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R読書会/Zoom読書会

『三月の招待状』角田光代(集英社)

Zoom読書会 2021.07.31
【テキスト】『三月の招待状』角田光代集英社
【参加人数】8名


<推薦の理由(参加者H)>
何人かの登場人物のうち、自分が誰に当てはまるかと考えながら読むのが楽しいのではと思い推薦した。誰しもが、(ぴったりとまではいかなくても)登場人物のいずれかと重なる部分があるのではないか。
角田光代は『八日目の蝉』などのようなサスペンス作品も多いが、『三月の招待状』は30代という年代の微妙さを描いた作品として紹介したい。

<参加者A>
◆読みやすかった。登場人物の苦しみなどを一生懸命考えなくていいので楽に読み進められた。それは、最後までさっと流れてしまうことの裏返しでもある。
◆テレビドラマにしたら面白いのでは。群像劇、ドタバタ劇という側面もあるので、それぞれの登場人物に合った俳優を当てはめられそう。
香山リカの解説にあるよう、私も「で、私はね」みたいに話したくなった。
◆35歳は人生の曲がり角ではないかと思う。そういう部分で巧く年齢的なものを取り扱っている。
◆病や貧困、責任、年老いることなど、生きる上で避けて通れないファクターを取り除いて、温かい世界を作っている。そのファクターがなければ、35歳というのはこれからの未来がある年齢。
:登場人物は貧しくなく、自分の子どもや親も作中に出てこない。=人間的な深刻な悩みや嫉妬、どろどろしたものがない。私はそういうものを描いた作品が好きなので、この作品を軽く感じた。
◆そんな中で、遥香の視線が一番大人だと思う。
◆愛情もなく、友情でも繋がっていないし、責任もとっていない。自分たちの温かいシェルターに閉じこもった登場人物たちはこれからどうするのだろう。シェルターが壊れる前の温かい世界の話だ。

<参加者B>
◆比較的自分に近いと思ったのは麻美と遥香だと思った。私も本質ではあまり人とべったり付き合わないので。とはいえ、充留が抱く、過去好きだった人への複雑な気持ちなどは理解できる。
◆私自身は大学時代の友人たちとは会っているほうだと思うが、このように「わちゃわちゃ」した関係ではないので、読んでいて興味深かった。「大学時代、確かにこんな感じのグループあったな」と思うが、現在、彼らの関係がどうなっているかは不明。
◆唯一の部外者である遥香の視点が挟まれているのが効果的だと思った。読者はグループの「わちゃわちゃ」に入れないので、遥香の視点が一番読者に近いかもしれない。
それとは逆に、同じグループにいる宇田男の視点が描かれていないのもいい。読者は他の人物の視点をもとに、宇田男がどんな人物か想像することになるので。
◆グループに溶けこみきれない麻美も比較的読者の視点に近いかもしれない。
◆物語を通して、麻美が一番変化した(一連の出来事を通して大人になった)と感じた。

<参加者C>
角田光代の『源氏物語』を読んでみようと買い揃えており、普段の著者がどんなものを書いているのか参考になり、推薦していただいてありがたかった。
◆小説の作り方が巧い。登場人物の履歴がきっちり設定されている。とくに小説の連載は書き始める前にきっちり決めておかなくてはならないので。その設定をどこで出すかというのも巧かった。
◆読者が、角田光代はどんな履歴書を作ったのか解析して作ってみるのも面白いかも。私自身、再現してみたいと思わせられた。
◆また、構成の面でも勉強になった。
◆作中の離婚式、結婚式、(結婚式での)充留の宇田男へのケジメなど、何かのケリをつけないといけない場面は現実にあるものではなく、小説だからこそ書ける。作り物だから面白いというのはあるが、どこまで読者に納得させていくかが大切だ。その面でもちゃんと納得できるように作られている。
◆群像劇で何人かの視点、語り、モノローグ……どこにポイントを置いて流していくのかと考えたとき、それは充留だと思うのだが、彼女のエピソードはそこまで面白くない。充留だけが仕事で成功し世間で認められているという設定だが、私には彼女の凄さが伝わってこなかった。エピソードとしては麻美や裕美子のほうが面白い。
◆物語のあと、裕美子と正道はよりを戻すのだと思う。
◆麻美がどう決着をつけたのか消化できない。「暇」とは?
◆大学のグループが15年も続くのか? 私の場合30代半ばでの同窓会もなかったので羨ましくもあり、こんな関係はないだろうとも思う。お互いを値踏みしたり嫉妬したり……そういうこともあるのかもしれないが。
◆登場人物たちは大人になれていない。
◆あまりに綺麗に流れているので、グループの中の誰かに子どもや要介護の親がいる設定、誰かが病気になる展開があれば、攪乱要素ができて、また違ったものが書けるのではないか。
◆しょうもない男に見える宇田男は、もっと後ろに下がっていてもいいのでは。過去の栄光を失ってもなお魅力的な人物に描かれていれば、また違ったと思う。
遥香だけが客観的な視点に使われているが、なぜ彼女だけ持ちだしたのか。重春、智が置いてけぼりになっている。

<参加者D>
角田光代をまったく知らなかったので読書会がなければ読まなかった。
◆大学時代の関係が繋がっているのは実際にあるかもしれないが、異次元のものを見てしまったような違和感を覚えた。そういうグループが存在しているとは聞くけれど、私の時代にはなかったので。
私の周囲だと定職についている人のほうが少ない。とくに今回の騒動で失業した人が増えた。結婚式の招待状が来る前に離婚調停が始まっていたりする。
なので、作品の中にバブルの残滓を感じた。そんな高い物を食べるのか、のような。私より少し前の世代のカルチャーだろうか。
:違和感の正体は?⇒子どもが出てこない、親が出てこないのもあるが、非常に狭く閉鎖的な集団という、大学の面子で完結しているところ。
遥香の視点を除けば外部の人間が出てこない。独自の閉塞感があり、それを読む小説なのだろうか。狭い空間で、口には出さないけれど思っていること、しこりを感じること、招待状や結婚式の綺麗事など。
◆面白いのが、離婚式で始まり結婚式で終わるところ。そこに出席する小集団が主人公だと示唆している。それだけだと息が詰まるので遥香視点があるのかも。
遥香が、正道と元妻を含むクラスメイトのことを「正道と、元妻を含む元クラスメイトたちは、おそらく、だれかに嫌われたことも嫌ったこともなく育ったのだろうと遥香は想像する。人との距離を縮めることをなんとも思っていないのだろう。わちゃわちゃと人と関わりながら成長し、そうして大学という場で似た人間をさぐりあて、寄り集まってわちゃわちゃと過ごし、そうして今もなお、わちゃわちゃと関わり合っているのだろう。好きも嫌いも超えたところで。彼らにとって好きはどこまでも肯定で、嫌いは無関心、それだけなのに違いない。」(P178~179)と評するが、ここが肝。
◆大学は4年間、サークルや同じ小集団で固まりがち。メンバーはお互い似たところがあり、コンセンサスのようなものが確立されている。
◆読んでいて、狭いな、息苦しいなと感じた。彼らの口ぶりを見ていると、「彼氏/彼女/夫/妻になったら、(一般的に「そうあらねばならない」とされる)その役目を演じなければならない」と考えており、素直に受け入れ演じている。そして、そのような在り方に違和感を感じるのではなく、それから外れることに劣等感を感じている。
男としての在り方、女としての在り方、結婚などを素直に受け入れているところに、私は違和感を感じるのだが、しかし、そこにこの小説の売りがあるのでは。
「狭いコミュニティでの閉塞感」がテーマだろうか。

<参加者E>
◆読書会より1週間ほど前に読んだのだが、登場人物たちを薄く感じ、印象に残らなかった。登場人物は全員、喜怒哀楽を深めることもない。角田光代は軽い小説ばかりではないと思うので、なぜこんなに軽く書かれているのか気になった。
◆軽いと感じるが、その代わり、嫌味な人も出てこないので読みやすい。だからこそ印象に残らないのかも。
◆登場人物たちは経済的に恵まれており、深い悩みもない。私の周りにはそこまで豊かな人はいない。
◆40代や50代の離婚なら重みがあるが、子どももいない30代の離婚なので、おふざけだと感じる。
◆麻美の失踪後に集まったときも、話し合いより出前をどうするかで盛り上がっており、心配するふりをしている。そんな薄っぺらい人たちでいいのか? たとえば40代・50代の、そんな人物を戯画的に配置するのはいいと思うが。
◆バタバタはあるが、(読者の)傷になるリアリティがない。裕美子と正道、麻美と智も寄りは戻るのだろう。
◆麻美と智の関係が薄い気がする。
遥香視点のパートには、いじめのエピソードなども書かれており現代的。彼女の嘘(正道の離婚前後から掛かってくるという迷惑電話)に効果がなかったのもいい。
◆ドラマにしたらよさそう。放送コードにも引っかからないと思う。
◆私自身は、大学を卒業してから継続的に集まるというのはない。数年前、数人で集まったくらい。また、35~36歳のときはシングルマザーをしながら働いていたので、自分の世界とまったく違う。
◆Cさんが「履歴書を再現したら面白そう」と仰ったが、私もそう思った。

<参加者F>
◆自分だと絶対に読まない作品を読む。これが読書会に求めていたもの。もし自分だけで読んでいたら「合わないな」と思うだけなので。
(なぜ合わないのかというと)謎がなく、殺人など大きな事件も起きない。もし私が作者なら「八月の隕石」とかで東京を吹っ飛ばしていると思う。
◆小説で一番楽しいのは謎だと思うが、この作品に関しては作者がとくに意識しなかったのかもしれない。非常にテクニカルな小説ではある。
◆表層的に読むと、いわゆる「中年の危機」か。30代は老けていても大人になりきれていないという側面もある。
◆私にはまったく刺さらなかったが、刺さる人には刺さるのでは。距離のないコミュニティの中にいる幸せ、学生時代を振り返ったり、学生時代の総括をしていたり……。
居心地のいいコミュニティを維持していること、日常の暇、閉塞感など、どれかに引っかかれば読者は読むのかなと思う。
◆30代になっても大学時代のグループで遊ぶことは私にとっては普通なので、リアリティに欠けるとは思わなかった。
◆2007年の作品だからか、経済的な影が見えない。
遥香視点を挟むことによって外部からの視点を提供しており、読者が共感しやすくなっている。⇒物語の強度を上げている。
◆重春、宇田男、智は視点人物にならない。私が読む小説には男性視点のものが多く、その中で女性は、ふわっとしていて何を考えているかわからないというような描き方がされている。その男性版だろうか。
◆悪人が出てこない。お金にだらしない人は出てくるが困窮しているわけではなく、暴言もなく、読者の幻想を壊すものを巧みに避けている。
◆小道具が印象的。ワインが飲みたくなったし、リーデルのワイングラスがほしくなった。
◆推薦者がHさんだと知って意外だった。

<参加者G>
◆「絆」と「自立」をモチーフにした寓話として読んだ。
「絆」の語源は諸説あるが、いずれもが動物を繋ぎとめる綱を指しており、登場人物たちの関係を思わせる。自立しようともがいているのに、絆に絡めとられて戻ってしまうというようなところが読みどころだ。「一体感」をテーマにした“もやもや感”もよく出ている。
◆私は大学に行っていないので、大学とはこんなものかと想像できて楽しかった。
◆モラトリアム、共同体に浸かったままの登場人物たちに離婚パーティーで刺激が与えられ、変化が訪れる。一応の変化を与えたという意味で『三月の招待状』というタイトルはいい。:招待状が来て、それぞれが変化し、変わろうとする。
◆「こんなのありえないだろう」という部分も、かえっていいと思う。
◆登場人物たちは確かに無責任ではある。経済的には豊かで、2007年という時代を反映していたのだろうか。
◆日本では、精神的に大人にならなくても、成長しなくても、それなりに生きていける。そのぬるま湯感がよく出ている。
◆登場人物たちは、人のことは見えているのに、自分のことは見えていない。人に向けていた視点を自分に向けて、今までの自分を壊すというのは、青春小説というジャンルにぴったりだ(※「大人の青春小説」…表紙裏のあらすじより)。
◆30代はまだ若いので、このわちゃわちゃ感は幸せなことだと信じたい(現実にはありえないとは思うが)。
◆描写がとても面白かった。たとえば、若者がモブとして出てくる場面が多いが(「二月の決断」充留が下北沢を歩く場面など)、登場人物たちと対比されて、読者に小さな刺激を与える。
◆大きなテーマは隙・空白。
角田光代の(角田光代としての)デビュー作『幸福な遊戯』は男女のシェアハウスを描いたもの。「なにやってるんだ」と言われるような人たちからの視点を持つ作家ではないだろうか。

<参加者H(推薦者)>
◆まず読みやすい。私も小説を書いているが、「読みやすい」というのは、私の中では「文章力」。そういう意味では非常に大事。読みやすいというのはよかった。
◆登場人物たちの年齢で、大学の仲間たちと普段会っているという設定は実味がないと正直思う。作中の、大学時代から続くグループを羨ましいと感じる部分もあったが、35歳というと働き盛りで、家庭も持ち始めて、子どももできて……こういうグループから脱落しないでいるのは難しい。
私は60歳になるが、仕事と関係ない友達グループ(趣味も一人ひとりバラバラ)ができたので、「そういうの(登場人物たちのような関係)もあるのかな、自分に置き換えられる部分もあるかな」と思えた。
◆正道と遥香カップルが面白かった。付き合い始めた頃の刺激はなくなって倦怠ムードになっており、正道は、大学時代の仲間と遊んでいるほうが楽しいと感じ、遥香遥香で、正道の大学時代のグループに嫌悪を抱いている。二人のやりとりは非常にリアリティがあった。
◆Gさんの仰った「(章ごとに視点人物が変わり、それぞれが)人のことは見えているのに、自分のことは見えていない」というのを私も感じる。冷静に周りを見つめているのに、自分のことはわかっていない。一番に思い浮かぶのは、充留が、麻美と宇田男が付き合っていると聞いたとき、クールな彼女が不安定になってしまったところ。裕美子の「宇田男はお金がなくて麻美に近づいたのかもしれないよ」という言葉の矛盾(充留のほうが金銭的余裕がある)に気づかない。実際、私自身もそういう部分はあるかもしれないと思う。
◆それぞれの人間のライブのリアリティはあると感じた。

<フリートーク(発言者の敬称略)>
【多視点であることの意味】
D:自分が見えておらず他のことに視点がいくのと同時に、常に(登場人物たちの)視点が構成員(=所属している集団のメンバー)に向いている。自分ではなく手近にいる人に目が行って、マウンティングしたり、コンプレックスを抱いたり。これは均質的な集団、同質的な集団、ホモソーシャル集団に見られることである。
特定の人を見て、「私はもっと頑張っている」「あの人はよくない」というものさしが出来ている。ここにこの作品のしんどさ、違和感がある(⇒そこに風穴を開けるのが遥香である)。
たとえば(一般論として)三角関係の場合、異性の相手ではなく、同性の出方を窺って、自分の出方を考える。だから逆に自分のことが見えなくなる。狭い集団の特徴だ。この作品では三角関係をさらに複雑にしているので、それだけではないが。
「視線」というのは物語の中で重要なガジェットではないか。「集団から出づらいが心地よい」という状況が表れている。
C:自分のことは見えるが他人は見えない。それをクリアするために多視点にしたのだろう。主人公視点にすると作者と主人公の距離が近くなるので。小説を書く上で、一つのテクニックとして使える。

【宇田男の描き方、作中での役割について】
A:(宇田男について)ダメ男に女性は惹かれるもの。
C:宇田男は「ダメ男だけど女性に好かれる理由が読者に理解できる」という描き方にしたほうがよかったのでは。今は落ちぶれているけれど矜持を持っている、とか。
B:充留視点や麻美視点のときに描かれる宇田男は、もっと魅力的に描かれていてもいいかも。たとえばギラギラしてるとか、こんな振る舞いが素敵だ、とか。作中では、顔がいいだけのだらしない男になっている。裕美子視点では、それでいいと思うが。
A:読者がどれだけ脳内補正できるか、ということか。私は宇田男の箇所を脳内補正して読むことができた。
D:宇田男については、彼の内面より、「そういう人物に惹かれる人の存在」が必要なのかなと。「ちょっとぶっ飛んでる人物」「ちょっとエキセントリックな人物」(=この場合は宇田男)を共有しているところで集団の安定が図られている。一人だけふらふらしているから外部に行ってしまうこともある。一種の特異点として使われているのでは。
宇田男は、(物語の上で)都合のいい時に現れて、都合の悪い時には後ろに引っ込んでいるキャラクター。機能的な役割を担っているから紋切型な人物造形になっている。
C:私はやはり宇田男の扱いが軽いのではないかと思う。パターンは必要だけど、宇田男にはもっと(物語の中で)役割があるのでは。
A:女性のほうのダメっぷりを書きたいのかも。麻美は、宇田男と付き合って家出までしたのに結局自立できず。充留も結婚までしてしまって。宇田男に魅力を付加したら、彼女たちのバカさ加減が霞んでしまう。
D:読んでいて登場人物たちのわちゃわちゃに目が行くので、宇田男はオブジェのような役割を担っていると考えられる。

【麻美が辿り着いた結論「暇」について】
A:介護や育児がない登場人物たちは本当に暇だと思う。心に余裕があるからこそ宇田男に心惹かれたりできる。幸せな人は暇。不幸な人たちは忙しい。
F:ボヘミアン的なモラトリアムを感じる。浮世離れ、ヒッピームーブメントというか。地に足がついていない。
E:まさに浮世離れ。お金に困らない、暇な人たちだな、と。彼らが暇っていうのはよくわかって、そこには共感した。私自身が35歳のころは育児中だったので、そんなことはなかったけれど。
A:私も育児をしていたから「こいつらなにやっとるんじゃ」と思う。こういう世界があるのか、と。
D:(登場人物の大学時代についても)私は大学で実習や訓練が多かったから、こういう暇がなかった。
C:「暇」はわかるが、それを麻美の結論にしているのがよくわからない。この物語の締め括りとして相応しいのだろうか。
D:言葉の問題かも。「暇」というより「停滞」「倦怠」といったところでは。
A:簡単な言葉で結論づけてほしくないということか。
C:「暇」でまとめてしまうのが違うかな。そういう方向に持っていってはダメだと思う。そういう図式的なものじゃなくて、もっと読者をもやもやさせてほしい。

【均一性が保たれたグループについて】
A:女子大、ママ友など、均一性が保たれたグループは確かに存在する。そこでは、決められた生き方に疑問を抱かない。
D:そういうグループは、ある程度共有しているものが多いからこそすれ違ったり、劣等感を抱いたり、波乱を呼びやすい。
H:たとえば麻美に子どもができ、ママ友グループなど他のコミュニティに所属していたらまた違う感じになっていたと思う。大学時代から脱却できず、常軌を逸していったのが面白かった。