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R読書会/Zoom読書会

『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫)★R読書会

R読書会 2022.10.01
【テキスト】『十二人の手紙』井上ひさし(中公文庫)
【参加人数】9名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者H)>
ここ最近の読書会は、『戦争は女の顔をしていない』など大作が多く、私個人としては忍耐が必要な読書だったので、忍耐せずとも読める作品を推薦した。だからと言って決して薄っぺらな内容ではない。皆さんの執筆の参考になればと思う。

<参加者A>
◆Hさん、たびたび読みやすい短編集を推薦してくださり、ありがとうございます。
井上ひさしの作品は初めて読んだ。楽しいことばかりじゃなくてドロドロした展開もあるが、非常に人間的な作品だと感じた。
井上ひさしWikipediaで調べたら生き様がすごい。母に孤児院へ預けられる、妻への家庭内暴力、自殺未遂、離婚など波乱万丈。小説に深みが出るのはこのためかと雑感として思った。
◆私は短編を読むとき、点数をつける癖がある。この短編集だと(エピローグは別として)、〇が3個ついたのが一番好きな「鍵」。唯一、ハッピーエンド的な終わり方。プロローグからずっと人間の泥臭さで裏切られてきたので、ここへ来てほのぼのしてよかった。
次が「泥と雪」。〇〇△。惜しい。出来過ぎている感じがあって、こんなに巧く真佐子を騙せるものかと思って次点にした。真佐子が第二の人生を夢見るのに共感し、それが嘘だったことを悲しく感じた。真佐子に共感しながら読めて楽しかった。
その次が「里親」。ありがちといえばありがちだが、殺人事件が起こる展開に惹かれた。

<参加者B>
◆『十二人の手紙』が刊行されたのは1978年。NHKで放送された『ひょっこりひょうたん島』(1964~1969年)の少しあとで、小説『吉里吉里人』(1981年)と近い時期。
◆読んで、日本語の巧みさを感じた。
◆私は「桃」が好き。でも一番印象に残っているのは「プロローグ 悪魔」
◆一人が何人かに手紙を書いていくだけで、読者はその人がどんなふうなのか、どうなったのか、どう考えたのか、わかるようになっている。手紙という形式が、読み手の理解を助けている。

<参加者C>
◆同じ人間が書いても、宛先が違えばまったく違う文章になる。一人の人間が、相対する人によって、いろいろな面を見せるのが面白かった。
◆私が一番好きなのは「鍵」。どんでん返しに次ぐどんでん返しでミステリーらしい作品。木堂先生はわかりやすく探偵役だったな、と各章を読み進めていたら、エピローグでも探偵役を担っていたので、そのために作られた人物かなと思った。
「赤い手」の、出生届や死亡届など届出を並べていく手法は新鮮だった。それだけで一人の人間の生涯を描き、読者に悲しみを感じさせられることに驚いた。
「桃」もいい。誰もが持ちうる傲慢さについて考えた。作中作は難しいと思うが、そのクオリティもすごい。
◆私は、エピローグはなくてもいいかなと思った。もちろん、西村さんと弘子さん・高橋さんと美保子さん、古川さんと扶美子さんが結婚して幸せそうなこと、水戸悦子さんが元気そうなことなど、近況が知れて嬉しかった人たちも多いが、無理に繋げなくてもよかったのでは。

<参加者D>
◆最初に手に取ったときはコロナ禍で読書会が延期になり、読むのを中断した。その後、途中から読んだら訳がわからなくなって、また最初から読み始めた。
◆一ヵ所に集まった人たちの人生を描いていく手法は(この場合、人質になった人たち)、映画では飛行機が墜落したり、ビルが倒壊したりするときに使われる。最後に全員集まるのが予想できていなかったので、該当箇所を拾って読み直した。
◆一番好きなのは「泥と雪」。今でいうロマンス詐欺と同じ手口だろうか。焦ったり迷ったりしたら、こんなこともあるのかなと思った。
◆真佐子は船山太一と結婚して船山姓になっていたが、なぜわざわざ「船山」にしたのか。「赤い手」でも船山という医師が出てくるし、ややこしい。そこがわからなかった。
「葬送歌」聖心女子大学文学部国文科……実在する大学名を使うのはありなのか。実在する大学名だからこそ、「中野慶一郎展」準備委員会がリアリティを持つが、大丈夫なのかなと思う。
◆一つ一つのショートストーリーを最後に集約させるのはさすが。

<参加者E>
[事前のレジュメより]
≪1≫「桃」でいろいろ考えさせられた
 〇地方都市の名士たちが構成員であるボランティア団体『サロン・ド・シャリテ』が、養護施設『白百合天使園』への二百三十五万円の寄付とボランティア活動を申し入れた。天使園側は、寄付金はいただきたいが奉仕活動はお断りしたいと返答した。園長は「一日母親」の奉仕活動を断る理由を理解してもらうために、ある小説を送る。それが「桃」という作品だった。
〇村長が、桃を村の特産にするために桃の木の改良を積み重ねてきた。やっと十個ほど実をつけるようになり、県の職員がその桃を視察にくることに決まった。その日の朝、ボランティアで訪れていた人形劇サークルの女子学生たちがその桃を食べてしまう。県の役人に認めてもらえれば、村への補助金が出るかもしれなかった。努力の実をつまれてしまった村人は、桃を盗んでしまう学生の人形劇など観ようとしなかった。園長は、「相手に一番必要な物は何であるかを理解しないで為される善意などは役に立たない」と伝えたかったようである。
 〇熟慮した『サロン・ド・シャリテ』はこの地方都市の小中学生のために、二十三万五千本の鉛筆を送る。一人当たり一打の鉛筆なら、約二千人分である。でも、この結論に私はすっきりしなかった。「一日母親」を発案したサロンの会員は、『白百合天使園』の孤児救済の活動を高く評価していたはずである。ならば、天使園の希望通り、寄付金をこの施設へ寄付するのが筋である。
 〇『サロン・ド・シャリテ』は生真面目なボランティア団体だが、根っこに施しをする団体の傲慢さが見え隠れする。「私たちの善意を断るなら、いいですよ。別のところに差し上げましょう」という結論に至ったのだろう。

≪2≫「第三十番善楽寺」を読んで
[イ]四国八十八ヵ所と言われているが、実は札所の寺は八十九カ所ある。このことを知らなかった。
[ロ]「その人の必要度に応じて分配すればいい」古川俊夫の出したアイデアが『つばめ共同作業所』を救った。出来高払いでもなく、一律平等払いでもないこの分配法は、まさに共産主義的な分配方法ではないのか! しかし、適切な分配方法のように思えたが、この方法にはある条件が必要である。こういう分配が可能になるには、作業所の収入が十分に確保されなければいけない。この作業所の現状をみると、この分配方法には現実味がないようだ。

≪3≫「泥と雪」
 浮気相手の女が、彼の妻が離婚に同意するように仕組んだ策略だった。妻は、まんまと嘘の手紙とブランド品のプレゼント作戦にはまってしまう。なんだか、一途なものが損をする後味の悪い作品だった。

≪4≫「シンデレラの死」の結末にびっくり
 仕掛けの巧妙さに騙された。物語は主人公が「もう夢を見るのは嫌」と書き残して自殺する悲劇なのに、見事に騙されて爽やかだった。
 主人公・塩沢加代子が高校の元担任に書き送った手紙は、事実と大きく違うものだった。青木卓二という担任さえ実在していない。一流劇団が公演する演劇の主役になったことや連続ドラマの主演抜擢もでたらめだった。私が騙された理由は、手紙文の持つ、本人の感情の起伏が綴られている真実っぽさだった。
 私の書く小説は、「ひねりがない」とよく言われる。井上氏の趣向に触れて、もっと熟慮して書かねばと痛感した。

≪5≫やはり全作品を読まないといけなかった
 この期間忙しくて、全作品を読む余裕がなかった。目次をさらりとみて、十三作品は独立した作品だと思い込み、プロローグの「悪魔」などいくつかの作品を飛ばして読んだ。ところが、最後の「人質」を読み始めて、「悪魔」を読まなければ謎解きの意味が理解できないことに気付いた。「人質」は設定が緻密な作品なのに変な読み方をしたので、その面白さを十分に味わえなかった。真面目に、しっかり読まないといけないぞと思い知らされた。

[以下、読書会にてEさんの発言]
◆私は、時間がないので端折って何編か読んだら全然わからない。全部読まないといけないと思ったときには、もう遅くて(笑)。
◆13作品あるのだが、本気で訴えているような心情を伝えるときには手紙形式っていいのだなと感じた。手紙文の味わいで小説を作っているのが魅力的。仕掛けが巧くて、読者が驚く結末に持っていく。
◆私が一番面白かったのは「シンデレラの死」。第二位が「第三十番善楽寺。三位はありません。

<参加者F>
◆何年か前、書店の平台で見つけて手に取った(そのときは読書会のテキストになると思っていなかった)。井上ひさしらしい作品だなと思って読んでいたらどんでん返しがあって。本当に井上ひさしらしい、サービス精神溢れた作品だなと感じた。
今回、読書会用の目で再読するとツッコミどころがたくさんあった。
◆書き過ぎているところがいっぱいある。例えば「赤い手」の最後の手紙。届け出を読んで想像する面白さがあるので、経緯を書いている手紙がないほうが読者に想像させられるのでは。
私は届出のみで突っ走ったほうがいいと思ったが、最後の手紙があるから井上ひさしなのかな。すごくサービス精神があるので、気づかない人にも気づかせるために。そういうところも含めて井上ひさしらしい。
この作品を発表前の事前合評にかけたら「手紙はないほうがいい」という意見が出そう(笑)。
◆私の一番はいろいろ考えさせられた「赤い手」。二番は「プロローグ 悪魔」。すとんと終わるところがいい。最後の一言(「差し入れありがとう。(中略)でも弘の行方は探さないでください。(後略)」がよかった。

<参加者G>
◆最初から最後まで面白かった。井上ひさしの小説は初めて読んだ。離婚したときに週刊誌が騒いでいたこと、次は亡くなったときの報道を覚えていて、これまで記憶にあった井上ひさしはそれだけだった。
◆手紙文で書かれているが、小説の楽しさですらすら読ませていただいた。
◆こういう書き方があるんだと楽しく読めた。この本を読み始めたとき、NHKの『芥川賞を読む。~“正しさの時代”の向こうへ~』という番組を観て、「こう書いたんだ」「小説ってこう書けばいいんだ」と思ったのと重なった。
いろいろな着想や書き方があり、私も書いてみたいという気持ちを与えてくれた。
◆興味を持ったのは「赤い手」の最後の3行ほど(印をつけている)。

<参加者H(推薦者)>
◆手紙、筆談、メモ、死亡届や調書等の届出など、すべて「文字」だけで作られており、すごい。会話文があったとしても、筆談の中で、誰々がこう言った……と書かれている。
◆手紙は熱意が伝わりやすい。漠然と客観的な言葉が並んでいるのではなく、誰かが誰かに宛てた言葉の熱が面白い。文字という媒体だけでここまで物語を作り上げる、井上ひさしの才能を感じた。プライベートは苦しかったのかもしれないが。あるいは、プライベートが苦しかったからこそ才能が育ったのかもしれない。とにかく素晴らしい。
「赤い手」は文書で構成されているのに人生が映し出されている。公正証書だけで小説が作れる。書いた作品がつまらなくなるのは、場所や名前が漠然としているからでは。
◆『十二人の手紙』では、最低12人の人生が書かれているが、その一つ一つが独立していて面白い。私が書くと各登場人物が似たような設定になってしまうが、井上ひさしは一人一人に照準を合わせ設定しており、天才だなと思う。
◆人間は嘘をついたり騙したりするが、この作品では、嘘をつく理由の根っこが温かい。例えば「鍵」では、茶番を仕立てて、木堂を過酷な環境から遠ざけようとしたのが動機。温かさを感じる。
「桃」では、自分の行為が本当に子どもたちのためになるか考えが及ばないものの、善意なのはわかる。温かい。
マウントを取ったところがなく、苦労した井上ひさしならではの目線の低さを感じる(現実ではどんな人かわからないが)。
◆一番好きなのは「桃」。手法として感心したのは「赤い手」
◆以前、Dさんが「どんでん返しが許されるのは1回だけ」と仰られていたが、「鍵」は何回かどんでん返しがある。それはいいのだろうか。
「泥と雪」の手法も印象に残った。私もまんまと引っ掛かった。
参加者D:私は引っ掛からなかった(笑)。)
さすがDさん! 私は愛人の罠に引っ掛かっておりました……(笑)。

<参加者I>
◆全部面白かった。今のようにインターネットが発達していない時代ならでは。手紙が重要な役割を担っていた時代をリアルに書き残し、今に伝えてくれている。
メタフィクションという手法があるが、この作品は小説内の手紙や文書など、メタだけでできている。こういう手法があるんだと驚いた。
◆一般的に一人称の語り手を「信頼できない語り手」というが、この作品では誰もが信頼できない語り手になっている。語り手が嘘をつこうと思えばいくらでもつけると読者はわかっているのに、手紙形式だと本当のこととして読んでしまう。読者は、作中の手紙の読み手と同じ体験をする。素晴らしい。参加型のような小説だと思った。
◆特に素晴らしいのが「赤い手」。信頼できない語り手と、完全な事実である届出が混ざっているのが絶妙。完全な事実からは明らかな想像ができ、人物像を形作ることができる。こんなことが可能なんだと思った。
「シンデレラの死」。手紙に振ってある記号(イロハニホヘト)は何だろうと読み進めていくと、(手紙が)証拠物件だった。特殊な記号を振ることで普通の手紙ではないと、予め読者に示してくれている。
すごく悲しい話。ここまで自分の望みを書いて、投函せずにおいて、返事も自分自身で書いて……。この作品も特殊だと思った。
「泥と雪」も印象的。最初に渡した手紙が泥と雪まみれになったと書いていたので、ストレートに恨んでいるから嵌めようとしているのか、あるいは旦那が友達に妻を嵌める手伝いをさせているのか、と予想しながら読んだが、真相は旦那の愛人の仕業だった。ひねりが足りないのでは。もっと深みがほしかった。ただ略奪してやろう、という設定は女を馬鹿にしている。旦那の愛人より、旦那のほうが主人公との関係が深いはず。黒幕は、旦那の愛人でないほうがいい。
「桃」。金持ちの奥さんたちの純益金の使い道についてのやり取りも面白いが、桃のエピソードがさらに面白い。作中に山形や宮城が登場するのは、井上ひさしが東北に縁があるから?
参加者E:そうです。※井上ひさし山形県出身で、宮城県の孤児院に預けられていた。)
東北という舞台設定が合っている。湿り気があって。例えば鹿児島とかだと違う。
◆他にない小説だなと思った。
◆プロローグに出てくる幸子の弟がどうなったのか気になっていたので、まさかこういうふうに解決するとは。伏線をこう回収するんだと驚いた。

<フリートーク
【各作品について】
◆「赤い手」
D:「赤い手」、みんな読めるんだ。最初見たとき読む気がしなくて、(届出は)いらないんじゃないかと、最後の手紙だけ読んだ。めんどくさい、なにこれ、って思って。私は家電の説明書とかも面倒で。
F:そういう人のために、最後の手紙があるのかな。井上ひさしのサービス精神。
私は(届出と届出の間の)空白に想像力を掻き立てられた。
H:何年に生まれて、養子になって、孤児院へ入って……届出だけでも物語が生まれる。
普通の小説も、書くときに、こういうプロットを作ればいいなと思った。これ、プロットですよね。ここまで作れば書きやすい。
I:届出だけで、理由は書いていないんですよね。5W1Hの「WHY?(なぜ?)」を想像させる。
D:私は「赤い手」苦手。これを一つの文学として書いてしまうのがすごい。

◆「隣からの声」
D:「隣からの声」。騙された、びっくりした。
H:それは騙される。これも示唆に富んでいますよね。
I:幼いときの経験があるから悲しいですよね。

◆「里親」
D:「里親」。里親と砂糖屋の聞き間違いは笑えた。
I:聞き間違いで殺してしまった悲劇。エピローグに和子が出てくるけれど、これはいつ?
C:和子からの最後の手紙に「信州飯田へ出かけようとして(中略)ホームのベンチで三面記事を眺めていますと(後略)」とあった。人質事件が起こったのは同じ東北の米沢市。最後の手紙を出したあとでは。

◆「泥と雪」
I:mixiでもできそう。
C:今だとSNSに置き換えてミステリーを書けそうですよね。Facebookで嘘書いて、ネットで検索したら引っかかるようにスポーツの大会記録のページとか作って……

◆「葬送歌」「赤い手」「第三十番善楽寺」「里親」「エピローグ 人質」
E:「エピローグ 人質」がすっきりしない。騙され捨てられた姉の復讐のため、弟が人質を取って立てこもる。弟が姉のために、ここまでするかな? しっくりこなかった。全作品を総合する作品にしては不十分。
あと、「赤い手」で気になったのは“あかぎれ”。私は宮城県で、“あかぎれ”は“垢切れ”。でも作者は、手が赤くなって切れるから“赤切れ”としている。苦労して手がひび割れるなら、“垢切れ”のほうがいいのでは。
F:いろいろなことの辻褄を合わせるために無理はある。
「葬送歌」では中野慶一郎が自分の小説を元に書かれた戯曲を、そうと気づかずに酷評しているが、現実だと自分で書いた作品を忘れるはずない。中野先生、推理小説家として「里親」で再登場しますよね。弟子の作品のアイデアを盗んだ人として。
I:“船”がつく名前が多いから紛らわしい。一人一人、書き出していけば繋がりが見えるのかな。
F:「赤い手」の前沢良子を取り上げた産婦人科医が船山喜八。船山姓だけど「悪魔」「人質」の船山太一とは関係ない?
C:和子さんも二人いる。(「里親」の主人公・和子と、「鍵」の鹿見家お手伝いさん)
H:「赤い手」で交通事故を起こした古川俊夫は「第三十番善楽寺に登場しますよね。
I:お遍路さんになって、記憶喪失になって……古川が結婚したのは誰?
F:古川が行った先(高知)の施設の職員。
I:繋がっていると思って読んでないから覚えていない。
H:わざと平凡な名前にしていますよね。
C:メモを取りながら読んでいったほうがいいかも。最後、登場人物たちの消息がわかってほっとした。
I:古川は、どうなったのか丁寧に書かれている。
登場人物の名前、意外と忘れますよね。忘れてて、「あ、そうだったのか」って読み直す。
F:読書会のテキストになってないと、そこまで仕掛けがあることに気づかないかも。
I:普段はもっと時間をかけて読むし、忘れるよね。

◆「ペンフレンド」
I:ここまでで話題になっていないのは「ペンフレンド」
C:誰も死んでないし、誰も酷い目に遭ってないし(笑)。実際、エピローグで弘子と西村は結婚している。
A:よくできているけど、あんまり目立たない。
C:人間は今でも変わっていない。手紙がメールやSNSになってもありそうなエピソード。

◆「玉の輿」
I:「玉の輿」はどうですか?
H:手紙をカーボン紙で複写するとか面白い。
A:しきたりが厳しい家に嫁いだから。皮肉ってますよね。
F:最後の引用元。これ、本当に引用したんじゃないかな。
C:手紙の書き方の本から小説が作れると思って書いたのかも。引用元まで含めて創作だったらすごいですよね。
I:引用元、本当にある本なのかな。(検索して)実業之日本社……ある。鶴書房……「かつて存在した」。
C:読者に調べさせられるのがすごい。村上春樹が実在しない作家を実在したように書いたみたいに、まったく架空の本でもそれはそれで面白かったかも。
そういえば、作品の最後に参考文献の一覧があって、ほぼ実在してるんだけど、一冊だけ架空の本(著者・出版社も架空)っていう小説を見たことがあります(笑)。

【文体について】
D:「泥と雪」。女を馬鹿にしているんじゃないかと思った。
I:時代をすごく感じる。そういう時代だったから。
B:手紙の書き方も、昭和の書き方ですよね。今の若い人が書いたら、こうはならない。時代がよく出ている。
D:昭和が漂うといえば、「おこっちゃいやです。」(「玉の輿」)とか、口調が面白かった(笑)。
I:時代を映している、というか。今BSで昭和の映像作品を観ているが、現代とは喋り方が違う。この手紙みたいな台詞が出てくる。井上ひさし放送作家だし、そう書くのが自然だったのでは。
B:現代は喋り方が違う。今を残すって大事なのかな。
『十二人の手紙』は作品によって文体が違うけれど……
I:文体は息遣いみたいな感じがあって。意識して変えていかないと、誰が書いたものかわかってしまう。自然に身についているものだから、意識して変えないと変わらない。
D:私は全然ギャルじゃないけど、ギャルを書くのが得意。ギャルになったことはないけど楽しくて(笑)。
I:好きだから、よく見て観察しているんじゃ。
D:そうかも。ネイルも、ギャルの子がいるところに行く。楽しい。
B:私が20年前に、あるおじさんを観察して書いた文章があって、今の作品に取り入れたいけど、そうするとそこだけ文体が違って。どちらかの文体に合わせないといけないのだけど。
I:20年前の文章をそのまま書いては駄目。昔書いたほうを改稿したほうがいい。感性も文章のキレも変わっているから、一から全部書き直すべき。
B:今よりも昔のほうが人物をよく観察できていた。その細部を入れたい。今書いている作品の登場人物にはモデルがいなくて、モデルがいる人物を出すと違和感がある。
D:おじさんを書かないか、他の人物を細かく書くか……。
I:現実にあることを小説に書くと、読者にはどうでもいいことだったりする。現実の重みに小説が引っ張られすぎる。時間が経って、現実と想像の境界線がなくなるくらいでちょうどいいのでは。事実も想像で埋めるほうがリアリティが出る場合もある。
A:Bさんの仰っていること、わかります。事実かどうかはともかく、10年前の感性は今、再現できない。感覚はわかります。
I:特定の人物だけを細かく書くなら、登場人物に語らせる。『十二人の手紙』でもボールペンが滑った(=余計なことを書いてしまった)とある。登場人物の主観なら、そこだけ詳しくても違和感がない。読者は「その語り手の癖かな」と思ってくれる。

【手紙形式であることの意味や、作品の仕掛けについて】
I:この作品はどうやって作っていったのか。最初にプロローグとエピローグがあって、後から各章を作ったのか、それとも最後に各章を繋げたのか。エピローグから見ると、脇役をクローズアップしたのが各章ということになる。
C:探偵役は木堂先生。
F:木堂先生が聾唖者というのが大きい。
H:誰かが文字によって語らなきゃいけないから。
I:『十二人の手紙』を映像化するのは不可能なはず。手紙なので。「シンデレラの死」とか、絶対無理ですよね。井上ひさし放送作家をしていたから、映像にできないところに文学の意義を見出したのでは。想像力を働かせないと読めない作品。(「赤い手」の)届出とか、特にそうですよね。そういうところも面白い。
D:自分の作品の参考にできるかと言われるとしにくい。
I:参考にはしづらい。人間が書けないと駄目だな、とつくづく思わされた。
A:“信頼できない語り手”っていうけど、特に手紙形式だと、ころころ騙されますね。
I:谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』は日記を盗み読みしている気分になる。読者は、日記や手紙には嘘はないと思ってしまう。
A:手紙になっていると、喋るよりも、信憑性が一段階高くなる。なぜか本当にあったことなのかなと思う。
F:アガサ・クリスティの作品に、語り手が犯人というものがあって。読者は語り手が言うことは本当だと思ってしまう。確かに嘘は書いていないんだけど。言葉が足りないだけで。
C:叙述トリックもバリエーションがありますね。語り手や語られている人物が、実は人間じゃなかった、大人だと思わせて子どもだった、若者だと思わせて老人だった……。今お薦めしたいけど、叙述トリックが使われていると知らない状態で読んでほしい(笑)。
H:叙述トリックのような仕掛けがある映画もある。仕掛けは、受け手が驚く発想があれば1つだけでもいい。
昨日観た映画。女の子が男に追われているんだけど、誰もそれを信じてくれなくて、逃げ回った末、ラストで追い詰められ男を刺してしまう――と見せかけて自分を刺した。そうして、周りの人も男が悪いと納得するというストーリーだった。
I:どんでん返しは、観客や読者の死角を突くから面白くなる。女の子を応援しているからカタルシスもある。
B:あと、精神軸が通っている。男が怖いっていうのがあるから、ラストが効く。女の子は、自分を助けるにはどうしたらいいか必死で考えている。

【作者・井上ひさしについて】
H:井上ひさしの「汚点(しみ)」という短編小説があって、何も読む気がしないときでも、その作品だけは読める。思い出すだけで涙が出る。
A:私は今回の読書会で初めて井上ひさしの作品を読み、図書館で井上ひさしの本を借りた。
I:私も(井上ひさしを)初めて読んだかも。
F:離婚するとき、週刊誌に出たのを覚えている。
A:2015年に、前妻の娘と後妻が「ひょっこりひょうたん島」の上演を巡って争っていたり……
I:周りがそんなふうだから興味があったのかな。「何を考えているんだろう」って。
H:井上ひさし自身がトラブルメーカーというのもあるかも。クールにぱっぱっと切り捨てるんじゃなくて、お前も好きだよ……みたいな。

【エンターテイメントと純文学について】
H:エンタメ小説もたまにはいいですよね。
D:今行っている小説教室で、先生に「純文学を書きたい」と言ったら「これも純文学ですよ」って言われて。エンタメと純文学の違いは何?
H:文体に重きを置いているのが純文学、ストーリーに重きを置いているのがエンタメ、かな?
I:エンタメは読者にカタルシスを与えるもの。純文学はそうでなく、読んで感情を動かされたなら、嫌な気持ちで終わってもいい。
エンタメは、ストーリーがエキサイティングだったり、知識欲が満たされたりして「面白かった」で終わっていい。純文学はストーリーテリングじゃなくてもいい。中間小説は、どのどちらも満たしたもの。
D:じゃあ私はエンタメになるのかな。
I:Dさんにはサービス精神があるのでは。「読者を面白がらせたい」という。
D:真面目に書いたら、「私が書かなくてもいい、誰かが書くだろう」って思う。

【その他】
◆D:実在の大学名とか、作品に出していいのかな?
I:ただ単に「入学した」とかならいいのでは。教授が何した、みたいな、名誉毀損にならなければ。
D:自分をナウシカだと思い込んでいる子を書くのはあり?
I:いいのでは。商標登録されていたら駄目だけれど。ディズニーのキャラクターは書評登録されていますよね。
C:商標登録されているか、簡単に調べられるサイトがある。
※特許情報プラットフォーム(J-PlatPat) https://www.j-platpat.inpit.go.jp/

◆D:昔は愛人業――愛人であることを仕事にしていた人がいて、それが社会に認められていた。今は「囲われている」は差別用語になる。
F:今は「パパ活」になっているのでは。
D:パパ活」っていうと、もっと軽そうな……。ご飯食べに行ったりとか。
I:マンション買ってもらう人もいるんじゃ。
確かに私が子どものころは「お妾さん」がいた。同級生に、保護者である母親と苗字が違う子がいて。その子は父親に認知されているから、父親の苗字を名乗っていたんですね。
昔はそれが普通で差別もなかった。今のほうが息苦しい。

 

井上ひさし『十二人の手紙』はZoom読書会でもテキストになりました! 読み比べたら、メンバーが変わると、出る意見も変わるんだなとわかって面白いです。

『アヒルと鴨のコインロッカー』伊坂幸太郎(創元推理文庫)

Zoom読書会 2022.09.18
【テキスト】『アヒルと鴨のコインロッカー伊坂幸太郎創元推理文庫
【参加人数】出席7名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者H)>
◆私が推薦したい本のリストがあって、その中から消去法で選んだ。
◆結構前に読んで面白かった作品。私はエンタメ畑の人間なので、手の込んだプロットを見ると、エンタメは楽をして書けないと感じさせられる。同じように物を書いている人に響くのではと推薦させていただいた。

<参加者A>
◆青春テイストが入っているミステリー。そのあたりは王道という感じだが、現在と過去が順番に語られる構成が特徴的。絶対に叙述トリックがあるぞ、と注意して読んだ。
◆現在の「河崎」がドルジだということは、容姿の描写などから早い段階でわかった。二年前の河崎は中性的な美形で、現在の「河崎」は男らしい外見のようなので。ちょっと見え見え感があったのが残念。京極夏彦のある作品を思い出した。
映画で、このトリックをどう描いたのか気になる。
◆河崎ことドルジの動機が琴美の復讐と言うのもなんとなくわかった。私は琴美に死んでほしくなかったけれど、現在のパートにいないので、もういないんだろうな……と辛かった。
◆本物の河崎が死んでいたのは意外だった。アホだけど魅力的なキャラクターだと思う。
◆ラストが椎名の章で終わっており、まとまりがいいのだが、琴美の死ぬ間際のパートで終わっても良かったと思う。私の好みもあるが、ロッカーに神様を閉じ込めるくだりで、「このあとドルジは……」と考えてしまって集中できなかったので。
◆タイトルはいまいちしっくりこない。神様を閉じ込める……みたいなのとか、ボブ・ディランにまつわる何かのほうがよかった気がする。
◆エンタメに振り切っているというより文学の匂いもする。いい悪いではなく。どちらが上とかないと思っているので。
◆いいと感じたのは麗子さんの変化。最近読んだ別の小説で、冒頭で痴漢を見て見ぬふりをした人が、最後のほうで痴漢から女性を助ける展開があって。物語の始まりで人に興味がなかった人は、物語が進むと人に関心を持つようになるんだと思った。

<参加者B>
◆椎名が引っ越してくる場面で、不気味さや重苦しさを感じた。一〇四号室は不吉だから作らない、蜘蛛の姿、米軍が消滅、黒猫、堂々たる裸婦のような桜の木、黒い服のドルジ……。ゴシック(退廃的)なものをイメージさせる描写が多い。新生活への期待より不安が大きいのかな、と思った。
ワインもキリストの血を連想させる。ここで椎名と「河崎」の間に契約が成立したと感じた。
全体として文章に死の気配が漂っていて重い。
◆名前も意図的。椎名は「粃(しいな)=中身のない籾」を、麗子は「幽霊」を連想させる。『陽気なギャングが地球を回す』でもそうだったように、伊坂幸太郎はキャラクターと名前のイメージを合わせている。
◆舞台が東北でありながら、ゴシック的な幽霊や人形、黒などの言葉を多く用いており、軽妙な文体だが重さを感じる。何故かと考えたとき、この作品が刊行された2003年は、(2001年に)アメリ同時多発テロが発生したあとで――バブル崩壊以降からそうだったが――世間が持っていた死の気配や不安が、作者にもあったのではと想像した。
ドルジを造形したのも、「海外に目を向けなければ……でも怖いな」という想い(世界に目を向けなければならない漠然とした不安)の現れかもしれない。だから、見た目は日本人に近いブータン人という設定を選んだのではないか。
外国人と仲良くなっても心の底からは信頼できない……そこに自分の世界と、外の世界の相克があるのかな。

<参加者C>
◆一読して、アメリカ文学の香りがする文体という印象を受けた。伊坂幸太郎クエンティン・タランティーノ監督に影響を受けたと明かしているが、アメリカ文化が好きなんだな、と。
◆面白く読んだ。たとえば椎名と大学の同級生の会話「外人って何か嫌やなあ」という記述。コミュニケーションにおいて、自分のことを理解していない人間は嫌いなのか考えさせられた。
◆おそらくキャラクターありきで作られた作品。批判ではないのだが、キャラクターが凡庸でステレオタイプな気がした。
推理小説やエンターテイメントには詳しくないが、カットバックの技法は見事なのかなと思った。

<参加者D>
◆読後感がすっきりしない。私はハッピーエンドが好きなので(ハッピーエンドじゃないからだめなわけではない。ミステリーだから誰か必ず死ぬ。琴美が死ぬのも、そう持ってくるんだ、と思った)。後味がよくないから粗を探した。
◆なぜこんな構成にしたのか理由がある。小出しにしているということは過去と現在がリンクしているということ。
◆中盤、「現在」で麗子さんが登場したとき、河崎(ドルジ)が「麗子を信じるな」と言った場面で、本物の河崎ではないと思った。
◆「河崎」は河崎ではないと思って読んだが、麗子さんは二年の間に変化していると感じた。
◆Cさんがおっしゃったように、河崎とドルジはキャラが立っているけど他が薄い。椎名はぼんやりとした18歳の男の子としかわからない。作者の狙いかもしれないが、そこがすっきり読めない。
◆258P「男らしくない、じゃなくて、人間らしくない」と言い換えるのがポジティブで面白いシーンだと思った。このあたりが一番面白く、さくさく読めた。結末へ近づくにつれて辛い展開になる。
◆私もタイトルが引っ掛かった。アヒルと鴨はともかく、コインロッカーが取ってつけた感。「風に吹かれて」とか、音楽の名称のほうがしっくりくる。最後にコインロッカー……全体的に読後感がすっきりしない。
◆全体を通して読みやすかった。久しぶりに時間をかけながら読めた。薦めていただいてよかった。

<参加者E>
Kindleの読み上げ機能で読んだ。紙媒体で読むのとだいぶ印象が違うのかなと思った。
◆個人的な話だが、現在、犬の介護をしており忍耐の限界。私は犬も猫も大好きだし、なんで犬の介護しているときに動物虐待の話を読まなあかんねん、と感じたが、辛い部分でも、読み上げてくれるので最後までいけた。
伊坂幸太郎の作品を読むのは『残り全部バケーション』に続いて2作目。私は乾いた文体というかエンタメ的な文体が苦手で、ポエジーを感じられる純文的なものが好き。この作品も最初はパサパサ感じ、苦手だと思って聞いていたが突然目が覚めた。死の気配、河崎=ドルジ、琴美が死ぬ……伏線に気付いていなくて3回くらい聞き直した。そこから面白くなった。人が死ぬ作品は好き(人が死ぬのが好きなのではなく、消えていく寂しさでしっとりしているのがいい)。どんでん返しと読めたし、ドルジは犬をかばって死ぬし、伊坂幸太郎は動物が好きなんだと思った。
◆私が退屈していた部分が全部伏線。それを回収していく。残り三分の一くらいですべて回収され、叙述で騙された爽快さが残る。最後まで読めてよかった。

<参加者F>
◆それなりに面白かった。
伊坂幸太郎については『残り全部バケーション』を読んだとき、仕掛けを張り巡らせる名手だと思った。あちこちに伏線があり、やりすぎの面もあるかも。そういうものだと思えば楽しめる。
◆犬や猫に対して残酷だから読むのが辛い人もいるかな。動物が死ぬのは嫌だが、人が死ぬのはいい……殺人事件を扱うミステリーの場合、人が死ぬのは当然でありゲーム感覚で読めるが、動物が死ぬのは慣れていないから気になる。それが作者の問いかけであり、敢えて逆にしたのでは。切実に感じなければならない死はどちらなのか、面白かった。
◆琴美が手足を切断されて死ぬのではと思わせておいて、そうならなかったのでほっとした。小説の書き手としては上手いのか。
でも、読者をほっとさせず、残酷でも納得いくようにまとめられないものか。車に轢かれるのは悲しくないのか。そのあたりに、もうひと工夫あったほうがいい。
◆舞台は仙台。4年間、仙台で暮らしたことがある私としては、仙台らしさを感じられたほうが嬉しかった。(作品として)特定の都市にフォーカスしないほうがいいのかもしれないが、それならなぜ東京ではなく仙台を選んだのか。
◆現在と過去のスクランブルによる目眩まし。わざと違和感を出しているところがある。書き間違いではなくシグナル。そこを拾いながら読み進めたらベストな読者になるのかな。
◆「二年前」と「現在」をそれぞれ連続して読んだらどんな感じになるのか、時間があればやってみたい。その中にトリックを織り交ぜているのか……作風の参考になるのでは。その辺も含めて面白い仕掛けだった。
◆面白いのは、二年前のドルジと「河崎(=現在のドルジ)」の性格がだいぶ違うこと。「河崎」は皮肉っぽい。2年の間に本物の河崎に仕込まれたのだろうが、そんなに上手くいくのか。プロセスを入れてほしい。
◆椎名が襲撃した書店に戻り、そこで江尻のことを知る。なんでこの場面を入れなくてはならないのか? 後で使うんだろうなと思ったが、伏線を伏線と感じさせないでほしい。もっと必然性を持たせて、スムーズに溶け込ませてほしい。
◆書店を襲撃して広辞苑を奪うのは突飛だが、椎名はなぜ納得したのか。読み手として納得できない。本当の動機以外で、椎名を説得するための仮の理由を作り込んで読ませてほしい。(最後まで読んで)この辺りの違和感が消えたので騙されたと思ったが、このやり取りは頭の片隅に残った。残すために書いたのかも?
伊坂幸太郎ほどの作家であれば、そのあたりを潰してくれたら……

<参加者G(提出の感想)>
 新奇なミステリ。「殺人事件」の起きない推理小説。提示された情報を基に「謎」の解明に努める、というミステリの基本を押さえつつ、文学界にあたらしい風を吹きそそぐ。巧みな構成とオリジナリティゆたかな文章表現もすばらしかった。持って生まれたじぶんのことばで描かなくて、何が「もの書き」か、と強いエールをもらった気になる。
 また、今作は青春小説の色合いを帯びていることもあり、心地のいい浮遊感にいざなわれた。人間ドラマとしても謎解きとしてもおもしろい作品。丁寧でどこか苦笑まじりの伏線と回収は抜け目がなくて心はずんだ。アイテムや情報の使い方がとても巧み。緻密、という表現は似合わないと思う。シンプルにうまい。たのしんでいるなあ、と感じる。アイテム、状況、セリフ、しぐさ、人物それぞれの意思のみならず、作品の前後に付された但し書きまできっちり処理されている。全体として、ことばのパズルという印象。ことばやロジック、認識というものの不可思議さをしみじみ痛感。展開された「状況」から「証拠」を集めて犯人や事件の真相を推理していく一般的なミステリ同様、この物語に散りばめられたかずかずの「謎」もすべて「ことば」によって描かれている。(当然だけど)
 であるから、(a)ミステリとは、作中のことばを集め、論理的に組み合わせ、ひとつの画を見出していくもの⇒(b)複雑で奇々怪々なトリックを用意しなくともミステリになる⇒(c)「死」とはもっとも縁遠い青春の日常を舞台にしても成立するだろう――といった作者のおもわくを想像するのはたのしい。何より、あるひとつの大系(ミステリ)を分解し、その核だけ抽出して新しいかたちで表現しようとするその姿勢には深い感銘。
「殺人事件」は起きないのに、いくつかの「死」が用意されていることは興味深い。殺されなくてもひとは死ぬ。思いもよらぬときに思いもしなかった原因で。「謎とき」の作者は、読者の思惑を裏切るために知恵をしぼっていることと思うが、それは今作も同様。「二年前にあったと思われる事件」「現在進行形で起こっていると思われる事件」「その未来」「タイトルの意味」このうち、読者が容易に察せられる案件は現在の事件だけ。(ドルジが書店を襲った理由は「二年前1」の時点で想像できる)=琴美はすでに死んでいる。であれば、彼女の死因は何だったのか。読者は胸悪くなる予想をしながらその謎を追うことになる。凄惨な予想を裏切られることを期待しながら。
 けれども、読者を待っていたのは事故死だった。(ある意味これも殺人か)目をほじくり出されたり指を一本一本切り落とされる想像に胸を痛めていたが、ほっと安堵。
 同時に、わずかな拍子抜け。ただし作者は、その部分にも巧妙な伏線を張っている。ブータン人の死生観。ひとは死ぬ。世は変わる。世界はつねに移りゆくものだと。いわゆる無常観。(これを補足するためか『徒然草』に触れているところが心にくい)わざわざ殺人が起きなくともひとは死ぬ、ということ。
 琴美も、犯人も、河崎も、そしてドルジも死んでしまう。麗子も椎名もいつか必ず死ぬだろう。ミステリ(に分類されるであろう書物)に無常観をもちこんでくる作者の発想ににやにやしてしまう。「ことば」で描かれた謎も物語もけっきょくフィクション。架空のこと。絵空事。そして、それはこの現世も変わらないことかもしれない。であるから、作品前後に付された但し書きが効いてくる。「この映画(小説)の製作において、動物に危害は加えられていません」圧倒的な皮肉。作中でもこの現実世界でも、日々、どれだけの動物(人間込み)に理不尽や不幸が訪れていることか。大きな目でみれば、「無常」たるこの世の中ではいっさいが空であるから無意味だよ、と解釈できるかもしれないが……。

 あくまでもフィクションとして、琴美の視点で物語を展開していく手法も印象深かった。すでに死んでいるはずの琴美は「いったいどこで語っているのか」。この謎が、もしかしたら彼女は生きているのではないかとの想像をたくましくしていく。しかし実際は死んでいる。また、彼女は死の間際に幻視や未来予知をしてみせる。マジックリアリズム要素。これに仏教観をくわえると、もしかして彼女が語っていたのは「つぎの生」なのかなと考えて愉快になった。(『月の満ち欠け』はいい作品!)ブータン人の伏線が補足している領域はとても深甚。ペット殺しの犯人のひとりが助かった点も印象的。「死」よりも生きることの方が苦であるとの暗示だろうか。死とはもっとも遠いはずの若者たちにあるときとつぜん訪れる死、というコントラストはあざやかでいて寓意が深い。(『死神の精度』はすてき)

 巧みな構成と特異と感じる描写はすてき。作者の文章は自由さとあそび心がゆたかで快い。ミステリやSFではおなじみになっているアフォリズムの強調もたのしかった。「8章」「11章」の現在・過去にとくに顕著になっている書き方の類似性もまたすてき。今回の本で、紹介者のHさんが重視していることが少なくとも3つあると確信。奇抜な構成、個性的な描写、そして謎。かなと。

 キャラクターはそれぞれ魅力的だった。課された役割もはっきりしていてイメージしやすい。どの人物も生き生きと立体的に描かれている。これもまた、パズルのように巧く関連し合っていておもしろかった。冒頭の迷い犬「クロシバ」がラストでたくましく生き残っているところは希望を感じた。かの犬は「ペット殺し」あるいは虐待・放置への作者のささやかな抵抗だったのかもしれない。また、あることば、あるセリフ、ある意思が別の登場人物たちの口を伝ってなんども登場するのはおもしろい。ことばは生き物。いわゆる言霊。ひとは死ぬがことばは残る。想いも残る。こういう風にして、ことばや物語という抽象的なものが古来より脈々と生きつづけてきたのだろうなと想像。無常観の受け入れに、偉人たちは音楽や一体感を諭してくれたが、ことばもまた、なぐさめと思う。

 河崎=ドルジにはおどろいた。思えば引っかかる点はいくつかあった。作者はじつに巧妙だと思う。年上でありながら、初対面の若者に「さん」をつけさせず、敬語を使わせなかったのは、いかに「ロック好きの好青年」でも日本人離れしすぎているように感じていた。また、「二年前」と明らかにちがった面をみせていた彼(女性遍歴の影がない)を、麗子(事件後に変容)との対比によってカモフラージュさせていたのはずるい。河崎=ドルジ、この種明かしは作中でもっとも胸がおどったところ。『ハサミ男』『盤上の敵』『イニシエーション・ラブ』のように、活字ならではのトリック。

 音楽、スポーツ、動物、理不尽と残酷性。伊坂作品は十年ぶりだったが、よく使われるこれらのテーマはなつかしかった。若者の心をつかむ要素に満ちた作品だと感じた。心地いい爽快感と浮遊感。ただ、以前よりも夢中になって読めなくなっていたことも事実だった。それだけぼくが若さを失っているということか。

 タイトルとラストはすばらしい暗喩だと思う。アヒルと鴨はそれぞれ異邦人と邦人を指しているようだが、よく考えれば、ふたりはその町(仙台)にとってどちらもよそもの。さらに、「無常の世」においても通りすがりのひとに過ぎない。鴨においては学生をやめる=町を去る可能性もある。アヒルも鴨も便宜上の「区別」がなされているだけで、どちらもよそもの、異邦人。そんなふたりが「神」と呼ぶ(ようになる)のがボブ・ディラン=日本でもアジアでもない大国のギター弾きであるところがまた秀逸。じぶんの足が目の前の地にしっかりとついていないひとびとが、第三国の歌うたいを神と呼ぶ。
 この部分は現在社会の若者たちの不満と不安をよく象徴しているように思う。すくなくとも自国には、心から尊敬できる対象がいない。真の意味での信仰対象を持っていない。ドルジは日本人と比べて宗教と近い関係にあるが、しかし盲目的に信奉しているとは思えない。ユートピアを夢見る旅人のように、彼らは居場所を失っている。あるいは腹をくくって見据えていない。そんな彼らは、「神」の歌を駅のコインロッカーにとじこめる。(「神様を閉じ込めておけば大丈夫」という理由には胸をうたれた。ドルジの切ない心もようが伝わってくる)駅という場所もすてきな演出。駅とはある場所の代名詞になり得るところ。多くのひとが行き交いながら、しかし定住するもののいない場所。(原則)駅は無常の世の象徴であり、異邦人の内的世界の象徴でもあるように思う。そのコインロッカー=金銭によって得られる一時的なプライベートスペースに神をとじこめる。永遠にうたいつづける神さまを。まさにロックだと思う。「神は死んだ」と言われた現代だからこそ、かっこいい。救いがある。心のよりどころを見失った若者たちの、どうしようもない心の叫び。そのかたち。作中には『徒然草』が引用されたが、同じ無常観でも鴨長明や『平家物語』の方がしっくりくるイメージだった。世ははかない。ひとは移ろう。生きていることは空虚で切ない。であれば、せめて好きな音楽をなぐさめにしよう。そうして、とほうもない大きな流れに身をゆだねよう。世は無常。世は無常……。きびしくもさびしさに満ちた歌声がいつまでもリフレインされている。無常観を背景に、新奇な発想で描かれた、心切ない青春ミステリ。

<参加者H(推薦者)>
◆好きな作品。人が変わっていく。私はメタモルフォーゼ願望があるので、ドルジが河崎らしく振る舞うのが刺さった。
◆「物語に途中参加」というのが、ひねくれていてよかった。椎名の学生生活が結局どうなったのかがわからなくて、「途中参加」らしいと思った。
◆仙台の人々が面白い。100mを12秒で走る和久井さんなど。
◆私は純エンタメとして読んだ。1回目に読んだときはハラハラした。
◆ロッカーに神様を閉じ込めるのが気障だなと思った。バタ臭い90年代を引きずっている、というか。“エモみ”より“トレンディーさ”という感じ。
◆琴美のやっかいさんムーブ。だいたい琴美のせいかな。物語の必要上ではあるけれど。
◆未処理と感じる箇所、違和感を感じる箇所はいくつかあり、「伊坂若いな」と思った(※この作品はデビュー5本目)。
◆映画を観たが結構アンフェア。同じ場面を、役者を変えて2回観させる。ミステリーとして有りなのか、無しなのか……。

<フリートーク
【各キャラクターの造形について】
H:ベストセラーになった作品なので、読書会のテキストになる前に読んでいた人はいらっしゃいますか?(挙手なし)いないですね。そこが気になっていたので。
伊坂幸太郎作品では『陽気なギャングが地球を回す』や『オーデュボンの祈り』に近いかな。
F:私は、伊坂幸太郎作品では『死神の精度』や『重力ピエロ』を読んだ。本棚にあったから読んだはず(笑)。
合いの手みたいな、会話の面白さがある。ドルジも河崎も琴美も麗子も冷めているが、ほかの作品もこんな感じ。伊坂幸太郎らしい。もうちょっとバラエティーはないのかな。みんな似ている。結構うまいこと言うし。(Cさんの仰った)ステレオタイプとはそういうことかな。
C:少し違うかも。もっと感覚的に……
D:記号的でわかりやすい。人物像が複雑に感じなかった。ドルジ以外の人物のバックボーンが不明。
「ドルジが椎名を書店襲撃に誘うか?」と思った。もっと方法があったのでは。琴美と一緒に行動していて彼女が死んだのに、知らない人間を巻き込むだろうか。ドルジにはバックボーンがあるのに、行動にそれを感じない。読み取れる読者もいるだろうが。
私も琴美の迷惑ムーブとか、展開的にそうせざるを得ないと感じる。
F:各々が役割を演じている。冒頭の書店襲撃はドルジが考えたのか、河崎が考えたのかでだいぶ違ってくる。河崎のバックボーンには触れられていないけれど。ドルジは河崎の計画を引き継いだだけだよ、とも説明できる。どっちだと思いますか?
D:私は河崎だと思う。
F:ですよね。河崎に憧れているドルジが計画を引き継いだと考えれば。
D:バックボーンについては、河崎は意外と育ちがいいとありましたね。(※254P「北陸の裕福な家」「子供の頃から剣道だか弓道だかをやらされていたらしい」)
F:琴美の背景もよくわからない。
D:琴美がどういう経緯でペットショップで働いているのか見えなかった。
あと、キャラクターにフルネームがない。年取って人の名前を記憶できなくなってきたから(笑)、フルネームを出してくれないと覚えられない。だから印象が薄いのかも。
E:麗子は色白で美人……。「美人」って書いてある。ステレオタイプ。純文学じゃ(こう書いては)だめ。
F:(この作品で)美人と言い切っているのは、台詞や独白体において。現実の会話で「目が切れ長で……」とは口にしない。地の文では使うなって言いますね。
この作品で「美人」を比喩で表す意味はあまりない。とっつきにくい女、とわかればいい。
E:耳から聞くと、それが台詞かよくわからなくて。機械が単調に読み上げるから(笑)。

【(本物の)河崎の造形について】
C:キャラクターの造形と言えば、(本物の)河崎は容姿が優れているというだけでモテますかね?
E:顔がいいだけではモテない。河崎は女性に、優しい以上のことをしている。犬を返品しに来て麗子さんに殴られた女性客さえフォローして送っていく。マメな男性は、容姿が優れていなくてもモテる。河崎はさらに顔がいいから。
顔がいい男って尽くさないからモテないんだけど。女性でも、親しみやすいほうがモテる。
F:本当に綺麗な男でないと、来る女、来る女、全部靡かない。(容姿が優れていなくても)マメならそこそこモテるけれど。
河崎(の造形)は、それを一つのパターンとしてやっている。現実感はない。作中で与えられた彼の役割。
河崎で印象的なのは、琴美を好きだったということ。セックスはしてないけれど、いつまでも忘れられない。河崎の人間らしさを感じる。「典型的なモテる河崎」と、「(琴美とのやり取りで)素を出した河崎」を、そこで使い分けている。これが物語の中の筋。そこをうまく書けているのか、取ってつけたようになっているのか。読者によるだろうなぁ。
E:そこは人間的ですね。琴美は河崎を嫌っているんだけど、河崎は懐いていく。
F:河崎にとってそんな存在は琴美だけだと思う。他の女は慣れた扱いをしているけれど、河崎が自分自身を出しているのは琴美だけ。すべての女にあの態度だったら、ああはならない。女たらしな面と、本質的な面を書き分けようとしたのでは。
河崎は琴美が好きだったから、ドルジに復讐を提言した。琴美がいなければ、河崎はペット殺しと関連がない。誰のための敵討ちか、わかる。
河崎は琴美を病気に感染させていない。罪悪感もなかった。そのあたりが一貫しているのか、いないのか……。
E:当時でも治療法はありましたもんね。
F:それは作中でも触れられている。河崎が死なないと、ドルジとの入れ替えがきかないから。
E:わりと力技の展開でしたね。
H:河崎、同じ死ぬんだったら、自分で(江尻を)始末すれば後腐れなかったのに。
E:私が感じたパサパサ感は過去を引きずっていないからかな。でも面白かった。
F:登場人物たちはみんな若く、過去がある設定ではない。過去を入れてしまうと、別の展開になってしまい、このような綺麗なトリック小説にはならない。

【タイトルについて】
B:Gさんの感想をお聞きして、なぜこの作品のタイトルが『アヒルと鴨のコインロッカー』なのか、私は非常に納得できた。作中に登場するボブ・ディランの「風に吹かれて」「ライク・ア・ローリング・ストーン」の歌詞を読んだ。「風に吹かれて」は“なぜ相手の立場を理解できないんだ”、「ライク・ア・ローリング・ストーン」は“今は落ちぶれているけれど、どういう気分なのか”という感じの歌詞。
物語の根っこにあるのは、“日本人と外国文化が溶けあったときにどこへ行くのか”。ドルジは河崎になってしまったが、我々日本人はビートルズが流行り出してしまった時点で、文化的に日本人ではなくなった。グローバリズムによる単一化。タイトルにある「アヒル」もそうなのか。椎名が大学を中退するのか、ドルジはどうなるのかわからない。キャラクターに対する問いかけでもあるし嘲笑でもある。
ミステリーというより、(執筆当時の)時代の空気みたいなものを強く感じた。ミステリーなんですけど。うまく言語化できずにいたが、Gさんの感想を聞いて腑に落ちた。
F:水を差すかもしれないが、私は、タイトルは誰が考えたのだろうと思った。たとえば「風に吹かれて」とつけた本が売れるか? と。文学賞の受賞作も、出版時にはタイトルが変わることがある。
E:読者に手に取ってもらわないと、どうしようもないですもんね。
F:「神を閉じ込める」も考えすぎのような。エンディングとして綺麗かな? 私は綺麗とは思えない。
タイトルにボブ・ディランを被せたほうが適切かもしれないけれど、これから読む人にとってはどうでもいいこと。未読の人にとってはインパクトが弱い。
E:小説のタイトルは悩みますね。最近のライトノベルのタイトルはフレーズになっていたりする。
A:読者も、タイトルから内容がわからない作品は手に取らなくなっているとか。
E:前回、読書会で取り上げた『ブロークバック・マウンテン』。私は、タイトルだけだと手に取らないなぁ。あの表紙があるから惹かれるけれど。
A:アメリカといえば、映画『アナと雪の女王』の原題は『Frozen』。日本人はこれだと観そうにないですね。
E:“コインロッカー”っていうのが不吉さを感じさせる。
A:コインロッカーといえば、まず『コインロッカー・ベイビーズ』を思い出す。あと、コインロッカーに入っているものといえば、死体とか身代金とか……
F:日本はタイトルで売ろうとする。『ゼロの焦点』、『点と線』とか、なんとなく不気味で訳がわからないほうがいい。
E:センセーショナルである必要がある。

【その他】
E:面白いと思ったのが、(フィクションで)犬や猫が死ぬのは耐えられないのに、人が死ぬのはなんともない、ということ。人聞きが悪いけれど……。ミステリーなら人が死ぬのは仕方がない。この作品では、交通事故以外で犬や猫が死ぬ描写がないから読めた。
A:犬や猫を飼っている人は、犬や猫が死ぬ映像作品を敬遠すると聞きます。
H:ペット殺しについては、描写ではなく会話で処理されていましたね。映画でも死体は映らなかったと思う。

『ブロークバック・マウンテン』E・アニー・プルー 、米塚真治訳(集英社文庫)

Zoom読書会 2022.08.21
【テキスト】『ブロークバック・マウンテン
      E・アニー・プルー 、米塚真治訳(集英社文庫
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者E)>
◆まず『ブロークバック・マウンテン』の映画を観て、そのあとに原作小説を読んだ。小説は文庫で80ページほどと短いけれど、映画は134分と長く、人物の背景がしっかり描かれている。小説と映画の両方に触れて、話の作り方などの勉強になった。
◆BL小説を書かれているCさんにこの映画と小説の話をして、それがきっかけで今回参加させていただくことになった。

<参加者A>
◆視点がくるくる変わり小説としては読みづらい。
◆掴みづらいところがあったが物語として面白い。ひたすら下り坂。若いころが一番美しくて、あとはすれ違い、劣化コピーを重ねていくだけ。
◆いきなりセックスから始まるのがアメリカ的だと感じた。私が馴染んだ恋愛ものでは、セックスは物語の最後に描かれることが多い。
◆最初にセックスを描き、その後の2人の関係を追っていくのが面白い。
◆イニスとジャックはなぜ地元を出て行かないのか。地元を抜け出せない、ある種の呪いがあると思う。私の故郷の秋田県でもそうだが、地元を出る発想がない人は結構いる。
◆社会に影響を与えた作品。文学で戦って社会を動かすのはすごい。闘いの武器としての小説。本物の武器を振り回すよりいい。
◆余談だが、トレーラーハウスに住んでみたい。チェックのシャツを着て、ショットガンを持つような生活に憧れる。

<参加者B>
◆短いから甘く見ていた。今朝から読んで昼過ぎに読み終わって、映画を観た。確かにアメリカ映画になりやすいと思った。
◆映画と小説は違う。映画は映像が綺麗なので、それだけでも楽しめる。小説は読者が自分で情景を想像しなければならない。だから脚本家と自分の、小説の解釈の違いが気になった。
◆男同士の恋愛と友情。友情からどうして恋愛になっていったのか。変化の部分を詳しく知りたい。友情が恋愛に変わっていくまでの描写が短い(寝袋のシーンまでが短い。小説では22P)。急に始まって、それがずっと尾を引いている。映画は、そういう観点で作られているのでは。小説では、変化していくのを読んでもらいたかったんじゃないかな。
◆男同士の恋愛とは何なのか。競合関係にあるのか、よくわからなかった。今のBL小説でもそれがわからない。
◆イニスの妻・アルマが、イニスとジャックが抱き合うのを目撃するが、アルマにとって何がショックだったのか。自分以外の愛人ができたという嫉妬か、男同士の関係に対する嫌悪感か、あるいはその両方か(夫の相手が女性なら、同じ反応になっただろうか?)。映画では嫉妬を前提としていたのではと思うが、作者の意図はどうなのだろう。アルマの中では、どちらの感情も複雑に絡み合っているのでは。そこをどう整理するのか期待したのだが、出てこなかった。
◆展開としては、なぜ目撃し得る場面を作ったのか。話が進まないから、わざと目撃させたのでは。私は、立ち聞きで話を進めるような手法は嫌いなので、小説の在り方としては抵抗があった。
◆イニスとジャックに序列があるとか、もっと作り込んでいけば不自然さがなくなるのではと注文をつけたい。

<参加者C>
◆ネットで映画や小説の感想を読んでいたら「不倫だ」という意見が結構あった。確かに、現代日本の男女間でのことなら、私も「別れてから付き合え」と言うだろうが、時代や国が変わるとそうはいかないと思う。
同性愛者がヘイトクライムの対象となり、生命も脅かされる状況で、二人が結ばれるのは難しい。現代の日本でも独身だと奇異な目で見られることがあるが、当時のアメリカ南部ではもっと大変だったのでは。
作品の舞台になっているワイオミング州は今でも保守的な地域。また、カウボーイ文化も同性愛を許容しない。その設定がすごい。
また、イニスが「普通の暮らし」を捨てられないのは、父親が同性愛者を殺したことが深く影を落としているから。ここを忘れてはいけないと思う。
◆友情と恋愛などの感情は、くっきり分かれているというよりもグラデーションになっているのではと思う。そこに線引きをするのは難しい。同性へのさまざまな感情は特別なものではなく、それを特殊にしてしまっているのは、周りから迫害されるのではという(イニスが父親から与えられたような)恐怖心などではないか。
◆文庫の訳者あとがきを見て気付いたこともあった。一読したとき、鼻から出血したイニスにジャックが救いの手を差し伸べ、イニスに打ち倒された……というのがよく読み取れなかった。
◆映画は時系列やどんな状況かがわかりやすかった。字の文や会話で説明されている部分が場面としてあったので。
そのぶん解釈が狭まっているかなと心配したが、ジャックの妻・ラリーンなど、小説で印象が薄かった人物の造形に深みを感じられてよかった。小説だと、ジャックの死についてイニスと電話で語る場面の彼女は「冷静な声」「その小さな声は雪のように冷たかった」としか表現されていないが、映画では(ラリーンを演じる)アン・ハサウェイの表情から、ラリーンはジャックを大切に想っていたのではと感じられた。そのあたりの解釈は映画ならではだろうか。
◆解説にあったとおり、映画では描かれていない部分もあって、小説との解釈の違いを感じた。
◆「普通」とか「まっとうに生きる」とはどういう意味か考えた。
◆2000年代、保守的なユタ州や、中国では『ブロークバック・マウンテン』が上映禁止になったそうだ。現在でも、国や地域によって根強い差別がある。
社会情勢は年々変わってきているが、差別などはなかなか消えないし、また無かったことにもできない。同性愛以外の差別についても同様だ。そんな中で文芸は何ができるのか考えていきたい。

<参加者D>
◆論理的に言えないが、すごく悲しかった。私は普段平坦に過ごしており、めったに笑ったり泣いたりしないが、重い悲しみが胸に残った。動物が死んだ作品で号泣するとかではなく、胸に残るような悲しさ。短い物語だが、短き中に愛と人生があると思った(映画も)。
◆若いときにそういう関係になって、イニスは愛だと気付いていない。ブロークバック・マウンテンの焚き木の前でイニスがジャックを抱きしめる。愛の交流。二人とも気付いていないが、深い愛が刻まれてしまっている。エロティシズムだけではなく、相手の人格に関与し合う。魂が交流し合う深いセックスで愛が生まれた。
◆背景が荒涼としている。羊ばかりで、あとはコヨーテや熊。文明の香りがまったくしない。Aさんが仰った田舎の呪い。保守的なのも含めて。荒涼としている中、二人の人間が出会って、人間同士として混じり合う。原始的な部分も含まれている。
◆男女だと、結婚して、子どもを産んで……となる。子どもがいたら作業分担して次世代を育てなければならない。それが情や家族愛に形を変えていくが、男同士はそれがない。純粋な愛だと思う。
◆愛を一生貫く。ジャックは他の男を連れてくるが、心はイニスにある。イニスは気付いていないがジャックを心から愛している。体は感じているが心は気付いていない。作品に描かれた時代では同性愛が認められていない。生活がある、子どもがいると言いながら、本当はジャックと一番暮らしたがっていたのはイニスでは。自覚がない、男特有のわかってなさ。悲哀を感じる。ラスト、トレーラーハウスで「永遠に一緒だ(※映画字幕)」と言うが、社会的にイニスの人生は終わっている。冷暖房もない、荒涼としたトレーラーハウス。そんな男が夢を見たり、枕を濡らしたり、シーツを濡らしたり……体はわかっている。一番寂しい。
◆映画を観てすぐは原作のほうがいいと思ったが、そのあとご飯を食べていると涙が出てきた。うまく説明できないが、話し合うことで理解していければと思う。

<参加者E>
◆少し話が変わるのですが……皆さん、レイチェル・カーソン沈黙の春』は読まれましたか? 1960年代に書かれた、殺虫剤や農薬などの化学物質の危険性を訴えた作品です。
癌になる人は60年前に比べて増加している。また、ヒトの精子が半減しているという報告や、発達障害の患者数が増え続けているというデータもある。
レイチェル・カーソンが警鐘を鳴らしたように、化学物質が生物に影響を与えているのかもしれない。文学作品が未来を予言することもあると思う。
ロシアのウクライナ侵攻、核戦争の危機……手には負えないテーマだが、書けたらいいと思う。テーマがきっちりとした話を作ることはなかなかできない。
◆『ブロークバック・マウンテン』の原作小説では、イニスとジャックの、20年に渡る付かず離れずの関係が描かれるが、映画に比べて筋書きのように感じた。映画は背景がしっかり作られている。ゲイへの偏見、ゲイだと自覚しているジャックが社会から浮いていること……当時のアメリカがどうだったのか印象づけられる。
筋書きを物語に作り変えるヒントがあり、映画を観たことによって大切な作品になった。
◆この作品を通して、ゲイの人たちも私たちも変わらないなと感じた。人間には食欲、性欲、愛情欲などいろいろな欲求があるが、自分ではどうしようもできず、他人が興味本位で語ることではない。また、「こちらではなくこちらを好きになれ」と言うべきではない。それを気付かせてくれる力があった。
◆ホルモンの撹乱が起きて、男性が女性化する。本人の意思の外にあることだから仕方ない。それに、映画を観て気付かされた。
◆Dさんの仰られた「深い悲しみ」。人間と人間、好きとか嫌いとかを通り越して離れられない関係を主人公たちで表している。それでLGBTを差別するのはまったく別の話。
◆訳者あとがきにもあったように、アメリカ人のゲイに対する認識を変えた作品。
◆一番好きなシーンについて。イニスが仲良くなった酒場の女性に「面白いから惚れるんじゃない」と言われる。押し付けられて好きになるんじゃない、と。イニスはそこで喧嘩別れしたジャックを思い浮かべる。話のテーマを固める場面だと思った。
◆映画の美しい映像はカナダで撮影されたそうだ。映画として美しいなと思った。

<参加者F(提出の感想)>
 性的マイノリティを主題にした悲劇。社会問題提起作品。ひややかな二元論を根とする世の中における、「異端」たちの過酷で困難な現実が描かれている。時代や文化背景はちがえと、バイセクシャルのリアルを知れたことは大きな実り。(ほかの性的少数者たちとちがい、彼らは単なる快楽至高主義者だと考えていた)他民族・多文化を受け入れる先進的・多様性国家という外見を持ちながら、じつのところ狭量で浅薄で無責任な個の集合に過ぎない、という作者の声はひどく切ない。社会的弱者(性的な意味でも、生き方としても)にスポットを当てることで大衆を啓蒙、世論を動かし、法を整えさせ、もってすこしでも多くの人間に安寧をあたえる、という「作家」ならではのしごとの尊さに心から敬服。
 ただし、個人的にこの物語はあまり深く入れなかった。同性愛・異性愛にかかわらず、濃密な粘度に満ちた性作品は苦手。というより嫌悪。頭から拒絶してしまっている。むかしのぼくなら気持ち悪くて吐いていただろう。触れることすらできなかったかもしれない。性的なコンプレックスはいまだに晴れず。なまなましい粘液や湿気、汗や吐息、皮膚の感触、何より肉体的な絆の体感、それらの想像すべてがぼくを冷たく苛む。
 しかしまた、作中で表現された寓意的対照には感銘を受けた。「山上」における禁じられた関係と、「下界」における閉塞した結婚生活。X軸上の別世界――無垢なよろこびに満ちあふれた天上異界と醜く息苦しい俗世の対比、そのコントラストはあざやかですてき。このモチーフが宿した普遍性と多層性にはいつだって心酔いしれてしまう。
 また、タイトルにもなっている「ブロークバック・マウンテン」が孕んでいると思われる暗喩のかずかずを想像するのは楽しかった。内的時間が止まった場所、人生の契機、価値観の反転点、持って生まれたじぶんを知り、そして受け入れたところ。失われた楽園、あるいは自由、それから居場所。幸福の記憶。心の支え、もしくは慰め。それから安らぎ。世間で生きていくためにはだれしもペルソナが必要だが、それだけでは身がもたない。たとえマイノリティでなくとも、だれにだって秘密の花園があり、また、アニマ・アニムスを宿して生きていると思う。外側からの圧力が強ければ強いほど、内圧が増していくのは自然の道理。目の前にある人生や世の中が生きづらい、息苦しいと感じれば感じるほどに、主人公のふたりが「ブロークバック・マウンテン」というエデンに心惹かれていく、という展開は胸を打たれた。「夢」が心に安らぎを与えている点も印象深い。
 ジャックの閉ざされた自室の「重ねられたシャツ」も悲哀をさそう。
 イニスとジャック、それぞれの心的外傷とコンプレックスにも胸を痛める。
(割礼についての当時の常識は勉強になった)
(下世話な話だが、読み進めるうち「相棒」という語句がだんだん深みを帯びていった)
 どちらの「親父」像も印象的。とくにジャック方。ちいさな社会の絶対者であり、多くの種をまき散らせながら無責任で無思慮、そうして冷酷。有無をいわさない絶対的な切断力が己にとっての「異物」を徹底的に排除・粛清しようとはたらく。「モンスターとして殺されなければならない」という文章はインパクトが強かった。キリスト教的二元論文化の背徳と反省がうまく象徴されていると思う。太った妻の微妙な立ち位置も印象に残った。
 ジャックの死と同様の事件はきっとあまたあったのだろう。あらかじめ予期されていたとはいえ、物語として衝撃的なこの展開は、世の風潮に波紋を投げかけ、意識改革をうながし、結果としてマイノリティを擁護するためのシンボルとして不可欠であったことは明白と思う。よくも悪くも、悲劇の死は大衆に受け入れやすいから。
 寓意深い構造を背景に、濃密な粘度でマイノリティの現実を描いた作品。古い常識や頑なな理不尽にちいさな石を投じることこそ、作家たるものの使命でありよろこびと感じた。

 特異な視点で描かれる文章表現はおもしろかった。比喩や擬人法が自由でゆたか。また、心のすがたを行動であらわす描写が巧いと感じた。じぶんのことば・己の感性で書いているひとだと思う。一般的でない作風は非難の的にされてしまうのが常だが、だれかの真似をするくらいならわざわざ文章など書かなくていいだろう、と思う。作品の主題同様、持って生まれた気質や価値観が少数派に属していても、できる限り、ありのままの自己を表現していこうとする生き方は深く共感。(ただし、訳者の腕かセンスのためか、ところどころぎこちない表現があったことも事実)
とくに感銘を受けた表現は以下のとおり。
「風はたき火の炎にざっくりと鎌を入れ」
「風は草地のあいだに櫛を通し」
「猫のしっぽをした穂が、水面に花粉で黄色い指紋をつけた」
「火花と共に、二人の真実と嘘とが舞い上がった」
「家屋はみな雑草に埋もれ、うつろな目をして座りこみ」
「雪のようにつめたい声」
「天使は大の字になり翼をたたんだ」

 地の文に()で注釈が入ると読みにくい。リズムが乱れ、話が途切れる。かといって説明なしでは円滑に進めない箇所もあった。訳本ならではのもどかしさ。光文社新訳のスタイルに慣れてしまったからなおさらだろうか。

<フリートーク
B:現代は発言に注意しなくてはならない。夫婦別姓同性婚に反対する人は間違っているという風潮があるが、それらは「間違い」ではなく「別の意見」。マスコミも過剰に騒いで、少数者への差別だとしてしまっている部分がある。だから小説というかたちで提示しないと発言できない。
D:ネットの世界でも、しょうもないことを言ったらボコボコにされるから、皆ナーバスになっていますね。社会全体がピリピリしている。
Bさん。アルマの、イニスとジャックへの感情は嫉妬と嫌悪感どちらか……と仰ってましたよね。(映画で)アルマは「男同士で汚らわしい」みたいな表情をしてなかった?
B:映画は製作者の考えが反映される。この映画ではどちらにもとれるが、嫉妬に偏ってるなと思った。嫉妬としたほうが映画は作りやすいし、万人受けする。大衆にウケる映画づくりがあったのでは。
D:ラリーン(演:アン・ハサウェイ)もアルマ(演:ミシェル・ウィリアムズ)も乳房を出していてびっくりした。乳房に象徴される女性性をすごく感じた。男同士の恋愛と、男女の恋愛は違う、という表現。
B:「これが男と女だ」という。その違いはここにあるんだよ、って。慣れっこになってるから見過ごしているけれど。
D:有名女優のアン・ハサウェイが脱ぐのにびっくりした。迫力があって。
イニスとジャックが裸で崖の上から飛び降りるシーンでは純愛を感じて、女性の乳房には不純を感じた。孕んでしまうじゃないの、って。孕むのが不純ではないけれど……。
B:これ、「体の関係を忘れられない」とも取れる。山の上での経験が忘れられない。純愛として忘れられないというものあるかもしれないけど、一度覚えてしまった快楽を忘れられないとも読める。読む人次第。私は純愛とは読まなかった。もたもたしてるな、って。
D:私は深い体の関係から生まれる純愛を信じている。本気で肉体関係を持てば愛が立ちのぼる、という信奉者(笑)。
B:それは主体的な考え方。人間はどうしようもなく物質的な存在。Eさんが仰ったように、(化学物質など)外からの影響もあるかも。でも今の風潮は「多様性」の尊重。それでは逆差別になるのでは。大きな問題提起をしていると思う。
D:Cさんも私もBLが好きなんですよ。差別じゃなく。「BL好きって、けったいな女の子やな」って思ってたんだけど(笑)、半年前に『おっさんずラブ』(2016年、テレビ朝日系列)を観たら急にハマって。
E:私は逆。『ブロークバック・マウンテン』を観て、一切差別がなくなった。体はホルモンに影響されて、ホルモンに左右されるから。(個人の性的指向について)人が言うことじゃない。
B:理屈ではそうでも、もし自分の子どもが同性愛者だった場合、受け入れられるのだろうか。部落差別にしても、自分の子どもが被差別部落の人と結婚したと言ったらこうなる。
E:今、戦争してますよね。何ができるのか考えたとき、周りの人に優しくするしかできないと思って。寄付とかはできるけど……。身内に優しくすることしかできない。
もし子どもが被差別部落の人と生活することになっても、私は差別しちゃいけないなと思った。
B:それは正常だし、(映画を観て)そうなる人にいてほしい。それが作品の存在価値だから。でも、いざとなったとき、どうするか。そこまで作品は面倒を見てくれない。人間は論理的動物じゃなく感情的動物だから。「原発を近所に作ります」と言ったら反対する人が多い。それをいけないというつもりもない。難しい。
E:そこに芸術の重要性がある。
B:これを読んで、そういう気持ちになるところまではいい。
A:今の論点は差別ですか。私もBLや少年ものが好きだがファンタジーとして見ている。この作品のように生々しく書かれると抵抗はあった。(BLや少年ものが)性的消費じゃないかという議論もある。距離感が大事かな。
C:私もBL小説を書くので、性的消費ではないかということに悩んでいて。ゲイの中にもBLが好きな人もいるようだし難しい。私はバイセクシャルの友人が結構多いんですが、その中にもBLや百合を好きな人がいる。どこまでが性的消費なんだろう。男女の過激な描写も性的消費になるのでは、とも思うし。
D:目先の快楽を追い求めずに、原始的な美しさがあったら性的消費ではないのではないかな。
私はエロティシズムを書いてもエロくないって言われる。やっぱり人によって性的指向とかエロティシズムは全然違う。
B:(創作物に対する)経験値ですよ。どの程度慣れているか。頑固な人は考えを変えようとしない。世間一般がどう評価するかとは別に。
私は、手塚治虫リボンの騎士』や江口寿史『ストップ!! ひばりくん!』が好きだったので、好き嫌いで言えば受け入れないタイプでもない。
リボンの騎士』の主人公は、男の心と女の心、どちらも持っている。跡を継げるのは男だけなので王子になったけれど、喜んでなっているのか、仕方なくなっているのか。男の心も持っているなら喜んでいるかもしれないけれど。手塚治虫の意図はわからないが。

『ハンニバル戦争』佐藤賢一(中公文庫)

Zoom読書会 2022.07.31
【テキスト】『ハンニバル戦争』佐藤賢一(中公文庫)
【参加人数】出席4名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者E)>
歴史小説といえば日本の戦国時代を思い浮かべる人も多いと思うが、西洋が舞台の作品もあり、また違った楽しみ方ができるかと思い推薦させていただいた。
◆ローマ時代の名前は日本人にとって馴染みが薄く、父親と同じ名前をつける風習もあり(日本でも歌舞伎や老舗企業の後継者などで襲名があるけれど)、ややこしく感じる。それに慣れたら読みやすくなるかな。ロシア文学よりはややこしくない。
◆地名もややこしい。巻頭の地図にバエクラ等が載っておらず、塩野七生ローマ人の物語』についている地図を見ながら読んだ。ただ、「カンナエ」が「カンネー」であるなど読み方が違う。その辺りに苦労するが、一通り頭に入ったら読みやすいのでは。

<参加者A(提出の感想)>
 古代地中海を舞台にした歴史小説。あるいは心おどる教養小説。課題本として提示された当初、正直いって困惑した。第一印象が「むずかしそう」だったから。高校を出ていないぼくに西洋史の知識は皆無。ハンニバルと聞いたらレクター博士羊たちの沈黙)しか思い浮かばなかった。その後ろめたさと、腹を割れば興味のない分野だったことも相まって、抵抗を抱きつつ本を入手。
 ところが、いざ読みはじめてみたら止まらない。長編なのに数日で終わってしまった。司馬遼太郎に夢中になった十代のころを思い出す。歴史小説というよりも教養小説として読みふける。歴史小説の熟読者向け、というよりは、学生や若者向けとの印象が強い文体、そして構成も円滑な読書の助けとなった。(擬音の多用にはやや苦笑)
 何より魅力的だったのはハンニバルという男。彼に惹かれてぐいぐいページをめくった。原則的に表舞台には出てこないのに、その求心力というか牽引力はすさまじかった。少なくとも第一部はずっと彼を応援していた。(「アルプス越え」がファンになった契機だろう。牛に火をつけて攪乱したシーンは鳥肌が立った)
 それに対して、ローマ方はとうとう最後まで好きになることができなかった。大国としてのおごり、虚栄、逸り、選挙目的の坊ちゃまたちで構成された騎兵、兵たちのモチベーションの低さ、指導者たちの権力欲、共和制という不自然さ……二人のトップ・一日交代の指揮・根強い反目……、組織としてのだらしなさ、元老院の頭でっかち、民衆たちのおろかさ、そして解説にあったカトーの嫉妬。ローマとハンニバルカルタゴではない)あるいはスキピオ――保守と革新の色合いが寓話的に鮮明に描き出された今作は、西洋史やそもそも歴史に興味がないものでも十分に楽しめる一冊だと思う。
 小説は冒頭が命というが、この作品は巧みな入り方をしているように感じた。暗い分野であったため、かなり身構えて読みはじめると、なんのことはない、若者らしい失態がコミカルに描かれている。歴史小説の冒頭ということで、どうせ当時の情勢や価値観をしばらくだらだら講釈するのだろうと勝手に想像していたから驚いた。もちろんそのあと、舞台背景の解説に入っていくが、分かりやすいことばで簡潔にまとめてあったから親しみやすかった。冒頭のみならず、全体的に「先に物語を動かしてから状況や設定を説明する」との小説の鉄則が貫き通されていると感じられ姿勢を正す思いだった。また、各エピソードがじつにいい塩梅の長さと濃度で構成されていたことは印象深い。勢いよく、たんたんと進んでいくため、物語自体の動きも早い。読み手の心が離れていかないよう、きめ細やかな配慮が行き届いているように感じられた。緊張した場面とくだけた場面の使い分けもうまいと思う。また、登場人物たちの関係や各勢力の構図、その目的、地形、戦術、陣形、兵士たちの心理分析、当時の世俗・社会システム・文化事情の解説はどれも簡潔で分かりやすく、西洋史に持っていた暗く重たいイメージがこの一冊でずいぶん変わった。
 若さゆえ、あるいは貴族ゆえの浅薄さ・軽率さが目立ったスキピオが絶望と挫折を糧に上昇曲線を描いていくさまには胸を打たれた。やがてハンニバルにさえ比肩するような智将にまで成長する彼だが、伏線としてか、頭脳の明晰さ、そして戦闘中でも思惟にふけってしまうようなマイペースさというか豪胆さが描かれていて用意がいいと思った。「敵に学ぶ」という彼のスタイル、あるいは生き方は人生の普遍的な知恵を提供してくれているように思う。(たしか『覇王の家』だったと思うが、司馬さんの本に「まなぶ」の語源は「まねる」とあった記憶)みずからを凡夫と知ることが成長のはじまりであったことも印象深い。徹底した情報収集、地形利用、人心掌握、練りに練り上げた戦術、ゆたかな空想、柔軟性、決断力、実行力、運、そして「神」というものの使い方(無名の若者であるゆえに)社会という戦場で生き残っていくための輝かしい知恵に思わずうなる。
 ただひとつ心残りだったのはラスト。模倣しつづけたハンニバルとの直接対決は、敵方にまさかの情がはたらいたところで終幕するが、これが歴史小説でなかったら、スキピオ自身の個性をなんらかのかたちで表現してほしかった。倒すべき敵に学ぶ、という主題を寓話的に昇華するなら、最後は主人公の人生観を反映させたひらめきで飾って欲しかったと思う。逆にいえば、「包囲殲滅作戦」の完成に最後まで執着する主人公には心のゆとりが感じられない。創造性や「たのしむ」という姿勢が欠けているように思われる。それではオリジナルを越えることは難しいのではないかと思う。もっとも、物語本編としてそこは求められていないと思うが。(仮病で裏切り者を吊り上げる、スパイに偽りの戦陣を見せてから帰す、などはおもしろかった)
 寓話的といえば、イタリアという国を「からだ」とし、ハンニバルという男を「ウィルス」とみると、ワクチンとしてのスキピオは意味深いと思う。内側から力づくで追い出そうとするのではなく、ウィルスが元いた場所に帰っていかざるを得ない状況を作り出す。
 また、昨今ニュースでよく取り上げられている戦地の状況を、時代が大幅にちがうとはいえ、ほんの一部でも仮想体験できたことも感銘深かった。七万人の死体が転がっていたというカンナエの凄惨な画が、現実のものとならないことを願うばかり……。
 戦争までいかなくても、近い場所にふたつの勢力・ふたりの人間がいたならば、対立や衝突は免れないことだろう。そのどちらにも正義はあるし悪もあって一方だけをひとつの名前で断定することほど愚かなことはないと思う。(インドの神さまはイランでは悪魔と呼ばれ、イランではまた逆になる……)世や大衆の無情や無常観をなげき、「ただ歴史に残っただけだ」とつぶやいたラストのスキピオは印象的。
 さいごに、この物語を影から動かしていたもうひとりの男・ラエリウスには心から敬意を送りたい。彼は心理学でいうところの影の役割をつとめているに思われる。表舞台にはほぼ出てこないハンニバルと忠僕ラエリウス。スキピオという華々しい主演俳優と、ふたりの寡黙な演出家の対照は構成としてのみならず寓意としてとてもあざやか。暗かった分野にあたたかなひかりを灯してくれた一冊だった。

<参加者B>
◆私は古代の世界史はまったく詳しくないが、歴史を知らなくてよかったと初めて思った。大河ドラマなども史実を知らないほうが楽しめるのではないだろうか。
◆前半(第一部)では、主人公・スキピオが翻弄されているのがもどかしかったけれど、それが後半(第二部)で効いている。
◆ただ、スキピオの政治的センスについて第一部で触れてほしかった。政治家タイプであると、第二部で唐突に出てきた感じがしたので、それまでにその片鱗を見せておいてほしい。地理が得意であること、記憶力がいいことなどはきちんと書いてある。
◆ただスキピオが勝って終わるのではなく、ハンニバルの在り方、去り方、そして(人生の)幕の引き方までがスキピオに感銘を与えている。最大の敵が最大の推しになっているんだなと思った。
ハンニバルは読者にとっても魅力的。戦いに負けることになっても肉親を助けに来るところなどに惹かれる。この作品はスキピオの成長物語だけれど、影の主役はハンニバルだと感じた。
ファビウスの使い方が巧い。(読者から見て)前半は有能でわかっている人、後半はスキピオの前に立ちはだかる役割。ファビウス自身は変わっていないのに、スキピオの立場が変化することでそうなるのがいいと思った。
◆妻であるアエミリア・パウラと買い物に行ったときなどに登場する街の様子が好き。個人的に、戦争より、その土地で暮らす人たちの生き生きとした描写に惹かれる。
◆戦争のシーンでも、景色の描写がおざなりになっていないところがプロだと感じた。
◆文章に関して、Aさんは擬音の多用を挙げられていたけれど、私が気になったのは、予想外の事態に直面したスキピオの「…………?」という反応。使用回数が多いなと思った。
◆その他、作品を読んで考えたこと。ローマの、暴君を嫌うというスタンスはいいと思ったけど、それでも元老院が好き勝手できてしまうんだとわかった。現代日本のシステムもある面でよくできているが、その一方でいろいろできてしまうところがある。いつの時代も人は変わらない。

<参加者C>
◆読みやすかった。プロットも明瞭でいい小説。ただ、同じ著者の『傭兵ピエール』『双頭の鷲』が好きだったので、自分のハードルを越えていない。他の作品は二重三重のどんでん返しがあって終わったとき感動するのに比べ、普通の歴史小説という印象。あまり語りたくなる感じがしない。ローストビーフ丼みたいに、美味で華やかだけど、それだけで満足するような。
◆私も塩野七生の作品を読んだことがあり、流れを知っているが、知らずに読んだほうが面白いと思う。
◆(作中の)ローマの独裁を許さないスタイルが好き。カルタゴはどんな国か、いまひとつ見えてこない。スキピオ視点だから仕方ないが。
◆普通に面白い作品だった。

<参加者D>
◆戦いのシーンが入ってこなくて読むのに大変苦労した。なので、大したことは言えない。
(妻であるアエミリア・パウラが出てくるシーンは読めた)
◆エピローグの、スキピオの独白のようなところで、ハンニバルにとって、スキピオにとって戦争はどうだったか、「ただ歴史に残っただけだ」にとても感動した。私たちは平和教育で戦争は役に立たないとインプットされているので。
ハンニバルは毒をあおって、スキピオも失脚。義経を思い出した。やはり戦に長けた人は失脚させられるのかと。

<参加者E(推薦者)>
◆「ハンニバル戦争」だから戦争の話。家庭的な話は付け足し。忘れてはいないよ、というような。戦争だけだと読者がついてこないから。
◆Dさんが仰られたようにスキピオ義経(のような存在)。でも、主人公にスーパースターを持ってくるのは面白くないので等身大の人物として描いている。最近の小説では、主人公を「すごい人」にしない。例えば秀吉でも等身大の主人公だったりする。
ハンニバルだとすごい人になってしまうのでスキピオのほうが書きやすい。
でも、本来スキピオは凡人でなく英雄。古代から現代にかけて強い将軍を挙げろと言われたら、ハンニバルとともにスキピオは必ず入る。それを坊っちゃんみたいに書いているから違和感がある。
義経みたいに描けばよかったのでは。軍事の天才だけど不器用なところもあって、そこに人間性を付加していく感じで。
ハンニバルスキピオの目標であり、作品の象徴。小説の構成として参考になる。
◆包囲殲滅にこだわりすぎ(それも小説のプロットではあるが)。勝てたのに殲滅できないことにこだわるのは、本当ならありえない。そのために負けたら意味がないので。そのあたりがゲーム感覚だと感じる。
ちなみに塩野七生の作品では、そこまで包囲殲滅にこだわっていない。
ハンニバルの弟・ハスドルバル・バルカと戦ったバエクラの戦い。塩野七生も書いているが、結果として包囲殲滅のような作戦が行われた。
スキピオ最大の失敗は、ここでハスドルバル・バルカを逃がし、イタリアへの行軍を許してしまったこと。不戦主義のファビウスにまるで背いている。イベリアからの補給を経つためにスキピオの父と伯父を張り付けておいたのに、イタリアに攻め込ませてしまった。これがファビウスの怒りのもと。元老院スキピオに異を唱えるのは、この件がしこりになっていたから。その辺りがもう少し書かれていたら面白い展開にできたと思う。
◆この作品では、ハンニバルを超えるためには包囲殲滅作戦をマスターしなければ、とされているが、実際は(作戦には)こだわっていなかったはず。
ヌミディアの騎兵が登場したので、アフリカに騎馬民族がいたのか調べてみたところ、地中海沿岸の牧草地は馬の産地だそうだ。その辺りも詳しく書いていたら、さらに面白かったのでは。
◆私は他から調べた知識で読んだ部分が多かったが、小説の中で巧く書いてほしかった。著者は西洋史の専門家だから、読者も知っていて当然と思って小説に書かなかったのか(ポエニ戦争については、高校の歴史の教科書を読んだほうがわかりやすい)若干物足りない。ただ、あまり書きすぎると説明的になるから兼ね合いが難しいが。
ファビウスの不戦戦術はウィズコロナみたい。スキピオはゼロコロナ。いつの時代も同じような考えの人がいるのだと感じた。
◆書く者として学ぶところがある作品だと思う。

<フリートーク
【キャラクターの造形について】
D:Eさん、どんなところが参考になりましたか?
E:歴史小説には、歴史的事実そのものの面白さがある。例えば一ノ谷の戦いは誰が書いても面白い。上手い作家が書いても、下手な人が書いても。
しかし、最近主流の小難しい小説の書き方だと躍動感が出ない。
一ノ谷の戦い長篠の戦い、秀吉の中国大返し赤壁の闘いのような、心躍る、胸のすくような読み方をしたかったが、希望は叶えられないとわかっていた。直木賞作家が胸躍る話を書くことはないと思うので。
D:Bさんは「面白かった」と仰っていましたね。
B:結末を知らなくて(笑)。どっちが勝つんだろう、誰か死ぬのかな、ってはらはらしました。
E:それでは二度目は、犯人がわかったミステリーみたいで面白くないはず。何度読んでも面白い作品でなければ。
D:大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は群像劇で、それぞれのキャラクターが立ち上がっているから面白い。歴史に興味がない私でも観れる。『ハンニバル戦争』でも、もっとキャラクターを書いてほしかった。Cさんは登場人物に感情移入できましたか?
C:スキピオは逆境をはね除け、成長するという明確なキャラクターでわかりやすい。
E:佐藤賢一の造形がヒットしない人にとっては、キャラクターがふわふわしていると思う。冒頭、馬鹿息子みたいに登場するが、後半の元老院を説得するところは格好良く描いている。がらっと変わるところで両面性があると感じられて面白い。スキピオが、ハンニバルの意図がわからず悩むところもよい。キャラクターはよくできている。感情移入までできるかはわからないが。

【日本や他の国に伝わる話との相似】
D:世界史は習ったので地名や名前は馴染みがあった。
B:私は古代の地名がわからずふわふわしたまま読んでました(笑)。
C:どこかわからないとファンタジー世界みたいに感じそうですね。
E:私は、古代ローマ好きの世界史の先生が陣形まで教えてくれて。図表で、騎兵がこう動いて……みたいに段階を追って説明してくれた。それがそのまま書いてあるから読みやすかった。「そんな話だったな」と。戦術が詳しく書かれている小説はあまりないので、そういった意味で面白かった。
C:カルタゴで潮の満ち引きを利用する部分は、日本史でも同じような話を聞いたことがあるから著者の創作かと思ったのだが、塩野版にもある。日本に伝わっているのは、新田義貞が海に太刀を投げ込むと潮が引いた、というもの。似ていて面白いと思った。古代ローマの話が日本に入ってきて、それが元になったのかもしれないけれど。
D:聖書でもモーセが海を割っている。
E:もしかすると潮が引いて渡れるところができたことを指しているのかも。
風向きの変化を利用するのは、『三国志』にも似たような話がある。
古代ローマの話に戻るけれど、渡れるくらいの干潟となると、新カルタゴ側が気づくのではないだろうか。干潟が現れるのは毎日のことなのに。
C:スキピオ義経に例える話が出ましたよね。でも(この作品では)スキピオより、ハンニバルのほうが義経と近い天才タイプ。だから、平家方の誰かが義経に対抗しようとすると(この作品の)スキピオみたいな感じになるのでは。平家は負けてますけど。

ハンニバルスキピオの描き方】
E:私は昔からスキピオのほうが好きだった。高校の授業のとき、「こいつ格好いいな」と思った。悩みながらハンニバルを超えていこうとする成長物語。
D:この書き方のほうがハンニバルを英雄的に書ける。
E:映画『ベン・ハー』ではキリストが出てくるけど顔は映らない。この『ハンニバル戦争』のハンニバルもこのような扱い方。
D:ローマでハンニバルが槍を投げる場面は感動した。
E:後半の会見で姿を現してしまった。あんな理屈で何万人も殺すだろうか。議論のための議論にしか見えなかった。
C:作中で、軍事は天才でも普通というエクスキューズがあった。
E:大軍隊を温存して甥を助けたのは不自然。当時の人間は、家族より国が大切なのでは。これ以上、肉親を失いたくないから助けたというのは違和感がある。弟たちを失ったからこそ、犠牲を無駄にしないために勝とうとするのではないか。
C:私も、無理やりハンニバルをピンチにしているのかなと思った。あそこでハンニバルが逃げていても勝敗は決しているので。ザマの戦いがいまいち映えておらず、盛り上がりに欠けたと感じる。
E:カンナエでローマ軍が包囲殲滅されるところは不気味でよかった。こういう状況だったのかと。塩野七生はここまで書き込んでいなかった。ただ囲まれただけかと思っていたら、息をすることすらままならないほどの状態だったとは。
C:ザマの包囲殲滅までねちっこく描写するとスキピオの印象が悪くなりそうですね。
E:どこに伏兵がいたのかわからないまま前半(第一部)が終わる。後半(第二部)、スキピオの分析で答えが出てくる。答え合わせみたいな、巧い構成だと思った。そこまでついてくる読者がいれば、だけど。
C:あれはよかった。勝ち始める理由が示されていて。
E:スキピオはちゃんと別の形で分析を活かしていて納得させられる。そこまで読み取れる読者はどの程度いるのだろう。
C:ヌミディアに手を出した辺り、スキピオの政治家ぶりが出ていましたね。敵将であるギスコと一緒に椅子に座るところが面白かった。そこでハンニバルを出すとしたらサービスしすぎかな(笑)。
E:ハンニバルがイタリアから出ると話が終わるから(笑)。

C:作中のスキピオは、将軍としてハンニバルを超えた感じはしない。
E:現実では(戦術で)超えたと思う。そのまま模倣したのではなく、スキピオのアイディアがあった。この作品では敢えてその部分を外したのか。書いてしまうと凡庸ではなくなってしまうから。
C:最後まで「若き挑戦者」ですね。私は、最後は超えてもよかったと思う。そうでないと、ローマの国力がカルタゴより強かったから勝てた、ということになるから。

【もっと活躍してほしかった人物や国】
E:登場人物のモデルを考えたら面白い。ラエリウスは直江兼続とかを思いつく。その辺りを巧く使っている。
C:ラエリウスは個人としての性根が見えないので、私の中では影が薄い。
E:例えば直江兼続は「愛の武将」と呼ばれているけれど、兜に掲げた「愛」は、現代人が想像する「愛」ではなく、愛染明王の「愛」。でも現代の作家は、現代人の「愛」として使ってしまう。そう解釈するとホームドラマにしやすいから。現代で定着しているイメージは本来の直江兼続ではない。
C:スキピオとラエリウスはBL的にも読めそうな……?
B:スキピオの足りない部分をラエリウスが補っているように感じた。Aさんが感想の中で仰っていた「影」的な。都合がよすぎて、作られたキャラクターみたいに思えてしまった。
C:艦隊を率い始めてからキャラとして薄くなりましたね。
E:あと、マシニッサとか、西ヌミディアの王・シュファクスも、もっと書いてほしかった。民族の名前も似ていてややこしいけれど。
C:ヌミディアではスキピオの権限がないところが書かれていて面白かった。
E:ヌミディアがもっと力を発揮してもよかったかも。ヌミディアの騎兵隊は撹乱に強くても馬から下りたら弱いので、戦力としてはわからないけれど。
C:アラブにはパルティア騎士がいたから無双はできなさそう。
E:当時は鐙とかないですよね。
C:だから馬に乗れるだけでもすごい。貴族しか騎兵になれないのはそのため。
E:鐙っていつからあるのかな。
C:鎌倉時代にはある印象ですね。調べよう。……最古のものは302年のようです。欧州だと7世紀。ということはローマが滅びるまで裸馬かな。
今とは違う地中海世界なんでしょうね。
E:顔も違うだろうし。カディスの対岸がモロッコ。ザマはチュニス
C:リュビア人がリビア人かな。意外と近い。
E:北アフリカとスペインは行き来があった。チュニスがアラブ海賊の港になっていたり。ジブラルタル海峡とか泳いで渡れそう。
D:今はフェリーが行き来している。
C:あの辺りは今も要衝ですね。

【後の歴史への影響】
C:ハンニバル、なんでアルプスを越えたんだろう。海路のほうが楽そうなのに。
E:そうしたら敵に出会うし。
C:(海路の)マルセイユ→ニース→ジェノバ……のほうが楽そう。アルプス越えでも軍隊が消えるんだったら1回戦っても変わらないのでは。
あんなに減るとは思わなかったのかな。当然、やったのは初めてだろうし。
E:当時、兵隊を人とは思っていなかったのがよくわかる。
D:傭兵はお金のためだろうけど、他の兵隊は愛国心で戦っている?
E:(ザマの戦いで)カルタゴ軍が逃げる者を殺していたように、現代とは発想が違うのでは。
C:ローマは戦意が高かったんじゃないかな。
E:執政官のうち1人は貴族、1人は平民。貴族の騎兵は弱い。そこから平民が力をつけてきた。
共和政が上手くいっていたのはこのころまで。カルタゴが衰えると敵がいなくなり、敵がいなくなると内部抗争――共食いが始まる。ポエニ戦争に勝ってしまったことが、後のカエサルなどに繋がると思ったら面白い。

『高丘親王航海記』澁澤龍彥(文春文庫)

Zoom読書会 2022.06.26
【テキスト】『高丘親王航海記』澁澤龍彥(文春文庫)
【参加人数】出席4名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者E)>
以前持っていた文庫本の字が小さくて、読めなくなったから新版を買い直した。
古い版の小さい字が読めたくらい昔(十数年前)に一回読んだだけなのに、情景が自分の中に残っている。文章は忘れているけれど、描かれた情景が十何年も色褪せずに残っているのがすごいと思い推薦した。

<参加者A>
◆読み始める前は高丘親王についての知識がなく、航海記というタイトルとカバー絵から、若い皇子が冒険するのかと思っていたので、67歳の主人公で驚いた。しかし親王は若々しく好奇心旺盛、よく笑う温厚なキャラクターでとても好感が持てた。病に倒れて死ぬ間際までそれが変わらず、一貫して天竺を目指し続けているのがよかった。
◆基本的に親王に害をなす人物が出てこない。航海記だが、親王の内面的な話であると思った。しかし、私としては、真臘(カンボジャ)や盤盤、南詔国といった国々に連れて行ってもらって、また、幻想的な光景を見せてもらって、とにかく楽しかった。だからこの作品を本当の意味で理解できていないと感じる。ただ、親王のような生き方・死に方をしたい。
◆あとがきで高橋克彦が「若い人たちにどれだけ理解されるだろうか……」と書いていたのと、感想を検索していて「(この本は)終活本」という言葉を見つけたのもあって、もうちょっと年をとってから読み返してみたい。
◆書き方も面白い。P15で「エンサイクロぺティック」という言葉が出てきて、現代語をふんだんに使うのだなと了解した。P38、「大蟻食いという生きものは、いまから約六百年後、コロンブスの船が行きついた新大陸とやらで初めて発見されるべき生きものです。」という台詞を登場人物に言わせていて、すごく面白かった。メタ的というか(作中で言うアナクロニズム)。
◆大抵の場合、一生懸命読んでいって夢オチだったら怒るけれど、この作品は許せる。夢と現実が地続きになっているからだろうか。むしろ、親王が目覚めるシーンがなかったら「夢じゃないのか?」と困惑した(笑)。
◆秋丸と春丸のエピソードが好き。輪廻転生を表しているのだろうか。秋丸と春丸は、人とは少し違う存在なのかもしれない。本人たちも無自覚だが、不思議な鳥の化身であるとか。火の鳥など、甦る鳥の話は世界にある。
◆物語をずっと貫いているのは薬子。とても印象的。親王にとってのファム・ファタールか。

<参加者B>
◆好きな感じの作品。
◆ちょうど(自分の)新作で扱っていた世界に近く、あと1ヵ月早く読みたかった。
◆奇譚。ストーリーテリングというより、文体、教養、センス・オブ・ワンダーに引っ張られながら読める。
◆半分は夢の話。夢の世界に行って帰る。しかし、夢だったはずの盤盤のパタリヤ・パタタ姫が現実(?)に登場し、親王に死に方を示唆してくれる。夢と現を分けられない作品で、そこが気持ちいい。
◆テーマは「国を出ること」「旅すること」だろうか。空海和上が「あなたは渡天の旅をする」と言っていたように。旅をする動機については、わかったようなわからないような感じだが。
◆ざっくり面白かった。

<参加者C>
◆高丘親王の兄にあたる阿保親王墓所とされる古墳が芦屋市にある(※阿保親王塚古墳。本来の被葬者は不明)。なお、阿保親王在原業平の父である。
隣町に関わりのある人なので名前だけは知っている。
薬子の変を扱う歴史小説で高丘親王を主人公として書けないか調べたことがあるが、67歳で広州から天竺へ向かった資料しかなかった。あの辺りの歴史は面白いので書きたかった。幻想的ではない普通の歴史小説を、だが。
◆『高丘親王航海記』は、話には聞いていたが読んだことはなかった。こんな面白い話だったのかとわかってよかった。
◆夢と現実、過去と未来が同じ平面で語られている。マルコ・ポーロコロンブスが出てきても何の違和感もなく読めて不思議。
◆背景に書かれているのが仏教的な輪廻転生。私たちが普段から慣れている仏教の考え方。そのような頭で読めば違和感がない。
前回、読書会で取り上げた森見登美彦『熱帯』も、この作品も、狙っているのは同じようなところではないか。アプローチが似ている(『熱帯』は私にとって違和感があったが)。読者がどこまでついていけるのか試されている。
◆意味ありげなことが書いてある。深掘りしたくなるが、深掘りして考えたことが正しいか、果たして疑問。どれだけ深く掘り下げても、いろいろな見方ができることにしかならないのでは。
◆『西遊記』などのように、面白おかしく読める、で充分では。考えると迷い込む。もっと素直に読んでもいいと思う。
◆面白かったのは薬子の「卵生したい」。1979年、女優の秋吉久美子が結婚会見で「(子どもを)卵で生みたい」と言ったのを思い出した。
A:私はパタリヤ・パタタ姫で『パタリロ!』を思い出しました(笑)。パタリロも島国の王様だし。どうもパタリロのほうが前からあったみたいなんですが。

<参加者D(推薦者)>
◆Cさんが仰るように、深く考える作品というより、読むに任せて雰囲気を味わうものだろうと思った。私は、深読みが必要な純文学や、ガジェットや伏線がある小説は読み解けないので、幻想的な小説のほうが読みやすい。
◆澁澤龍彥はやはり変わっていると思った。マルキ・ド・サドを紹介したり、髑髏などをコレクションしたり、趣味的にもすごく変わっている。そういう、独特の世界観を持っているのだろう。
◆『高丘親王航海記』は、15年前からしばらく参加していた読書会で教えてもらった。読書が好きでたまらないという読み手が集まるレベルの高い読書会だった。そこで、「澁澤龍彥は自分の描写力に絶対的な自信を持っている(自分のイメージを客観的に書き写すことができる)」と聞いたのが印象に残っている。
◆描写力ももちろんだが、私が感銘を受けたのは文章力。私にとって昭和60年代は最近。最近なのに、漢文的な古語のような特殊な文章なのがいい。(この中で)若いAさん、読めた?
A:いくつか単語は調べましたが、文章自体はすんなりと入ってきました。
◆知性あふれる品位ある文章。平易な文章の中にそのまま入れたら変だけど、噛み砕いてから自分の作品に入れたら面白いと思う。

<参加者E(提出の感想)>
〈全体について〉
 異界旅行記、あるいはユートピア物語。現実と夢が織りなす怪奇幻想ファンタジーとも呼べるだろうか。想像力を心地よく刺激する作品。ぬるま湯につかったまま浅い夢をみているような気分だった。世界観、描写、語り手の立ち位置、どれもが好み。文章表現の多彩さ、豊富さにもうっとりした。作者の語り口には独特のリズム感があって好き。
 年代記という堅苦しい外枠と、カオスで粘弾質な中身のアンバランスさもたまらない。仏教思想というか東洋思想を背景にした「死と再生」、そして観念的にじわじわ迫る「美とエロス」の表現もすばらしかった。仏道帰依者を主人公に立てながら、甘美で濃密なエロスを、あくまでも「かすかにおいたたせる」レベルで演出してくる作者の意図と表情を想像して笑う。文学作品だなあと思う。
 主人公が初老の男で、航海が思い通りに進まないことから『オデュッセイア』を連想。時代が日本という「国家」の黎明期に近いこともその印象を持った理由かもしれない。ポセイドンの怒りを買ったオデュッセウスの漂流は男性的で直線的という印象だったが、このお話は同じ「漂流」物語でも女性的で円環的との印象を受けた。
 澁澤龍彦の小説は初。彼が紹介してくれる本はマニエリスム(不自然な人工美)のイメージが強かったが、この作品は水や月、蝶やオウム、孔雀などの自然美が印象的でおもしろかった。あいまい、受容、未分化、母なるもの……東洋を濃く感じた。
 作者自身の感情はあまり感じなかった。ただ、好きな世界を好きなように描いた、という印象。「境界」の視点、とも呼べるかもしれない。作者はたぶん、否定されようが肯定されようがどちらでも構わないんじゃないかと思った。(ただの妄想) 

〈ラストについて〉
 理想郷=ユートピア=「どこにもない場所」であるから「どこにでもある」と解釈可能なラストはとてもいい。人生の知恵として救いがあるように思う。カルヴィーノの『見えない都市』(引きこもって妄想旅行)もいいけれど、目的へむかって実際的に行動した後の、どこか道半ば的な「渡天」もすてき。胸に響く。(もっとも、天竺にたどり着けたかは不明)行動を起こしたうえで散るのならそれも本望、そして美かなと。
 そもそも、ラストに主人公が「不在」というのがおもしろい。(正確には「骨」で登場)親王の「肉血」は虎が、「たましい」はカリョウビンガ(鳥女)が天竺=理想郷まで運ぶ、というこの展開は寓意的解釈がゆたかだと思う。
(そういえばキィアイテム「真珠」は魚人の涙。海(下方)――地(平行)――天(上方)という、三方向への力の傾きがひそかに関係している点も胸がおどる)
「乙女の昇天」のモチーフもよかった。中性的かつ境界的な存在である春丸(秋丸)ならではの巧みな配役。『百年の孤独』のレメディオスとちがい、半獣化して昇天するところに懐深い混沌――アニミズムや動物的なにおいを感じた。それからエロスも。 秋丸・春丸両者が親王に強い想いを抱いていた節が随所にみられるところも興味深い点。彼とふたりの「昇天」は、精神的な「結合」を表しているのかもしれない。
 また、「カリョウの声を聴いたのだから、天竺についたも同然」といった同行者ふたりは男性脳的な正当化がうかがえて哀れ。同じ巡礼仲間でも、「昇天」と「在俗」を分けたのは「蜜人」の砂漠だったのかもしれない。あの砂漠は性欲と不浄(とりわけ仏法者の肉体的な死)が深く関係している。もしかしたら、親王と春丸はそこでいったん死んだあと、幽体して生き返ったのではないかと勝手に妄想。「すれちがい」もそれで説明がつくのではないだろうか。(鏡の国は彼岸の一種だったかもしれない)

〈輪廻転生――秋丸・春丸・薬子について〉
 秋丸と春丸。鏡なのか陰陽なのか、対極するようでじつは同一であるこのふたりもまたさまざまな解釈ができると思う。冠された名前はどちらも「境界」「つなぐもの」「あいまい」を連想する季節。個というものに大した意味はなく、たましいとしての連続性こそ生物というか命の本懐であると示唆しているような気がする。古代インド思想を強く反映しているようで好き。「秋丸」がもともと「死んだ男」の名前だったところも空想がふくらむ。
 薬子というキャラクターはさらに魅力的だった。しょせんは親王の妄想、錯覚――、仏教徒として受けてきた暗示のためなのかもしれないが、作中あちこちに立ち現れる彼女の「幻影」はおもしろい。
 親王一行は原則仏の徒であり、そもそも物語自体が巡礼の旅なのだから、性欲の対象としての女性美は表立って強調されない。けれども各所に女の幻影がちらついている。多くの場合、それは薬子を連想させるものばかり。彼女はまさに「女」だが親王にとっては同時に「母」と呼べるひとだと思う。であるから親王の彼女に対する胸の内はひどく入り組んでいるように感じられ、それはオイディプスに近いんじゃないかと思う。
親王は、初老というより青年――プエル・エテルヌス(永遠の少年)のイメージが強い)
 作中のエロス表現の対象がすべて一般的な肉体美や情欲を基にしたものではなく、半獣人や屍体から発せられたものであるのは、「母という女」に強い感情を抱きつづける主人公の、いたく難解な精神構造が関係している結果、とも考えることができるかもしれない。 
 そんな親王の「女性観」を、もっとも象徴的にあらわしているのがカリョウビンガじゃないかと思う。(物語としても重要な役割を担っているが)カリョウは人頭鳥身の半獣半人。「美女の顔」と「豊満な肉体」を持っているが下半身は鳥。(下半身、というところがまたおもしろい)人間と鳥の境界的な存在だが、そのどちらにも属さない。この「あいまいさ」は、同時に、「母と女」のあいだに立つものと解釈されるように思えてならない。
 仏の声と形容されるその安らぎは母性を連想、美女だが野性的な肉体(あるいは動物的なにおいを放つ肉体美)は「母」と「女」どちらも連想、そして、「翼をもった女」というのは男性視点の理想的な女性像を連想し、これはすなわち「女」につながる。あくまでも個人的な妄想にすぎないが、カリョウビンガとは親王の内的な「女性像」をそっくりかたちにしたものではないかと思う。(いわゆるアニマ⇒しかも段階1~段階4まで包括)
 彼の母性への粘着質な憧憬は、いわゆる胎内回帰願望を連想させ、それが作品の通奏低音になっているとすれば、ここにもまた、東洋的な円環構造を見出すことができ、「見かけ上、結局は目的地までたどり着けない結末」も含め、直線的で父性的な『オデュッセイア』とはあざやかな対比をみせているように思った。
 その意味で、薬子の「石」はとても重要な役割を果たしているのではないだろうか。
冒頭では「天竺まで飛んでいけ」。しかしラスト付近では「日本まで飛んでいけ」。ここにもまた円環構造。この底深き安心感、あるいは慈愛、包みこむようなあたたかさは、母性のはたらきが格段に強いといわれるうちの国特有のものじゃないだろうか。
また「石」(真珠)を親王の喉から取り出すシーンも印象的。それは「姫」の役割であり、母親役の薬子の仕事ではなかった。(もっとも、姫自体、薬子の幻影のひとつだろうが)
 男ののどに指をつっこむ若い女は母性と官能を合わせ持つ。寓意的解釈がゆたかに感じられるこの発想と配役はほんとうにすばらしいと思う。
 関連して、親王が真珠をのみこむシーンも意義が深い。仏教でもっとも恥ずべきことのひとつは「執着」。親王はあきらかに真珠に対して強い感情を示しており、しかも幼少期にも一度やっている。極論すれば成長していない。人間的な弱さのあらわれ。これもまた「呪われた」航海の理由だろうか。
 最後に、このエピソードに限らず、「夢」が現実の親王に多大な影響を与えている点はおもしろい。『胡蝶の夢』じゃないけれど、夢と現実はやはり密接に関係し合っているように思う。ボルヘスの『夢の本』に紹介されているとおり、夢が与えてくれる知恵や恩恵はけっして蔑ろにしていいものではないだろう。

〈その他〉
ジュゴンが唐突に再登場して笑ってしまった。「しゃべる大アリクイとメタ視点」や、親王が長期不在であるにもかかわらず、ずいぶん暢気な同行者など、この作品にはコミカルな面も多かったように思う。個人的にその温度感――、斜にかまえた感じは嫌いじゃない。薬子=巫女、親王の呼び名が「みこ」「ミーコ」も言葉遊びのようで楽しい。
◎「異界」を不自然なく展開していくためか、慎重で巧妙に張りめぐらされた地の文やセリフは印象的だった。(例P16「天竺はもうすぐおれの手のうちだぞ。」~こんなことばを闇に向かって吐きちらしていた。吐きちらされたことばはたちまち風に吹き飛ばされて、物質のように切れ切れに海の上をころがって行った)⇒実際はたどり着けず漂流する。

〈各エピソードについて〉
◎しゃべる大アリクイと蟻塚の話が夢落ち
 ⇒『オデュッセイア』によれば夢はふたつの門からやってくるという。ひとつは偽り、もうひとつは予言。メタ視点で語られる未来もその線では筋が通っているように思う。

◎カリョウビンガ
 ⇒この物語の重要なキィ。つばさを持った「女」が暗示するものは空想力を刺激する。仏教では「女」はそれだけで穢れとされて忌避されてきたはず。しかし、親王を動かしている熱源は薬子=「女」。天竺とは仏法の聖地。経験ゆたかな航海士でもたどり着けなかった理由はやはりそれなのか。鳥や蝶が象徴するのは「たましい」。それも含めて、作中のカリョウビンガの用い方や演出方法は、作者の観念イメージが巧みに練られた結果だったのかと思う。あるいは作者自体の主題だったか。(だいたい、「女」をできるだけ排しようと努める仏教世界の高次元に「美女」が出てくること自体滑稽な気がする)

◎夢を食う動物・獏
 ・獏のフンがあまい香りで恍惚を誘うという演出
  ⇒「今昔物語」を連想。(身分の高い女性の排泄物に恍惚となる男)
 ・悪い夢ばかりで活力を失う獏
  ⇒おもしろい視点で印象的。
 ・夢を喰われて活力を失っていく親王
  ⇒夢という心の支えや慰め、あるいは存在証明や「影」をなくして衰弱していくさまは非常に印象的。
 ・親王が夢を媒介に姫とつながっていると思いこむ。
  ⇒事実はちがう。男性の切ないロマン性が感じられる。

◎犬人間
 ・性器に鈴は悲哀すぎて背筋が凍る

◎蜜人
 ・高僧=学問を積んだひとの脳は糖分でいっぱいだという。馥郁は納得。
 ・砂漠で自転車(のようなもの)をこいでいるうち、恍惚となって空を飛ぶシーンには参ってしまった。発想力が秀逸すぎる。
 ・夢のなかで自分を見るシーンは印象的。(夢占いでは己を見つめ直したいという願望)
 ・P145「ああ、やっぱりそうだったのか。」
 ⇒この感覚が「悟り」なのかなと思った。 

◎極彩色の鳥の羽根をまとった少女・春丸
 ⇒鳥肌が立つほどに好きな演出。再生を象徴。ラストへの伏線のはたらきもあるかも。
 ・「卵生」の女はやはり薬子を連想させる。
 ・雷が女をはらませる 
 ⇒ゼウスを連想。龍や蛇は天にも水にも関係が深く印象的。神話的。

鏡池
 ・水面に映らない顔 
  ⇒影(=心の支え、補償)が失われている
  ⇒親王の心身がもはや現実のものではないことが示唆されているようでおもしろい。
 ・秋丸と春丸の夢のなかでの二重舞
  ⇒「死と再生」を象徴?(夏至冬至の祭りを連想)
 ・鏡に憑かれた王
  ⇒黒魔術的。作者の趣味か。
 ・自分たちの幻とすれちがう
  ⇒鏡の世界からの連想か。夢と現実の交差点だったのか。

◎真珠
・真珠が鮫人の涙という設定は興味深い。カリョウビンガを天上異界の代表とすれば、鮫人は海底異界の代表。その産物である真珠がやがてラストの昇天につながるのは示唆的。 

ラフレシアによる女人ミイラ
 ⇒発想に高揚。(妙に官能を刺激する)
 ・半裸の女性ミイラにネクロフィリアを想起。禁じられた美とエロス。女と仏道を考える。
 ・「子を産むと死」という命運
  ⇒寓意として鋭いと思う。わが子のために自己犠牲に傾く姿勢は女ではなくて母かなと。
 ・ピラミッド=地上の高みで死を想うシーンは印象的。 

◎餓虎投身
 ⇒仏法説話のように自己犠牲や利他が主体ではなく、「天竺に行きたい」というエゴイズムが行動熱源であるところに感銘。さすが澁澤龍彦と思う。
 ⇒はじめの晩は失敗して帰ってくるというのも妙味。現実的でもあるし、あるいは姫の死との関連を想起させるための演出だったかもしれない。「神は偶然にこそ宿る」

◎薬子が石を放る
 ⇒現実の石も消えている
 ⇒巧みな演出。そもそも「石」がそこらへんに落ちていたものというのがすてき。

<フリートーク
【作中エピソードの元ネタについて】
D:私が印象に残ったのは単孔の女。後宮は、どこかテーマパーク的。私の青春時代、怖いお化け屋敷もあったけど……。
C:あれはたぶん江戸川乱歩(の影響)。人間の剥製を作ったり、パノラマ島を作ったり……影響を受けているのでは。
D:昔、そういう喫茶店がありましたよね。1,000円くらい払ってお茶を飲む……。
C:蝋人形館みたいなね。作中に出てくるもの発想はわりと思いつくんですよ。(「卵生したい」も)秋吉久美子の会見を聞いて書いたのかな、と思ったし。深掘りすると、そういうのが出てくる。獏が夢を食べるのも一般的。それらを巧く取り入れてアレンジするのが腕の見せ所。
D:どう描写するかですよね。書き方によっては、獏とか手垢がついた発想って言われそうだけど。捨身飼虎……虎に食べられるとか、どこかで見たような話を書き出しているのがいい。
A:Eさんの感想を読んで思ったけれど、確かにギリシャ神話的な部分も感じますね。
C:深掘りすると粗が見える……と言うと、評価された作品に対して僭越だけど。面白かったからこそ、ついついケチをつけてしまう。
D:この作品について深掘りするところはあまりないかな。
C:これを肴に、あれこれ想像しながら語り合うのはいいかも。

【夢と現実、作品と現実の関わり】
D:暑さは伝わってくるけど飢餓感がない。食事のシーンがまったくない。ファンタジーだからリアルな部分を書いていない。
C:全部、夢の話として書いたのではと思う。過去や未来に行ってるけど、すべてが夢ではないか。現実の高丘天皇は天竺を目指して旅立ったが、この作品では夢ということにしたのでは。
D:獏のことも夢なのにパタリヤ・パタタ姫は再登場しますもんね。
C:夢オチではなく、夢そのもの。死ぬ間際の親王が見た夢、という設定ではないか。そう考えるとすんなり受け入れられる。
D:幽霊船で真珠を飲み込む。夢の話のはずなのに、真珠が死因になっているのも……
C:姫に真珠を取ってもらったらすっきりしたとあるが治っていない、全部、夢。薬子が投げた光る石のイメージを引きずっていると解釈した。
D:この作品を書き上げたのが6月、作者が亡くなったのが8月。真珠が喉に引っかかって声が出なくなって死ぬというのは下咽頭癌の比喩だろうか。
C:私の父もそうだったのだけど、死ぬ間際には子どものころを盛んに思い出す。澁澤龍彥もそうだったのでは。自分の夢として書かず、小説として書いた。分析しないほうがいいと言っておきながら、してしまっているけど。
D:年を取れば取るほど、子どものときの思い出が甦ってくる。間の50年、60年がすっぽ抜ける。昨日のことは覚えていないのに、昔のことはリアルに思い出せる。
C:小学校の同級生はフルネームで覚えているけど、高校の同級生は顔も覚えていなかったり(笑)。

【書き方やプロットの有無について】
◆D:(地の文に)いきなり作者が出てくる。
C:メタ構造だから一人称では書けない。これはこれでいいのでは。

◆D:秋丸と春丸はなんだろう。アンチポデスを表しているのかな。
C:口から出任せでは。最初は秋丸しか構想していなかったかもしれない。途中で思いついて……とか。真似したらだめですよ。最初は書けても、100枚200枚続けると息切れする。
D:いいなと思う文章を二つ三つ、現代的に書いたら作品が品よくなるのでは……。

◆D:儒艮が喋っていますね。
C:また秋丸(本当は春丸だけど)の前に出てくるのがいい。
B:ぬるっと逃げる感じがしてなかなか語りづらいけど儒艮好きですね。帰ってくれって言われて、もう出てこないのが可哀そう。もう1回出るのかなと思ったら出ないし。
C:何のために出てきたのか考えたらわからないけど、出てきて嬉しかったですね。
B:プロット立てずに、その場その場で書いているのかも。旅行記ってそういうものだし。 
D:確かに、「あれ?」って思うところが結構あった。突然、違うストーリーになってて。
B:ありますね。はるばる南詔国から帰ってきたけど、仕事を依頼してきたアラビア人はどうなったのかな、とか。
C:それを自然に読ませるのが巧い。澁澤龍彥だから許される。
D:これだけ夢を使われたら、どっちでもいいや、ってなる。
C:批評家や読書家がああだこうだ言うだろうな、それらしいこと喋るだろうな、と思いながら書いたのかも。

【仏教的死生観とキリスト教的死生観】
D:仏教というより澁澤龍彥の死生観かな。
C:仏教を熟知していなくても、(日本では)身近にあるから私たちにとって理解しやすいのでは。輪廻転生を使って、こういうことを書きたいんだなと伝わってくる。キリスト教圏の人には伝わらないと思う。
逆に、3月に読書会で取り上げた『屍者の帝国』(伊藤計劃、円城塔著)は新しく復活する話。キリスト教に親しんでいる人は違和感なく読めるかも。
A:確かに私も、輪廻とか生まれ変わる話に違和感を感じない。転生ものの作品など、輪廻転生に馴染みのない国の人はどう感じるんだろう。
D:キリスト教では、死んだ者は生まれ変わらない。そして、イエスが復活するときに復活する。

【その他】
D:私は子どものころ、輪廻転生には馴染みがなかった。いいことをしたら極楽、悪いことをしたら地獄へ行くと聞いていた。極楽と地獄を描いた漫画があって。血の池とか釜茹でとか。
C: 時代に合わせて、わかりやすい教えに変わっていく。極楽と地獄は、グリム童話的な勧善懲悪でわかりやすい。
D:子どもを躾けるために。
C:今では、その躾け方はよくないと言われている。「あのおじさんに怒られるからやめなさい」みたいな、悪者を作るやり方は。本当にいいか悪いかは置いておいて。
D:恐怖で支配するのはよくないですね。

『戦争は女の顔をしていない』スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり訳(岩波現代文庫)

R読書会 2022.06.18
【テキスト】『戦争は女の顔をしていない』
                      スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、三浦みどり訳(岩波現代文庫
【参加人数】7名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者G)>
Bさんが、NHK『100分de名著』のこの作品を取り上げる回の再放送があると教えてくださり、番組を観たのがきっかけ。その中で、著者は「できるだけ自分を出さないように書いている」と聞いたのが興味深かった。小説やエッセイとは違う書き方だが、優れた文章作品なので、私たちの創作活動の参考になるかもしれないと推薦した。
また、今の世界情勢への理解を深めるきっかけにもなればと思う(ちなみにNHKでは、3年前のキーウを取材した『世界ふれあい街歩き』の再放送もしていた)。

<参加者A>
◆『動物農場』のちょっと前に読んだ。※2021年9月25日のR読書会で『動物農場』を取り上げた。
当時、ウィズセンター(男女共同参画推進センター)に行くたび、立てかけてあった。戦争は嫌いだから避けていたのだが、読んでみるか、と手に取った。
◆記録的なものを2回読むのも何だし……と思いながらウィズセンターに行くと漫画化したものがあったので借りた(KADOKAWA、漫画:小梅けいと、監修:速水螺旋人)。
原作では、記録が続くから飽きてくる(体験談は、文章で読むより実際に聞いたほうが理解できる)。飛ばして読んでいたと思う。『100分de名著』で、私が読んでいないところが取り上げられていたので、真面目に読めばよかったと感じた。でも、戦争ものだし辛い。
漫画は絵になっているので、文章では気づかなかったことに気づいた。男性物の下着を穿いたり、経血を流しながら歩いているのを男性は見ないふりしていたり……絵になっていたから、女が戦争に行くのは生理的に苦しいと実感として感じた。
◆女性たちは嫌々ではなく、進んで戦争に行っている。日本が今そうなったら、(今の)日本人は戦わないのではないだろうか。私の息子も「国のために死なない」と言っているし、私も逃げると思う。戦争は意味がわからない。あと何年したら淘汰されるのか?
◆著者であるアレクシエーヴィチのもとには多くの手紙が届いた。みんなが声を発する場所を探していた。映画や本にして出す意義がある。そうして、記録として文学として全世界に回る。本に対してではなく、活動に対して授与されたノーベル賞では。著者は、意義のある仕事をされたと思う。

<参加者B>
◆『100分de名著』を観たが、図書館に行くと20人待ちくらいだったので読めていない。
◆ロシアのウクライナ侵攻と重なった。
◆アレクシエーヴィチは、自分を「3つの家に住んでいる」と表現する。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。作品を執筆するのはロシア語。
◆米軍はイラク戦争フセイン大統領(当時)のいる場所を狙ったが、ロシア軍がウクライナ首脳のいる場所を狙わないのが不思議だった。周辺の街や一般市民を攻めている(米軍は軍隊同士で戦おうとする)。しかし、社会主義国家は人民の価値を低く見ていると聞いて納得がいった。ロシア軍にとって、一般市民より要人を狙うほうがハードルが高い。西側諸国と考え方が違う。
◆女性が慣れない戦争を戦って、帰還したら同じ女性からの蔑視に晒される。武器を持って戦った女性の声をかたちにして真実をあぶり出したこの作品は、文学としての価値が高い。
「文学作品」ではないのでどう感想を言おうか迷ったが、新しい文学の着眼点を見つけられた。

<参加者C>
[事前のレジュメより]
≪山羊も戦争は怖い≫
 フェリーに乗ったとき、初めてこの本を手に取った。その時偶然指に触れたのが、看護婦がドイツ軍戦闘機の爆撃から必死で逃げる場面だった。身を伏せている彼女のそばに山羊がやってきて、人間と同じように身を伏せたという。「動物だって怖いんです」という文章が印象に残った。
≪ありふれた生活から巨大な出来事、大きな物語に投げ込まれてしまった小さな物語≫
 作者は国中を歩き回り、数百本のテープ、数千メートル分の録音、五百人を超える人々を取材した。多くの人は語るのを拒否した。
≪あれは私じゃないわ≫ P210
 凄惨な話の連続から逃げたくて頁を飛ばした。ところが、この頁も凄かった。衛生指導員の女性に輸血をしてもらった青年が兄弟だと偽って面会に来る。彼がチョコレートをくれる。二人は劇場へいく。数日後、その彼の戦死を知らされる。彼女は、彼の復讐がしたくて前線に向かう。闘いの場に投げ込まれた彼女は凄まじい経験をする。白兵戦のむごさ。殴り合い、銃剣で相手の身体を刺す。頭にひびが入る音が聞こえる。そういう戦いだ。
≪ちっぽけな人生と大きな理念について≫ P399
 ―フョークラ・フョードロヴナ・ストルイ パルチザン
 ◇「私はいつも信じていました……スターリンを……共産党員たちを……自分も党員でした。共産主義を信じていた……そのためにこそ生きてきた(後略)」
 ◇パルチザンとして二年戦った彼女は、戦いで凍傷にかかり両脚を切断する。麻酔もヨードもなしの手術だった。壊疽になりその後四回再手術。脚の根元まで切り落とされた。戦後、彼女は共産党の地区執行委員会副議長として義足で活動した。「みんなの役に立ちたかった。私は共産党員なんですから……」
 ―ソフィヤ・ミロノヴナ・ヴェレシチャク 地下活動家
 ◇ゲシュタポに捕まり激しい尋問と拷問を受けたが耐えた。「誰かを裏切ることの方が死ぬことより怖かった。」
 ◇死刑執行を前にして監房に入れられた。外の自由な世界を見たくて、仲間に台になってもらって交代で小窓から外を見た。
≪泣かなかったわ、あの頃は≫ P430
 ―リュドミーラ・ミハイロヴナ・カシェチキナ 地下活動家
 ◇ゲシュタポに捕まり激しい拷問を受ける。
 爪の下に針を打ち込む、電気椅子、丸太で身体を引っ張るなどの拷問。自分の骨がぼきぼきいうのが聞こえた。
 ◇脱走して奇跡的に生き延びたが、戦後電気恐怖症に。
 ◇戦後も地獄が待っていた。当局から追求される。ドイツ支配下の地域で捕まったのに生きているのはおかしい、裏切り者だから生き残れたのだろうと疑われた。
「私たちが戦っていたこと、勝利のためにすべてを犠牲にしたことなどまったく考慮されなかった。」
「泣かなかったわ、あの頃は泣かなかった……」という、彼女の言葉が胸に刺さった。
     ※続きは口頭で……。

[以下、読書会にてCさんの発言]
◆続けて読むのが辛いから、ぱっと開いて、そこから読むことにした。なので、もしかしたら作者が言いたかったことをレジュメには書いていないかも。全部は読んでいないので。
◆女性は腕力がないのにドイツ軍と白兵戦をする。骨が折れる音が聞こえた、など、本人でないと表せない言葉で語ってくれている。
◆私は今77歳だが、自分の思想が現実とどう繋がっているのか考えることがある。
◆証言者の女性たちは(存命であれば)80歳以上。共産党員の女性はパルチザンとして活動し、捕まって拷問されても口を割らない。仲間を裏切ることはできないと耐える。奇跡的に生き延びて帰国すると、当局から裏切ったため生きられたのではと疑われ、地獄のような思いをした。
日本では国外からの帰還兵は労われたが、ソ連の帰還兵は裏切ったと疑われ苦しい人生を送った。だから語りたがらない。著者は説得して証言してもらった。大変な作業だったと思う。
◆著者はベラルーシ国籍だが、ベラルーシのルカシェンコ大統領は著者のことを「外国で著書を出版し祖国を中傷して金をもらっている」と非難している。
◆読んでいて胸が張り裂けそうだった。推薦していただいて感謝している。

<参加者D>
◆作品の構成として、最初の章の「人間は戦争よりずっと大きい」というのが本論。この証言集をまとめるにあたって著者がどういう態度で挑んだか。証言の扱いについて勉強になった。
証言というのは、語られるごとに創造される。世界情勢、証言者の思想の変遷、周りの状況が影響を及ぼすので、語られたことが真実とは限らないという一歩引いた態度。我々は戦争証言を無条件に真実と受け取りがちだが、証言は現在の立場によって変わってくる。それを織り込んで聞かなくてはならないと納得した。
◆女性たちが自ら志願したという話を、一種の社会進出、自立として語っている人が多く興味深い。その側面はあると思う。女性の社会進出は世界大戦と強い結びつきがある。
男性と平等に国民の義務として身を投じる。男性が独占している場所に入っていく。女性の自立という考えが当時あったのかもしれない。
◆証言集なので時系列が見えてこない。友人にこの作品を読むと言ったら、大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書を薦められた。ドイツとソ連の戦争がどう始まってどう経過したのか、新書のサイズでまとめてある。なるほど、そういうことかと。
図版、地図も入っているので、証言に出てくる都市がどこにあるのか調べやすい。

<参加者E>
◆Dさんが仰られたように、思い出は真実と受け取られがちだが、体験したことが現在の環境によって変わっていくことに注意しなくてはならない。著者は冷静にインタビューしている。ものすごい量があり、執念を感じた。
◆ノンフィクションなのでリアル。1つの側面ではなく、2つ、3つの感情があるインタビューが多い。矛盾を持ちながら今生きている人の話。凄惨だと思いながら読んだ。
◆私はあまりソビエト連邦の歴史に詳しくなく、戦勝国というイメージがあり、100万人もの女性が戦っていた事実をまったく知らなかったので勉強になった。
◆ロシアとウクライナの戦争で、ロシア兵として戦っているキーウ出身の女性がいると聞いたことがある。アイデンティティについて考えた。
◆大陸にある国を防衛する大変さ。堤防を壊されてしまうと怖い……ロシア側の歴史を感じた。なぜウクライナに侵攻したのか(戦略的に重要なのはわかるが)。旧ソビエトの歴史を守りたいということに繋がるのだろうか。
◆若かりしころ勇んで戦争に行って生き残った人たちが、何十年も経って「あのときはそういう人間だった」と語っている。苦しみが続いている人もいる。響く言葉がいくつもあり、メモを取っている。挙げるときりがないくらい。

<参加者F>
◆読書会で証言集を取り上げるのは初めて。
Cさんも仰ったように、(小説のように)積み上げていくストーリーがあるわけじゃなく、たくさんの証言を重ねていく作品。戦争の悲惨さを書いているという先入観があったが、だんだんと染みてきた。
◆日本は70年以上戦争がなく、また島国であり、他人事と見てしまう薄情さがある。ウクライナベラルーシ、ロシアにとって、戦争はずっと身近なものだった。世界でも、紛争地域では戦闘が続いている。犠牲になるのは、小さきもの、弱きもの。上のほうにいる――この言い方は好きではない――権力者は被害を受けないという構造は同じ。人類はいつになったら学ぶのか?
◆弱者が犠牲になっていることを伝えるため、女性にスポットを当てたのではないか。女らではの悲しみに特化しているというより、すべての弱者のために。
もちろん月経は女性にしかないが、たとえば、死んだときを考えて見た目を気にすることなどは男性にもあるはず。この作品は、人間の細やかさを蹂躙する戦争への抗議としての証言集だと思う。

<参加者G(推薦者)>
◆自分を出さないように書く文章を書くのは難しい。
◆作中、話が飛んでいたりする部分があり、自然だと感じた。人間の話を文章に起こすと、どうしてもそうなるので。このようなところも残しつつ、読みやすいように手を加えているはず。元の雰囲気を損なわないようにするのは、とても根気がいって難しい作業だと思う。
◆読んで、女性たちは素直に泣いたり、笑ったり、素朴だと感じた。私はフィギュアスケートを観るのが好きで、ロシアの女子選手もよく観る。演技が素晴らしく大人っぽく見えるが、競技中以外では無邪気に笑ったり、感情を出したりしていて好感を持った。そのイメージと重なる。
◆遺体を大切にするところが日本人と近いと思った。欧米では、あまり遺体を重視しない印象があったので(日航ジャンボ機墜落事故の際、欧米人と日本人、それぞれの遺族の遺体に関する考えが違っていたと読んだことがある)。宗教の違いなども関係しているのだろうか。ロシアはヨーロッパだけでなく、アジアの感覚にも近いなと思うことがある。
◆女性たちと、母親との関係が印象的だった。どの国でもそうなのかもしれないが、母とは特別な存在なのかもしれない。
◆日本でも、シベリア抑留から帰国した人たちへの差別があった。世界のどこでも起こり得ることだと思う。

<フリートーク
【弱者にとっての戦争について】
F:女性の社会進出を表している。なるほど、あると思う。
10代の女性が窓口に駆けこんでアナログな方法で志願する。絶対引き下がらない。すごい。
A:女性といっても、ほとんどが子ども。まだ社会のことをわかっていない。国全体がそういう雰囲気で、16歳とかだからじっとしていられなくて。でも、実際は子どもだから戦争がどんなものか知らない。歌を歌って、スカートを穿いて……本当に子どもたちが戦争に行ったんだなって。
ファシズムだって少年兵を利用する。まだ何もわからない、血気盛んな少年を。
D:利用されただけなのかな。当局の人たちは「帰れ」と言っている。世の中が、上の人間が仕掛けて誘導したのとちょっと違う。
A:誘導というより、社会全体がそういう雰囲気でじっとしていられなかった。
D:共産主義の中での一体感は男女平等が土台となっている。日本では学生運動で、若い人たちが自分たちの理想のために行動した。それに近い。
F:確かに、自由主義アメリカの女性は、このようなかたちで戦争に志願しそうではない。
D:旧日本には女性は入れなかった。男女隔たりなく戦争に行くのか正義かどうか。倫理の捩じれがある。
A:男性は英雄に、女性は帰還して差別的な扱いを受ける。ひどすぎる。16歳の子は(戦争に行くとき、その後のことを)想像していない。
F:(男性参加者たちへ向けて)皆さんはありますか? 戦争から帰ってきた女性への印象。
D:日本はその状況にないから想像つかない。
F:男性でも、軍での地位が高い人はまだいいかもしれないが、そうでない人は苦しいのでは。映画『ランボー』だと男性でも爪弾きになっている。弱者が差別されている構造を感じる。
D:結びつきにくいものが結びついていることが、日常を壊す存在として見られているのかも。福島の人が移住したら、差別的な目で見られるのに近いのでは。本来、その人たちが負うべき傷でないものを負わされている。(元からいた人は)日常に入ってほしくないのでは。

【戦争について】
A:戦争って悲惨なものだと大人はわかっている。そこに16歳が行って……。
E:たとえば裕福な家の子は行かなくてもいい、でもあの子は家が貧しいから……みたいなのはあるかもしれない。志願した女性は多数派ではないのでは。
C:志願した女性の大半は(家族が)活動家だったのではないか。
D:そして、熱心な共産党員。
E:親の意識が高い。そういうのもあったかも。
C:ソ連は、ファシストが相手の戦争は正義の戦争だと言っている。
A:戦争犯罪って、いつできたんだろう。私は戦争自体が犯罪だと思っている。
E:絶対、敗戦国が裁かれますね。
D:東京裁判では、いわゆる戦争犯罪で裁かれた。戦争にもルールがある。捕虜を虐待してはいけない、など。戦争をするにしても紳士であれ、品行方正であれ、というように。
日本は近代化して戦時国際法を守っていたが、第二次世界大戦で滅茶苦茶になった。
C:ウクライナ侵攻は、領土を拡大する戦国大名のやり方。日本ペンクラブ日本文藝家協会日本推理作家協会は、ロシアによるウクライナ侵攻に関する共同声明を出した。戦争を止めなくてはならない。
B:時代が引き戻されていますよね。
E:ロシアにはクリミア併合での成功体験があった。
B:私たちも、クリミア併合のときに注目しなければならなかった。
このところ物価や電気代が上がり、戦争中だと思った。
D:国に限らず、あらゆる組織において同じ人間がトップで居続けるのはよくない。年々で限るのが一番いい。

【500人以上の証言を集めた理由】
F:500人のインタビューより、ある程度絞ったほうが読者にとって優しい。でも、取材を受けた人にとっては「私が載っている」という広がりがある。
D:日本のジャーナリズムで用いられるドキュメンタリーの手法に、1人を膨らませるというものがあるが、情緒的に読ませてしまったり、テクニックに走ってしまったりすることもある。
F:証言を重ねていくほうが、むしろ客観性があるということか。
B:同じ著者の『チェルノブイリの祈り』も同じ書き方(証言集)ですね。
E:証言が変遷していくことに気をつけなければとあるが、500人の証言があれば事実が浮き彫りになるのでは。同じような話もあるから絞ったほうが読みやすいとは思ったが。
A:夫がそばにいたら女性の表現ではなく建前を語るようになってしまう。興味深い。
E:建前というか、男女で見方が違うのでは。昔、ベストセラーで『話を聞かない男、地図が読めない女』(アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ著)で読んだが、男の脳は狩りに向くように視野が狭くなっていて、女の脳は家を守るため身の回りの情報をできるだけ多く拾い集めるから視野が広い。男性は大局を語るけど、女性は着ているものとか細部を覚えているでは。
A:「赤いハイヒールを履きたいけれど仕舞った」というのは、男性から見たらアホかって思うのかな。戦争なのにハイヒール。

【その他】
E:ラジオで娯楽番組の間に、ヒトラーがぽつっと政治的なことを言う。ラジオを政治利用して、まさにプロパガンダの先駆者。ソ連でもそういうことはあったのか調べたが、スターリンについてはあまり出てこなかった。ロシアの若い女性はなぜこういう行動に出たのかわからなかったが、今日、共産主義と聞いて腑に落ちた。
F:日本でも戦前、日本人をおとしめた箇所を削除した『我が闘争』(ヒトラー著)を読まされていた。
B:NHK映像の世紀バタフライエフェクトヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い」』で知ったのだが、ヒトラーが生まれる4日前にチャップリンが生まれている。チャップリンは、作り手の想いが入っているから映画はすべてプロパガンダだ、と言った。本もそうですよね。
G:少し前Twitterで流れてきて知ったんですが、第二次世界大戦の各国指導者の人物像を比較したBBCのドキュメンタリーで、日本について「最高指導者が誰かわからないのに戦争を遂行している」とあったそうで。トップがいないのに戦争をしている。
D:日本的無責任。各部署が勝手にやっている。誰も責任を取りたがらない。
E:第一次世界大戦のあたりは終わりを見ていた。第二次世界大戦のあたりは変わりますよね。

『熱帯』森見登美彦(文春文庫)

Zoom読書会 2022.05.29
【テキスト】『熱帯』
      森見登美彦(文春文庫)
【参加人数】出席4名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者D)>
◆(作中にコーラの自動販売機が登場するので)今日は缶のコーラを飲んでいます(笑)。
※前回、作中にレモネードと葉巻が登場する作品を扱ったときには、レモネードを飲んで葉巻を吸っていた。
◆読書会に参加し、初めて推薦者になったとき、この本にするか『ダーティホワイトボーイズ』(スティーヴン・ハンター著)にするか迷った(結果、そのときは後者を推した)。
森見登美彦はもともと好きな作家。独特の雰囲気、とぼけた雰囲気のライトなエンタメ作品を書いていたが、この作品は毛色が違う。凶悪なくらい、めんどくさい構造をしている。
◆読書会がモチーフの1つ。それを読書会で語ることでさらにややこしくなる。
◆本や物語、読書会など、創作者に刺さる部分が多いと思い推薦した。

<参加者A>
◆読み始めはすごく面白くて楽しく読んでいたが、途中でしんどくなった。回想の中の回想など、入れ子式の構成が読みにくい。ハマる人とハマらない人がいると思うが、私は途中で弾かれた。
◆最初は噛みつくくらいの勢いで読んでいたけれど、流れが遅くなってくる。核心に迫らない。私はカフカ『城』もだめだった。辿りつけそうで辿りつけない。周辺をうろうろして迫らない。核心が何かもよくわからない。そんな作品が苦手なのだろう。
◆絶海の孤島に、魔女やいろいろなものが現れることに吸引力を感じなかった。熱帯を知ってみたい、確かめたい、と思わなかった。私はすごく悪い読み手だった。
◆白黒はっきりして核心に届く、単純な話じゃないと、私はしんどい。

<参加者B>
◆読み終わって「なるほど」と思った。今読んでいるこの本が作中の『熱帯』(佐山尚一が書いたほうではなく、森見登美彦が書いたほう)なんですね。とか言うと、何言ってるかわからないんですが(笑)。
◆前半の途中で白石さんの心の声が関西のおっさんみたいになるところが何ヵ所かあって(P53「これはこれで心が安らぐわい」、P79「どうも私には単純なところがあるわい」など)、絶対それ意味あるんだろうなと思っていたから納得した。これ、森見登美彦が書いてる話ということになるのかな、という予想は少ししていたので。
◆すごく複雑な構造を持つ作品を、敢えて意図的に作ったのだなと思った。
・まず、『千一夜物語』のような入れ子構造。物語の中で物語が語られ、さらにその中でも物語が語られる。
・次にループ構造。熱帯の海でループしている佐山。ネモ君も、シンドバッドも、学団の佐山も、全部佐山でいいのかな。(これは登場人物・佐山のループなので作品構造に含めていいのかはよくわかりませんが。)
・そして、2つの世界が回転扉みたいになっているところ。熱帯から帰って、民博に勤めている佐山のいる世界が、私たちの世界ですよね。
回転といえば、回転するレストラン(銀座スカイラウンジ)が第二章に登場するのが象徴的。すごく計算された作品で、設計図を見てみたいと思った。
◆少し残念だったのは、第三章までは貪るように読んでいたのに、第四章で(私自身が)ちょっとスピードダウンしてしまったこと。話が見えなくなって……。長谷川や、老人でないほうのシンドバッド(P497)が登場したところで「そういうことか」と思ったのだが、やや冗長に感じてしまった。もちろんこの長さは構造上必要なのだろうけれど、ここで挫折した人もいるのではないだろうか。
◆後記まで読み終えたとき、頑張ったご褒美みたいなものを感じた。
◆個人的に好きな登場人物は図書館長・今西さん。どの世界の彼もいい。
◆気になるのは、向こうの世界の面々(中津川さんや新城さん、向こうの世界の白石さん・池内さん・千夜さんなど)の結末が書かれていないこと。それも計算ずくなのだろうか。気にすれば熱帯に誘われる、という。
Sound Horizonが好きな人はかなりツボに入るんじゃないだろうか。地平線とか、世界を創造するとか。サンホラ解析班であるMさんの欠席が惜しまれます……。
◆Dさんも仰ってたように、読書会で、読書会の出てくる小説を取り上げるのも入れ子っぽいですね。不思議な読書体験をありがとうございました。

<参加者C>
◆私は第四章、第五章がすごく面白かった。第三章までとの関連を考えてしまうからよくわからなくなる。第四章から(独立した作品として)読んだら面白い。
◆(第四章が)最初だとすれば普通の物語の出だし。第三章の続きと思って読むから「なんだこれ」となるが、第四章はそういう話ではない。伏線やテーマを抜きにして流れに身を任せて読めばいい。脈絡はないけれど場面場面が面白い。ルイス・キャロル不思議の国のアリス』みたいに。
入れ子構造になっており、物語の中で物語が始まるので、流し読みしてしまうと誰が喋っているのかわからなくなる。また、栄造さんとは誰だったかなど、登場人物についても混乱してくる。しかし混乱しても構わない。それなりについていける。誰が主語かを抜きにしても読めるし、楽しめる。頭の切り替えが必要かな。(この小説は)普通の小説の読み方ではだめ、というのが私の感想。
A:読み方があるんですね。私はテーマとかが見えないとしんどくて。
C:三章まではそう読め(普通の読み方をしろ)と書かれている。四章以降は「ついてこれるかな?」みたいな。
B:我々の頭が固いんですね。普段からストーリーやテーマに沿って読んでいるから。
高校生直木賞を受賞した作品なので、高校生なら柔軟に楽しめるのかも。
C:第160回直木賞の候補にもなっていますね。選評を読んでみたい。
◆島の向こうに何があって……みたいに、綿密な地図に基づいて書かれているのがわかる。
◆流し読みしたので細かいところはついていけないが、構造分析してみると面白い。
やっぱり第一~三章で放り投げられ、そこで終わっている。(第四章から)頭を切り替えて入っていけばどうですか、と、これから読む人に伝えたい。
◆(佐山が)戻って来た世界が、前の世界とずれているところがなんとなく面白い。
◆学団の男たち全員が佐山尚一だったのに笑った。シンドバッドとネモ君が入れ替わっている。語り手も輪廻みたいに同じ体験を繰り返している。読み慣れたらついていける。この辺りも細かく読み取れたら面白いだろう。
◆ただ、私はもう一度読みたいとは思わない。

<参加者D(推薦者)>
◆『熱帯』が、森見登美彦のほかの作品に比べて好きかというと怪しい。でも、この作品が一番読書会向き。
恒川光太郎『夜市』みたいな作品を書きたかったのだろうか。『夜市』のほうがすっきりしているが。
◆『熱帯』には森見ワールドのキャラクターが登場する。芳蓮堂のナツメさん。彼女が変な世界に放り出されるのは納得。
◆私の中の読みどころは、いらんことしいのシャハラザードのせいで、世界そのものと分離され、会えなくなってしまった人たちの悲劇。
◆最初の半分と、後編の半分の分離は意図的。Kindleで読むと、50%になった瞬間後半になる。
前半が森見登美彦の『熱帯』、後半が佐山版の『熱帯』。前半は雰囲気づくり。
◆登場人物の中で切実な動機を持っているのは千代さん。
◆ある種、怪談っぽい。読んだ人のもとにシャハラザードがやってくる。
◆ニューロファンタジー作品(という、検索しても出てこないくらい、ささやかなムーブメントが以前あった)。神経症的な。今までの人生とは縁を切って、自分の頭の中で生きていく。
◆前半は、佐山を巡る人間関係を追って、京都の街を巡る。読書会に向けたファンタジーとして、この作品を推薦した。空気感を味わってもらえたら。
A:この空気感を好きになれるかどうか、ですね。

<参加者E(提出の感想)>
 漂流物語。多くの同モチーフとはちがい、人のみならず「本」が漂流。読後感は心地いい。ラストの印象だけで語るなら、物語のテーマは「失われたものとの再会」だろうと思う。だれかに紹介する場合なら、「最後まで読めない本」の話となるだろうか。
 この作品はジャンル分けが難しいが、SFの色合いが濃く反映されていて、本も人も、時空間だけにとどまらず次元を越えて「漂流」する。いわゆる平行世界の概念が取り入れられている。構成と構造が奇抜なお話。視点も作中時間もころころ変わる。ときにはメタ要素が加わってさらに入り組んだ構図になる。回想のなかで回想がはじまったり、作者・森見自身も含めた主要な語り手たちがひっそりと消えたまま回収されなかったりと、「小説」としてはなかなか特異で自在な構造になっている。
 これをルール違反とみるかユニークとみるかは読み手の裁量しだいだろう。物語としての根本というかテーマがつかめないパートがつづいたり、似たようなモチーフ、そして定型の文章がくり返しでてきたり、語り手がつぎつぎに不在になったり、同じような文章表現(黒々とか冷え冷えとか)が流行りみたいに、一定パートで何度もなんども使われていたり、読者自体が「漂流」する場面展開が多く、息がつかえやすい作品であることは疑いないかなと思う。けれどもけっして、難解な読み物ではないだろう。まるでミステリ作品のように、作中のあちこちには読者に対するヒントというか、作品に接するためのガイドラインのようなものが多く設けられているように思う。
千一夜物語』『ロビンソン・クルーソー』『不思議の国のアリス』『海底二万里』などの名作の名前が幾度も登場するのもそのためだろう。作品の底本を折に触れて強調することで、読者に作品がたどろうとしている「道」を示し、もって迷子――文字の海に漂流しないよう配慮されているのだろう。(佐山が虎に変身する前は、ご丁寧にも『山月記』の名があらわれる)
 とくに『千一夜』の反映といったらすさまじい。作中、この本(「ふたつの意味での『熱帯』という意味で」は「千一夜の異本」であるとはっきり示されているくらい。そうすることで作者はきっと大義名分を手に入れたのだろう。語り手がころころ変わったり、回想から回想に入っても、「偉大な名作」に前例があると明示しておけば、保守的な意見をひそやかに抑制できることになる。(保守的思考者というのは、たいてい前例があればしぶしぶ矛をひっこめるもの)
 物語の冒頭で、作者自身(森見)の言葉として、「書くことがない」となんどもぼやくが、それは、もしかしたら、作者の巧みな誘導術――「新作を書くための」情熱をともされた作品として登場した『千一夜』は、じつのところ、特異で自在な構造を正当化するための戦略だったのかもしれないし、また、ほんとうに心の声だったかもしれない。どちらにしても、この作者はなかなか曲者であると思う。「読む人によって内容が変化する本」と説明される「熱帯」は、メタ視点としてのみならず、森見登美彦が描いた『熱帯』としての定義というか立ち位置の説明だったのかもしれない。

 物語の「舞台」は大きく分けて3つ。ひとつ目は冒頭から池内氏が行方不明になるまでの世界A。つぎに池内氏の手記として語られる佐山の異界。さいごに佐山視点で進行していく世界B。それぞれの世界を読者が読み進めていく熱源はちがうかなと思う。
 Aはシンプルに「謎」が動かしている。「最後まで読めない本の謎」「ころころ変わる視点・消えていく語り手たちの謎」(作者も含めて)、そして、この作品はいったいどこへ向かっているのか、という謎。(紹介者のDさんは「謎」に重きを置いている)
 異界にもやはり謎がはたらいているが、この部分はそれ以前に冒険譚として十分に魅力を持っているから、それ自体が読むための熱源になっていると思う。世界Bを動かしているのは「解題」だろう。読者はようやく、物語の全体像と対面できる。
 AとBは文化レベルや町のつくり、そこに暮らす人物たちの様子から、分岐してさほど間もない平行世界の関係であることがうかがえる。AとBをつないでいるのはもちろん「異界」で、訪れた佐山もまた両方の世界をつなぐものとしての役割を持っている。
 異界は原則として魔法のはたらくファンタジー世界のように描かれているが、自動ドアや冷房、自販機、ロープウェーや近代的なビル群、銭湯の煙突までもが混在したあまりに奇々怪々な世界観を持っていて、その自由さというか独創性、型破りさ、奔放さには心がおどった。異界の人物たちが若がっているのは、それを見ている佐山の視点、つまり「当時」の再現に他ならないからだろうけど、さらに考えを深めると、それは佐山の内的世界、精神世界と呼べるものであり、「それ」が「異界」としていつまでも保存されている作中世界の懐深さにはあたたかい救いがあるように感じた。反面、「浮き沈みする島」「にせものの神羅万象」など、無常観をさそう表現も多く、個人的に強い感銘。
 そこでの体験や心象を記したものが「熱帯」という本であり、佐山とこの一冊の本だけが、AとBを漂流する。
(佐山はどうやら一方向のみの移動にみえるが、本の方はそうであるとは断定できない)(A世界で佐山は「表面上」消えている。しかし本はどちらの世界にも存在している)
 よく、ことばや物語は生き物のようだと譬えられるが、この作品の背景にもそのような考え方が敷かれているのではなかろうか。「けっして終わらない物語」作中のことばを使えば「東洋と西洋の間を往復しながらふくれあがっていく物語空間」という『千一夜』はまさに生き物のように成長あるいは変容していく。この生き物は、少なくともうちの国では「はざま」の存在であるように思われ、そのいわゆる「境界性」が、同じようにあっちこっちと揺れ動く若者の心に同調しやすかったのかなと思う。物語の構造のみならず、構成としてもこの作品は境界的であると思う。「現実」に根をおろした写実的な物語と、「魔王」や「魔女」が登場するファンタジー世界が奇妙なバランスで同居している。しかもそれらはそれぞれ関連している。作者はこれらの温度差に不自然やほころびが生じないよう、慎重そして丹念に伏線を張っているように感じた。はじめに「栄造」が登場したとき、このひとが「魔王」だなと読み手にすぐに悟らせたのは分かりやすい例だと思う。
 また、世界AとB、それから異界の三世界に共通して登場するアイテムの数々も巧妙だった。これはミステリの要素かなと思う。(アイテムの配置と用い方の巧みさは、「異界」の「ノーチラス島」のエピソードが縮図の気がする。佐山の腕、ヤシの木、牛乳瓶と一見つながりのなさそうなアイテムを有効利用)
 まるで聖書の句のように、おなじことばが作中なんども登場する点は個人的におもしろい演出だったが、それらのことばも「アイテム」としてみてみると、ひじょうに巧みな配置と用法だったかと思う。
 表面上は好き勝手にうねって見える物語の波間に、じつは不動の浮きのようなものが用意され、それをたどりつつ、読者はそれぞれ想像力をゆたかに広げることができる。本を読むたのしみのひとつだろう。佐山という男の境界性、中間性もまた読者の胸をひきつける魅力のひとつだろうと思う。彼はおそらく「じぶん」と自覚が限りなくうすいのだろう。現実に足をしっかりとつけている雰囲気がとぼしい。じぶんも含めたあらゆることを客観していて、とくにこれといった執着もなく、じつに危ういバランスで生きている。しかし彼は夢想がゆたかで、即興で自在におはなしを創作する。あきらかにボーダーの特徴を有しているように思う。その特質が、「異界」での彼をさまざまに変容させたのだろう。
 彼は「だれでもない」がゆえに「だれにでも」なることができる。少なくとも異界――、あるいは空想世界では。創作を行うものには欠かせざる素質だと思う。
 物語の構成や構造の奇抜さと同様、この佐山という主人公もまた、創作を志すもの、あるいはモラトリアム期間にあるものにとって、いたく共感できる人物であるかと思う。そんな彼が強い想いで執着したのがカードボックス=魔法、または夢であったことは興味深い。「異界」内でなんどもお目見えした魔術の正体が「想像力」「空想力」であることは人生の深い知恵が暗示されているように思う。(A世界での白石と千代における「サルベージ」もすてき。瞑想的な空想によって既知の幻想をよみがえらせていく、というのはいい)
 よく考えたら、「ある日すがたを消す本」といい、ホウレン堂の「冬のひまわり」や「予言書としてのカードボックス」「図書館での失踪」といい、A世界には魔法の力があちこちにはたらいて興深い。「失われた世界」=若さゆえの魔法や底知れない夢想力を寓意として演出しているようで個人的に好きな点。
 佐山と栄造の関係も示唆的。千代という魅力的な女性を中心にすると、男と父の構図になる。千代を排せば師弟の関係に近くなる。「異界」でいえば、彼らはほとんど同一であり、ふたりだけが「ひみつ」を共有しているところも心惹かれる点。今西という補完的な友人の存在もふくめて、彼ら軸となる人物たちの相関は寓話的に意義が深いように思う。そして、象徴としての月、どの世界でもしずかにかがやく月のひかりは個人的に感銘を受けた。

 情景描写にも胸を打たれた。作者の詩情はすばらしい。凝った装飾は一切使わず、息の止まるような美しい情景をたった数語で描き出す。比喩も巧み。前回のDさん紹介作品同様、今作もまた、水彩のような淡い描写のかずかずに恍惚とした。
 また、京都が深く関係した物語だったことが個人的にとても効いた。あの街はぼくの生まれた場所であり、そしていわゆる修行時代を過ごしたところ。街の雰囲気だけでなく、においや息遣いすら聞こえた気がして快い郷愁にひたれた。京阪線の駅が「祇園四条」になっていて戸惑う。時代を感じた。関西弁が排除されていたのはちょっと悲しかった。
 そういえば、世界AとBにはもうひとり共通した人物が登場する。いうまでもなく、森見登美彦という作者そのひと。(もっとも、B世界では名前だけだが)作者自身のユーモラスであけっぴろげな語りではじまったA世界――作品冒頭と、むこうの世界から漂流してきたであろう一冊の本の作者「森見登美彦」と示すことで幕を下ろすこの物語の構図は、あらためて考えてみるときれい。「未完」というループではなく、「出版」という一歩進んだかたちになって本が登場しているところもまたおもしろい。(作者はよっぽどつかみどころのないひとなのだろう。あるいはそれを売りにしているひとなのだろう)
 このお話は、他でもない作者個人の回想譚と読むことができるのかもしれない。
千一夜物語』の世界を色濃く反映した「異界」のエピソードは、学生時代の、若かりしころの作者がたびたび夢想していたおはなしか、あるいはノートに書き留めていた処女作のようなものだったのかなと、そんなことをふと考えた。佐山は森見そのひとだろう。
「異界の群島や人物」がすべて「佐山の死骸」からつくられたという表現は、その意味ではとても奥が深い。「この世界は夢と同じもので織りなされている」という表現も。そうなると、「創造の魔術」の原点が「思い出す」ことというのは本当に意義深い。また、夢として時間退行していくことでつながっていく「物語」という形式もまた魅力。「つねにここではないどこかを憧れている男」ロビンソン・クルーソーにじぶんをたとえた作者森見の若い日々の気持ちを想像すると胸つまる。彼もまた、ひとりの異邦人だったのだろう。世界AとBでヒロインである千代の雰囲気が変わっているのは(いくら時の経過があったとしても)、ぼくにはとてもおもしろい点だった。
 いずれにせよ、どんなかたちを持った本でも作者でも水のように受け入れてくれる文学のふところの深さがうかがい知れる。そういう意味で、創作を志すものには希望と勇気を与えてくれる作品かなと思う。「何でもないから何でもある」は胸に響く。もっとも、奇抜なことをするためには、それ相応の手はずを整えなければならないという、あまりに冷ややかな警告と手本が示されていることをまず第一に肝に銘じなければならないだろうが。

<フリートーク
【最後まで読んだ/観た、ご褒美】
B:読書会の前、Aさんとやり取りしてたら「読むのが大変」って仰って。私はそのとき、最初のほうしか読んでなかったから意外だった。で、第四章まで読み進めて「なるほど」、と。
結果的には最後まで読んでよかったと感じたが。映画「カメラを止めるな!」(2018年)で30分で席を立った人がいる、という話を思い出した。
A:カメラを止めるな!」の前半部分は稚拙なゾンビ映画ですよね。でも、最後まで観るとご褒美が待っている。途中で脱落する人はいるだろうなぁ。

【後半(第四章以降)について】
D:ネモ君が佐山というのに、後にならないと気づかない。
C:(第三章の続きだと思って)普通に読んだら池内の話だと思う。気づくのはしばらく読んでから。池内が佐山を主人公として書いた手記としても読めるが。
B:徹底的に読者を惑わせてきますよね。
C:(読者が)どの辺りで慣れるか、だと思う。向いてるか向いていないかじゃなくて。慣れるか、途中で放棄してしまうか。謎解きが最後にくると思っている人はがっかりする。(向こうの世界の)白石さんも出てこないし。
D:思いました。最後は森見登美彦がいる読書会に(話が)戻ってくるのかなと。
B:私は後記が始まった時点で諦めた(笑)。
C:普通の小説の書き方ではない。
A:この間、同人誌の内部合評で、額縁小説だけど最初のシーンに戻らない作品を、ラストで最初と繋げたほうがいい、と言ったけど、もっと自由に書いてもいいのかも。
D:森見登美彦だから許された。プロでも新人がやったらボツになる。応募作品の回想の中で回想が始まったら、問答無用で落選させる編集者もいるそう。
C:夢野久作ドグラ・マグラ』とか、なんのこっちゃという話を読んでいかなければならない。でも評価された。苦手な人は苦手。
B:読書会のテキストにしたら、「キチガイ地獄外道祭文」の辺で脱落者続出しそう(笑)。
でも今回の読書会で、私は頭固いなって思いました。
C:大人は理屈で読むじゃないですか。子どもは場面場面で喜ぶ。そういう読み方もあり。ついていく読者があるかどうか。
D:カート・ヴォネガットスローターハウス5』という作品はプロットが飛びまくって最後はぶつ切り。しかも、ちゃんと予告してる。そういう作品もある。
C:上田秋成雨月物語』も雰囲気はいいが、筋を考えると「?」となる。古典だと『今昔物語』もそう。
B:堤中納言物語』の「虫めづる姫君」なんか「続く」で終わってますね。
C:とりかえばや物語』なども自由な発想で書かれ、多くの人が読んでいる。
私たちは現代小説に慣れて、読み方が狭まっているのかもしれない。
D:『熱帯』はバチバチに尖った企画。明瞭な意図で逸脱している。
C:第一章から第三章はネットに公開されており、そこで終わっていた。作者の行き詰まりでは。冒頭、作者の悩みが書いてある。第四章以降は頑張って追加してまとめたのかも。
D:帰ってくるのも再帰的でいいですね。
C:前半と後半の間の、編集者とのやり取りが気になる。
D:第三章までの『熱帯』と、第四章からの『熱帯』は違うもの。
C:第三章までで、普通にエンディングまで持っていくと、普通の小説になってしまう。
A:第三章で行き詰まった説、説得力がある。結論が出ないから毛色の違うものを書いたのでは。
C:第三章までのカードボックスと四章以降のカードボックスも違うものかもしれない。第四章以降は、最初の構想とは違う展開にしたのではないか。
第四章は、口から出まかせみたいで面白かった。まとめに入っていくと「あー」って。

【自由な発想で作品をつくることについて】
B:佐山がたくさんいるってところは『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイを連想した。あと、物語の舞台がイレギュラーな存在のない世界へ移った、というところは漫画『ローゼンメイデン』を思い出す。近年のサブカルでも見られる要素があるから、若い人は受け入れやすかったのかな。
D:ループものでは『カゲロウデイズ』も流行りましたね。
A:私は村上春樹騎士団長殺し』の、小人が絵から出てくるところで無理だったくらいで。『熱帯』の、佐山尚一がいっぱい、というのも受け入れがたい。
C:読み手が試されている。
A:Cさんは論理的に話されていると思いきや、間口が結構広い。ライトノベル的な作品も受け入れられている。
C:以前、読書会で取り上げた阿部暁子『室町繚乱』ライトノベル寄りの作品。登場人物の台詞が現代風で読みやすい。
たとえば台詞で「ござる」とか書いたら面白くない。歴史小説でも、柔らかく普通に書いたらいいのにと思う。ラノベ要素を取り入れると読みやすくなる。
日本史の漫画も、小和田哲男先生など、しっかりした人が監修している。
小説も、従来のパターンから脱却したほうがいい。同人誌で実験的に、自由な発想でやってみるとか。
A:読者層が変わってきていますもんね。