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『すばらしい新世界〔新訳版〕』オルダス・ハクスリー、大森望訳(ハヤカワepi文庫)

Zoom読書会 2021.09.18
【テキスト】『すばらしい新世界〔新訳版〕』
      オルダス・ハクスリー大森望訳 (ハヤカワepi文庫) 
【参加者】7名

<推薦者の理由(参加者G)>
単純に「好き」だから推薦した。ディストピアを描いた作品は、世界について考えさせてくれる。また、暗示や教育について、皆さんの意見が聞きたかったというのも理由。

<参加者A>
◆名前だけは聞いたことはあったが読む切っ掛けがなかったので、紹介していただいてよかった。
◆なかなか興味深く面白かった。1932年に発表された作品だが、私が高校時代に読んでいたSFのようであり、また、その頃のSFと比べても遜色がない。今の時代でも読める作品。
◆現代とは科学技術の発達の方向が違うことは置いておき(作中では、通信設備を担いでいたり、ドローン技術がなかったりする)、よく考えて書かれている。
◆発表当時は社会風刺として効いていたかもしれないが現代とはずれている。展開は巧く、論旨は納得できる。
◆野蛮人ジョンと世界統制官ムスタファ・モンドの論争の場面(第17章)では両方の論が納得できるように書かれており、そういう意味では上手に物語が作られている。
ただ、ジョンとムスタファ・モンドがどうして対等に論争できているのか、また、この論争はストーリー上適当なのか疑問が残る。作者が読者のために論争しているのでは。
ナチスの優生思想、英国の階級社会などを取り入れた世界観。現代に書くなら、もう少し違うものになるのかもしれない。その辺りからも、当時の人の考えを知ることができて面白く読めた。
◆階級の設定も興味をひく。たとえば最下級のイプシロンは家畜のような扱いで、条件づけにより、家畜的であることに幸せを感じるように作られている。単細胞ではないけれど単細胞分裂のように、一卵性多胎児として増えていく不気味さがある。
方向づける教育はナチスドイツだけでなく、当時の日本でも行われていたのを思い出して、少し恐ろしく感じた。そのような教育は現代でも一部の国で行われており、今後そういう世界になりかねない――そんな漠然とした不安を覚える世界を巧く作り出している。
◆翻訳上の問題化もしれないが、「野蛮人」という呼称はどうなのか。野蛮人というと相当遅れた人種を想像するので、記号化して別の単語を当てはめたほうがよかったのでは(記号化:たとえば……新型コロナウイルスの集団感染を「クラスター」と呼び、今は「クラスター」といえば新型コロナウイルスの集団を指す言葉になっている)。
光文社古典新訳文庫の『すばらしい新世界』では、植松靖夫氏の丁寧な解説が巻末に載っているが、その内容に引っ張られてしまう。もう少し読者に考えさせるほうがいいのでは。

<参加者B>
◆1932年に発表された作品だが、本が読める端末や香りを出す装置など、当時はなかったが現代にある技術が描かれていて、作者の想像力がすごいと思った。
◆描かれているのは、“社会の不平等”が明らかになってきた時代だろうか。
◆私は最近、心の安らぎを求めてゾンビ映画を観ており、その際「みんなゾンビになってしまえばいいんじゃないのか」「人類は滅亡してもいいんじゃないか」と思っていたので、この作品には考えさせられた。この作品の世界ほど人工的に作られた、統制された社会となれば、人類は存続する意味がないのでは。
◆テーマは「幸せについて」。幸せとは、ということがたくさん書かれていた。野人ジョンは自ら“不幸”を選んだ。彼の自死の原因は、不本意ながらソーマを服んで乱交してしまったことが切っ掛けだが、ソーマを服むことは作品中の世界における文明人の幸せである。文明人の幸せとは、“その瞬間の幸せ(私たちで言うところの、お菓子を食べているときの幸せ、空が青くて気持ちいいときの幸せ、など)”であり、それが提供される世界だが、瞬間的な幸せはいずれ逃げていく。人間の“その瞬間の幸せ”ならわかるが、各自にとって最善の幸せとは? 悲しみの中の幸せというものもあるだろう。統制された社会は続いていくと思うが、それはレールを敷かれた幸せしか感じない世界である。

<参加者C>
◆私はSFが好きだがこの作品は読んでいなかったので、いい機会だった。科学万能の、楽しげなディストピアだと感じた(冷戦期に書かれたディストピア作品などには、もっと暗い雰囲気のディストピアが登場するので)。
◆ストレートに怒りを書いたら怒りがにじむ作品になるが、明るく書いている。
◆未来の描写も、書きすぎていないのがいい。宇宙人も出てこないし。
ヘリコプターが実用化されたのは第二次世界大戦後だから、1932年に発表されたこの作品の中で使っているのは慧眼だと思う。
◆小説としては引っかかる。第1章~第3章の会話での説明や、ジョンとムスタファ・モンドの会話でシェイクスピアを引用している部分など。この時代の読者は許容できたのだろうが、現代の読者だと我慢がきかないのでは。
◆ジョンが極端な人物として描かれているため、物腰が洗練されているムスタファ・モンドのほうに共感しやすい。
◆自分が属していない文明圏のことは、ディストピアに見えるのかもしれない。
◆現代とこの作品中の世界は似ていないかな。今の日本で問題になっているのは社会の分断なので。

<参加者D>
◆翻訳された文を読むのが苦手な私でも読みやすかった(原書や他の訳本を読んだわけではないので、もともと読みやすいのか、訳のおかげなのかはわからないが)。
◆所長がレーニナのお尻を叩くところ(P26)は「ん?」と思ったが、読み進めていくと、この世界の価値観が明かされていき「なるほど」と腑に落ちる。社会が変われば常識やマナーも当然変わっていくのだろう。固定観念が破られ、自分の足元がぐらぐらと揺れる感じがする。私たちが当たり前だと思っている価値観や常識がどれほど脆いものか、考える切っ掛けになった。
◆ムスタファ・モンドの話を聞いていると、管理された世界が幸せのように思いかけるのだが、ソーマ(麻薬)漬けであることや、気持ちを押さえつけなくてはならないことを考えると、やはり違うなと思う。
◆“幸せ”と同時に“不幸になる権利”についても考えた。
◆条件づけは、現代日本の育児や学校教育でも普通に行われていることでは。教育とは洗脳であり、刷り込みでもあるはず。親や教師が正しいと思うことを伝えるしかないが、それは別の世界においては正しくないのかもしれない。

<参加者E>
◆私は、この世界がディストピアであるとは感じず、私自身が理想とするユートピア小説として読んだ。皆さんが「カースト的に差別/区別されていいのか」とか、「そうしてまで人類が続く必要があるのか」と仰ったのを聞いて、私は異常なのかと思った。
◆こんな世界になったらすごくいいと感じる。ソーマで苦しみや悲しみを忘れて幸せになれる。「悲しみがあるからこそ幸せを感じられる」という考えが一般的だと思うが、楽しみがあれば苦しみもある……そういう教育を受けているからでは。
私はそうは思わない。危険思想なのかな? ソーマがあったら服みたい。老いや病気、悲しみ、嫉妬の塊なので。不幸とは思わないが、自分自身の存在が重すぎてにっちもさっちもいかないから、忘れることができたら、と感じる。
◆家畜は不幸を感じない。私は小説を書くなど、頭脳的なことをしているときは楽しくないが、ジャガイモの皮むきなど単純作業はとても楽しい。イプシロンが不幸とは思わない。私は、条件づけで肯定されるなら、いくらでもイプシロンになる。
◆幸せは脳内物質によってもたらされる。作者のハクスリーもドラッグ中毒者。ドラッグで陶酔しているときにユートピアが見えるのでは。ハクスリーが「すばらしい新世界」をアイロニーで言っているのかどうかわからない。アイロニーで書いているとは思うが。

<参加者F>
◆『すばらしい新世界』は別の読書会でも取り上げたことがあるので、読書会のテキストとして読むのは二回目。
また仕事柄、学生への課題として出している作品でもある。一般的な感想は言われ尽したと思うので、また違う角度で話すことにする。
オルダス・ハクスリーは、よくジョージ・オーウェルと比較される。オーウェルディストピアが徹底的な圧力と監視によるものであるのに対し、ハクスリーのディストピアは真綿で首を絞めていくような世界。
◆作品世界のベースは現実社会で先行する教養によるところが大きいので、その当時の社会批判になる。
・(Aさんが指摘された)優生学は入っていると思う。作者の祖父のトマス・ハクスリーは動物学者で優生学と関わりがある人なので。
・当時、社会の分断もあった。1930年代では、中流階級の英語と下層階級の英語は通じない。
◆タイトル「すばらしい新世界」は、シェイクスピアの『テンペスト』の第五幕「O brave new world,. That has such people in't!(ああ、すばらしい新世界。こんな人たちがいるなんて!)」から(『すばらしい新世界』P193に引用)。追放された貴族が孤島を植民地のようにしながら暮らし、最後は文明世界に帰っていく……「brave new world(すばらしい新世界)」は文明世界に帰っていくヒロインの台詞である。
ハクスリー『すばらしい新世界』ではそこを転倒させている(=野人が新世界に入っていくが絶望する)。
植民地主義と深い関わりがある『テンペスト』をこの作品に引用しているのには意味がある。植民地は外国の土地や人間を利益のために均一化する(サトウキビの栽培だけをさせてほかの発展を認めない、など)。頭脳作業で全体を把握してるのは上層部だけで、先住者は教育による条件づけにより、ある面において家畜化されている(=個々の個性はなく、社会に対する義理だけを立てる)。
すばらしい新世界』には、「人を家畜化する」植民地的な発想がバックにある。
ディストピアなど管理社会の小説を書く人は植民地に関わっているのではないだろうか。ジョージ・オーウェルもイギリス植民地時代のビルマで警官をしていた。人を家畜化するという発想はヨーロッパの植民地主義からくるものだと推察する。だからこそ今でも読むに耐えうる。
◆「brave」は「すばらしい」と訳されているが、今では「勇敢」という意味である。『テンペスト』はシェイクスピアの時代に書かれた作品で、「すばらしい」という使い方は1930年代当時でも違和感があったが、ハクスリーはわざと用いている。→古いものへの愛着が管理社会へのアンチテーゼになっている。
◆ジョンとモンドの理屈の取り合いの中の「科学における発見は、どんなものでも破壊につながる可能性を秘めている。だから、科学でさえも、ときには潜在的な敵と見なさねばならない」(P312)に注目したい。
シェイクスピアの時代、「化学(science)」には「知識」「知恵」という意味があった。論争を読んでいくと、野人ジョンのほうは「科学」を「知識」「知恵」と捉えているきらいがある(つまり、この論争では古語と現代語がないまぜになっている)。ジョンは「知識」「知恵」が具体的に何を意味しているかはわからないが、「何かを動かすもの」だと理解している。
即ち、この場面には、「知識」は安定した社会の潜在的な敵となるという意味が込められている。
◆支配層は、社会が完全に分断して下層階級は脳が退化しても構わないと思っている。
◆主観的にはとても気持ちのいいディストピアというのが、この作品のキモだと思う。その世界はジョンから見ると不快なのだが、ジョンの住んでいた世界も、外側の人から見ると不快に感じられる。その対立。

<参加者G(推薦者)>
◆言いたいことは、だいたい言っていただいた。
◆『すばらしい新世界』は最近出会った本。
◆教育や暗示は怖い。
私は16歳のころから料理の仕事をしてきたが、16・17歳からやってきたことは頭を使わなくても体が勝手に動く。こういうことかと感銘を受けた。
また、私はもともと文章を書くことや物語を作ることが好きだったが、文章や物語について学校で学んで、自分のリズムで書けなくなった。「こうしなくてはならない」という暗示に、中途半端にかかってしまったのかも。
完全に条件づけされたら幸せなのだろうと思う。
◆現代では、大方の意見に否定的なことを言うと嫌がられる風潮がある。自分の意見を通すと批判されるから大多数と同じことしか言えない。「個人」が死んでいく。
毎日さまざまなニュースや情報が流れ、情報の海に溺れている感じ。将来的に、その情報はコントロールされるのでは。
すばらしい新世界』は、そんな現代社会の行き先に思える。『1984年』の世界はさらに先か。
◆書くというのは、自分の中にあるものを表現するということ。流行や風潮に流されず、自分のものを書ければいいなと思う。
◆冒頭部分の説明は多いが、読者へのナビゲーションの役割があるのかもしれない。
◆第17章のムスタファ・モンドと野人ジョンの場面は好き。科学者の自分を殺したモンドと、それができないジョン。狡猾な老人と青年の対比は普遍的で、100年後であってもこの作品は読まれるのでは。
◆科学的には現代と違うが、イメージによって当たっている部分も多い。たとえば(精神的に)子どもでいなければ生きていけないところなど。
◆現代は父親による管理、父性原理が強い。関西が元気なのは母親が強いからじゃないかと思う。母性原理を見直してほしい。

<フリートーク
ディストピアにおける父性と母性、家族】
E:私は子どもを育てることにエネルギーを注いできたが、母性が本当に必要なものなのか疑問に思う。人間の幸せは、自分の世界を作って自分の幸せを追求するものだと思うが、母親は、子どもがいると自分を犠牲にできてしまう。
「母性は神様のようにすばらしい」と思っている人も多いけれど、果たしてそうだろうか。子どもがいないほうが自由に生きられる。
G:確かに、子どものほうでも親に依存してしまうことだってある。
F:この作品ではfamily(家族)の概念自体が猥褻なものとして排除され、消されている。ムスタファ・モンドが語るところによると、惹かれ合って家族を作るのは「執着」であり、バランスを欠いたもの。母性にはいい面もあるが、子どもからすると母性が恐怖に転化する場合もある。それをこじらせるとミソジニーになるケースも。逆も然りで、父親や父性に関しても同じことが言える。
親が子どもに執着するとバランスを欠いてしまう、ならどうしたらいいか? 「生まれる」という概念をなくしてしまえばいい。家族でなく、Cluster of α、Cluster of βというセットにしてしまって。
この作品には、「家族」というものの冷酷な解体という側面もある。人間の感情を極めて家畜化し、動かないようにする手段として、男女に執着を持たせない。執着は国家元首や社会全体に対するものであるようにする。
他のSF作品でも結構見られる。「“パパ”“ママ”それは何だ?」みたいな。そんな世界においては、(「家族」「パパ」「ママ」などが)モラル的によくない言葉になってしまう。
G:僕が読んできた作品のディストピアは父性が強い。母性がテーマのものはあるのか?
F:まだ読んでないが、2021年4月刊行の『マザーコード』(キャロル・スタイヴァース著/早川文庫SF)とか。最近流行ったのはマーガレット・アトウッド侍女の物語』、続編の『誓願』(いずれも早川書房)。キャサリン・バーデキン『鉤十字の夜』(水声社)では、ナチスが勝利した世界が何百年も続いて、ユダヤ人の代わりに女性が迫害される男社会になっている。ちなみに作者は女性。
しかし私が思うに、女性至上の世界であろうと結果は同じ。一つのことに執着してしまう、執着したゆえにトラブルになる。ムスタファ・モンドから見ると「そら見たことか」と。
ディストピアとは、削ぎ落としが極端になったらどうなるかという思考実験的な面もある。
G:Eさんは子育てした経験をお持ちだが、瓶詰めで人間を作るのがいいなと?
E:思う。妊娠したときから自分の体ではなくなる。人間として限界。出産・育児は楽しい仕事ではない。言葉はよくないが、子どもは親を裏切るし、裏切らなくちゃいけない(=反抗期を経て独立しなくてはならない)。だから母親は、子どもに裏切られるという試練を受ける。
女にとって家族とは、男の人の世話をすること。自分に好きな人ができても不倫とか言われるし。人を好きになるのは自然なことなのに、そういう価値観って何だろう。
ハクスリーの価値観はわからないけれど、女性の体を「むちむち」と表現していたり、作品の中でエッチなことばかりしている。

【尊厳について】
E:なぜ痛みとか苦しみ、執着が悪いのか。
F:いい悪いより、それをよしとする世界、よしとしない世界がぶつかって、わちゃわちゃしているのがこの作品。「安定しているがどうか」という見方。人間にとってどちらがいいのかと問われているのでは。
E:(現実世界の)テロリストも、本を読んだりしていたら自爆しないのではないかな。
F:すばらしい新世界』の世界に欠けているのは個人の尊厳。死ぬまで安定しているとか、ある種の尊厳はあるが、自発的に何かをする尊厳がない。(その世界の)外から見ると非常に尊厳がない。野人ジョンが怒るのはそこ。
(現実世界で)自爆テロを行う人も尊厳に欠けている。自爆すれば神がユートピアで尊厳を与えてくれる、という考え。本人たちが入ってるぶんには快適だから、自分に尊厳がないことがわからない。そこにややこしさ、めんどくささがある。
A:尊厳が必要だとかメインだとか、そうなのだが、それだって条件づけ。条件づけられたジョンがそれを述べているにすぎない。たとえばキリスト教の世界にはキリスト教の条件づけが、イスラム教ではイスラム教の条件づけがある。片方からしか見ていない。
ディストピアであり、ユートピアでもあるのがこの小説。
G:私は料理の仕事をしてきたのだが、和食と洋食では包丁の持ち方から違う。一定のエリアで正しいことが他では悪。生きていることは不安定。
E:作者の価値観がわからない。アイロニーなのか、本当にすばらしいと思っているのか。両方を提示して、結論は読者が決めるということか。
F:だからこそ現代まで読まれている。作者はわかったうえで放り投げている。読む人も敢えて確定しない人が多いのでは。
A:相対性理論は確かな軸がない。いろいろなところに軸がある。すべて自分自身が中心。今まで経験してきたことに基づくしかない。人はみんな違うので紛争があるのは仕方ない。
条件づけによってすべての人を愛せる世界になっても、誰かが嫉妬を持ったら終わってしまう。「自分の相方を誰かに奪われてしまう」という気持ち(所有欲)がなければ不倫は成り立たない。領土だってそう。奪われたら奪い返さなくてはならない。すべてが中心なら紛争があるのは当たり前。
F:そこで『オセロー』を引用しているのは巧み。疑いだしたらきりがないから管理者はそれがないようにしている。
A:シェイクスピアも権威。
F:イギリスの上層階級が共有している知識だから出した、という面もあるかも。
A:野人ジョンがシェイクスピアを出したからあのような議論になったが、彼がシェイクスピアを知らなかったら別の議論になる。

【世界と人類の存続について】
F:ディストピアを描いた作品で)主人公はその世界に馴染まない人物として設定される。あるいは他所から来た人。
1984年』だと体に異常があって馴染めない、というふうな。『すばらしい新世界』の場合は生産の際のミスによる欠陥。そういうキャラクターが違和感を感じ、物語になる。技巧というか流儀。
A:ものすごく脆弱な世界だな、と。アルコールを間違えて混入したり、22年後に眠り病になったり(P258)。誰かの人為的なミスによって崩れてしまう世界だということを随所で示唆している。そういえば、現代でもワクチンに異物が混入していて騒ぎになっているが……。
E:個性はなくならないと思う。この世界、ある程度の個性は残っている。(バーナードの)アルコールの影響だけじゃなくて。
A:でも途上で個性を殺していっている。
G:Bさんが仰られたみたいに、そうまでして人類は必要なの? となる。
B:生物はよく滅亡しているし。恐竜とか。
A:この世界は自然的じゃなく人為的。種が存続していいのか考えていない。
G:確かに。そんなこと考えていない。安定と維持だけ。惑星がなくなるまで続けばいい、という感じ。
A:私たちだって考えていない。いずれα、βみたいな超人類が出てきたりして……あまり続かないほうがいいのかも。
G:ネットの中に漂うみたいな進化はないかな。素粒子になったりして。

現代社会における「ソーマ」】
F:ソーマは寓話的。現代日本だとSNSの「いいね」の数がソーマに近い。何かあったらコネクトして憂さを晴らす。ネット上の固定化した階級の中で生きていく。あるネットの言説を信じる人、信じない人で分かれる。自分が心地よい情報を摂取して生きていく。ソーマの寓話は現代でも通じる。
G:安部公房の『砂の女』みたいな。
F:ネットにリソースを提供するのは、無賃労働や搾取に通じる。現代日本もあまり笑っていられない。仮に異星人が外から見たら「何やってるんだ」となるかも。
A:きっと将来、SNSは禁止されると思う。麻薬だって昔は合法だった。
G:今問題になっているネットいじめも、その布石だったり。
A:人間はそういう麻薬的なものを根絶できない。禁止するほうが不自然。だから容認したらいいという考えもある。新しいユートピアができるかもしれない。実現するには実験しなくてはならないか。

【余暇の過ごし方について】
E:マルクスが「4時間労働になったら余暇は何をすればいいんだ」と言っていたけれど共感する。
F:マルクスの娘婿(ポール・ラファルグ)も言ってますね。労働に最適化されすぎて。
A:「仕事」とされていることが肩書に置き換わってしまっている人がいる。4時間労働になると4時間しか威張れないから、そういう人にとっては都合が悪い。
E:労働抜きにしても、余暇の使い方が上手くないのでは。
A:人間には、他人より優れた者になりたいという欲求がある。小説を書きたい人は小説を書くし、絵を描きたい人は絵を描くし……自分が得手とすることを求めてさまよっている。仕事が得意な人は、それに逃げ込んでしまう。
E:時間があってもすることがないというのは苦痛。
A:そういうときはタガを外す。不倫やギャンブルで時間を潰す人も出てくる。
E:すばらしい新世界』では、異性との交流が幸せ、と言っている。
F:それは、性行為から快楽と生殖を切り離しているため。責任がなく快楽だけが残るのでレジャーになる。

【母性について、「見られていること」について】
G:『バルーン・タウンの殺人』(松尾由美)の殺人犯も、人工子宮が普及した社会の物語。私はどうしても「母性」が核になってしまう。
A:「母性」一言で言っても、貧困のために子どもを売り飛ばしていた時代の母性と、現代の母性は違う。上流階級であっても、子どもから引き離された母親に母性は出てくるのか? 北条政子のように息子を死に追いやってしまうかも。
E:性神話というものがある。子どもを母親に任せていたら楽だし。
A:私たちの世界の「母性」をSFに当てはめるのがおかしい。
(物語の世界において)条件づけで母性を否定させるより、自然に持っていかないといけないのに。これがSF世界の矛盾しているところ。
F:イギリスの圏内に限ったことじゃないけど、生まれがいい人は子供時代、母親でない人に預けられるので、母親が遠くなる。男は男の中だけで育つ。チャールズ皇太子は母親である女王に会うときは緊張するそうだ。いい家であればあるほど母親と遠くなる。
核家族で温かく見守られている、というのは最近の概念。ジョージ・オーウェルは、労働階級の母子はいいなと見ていたが。
E:プロテスタントから見たら聖母マリアは人間。神様ではないけれど信仰されている。人間は母性に憧れる。
A:マリアは父親なくイエスを生んでいる。だから神なんです。
G:マリアは観音的なもの?
E:マリア観音ってあるし。
G:観音様が見ている、というような。
F:ビッグ・ブラザー※が見ている(※『1984年』より)。「見られている」という気持ちの顕在化。
G:それ!
E:自転車を漕いでいるときマスクは意味ないんだけど、してしまう人がいるのは、他人からの監視ではなく、自分自身からの監視によるものかも。
F:それがやがて他人への監視になる。「自分はちゃんとしているのに」という。
B:若いころ、日本で嫌なことがあって、移住しようとカナダで出産した。私はマスクをする意味がないときには外している。同調圧力がいやで。

 

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