読書会LOG

R読書会/Zoom読書会

『雪国』川端康成

R読書会 2022.03.21
【テキスト】『雪国』川端康成(出版社の指定なし) 
【参加人数】9名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者A)>
◆日本文学の中では有名な作品。読書会に際して改めて読み直し、非常に勉強になった。
◆再読して印象に残ったのは駒子ではなく葉子。ページを開くと、まず葉子が出てくる。「悲しいほど美しい声」から先に登場し、「涼しく刺すような娘の美しさ」と続く。それに惹かれて読み進んだ。最終的に葉子は亡くなってしまうのだが、彼女が島村をどう思っていたのか、作中では書かれていない。駒子は「やきもち焼き」と評しているから、葉子は島村をとても気にしているのでは。「東京に連れていって」とまで言ってしまう。三つ巴の三角関係になるのかと思ったら、そうはならなくて驚かされる。
◆表現がびっくりするほど美しい。重要な場面では文章に技巧を凝らしている。
例:
*葉子との出会いの場面。窓に夕景色が映り、葉子が映る。評論家によると、当時の映画でそのような技巧があり、それを小説に取り入れたのだそうだ。
*駒子が三味線を弾く場面。音を文章で表すのは難しいが読者に訴えかけてくる。
*葉子と対面する場面。尿瓶を持って出てくるところも技巧的。
*ほか、雪国の生活や暮らしの描写に、しっかり手をかけている。
◆葉子を書きたいのかと思ったら駒子も入念に描写されており、島村が駒子と心を通わせる理由が納得できた。
◆駒子はどうして行男の話になると拒否反応を示したのかがわからない。申し訳ないと思ったのか、お師匠さんのことがあったのか……。皆さんに教えていただきたい。

<参加者B>
◆1年ほど前、文学学校のチューターから「洗練されていて非常にいい」と教えていただいて読んだ。チューターは、冒頭から2文目「夜の底が白くなった。」という表現をしきりに褒められていた。今回、読書会があるので再読した。
◆表現は洗練されているがストーリーらしいストーリーはない。お金に余裕のある中年男が芸者を揚げて遊んでいるだけ。なぜノーベル賞作家なのか、ノーベル賞を受賞できるような作品なのか、いまひとつわからない。
G:島村って中年なんですかね?
H:太っているとは書いていますね。
D:中年とは書いていないけど、子どもはいる。
◆文章力があるから読ませるけど、ストーリー的には大したことは書いていない。また、芸者という立場がピンとこなかった。
F:体を売ることが前提にはなっていないようですね。そこまでひどい目で見られていない。
D:でも、売られて来るんですよ。駒子も15歳で東京に売られ、受け出された。
G:伊豆の踊子』では、宿屋の女将さんが旅芸人に差別的なことを言っていた。
F:旅芸人は低く見られますね。
G:でも芸者である駒子には選ぶ権利がある。
F:そこが突きにくい。遊郭とかではなく、宴会に伴う音曲の人とたまたまいい仲になって、一晩過ごしてもいいよ、というような感じ。
I:必ずしもアフターに行くわけではない。
C:「線香代」と言っていたから遊郭の流れは汲んでいる。たぶん1時間あたりいくらと決まっている。そういう言葉がちらちらと入っているから相場はあると読み取れる。
◆一番興味をそそるのは葉子。精神的に脆そうに描かれていたので自分で火をつけたのかと思ったが、そうではない。死ぬところが綺麗に書かれている。それで作品が締まった。
駒子と切れたことを示唆しているのも巧い。
◆『雪国』も好きだが『伊豆の踊子』も好き。嫌味がない。文章もやわらかく魅力がある。

<参加者C>
川端康成は高校3年~大学1年くらいのときハマって読んでいたが覚えていなかった。読み返して「エロい。こんないやらしいの読んでたんだ」とわかった(笑)。角川文庫10P「この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」など。高校のときの自分に、どうして好きだったのか聞いてみたい。
◆表現が綺麗。表現に魅了されて読んだんだと思う。

<参加者D>
◆(私も)ヨウコです(笑)。ドキドキしながら読んだんですが(笑)。
川端康成といえば『雪国』。読んでいたはずだけど記憶になく、初めてみたいな感じで読んだ。三十歳くらいの無為徒食の男がトンネルを抜けたら、地獄のような異国の地で。住んでいる人たちにとっては逃げられない世界。そこへ、ぶらぶらした男がやってくる。
◆男性がどう感じるか聞いてみたい。
島村が葉子をガラス越しに見るとか変態じゃん、と思った。汽車で欲情していて気持ち悪いし、ありえない。女性を(駒子も含め)そういう目で見ている。
駒子とは出会ってから3年。彼女は北国の芸者で、逃げようにも逃げられない中、必死に生きている。彼女と島村には、近づきたくても近づけない階級の差がある。ぶらぶらしている男に、15歳で売られた駒子の境遇がわかるわけない。
◆終わり方が素晴らしい。駒子と2人で葉子のもとへ行こうとしたら島村は男に押し退けられる。お前なんか来るんじゃないよ、と。
◆描写が綺麗。日本語ならではの描写。すごい、そんな描写があるんだと思った。わかりやすく浮かんでくる。何ヵ所も書き写した。これがノーベル賞(を受賞する力)なんだろうな、と。
◆今行っている小説の学校で、モチーフとコンセプトとテーマを分けて考えろと言われた。書くにしろ読むにしろ、それを分析しろ、と。
*モチーフ…物語を展開していくアイテム、コンセプト…モチーフを使ってどう展開していくか、テーマ…伝えたいこと
この作品でいうと、「モチーフ…雪国の芸者、コンセプト…徒労、テーマ…階級によって近づけない壁がある」だろうか? 皆さんの意見を聞いてみたい。
I:読む人によって、解釈が違う作品のほうがいい。
F:作者がそのつもりで作ったとしても、そのまま受け取られることは少ない。作り手が意図していなかった解釈で人気が出たりする。作り手としては戦略性を持っていたほうがいい。こう受け取られるから、こう持っていけば……という作戦を立てる材料になる。

<参加者E>
◆初めて読んだ。読書会がなければ読まずに死んだのではと思う。
◆読み始めて、島村の「指が覚えている」などに引いてしまった。ずんぐりむっくりして、生っ白い、ちょっと身勝手な男が芸者を揚げて、そういう話なのかと。男は本気ではなく、すぐ「徒労だ」と冷めている。この性格設定が効いているといえば効いている。
異世界を訪問する話(異郷訪問譚)。どこか冷めた傍観者的な男が、閉じられた世界で何かを経験する……と読めば面白い。
◆1965年公開の映画では、駒子を岩下志麻、島村を木村功、葉子を加賀まりこが演じている。雪に閉じられている狭い世界で女性が必死に暮らしているが、哀れという感じはしなかったのでよかった。この映画では、葉子は火事のときでなく、駒子に看病されながら死ぬ。なかなかいい映画だった。
C:葉子が加賀まりこってイメージと違うような。
E:エキセントリックなところが合ってましたよ。
I:加賀まりこ、出始めたときはフランス人形みたいでぴったりだな、と。
ちなみに4月に放送されるドラマでは島村を高橋一生、駒子を奈緒、葉子を森田望智が演じるそう。
G:島村は高橋一生くらいの年齢設定なんですね。
I:1957年の映画では八千草薫が葉子。
F:池部良の島村は品が良すぎる(笑)。
I:ちょっと甘いですよね。

<参加者F>
◆何年か前に読んだはずが記憶になく、読み直す機会があってよかった。
◆この当時、こんな感じの、売れない文人と芸者の交流を書くのが流行っていたのだろうか。志賀直哉『暗夜行路』とか。このころの小説の状況を知らない後の世の人間が読むと、なぜドラマチックでもない情景を書いているのかわからないと思う。
谷崎潤一郎のような、しっかりした物語がある物語小説とはジャンルが違う。小説はストーリーを読むものと思っている人には非常に苦痛な作品。伏線は回収しているのか、など物語小説として見ると不十分。
◆最初、長編にするつもりはなくて、雑誌掲載時は別のタイトルがついていた。そのままのほうがわかりやすいのでは。本文で4行空きになっているところが境目だろうか。せめて章番号をつけてほしいと思うが、つけないのが川端康成の美意識なのかな。
◆窓外の女が得も言われぬ美しさだった、とか、それを書きたかったのだと思う。
◆ある程度セクシーな要素がないと文章は美しくならない。当時としては抑えて、相当品よく書いていると感じる。
◆「ストーリーがないので漫画化できるのか?」と思って調べたら漫画があった。島村がイケメンで、内容も上手に描かれているなと思った。

<参加者G>
ノーベル賞を受賞し、素晴らしいと言われている文学。夜空の描写、儚い蛾の描写など、近い将来を暗示させるように、綺麗な文章で表現していく。文章の美しさが評価されたのだろうか。
◆鋭くて感じやすい魂を、詩的に抒情的に表現している研ぎ澄まされた文章。女性の色気だったり、甘さだったり、切なさだったり、(書き手として)敵わないと思った。
◆最初は読みにくい。会話が噛み合わなかったり、場面が転換したり。読み進めるうちに世界観に入っていけた。中盤(角川文庫P50~)からいい表現があって引き込まれた。
◆テーマは何なのかと考えたとき、昭和初期に書かれて読者は男性だったのではと思った。
皆さんは地獄と仰ったが、私は桃源郷だと感じる。性の表現はそこそこに抑えながら男女の美しさを描くという商業的テーマがあるのでは。男性読者に「こういう宿があれば行ってみたい」と思わせる、甘美な世界観が作られたのかもしれない。
I:男のロマンみたいな。
◆人物で思ったのは駒子の素敵さ、というか強かさ。島村から見ると「都合のいい女」と言われるが、駒子から見ると島村は「金を持っている、いい鴨」なのではないか。上客を持って生き抜く強さ・美しさを感じた。
◆駒子も行男が好きだったのでは。島村なんか論外(ただの客)。だから行男のことに島村が介入してくるのが嫌だったのかもしれない。
島村がどこか離れて徒労感を感じていたのは、駒子が自分のものにならないのに気づいていたからではないか。島村はそのうちに駒子を好きになったのでは。
男が読むのに都合よく書いてあるけど幻想的で美しい。
若いころ、水商売の女性に入れ上げて散財した過去を思い出して切なくなった。純愛だと思っていたのだけど(笑)。
C:純愛だと思っていたのはGさんだけかも。
(一同笑)

<参加者H>
◆文章がとにかく美しくて引き込まれた。味わいながら読んだのだけど、意味の取りづらいところや、少し先を読んで「さっきのあれはそういうことか」とわかった部分もあった。ただ、全体的に読みづらいわけではない。
◆美しく逞しく描かれている女性に対し、島村は細かく書き込まれておらず、駒子と葉子を浮かび上がらせるための人物だと思った。三角関係ではなく、駒子と葉子を書きたかったのだな、と。個人的には島村しょーもないな、と思った。
◆でも、葉子の内面についてはわからない。
◆火事になって、まだ中に人がいると読んだとき、葉子がいるんだと直感的に思った。物語をまとめにきたな、と。
◆雪国は異世界のような場所で島村は異邦人。いずれ帰っていくと決まっている。
◆私は「指が覚えている」というところは気持ち悪かったが、ネットでいろいろな方の感想を見ると「素敵」と書いている人もいて、感じ方は人それぞれだなと思った。

<参加者A(推薦者)>
[事前のレジュメより]
≪葉子が気になって仕方ない≫
 この小説の結末は壮絶です。葉子が活動写真を観に行って、火事に巻き込まれ犠牲になってしまいます。冒頭で印象的な出会いをする二人ですが、結末も読者にとってどきっとします。
 火事に遭う何日か前、二人は「東京へ行くので一緒に連れて行って」と葉子が頼むような仲になっていました。島村と駒子、葉子の三角関係の要素が濃くなっていたので、島村は駒子から葉子へ乗り換えるのかな、と思いながら読み進めていたのです。この結末、どたばたと物語をおしまいにして、つまらないと思いました。葉子は駒子をより純化した美しさをもつ女性として描かれているので、このような結末はもったいないです。(言い過ぎかな)
≪重要場面は文章に技巧を凝らした表現をしている≫
 ①葉子と出会う冒頭(P8~P9)
  窓ガラスが鏡の役割をして夕景色に葉子の表情が二重写しになる表現
 ②駒子が三味線「勧進帳」の曲を弾く場面 →P61~P71
 ③葉子と対面する場面、結末
 ④雪国の生活・暮らしを描写する場面
  はぜに稲をかける場面、萱の描写、紅葉を門口に飾る場面、
  麻の縮について触れる場面など
※ある評論家が、新感覚派の表現方法の特徴は、擬人法や映画的手法を多用したことだと述べていました。美文がぞくぞく登場するこの作品、なるほどと思いました。これが彼らの主張だったのでしょう。
≪島村と駒子が心を通わす様子が細やかに描かれている≫
 島村が歌舞伎や日本舞踊、三味線に精通しているので、駒子が彼に惹かれていくのは自然に感じた。彼女が美しいだけでなく、純粋で自由な人物であること、それが魅力だった。
≪駒子が行男と関わるのを頑なに拒否する理由が分からなかった≫
 行男の話になると、棘のある言葉を発する駒子。芸者になってまで彼の医療費を負担した彼女が、なぜ世間の噂を気にするのだろう。読みが浅い証拠なんでしょうが、そこが分かりませんでした。島村への遠慮があるのでしょうか。

[以下、読書会にて参加者Aの発言]
(皆さんの発言を聞いて)葉子と駒子の関係や、行男とのことを口にすると嫌がられるのはわかる。Gさんの「男にとっての桃源郷を書いた」という意見。言われてみれば、(作中の雪国で)暮らしてみたいかな。自分の奥さんにないものを求めてふらふらしたい、みたいな。だからGさんの意見にビクッとした。
B:現代だったら不倫だと叩かれますね……。

<フリートーク
【描写の美しさについて】
B:川端康成の最高傑作なのかな。
I:ノーベル文学賞は作品ではなく作者に与えられる。この作品が評価されたのかな、とかはあるけれど。
川端康成が受賞したときの「美しい日本の私」(※授賞記念講演の演説より)といった言葉はどこに掛かっているのか。
C:選考委員は訳された作品を読むんですよね。これを訳されたとき、日本語ではどうなっているのかわかるのかな。
I:作品が優れていればいるほど訳も優れている。一見良さそうに見えても、訳してみたら駄作ということもある。
G:雪国の風景描写が美しくて。フランス映画でありそう。『髪結いの亭主』とか。
C:「雪晒し」を見たことはないが、これがどんなふうに美しいかわかる(角川文庫P155)。それは英文で読んだ人でも同じだと思う。

【「目」としての存在である島村について】
A:私には島村が淡白な男に見える。
C:それがすごくいやらしい。
I:色っぽいけどいやらしくはない。
F:冷めた目で書いていますよね。でも、女性の唇を「蛭」っていやらしいなと思う。
会話がキャッチボールになっていない部分にリアリティーを感じる。
A:私もそう思った。噛み合っていないのがいい。
F:島村は思っていることの1・2割しか言わない。駒子も本心は明かさない。行男とのことなど、読者が知りたいことも明かされない。
物語小説なら会話の7・8割は通じている。そのような物語小説的なリアリティーをリアルだと思いがちだが、本当はこちらのほうがリアルなのでは。それが読みどころ。
ただ、それにしても、もうちょっと知りたいと思う。知りたいけど知ることができないまま過ぎていくのは徒労。それを書いたのだろうか。
I:川端康成はクラブに行くと女性を目で口説いたそう。とにかく気に入った女性を見つめた。そうすると女性は落ちる。口数が少なく、じーっと見るから女性が参ってしまう。三島由紀夫が嫉妬したくらい。
島村は「目」としての存在。目と耳、感覚だけの存在。
放蕩息子のおじさんの話かと思って読んだが勉強になった。小説と文学の違いを見せつけられた。

【ストーリーについて、あるいは駒子と葉子の同一性について】
I:ストーリーがあると言えばある、ないと言えばない。自分の概念を言葉にするために、彫刻のように削っている。覚悟みたいな、迫ってくるものを感じた。一文字たりとも無駄がない。作者は、この情報量・この分量にしたかった。
何を伝えたかったのだろう。「美」や「徒労」?
私も高校時代に読んだと思うけれど覚えがない。美やエロスは、読んで味わうことはできても残らない。ストーリーでどんでん返しがあったとか、犯人はこの人だ、とかなら覚えられるが。
C:でも惹かれますよね。言葉で概念を構築するのは大変なこと。私は、葉子は死んでいないと思う。
流れているサブテーマとして、葉子と駒子の友情がある。男が思っているほど女は男に惚れておらず、駒子は葉子を守ろうとしており、女同士で連帯している。駒子は葉子を介護して余生を終えるだろうと解釈している人もいる。駒子と葉子の関係性は明かさないでおきたかったのでは。
I:「トンネルを抜けると雪国であった」、ここから始まる異次元に、なぜ島村は惹きつけられたのか。この物語は新橋の芸者では成立しない。異次元に咲いていて、三味線も上手くて。こんなところに美しい花が……という驚きが島村にはあった。
D:雪国という閉鎖的な設定がいい。舞台が南国ではだめ。ハワイだったら違う。
駒子はたくさん本を読んでいて、外の世界があることを知っているけれど、それを羨むことがない。
ところで、これといった事件は起きないのは、現代の小説の展開の仕方と比較してどうなのだろう。
B:現代の人が読んだらびっくりするかも。
G:現代の小説では、もっとロジックとか伏線とか、しっかりしていないと。
F:現代だと、行男と3人の関係が明らかにならないといけない。
I:これは一人ひとりのアイデンティティーではなく雪国のイデア。各々のアイデンティティーが癒着している。現代みたいに個人として生きているわけではない。
C:駒子と葉子は一つ。
I:割と重なり合うところがある。島村は窓に映り込む葉子(影、shadow)に惹かれた。計算されている。
F:一人の人間の裏と表に惹かれた。人に会うときは駒子だけど、裏では葉子。最初は窓の幻影として現れるが、映画館の消失とともに消えていく。構成として整っている。
読んでいて思ったのは、「何でも明け透けに語り合える女がいて、彼女とは別の、影があって自分に振り向きそうな女に惹かれる」って『新世紀エヴァンゲリオン』じゃん、男って結局こうかよ、と(笑)。男の夢と幻想がてんこ盛りになっている。
D:男の悲しい性だわ、と(笑)。
F:駒子と葉子は、『エヴァ』のアスカとレイより、もっと近くて。島村って、今で言えば「百合に挟まる男」ってやつで。女の子の間に挟まる無粋な男。島村は最初からのけものだったんだ、と。
G:悲しい……(笑)。
I:Gさん、島村になってます(笑)。

<後日、チャットワークでGさんが共有してくださった記事>
川端康成の「雪国」異なる展開も構想か 残されていた創作メモ(NHK 2022年4月1日掲載)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220401/k10013562811000.html
------以下、引用------

最後は火事の明かりの中で、主人公が流れ落ちてくるような「天の河」を見上げる場面で終わりますが、今回のメモには「狂つた葉子、駒子のために島村を殺さんとす」と記された部分があり、川端が主人公を巻き込んだ修羅場を構想していたこともうかがえます。

------以上、引用------

川端康成『雪国』のヒロインには実在のモデルがいた 川端から送られた生原稿を焼き捨てた元芸者の思いとは(Book Bang編集部 2022年4月16日 掲載)
https://www.bookbang.jp/article/730365

------以下、引用------

ヒロイン・駒子のモデルは湯沢町の芸者だった 夫が語った『雪国』の真実
 モデルとなったのは小高(こたか)キクさん(1999年1月、83歳で没)。1915(大正4)年、新潟県に生まれた彼女は10人きょうだいの長女。家は貧しく長岡へ芸者奉公に出され、湯沢町に落ち着いたのは1932(昭和7)年のことだった。
 一方、1899(明治32)年生まれの川端は、すでに『伊豆の踊子』を発表し好評を博していた。芥川龍之介梶井基次郎小林秀雄らと交流する文学界のホープだった。
 その川端が執筆のために湯沢を訪れ、温泉芸者をしていたキクさんと出会う。川端35歳、キクさん19歳。1934(昭和9)年のことだ。二人の関係は深まり、その後、川端は数度にわたり湯沢を訪問。『雪国』の断章を発表することになる。
 いってみれば彼女は、『雪国』への貢献度ナンバー1の存在だ。
(中略)
 そうなると、どこまでが「モデル」なのか。そもそも許可を得て書いたのか。現代ならば「プライバシーの流出問題」が取りざたされそうな話なのだが……。
 じつは彼女は、小説のモデルになっているとは思いもしなかったようだ。作品発表後、初めてそれを周りから指摘されて知ったのである。
「相当、癇に障ったようです」(久雄氏)
 その後、川端からは詫び状と第一回目の生原稿が送られてきたものの、芸者をやめる時、日記などと一緒に全部、焼き捨ててしまったという。
「湯沢を出る時に持っていたのは、本だけでした」(久雄氏)
(後略)

------以上、引用------

G:雪国のニュース、最近多い。再び注目されてるのでしょうかね。
欠席だったメンバー:私も昨日、そう思っていました。NHKの昨日の番組もすごく多かったです。日本初のノーベル文学賞作家の没後50年だからでは?