合いに西尾維新を思い出したが、西尾維新よりこなれていないように感じた。
◆読み終えて、終章「NEXT WORLD」のために、すべてのエピソードの積み重ねがあったのかと思った。「NEXT WORLD」は長い前振りがないと成立しない。
◆ジャズのシーンがとても印象に残った。私も音楽が出てくる小説を書いてみたいが、作者と違って経験も知識もないので、しっかり調べ、しっかり聴いてから書かなくてはいけないと思った。
◆P258~、哲学者の名前を挙げていくところがミルクボーイの漫才のパロディになっており面白かった。普通の会話として書かれると、それほど面白くないシーンになりそうだ。
◆十郎丸の話し方などについて、私は気にならなかった。比較的、アニメや漫画、イラスト付きの小説に慣れており、頭の中でキャラクターを想像することができたので。読者が普段触れているカルチャーによって読み方が変わってくるのかもしれない。

<参加者F(推薦者)>
◆ありがとうございます。私が言いたかったことはすべて出たかな。
◆「アニメやゲームならいいけど、一般文芸でこんなことしちゃダメだよ」と思った。
◆作者の過去作に慣れている者からすると「こいつまたやったな」という感想。文章も相変わらずという感じで。内輪ネタを外でやって外したような印象を受ける。
◆総合的には駄作だと感じるが、そんな中にも拾う点はあるいい作品。
◆十郎丸の女性らしからぬ口調に違和感を覚えたという意見があったが、作者の作品にこのような女性は結構登場する(女性はあるが男らしい感じで喋って、狂言回しを務めていたり)。
◆この作品で説明を抑え気味にすると、踏み固めが不十分になってしまうのではと思う。
◆何が言いたいのか、何が重要なのかと考えると、肝は外の世界(=神の世界、神視点)ではないか。Cf)P154~のイルカショーのくだりが外側の世界や存在の話
この世界は誰かが見ているのじゃないかと十郎丸に言わせているが、作者はそのようなところを気にしているのでは。私たちの人生は、(それを認識できないけれど)なにがしかの目によって観察されているという強迫観念。
◆作者の過去作であるゲームにも、そのような展開(外の世界の秘密)がある。長々テキストを読ませておいて「これを読んでいるあなた」というふうな。
外側の世界のあなた(本を手に持っている読者諸氏、コントローラーを握っているプレーヤー諸氏……)=オーディエンスをとても気にしている。
◆哲学者のくだりがあるので(P258~)、哲学かなと読みたくなるけど、「そうじゃない」と読者に意地悪しているような部分がある。
◆「NEXT WORLD」で外側の世界について語らなかったのは、人間の認知機能には限界があるので敢えて語らなかったか。
◆はっとしたのは、Aさんのおっしゃった『KAGEROU』にテーマが似ているという意見。空虚感やスカスカ感など、確かに似たようなところがある。「テーマとして言いたいことはわかるが……」というふうな部分も。

<フリートーク
【「美しい」という表現について】
B:村上春樹の『東京奇譚集』を読んだが、女性を「美しい」という言葉では表現せず、別の描写で読者に美しさ(個性)を感じさせる。
この作品では、十郎丸のことを地の文でやたら「美しい」と書いている。美しさを表現するのに「美しい」という言葉で済ませてはいけないのでは。
D:読者に美しいと感じさせようとしているのではなく、容姿と口調のギャップを出すための設定(=作られたギャップを面白く感じさせる仕掛け)。道具の一つなので具体的な美しさを書く必要はない。
F:あるいは、キャラクター同士が掛け合いをして、読み手に愛着を抱かせるための道具としての「美しさ」。口調や、美しいという設定は、作品の地固めの手段の一つ。また、アイテムであり記号の一つ。そこを、ストーリーの展開の中でだんだんとずらしていく。
ちなみに作者は影響を受けた作家として村上春樹の名前を挙げていた。
A:ゲームシナリオの場合、ビジュアルは描写せず、関係性にフォーカスする(ビジュアルはデザイナーが作るため)。
D:「時椿は十郎丸の美しさに惚れた」。設定としてはそれでいい。もともと作者がいたのは、デザイナーがビジュアルを作るジャンルなので、指示書のような感じで書かれているのかも。
F:「こういう関係性でいきましょう」と指示すればいいジャンルから、すべて一人で行う小説というジャンルに来たので、そういう側面はあると思う。
D:巨人の星』の原作者・梶原一騎も、星飛雄馬が「すごい球を投げる」としか書かない。どんな球かは、作画の川崎のぼるが考える。
F:作者も、美人が変なことをしている……などと書いてキャラクター付けをしていた。小説的方法論とはまた違うのかな。
D:アニメにはお約束があって、ツインテールと書いたら美少女としてデザインしてくれる。それはある種、小説に近い。この作品では、口調からでは美しさが想像できない、というのを作者が楽しんでいるのでは。

【自虐的?】
D:西村賢太苦役列車』は自虐的。それを考えると、この作者は自分を貶めていないなと。
C:プライドの高さは感じる。弱い自分を前に出しておけば安心するというのはある。アリバイ作りというか。物を書くというのはそのようなものという気もするが。
B:太宰治も作品にダメな自分を出しているが、本当はダメとは思っていないし。

【虚無感の描き方/虚無感について】
B:十郎丸の虚無感に関しては本物のような気がした。それを一生懸命、訴えている。
F:作者はこの作品を書く前に病気で生死の境をさまよっている。もともとの鬱屈に、そのようなものも絡んだのでは。
B:何もかも面白くないというのに、すごく共鳴する。そこには共感できた。
D:それをストレートに書いたら面白くないので、茶化したり、合いの手を打たせることでカムフラージュしているんじゃないだろうか。
B:確かにこの内容を普通の口調で喋ったら暗い小説になってしまう。美女の言葉では語れない。
F:この世界は底が抜けていて空虚なものだ、と作中で十郎丸が言っている。なんでも責任を持って自分で決めなくてはならない、とても理不尽な世界で我々は生きており、やがて理不尽に声を上げたくなる。生まれたくて生まれたわけじゃない、と。そこに「あなたは望まれて生まれてきたの」という言葉は空虚に響く。
業界トップになった作者は理不尽さをある程度知っている。自由が真綿で首を絞めるようになる、というのは作者自身の人生観かもしれない。「外の世界」を見れば納得できるかもという想いがあるのかな。
D:神を作ったのは人間。人間はなんのために生きているのかわからない。
F:人間だけ底が抜けていく。

【猫について/表紙について】
D:怪物には一つだけ弱点がある。竜の血を浴びて不死身になったジークフリートの、背中のある部分だけが弱点であるように(※ドイツの英雄叙事詩ニーベルンゲンの歌』より)。十郎丸にとっての弱点は猫。これがないと時椿は十郎丸を追い詰めることができない。
F:猫は、この作品における「親密さ」のアイコン。無条件で可愛い存在。ラストで、十郎丸は猫に好かれない「猫狩り族の長」になり、彼女のもとに時椿が帰ってくる。世界よりも、あなたとどこにいこうか、ということが大切。その場面に猫がいる。
タイトルに使われている割には薄いかなとも思うが。
C:猫は地に足つくためのアイテム、ということか。
B:猫に懐かれない猫屋敷の女王。ビジュアル的にも映える。
猫は、雑貨になっても猫というだけで売れる。猫を出すってずるいなと思う。表紙もすごくいい。
F:確かに表紙は商業的。帯はいらないと思う。売り上げを伸ばすために必要なのだろうが、どうしても帯の内容に引っ張られてしまう。

【主人公の変化について(小説作法)】
B:主人公の成長はあったのか?
F:相手をいかに許容するか、相手といかに向き合うかが変わっているので、それが成長と言うのかもしれない。
D:小説を書き始めたとき、主人公の成長を書けと言われるが、実は小説で大切なのは成長というか「変化」。堕落でもいいし、途中で変化があれば元に戻ってもいい。この小説にも変化がある。成長と言えるかはわからないが。
成長はわかりやすい変化なので初心者向け。
F:屋台骨をちゃんとした上でならウルトラCをしてもいいよ、ということ。基礎ができていないのにウルトラCに挑戦したら大怪我をしてしまうから。
B:私たち団塊の世代には「成長しなくてはならない」という想いが染みついていて。
D:誰が言い出したのだろう。私たちの前の世代にも崩れていく話はいくらでもあるのに。
C:世代ごとの、大きな意味合いでいう反動では。親世代と子ども世代は違う。現代の空虚感のあとは、激しいものに戻っていくのか、さらに空虚になるのか……。

【十郎丸と時椿の関係について】
B:結局、時椿は女性を好きになった?
F:濃いめの友情関係ともとれる。そこは枠組みに嵌めないほうがいいかも。物語の終わり方を考え、二人を女性に設定したのかもしれない。
もともと、作者の作品には、恋愛よりも人間関係全般(人同士の絆や和解など)を扱ったものが多い。恋愛の話かと思ったら兄弟や親子の話になったり。単純な恋愛の話はあまりない。この人が好きなのかな、という匂わせはあるが、それは受け手に委ねられている感じ。
この作品では、「猫」という装置を介在して、ひねくれた人間関係が和解し、継続していく。友情か恋愛か、どう取るかは読み手に委ねられている。
(参考:2000年代中頃以降から「空気系」「日常系」と呼ばれるアニメ作品が多数ある。親密さがフィーチャーされ、ある程度許し合って、和やかに帰結するのがそれ。作者はその世代ではないので、同じというのは言いすぎかもしれないが。)