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R読書会/Zoom読書会

『動物農場〔新訳版〕』ジョージ・オーウェル、山形浩生訳(ハヤカワepi文庫)

R読書会@オンライン 2021.09.25
【テキスト】『動物農場〔新訳版〕』 
      ジョージ・オーウェル山形浩生訳(ハヤカワepi文庫) 
【参加人数】6名

<推薦者の理由(参加者F)>
文学学校へ通っていたとき、こんな作品があると教えてもらって手に取った。童話を読んでいるように面白く読めたが、権力を痛烈に批判しており、こういう形で言いたいことを言えるんだと衝撃的だった。
(私たちが普段書いている小説と)作り方は全然違うけれど、書くときの参考にできるかと思い、そして純粋に作品として面白いので薦めさせていただいた。

<参加者A>
◆とても読みやすく、最後まで一気に読めた。書かれていることはソビエト連邦社会主義への批判であり、社会主義そのものだと思った。寓話の形にすると、他の国に当てはめることもできるし、言論の統制が厳しい場所に当てはめることもできるし、読む人の現状にも当てはめることもできる。ただ面白いだけではなく普遍性がある。
◆以上のようなメリットの他に、寓話にする必然性はあったのかという気もする。社会主義をそのまま具体的に書いてもよかったのではないか。ジョージ・オーウェルソ連にいたわけではないので、敢えて寓話にした意味とは?

<参加者B>
◆社会風刺的な作品が好きなので、大変面白く読ませていただいた。ジョージ・オーウェルの作品は初めてで、『1984年』などディストピア作家のイメージだったが、『動物農場』を読むとコミカル社会派という感じ。悲惨だけど明るい。
◆作者は社会主義や人間の闘争に絶望していたのか、それとも希望を持っていたのか?
◆忠実なボクサー=思考停止した直情型の人間は政府にとっては格好の餌食。可哀そうだが最後に救いはあっていい。それが作者の優しさだろうか。
◆自分たちで作った国で暮らそうと社会主義を打ち立てるが、権力の座についた瞬間に腐敗していく。権力の構造が無限に繰り返されているのが無駄なく描かれていく。このループは永遠に続くのかと悲しくなった。
◆ハヤカワepi文庫の山形浩生の訳本には、序文から解説(訳者あとがき)まですごく詳しく載っており、最後まで読むと作者の意図がわかる。

<参加者C>
◆私は角川文庫の高畠文夫の訳本(1972年発行、1991年に改版)で読んだ。こちらもオーウェルの生涯など解説が充実しており、わかりやすかった。
ジョージ・オーウェルは『1984年』がよく話題に上るが私はまだ読んでいないので、(この『動物農場』を読んで)そちらも絶対読まなければと思った。
◆こういう形で象徴的に書いたから少ない分量で構図を描いてみせられる。
リアルなドラマにしてしまうと、人間の人格にフォーカスを当てなくてはならない(人物像を膨らませて、人間ドラマにしなくてはならなくなる)。そうすると構図としての社会批判、スターリニズム批判からずれてしまう。なので、動物化カリカチュアして書いている。うまいこと締まった作品。
◆どんどん戒律が詐術で変えられていき、やがて「四本足はよい、二本足は悪い」までひっくり返してしまう。結末をどうするのかなと思っていたが、そんなことまでひっくり返すのかと驚いた。権力者を甘く見ていた。
◆革命後の苦しい生活を素晴らしいと信じ込まされている動物たちは、格差社会で生きる私たちと変わらない。誰にでもチャンスがあると言われているが、実際にそれを手にすることは難しい。我々は本当に自由なのか? それとも奴隷なのか?
スターリニズム批判を超えて、どんな時代でも通じる権力批判になっている。

<参加者D>
◆1944年に書き上げられた作品だが、70年以上前に書かれたものとは思えない。権力を手に入れたらこうなるんだということがよく描かれており、恐ろしい。
◆(ハヤカワepi文庫の山形浩生の訳本に)序文や解説が載っているので、とてもわかりやすかった。動物を使った作者の意図も理解できた。
ソ連の率いる社会主義国家を批判しようとして書かれた作品。序文案には、かなりのページを割いて報道の自由にも言及している。なぜ作者が批判をしているのか、この版にはすべて書いている。
◆最初は序文や解説を読まずに本文を読んでいたので、現在の社会主義国家のことを連想したが、日本も報道の自由が怪しいところにきている。世界報道自由度ランキング2021年版だと日本は67位(参考:1位・ノルウェー、2位・フィンランド、3位・スウェーデン、4位・デンマーク、5位・コスタリカ……42位・韓国)。プロパガンダも気をつけているが、とんでもない言葉が人の口から上がってきている。特定の政党を推していないと反日であるかのような風潮なども。気をつけないといけないと思った。

<参加者E>
◆推薦していただいでよかった。本当に偶然だが、一週間前の読書会で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』を読んだばかりなので。オーウェルはハクスリーの教え子で、『1984年』と『すばらしい新世界』はディストピア文学の双璧をなすと言われている。本当にタイミングがよく、読書の神様っているんだなと思った。
◆この小説は現代において、社会主義への批判というより、すべての権力への批判として読めると思い、そこに寓話にする意味を感じた。
権力を持った者が、最初はまともなことを言っていても(本人も本当にそう思っているのかもしれない)だんだん権力に溺れてしまう。すごく普遍的だと思う。
◆私は豚よりも、他の動物の態度が気になった。でも、自分がそうでないと言い切れない。(戦争で死ぬかもしれないが)ヒツジでいるのが一番楽だろうし、ボクサーでいるのは幸せであるとも思う。
一週間前の読書会も踏まえてだが、「考えること」「学ぶこと」の大切さを強く感じた。権力側は、私たちが無知であることを望んでいる。だから、考えることや学ぶことをやめてはならない。
ジョージ・オーウェルオルダス・ハクスリーの作品をもっと読んでみたいと思った。
◆序文と解説は必要だけど、本文のあとから読むべきだと思った。最初から社会主義批判として読むと見落としてしまうこともあるだろうし、自分の頭で考えるべきこと、気づくべきことも多いはずなので。

<参加者F(推薦者)>
◆バイブルみたいに読んだらと言われている本。実際に読んで、多くの人に読み継がれている理由がわかった。

<フリートーク
【なぜ権力者の象徴が豚なのか】
B:なぜ権力者の象徴が豚なのかわからなかった。
C:豚には欲の深い動物というイメージがあるのでは。
D:馬のボクサーは必死に働いて(男性)、クローバーはお母さんのように動物たちを庇護して(女性)、モリーはリボンや砂糖を気にして(女性)……女性蔑視的な意味合いもあるのかな。
C:三鷹の森ジブリ美術館の運営するサイトでアニメ『動物農場』(イギリスのアニメーションスタジオ・ハラス&バチュラーが1954年に制作)の予告編や寸評が観られる。宮崎駿氏らの解説も。「今、豚は太っていない(「動物農場」を語る/宮崎駿インタビューより)」。
・アニメ映画『動物農場』公式サイト https://www.ghibli-museum.jp/animal/top.html
・予告編 https://www.ghibli-museum.jp/animal/trailer/
・「動物農場」を語る https://www.ghibli-museum.jp/animal/neppu/

【寓話とした意味】
A:Cさん。登場人物を「人間」として書くと構図はぼやけてしまうものですか?
C:具体的な人物として書くと、人物の運命を描くためにドラマが増えてしまって、構図を描くということがぼやけてしまう。
A:人物造形に力が入ってしまって。
C:人間のドラマにしてしまうと、どうしても人間ドラマになってしまう。構図よりそちらに焦点が当たりやすくなる。

【大衆の意識について】
D:最近、ウィズセンター(男女共同参画推進センター)で、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著『戦争は女の顔をしていない』を借りて読んだ。第二次世界大戦で志願し従軍したが、戦後は世間から白い目で見られ、戦争体験を隠さねばならなかった女性たちを扱ったノンフィクション。自分から戦争に行ってしまうという風潮は恐ろしいし、気をつけたい。
B:作者は作中でヒツジのような奴隷根性も批判している。庶民のプライドの無さが権力者を温存している、と。
D:不当な扱いに甘んじている動物たちのほうも批判していますね。ベンジャミンは動物たちに真実を教えようとすればできたのに、シニカルに横目で見ているだけ。
B:冷笑的な知識階級を、もっとも憎んでいる。
D:読んで、「選挙に行かないと」「政治に参加しないと」と思わせられた。
B:私たちだって、安い物があったらそちらを買って思考停止して……ポピュリズムに流れて支配階級を支えているようなところがある。引きずり下ろしてはいない。
D:日本も本当の意味では自由がない。
私は、皇族制度は人権無視だと感じる。皇族が必要なのかアンケートもしないし。イギリスでは「女王の存在は観光に貢献しているし……」という意見が出てくるけど、日本ではそういうことすら書いてはいけない。1944年のイギリスではソ連を悪く言ってはいけないという風潮があったようだが、それは今の日本の風潮と同じ。
B:人間って変わってないんだな、と。
D:憲法九条を守る活動をしている人も高齢化している。そういえば岡山は静か。大阪の人とオンラインで通話しているとデモ隊が通る音が聞こえてきたりする。
B:岡山は保守王国ですからね。

<雑談>
(通信が不安定でメンバーが抜けたり、連絡しあったりしていた)
A:呼びに行って帰ってこない……。
E:ホラー映画みたいな(笑)。
A:(ホラー映画では)なんで行っちゃうんだろうね。
E:コロナ禍でも自分は大丈夫だと思って旅行へ行って感染する人がいるし。画面越しと違って、実際にその場にいたら危ないことに気づかないものなのかな。
A:アメリ同時多発テロを契機とした対テロ戦争のとき、(戦争に)行ったらまずいなって思って。行く兵士が可哀そうだと。でも、国のためを思っている彼らにそう言うのは失礼な気もして……。その時代の中にいると声を上げられないのかも。
D:ブッシュの大統領二期目が決まったとき、「なんで」という声もあった。反対する人がいても、その声は届かない。

 

★R読書会では、ジョージ・オーウェル1984』もテキストになりました!

★Zoom読書会では、イートン校でオーウェルにフランス語を教えていたオルダス・ハクスリーの作品を取り上げています!

『すばらしい新世界〔新訳版〕』オルダス・ハクスリー、大森望訳(ハヤカワepi文庫)

Zoom読書会 2021.09.18
【テキスト】『すばらしい新世界〔新訳版〕』
      オルダス・ハクスリー大森望訳 (ハヤカワepi文庫) 
【参加者】7名

<推薦者の理由(参加者G)>
単純に「好き」だから推薦した。ディストピアを描いた作品は、世界について考えさせてくれる。また、暗示や教育について、皆さんの意見が聞きたかったというのも理由。

<参加者A>
◆名前だけは聞いたことはあったが読む切っ掛けがなかったので、紹介していただいてよかった。
◆なかなか興味深く面白かった。1932年に発表された作品だが、私が高校時代に読んでいたSFのようであり、また、その頃のSFと比べても遜色がない。今の時代でも読める作品。
◆現代とは科学技術の発達の方向が違うことは置いておき(作中では、通信設備を担いでいたり、ドローン技術がなかったりする)、よく考えて書かれている。
◆発表当時は社会風刺として効いていたかもしれないが現代とはずれている。展開は巧く、論旨は納得できる。
◆野蛮人ジョンと世界統制官ムスタファ・モンドの論争の場面(第17章)では両方の論が納得できるように書かれており、そういう意味では上手に物語が作られている。
ただ、ジョンとムスタファ・モンドがどうして対等に論争できているのか、また、この論争はストーリー上適当なのか疑問が残る。作者が読者のために論争しているのでは。
ナチスの優生思想、英国の階級社会などを取り入れた世界観。現代に書くなら、もう少し違うものになるのかもしれない。その辺りからも、当時の人の考えを知ることができて面白く読めた。
◆階級の設定も興味をひく。たとえば最下級のイプシロンは家畜のような扱いで、条件づけにより、家畜的であることに幸せを感じるように作られている。単細胞ではないけれど単細胞分裂のように、一卵性多胎児として増えていく不気味さがある。
方向づける教育はナチスドイツだけでなく、当時の日本でも行われていたのを思い出して、少し恐ろしく感じた。そのような教育は現代でも一部の国で行われており、今後そういう世界になりかねない――そんな漠然とした不安を覚える世界を巧く作り出している。
◆翻訳上の問題化もしれないが、「野蛮人」という呼称はどうなのか。野蛮人というと相当遅れた人種を想像するので、記号化して別の単語を当てはめたほうがよかったのでは(記号化:たとえば……新型コロナウイルスの集団感染を「クラスター」と呼び、今は「クラスター」といえば新型コロナウイルスの集団を指す言葉になっている)。
光文社古典新訳文庫の『すばらしい新世界』では、植松靖夫氏の丁寧な解説が巻末に載っているが、その内容に引っ張られてしまう。もう少し読者に考えさせるほうがいいのでは。

<参加者B>
◆1932年に発表された作品だが、本が読める端末や香りを出す装置など、当時はなかったが現代にある技術が描かれていて、作者の想像力がすごいと思った。
◆描かれているのは、“社会の不平等”が明らかになってきた時代だろうか。
◆私は最近、心の安らぎを求めてゾンビ映画を観ており、その際「みんなゾンビになってしまえばいいんじゃないのか」「人類は滅亡してもいいんじゃないか」と思っていたので、この作品には考えさせられた。この作品の世界ほど人工的に作られた、統制された社会となれば、人類は存続する意味がないのでは。
◆テーマは「幸せについて」。幸せとは、ということがたくさん書かれていた。野人ジョンは自ら“不幸”を選んだ。彼の自死の原因は、不本意ながらソーマを服んで乱交してしまったことが切っ掛けだが、ソーマを服むことは作品中の世界における文明人の幸せである。文明人の幸せとは、“その瞬間の幸せ(私たちで言うところの、お菓子を食べているときの幸せ、空が青くて気持ちいいときの幸せ、など)”であり、それが提供される世界だが、瞬間的な幸せはいずれ逃げていく。人間の“その瞬間の幸せ”ならわかるが、各自にとって最善の幸せとは? 悲しみの中の幸せというものもあるだろう。統制された社会は続いていくと思うが、それはレールを敷かれた幸せしか感じない世界である。

<参加者C>
◆私はSFが好きだがこの作品は読んでいなかったので、いい機会だった。科学万能の、楽しげなディストピアだと感じた(冷戦期に書かれたディストピア作品などには、もっと暗い雰囲気のディストピアが登場するので)。
◆ストレートに怒りを書いたら怒りがにじむ作品になるが、明るく書いている。
◆未来の描写も、書きすぎていないのがいい。宇宙人も出てこないし。
ヘリコプターが実用化されたのは第二次世界大戦後だから、1932年に発表されたこの作品の中で使っているのは慧眼だと思う。
◆小説としては引っかかる。第1章~第3章の会話での説明や、ジョンとムスタファ・モンドの会話でシェイクスピアを引用している部分など。この時代の読者は許容できたのだろうが、現代の読者だと我慢がきかないのでは。
◆ジョンが極端な人物として描かれているため、物腰が洗練されているムスタファ・モンドのほうに共感しやすい。
◆自分が属していない文明圏のことは、ディストピアに見えるのかもしれない。
◆現代とこの作品中の世界は似ていないかな。今の日本で問題になっているのは社会の分断なので。

<参加者D>
◆翻訳された文を読むのが苦手な私でも読みやすかった(原書や他の訳本を読んだわけではないので、もともと読みやすいのか、訳のおかげなのかはわからないが)。
◆所長がレーニナのお尻を叩くところ(P26)は「ん?」と思ったが、読み進めていくと、この世界の価値観が明かされていき「なるほど」と腑に落ちる。社会が変われば常識やマナーも当然変わっていくのだろう。固定観念が破られ、自分の足元がぐらぐらと揺れる感じがする。私たちが当たり前だと思っている価値観や常識がどれほど脆いものか、考える切っ掛けになった。
◆ムスタファ・モンドの話を聞いていると、管理された世界が幸せのように思いかけるのだが、ソーマ(麻薬)漬けであることや、気持ちを押さえつけなくてはならないことを考えると、やはり違うなと思う。
◆“幸せ”と同時に“不幸になる権利”についても考えた。
◆条件づけは、現代日本の育児や学校教育でも普通に行われていることでは。教育とは洗脳であり、刷り込みでもあるはず。親や教師が正しいと思うことを伝えるしかないが、それは別の世界においては正しくないのかもしれない。

<参加者E>
◆私は、この世界がディストピアであるとは感じず、私自身が理想とするユートピア小説として読んだ。皆さんが「カースト的に差別/区別されていいのか」とか、「そうしてまで人類が続く必要があるのか」と仰ったのを聞いて、私は異常なのかと思った。
◆こんな世界になったらすごくいいと感じる。ソーマで苦しみや悲しみを忘れて幸せになれる。「悲しみがあるからこそ幸せを感じられる」という考えが一般的だと思うが、楽しみがあれば苦しみもある……そういう教育を受けているからでは。
私はそうは思わない。危険思想なのかな? ソーマがあったら服みたい。老いや病気、悲しみ、嫉妬の塊なので。不幸とは思わないが、自分自身の存在が重すぎてにっちもさっちもいかないから、忘れることができたら、と感じる。
◆家畜は不幸を感じない。私は小説を書くなど、頭脳的なことをしているときは楽しくないが、ジャガイモの皮むきなど単純作業はとても楽しい。イプシロンが不幸とは思わない。私は、条件づけで肯定されるなら、いくらでもイプシロンになる。
◆幸せは脳内物質によってもたらされる。作者のハクスリーもドラッグ中毒者。ドラッグで陶酔しているときにユートピアが見えるのでは。ハクスリーが「すばらしい新世界」をアイロニーで言っているのかどうかわからない。アイロニーで書いているとは思うが。

<参加者F>
◆『すばらしい新世界』は別の読書会でも取り上げたことがあるので、読書会のテキストとして読むのは二回目。
また仕事柄、学生への課題として出している作品でもある。一般的な感想は言われ尽したと思うので、また違う角度で話すことにする。
オルダス・ハクスリーは、よくジョージ・オーウェルと比較される。オーウェルディストピアが徹底的な圧力と監視によるものであるのに対し、ハクスリーのディストピアは真綿で首を絞めていくような世界。
◆作品世界のベースは現実社会で先行する教養によるところが大きいので、その当時の社会批判になる。
・(Aさんが指摘された)優生学は入っていると思う。作者の祖父のトマス・ハクスリーは動物学者で優生学と関わりがある人なので。
・当時、社会の分断もあった。1930年代では、中流階級の英語と下層階級の英語は通じない。
◆タイトル「すばらしい新世界」は、シェイクスピアの『テンペスト』の第五幕「O brave new world,. That has such people in't!(ああ、すばらしい新世界。こんな人たちがいるなんて!)」から(『すばらしい新世界』P193に引用)。追放された貴族が孤島を植民地のようにしながら暮らし、最後は文明世界に帰っていく……「brave new world(すばらしい新世界)」は文明世界に帰っていくヒロインの台詞である。
ハクスリー『すばらしい新世界』ではそこを転倒させている(=野人が新世界に入っていくが絶望する)。
植民地主義と深い関わりがある『テンペスト』をこの作品に引用しているのには意味がある。植民地は外国の土地や人間を利益のために均一化する(サトウキビの栽培だけをさせてほかの発展を認めない、など)。頭脳作業で全体を把握してるのは上層部だけで、先住者は教育による条件づけにより、ある面において家畜化されている(=個々の個性はなく、社会に対する義理だけを立てる)。
すばらしい新世界』には、「人を家畜化する」植民地的な発想がバックにある。
ディストピアなど管理社会の小説を書く人は植民地に関わっているのではないだろうか。ジョージ・オーウェルもイギリス植民地時代のビルマで警官をしていた。人を家畜化するという発想はヨーロッパの植民地主義からくるものだと推察する。だからこそ今でも読むに耐えうる。
◆「brave」は「すばらしい」と訳されているが、今では「勇敢」という意味である。『テンペスト』はシェイクスピアの時代に書かれた作品で、「すばらしい」という使い方は1930年代当時でも違和感があったが、ハクスリーはわざと用いている。→古いものへの愛着が管理社会へのアンチテーゼになっている。
◆ジョンとモンドの理屈の取り合いの中の「科学における発見は、どんなものでも破壊につながる可能性を秘めている。だから、科学でさえも、ときには潜在的な敵と見なさねばならない」(P312)に注目したい。
シェイクスピアの時代、「化学(science)」には「知識」「知恵」という意味があった。論争を読んでいくと、野人ジョンのほうは「科学」を「知識」「知恵」と捉えているきらいがある(つまり、この論争では古語と現代語がないまぜになっている)。ジョンは「知識」「知恵」が具体的に何を意味しているかはわからないが、「何かを動かすもの」だと理解している。
即ち、この場面には、「知識」は安定した社会の潜在的な敵となるという意味が込められている。
◆支配層は、社会が完全に分断して下層階級は脳が退化しても構わないと思っている。
◆主観的にはとても気持ちのいいディストピアというのが、この作品のキモだと思う。その世界はジョンから見ると不快なのだが、ジョンの住んでいた世界も、外側の人から見ると不快に感じられる。その対立。

<参加者G(推薦者)>
◆言いたいことは、だいたい言っていただいた。
◆『すばらしい新世界』は最近出会った本。
◆教育や暗示は怖い。
私は16歳のころから料理の仕事をしてきたが、16・17歳からやってきたことは頭を使わなくても体が勝手に動く。こういうことかと感銘を受けた。
また、私はもともと文章を書くことや物語を作ることが好きだったが、文章や物語について学校で学んで、自分のリズムで書けなくなった。「こうしなくてはならない」という暗示に、中途半端にかかってしまったのかも。
完全に条件づけされたら幸せなのだろうと思う。
◆現代では、大方の意見に否定的なことを言うと嫌がられる風潮がある。自分の意見を通すと批判されるから大多数と同じことしか言えない。「個人」が死んでいく。
毎日さまざまなニュースや情報が流れ、情報の海に溺れている感じ。将来的に、その情報はコントロールされるのでは。
すばらしい新世界』は、そんな現代社会の行き先に思える。『1984年』の世界はさらに先か。
◆書くというのは、自分の中にあるものを表現するということ。流行や風潮に流されず、自分のものを書ければいいなと思う。
◆冒頭部分の説明は多いが、読者へのナビゲーションの役割があるのかもしれない。
◆第17章のムスタファ・モンドと野人ジョンの場面は好き。科学者の自分を殺したモンドと、それができないジョン。狡猾な老人と青年の対比は普遍的で、100年後であってもこの作品は読まれるのでは。
◆科学的には現代と違うが、イメージによって当たっている部分も多い。たとえば(精神的に)子どもでいなければ生きていけないところなど。
◆現代は父親による管理、父性原理が強い。関西が元気なのは母親が強いからじゃないかと思う。母性原理を見直してほしい。

<フリートーク
ディストピアにおける父性と母性、家族】
E:私は子どもを育てることにエネルギーを注いできたが、母性が本当に必要なものなのか疑問に思う。人間の幸せは、自分の世界を作って自分の幸せを追求するものだと思うが、母親は、子どもがいると自分を犠牲にできてしまう。
「母性は神様のようにすばらしい」と思っている人も多いけれど、果たしてそうだろうか。子どもがいないほうが自由に生きられる。
G:確かに、子どものほうでも親に依存してしまうことだってある。
F:この作品ではfamily(家族)の概念自体が猥褻なものとして排除され、消されている。ムスタファ・モンドが語るところによると、惹かれ合って家族を作るのは「執着」であり、バランスを欠いたもの。母性にはいい面もあるが、子どもからすると母性が恐怖に転化する場合もある。それをこじらせるとミソジニーになるケースも。逆も然りで、父親や父性に関しても同じことが言える。
親が子どもに執着するとバランスを欠いてしまう、ならどうしたらいいか? 「生まれる」という概念をなくしてしまえばいい。家族でなく、Cluster of α、Cluster of βというセットにしてしまって。
この作品には、「家族」というものの冷酷な解体という側面もある。人間の感情を極めて家畜化し、動かないようにする手段として、男女に執着を持たせない。執着は国家元首や社会全体に対するものであるようにする。
他のSF作品でも結構見られる。「“パパ”“ママ”それは何だ?」みたいな。そんな世界においては、(「家族」「パパ」「ママ」などが)モラル的によくない言葉になってしまう。
G:僕が読んできた作品のディストピアは父性が強い。母性がテーマのものはあるのか?
F:まだ読んでないが、2021年4月刊行の『マザーコード』(キャロル・スタイヴァース著/早川文庫SF)とか。最近流行ったのはマーガレット・アトウッド侍女の物語』、続編の『誓願』(いずれも早川書房)。キャサリン・バーデキン『鉤十字の夜』(水声社)では、ナチスが勝利した世界が何百年も続いて、ユダヤ人の代わりに女性が迫害される男社会になっている。ちなみに作者は女性。
しかし私が思うに、女性至上の世界であろうと結果は同じ。一つのことに執着してしまう、執着したゆえにトラブルになる。ムスタファ・モンドから見ると「そら見たことか」と。
ディストピアとは、削ぎ落としが極端になったらどうなるかという思考実験的な面もある。
G:Eさんは子育てした経験をお持ちだが、瓶詰めで人間を作るのがいいなと?
E:思う。妊娠したときから自分の体ではなくなる。人間として限界。出産・育児は楽しい仕事ではない。言葉はよくないが、子どもは親を裏切るし、裏切らなくちゃいけない(=反抗期を経て独立しなくてはならない)。だから母親は、子どもに裏切られるという試練を受ける。
女にとって家族とは、男の人の世話をすること。自分に好きな人ができても不倫とか言われるし。人を好きになるのは自然なことなのに、そういう価値観って何だろう。
ハクスリーの価値観はわからないけれど、女性の体を「むちむち」と表現していたり、作品の中でエッチなことばかりしている。

【尊厳について】
E:なぜ痛みとか苦しみ、執着が悪いのか。
F:いい悪いより、それをよしとする世界、よしとしない世界がぶつかって、わちゃわちゃしているのがこの作品。「安定しているがどうか」という見方。人間にとってどちらがいいのかと問われているのでは。
E:(現実世界の)テロリストも、本を読んだりしていたら自爆しないのではないかな。
F:すばらしい新世界』の世界に欠けているのは個人の尊厳。死ぬまで安定しているとか、ある種の尊厳はあるが、自発的に何かをする尊厳がない。(その世界の)外から見ると非常に尊厳がない。野人ジョンが怒るのはそこ。
(現実世界で)自爆テロを行う人も尊厳に欠けている。自爆すれば神がユートピアで尊厳を与えてくれる、という考え。本人たちが入ってるぶんには快適だから、自分に尊厳がないことがわからない。そこにややこしさ、めんどくささがある。
A:尊厳が必要だとかメインだとか、そうなのだが、それだって条件づけ。条件づけられたジョンがそれを述べているにすぎない。たとえばキリスト教の世界にはキリスト教の条件づけが、イスラム教ではイスラム教の条件づけがある。片方からしか見ていない。
ディストピアであり、ユートピアでもあるのがこの小説。
G:私は料理の仕事をしてきたのだが、和食と洋食では包丁の持ち方から違う。一定のエリアで正しいことが他では悪。生きていることは不安定。
E:作者の価値観がわからない。アイロニーなのか、本当にすばらしいと思っているのか。両方を提示して、結論は読者が決めるということか。
F:だからこそ現代まで読まれている。作者はわかったうえで放り投げている。読む人も敢えて確定しない人が多いのでは。
A:相対性理論は確かな軸がない。いろいろなところに軸がある。すべて自分自身が中心。今まで経験してきたことに基づくしかない。人はみんな違うので紛争があるのは仕方ない。
条件づけによってすべての人を愛せる世界になっても、誰かが嫉妬を持ったら終わってしまう。「自分の相方を誰かに奪われてしまう」という気持ち(所有欲)がなければ不倫は成り立たない。領土だってそう。奪われたら奪い返さなくてはならない。すべてが中心なら紛争があるのは当たり前。
F:そこで『オセロー』を引用しているのは巧み。疑いだしたらきりがないから管理者はそれがないようにしている。
A:シェイクスピアも権威。
F:イギリスの上層階級が共有している知識だから出した、という面もあるかも。
A:野人ジョンがシェイクスピアを出したからあのような議論になったが、彼がシェイクスピアを知らなかったら別の議論になる。

【世界と人類の存続について】
F:ディストピアを描いた作品で)主人公はその世界に馴染まない人物として設定される。あるいは他所から来た人。
1984年』だと体に異常があって馴染めない、というふうな。『すばらしい新世界』の場合は生産の際のミスによる欠陥。そういうキャラクターが違和感を感じ、物語になる。技巧というか流儀。
A:ものすごく脆弱な世界だな、と。アルコールを間違えて混入したり、22年後に眠り病になったり(P258)。誰かの人為的なミスによって崩れてしまう世界だということを随所で示唆している。そういえば、現代でもワクチンに異物が混入していて騒ぎになっているが……。
E:個性はなくならないと思う。この世界、ある程度の個性は残っている。(バーナードの)アルコールの影響だけじゃなくて。
A:でも途上で個性を殺していっている。
G:Bさんが仰られたみたいに、そうまでして人類は必要なの? となる。
B:生物はよく滅亡しているし。恐竜とか。
A:この世界は自然的じゃなく人為的。種が存続していいのか考えていない。
G:確かに。そんなこと考えていない。安定と維持だけ。惑星がなくなるまで続けばいい、という感じ。
A:私たちだって考えていない。いずれα、βみたいな超人類が出てきたりして……あまり続かないほうがいいのかも。
G:ネットの中に漂うみたいな進化はないかな。素粒子になったりして。

現代社会における「ソーマ」】
F:ソーマは寓話的。現代日本だとSNSの「いいね」の数がソーマに近い。何かあったらコネクトして憂さを晴らす。ネット上の固定化した階級の中で生きていく。あるネットの言説を信じる人、信じない人で分かれる。自分が心地よい情報を摂取して生きていく。ソーマの寓話は現代でも通じる。
G:安部公房の『砂の女』みたいな。
F:ネットにリソースを提供するのは、無賃労働や搾取に通じる。現代日本もあまり笑っていられない。仮に異星人が外から見たら「何やってるんだ」となるかも。
A:きっと将来、SNSは禁止されると思う。麻薬だって昔は合法だった。
G:今問題になっているネットいじめも、その布石だったり。
A:人間はそういう麻薬的なものを根絶できない。禁止するほうが不自然。だから容認したらいいという考えもある。新しいユートピアができるかもしれない。実現するには実験しなくてはならないか。

【余暇の過ごし方について】
E:マルクスが「4時間労働になったら余暇は何をすればいいんだ」と言っていたけれど共感する。
F:マルクスの娘婿(ポール・ラファルグ)も言ってますね。労働に最適化されすぎて。
A:「仕事」とされていることが肩書に置き換わってしまっている人がいる。4時間労働になると4時間しか威張れないから、そういう人にとっては都合が悪い。
E:労働抜きにしても、余暇の使い方が上手くないのでは。
A:人間には、他人より優れた者になりたいという欲求がある。小説を書きたい人は小説を書くし、絵を描きたい人は絵を描くし……自分が得手とすることを求めてさまよっている。仕事が得意な人は、それに逃げ込んでしまう。
E:時間があってもすることがないというのは苦痛。
A:そういうときはタガを外す。不倫やギャンブルで時間を潰す人も出てくる。
E:すばらしい新世界』では、異性との交流が幸せ、と言っている。
F:それは、性行為から快楽と生殖を切り離しているため。責任がなく快楽だけが残るのでレジャーになる。

【母性について、「見られていること」について】
G:『バルーン・タウンの殺人』(松尾由美)の殺人犯も、人工子宮が普及した社会の物語。私はどうしても「母性」が核になってしまう。
A:「母性」一言で言っても、貧困のために子どもを売り飛ばしていた時代の母性と、現代の母性は違う。上流階級であっても、子どもから引き離された母親に母性は出てくるのか? 北条政子のように息子を死に追いやってしまうかも。
E:性神話というものがある。子どもを母親に任せていたら楽だし。
A:私たちの世界の「母性」をSFに当てはめるのがおかしい。
(物語の世界において)条件づけで母性を否定させるより、自然に持っていかないといけないのに。これがSF世界の矛盾しているところ。
F:イギリスの圏内に限ったことじゃないけど、生まれがいい人は子供時代、母親でない人に預けられるので、母親が遠くなる。男は男の中だけで育つ。チャールズ皇太子は母親である女王に会うときは緊張するそうだ。いい家であればあるほど母親と遠くなる。
核家族で温かく見守られている、というのは最近の概念。ジョージ・オーウェルは、労働階級の母子はいいなと見ていたが。
E:プロテスタントから見たら聖母マリアは人間。神様ではないけれど信仰されている。人間は母性に憧れる。
A:マリアは父親なくイエスを生んでいる。だから神なんです。
G:マリアは観音的なもの?
E:マリア観音ってあるし。
G:観音様が見ている、というような。
F:ビッグ・ブラザー※が見ている(※『1984年』より)。「見られている」という気持ちの顕在化。
G:それ!
E:自転車を漕いでいるときマスクは意味ないんだけど、してしまう人がいるのは、他人からの監視ではなく、自分自身からの監視によるものかも。
F:それがやがて他人への監視になる。「自分はちゃんとしているのに」という。
B:若いころ、日本で嫌なことがあって、移住しようとカナダで出産した。私はマスクをする意味がないときには外している。同調圧力がいやで。

 

★R読書会で、ハクスリーの教え子であるジョージ・オーウェルの作品を取り上げています!

『猫狩り族の長』麻枝准(講談社)

Zoom読書会 2021.08.28
【テキスト】『猫狩り族の長』麻枝准講談社
【参加人数】6名

<推薦者の理由(参加者F)>
作者である麻枝准は、ビデオゲームビジュアルノベルの作家。テキストと同時に流れる音楽の作詞作曲もしているのでミュージシャンという側面も持っている(余談:『鬼滅の刃』の主題歌で有名になったLiSAのメジャーデビュー曲を作ったのも麻枝准)。サブカルチャーの世界でのキャリアが長く、著作もサブカル関連のものが多い。2016年に突発性拡張型心筋症を患い、その後も活動を続けていたが、近年消息が途絶えていた。その間に本作を書いていたようだ。
作者の小説家としてのキャリアはゼロなので、小説を読み慣れた人・書き慣れた人・作者の作品を知らない人の意見を聞いてみたいと思い推薦した。

<参加者A>
◆作者がゲームなどのシナリオライターと聞いたので、その情報に引っ張られて読んだ。
◆2010年に第5回ポプラ社小説大賞を受賞した『KAGEROU』を思い出した。(『KAGEROU』は結構好きな作品)。テーマが似ている。
◆百合(女性同士の関係)や猫など、売れ線要素をきっちりと取り入れている。商業的にしっかりしているなという印象。今後、映画化などがあるのではないか。
◆キャラクター性や掛け合い等はライトノベル的。時椿が天に向かって叫ぶところなど滑っている気がしたが、読み進めていくと気にならなくなった。
◆十郎丸の思考には元ネタ(哲学)がある、と明示しなくてもいいと思った。「十郎丸は中学生みたいなことを考えているのではない」という言い訳をしているように感じる。
◆ラストは手堅く感動性もあるが、唐突でしっくりこない。伏線はあったのか? また、エンターテイメントとしては、もうひとつふたつ何かがあったほうがいいと思う。
プロトコル(約束事、読む上での手がかり・足がかり。たとえば「この物語だと超自然的要素はこのくらい……」というような)が不在。
◆読み終わった結果、ちゃんとしていたと思う。なんとなく好きになる。プロが書いた『KAGEROU』かな、と。『KAGEROU』はテーマ性と作者の筆力が噛み合っていなかった。『猫狩り族の長』を読んで、私の『KAGEROU』に決着がついた。
◆本に付いている帯に書かれていることは余計だと思った。(作品の内容が)作者のことだと引きずられて読み始めてしまうので。

<参加者B>
◆Aさんが「(小ネタが)滑っているとおっしゃったが、私は自分自身が滑ってしまって、どこに読む手掛かりを見出せばいいのかわからなかった。
◆滑っていたが最後で引っかかった。ラストで救われた。すごく深みが出てきた。崖から落ちたあと、長い時間が経って再開して、十郎丸が亡くなる。そのラストが好き。
◆私は純文学小説を書いているが、言いたいことを十書くのではなく一か二だけ書いて、読者に考えさせる。この作品ではすべて言葉で説明しているので、作者が言わせているというのが透けてみえてしまう。読者の考える余地(=行間)がないので、薄く感じた。読者の入る隙がなく、全部「こう読みなさい」と言われている感じがする。
◆読み進めるのがしんどかったが、最後はすかっとした(カタルシスがあった)。
◆たとえばゲームだったら、設定された場所に行って、目的のものをゲットして、今までの主張をそこで述べていく……というように進むのだろう。この作品の、そのような話の持って行き方に、ラノベを受け入れられない自分自身の体質を実感した。作品には、深みとか余韻、読者の入る隙がほしい。
◆十郎丸の言葉遣いが気になる。なぜ棒読みのような男言葉で書かなくてはならなかったのか。

<参加者C>
◆私にとっては読みやすくなかった。作品に入っていけず苦労した。Bさんがおっしゃったように、(作品の中に)私の居場所がなかったし、登場人物の誰にも同調できなかった。また、この一文が余計だというところが結構あった。
◆死と再生を扱った物語。ペシミズム(厭世観悲観主義)は好きだが、マーク・トウェインなどと比べると奥行きがない。
◆説明調。物語ではなくて音楽だと思った。詞でもない。マイクに向かって叫んでいることが文章になっているようだ。
◆本でも絵でも、思っていることをモチーフに表現するが、この作品は直接的すぎて入ってこない。
◆物語ではなく作者個人のカタルシスに重点が置かれている。物語ではなく「作者が思っていること」。愚痴や承認欲求を高いところからユーモアに包んでほしかった。満たされているけれど満たされないって不幸だよね、ということを、外から書いているのだったらいいのだが。
◆普段から作者のほかの作品に触れている人だと入りやすいのかも。作者の過去作を知らない状態で入ると辛いかな。
◆塔神坊(※モデルは東尋坊と思われる)も、風の匂いや海の匂いがしない。作者が今まで音楽で表していた部分は、文章で表現できなかったのかも。
◆ジャズハウスのシーンはむちゃくちゃ好き。その部分は音がした。作者の感性に触れた気がした。
◆ラストも嫌いじゃない。ウィトゲンシュタイン「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」。
◆苦労して読んだし、こんな世界があるんだと勉強になった。

<参加者D>
◆悪くない。結構面白かった。ただし、ラストまで読んでの感想。読書会だから最後まで読むが、そうでないと途中で閉じていたかも。
⇒この作品自体がそのような作りである。ラスト近くまで日常が続き、第八章でまとめ(十郎丸のSNS)が入っている。それまでは、そのためにあると意味はわかるのだが、辿り着くまでにへこたれる読者がいるだろう。損な作りだと感じる。
◆掛け合いが面白い。ネタが多く、よく尽きないなと思う。深刻なことを茶化していたり、皮肉を込めていたり……どのような意図があるのか読者はいろいろ考える。
◆二人の関係がどう変化しているか読み取れたら成功なんだと思う。そこをどう読まれるのかで違ってくるのかな、と。
◆面白いのは、最初にマウントをとっていたのは十郎丸だが最後で主客転倒するところ。
◆ラストで、死んだと思っていた時椿が帰ってくる。戻ってきてよかったと思えるのはいいが、外から見た世界について語っていないのが残念だった。確かに外の世界は想像で書くと馬鹿馬鹿しくなるし難しい。結局、展開の中でうまくごまかされてしまった。小説だからいいのだが、少しもやもやとする。
◆十郎丸が時椿の言葉で言えば美人で非の打ち所がないと書かれているが、喋り方でそのイメージが浮かばなかった。北川景子で読もうとしても和田アキ子になってしまう。ギャップを表そうとしたのだろうが、読者としてはついていけなかった。
◆ジャズの部分は良かった。ただ、「ワルツ・フォー・デビー」のイメージが違う。作者には別のイメージがあったのだろうか。コード進行を読み直してもいいかなと思った。

<参加者E>
◆私はすらすら読めた。
◆登場人物同士の掛け合いに西尾維新を思い出したが、西尾維新よりこなれていないように感じた。
◆読み終えて、終章「NEXT WORLD」のために、すべてのエピソードの積み重ねがあったのかと思った。「NEXT WORLD」は長い前振りがないと成立しない。
◆ジャズのシーンがとても印象に残った。私も音楽が出てくる小説を書いてみたいが、作者と違って経験も知識もないので、しっかり調べ、しっかり聴いてから書かなくてはいけないと思った。
◆P258~、哲学者の名前を挙げていくところがミルクボーイの漫才のパロディになっており面白かった。普通の会話として書かれると、それほど面白くないシーンになりそうだ。
◆十郎丸の話し方などについて、私は気にならなかった。比較的、アニメや漫画、イラスト付きの小説に慣れており、頭の中でキャラクターを想像することができたので。読者が普段触れているカルチャーによって読み方が変わってくるのかもしれない。

<参加者F(推薦者)>
◆ありがとうございます。私が言いたかったことはすべて出たかな。
◆「アニメやゲームならいいけど、一般文芸でこんなことしちゃダメだよ」と思った。
◆作者の過去作に慣れている者からすると「こいつまたやったな」という感想。文章も相変わらずという感じで。内輪ネタを外でやって外したような印象を受ける。
◆総合的には駄作だと感じるが、そんな中にも拾う点はあるいい作品。
◆十郎丸の女性らしからぬ口調に違和感を覚えたという意見があったが、作者の作品にこのような女性は結構登場する(女性はあるが男らしい感じで喋って、狂言回しを務めていたり)。
◆この作品で説明を抑え気味にすると、踏み固めが不十分になってしまうのではと思う。
◆何が言いたいのか、何が重要なのかと考えると、肝は外の世界(=神の世界、神視点)ではないか。Cf)P154~のイルカショーのくだりが外側の世界や存在の話
この世界は誰かが見ているのじゃないかと十郎丸に言わせているが、作者はそのようなところを気にしているのでは。私たちの人生は、(それを認識できないけれど)なにがしかの目によって観察されているという強迫観念。
◆作者の過去作であるゲームにも、そのような展開(外の世界の秘密)がある。長々テキストを読ませておいて「これを読んでいるあなた」というふうな。
外側の世界のあなた(本を手に持っている読者諸氏、コントローラーを握っているプレーヤー諸氏……)=オーディエンスをとても気にしている。
◆哲学者のくだりがあるので(P258~)、哲学かなと読みたくなるけど、「そうじゃない」と読者に意地悪しているような部分がある。
◆「NEXT WORLD」で外側の世界について語らなかったのは、人間の認知機能には限界があるので敢えて語らなかったか。
◆はっとしたのは、Aさんのおっしゃった『KAGEROU』にテーマが似ているという意見。空虚感やスカスカ感など、確かに似たようなところがある。「テーマとして言いたいことはわかるが……」というふうな部分も。

<フリートーク
【「美しい」という表現について】
B:村上春樹の『東京奇譚集』を読んだが、女性を「美しい」という言葉では表現せず、別の描写で読者に美しさ(個性)を感じさせる。
この作品では、十郎丸のことを地の文でやたら「美しい」と書いている。美しさを表現するのに「美しい」という言葉で済ませてはいけないのでは。
D:読者に美しいと感じさせようとしているのではなく、容姿と口調のギャップを出すための設定(=作られたギャップを面白く感じさせる仕掛け)。道具の一つなので具体的な美しさを書く必要はない。
F:あるいは、キャラクター同士が掛け合いをして、読み手に愛着を抱かせるための道具としての「美しさ」。口調や、美しいという設定は、作品の地固めの手段の一つ。また、アイテムであり記号の一つ。そこを、ストーリーの展開の中でだんだんとずらしていく。
ちなみに作者は影響を受けた作家として村上春樹の名前を挙げていた。
A:ゲームシナリオの場合、ビジュアルは描写せず、関係性にフォーカスする(ビジュアルはデザイナーが作るため)。
D:「時椿は十郎丸の美しさに惚れた」。設定としてはそれでいい。もともと作者がいたのは、デザイナーがビジュアルを作るジャンルなので、指示書のような感じで書かれているのかも。
F:「こういう関係性でいきましょう」と指示すればいいジャンルから、すべて一人で行う小説というジャンルに来たので、そういう側面はあると思う。
D:巨人の星』の原作者・梶原一騎も、星飛雄馬が「すごい球を投げる」としか書かない。どんな球かは、作画の川崎のぼるが考える。
F:作者も、美人が変なことをしている……などと書いてキャラクター付けをしていた。小説的方法論とはまた違うのかな。
D:アニメにはお約束があって、ツインテールと書いたら美少女としてデザインしてくれる。それはある種、小説に近い。この作品では、口調からでは美しさが想像できない、というのを作者が楽しんでいるのでは。

【自虐的?】
D:西村賢太苦役列車』は自虐的。それを考えると、この作者は自分を貶めていないなと。
C:プライドの高さは感じる。弱い自分を前に出しておけば安心するというのはある。アリバイ作りというか。物を書くというのはそのようなものという気もするが。
B:太宰治も作品にダメな自分を出しているが、本当はダメとは思っていないし。

【虚無感の描き方/虚無感について】
B:十郎丸の虚無感に関しては本物のような気がした。それを一生懸命、訴えている。
F:作者はこの作品を書く前に病気で生死の境をさまよっている。もともとの鬱屈に、そのようなものも絡んだのでは。
B:何もかも面白くないというのに、すごく共鳴する。そこには共感できた。
D:それをストレートに書いたら面白くないので、茶化したり、合いの手を打たせることでカムフラージュしているんじゃないだろうか。
B:確かにこの内容を普通の口調で喋ったら暗い小説になってしまう。美女の言葉では語れない。
F:この世界は底が抜けていて空虚なものだ、と作中で十郎丸が言っている。なんでも責任を持って自分で決めなくてはならない、とても理不尽な世界で我々は生きており、やがて理不尽に声を上げたくなる。生まれたくて生まれたわけじゃない、と。そこに「あなたは望まれて生まれてきたの」という言葉は空虚に響く。
業界トップになった作者は理不尽さをある程度知っている。自由が真綿で首を絞めるようになる、というのは作者自身の人生観かもしれない。「外の世界」を見れば納得できるかもという想いがあるのかな。
D:神を作ったのは人間。人間はなんのために生きているのかわからない。
F:人間だけ底が抜けていく。

【猫について/表紙について】
D:怪物には一つだけ弱点がある。竜の血を浴びて不死身になったジークフリートの、背中のある部分だけが弱点であるように(※ドイツの英雄叙事詩ニーベルンゲンの歌』より)。十郎丸にとっての弱点は猫。これがないと時椿は十郎丸を追い詰めることができない。
F:猫は、この作品における「親密さ」のアイコン。無条件で可愛い存在。ラストで、十郎丸は猫に好かれない「猫狩り族の長」になり、彼女のもとに時椿が帰ってくる。世界よりも、あなたとどこにいこうか、ということが大切。その場面に猫がいる。
タイトルに使われている割には薄いかなとも思うが。
C:猫は地に足つくためのアイテム、ということか。
B:猫に懐かれない猫屋敷の女王。ビジュアル的にも映える。
猫は、雑貨になっても猫というだけで売れる。猫を出すってずるいなと思う。表紙もすごくいい。
F:確かに表紙は商業的。帯はいらないと思う。売り上げを伸ばすために必要なのだろうが、どうしても帯の内容に引っ張られてしまう。

【主人公の変化について(小説作法)】
B:主人公の成長はあったのか?
F:相手をいかに許容するか、相手といかに向き合うかが変わっているので、それが成長と言うのかもしれない。
D:小説を書き始めたとき、主人公の成長を書けと言われるが、実は小説で大切なのは成長というか「変化」。堕落でもいいし、途中で変化があれば元に戻ってもいい。この小説にも変化がある。成長と言えるかはわからないが。
成長はわかりやすい変化なので初心者向け。
F:屋台骨をちゃんとした上でならウルトラCをしてもいいよ、ということ。基礎ができていないのにウルトラCに挑戦したら大怪我をしてしまうから。
B:私たち団塊の世代には「成長しなくてはならない」という想いが染みついていて。
D:誰が言い出したのだろう。私たちの前の世代にも崩れていく話はいくらでもあるのに。
C:世代ごとの、大きな意味合いでいう反動では。親世代と子ども世代は違う。現代の空虚感のあとは、激しいものに戻っていくのか、さらに空虚になるのか……。

【十郎丸と時椿の関係について】
B:結局、時椿は女性を好きになった?
F:濃いめの友情関係ともとれる。そこは枠組みに嵌めないほうがいいかも。物語の終わり方を考え、二人を女性に設定したのかもしれない。
もともと、作者の作品には、恋愛よりも人間関係全般(人同士の絆や和解など)を扱ったものが多い。恋愛の話かと思ったら兄弟や親子の話になったり。単純な恋愛の話はあまりない。この人が好きなのかな、という匂わせはあるが、それは受け手に委ねられている感じ。
この作品では、「猫」という装置を介在して、ひねくれた人間関係が和解し、継続していく。友情か恋愛か、どう取るかは読み手に委ねられている。
(参考:2000年代中頃以降から「空気系」「日常系」と呼ばれるアニメ作品が多数ある。親密さがフィーチャーされ、ある程度許し合って、和やかに帰結するのがそれ。作者はその世代ではないので、同じというのは言いすぎかもしれないが。)

『孤狼の血』柚木裕子(角川文庫)

R読書会@オンライン 2021.08.21
【テキスト】『孤狼の血』柚木裕子(角川文庫)
【参加人数】4名

<参加者A>
◆最初のほうは、登場人物や組織を覚えるのが大変で、P5の表を見ながら読んだ。表に名前がある人物は話に大きく関わってくるということがわかるので、読み進める上で助けになった(=名前がない人物は重要ではない)。
◆私は尾谷組に肩入れして読んだ。若頭の一之瀬をはじめ、服役中の組長や構成員も好感を持てるよう造形されている。逆に、敵対組織は瀧井(チャンギン)以外はステレオタイプの悪役。そこに作者の意図を感じる。
◆「孤狼の血」というタイトルや展開、プロローグ(ジッポーを手の中で回す癖は日岡のものなので、「班長と呼ばれた男」は日岡である)などから、大上の死は十章あたりで予想がついたが、興味を失わず読み続けられた。日岡が実はスパイだったという驚きもあったので。私はスパイは署内に他にいるのかと思っており、日岡を疑うことはなかった。
◆大上の死はあっさりしすぎているというか、大上自身が自分の死を予感していたような素振りもあったので、自身の命を賭して大上が仕掛けた罠かとも思ったが、そのあたりは明らかにされなかった。
◆映画では一之瀬を江口洋介、構成員を中村倫也が演じているそうなので観てみたい。

<参加者B>
◆刑事とヤクザを扱ったエンターテイメント小説は初めて読んだ。刑事ドラマはよく観るがそれより迫力があり、作者の力を感じた。純文学とは、また違った熱量のある作品。
◆心理描写を抑えて、ストーリーがわかりやすいよう書かれている。新幹線に乗って富士山を見学する気分で読んだ(=主人公が山上の遺志を継いで同じタイプの刑事になることは既定路線)。

<参加者C>
◆すっきりした作品は紹介してもらわないと読まないので、今回推薦していただいてよかった。
◆先に映画を観た。
◆名前が一致せず、表を見ながら読み進めた。四章くらいまで話に乗れるか不安だったが、いったん物語に入り込んだらびゅんびゅん読めた。
◆展開が読めるエピソードも多かった。「秀一」は大上の死んだ息子の名前だと思うし、大上が14年前に殺人を犯したというのも違うだろうな(そして、そこに晶子が関係しているんだろうな)、というのも予想できる。それでも面白いというのがエンタメの力。肉付きの部分が人を楽しませる。たとえば『水戸黄門』で筋がわかっていても楽しめる、というような、安定した面白さがある。
◆小説を書く人間として読むと、作者の構成力とすごい執念を感じる。緻密なプロットを立てるのは大変だろうが、終盤に伏線を回収するのは面白いだろうなと思う。一瞬の楽しさのために、膨大な労力を費やしているのだろう。
◆(言葉が広島と近い)岡山県人として広島弁に違和感はなかった。広島弁が面白く、作中で使われる必然性がある。
◆各章の冒頭の日誌について。黒塗りが仕掛けになっている。いい意味でいやらしく、最後の最後まで騙された。映画にはなかった。映像では使えない、小説ならではの仕掛けだ。よく考えたと思う。警察官の仕事は現場を取り締まったり、犯人を捕まえたりするより、日誌をつけることが大切なので。(余談:だから警察官は文章がうまくなる。余計な言葉を削ぎ落とし、何時何分……と簡潔に書くから)
日誌をつける日岡の姿勢がよく出ていた。
◆人物造形について。型破りな男と真面目な若者という設定の作品は多い。この作品のラストでは日岡が大上と同じタイプの刑事になるが、映画『トレーニング デイ』でも、「狼を倒せるのは狼だけ=悪を倒すには悪になる必要がある」という信念を持つ先輩刑事と、正義感の強い後輩刑事が登場し、結果、後輩刑事は清濁併せ呑む刑事となる(その背景には、先輩刑事の死がある)。『ゴッドファーザー』でも、ボスの三男であるインテリ青年がラストで豹変して真のボスになる。
日岡の立ち位置に当たる人物が結構インテリなのが共通項。「ワルになろう」と思ってなった人間より、「こんなことでいいのだろうか」と悩みながらなった人間のほうが強いというか。『ゴッドファーザー』でも、跡継ぎの兄は単独で行動し命を落としているし。

<参加者D(推薦者)>
◆構成力、わかりやすく情景を伝える描写のうまさ、情報の出し方など、テクニックの参考になればと読書会に推薦した。
◆私も人の薦めで手に取ったのだが、読み始めたら一気に読めた。
◆展開がわかったという声が多いが、私はすっかり騙された。先がわからないほうが面白いから、敢えて予想せずに読んだというのもある。
プロローグも、時系列で言うと現代なのだが、「どの章に入るんだ?」と思いつつ、ずっと気づかずに読んでいた。実はプロローグとエピローグの間はすべて日岡の回想(過去)。回想の中の若き日岡は、プロローグの日岡ほど広島弁が強く出ていなかったので同一人物だとは思わなかった。
◆人物造形はきっちりされているにも関わらず、日岡の日常は出てこない。これがこの作品の粗かと思って読んでいたが、最後まで読んで納得した。実はスパイなのだから、日常を出せるわけがない。視点人物の日常をなぜ書かないのか……と思ったが、ちゃんと意味がある。見事に騙された。
◆一章~十三章はすべて日岡視点なので、日岡のフィルターがかかっている。日岡視点だと大上はとても賢い男だが、もしかすると本当は抜けているところがあったり、本当に日岡を可愛がっているのでは。
日岡は自分がスパイなので、人に隠された裏の意図があるのではという見方をしている。
日岡視点では用意周到にやっているように描写されている大上も、結果命を落としているし、無鉄砲に突っ込んでいっただけという見方もできる)。

<フリートーク
日岡視点だからフィルターがかかっているという意見について】
C:確かに日岡は大上を偶像化している。本当はそこまですごくないのかも。
D:大上は、日岡を「学士様」と茶化したり、過去には牛の糞まみれになったり……。ヤクザ性を取ったら、普通に気のいいおっちゃんみたいな気がする。

【推し活?】
C:大上は一之瀬に惚れている。
D:大上の、一之瀬への推し活ストーリーなのかな、と。自分の推しをセンター(組長)にしてやるぞ、みたいな。
C:おっさんずラブみたいな。
D:最後は厄介がすぎて消される、みたいな(笑)
(※厄介…ライブ現場において、マナーなどを守らず、他の観客に迷惑をかけたりする人や集団のこと。)
ヤクザの世界をエンタメとして面白く書いたとき、アイドル的な煌めきを見せてしまう部分はある。もちろん現実と混同してはいけないんだけど。
とにかく、大上の推し活がすごい。

【大上の死について】
C:大上が死んだ理由について、皆さんはどう思われたか知りたい。
D:自分の持っているネタで直接対決に臨んだけど交渉がうまくいかなかった、あるいはうまくいったように見せかけられて……
C:一杯食わされたと。
D:薬が混入される酒を飲んだということは、相手と飲んでいたということ。
C:相手は一緒に飲んで油断させて……。大上は甘いといえば甘い。映画でも同じだった。「守孝だけは守る」って乗りこむけれど。
A:私は、大上が他殺に見せかけた自殺をしたか、敢えて殺させたのかと思った。あまりにあっさり死にすぎたので。そして、自分の死を予感しているような節もある。そのあたりに謎が残る。大上が死に至る場面は最後まで描かれなかったし。

【伏線について/作者の顔が見えてしまうことについて】
B:Cさんが「(作者は)伏線を回収するのが楽しかっただろうな」と仰られたことについて。伏線には何種類かあると思う。最初から仕込んでおく伏線、書いている途中であれを使おうと途中で仕込む伏線、本当にあとから仕込む伏線……
C:まずプロットを立てて、情報を小出しにして読者を引っ張る。日誌の一部を黒塗りにしたり、計算ずくも計算ずくで。途中でつけ足すのは小さなことで、大きな伏線は最初から計算しているはず。
純文学に近い文章だと、作者自身が伏線だと気づいていないこともあるかも。敢えて変わった構成にする場合もあるし。
A:私は途中で結構いじる。大きい伏線は最初から考えて書くけど、書きながら「あ、前に出したこれを使おう」とか、全部書いてから伏線を入れて、また書き直したりとか。
あと、書きながら「あ、これ、こんな話だったんだ」と途中で気づくことも……。
B:それ、「降りてきた」と言うんです。(一同笑)
C:自分で伏線がうまくいったと思っていたら(自分の中でピースがはまった感覚があった)、文学学校のチューターに「うまくいったと思っとるやろ」と言われたことがある。そういうときは読んでいて鼻につくから、作者は一歩引いておかなければならない、と。
A:確かにエンタメでも純文学でも、プロの作品は「どや」って感じがしないかも。
C:重い話であっても、いい意味で力が抜けているというか。
D:うーん。宮部みゆきの作品で、ラストで唐突に文学めかした文章が出てきたときは引いた。いいこと言おうとしている、と感じて。私から見ると優れた感じではなかったので。
A:作者の顔が見えると白けるというのはわかる。たとえば、最初から最後まで陶酔しているような話ならいいんだけど、淡々と進んでたのに、いきなり酔った文章が出てきたときとか。司馬遼太郎みたいに、敢えてやっているならいい。
この作品も作者は顔を出さないのがよかった。「本当に女性? ペンネームが女性なだけで男性では?」と思ったくらい。

<その他>
◆C:私は映画を先に観た。映画では、ヒントが小出しなっているから、小説より真相に気づきやすくなっている。
映画は続編が8月20日に公開になった。これは著者の小説をもとにしつつも、小説シリーズとはまた違う、独立した話になっている。
◆C:自分のすべてを託すには、日岡と大上の交流期間が短い感じはする。
 A:日岡が息子と同じ名前だからなのか、大上に見る目があったのか……エンタメのお約束という部分もある。
◆A:エンターテイメントの警察ものやヤクザもの、あと企業ものもそうだと思うが、組織にいる人間なら誰もが感じる息苦しさや軋轢、保身などが描かれていて、かつ、それを痛快に覆すのが面白い。実際はそうはいかないからこそ爽快感がある。

<雑談>
◆B:私は一つのテーマを大事に書くので、うまく書けなかったら3回、4回……と書き直す。最近の作品も、書き直すにあたって、海外の短編小説などを読み、「こうしたら伝わるかな」「(純文学として)面白く読んでもらえるかな」と工夫したのだが、読んでくれた人には伝わらなかった。人の真似ではなく、借り物ではなく、自分が思うとおり書いたほうがいいと思った。裸の自分を見せるように。
 C:確かに純文学は、自分を切り取った「痛み」を感じさせないといけないと思う。
◆C:最近読んだ本では、白水社から刊行されている林奕含(リン・イーハン)著『房思琪(ファン・スーチー)の初恋の楽園』がすごかった。

『三月の招待状』角田光代(集英社)

Zoom読書会 2021.07.31
【テキスト】『三月の招待状』角田光代集英社
【参加人数】8名


<推薦の理由(参加者H)>
何人かの登場人物のうち、自分が誰に当てはまるかと考えながら読むのが楽しいのではと思い推薦した。誰しもが、(ぴったりとまではいかなくても)登場人物のいずれかと重なる部分があるのではないか。
角田光代は『八日目の蝉』などのようなサスペンス作品も多いが、『三月の招待状』は30代という年代の微妙さを描いた作品として紹介したい。

<参加者A>
◆読みやすかった。登場人物の苦しみなどを一生懸命考えなくていいので楽に読み進められた。それは、最後までさっと流れてしまうことの裏返しでもある。
◆テレビドラマにしたら面白いのでは。群像劇、ドタバタ劇という側面もあるので、それぞれの登場人物に合った俳優を当てはめられそう。
香山リカの解説にあるよう、私も「で、私はね」みたいに話したくなった。
◆35歳は人生の曲がり角ではないかと思う。そういう部分で巧く年齢的なものを取り扱っている。
◆病や貧困、責任、年老いることなど、生きる上で避けて通れないファクターを取り除いて、温かい世界を作っている。そのファクターがなければ、35歳というのはこれからの未来がある年齢。
:登場人物は貧しくなく、自分の子どもや親も作中に出てこない。=人間的な深刻な悩みや嫉妬、どろどろしたものがない。私はそういうものを描いた作品が好きなので、この作品を軽く感じた。
◆そんな中で、遥香の視線が一番大人だと思う。
◆愛情もなく、友情でも繋がっていないし、責任もとっていない。自分たちの温かいシェルターに閉じこもった登場人物たちはこれからどうするのだろう。シェルターが壊れる前の温かい世界の話だ。

<参加者B>
◆比較的自分に近いと思ったのは麻美と遥香だと思った。私も本質ではあまり人とべったり付き合わないので。とはいえ、充留が抱く、過去好きだった人への複雑な気持ちなどは理解できる。
◆私自身は大学時代の友人たちとは会っているほうだと思うが、このように「わちゃわちゃ」した関係ではないので、読んでいて興味深かった。「大学時代、確かにこんな感じのグループあったな」と思うが、現在、彼らの関係がどうなっているかは不明。
◆唯一の部外者である遥香の視点が挟まれているのが効果的だと思った。読者はグループの「わちゃわちゃ」に入れないので、遥香の視点が一番読者に近いかもしれない。
それとは逆に、同じグループにいる宇田男の視点が描かれていないのもいい。読者は他の人物の視点をもとに、宇田男がどんな人物か想像することになるので。
◆グループに溶けこみきれない麻美も比較的読者の視点に近いかもしれない。
◆物語を通して、麻美が一番変化した(一連の出来事を通して大人になった)と感じた。

<参加者C>
角田光代の『源氏物語』を読んでみようと買い揃えており、普段の著者がどんなものを書いているのか参考になり、推薦していただいてありがたかった。
◆小説の作り方が巧い。登場人物の履歴がきっちり設定されている。とくに小説の連載は書き始める前にきっちり決めておかなくてはならないので。その設定をどこで出すかというのも巧かった。
◆読者が、角田光代はどんな履歴書を作ったのか解析して作ってみるのも面白いかも。私自身、再現してみたいと思わせられた。
◆また、構成の面でも勉強になった。
◆作中の離婚式、結婚式、(結婚式での)充留の宇田男へのケジメなど、何かのケリをつけないといけない場面は現実にあるものではなく、小説だからこそ書ける。作り物だから面白いというのはあるが、どこまで読者に納得させていくかが大切だ。その面でもちゃんと納得できるように作られている。
◆群像劇で何人かの視点、語り、モノローグ……どこにポイントを置いて流していくのかと考えたとき、それは充留だと思うのだが、彼女のエピソードはそこまで面白くない。充留だけが仕事で成功し世間で認められているという設定だが、私には彼女の凄さが伝わってこなかった。エピソードとしては麻美や裕美子のほうが面白い。
◆物語のあと、裕美子と正道はよりを戻すのだと思う。
◆麻美がどう決着をつけたのか消化できない。「暇」とは?
◆大学のグループが15年も続くのか? 私の場合30代半ばでの同窓会もなかったので羨ましくもあり、こんな関係はないだろうとも思う。お互いを値踏みしたり嫉妬したり……そういうこともあるのかもしれないが。
◆登場人物たちは大人になれていない。
◆あまりに綺麗に流れているので、グループの中の誰かに子どもや要介護の親がいる設定、誰かが病気になる展開があれば、攪乱要素ができて、また違ったものが書けるのではないか。
◆しょうもない男に見える宇田男は、もっと後ろに下がっていてもいいのでは。過去の栄光を失ってもなお魅力的な人物に描かれていれば、また違ったと思う。
遥香だけが客観的な視点に使われているが、なぜ彼女だけ持ちだしたのか。重春、智が置いてけぼりになっている。

<参加者D>
角田光代をまったく知らなかったので読書会がなければ読まなかった。
◆大学時代の関係が繋がっているのは実際にあるかもしれないが、異次元のものを見てしまったような違和感を覚えた。そういうグループが存在しているとは聞くけれど、私の時代にはなかったので。
私の周囲だと定職についている人のほうが少ない。とくに今回の騒動で失業した人が増えた。結婚式の招待状が来る前に離婚調停が始まっていたりする。
なので、作品の中にバブルの残滓を感じた。そんな高い物を食べるのか、のような。私より少し前の世代のカルチャーだろうか。
:違和感の正体は?⇒子どもが出てこない、親が出てこないのもあるが、非常に狭く閉鎖的な集団という、大学の面子で完結しているところ。
遥香の視点を除けば外部の人間が出てこない。独自の閉塞感があり、それを読む小説なのだろうか。狭い空間で、口には出さないけれど思っていること、しこりを感じること、招待状や結婚式の綺麗事など。
◆面白いのが、離婚式で始まり結婚式で終わるところ。そこに出席する小集団が主人公だと示唆している。それだけだと息が詰まるので遥香視点があるのかも。
遥香が、正道と元妻を含むクラスメイトのことを「正道と、元妻を含む元クラスメイトたちは、おそらく、だれかに嫌われたことも嫌ったこともなく育ったのだろうと遥香は想像する。人との距離を縮めることをなんとも思っていないのだろう。わちゃわちゃと人と関わりながら成長し、そうして大学という場で似た人間をさぐりあて、寄り集まってわちゃわちゃと過ごし、そうして今もなお、わちゃわちゃと関わり合っているのだろう。好きも嫌いも超えたところで。彼らにとって好きはどこまでも肯定で、嫌いは無関心、それだけなのに違いない。」(P178~179)と評するが、ここが肝。
◆大学は4年間、サークルや同じ小集団で固まりがち。メンバーはお互い似たところがあり、コンセンサスのようなものが確立されている。
◆読んでいて、狭いな、息苦しいなと感じた。彼らの口ぶりを見ていると、「彼氏/彼女/夫/妻になったら、(一般的に「そうあらねばならない」とされる)その役目を演じなければならない」と考えており、素直に受け入れ演じている。そして、そのような在り方に違和感を感じるのではなく、それから外れることに劣等感を感じている。
男としての在り方、女としての在り方、結婚などを素直に受け入れているところに、私は違和感を感じるのだが、しかし、そこにこの小説の売りがあるのでは。
「狭いコミュニティでの閉塞感」がテーマだろうか。

<参加者E>
◆読書会より1週間ほど前に読んだのだが、登場人物たちを薄く感じ、印象に残らなかった。登場人物は全員、喜怒哀楽を深めることもない。角田光代は軽い小説ばかりではないと思うので、なぜこんなに軽く書かれているのか気になった。
◆軽いと感じるが、その代わり、嫌味な人も出てこないので読みやすい。だからこそ印象に残らないのかも。
◆登場人物たちは経済的に恵まれており、深い悩みもない。私の周りにはそこまで豊かな人はいない。
◆40代や50代の離婚なら重みがあるが、子どももいない30代の離婚なので、おふざけだと感じる。
◆麻美の失踪後に集まったときも、話し合いより出前をどうするかで盛り上がっており、心配するふりをしている。そんな薄っぺらい人たちでいいのか? たとえば40代・50代の、そんな人物を戯画的に配置するのはいいと思うが。
◆バタバタはあるが、(読者の)傷になるリアリティがない。裕美子と正道、麻美と智も寄りは戻るのだろう。
◆麻美と智の関係が薄い気がする。
遥香視点のパートには、いじめのエピソードなども書かれており現代的。彼女の嘘(正道の離婚前後から掛かってくるという迷惑電話)に効果がなかったのもいい。
◆ドラマにしたらよさそう。放送コードにも引っかからないと思う。
◆私自身は、大学を卒業してから継続的に集まるというのはない。数年前、数人で集まったくらい。また、35~36歳のときはシングルマザーをしながら働いていたので、自分の世界とまったく違う。
◆Cさんが「履歴書を再現したら面白そう」と仰ったが、私もそう思った。

<参加者F>
◆自分だと絶対に読まない作品を読む。これが読書会に求めていたもの。もし自分だけで読んでいたら「合わないな」と思うだけなので。
(なぜ合わないのかというと)謎がなく、殺人など大きな事件も起きない。もし私が作者なら「八月の隕石」とかで東京を吹っ飛ばしていると思う。
◆小説で一番楽しいのは謎だと思うが、この作品に関しては作者がとくに意識しなかったのかもしれない。非常にテクニカルな小説ではある。
◆表層的に読むと、いわゆる「中年の危機」か。30代は老けていても大人になりきれていないという側面もある。
◆私にはまったく刺さらなかったが、刺さる人には刺さるのでは。距離のないコミュニティの中にいる幸せ、学生時代を振り返ったり、学生時代の総括をしていたり……。
居心地のいいコミュニティを維持していること、日常の暇、閉塞感など、どれかに引っかかれば読者は読むのかなと思う。
◆30代になっても大学時代のグループで遊ぶことは私にとっては普通なので、リアリティに欠けるとは思わなかった。
◆2007年の作品だからか、経済的な影が見えない。
遥香視点を挟むことによって外部からの視点を提供しており、読者が共感しやすくなっている。⇒物語の強度を上げている。
◆重春、宇田男、智は視点人物にならない。私が読む小説には男性視点のものが多く、その中で女性は、ふわっとしていて何を考えているかわからないというような描き方がされている。その男性版だろうか。
◆悪人が出てこない。お金にだらしない人は出てくるが困窮しているわけではなく、暴言もなく、読者の幻想を壊すものを巧みに避けている。
◆小道具が印象的。ワインが飲みたくなったし、リーデルのワイングラスがほしくなった。
◆推薦者がHさんだと知って意外だった。

<参加者G>
◆「絆」と「自立」をモチーフにした寓話として読んだ。
「絆」の語源は諸説あるが、いずれもが動物を繋ぎとめる綱を指しており、登場人物たちの関係を思わせる。自立しようともがいているのに、絆に絡めとられて戻ってしまうというようなところが読みどころだ。「一体感」をテーマにした“もやもや感”もよく出ている。
◆私は大学に行っていないので、大学とはこんなものかと想像できて楽しかった。
◆モラトリアム、共同体に浸かったままの登場人物たちに離婚パーティーで刺激が与えられ、変化が訪れる。一応の変化を与えたという意味で『三月の招待状』というタイトルはいい。:招待状が来て、それぞれが変化し、変わろうとする。
◆「こんなのありえないだろう」という部分も、かえっていいと思う。
◆登場人物たちは確かに無責任ではある。経済的には豊かで、2007年という時代を反映していたのだろうか。
◆日本では、精神的に大人にならなくても、成長しなくても、それなりに生きていける。そのぬるま湯感がよく出ている。
◆登場人物たちは、人のことは見えているのに、自分のことは見えていない。人に向けていた視点を自分に向けて、今までの自分を壊すというのは、青春小説というジャンルにぴったりだ(※「大人の青春小説」…表紙裏のあらすじより)。
◆30代はまだ若いので、このわちゃわちゃ感は幸せなことだと信じたい(現実にはありえないとは思うが)。
◆描写がとても面白かった。たとえば、若者がモブとして出てくる場面が多いが(「二月の決断」充留が下北沢を歩く場面など)、登場人物たちと対比されて、読者に小さな刺激を与える。
◆大きなテーマは隙・空白。
角田光代の(角田光代としての)デビュー作『幸福な遊戯』は男女のシェアハウスを描いたもの。「なにやってるんだ」と言われるような人たちからの視点を持つ作家ではないだろうか。

<参加者H(推薦者)>
◆まず読みやすい。私も小説を書いているが、「読みやすい」というのは、私の中では「文章力」。そういう意味では非常に大事。読みやすいというのはよかった。
◆登場人物たちの年齢で、大学の仲間たちと普段会っているという設定は実味がないと正直思う。作中の、大学時代から続くグループを羨ましいと感じる部分もあったが、35歳というと働き盛りで、家庭も持ち始めて、子どももできて……こういうグループから脱落しないでいるのは難しい。
私は60歳になるが、仕事と関係ない友達グループ(趣味も一人ひとりバラバラ)ができたので、「そういうの(登場人物たちのような関係)もあるのかな、自分に置き換えられる部分もあるかな」と思えた。
◆正道と遥香カップルが面白かった。付き合い始めた頃の刺激はなくなって倦怠ムードになっており、正道は、大学時代の仲間と遊んでいるほうが楽しいと感じ、遥香遥香で、正道の大学時代のグループに嫌悪を抱いている。二人のやりとりは非常にリアリティがあった。
◆Gさんの仰った「(章ごとに視点人物が変わり、それぞれが)人のことは見えているのに、自分のことは見えていない」というのを私も感じる。冷静に周りを見つめているのに、自分のことはわかっていない。一番に思い浮かぶのは、充留が、麻美と宇田男が付き合っていると聞いたとき、クールな彼女が不安定になってしまったところ。裕美子の「宇田男はお金がなくて麻美に近づいたのかもしれないよ」という言葉の矛盾(充留のほうが金銭的余裕がある)に気づかない。実際、私自身もそういう部分はあるかもしれないと思う。
◆それぞれの人間のライブのリアリティはあると感じた。

<フリートーク(発言者の敬称略)>
【多視点であることの意味】
D:自分が見えておらず他のことに視点がいくのと同時に、常に(登場人物たちの)視点が構成員(=所属している集団のメンバー)に向いている。自分ではなく手近にいる人に目が行って、マウンティングしたり、コンプレックスを抱いたり。これは均質的な集団、同質的な集団、ホモソーシャル集団に見られることである。
特定の人を見て、「私はもっと頑張っている」「あの人はよくない」というものさしが出来ている。ここにこの作品のしんどさ、違和感がある(⇒そこに風穴を開けるのが遥香である)。
たとえば(一般論として)三角関係の場合、異性の相手ではなく、同性の出方を窺って、自分の出方を考える。だから逆に自分のことが見えなくなる。狭い集団の特徴だ。この作品では三角関係をさらに複雑にしているので、それだけではないが。
「視線」というのは物語の中で重要なガジェットではないか。「集団から出づらいが心地よい」という状況が表れている。
C:自分のことは見えるが他人は見えない。それをクリアするために多視点にしたのだろう。主人公視点にすると作者と主人公の距離が近くなるので。小説を書く上で、一つのテクニックとして使える。

【宇田男の描き方、作中での役割について】
A:(宇田男について)ダメ男に女性は惹かれるもの。
C:宇田男は「ダメ男だけど女性に好かれる理由が読者に理解できる」という描き方にしたほうがよかったのでは。今は落ちぶれているけれど矜持を持っている、とか。
B:充留視点や麻美視点のときに描かれる宇田男は、もっと魅力的に描かれていてもいいかも。たとえばギラギラしてるとか、こんな振る舞いが素敵だ、とか。作中では、顔がいいだけのだらしない男になっている。裕美子視点では、それでいいと思うが。
A:読者がどれだけ脳内補正できるか、ということか。私は宇田男の箇所を脳内補正して読むことができた。
D:宇田男については、彼の内面より、「そういう人物に惹かれる人の存在」が必要なのかなと。「ちょっとぶっ飛んでる人物」「ちょっとエキセントリックな人物」(=この場合は宇田男)を共有しているところで集団の安定が図られている。一人だけふらふらしているから外部に行ってしまうこともある。一種の特異点として使われているのでは。
宇田男は、(物語の上で)都合のいい時に現れて、都合の悪い時には後ろに引っ込んでいるキャラクター。機能的な役割を担っているから紋切型な人物造形になっている。
C:私はやはり宇田男の扱いが軽いのではないかと思う。パターンは必要だけど、宇田男にはもっと(物語の中で)役割があるのでは。
A:女性のほうのダメっぷりを書きたいのかも。麻美は、宇田男と付き合って家出までしたのに結局自立できず。充留も結婚までしてしまって。宇田男に魅力を付加したら、彼女たちのバカさ加減が霞んでしまう。
D:読んでいて登場人物たちのわちゃわちゃに目が行くので、宇田男はオブジェのような役割を担っていると考えられる。

【麻美が辿り着いた結論「暇」について】
A:介護や育児がない登場人物たちは本当に暇だと思う。心に余裕があるからこそ宇田男に心惹かれたりできる。幸せな人は暇。不幸な人たちは忙しい。
F:ボヘミアン的なモラトリアムを感じる。浮世離れ、ヒッピームーブメントというか。地に足がついていない。
E:まさに浮世離れ。お金に困らない、暇な人たちだな、と。彼らが暇っていうのはよくわかって、そこには共感した。私自身が35歳のころは育児中だったので、そんなことはなかったけれど。
A:私も育児をしていたから「こいつらなにやっとるんじゃ」と思う。こういう世界があるのか、と。
D:(登場人物の大学時代についても)私は大学で実習や訓練が多かったから、こういう暇がなかった。
C:「暇」はわかるが、それを麻美の結論にしているのがよくわからない。この物語の締め括りとして相応しいのだろうか。
D:言葉の問題かも。「暇」というより「停滞」「倦怠」といったところでは。
A:簡単な言葉で結論づけてほしくないということか。
C:「暇」でまとめてしまうのが違うかな。そういう方向に持っていってはダメだと思う。そういう図式的なものじゃなくて、もっと読者をもやもやさせてほしい。

【均一性が保たれたグループについて】
A:女子大、ママ友など、均一性が保たれたグループは確かに存在する。そこでは、決められた生き方に疑問を抱かない。
D:そういうグループは、ある程度共有しているものが多いからこそすれ違ったり、劣等感を抱いたり、波乱を呼びやすい。
H:たとえば麻美に子どもができ、ママ友グループなど他のコミュニティに所属していたらまた違う感じになっていたと思う。大学時代から脱却できず、常軌を逸していったのが面白かった。

『スモールワールズ』一穂ミチ(講談社)

R読書会@オンライン 2021.07.10
【テキスト】『スモールワールズ』一穂ミチ講談社
【参加人数】6名

<推薦の理由(参加者F)>
一穂ミチは、BL作品をたくさん書いている作家。『このBLがやばい!』に5年連続ランクインしたり、三浦しをんにも評価されていたり、BL好きの中ではとても有名な人。デビュー当時からとても上手く、BL作品の感想サイトでも「一般文芸でも通用する」「BL要素がかえって作品の完成度を下げている」と書かれているのが印象的だった。だから一般文芸に行くのは自然な流れだなと思った。
読んでみて、やはり素晴らしいなと感じたので読書会のテキストとして推薦したのだが、その後、直木賞候補になり、とても驚いた(「本屋大賞候補になるのでは?」という声はあった)。応援していたマイナーなアーティストが紅白に出たときと同じ気持ちです。とても嬉しいのだけど、みんなに知られてしまって悔しい、みたいな(笑)。
BL以外の作品としては『スモールワールズ』のほか、オレンジ文庫集英社ライト文芸レーベル)から出ている『きょうの日はさようなら』もある。こちらは女子高生が主人公の、SFテイストの青春小説なので興味ありましたら是非。

<参加者A>
◆あまり断言的なことを言わないFさんがイチオシだというので驚いて、楽しみに読ませてもらった。
◆一作目「ネオンテトラ」を読んで、こんなものかと思った。最初、入っていけなかったので。だが、読んでいくと「嬉しい」「悲しい」など二分化できない感情が描かれており、自分の単純さが露わになるようだった。中間的なところを漂うような印象の作品。
◆「魔王の帰還」には、「ネオンテトラ」のファジーな気持ちを破壊する強烈なキャラが登場し、無条件に泣かせられた。素晴らしい作品。単純な私には、どストライクだった。年に一度くらい号泣する作品があるのだが、その一度になった(朝倉かすみ「平場の月」、中島京子「小さいおうち」、映画「レッド・ファミリー」なども、その一度だった)。
◆「ピクニック」。「魔王の帰還」からこの作品という並びがすごい。ホラーのような迷宮に入っていく。母性の恐ろしさが描かれていて、恐ろしい物語だと思った。
◆どんどん深みに嵌っていって、問題作「花うた」。すごい構成力。P172、歌を片仮名で表記するところが巧い。結婚するほど入り込むのはやりすぎかなと感じた。
◆「愛を適量」。タイトルに引っかかったが、読んでいくうちにいいなと思った。調味料の適量がわからないのと同じように、愛の適量がわからない主人公。同じく、愛の適量がわからず、女性と上手くいかない佳澄。「愛に適量はあるのか?」という一つの問題を投げかけている。愛は、多く与えすぎたり、逆に少なすぎたりして後悔するものだが、適量だと相手の中に残らず、それは「無関心」と同じなのではないか。
また、女性が男性に変わるという問題も投げかけており、「魔王の帰還」とはまた違う、独特の感動がある。
◆「式日」。後輩が「ネオンテトラ」の笙一だとわかり、びっくりした。
虐待を受けている笙一は、美和との交流を通してネオンテトラを知る。自分を虐待していた父親が一度だけ訪ねてきたとき、笙一は父親を拒み、警察に突き出した。そして、自分が父になったとき、子どもに会えていないという因果。
→そこにネオンテトラを絡めている(ネオンテトラを繁殖させるためには別の水槽に移さなくてはならない)。父親と笙一の関係性もさりげなく入れて、こう来たかと思った。
また、向田邦子を出した意味について。向田邦子をオマージュしているようで、批判もしているのではないか。向田邦子の作品は、「家族間で揉めてもハッピーエンド(=愛があれば理不尽も受け容れる)」というところがあるが、今はそういう時代ではない(昭和の家族像の崩壊)、というふうな。
先輩と後輩のやり取りが、ありきたりでなく秀逸。例えば、バスのボタンを押すくだりなど。

<参加者B>
◆今回、初めて知った作家。ネオンテトラをトイレに流す箇所、笙一の死(「ネオンテトラ」)、金魚を弄ぶような描写(「魔王の帰還」)などから若い人ではないかと思った。齢を重ねると、命を簡単に処理できないので。
岡山県立図書館では9人の予約待ちだったので、ほかの図書館で借りた。
◆可愛い雑貨屋さんのような表紙が魅力的。
◆どの作品も題名の付け方や書き出しの一行がすごくいい。
ex)「ネオンテトラ」冒頭:なぜ、望んでいないたぐいの幸運にはこうもたやすく恵まれるのだろう。etc.
◆描写がすごく上手。「式日」のP263、イヤホンを外したときの世界の書き方が素晴らしい。私はずっとイヤホンをするという生活をしたことはないが、このような感じかなと思った。
◆「ネオンテトラ」。ネオンテトラは発光器官を持っているわけではなく、反射によって光る=自分自身が光るのではなく、周りの光によって輝く。人間とはそのようなものでは(自分一人で輝くのではなく、環境や条件によって輝いて見える)。
◆「ピクニック」が一番好き。ラストまで希和子が病んでいることに気づかなかった。各キャラクターのネーミングもよく考えられている。視点の変化も上手い。
「愛の重み」に支点が置かれている。そのためか、「重さ」に関する描写が多く印象的。新生児の重みであったり(P104)、瑛里子が真希の重さに耐えきれず手を離してしまったり(P139)。愛の重みの罪がよく書けているなと思った。
◆「愛を適量」。タイトルがいい。あまりベタベタしない、柴犬の距離感を思い出した。私も人と距離を空けるほうで、相手がベタベタしてきたら少し離れる。若い頃はもっと激しくて、興味を持たれたら引いてしまう質だったのでよくわかる。
慎悟がバスケ部の顧問をしていたとき、部員に尽くしていたにも関わらず、事故を起こした途端に拒絶されるところ、佳澄が勝手にお金を下ろすところは、読んでいてすっきりした。
とくに佳澄が勝手にお金を下ろすことで、かえって距離が保たれたと感じた。親子の再生の物語か。

<参加者C>
◆連作集の作りが面白いと思った。「ネオンテトラ」「魔王の帰還」「愛を適量」は軽やかなストーリーで読ませる作品。「ピクニック」「花うた」「式日」は暗めでサスペンス的な部分もある。暗めの話と爽やかめの話が交互になっており、読んでいて飽きない。
◆「ネオンテトラ」と「式日」が深く繋がっているのが巧い。連作として工夫されている。
◆章ごとに作者が違うのかなと思うほど、異なる書き方がされている。「ネオンテトラ」は一人称、「魔王の帰還」は鉄二視点、「ピクニック」は死んだ真希による俯瞰、「花うた」は書簡体、といったように。表現方法が違っているから飽きず、また、視点の勉強になるなと思いながら読んだ。
◆圧倒的に一番良いと感じたのが「花うた」。犯罪の被害者遺族と加害者、相対する二人のやり取りが描かれている。手紙はどうしても一方通行になるので誤解を生みやすい。手紙が拙いことから生まれる誤解、誤解が解けて情に繋がっていく…だんだんと理解していく過程が面白い。手紙で苗字が変わるところなどでも手紙が生きていると思った。
最後の秋生の物語は、涙は流さなかったものの泣いた。心を震わせられた作品。
◆二番目に面白いと思ったのは「ピクニック」。単純にストーリーの妙。誰も悪意を持っていないが悲しいストーリー。社会派ミステリーのような要素がある。

<参加者D>
※「ネオンテトラ」「ピクニック」は未読。
◆一作目「ネオンテトラ」に入っていけず、しばらく寝かせていたのだが、六作目「式日」から読んでみると、これが素晴らしかった。そこから遡り、「愛を適量」「花うた」「魔王の帰還」を読んだ。
◆「魔王の帰還」。鉄二と菜々子の関係が青春を感じさせ爽やか。魔王(真央)のキャラはぶっとんでいてアニメ的。魔王が岡山弁で喋るのが印象的で、「うる星やつら」の方言を話すキャラクターを思い出した。
◆読んだ中では「花うた」が一番胸に刺さった。一見美しい愛の物語のようだが、根底にすごい憎しみがある(「愛を適量」にも同じものを感じた。憎んだ父親にいい息子面をする、というふうな)。
これは誉め言葉なのだが、「なんて綺麗な嘘をつくんだ」と思った(小説は嘘なんだけれども)。
深雪は兄を秋生に殺され、秋生を憎んでいるという話だが、兄から一方的な愛を寄せられていたという側面もある。秋生と結婚したのは、兄への復讐でもあるのでは。
小説だから美しく書けるのであって、人生なんて欠けたピースだらけで、こんなふうに花びらみたいに美しく蘇るものではない。こんなファンタジーに書かれたら綺麗な嘘をに憎みたくなる――それくらい、ぐさっときた。

<参加者E>
◆連作短編の総タイトルは、収録作品のうち象徴的な一作のタイトルをつけることが多いが、この連作短編の総タイトルは『スモールワールズ』なのが特徴。
◆ぱっと読んで場面が浮かんでくる印象的な描写が多い。
◆家庭の中、他人が窺い知れない残酷さがある。
◆「ネオンテトラ」「式日」をはじめとして虐待の話が多い。
◆「ピクニック」は虐待ではないが、子育てで追い詰められたとき、何をするかわからない危うさ・怖さが描かれている。家庭という密室だから他人からは全貌がわからない。
◆「花うた」の深雪の兄も明らかに虐待。庇護者であり支配者。いなくなってはじめて、深雪はそのことに気づく。弁護士は、深雪が自分を取り戻すことが必要だと考え、秋生との手紙のやり取りを勧めたのでは。
冒頭の手紙で、深雪と秋生がのちのち家族になること、そして秋生の現在の状態について明かした上で展開する(前者は「向井深雪」という署名から読み取れ、後者は「失礼な振る舞いをしてしまい~」という文章から普通の状態ではないとわかる)。ご都合主義的に展開するのではなく、なんでそうなるのかと読者に思わせ、読ませる原動力になっている。
興味を持ち合い、理解し合って結ばれたのではない。深雪が自分一人で立って、誰かを庇護するようになるまでが主題。とても深いと思ったイチオシの作品。
◆次点は「ピクニック」。地の文で希和子を「母」と呼んでいるので、早い段階で娘視点であることが明かされている。希和子を母と呼べるのは、瑛里子以外には真希しかいない。奇想天外ではなく、ちゃんと布石を打っている。
◆「ネオンテトラ」。子どもができない妻の話かと思ったら、途中から裏切られた。有紗と笙一に子どもを作らせるというありえない設定だが、笙一とのエピソードの積み重ねによって、そうなってもおなしくないと思わせられる。そして「式日」に繋がる。構成が抜群の作品だ。
◆「魔王の帰還」。岡山弁が魔王(真央)のキャラにとても合っている。心温まる作品。
◆「愛を適量」。よかったが、読んでいて時間が経っているため、記憶に残っていない。

<参加者F(推薦者)>
◆六作のうち五作目まで読んで、「ネオンテトラ」にだけ物足りなさを感じていたのだが、「式日」を読んでびっくりした。後輩に子どもがいるとわかった時点では、まだ彼が笙一だとは気づかず、ネオンテトラについて話している場面でやっと気づいた。
語り手の性別を曖昧にしているのは敢えてだろう。笙一に「向田邦子みたい」と言われていたので女性かと思っていたが(トランスジェンダーなのかもしれない)、P288の地の文に「俺たちの断片を、知ってくれ。」とあるので男性だとわかった(ここ以外に、語り手の一人称は出てこない)。P284、後輩が「家族を持ち、家庭をつくる」という可能性に傷ついたというのも、語り手がLGBTであるなら、よりしっくりくると思った。
◆連作の面白さがある。「ネオンテトラ」のラストで道を譲ってくれたトラックドライバーは「魔王の帰還」の真央、「魔王の帰還」で両親が観ているのは「ピクニック」の未希が死んだことを伝えるニュース…というように、少しづつ繋がっている。

<フリートーク
◆作者は何歳なのか。公表されていないが、デビューが2008年なことや、作品の感じからして四十代くらいだろうか?
◆B:「魔王の帰還」の真央が27歳で身長188cmというのは漫画的。もう少し捻ってほしい。
◆B:「花うた」が好評なのは意外だった。私は深雪と秋生に結婚してほしくなかったので。手紙の書き方が幼く、深い物語だと思わなかった。
→E:手紙は秋生に合わせて簡単な単語を使って書いているのでは。
◆F:この作者の作品は王道な作品も人気があるが(この短編集でいうと「魔王の帰還」のような)、歪な人間関係を描いた作品のほうが私は好きで、そちらに関しては評価が真っ二つに分かれている。この短編集でも同じような傾向が見られるのは面白いと思う。
BL作品になるが、『meet,again.』(新書館ディアプラス文庫)、『off you go』 (幻冬舎ルチル文庫)は、登場人物の関係性に賛否が分かれており、私はかなり好き。
◆「式日」。事件がない。単独で読むと純文学っぽい。「ネオンテトラ」と繋がっているのが大きい。
E:先輩は、視点人物であるが謎が多い。施設で育ったと語るが、地の文では言っていない=それが本当かどうかわからない。「愛を適量」の佳澄だったとしてもおかしくない。
B:死んだとか殺されたより、なんとなく人が繋がっていく話が好き。P294、笙一が家に帰れず、学校に辿りついて…机を見るとメモと豆菓子が入っていてぼりぼり食べた、という箇所がいい。人と人が繋がっていく場面。こんな人になりたいと思った。
◆E:すべての作品にブラックさがある。通り一遍ではない。虐待でも、虐待そのものを生々しく書くのではなく、虐待してしまう側への優しさもある。初めはロマンス文学やジュニア小説を書いていた桐野夏生のように、この作者も育っていくのでは。
◆E:男らしさ・女らしさを外した書き方。真央が女性っぽくなかったり、LGBTを匂わせたり…。
◆A:皆さんが、それぞれどの作品を好きになるか予想を立てていたが外れた。
「花うた」の評価が一番高かった。私も、深雪と秋生の結婚がなければ、もっと入れたと思う。
◆エンターテイメントから入った作家のほうが伸びしろがあるのでは。ライトノベルなどストーリーがかっちりしており、力のある作家が多い。また、読者の声を敏感に感じて作品に生かしている。
逆に、純文学は読者の声を気にしない。(どちらがいいという話ではなく)
◆E:連作短編集なので直木賞の受賞は難しいかもしれない。コンパクトにまとまった印象なので。読んで一ヶ月で印象が薄れてしまった。
◆主人公は、どこかが欠けている人のほうが魅力的。そこに共感の線を作っていく。
◆BL出身の作家には、『流浪の月』(東京創元社)で本屋大賞を受賞した凪良ゆうなどがいる。同作者の『滅びの前のシャングリラ』(中央公論新社)も読みやすく面白かった。

<その他、話題に上がった作品>
◆『ファーストラヴ』島本理生文藝春秋)は、『流浪の月』と題材が似ている。
映画『ファーストラヴ』は芳根京子の演技が素晴らしかった。
◆韓国の作家は問題をぼかさず、徹底的に攻める。日本だと回りくどい描写が文学だというような風潮があるが、韓国でははっきりと言う。
『小説版韓国・フェミニズム・日本』チョ・ナムジュ、松田青子、デュナ、西加奈子、ハン・ガン、イ・ラン、小山田浩子高山羽根子、深緑野分、星野智幸河出書房新社
◆『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ(筑摩書房

 

★Zoom読書会でも、一穂ミチさんの他の作品を取り上げました!

「何も言う必要がない」(『ディディの傘』より)ファン・ジョンウン、斎藤真理子訳(亜紀書房)

Zoom読書会 2021.06.20
【テキスト】「何も言う必要がない」(『ディディの傘』より)
                ファン・ジョンウン、斎藤真理子訳(亜紀書房
【参加人数】4名


<推薦の理由(参加者A)>
『ディディの傘』は友人の薦めで読んだ。私は海外文学をあまり自発的に手に取ることがない。その国の歴史や宗教など根底にあるものがわからない、登場人物の名前が覚えづらいというのが理由だ。だが、読むと日本文学とはまた違う魅力があり、自分が書く作品に深みを持たせるためにも、折に触れて読んでいきたいと思う。
この作品を読んで、韓国の若い世代は、政治のこと、自分たちのことについて、とても深く考えていると感じた。
日本と同じだと思う部分、(私個人としては)賛同できない部分、それぞれあるけれど、考える姿勢はすごいと思ったし、じきに日本は他のアジアの国々に抜かれるんだろうなという想いも浮かんだ。
わたしが大学生くらいのときは、もしかすると今もそうかもしれないが、政治について真剣に考えたことがなかったと思う。もちろん選挙に行ったり、自分なりに考えたりしていたけれど、本当に危機感があったかというと無かった。韓国や香港、台湾に比べ、「戦争」が遠いものだと感じていたからだろうか?
皆さんとそんなことを話したかったので推薦した。

<参加者B>
◆内容は興味深いが、文章がわかりづらく、全部読むことができなかった。
パートナーが男性か女性かわからない曖昧な書き方がされており、どうして隠す必要があるのかと思った。
◆序盤の、紙や本に対する考察は情緒的で面白かったが、政治や人間関係について、その書き方で読むのはしんどかった。

<参加者B友人>
(※沖縄と韓国の歴史について勉強されていたBさんのご友人が、10分ほど読んで作品を非常に気に入ってくださったそうなので、コメントをいただきました。)
現代韓国を背景にしながら、作者や今を生きる韓国の人が持つさまざまな生き方、感情を表している。とても読みやすい作品で、どんどん読み進めたい。
韓国あるいは韓国人を理解するには、被侵略の歴史、分断された国家、その原因などを考えることから避けて通れない。
大統領が退任すると逮捕されたり、自殺に追いやられたり、また、財閥に対しての国民からの反発がある。
後日しっかり読みたい作品。作者の言いたいこともわからない、一読しての感想です。
ひとつ質問。セウォル号沈没事故のとき、朴槿恵大統領や船長に猛烈な世論があったのは知っているが、セウォル号乗客へのバッシングもあったのか?(「d」を読んでいないので、そちらに書いてあるのかもしれないが)

<参加者C>
◆枠組みとして、「書き手である小説家として」の語りと、「(日常の)私」の語りとで進んでいく。
それともう一つ。「私」という視点は変わらないが、世界や韓国社会を俯瞰した大きな視点がインサートされる。
主人公である「私」とその周囲、パートナー、学校生活・社会生活が書かれると同時に、社会運動や弾劾裁判など個人ではなく個人の集合体である「社会」が描かれ、私はその一員としてこうしていた、という書き方がされている。
どうしてこのような書き方をしたのか? それは、主人公が韓国社会で表に出しづらい性的マイノリティであるから。社会は生活環境に直結するので、マイノリティ(LGBTQに限らず貧困層なども含む)が考える社会への信用度は、マジョリティのそれとはまた異なるものである。一般大衆はそういう動きをしているが、では私はどこにいるのか? ミクロな視点とマクロな視点、マイノリティ的な立場を効果的に表すための構成になっている。
◆男女が曖昧なのはわざと。「私は男である/女である」と断言すると枠組に囚われてしまうので敢えて曖昧にしている。
◆「男女」という分け方だけでなく、ほかの区別も曖昧である。個人と大衆が薄い糸で繋がっているという表現方法。
◆韓国語は男女の区別が日本語に比べて曖昧。日本語話者にとって一瞬で男女を判断するのが難しい。それらも反映しているのかもしれない。
◆文化や作品からの引用が多く見られる。最初にロラン・バルトが引用されていることに意味がある。
ロラン・バルト『作者の死』(1967年):テクストは現在・過去の文化からなる多元的な「織物」である。作者の意図でなく、読者が判断するべきである。)
主人公の「私」は小説家であり、先行する文学作品、文化、サブカルチャー朝鮮半島と絡めて、どう取り入れてるのか。また、「私」はこうして生まれたのではないかという自己探求を綴っている。
◆序盤のタイプライターに関する技術論も面白かった。タイプライターにしても韓国のものなので、私たちがイメージするものとは、また異なってくる。その“近づきづらさ”から、いい意味のバリアを感じる(私たちとは違った視点を持っているのでは、という)。

<参加者A(推薦者)>
「d」
◆事故をそのまま書くのではなく、その場所にはいなかったけれど、同じ時期に喪失を経験した人物の立場から書く方法があるのだと思った。
私は「d」のほうが読むのが大変だった。ddを失ったdの内面的な描写が重く、辛かったので。それと、dとdd、二人の人物像がなかなか立ち上がらなかったので。性別については男女の話だと思っていたので気にならなかった。読み返すと、確かにddが男性でも通るように書かれている(後述するが揺らぎはある)。
◆P56、dとヨ・ソニョが会ったところから面白くなってきた。
◆P59、プレスリーの歌を表現するddの言葉がよかった。初めて「dd」という人物が私の中で立ち上がった。
余談だが、この場面でクッションを抱いたddの仕草を女性的に感じたので、やはり訳者解説にあったように、作者がddの性別について迷っており、女性として書こうとした名残りなのかなと思う。
◆P91「幻滅の反対方向へ向かって飛んでいます。…」私にも脱出の経験がないので考えさせられた。ただ、国から、世代からなど、大きい意味の脱出はないが、日常の細々したことからの脱出はあるのかもしれない。
◆P117「この世でそれ一台だから、ヴィンテージを修理しようとする人たちは、直すとは言わない。生かすと言うんだね。」「軽く見てはいけないよ~それはとても熱いのだから。」
話に入り込んでいけた後半に印象に残る台詞がたくさんあった。

「何も言う必要がない」
◆「d」と異なり、「ソ・スギョン」という人物が早い段階で浮かび上がってきたので読みやすかった。
◆作者はとても本を愛していると感じた。
◆P126。紙、タイプライター、ワープロソフト…使う機械による文章の変化についての考察が面白かった。やはりみんな、こういうことを考えるのだなぁと思った。
◆他にも、線を引きたい箇所がたくさんある。
◆「ⅾ」と同じくこの作品でも、というより、この作品のほうがより強く「脱出の経験」について書かれていると感じた。北朝鮮からの脱出以上に、価値観や固定観念からの脱出、というような。
◆P136、ソ・スギョンを指して「彼」と書いているところで引っかかった。韓国の名前に詳しくないので女性名なのか男性名かもよくわからなかったので。
◆主人公とソ・スギョンが恋人同士であると明言されるまで、恋人同士なのか同志なのか友人なのかわからなかったが、この作品において、人と人の繋がりに名前を求めなくてもいいのかと納得して読んだ。
◆余談:肉体が違うことは、それ相応の差も当然あると思うが、それは心の性別がグラデーションになっていることへの否定ではないと思う。違いを認めた上で多様性も認められるようになってほしい。

<「何も言う必要がない」デスカッション>
◆D:全部読めていないが、結構好きな作品。なんか好き。
◆B:主人公が視力を失っていくというくだりがあるが、作者は本当に目が悪いのではないかと思うほどリアルだった。序盤に紙の話があったが、目が悪いと紙の窪みまで見えるもの。
ものごとを近視眼的に書くとこうなるのかと思った。
◆B:いろいろな要素が散りばめられていて、読み進めるには想像力が必要。
 A:私は友達の話を聞くイメージで読んだ。「こんな本を読んだ」「こんなことがあった」…みたいに。友達のすべてを知っているわけではないが話を聞くことはできる、という感じ。
◆B:近年の芥川賞受賞作や候補作を読んでいても、性別をはっきりさせない作品、距離が淡白な作品が多い。
◆A:私が普段読んでいる作品にも、他の小説・映画・音楽などを登場させている作品はたくさんあるが、あくまでストーリーを進める小道具としてだと感じる。この作品はストーリーと直接関係あるなしに関わらず、多くの引用が出てくるが、しっかり読むと理解が深まるのか?
 C:読むのは後でいいと思う。あくまで必要だから引用しているのであり、有名すぎる作品については引用する意味がきちんと示唆されているので。
例えばニーチェの『道徳の系譜』。キリスト教の道徳は普遍的なものではなくキリスト教のバイアスがかかり、人を縛っているのではということを著している。それを引用することで道徳観念やモラルを崩すためのアイテムとして用いているのでは。
またロラン・バルト『作者の死』は「オリジナリティ」という概念を切り崩す。先行作家の引用を多く用いているこの作品において、ある種、メタ的なアイテムとなっている。また、ロマン・バルトは性的マイノリティであることも象徴的だ。
また、『新世紀エヴァンゲリオン』旧劇場版からの引用は、個人と集合の関係、自己と集団の兼合いを想起させる。※作者であるファン・ジョンウンは1976年生まれで、韓国において日本のサブカルチャーなどが大っぴらに観られるようになった世代。
C:「ⅾ」にも言えることだが、人間関係における「私」と他者の曖昧さ、日本人からすると近いと感じる距離感が韓国的だと感じた。韓国は恋愛や友情とは別に「情(ジョン)」が重視される。同性の友人であっても、日本人の感覚より、もっとウェットに付き合う。
たとえば韓国でタクシーに乗る時は、一人客の場合、助手席に座って運転手と話しながら移動する(新型コロナウイルスの流行で状況は変わったと思うが)。
初対面でも率直に物を言うところがあり、親しくなると兄弟のように親密になる。実の兄弟姉妹でなくても男性間の兄弟呼び・女性間の姉妹呼びなどがある。
「みんなが帰るころには、傘が必要だ」は示唆的。傘がない人には差してあげるというところに距離の近さを感じる。
 B:国によって距離感が違うというのはある。ベトナムも近い。
アメリカやオーストラリアは個人主義だと感じる。他人への警戒心があるからだろうか。アメリカもオーストラリアもフレンドリーだが、それは相手との距離を測っているから(敢えて型にはまった言葉を交わして距離を測っている)。
 C:ヨーロッパでは、自分の話している言葉がわかるかで距離を測る。
京都のぶぶ漬けのような断られる前提の社交辞令もある(「泊まっていって」など)。
 C:韓国の「私」と人との距離の近さは、社会と距離が近いということ。だから社会不正にも敏感。解説に、作者であるファン・ジョンウンは、セウォル号の事故のニュースに接して執筆できなくなったとある。日本人であれば、自国で大きな事故があっても、そこまで衝撃は受けないのではないか。
これは「私」の物語であるが、「社会」の物語でもある。
いろいろなことを引用することで距離の近さを表現している。
「なにも言う必要がない」それはつまり何なのか? 言わなくても察して考える在り方ではないか。韓国は「言う」社会なのに、「敢えて言わない」ということの示唆。“言わないことでこの先、やってみせる”“黙り、敢えて見せない”⇒そこから新しいものを生み出す。

<フリートーク
◆C:韓国の人は感情をストレートに表現するが、相手に対して怒るというのは距離が近いということ。韓国には、感情はある程度出しておかなくてはならないという通念がある。相手に対しはっきり言っても、そこで関係が終わるのではなく続いていく。
◆C:ファン・ジョンウンは韓国の中でも苦労の多い三放世代。貧困(=世間のマイノリティ)に置かれる世代だからこそ、より社会問題に共感するのでは。
※三放世代…2010年以降の韓国における、恋愛・結婚・出産を放棄している若者世代のこと。韓国国内で増大する低賃金かつ不安定なワーキングプアの産物であるとみなされている。/ Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%94%BE%E4%B8%96%E4%BB%A3 )
「d」で、dが暮らす考試院(コシウォン)は日本で言うネットカフェのようなもので、若年層の貧困を表している。
◆C:最近は紀伊国屋などの大手書店でも韓国文学のコーナーがあり、たくさんの本が並ぶようになった。作家も日本でプロモーション活動をしたり、日本の作家と対談したりしている。
社会的マイノリティを扱う韓国文学は日本に多く入ってきており、映画「パラサイト 半地下の家族」が流行したときには、貧困層について書かれた作品が並ぶようになった。
現在、韓国では日本以上に格差が広がっていて、そのことに共感する目線で作品が量産されている。
 B:韓国の貧富の差は日本より激しい。いい大学に入れるか入れないかで、天と地ほどの差が出てくる。
 C:一度レールを外れると這い上がることが困難な社会。受験という早い段階で選別が始まる。シンガポールはもっと早く、小学校6年生くらいで進路が決まってしまう。
 D:諦めたほうが楽。届きそうだからこそルサンチマンが湧いてくる。
◆B:昔の日本は、今よりも親戚付き合いが濃く、同性同士の友人関係も深かった。だから韓国ドラマの人気があるのでは。
 D:三十年近く前のことだが、韓国の方と知り合ってすぐ手を繋いだことを思い出した。同性愛でなくても距離感がとても近い。また、スペインへ旅行に行った際、一緒に食事に行った韓国の男性にヌナ(お姉さん)と呼ばれていた。
 C:私も学校でヒョン(兄貴)と呼ばれたことがある。
◆B:韓国でも高齢化が進み、教育コストも高い。日本だとセーフティネットがあるが韓国では?
 C:あるけれど、大企業優先の政策が採られている。そのためサムスンなどの企業は成長したのだが。
日本と違い、公然と財閥がある社会だから、庶民は不正や抜け駆けに敏感。一般市民より大企業が優先されているので。
◆B:韓国は「恨(ハン)」の文化だと聞くが。
 C:「恨」というと「恨み」と思いがちだが少し違い、「状況に耐え忍ぶ(そして、そこからやっていこう)」という考え。日本では昔、嫁ぎ先に小刀を持っていき、屈辱的なことがあったら喉をかき切れ――というような価値観があったが、韓国は、自分の膝に小刀を突き立てて耐えろ、と言う。
C:日本との文化の違いは多い。たとえば食事のとき、日本では茶碗を手に持つが、韓国ではそれがマナー違反になる。どちらがいい悪いではなく考え方の違い。
◆B:韓国ではキリスト教の方が多い。
 C:兵役がキリスト教を広めたという側面もある。キリスト教は説教が終わるとお菓子を配る。それは兵役中でも同じで、軍隊生活において貴重な甘い物を求めて改宗する人が増えた。
また、日本に比べて宗教に厳格なので、嫁ぎ先で改宗する女性も多い(日本では結婚したからといって改宗する女性は少ない)。
◆C:参考として:李光洙(イ・グァンス)…日本統治下の朝鮮半島の作家。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。作品の内容は重いが、韓国の夏目漱石という感じだろうか(墓は北朝鮮にあるが)。
李光洙Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%89%E6%B4%99