読書会LOG

R読書会/Zoom読書会

『供述によるとペレイラは…』アントニオ・タブッキ、須賀敦子訳(白水Uブックス)

Zoom読書会 2022.04.30
【テキスト】『供述によるとペレイラは…』
      アントニオ・タブッキ須賀敦子訳(白水Uブックス
【参加人数】出席5名、推薦の理由・感想提出1名

<推薦の理由(参加者F/事前提出)>
連日連夜、真偽不明の悲愴なニュースに流されて心ふさぐ昨今ですが、それというのも、世の中や人生に対する己の根というか第一義のようなものがいまだ確立できていないために生じるものと個人的に考えています。情報の渦に一喜一憂してしまうのは、けっきょくのところじぶんの足もとが固まっていないから、言い換えれば、生きるための覚悟あるいは肚が決まっていないからなのでしょう。(少なくともものの見方が)
そんなぼくにとって、このペレイラはとても親しみやすい存在です。彼はけっして英雄と呼ばれる人物ではありませんが、しかし彼は己というもの、あるいはたましいと呼ばれるものに殉じてちいさな正義を行動に移しました。ペンという武器で現実世界に一石を投じたのです。ぼくはここに、深く胸を打たれました。(かなしいかな、ぼくはおとなになれない子どもなのです……)
現在のうちの国は、なんとなく室町時代の終わりのような雰囲気が漂っているように感じます。(あくまでただの妄想です。しょせん中卒のぼくには知っている歴史は少ないのです――どなたか詳しいかた、このあたりの考察が欲しいです!)
あまったれのお坊ちゃまたちがやりたい放題やっていると感じられるこのご時世、やつらを肥えさせる税収の人形に成り下がらないための生き方――、いえ、そんな消極的な表現ではなく、いまここにあるちいさな正義に殉じる生き方、たましいに殉じる生き方の一例が、ここに示されているように思いました。前置きからだらだら長くて申し訳ないです。この本に秘められたちいさな火に、ひとりでも多くの方が共鳴してくれたらうれしいなと思います。

<参加者A>
◆字が小さいので不安だったが、すぐに読みやすい文章だとわかり、すらすら読めた。
◆なぜ供述という形を取ったのか、とても興味深かった。例えば、現在形で進んで「ぐずぐずしてはいられなかった。」(ラストから2文目)で終われば希望が見える終わり方になったかもしれないが、敢えて各所に「供述によると」を入れている。つまり、読者には最初からペレイラが捕まることがわかっている。まるで、社会は簡単には変えられないと言われているようだ。だけど、黙っているよりは、捕まったとしても声を上げるほうが希望があるのではと思った。私も仕事で不特定多数の人の目に触れる文章を書く機会があるので、ペレイラに肩入れしながら読んでしまった。
言論の弾圧は、決して近代だけの話ではなく、古代、現代、どの時代にもあるもので、それに抗おうとする人がいるという部分に普遍性を感じた。

<参加者B>
◆良い本を紹介していただいた。タイトルの時点で主人公が供述しているという作りが巧い。最初は中立の立場で読み始めるのだが、主人公に好感を持った瞬間、(読者は)絶望する。(自分の作品でも)その作りを真似したい。作者として、非常に気持ちがいいと思う。
◆社会情勢についても現代に通じると、言おうと思ったら言える。愛国を叫ぶ者たちが国を破壊していく。その中での主人公の孤独。友人も体制寄り。そして若者たちに取り込まれていくところに共感できる。自分のできる範囲で戦う、一人の人間として戦うのが感動的。
◆供述が細かい。鱈を焼くとか、警察の供述でここまで話すだろうか。非常に作り込んでいる。
◆たましいと死の話が結末を示唆している。たましいに従って動き、死については手放しているので、死んでいるようにも読める。
◆最近、別のルートでタブッキを知ったので、シンクロしている感じがする。

<参加者C>
◆タブッキを読めてよかった。放送大学の授業で名前をよく聞いており、ぜひ読んでみたいと思っていた。
◆普通のペレイラの、なんということのない日常から始まる。平易な、でも内容的にはどこか暗くて不安で、死や絶望に繋がる書き方。香草入りのオムレツ、レモネード。とくにキャラが立っているわけでもない。交わっている人も管理人だけ、と孤独。これから何か起こるのではという不安を引っ張っている。
◆最後まで読んだとき、第二次世界大戦の前夜だと感じた。この作品の年代より少し前だけれど、日本でも小林多喜二の拷問死などがあった。愛国主義軍国主義、言論の統制、思想の統制、逆らう者への取り調べ。この作品は、日本の特高警察が共産主義者を捕えて、拷問の末に殺したのに通ずるところがある。
愛国心の名前を借りたら綺麗だが暴力。正義の名のもとに人を合法的に殺していた日本と通底している。
ペレイラが、ロッシが殺されたことを新聞に載せてフランスへ逃げていくドラマチックさ、最後のどんでん返し。書く者として、ドラマチックな展開がすごいと感心した。

<参加者D>
◆大変面白く読めた。政治ドラマは嫌いではないので。映画にしても面白いと思う。『Z』(1969年、アルジェリア/フランス共同制作)とか、そういうテイストの話。
◆独裁社会、監視社会は今でも身近なもの。こういう社会でどう見られているのか。そう読めば、特殊な話ではない。だからといって二番煎じでなく、独特の捉え方がある。
◆物語としてどうなるかは先が読める。ロッシが出てきたところで、実際のラストと近い展開を予想ができたので、素直に読めた。
◆巻き込まれ型の物語。人生を諦めたわけではないが、やるべきことをやり終え、大新聞から小新聞に移ったペレイラが、飛び込んできた若者に巻き込まれる。松本清張が書いたらどうなるのだろう。ストーリーの構造が似ているので。
◆小説の試みとして、これはどうなのかと感じた点が2つ。
*1つは、会話文と地の文が切れ目なく続く書き方。なぜこういう書き方をしたのか考えさせられた。立ち止まりながら行ったり来たりにはなるが、一気に読めて、難しくないのですらすら入る。翻訳が上手で、日本語としてこなれているから綺麗に読めたのかもしれないが、スピーディーで内容に合っている。緊張感を出すために、この文体を作ったのでは。(自分の作品でも)真似をしたくなる。以前、鉤括弧のない作品について、鉤括弧を入れて読むと読みやすくなるので(鉤括弧をなくす)意味がないと指摘したことがあるが、この作品は鉤括弧を入れるとかえって読みにくい。真似しがちな人たちは目先を変えるだけだから読みにくくなる。文章スタイルと作品が一致しなければならない。
*もう1つは、供述スタイル。ペレイラ視点による、一人称的三人称。漠然とした誰かが語っている。違和感なく一人称で読めるが、供述調書のわりに詳しすぎる。警察の誰かの語りとして読んでしまうと具体的すぎて、こんな細かなこと書かないだろう、と思う。オムレツを2つ頼んだ、何時に起きた、レモネードを飲んだ……覚えているはずがないことを書いているのに引っかかった。なぜこういう形式をとったのか、こちらは、いまいちついていけない。文章構造として試みが成功すれば面白いと思うが、違和感があって手が止まってしまった。斬新に読めるので面白いと感じる人はいるだろうが。
スタイルについても考えさせられた、いい作品。

<参加者E>
◆時代に倣って推薦されたテキストだろうか。カルドーソ医師の心理学の理論に、たましいの側面、多重構造、せめぎ合いというような文言があり、そういうところにお惹かれになったのだと思う。推されるコアな部分はこれなのだと納得した。
◆人間の意識に迫ったところが核。
たましいとは同盟のようなもの、エレメントがせめぎ合い個人がある。その中でも、超自我に対して、自我の中でイドとエゴが巡っている。=(真偽は置いておき)複数のもので成り立っている。
それに呼応するようにイベリア半島の内戦、国内外のせめぎ合いが並行している。⇒大きな目線で見て社会と重なっている。
社会がせめぎ合っていると人間は不安になる。こういうときは、安定した昔の権威主義に戻りたがる。世の常みたいなものが読めた。
余談)忘れちゃいけない国際旅団。オーウェルヘミングウェイも参加していた。
◆また、ポルトガルの国民的詩人であるフェルナンド・ペソア。私も好きな作家なのだが、複数のペンネームを使い分け、作品において分裂している。たましいに繋がるのだろうか。なお、フェルナンド・ペソアは、平凡社ライブラリーより詩集が出ている。
◆作中で「郷愁」が何回か出てくる。これはポルトガルを語る上で外せない。郷愁(Saudade)はラテン語のsolitate(孤独)から派生し、過ぎ去ったものを一人懐かしむという意味がある。作中、主人公が住む場所として「サウダージ街」が登場するが、これは郷愁を意図して、そういう名前にしているのだろう。
偉大な過去の作品への想い。追悼記事に見られる、失ったものへの郷愁。純粋な意味でのホームシックではなく、過去を美化してそこに帰ろうとする、懐古主義をモチベーションにした権威主義のリスクなども書いているように思う。
今の混乱した状態を何とかしたいから、昔のように強いリーダーを求める。そんな間違った郷愁に押し流される人々が、若者の死の裏に見え隠れする。
◆ドーデ『最後の授業』がどう絡むかわからないが、重要なファクターである気がしている(動乱の中にある国の状態/心理学によって発生した個人の疑似動乱)。
◆供述調書に意味はなく、リフレインみたいな感じで用いているのだろうか。イタリアや、イベリア半島のスペイン、ポルトガルは、「○○によると……」という表現があると、切れて間に代名詞が入る。そこにサブセンテンスが続く。口承芸術のように、読み上げるのを意識したのでは。意味があるようでないような遊びかな。
◆会話文と地の文が切れ目なく続く書き方は、作中時間の1938年、一部の作家の間で流行っていた。例えばフォークナー。1ページまるまるピリオドがなく、鉤括弧も曖昧。それを模して書いているのでは。

<参加者F(提出の感想)>
(ぼくは読んだ本に感想を書くことを習慣にしていますが、以下の文章はそのとき書いたもののコピーです。だれかの目を意識して書いていないため、ものすごく読みにくい上、じつは尻切れトンボなのですが、どうかご了承いただきたいです。新しく書き直そうという気持ちがなかったわけじゃないのですが、ここはひとつ、繁忙期というキラーワードにあまえさせていただきたいです……)
 ちいさな個人の決意とたたかいを描いた物語。第二次世界大戦前夜、独裁政権下のリスボンが舞台。主人公は小規模の新聞社につとめる記者。容姿・体質・気質ともにおよそ英雄的なイメージとはほど遠い彼が、ある若者たちと出会ったことをきっかけに、ゆるやかな内的変革を遂げていく。
 物語は本編には登場しないだれかの視線で語られている。調書や事件ということばがたびたび使われることから公的な機関の関係者だと思われるが詳細は不明。そもそもその人物がどこの国の所属なのかもまた不明。この「供述」がひとつの魅惑的な謎となって読者にぐんぐんページを繰らせる。このお話の語り手が、願わくばペレイラが亡命をしようとしたフランスのひとであればと思うが、よく考えたらその国はじきにドイツによって占領されてしまうのだから彼にとって救いはないか。ただ、あくまでも形式上には「取り調べ」をしてくれているのだから、彼が拘束されているのは少なくとも法がまだ生きている国なのだと淡い期待を抱いてしまう。
 とにかく、まず、このお話は文章スタイルが抜群によかった。表題でもある「供述によるとペレイラは」を作中なんどもなんども使ってくるこの大胆さと斬新さ。いつだって冷ややかに、いつだって重く切実に読者の胸をなでつけてくるこの語句はまた、語られている作品世界の圧迫感や哀切さをいっそう引き立たせているように思う。すがたなき視点による二重構造によって作品は深みどころか普遍性さえ宿しているのではないかと思う。孤独、ファシズム、監視と圧力、不健康、死とその影、そして夏。作品は絶えず息苦しい閉塞感に支配されていて、ずいぶん胸にこたえてしまうが奇妙なことにページはするするめくられる。図々しくて甘えん坊で視野狭窄で頭の固いロッシにはなかなかもどかしい思いをさせられて、それもまた心をわずらわせられる部分のひとつ。けれども、裏を返せば彼はそれだけ懸命に生きようとしていたのであって、その荒々しいエゴの衝動によって生じた行動――、マルタという女性にも同様に暗示される作品底部のひそかな戦い、若者たちの真摯な熱情と行動に読み手が心を、いや、たましいを刺激されたからなのだろうと思う。管理人や上司には思ったことを口にできるペレイラが、彼らにだけは心とちがう行動を取りつづけるのはもちろん父性のはたらきもあっただろうが、それ以前に、やはりまた、たましいに訴えかけるものがあったからだろう。
 妻の死、葬儀屋だった父、ロッシの死についての論文、まだ存命中の作家たちへの追悼文。あるいはある社会主義者の死。冒頭からすでに「すがたなき死」に満ちた作品世界に胸を打たれる。「目が痛いほどの透明な青さのなか」という本来なら生命力が格段に増すはずの暑い夏、編集室に閉じこもってペレイラはひとり死について考えている。彼はじぶんが所属しているカトリックの教えには心から満足していない。だからといってこれといった哲学もないが、しかし「たましい」の存在は信じている。でもやはり、それを公然と宣言する気持ちはない。そうしたもどかしさ、落ち着かなさが、彼に「まだ生きているものへの追悼文」を思いつかせたのだと考えると、それは「たましい」の声のはたらきだったと、そう考えることができるかもしれない。彼がその後、あくまでもゆるやかでありながら、じぶんの人生をたましいにゆだねていったことを考えるととても示唆が深いと思う。海洋クリニックの医者が話したエゴの話はおもしろかった。多元的なたましいのはたらきによって自然と代わっていくものについては、身をゆだねた方がいいということ。ここに、この作品の普遍性が色濃く出ているのではないかと思う。内なる変革と個人のたたかい。どんなに困難な状況下でも、おのれのたましいの命ずるままに、おのれのしごとをやってのけるというその尊さはいつの時代のどんな人間の心にだって響くものがあると思う。記者である彼はペンをもって戦った。その命を賭した孤独な戦いに共鳴するはやはりここにあるたましいに他ならない。
 じぶんにあまく、だらしなく、いつまでも過去のぬるま湯にひたりきり、できるかぎりひとや世間との衝突をさけ、ひっそりとつつましく生きようと試みつづけ、解説によるところの「弱い現代人」、国にとどまっている理由は「郷愁」と言った彼が、ラスト、強い意思をもってみらいへと脱皮しようとしたすがたはほんとうに感銘が深い。また、文芸面の責任者兼ゆいいつの記者であるペレイラが、しごとのために翻訳していくフランスの小説がまたお話の雰囲気を高めていく。砂糖なしのレモネードや妻の写真と話す時間の減少は、彼のゆるやかな心情変化を外的に表現するものとして巧いと思った。ロッシの死がマルタからの軽率な電話に起因しているであろうとうかがわせることにひとの世の残酷さと切なさをみる。地の文のなかに会話や仕草、思考を織り交ぜる文章表現は「供述」という作品体裁の雰囲気を出すとともに、作風の圧迫感をさらに高める機能を持っているように感じた。現実とは真逆にたいていは「すばらしい」と感じる「夢」については原則的に口をつぐむペレイラのすがたも印象的。……この感想はあきらかにまとまっていない。お話の核心をとらえていないからだ。いまのところは、ただただ圧倒されているだけなのだろう。時間を置いて、もういちど読まねばならないと思う。

<フリートーク
【Fさんの感想によせて】
C:Fさん、読んだら感想書かれてるんですね。すごい。
A:私、読んでいて楽しかった。※当日、Aが読み上げました。
E:私もだけど、ネタバレしても大丈夫なタイプかな。過程が大事で、何が面白いか考えながら読む。だからオチから読んでしまうことも。
A:フーダニットで犯人を知ってから読む、みたいな?
D:伏線がある場合、最後から読んだほうが面白いかも。
E:Fさん、プロット解析とかされてそうですね。

【「供述によると」という書き方について】
C:気になったのは、「供述によると」。鬱陶しいと思ったが、代名詞のあとに文章を続けられるんですね。
E:センテンスを切って、ピリオドを打たずに続けられる。原文で朗読したらいいかも。
D:普通の作品だと「彼は言った」。漠然としていて、語り手について気にならない。「供述によると」だと、語り手を具体的に想像してしまう。リズムのためなら、合いの手は違うものにしたほうがよかったのでは。タイトルになっているので、読者に読ませよう、読者を惹きつけようとしているのか。喜んでついていく人もいるだろうが、強引だと感じる。良し悪しかな。
E:突き放した感じは出る。「ああ言ったらしいで。知らんけど」みたいな引き離し方。警察も信用できないから、妙な突き放しのニュアンスを出している。寄り添っているようで、寄り添っていない変な距離感。
D:「供述によると」で始まる部分だけ抜き出したらどうなるか。警察官の知らないことも混ぜてある。
E:そこではピリオドが切れている。
D:ざっと読んだだけでは区別がつかない。オムレツを2つ頼んだ、など覚えているはずないと思ってしまう。
E:だから「知らんけど」みたいなニュアンスになっている。
D:読み手を撹乱するための文句に思える。
B:ペレイラが嘘をついている可能性もある。ペレイラ主導で反政府活動しているのかもしれないし。
E:後で作られた調書という体ですからね。
ドーデ『最後の授業』は、フランスとドイツの境にあるフランス領アルザス地方の学校が舞台。普仏戦争でフランスが負けたため、フランス語が使えなくなり、学校でのフランス語の授業は最後となってしまう。現実では、アルザス地方で話されているのはフランス語アクセントのあるドイツ語。作品にイデオロギー先行という側面があるのではないか(愛国のための思想主導の小説)。教室全体が本当なのか、どこかで曲げられているかもしれない謎の距離感。(※後述【その他】に関連の話題)
『供述によるとペレイラは…』の追悼記事も、本当のところはわからない。網の目で繋がるのか、時間を置くとわかるようなわからないような気がしてくる。
D:どこが嘘か匂わせないと効果が出ない。ちょっとだけ、わからせるようにしないと。そうすると信用できない語り手になるが、この作品のように完璧に書かれると効果がない。作法として意味がないのでは。
実はペレイラが喋っていると面白い。自分で書いてるとか。
E:その可能性もありますね。

【なぜペレイラはロッシの頼みを断らなかったのか?】
C:「供述によると」とあるが、なぜそうなったかわからない、という文言がたくさんある。ロッシの頼みを断ればいいのにそうしないし、原稿料をポケットマネーから出したりしている。
D:「もしかしたら彼ら(ロッシやマルタ)のほうが正しいんじゃないか」「新聞には載せられないけど、書かれていることは正しいんじゃないか」と感じている。潜在的に情報交換の価値があると思っているのでは。
E:あるいは直感ですね。
D:なぜかわからないけれど巻き込まれるのは必然だったのか。その仕掛けが離れすぎているから読者に伝わるかわからない。伏線と回収は離れすぎないほうがいい。
C:この場合は大丈夫じゃないかな。たましいが出てくるけど。

権威主義と民主主義について】
C:権威主義体制下では領土を広げたい気持ちが起こる?
E:自分の権力を維持するために戦争を行う。絶えず仮想敵を作って、自分の支持を盤石なものにする。もちろん野心もある。何らかの表現で大衆を惹きつけている。
ペレイラは直感的に反目したり離れたり、勘がいい。カトリックから距離を置いている。あの時代、カトリックファシズムと融和主義を取るから。理屈抜きに反体制に惹かれる勘の良さを書いている。
C:でっち上げても仮想敵を作る。そうして高い支持率を得て。
D:民主主義も一緒。
E:民主主義で偽装できるから、なかなか潰れない。
D:権威主義の否定的な面が強調されるけど、感染症を抑えきれるのは権威主義。マイナス面だけじゃない。今、権威主義のプラス面を言うと、独裁者に肩入れするのかと言われるけど、優秀なトップがいれば権威主義でも成り立つ。民主主義でも腐敗するし。
腐るのは誰でも腐る。国民が腐ったら民主主義も腐る。選挙に行かない国民は民主主義を支えているのか?

【予備知識について】
B:詩人のカモンイス、ディスられてましたね。「ここに陸終わり海始まる」。フロイスくらいの時代の人だから歴史小説に絡められそう。
D:文学の知識があれば、もっと面白く、興味深く読めたはず。私は国際旅団とか詳しくないけど、それなりに読める。でも、知ってたらもっと深く読めたかな。
B:ポルトガルでは、作中の1938年からまだサラザール独裁政権が続いて。イベリアの人、大変ですね。
D:歴史小説がわからないと敬遠する人の気持ちがわかった。
E:私も大きいのは知っているが、脇になると理解が適当。
D:作品に埋め込まれている知識は、あとになってわかると「なるほど」となる。
E:フェルナンド・ペソア、お薦めしたい。謎の詩人。学術書の出版社からしか出ていないけど、鞄とかグッズがやたらウケた。
『供述によるとペレイラは…』は、掘り返すところが結構ある。

【作中の食事の描写について】
B:読んでいるとレモネード飲みたくなりますね。実際今、飲んでるんですけど(笑)。
C:葉巻吸ってるのも影響ですか?
B:影響ですね。今日は葉巻とレモネードで。めちゃめちゃ部屋が臭くなる。私は煙草は吸わなくて、3ヵ月に1回ほど葉巻を吸います。
E:私は読書会が終わったらオムレツを作ろうかと。期限が迫ってる卵が4個くらいあって。香草はないのでキャベツで(笑)。
A:作中の食事の描写、すごくいいですよね。食べたくなる……。一緒に食事して、打ち解けてきたみたいな意味があるのかな。
C:小説に食べ物を入れるの、効果的ですよね。確かにレモネードとオムレツが食べたくなる。あれじゃ体も悪くなります。
E:作中の地域に実際に住む人の砂糖の入れ方、すごいですよ。飲み物にゲル状の物体が入ってて、よく見たら砂糖だったっていう(笑)。
後ろ暗いものがあるけれど、日常は続いていく。食べ物、リラックスの方法……緩急のつけ方が巧い。隣の国では内戦をしているけれど、のんきな日常がある。
B:魚の焼き方も供述させるんですかね。独裁政権で無尽蔵なマンパワーがあるなら、微に入り細に入り、調書を作れるのかな。
D:盗聴されていたのかも。それだと作れる。管理人が盗聴していたとか。
B:管理人のおばさん、いいですよね。公然とスパイをしている。あと、ラジオを聴かないと自分が統制下にいるとわからないのがリアル。
D:今も同じ。繰り返している。情報は片側からしか流れてこない。

【その他】
◆(ドーデ『最後の授業』の流れで)
D:『最後の授業』のアルザスは、取ったり取られたりの地方。そこに住む人は、フランスとドイツ、両方の言葉を知っていた。『最後の授業』は子どもにわかりやすくする寓話だろう。
E:全員両方喋れる。フランス語とドイツ語、日常的にどちらもある環境。だから、『最後の授業』のように綺麗にいかない。

◆(作中の食事の描写についての流れで)
E:タブッキはイタリア人。イタリア人は食事にかける時間が長い。コースも延々と……。
A:ちなみにイギリスだと?
E:イギリスはそもそもご飯に味がついていない。フィッシュ・アンド・チップスとか、食べる前に側にソースがあるから。

◆B:ペレイラ、金ありますね。家に電話あるし。
E:ブルジョワジー
B:このリッチな感じ、リアルなのかな。
E:こんな人がいた記録はありますね。
A:極右になるのは貧困層で、豊かな人は政権批判しているイメージ。
E:確かに、困った人につけこんで「(貧しいのは)やつらのせいだ」と言うから、貧困層に支持者が多いけど、こういう層もパトロンになっているから何とも言えない。
戦争が近づいても、空爆が始まるまでは普通に暮らしていた。ある日ドカンときて破綻する感じ。人間は、差し迫ってても同じような生活を続ける。
B:正常性バイアス
E:そう、それです。

◆E:以前、別の読書会でタブッキの『インド夜想曲』を取り上げたが、この作品とだいぶ印象が異なる。何年も前だからバイアスがかかっているけど。ジャンルも違うし。
A:『インド夜想曲』も同じ訳者ですね。
D:翻訳が上手。ものすごく。昔の翻訳だと読めなかった。翻訳権は著者が取る場合と出版社が取る場合があるけど、後書きを見た感じだと著者が取っているのかな。

『黒牢城』米澤穂信(KADOKAWA)★R読書会

R読書会 2022.04.30
【テキスト】『黒牢城』米澤穂信KADOKAWA) 
【参加人数】7名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者G)>
◆第166回直木賞には、今村翔吾『塞王の楯』と米澤穂信『黒牢城』の2つが選ばれた。両方とも歴史小説。その中でも、『黒牢城』を読みたいという皆さんの意見が多かったので今回取り上げた。
黒田官兵衛荒木村重が5回ほど牢のところで面会する場面が印象に残っている。レジュメにはたくさん書いたが、私なりに楽しんで読めた。互いに胸の内を覗こうとしている心理合戦が一番面白かった。
◆存在感があったのは側室の千代保。長島一向一揆の生き残りである千代保が有岡城で籠城することになるのだが、そういう経験がある彼女だから説得力がある。一向宗について詳しく書いているので興味を持って読めた。
◆官兵衛の頭の怪我はどうしてできたのだろう。牢番が殴ったように書かれていたけれど、官兵衛本人が頭を打ち付けて、どうにかしようとした牢番が入ってきた、としたほうが素直に読めるのでは。
私が知らないだけで、歴史的にはっきりしている事実なのだろうか。蛆が湧き、村重が目を背けるほどの怪我はどうしてできたのか。皆さんはどう読んだのか教えてほしい。

<参加者A>
◆Gさんが薦めてくださったときに私も半分くらい読んでいて、面白い作品だと思ったので一緒に薦めさせていただいた。
◆官兵衛の頭の怪我について。調べると、幽閉されているときに醜い傷がついたという事実はあるようだ。
◆私は歴史小説を結構読むのだが、この作品は文章に素晴らしくキレがある。端的で切れ味が鋭く、研ぎ澄まされている。無駄が少なく惹き込まれた。
歴史小説ならではの難読な漢字もあって辞書を引きながら読んだ。
◆作者の過去作を読んでいないのだが、この作品で初めて歴史小説に挑戦したと聞いて驚いた。歴史小説にこんな書き手がいるのかと思ったのだが。
◆主人公の荒木村重が口数少なく武士らしい。作品によく合っている。
私は荒木村重のことを大まかにしか知らず、家臣を置いて逃げたずるいイメージしかなかったが、この作品では違う。伊丹市ポータルサイトにも人の命を大切にする武将と書いており[注1]、いろいろな説がある。今までとは違う村重像を読むのが楽しかった。
◆ストーリーについて。城の者を置き去りにして逃げるという着地点はわかっているが、その過程に作者なりの解釈があり楽しく読めた。
第一章は灯籠を使ったトリックの謎解き。それを解いたら皆の疑心が晴れたと思えたが、二章、三章になると、謎を解いても疑念を払拭できなくなり、村重はそれに抗う。機運がどんどん下がっていく構成はどこか暗いが面白かった。
最後は官兵衛のどんでん返しが来るかな、だしの方が絡むのかなと思ったらその通りになった。抗えない村重という、ちょっと悲しいストーリー。
◆時代小説を読むときにいつも思うのが、「今の時代でも同じ」ということ。どちらの陣営も情報戦をしているところが現代の戦争と共通している。
また、何をやっても上手くいかず、どんどん悪くなっていくことがあるのも同じ。村重も上手くいかず苦しむが、籠城で抗っている。骨太な作品だと思った。
G:明智光秀に寅申を渡そうとするのは史実?
A:あれはオリジナルだと思って読みました。

<参加者B>
◆読むのに苦労した。時代背景に基づいた難しい言葉などを辞書で引きながら読んだ。でも変に修飾するのではない、端的な文章に潔さみたいなものを感じた。
◆読書会だから何とか読めた。一人だったら途中までになったかも。
◆Gさんの仰るように、官兵衛が登場する場面は少ないながらも非常に生き生きとしており、その部分はささっと読めた。
◆村重は煮え切らないというか、格好つけているというか、どうしても好きになれなかった。
語っているようだけど、すとんと落ちてこない。
人を殺す信長に対し、村重は殺さないという立場。そのために官兵衛が生き延びて息子と再会できた。誰でも彼でも殺せばいいわけではない、という人もいたのだろうか。
◆各章でミステリーがあって、謎解きして、官兵衛のところへ行って、答えに辿りついて裁断するわけだけど……私は千代保が黒幕だと想像していなかったので落ちきっていない。
第二章でも、結局誰が討ったのかわからない。「お前たちのどちらでもない。とにかく戦に勝ったんだ」みたいな結末で。どの章も、全部そういう半落ちで終わっているから、それでいいのかという感じがしていた。でも、千代保がラスボスで操っていたから、それでよかったのか。この人、スーパーウーマンすぎない? これほど策士なら信長との仲を取り持ってくれてもいいような。
◆一番無理があると思ったのは、民への想いを語るところ。圧巻なのだが、このような罰が下ることで民が安らいだのか。自己満足な気がした。
◆よかったのは、今とは違う、当時の死生観が示されていること。村重たちの死生観、千代保の死生観を二元論で戦わせている。戦国時代だからといって、皆が死など怖くないわけではない。救わなくてはと訴えている。さまざまな細工をすることに繋がるかはわからないが、千代保の死生観は素晴らしい。
◆よくこれだけピースを重ねられるな、と思った。頭の良さ、作品に対する執念深さ・粘り強さがすごい。これからどうなるか史実を知っているから、こういう形で書いているのは素晴らしいと思った。

<参加者C>
◆『黒牢城』は、以前、別の読書会でも取り上げたことがあり、読むのは2回目。
◆私も読み始める前は、荒木村重について「籠城して、官兵衛を幽閉して、最後は逃げ出した」ということしか知らなかったが、戦国時代が舞台の大河ドラマを何作か観ているのと、舞台になっている場所に少し土地勘があるので、読みにくくはなかった。
◆やはり歴史小説というより、戦国時代が舞台のミステリーだと感じる。ただ、ミステリーとしては物足りない。出てくるトリックを現代もので使うと、そこまで映えないのではないだろうか。戦国時代が舞台で、この先の歴史を知っているから、事件の一つひとつがどうトリガーとなるのか、期待が生まれるのだと思う。
また、千代保が鍵を握っているのは早い段階で仄めかされているので、その動機を考える楽しみもある。

<参加者D>
歴史小説として読むと物足りない。私は、歴史小説では、司馬遼太郎国盗り物語』で描かれているように、いかに日本を支配するかを面白く読むので。
ミステリーと聞いて納得した。通常、歴史小説にトリックは入れないが、この作品には遊びがある。そこが高く評価された理由だろう。
荒木村重は、信長や秀吉を主人公にした小説で、官兵衛を幽閉した人物として、よく登場する。もうちょっと村重という人物について読みたかった。なぜ裏切ったのか、なぜ官兵衛を牢に入れたのかなど、人物像がいまひとつわからない。一応、作中で語ってはいるが、どうなのだろう。私は視点が少し違うのかなと思った。
◆ちなみに秀吉が主人公の小説では、秀吉が信長に「官兵衛は裏切っていない」と言って、官兵衛をこっそり助けたりする。秀吉をいい人物として描いているから。
◆読んでいて、残りページが少なくなってきて「どう種明かしするのかな」と思っていたが、千代保がすべての鍵を握っているというのは少し苦しいと思った。
◆籠城している人たちの心理描写が面白い。長くなればなるほど疑心暗鬼が渦巻いていく。そこが一番面白かった。

<参加者E>
◆読み始めるのが遅くて全部読み切れなかった。
◆難しい語彙が入っている重々しい時代劇口調の割に台詞の内容はわかりやすく、上手い書き手なんだなと思った。
◆作品の評価とは別だが、戦国とはこういう時代なんだと引いた感じで描写している序章と、本編の雰囲気が異なっていてすごく読みにくい。冒頭は本編のような描写になっていない。はっきり言って生きていないので、「大坂は城と砦に囲まれている。」から始めてもいいと思う。
又吉直樹『火花』も、冒頭数行は文学めかしている割に文が整っておらず読みにくかったのを思い出した。私はどちらも編集者がつけたのではと疑っている。
◆全体を読めていないので評価はまた。勉強します。

<参加者F>
◆すごく苦労して読んだ。私は東京出身なので、まず北摂がどこかわからなかった。
歴史にまったく詳しくなくて、登場人物のメモを取りながら読んだ。「村重、織田に謀反して、有岡城に籠城し……」みたいに。2ページで眠くなったが、P100を超えたあたりから話が見えてきて、P200からは1日かけて一気に読めた。
◆作者の目の付け所がすごい。実際、官兵衛は1年間幽閉されている。冬から始まって、3ヵ月に1度くらい地下へ下りていく。そのストーリー展開が面白い。こういうところに目を付けるのか、と。
長い歴史の中で幽閉されている1年間にフォーカスして、こんなに力を入れて書くのはすごい。
田村由美『ミステリと言う勿れ』の主人公みたいに、訳もわからないまま与えられた謎を解いていくのかと思ったら、大どんでん返しがあって。私は、官兵衛が村重を騙していたことに気付かなかったのですごいと思った。最後のほうはサクサク読めて楽しかった。
◆武士言葉が癖になる面白さ。「民草」は、人民を草に例える、中国の古い故事に由来しているそう。「太り肉」とか読み方が面白い。あと「風聞」とか。
◆神社仏閣は位の高い人が建てたもの。庶民は、殺されて本当に極楽浄土に行けるのかという不安があったのでは。千代保が安心させようとするのは、すごく納得できた。
◆テーマは何なのか考えた。
P375に「信長は斬り、村重は斬らぬ……その評判は天下に広がっただろう。(中略)すべては武略であった。」とある。そうなんだと、素直にそのまま受け取るしかない。
100ページごとに村重がどうしてこうしたのか、ちょこちょこ書いてあった。Ex)P118「信長と同じ道を行くことこそが荒木家の滅亡を約束するからだ。」
P417 、「村重、我が子を殺したのは、おのれを慈悲深く見せようというおぬしの見栄よ!」村重がどうしてそうしたのか書いてある。
テーマは「抗うこと」かなと思った。どんな世にあっても、社会に抗うことは大切である、と書いているのでは。
◆悩ましき句読点。句読点には現在規則がない。この作品の句読点の打ち方がとてもいい。P299、「村重は、ひとりだ。」。ここだけ主語に読点。「一人だ」が協調されていて、正しい打ち方だ! と思った。
◆楽しい本だった。一人では(=読書会のテキストでなければ)読み切れなかった。
◆不思議だと思ったのは寅申。茶器がそんなに重要なのか。
E:領地を与える代わりに茶器を与えたりしていた。
A:松永久秀は古天明平蜘蛛という茶釜を渡さずに自害した。

<参加者G(推薦者)>
[事前のレジュメより]
≪骨太の作品だ≫
 四つの謎解きをしながら進行する物語。荒木村重と官兵衛の心理戦が見事に描かれている。土牢へ閉じ込めた官兵衛を村重は五度訪れている。籠城が長引くにつれ城内での不調和が広がってゆく。毛利の助けを待つだけの陣中の焦りが猜疑心となって表面化していく様子が丁寧に描かれている。その中で対応が困難な事件が起きる。これへの対応をめぐって二人の心理戦が行われる。ミステリー仕立ての骨太な物語だ。官兵衛を村重の指南役として位置づけてこの物語を書いたところが面白い。

≪官兵衛のすごさ≫
 官兵衛のすごさが描かれていると思った。一つ目は、牢内にいて村重の話を訊いただけで事件の謎解きをしてみせるところである。二つ目は、牢番ふたりを短期間の間に洗脳し、思うように操っているところである。

≪存在感があった側室の千代保≫
 村重は彼女の美しさの由縁が「いのちを諦めたところから生じているのではないか」ととらえているようだが、その彼女が城内の危機を何度も救っている。「仏罰」を城内の者に示そうとしたことなどは、籠城戦を経験している者だからこその発想である。

≪官兵衛の頭の怪我≫
 「この傷の礼に、かの者とは少々話をいたした」(P212)と官兵衛が言った場面が理解できなかった。この言葉そのものは、官兵衛の独特の皮肉っぽい言い方なんだろうが、この文脈が分からなかった。牢番に打たれて負った頭のひどい怪我。これと、村重に斬りかかるように洗脳できたことがどう繋がるのか理解できなかった。皆さん、教えてくだされ! もしかして、この場面は私が知らないだけで、誰もが知っているところなんだろうか? あるいは、この怪我は官兵衛自らの手で負ったものと考えられないだろうか? その傷を牢番が手当をしてくれた。その時、村重を襲うように唆す話をした。こういう文脈ならよく理解できる。

[以下、読書会にてGさんの発言]
謀反を起こした理由については納得できた。信長が残虐で殺し過ぎるから、恐ろしくて離れたのだろうと思う。反逆するなら信長の逆をやろうと考えたのかなと。きっと、明智光秀の謀反と似ているのでは。その(=光秀の謀反の)先ぶれみたいな。
先ぶれとして、もう一つ。信長は、大坂では一向宗を殺さずに逃した。信長は統治していく上で、従わなければ殺すというやり方を変えて、場合によっては生かすようになった。有岡城の処刑も、そういう過程の中の一つの事件としてあるのではと、難しく考えずに受け止めた。

<フリートーク
【作中の言葉遣いについて】
D:一般的に男性は時代ものが好きだけど、女性はそうじゃないと思っていたが。
F:だって男ばかり出てくるんだもん。
C:私は結構好きですけどね(笑)。
E:『黒牢城』は、ジェームス三木みたいな重々しい口調に寄せているけど、最近は若者口調に寄せている作品も多いですね。和田竜『忍びの国』の台詞とか、現代的でわかりやすい。
D:今の大河ドラマ(『鎌倉殿の13人』)も。
F:標準語ができたのは最近。昔は方言で喋っていたから、正確な話し言葉はわからないはず。

【人物の描き方について】
F:表では「はい」と言っているが、裏で何かを考えている村重を好きになれなかった。面従腹背の謀反人。結局、見栄だし。
A:見栄ですよね。
D:歴史にはそういう人が多い。
A:人を殺さないのも武略。
B:自分の風評のため。
A:冒頭のプロパガンダみたいなものを作品中で巧く使っている。
F:千代保がいなくていいところに出てくるから、犯人だとわかる。
C:第一章の火鉢のところから怪しいですよね。
F:ミステリーでは犯人じゃなくていい人が犯人。
村重が44~45歳くらい、千代保が20歳くらい。官兵衛が32歳くらい。このときの年齢が面白い。

【牢番と牢について】
D:官兵衛に唆された牢番が村重を殺そうとして、逆に殺される設定かなと思った。
G:官兵衛が言外に「自分がやった」と仄めかしている。官兵衛は牢番に村重を殺させたかった。
D:それはそうだけど、牢番に仕返しをしたのかと思った。
G:官兵衛が牢番に語りかけたのはすごい。
A:牢ってあんなに狭いんですか?
D:他の作品でもそう。幽閉の間に足を悪くしていて、戦でも馬ではなく輿に乗っていたり。
A:有岡城の官兵衛って、牢に入れられてたのではなく厚遇されてたという説もある。この作品では最初に御前衆を殺してしまっているから、牢に入れざるを得ないけれど。
補足)後の参加者A調べによれば、"厚遇されていた"との説は見つからなかった。ただ、"幽閉はそれほど過酷ではなかったのではないか"と窺わせる史料(2013年に見つかった官兵衛から村重にあてた書簡)がある。これを見ての発言です。[注2]

現代社会と似ているところ】
F:当時の人質の在りようが、今だったら考えられない。磔にするなどもありえない。
B:敵のしゃれこうべを盃にしたり……
E:それはさすがに特殊ですけど、首を晒すのは相手の戦意を削ぐという意味がある。
A:第二章のトリックは好きですね。歴史小説は戦いがメインのものが多いけれど、この作品は戦いではなく、手柄を妬まなくていいとか着眼点がすごい。
B:会社組織みたいなところはありますね。社員はどう働くか。社長に取り入らなきゃいけない。自分が死んでも子孫のために書状を残すのは、労災の書類みたいな。
A:潰れる大企業の行く末のような感じ。
D:官兵衛はすごい知恵者だったみたいで。秀吉がいなければ、彼が天下を取ったんじゃないかと言われている。
F:今でも策士っていますよね。会社でも。
D:正面からぶつかっても天下を取れないから、どう落そうかと考える。
F:もともと人間ってそういう面があるのかな。生き残るために。民間企業で見てるんです、男たちのドロドロを。

【女性の地位について】
A:第四章の、千代保と村重が対峙する部分がこの作品の肝なのかな。民の想い。民が恐れるのは死ではない。2人の議論を戦わせて巧くまとめている。冒頭に「退かば地獄」とあるがプロパガンダですよね。政教一致みたいなことを都合よく伝えている。
F:「進めば極楽」……官僚の言葉なんです、従わせるための。戦に行く人は、肝に銘じて戦に行くでしょう。
E:いえいえ、浄土真宗一向一揆で集った民衆たちのほうがこういうことを言ったんです。死んだら極楽に行けると。宗教って恐ろしい。
F:民は死ぬのが怖かったんじゃなく、極楽に行きたかった?
E:生きていると苦しいですからね。一向一揆の鎮圧は、武将同士の戦いよりも大変だった。
B:当時、(この作品の)だしの方のように自立した女性はいないのでは。アイデンティティのある女性をうまいこと入れている。
E:女性の地位は時代によって違う。平安時代は女性の側にも家長権や資産があった※家長権というのは誤り[注3]。一般の民衆でも女性で職人の棟梁になった人もいた。現代人が想像するほど抑圧されてはいなかった。女は三歩下がって……と言い出したのは武家が安定してから。それ以前は出雲阿国もいたし、そこまで女性に人権がなかったわけではない。
A:このころの女性は言うこと聞いてくれたんですかね。今はこちらが抑圧されてる(笑)。
D:この時代はあくまで政略結婚。奥さんもスパイだから信用できない。実家に情報を流すので。
E:濃姫などもそうですね。
D:長男を生むと、さらに権力が増す。力があるといえばある。宇喜多直家とかすごいですよ。娘を嫁にやっておいて、嫁ぎ先を攻め滅ぼす。
F:この時代、世界中でこうだった?
E:どの国にもこんな時代があった。中南米のアステカでは捕虜や奴隷を生贄にしていた[注4]。人間は文化的なものがあったら突っ走る。こんなことは世界中であった。

【地域について】
F[東京出身]:東京で「行けたら行く」って言うと、行く気満々なんです。関西で「行けたら行く」って言うと100%行かない。
C[岡山出身]:岡山でも、「行けたら行く」「検討します」って断り文句なことが多いですよ。職場の、関西から来た営業さんが戸惑うくらい(笑)。
A[奈良出身]:友人と話していて、「岡山は天災もないし、岡山だけで生きていけるから、プライドが高いんじゃないか」という結論に至ったことがある。ちょっと京都っぽい。
E[広島(備後)出身]:はっきり主張しないのは引け目があるからでは。
C[岡山出身]:引け目はあるかも。相手が嫌な気持ちになるかな、みたいに考えちゃって。
D[岡山出身]:岡山を作ったのは宇喜多直家。裏切りと策略。そのイメージがあるのかな。
F[東京出身]:信長、秀吉、家康はみんな愛知出身なんですね。面白い。
E[広島出身]:愛知に生まれた時点でアドバンテージがある。京都から遠すぎる場所に生まれたら、有能でも地方の大名で終わるしかない。

【その他】
E:毛利は、信長と兵庫県の大名たちが喧嘩しているとき、(兵庫県の大名たちを)バックから支えている。
A:村重の家臣・荒木久左衛門は、村重が追放した池田勝正の弟なんですね。
E:織田信長の子や孫らが、かつての家臣筋であった豊臣政権下で小大名に甘んじた例もある。家が落ちぶれると、かつての家臣の部下にならなくてはいけない。

<注釈(参加者Aさんから頂いた補填資料より)>
[注1]伊丹市観光物産協会HP 村重たみまるについて
http://itami-kankou.com/murashige-tamimaru

「村重の悪人イメージの流布は勝利側によるもの」と題して、
------以下、引用------

“(前略)黒田官兵衛が謀反をやめるよう説得に来た際、官兵衛の主君・小寺政職から殺害を依頼されていたのに村重は彼を殺さず牢に入れて保護していました。官兵衛はこれに恩義を感じ、村重の子孫を黒田藩に召し抱えています。”
------以上、引用------

といった記載があります。

[注2]
毎日新聞・2013年12月03日 リンク先見つからず、一部割愛して転記)
------以下、引用------

黒田官兵衛:荒木村重への書簡の写し発見 本能寺の翌年」
兵庫県伊丹市立博物館は2日、戦国武将、荒木村重(道薫)に幽閉された黒田官兵衛が、後に村重に送った書簡の写しが見つかったと発表しました。(中略)文面からは親しげな関係がうかがえ、研究者は「幽閉は過酷なものではなく2人は変わらずに親しい関係だったのでは」と分析しています。(中略)書簡は本能寺の変で信長が討たれた翌年の1583(同11)年に書かれたものです。(中略)村重から光源院の領地問題の相談を受けた官兵衛が返書を出し、これを村重が書き写し、交渉が順調だと伝えるために光源院に送ったものとみられます。
「秀吉様のお考えどおりに間違いのあるわけがありません」と秀吉をたたえる言葉や「姫路へのお供をされるのであればこの地へお出(い)でになるだろうと存じていたところお出でになられず、とても残念」と再会できなかったことを惜しむ文がつづられていた。神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)は「文面からは遺恨は感じられない。茶人となった村重が政治に関与し秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする2人の関係を示す貴重な資料だ」と評価しています。“ 

------以上、引用------

確かに、過酷な幽閉ではなかったのではないか、と思わせる内容です。

<注釈(参加者Eさんから頂いた補填資料より)>
[注3]発言がざっくりしすぎておりました。まず、古代の「家」についてですが、

平凡社 世界大百科事典
2巻P105【家】日本・古代の項
「当時の家族の実態は父と子、夫と妻が別々の財産をもっていることが多く、(略)家が父から長男へ継承されるという近世的な家の制度は、古代社会には存在していなかった可能性が強い。もっとも、(略)律令は父子の関係を基本とするイヘの制度を創設し、それが後の家の制度の源流となったと考えられるが、(略)〈家をつぐ〉という観念が、はっきりした形で成立してくるのは、院政期ころからの可能性が強い。►►►戸」(吉田孝)

つまり古代には後のような家長の采配する家そのものがなかったわけで、「家長権があった」というのは間違いです。すみません。
ただ、「近世的な家の制度」が確立する以前の古代から中世においては、男女均分相続という財産権の平等が見られ、一般に同一身分内での男女格差は小さかったと考えられます。
鎌倉時代には正式に地頭や御家人となる女性もいたそうで、また中世の家では北条政子や今川家の寿桂尼のように、夫の死後に妻が実質的な家長として執務する例もよく知られているかと思います。
(以下の所資料を参考にしました)

◎呉座勇一『日本中世への招待』(朝日選書)
◎脇田晴子『中世に生きる女たち』(岩波新書
◎『新書版 性差(ジェンダー)の日本史』
 (集英社インターナショナル新書)
◎1994年版岩波講座・日本通史 第8巻・中世2
 坂田聡『中世の家と女性』
平凡社 世界大百科事典
 2巻P105【家】日本・古代の項
 16巻P304【相続】相続の歴史・日本・古代の項
鳥取県公文書館
  新鳥取県史を活用したデジタル郷土学習教材
  女性の地頭─鎌倉時代ジェンダー
  https://www.pref.tottori.lg.jp/secure/1251968/c551_1.pdf

[注4]高山智博『アステカ文明の謎 いけにえの祭り』(講談社現代新書)に詳しい記述がありますが、ここは簡便にまとまっている以下のページを貼っておきます。
◎井関 睦美(いぜき むつみ) / 明治大学 商学部 准教授
  古代メキシコアステカ文化の世界観
  https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/130917.html

 

米澤穂信『黒牢城』はZoom読書会でもテキストになりました! 読み比べたら、メンバーが変わると、出る意見も変わるんだなとわかって面白いです。

『屍者の帝国』伊藤計劃✕円城塔(河出文庫)

Zoom読書会 2022.03.26
【テキスト】『屍者の帝国伊藤計劃円城塔河出文庫
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者G)>
読書会で推薦する作品となると日本語で読める小説に限られるのだけど、私の本棚に並ぶ日本語の本は絶対紹介できないような下世話なものが多くて(笑)。これは紹介できる数少ない本。ある観点から非常に興味深いと思う。
特異なのは、伊藤計劃が執筆中に亡くなり、円城塔に引き継がれているところ。プロローグだけ伊藤計劃が書いている。
また、二次創作を考える上でも面白い作品。キャラクターがほぼ、有名な海外小説の二次創作なので。『フランケンシュタイン』の後日譚で、シャーロック・ホームズシリーズの前日譚となっている。

<参加者A(提出の感想)>
【全体について】
 たましい、あるいは個の目覚めを主題とした長編。社会的な啓蒙寓話とも呼べるかもしれない。おはなしのキィのひとつに「代入」が用いられるが、読み手は、それによって浮き彫りにされる現代社会をそれぞれの胸のなかで空想し、醸成させて吟味して、やがて個々に物語るようになるかもしれない。伊藤計劃作品は胸を打つアフォリズムがゆたかという印象があるが、己やそれをとりまく世界について、ひとりつれづれと思索しつづけていただろう彼には深い共感と共鳴。とくに若い世代には、いい意味でのウェルテル効果があって欲しいなとひっそり願う。体裁上の物語は諜報員もの。人間存在、自我、神、科学、たましいについての思惟や考察が展開される「静」の部分と、登場人物たちが活発に入り乱れる「動」の部分が交互に波を織り成していく。(もっとも、個人的な印象としては、この作品の「動」には立体性と緊迫感がややとぼしいかなと感じた)陣取りゲーム=グレート・ゲームという世界観背景は、いまの時勢が時勢なだけに強く響いた。

【世界観について】 
 お話の舞台は「歴史上の」「過去」。産業革命によって生まれた新たな技術が全世界に十分に広まったと思われるころと認識。(あくまでも個人観)ただし、お話の舞台はいわゆるところのパラレルワールドの過去であり、ぼくらが存在を認識しているこの世界の史実を描いたものではない。あくまでも、表面上は。こちらの世界では「屍者」と呼ばれる革新的な産業が誕生および普及している。死んだ人間を労働者や機械、兵士あるいは兵器として活用するというなんとも斬新な考え方。「分断」に立脚した西洋合理的思考ここに極まりというところ。これはもはや皮肉ではなく、ひとつの未来予想図だろう。発想と着眼点に深い感銘。いずれにしてもフィクションにちがいないが、お話に登場する主要人物に世界的名著=フィクションの人物やあるいは作者の名まえを用いたところがまずおもしろい。この作品にたびたび使われた表現を借りるなら、フィクションに「上書きされた」フィクションとでも呼べる構造だと思う。荘子の『胡蝶の夢』――夢のなかの夢、みたいな奇妙な浮遊感がここに実現されているのではないかと思う。いくえにも重なり合わさった虚構というのは、それを知覚、認識している自我=読み手の個、つまりぼくという現実にひそやかな揺らぎを与え、それらの境界に浮き彫りにされる普遍性が刺激的な知恵となり、ひとつの未知なる人生観をゆるりゆるりと開拓していってくれる。だから読書はやめられないと思う瞬間。
 当作品の底流となっている主なフィクションは『フランケンシュタイン』と『創世記』だろうかなと思う。どちらも人間存在や神と被造物について描かれた物語として認識。人物としてはハダリー(『未来のイヴ』)とカラマーゾフが圧倒的に印象強い。さりげなくバロウズが出てくるところはいいなと思う。もちろんワトソンという人物を語り手に選ばれたこともおもしろかった。ロンドン大学とか軍医(アフガン戦争)とかもはやかんぜんに同一人物じゃないのかと笑う。パラレルワールドを生きたもうひとりのワトソンなのだろうと思う。屍者フライデーについては分からなかった。(ただ、金曜日がキリストの磔刑日という記録が印象深い……)

【屍者について】
 作品背景を十九世紀末に設定した理由は何だろうと思う。個人的な同時代の印象は産業革命が敷衍したころ。=資本主義社会の朝。(そして現代はそのたそがれと呼ばれている)そうして「我が国」では明治維新から十年後の世界。これらから浮かび上がる時代的イメージは「大規模な変換期」であり、俗にいう「歴史の分かれ道」と呼べる時期じゃないかと思う。あくまでもぼく個人の妄想的な主観だけれど、現代に生きる多くの国民たちは資本主義のどれいであると考えている。目先の欲やきらきら輝くモノのひかりに翻弄されて、朝から晩まで心をころして働くさまはほんとう気の毒。もしも作者が似たような憂いを抱いていたとすれば、作中に登場する「屍者」たちの寓話的意味がぼくにはとても親しく思えた。(さらにまた、明治維新の生き残りの子孫たるおぼっちゃまたちが治める当世という意味でもここにある寓意はおもしろい)
 この物語は「代入」がひとつのキーワードになっていると思うが、「屍者」というXがあらわすものはとても切実でおそろしい。従事者、労働者、作業の手、機械、兵士、兵器、使い捨ての駒、インスタント製品、あるいはシンプルに単位(効率とか税収とか)……。バロウズのことば「指を失ってもできる仕事はいくらでもある」が胸に響く。それか、「単一な意志=屍者、多様な意志=生者」という作中のことばを用いれば、屍者とは子どものように未成熟な存在とも置き換えられるかもしれない。(独我論は子どもの特権)そういう意味で、ラスト、フライデーが自我に目覚めていくさまはぼくにとって希望だった。バベル=混沌の影響で再生される自我――いや、自己、もしくはたましいという構図に人生的な救済と安らぎを感じる。(『幼年期の終わり』に似たあたたかさ。でもやっぱり、ぼくの理想は高度な精神体への昇華です……人間の世の中には何の期待も未練もない)

【主題について】
 おはなしの結末は「たましい」なるものの目覚めだと思うが、全体的なテーマはやっぱり「ことば」なのかなと思う。『虐殺器官』を想起。「人間のたましいは菌株に感染している」という発想はものすごく感銘を受けた。「人間は菌の乗り物」「あるとき猿が感染した」これらは胸がおどる言葉だった。さらにまた、この菌株の部分をⅩとし、個人個人に好きなものを代入すればいいという展開には高揚。巧妙としかいえない。先に分かりやすい「式」を教示しておいて、つぎにその本質を解き明かす。Xにはことばや神、あるいは文化、習慣、「認識」そのものが代入されるが、個人的にこの「式」そのものがとても好き。
 それから、「ことばと物語」に対する作中の言及も胸にしみた。ことばをひとつのエネルギーとした場合、それを伝達する手段が「物語」であり、その上位互換――あるいはその原始形態が「音楽」であるというこの解釈はほんとうによかった。すばらしかった。「理解できるものはすべて物語の形をとる」「人間は物語を物語として理解する」よくも悪くも恐ろしい表現だと思う。けっきょく、語るときも語られるときもそもそもそれを聴いたときも、ぼくらはX――主観――何かしらの恣意的なものから逃れないということか。(伝言ゲームの恐ろしさを思い出す)また、たましいというものが世界のはじまりから存在していたエネルギーであり、またパターンであるとの考え方はものすごく親近感が強かった。これまでに読んできた本が示唆するところと根が同質。世界はきっと波だと思う。Xなるものと人間をつなぐものとしての石――ラピスラズリも詩的ですてき。
 「現実とはⅩのみせる夢」であるとの言及、そして、解析機関の歯車がみる夢というのが「バグ」であり「洗脳」であり「解釈できないもの」であるという作中世界説明から導き出される現実はやっぱり「夢まぼろし」なのかなとひとり納得。けっきょくぼくらは、脳がみせる虚構におどらされているに過ぎない。「ヴィクターの手記」に記されたランダムな文字列に、個々人がおのおのに秘めた知識や文化や経験から「なにか」を読み取り現実的な行動を選択する――、それがつまりひとの世であり歴史なのだと、要するに、ぼくらの世界はどこまでもフィクションに過ぎないというこの心地のいい浮遊感。この種のおはなしに共通したこの無常観はほんとうにたまらない。どれだけ精緻に築き上げられたロジックだって、たったひとかけらのバベルによってあとかたもなく崩れてしまう。あらゆることは影絵――洞窟の中の影絵に過ぎない。虚構である。社会的にも人生観的にも、刺激ある啓蒙に満ちあふれた心弾むおはなしだった。

【その他】
・固定、接続、上書きなど、数記号的なイメージの強い語句を情景描写や文章表現に用いる点は伊藤作品という感じがしてすてき。
・第一部は旅行記のような迫真性があって楽しかった。
・ロンドン塔のロジックオルガンは『さかしま』や『日々の泡』に出てくるカクテルピアノみたいで個人的に好き。
・「全球通信網」それ自体が意志を持つかどうかについての言及はやはり楽しい。アニメ『攻殻機動隊』シリーズ、漫画『EDEN』を想起。
・「好き勝手に書き換えられる脳の時代」=「技術的なエデン」は『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』に出てくる頽廃ぶりがイメージされて切ない。
ハダリー(=理想)が最後にアドラー(鷲、という意味らしい。ユダヤ人に多い名)と改名されたところは印象深い。アドラーは心理学者の彼しか知らない。たしか主な研究テーマは劣等感、権力(エゴとしての)、それから勇気づけ。いろいろ想像してしまう。おもしろい。

<参加者B>
◆「好きだと思う」と指名されるとアレなんですが(笑)。※「Bさん、この作品好きそう」という雑談からの指名
伊藤計劃はそんなに作品を残していないと聞いて、そうなのかと思った。
伊藤計劃虐殺器官』っぽいところがある。アイリーン・アドラー(ハダリー)などは、野﨑まどが書くヒロイン像に近いと感じた。また、スチームパンクと生物学のようなものの融合は、スコット・ウエスターフェルドの〈リヴァイアサン〉三部作を思い出す。
哲学的モチーフ、自己言及、メタ小説……ゼロ年代のオタク好みの詰め合わせかな。(2012年刊行なので)出て10年経って読んだら、こんな時代だったなと思う。
◆荘重なことを語っていたが、全部読むと地に足がついていない。第一部までは地に足が着いており、テクノロジーが描かれて面白かったが、第二部以降は慣れてきた。全体として読んだら消化不良で、こってりしたファーストフードを食べたみたいな印象。
◆ワトソンを主人公とした冒険小説として読むとワトソンが動いていない。肯定的なAさんも、感想で“この作品の「動」には立体性と緊迫感がややとぼしいかなと感じた”と述べられていたが。
◆作り込んでいる熱量をビンビンに感じるのはよかった。

<参加者C>
◆大変難解で苦戦した。月曜から読んでいたが(※読書会が開催されたのは土曜)なかなか読み切れなかった。
円城塔の文章はこんな感じか、と。聞いてはいたが大変だった。話の構成は複雑で、文章も難解で持て余してしまった。話の流れにはついていけるけど、なぜここでこの文章が出てくるのか、という箇所が多い。「グラン・ナポレオン」など、その表記で出てくる前に振り仮名で提示されていたが読み飛ばしていた。読者に対して不親切。
荒唐無稽な話は好きなので、もっとわかりやすく書いてほしかった。作品とは別なところで消化不良。
伊藤計劃の文章はわかりやすかったのに。別の人が書いてくれれば、と思ってしまった。できれば私が書きたかった。
◆菌株が人間の意志を決めてしまうという論理構成。理屈っぽいというか、人間が考えた設定に見えてついていけなかった。
似た設定では、瀬名秀明パラサイト・イヴ』で、細胞の中にミトコンドリアがいてそれが暴れ出す、というのがあったが、これも人間が考えたものに思えた。
◆面白いのは、シャーロック・ホームズシリーズや『カラマーゾフの兄弟』、『風と共に去りぬ』などが出てくるところ。遊びで入れているのか、本質的にかは掴めないが。出典を探すだけでも面白い。たぶん半分くらいしか発見できていないので、もっと時間があれば……。
例:
*ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズの論理オルガン(446P)。ジェヴォンズは、経済理論や論理学で活躍した人物。その事実が上手く作品に取り込まれていた。事情を知らない人だと読み飛ばして埋もれるだろう。
シャーロック・ホームズシリーズを知っている人なら、ワトソンがアフガニスタンから帰ってきたことを知っているので、読んで嬉しいと思う。アイリーン・アドラーも『ボヘミアンスキャンダル』(江戸川乱歩でいうと『黒蜥蜴』みたいな作品)に登場する人物。
ハダリーは『未来のイヴ』に出てくる人造人間。「ハダリーの腕を銃弾が襲い、硬い金属音が高く響いた」(382P)は彼女が人造人間であることの伏線。
◆このような趣向は伊藤計劃円城塔、どちらが考えたのだろう。プロット段階で設定まで決められていたのか? 物語とは別に楽しめた。

<参加者D>
◆私も結構前に手に入れて、読み始めるのも早かったが全然進まず、流し読みでも追いつかなかった。途中から誰が何をやりたい話かわからなかった。
◆個人的には、『ウォーキング・デッド』を観ていてシリーズ3作目で「おもんない」って思って挫折したのに似ている。私は「全員ゾンビになったらええやん」ってなってしまって――同調圧力に弱い日本人だなって自分で思ったんですが(笑)。
この作品でも、屍者に働かせてまで労働力がいるのかって疑問で。自分の価値観との相容れなさがあった。課題だから読んだけど、ますます誰が誰やらわからなくなってしまった。
◆でも『虐殺器官』は面白くて3冊買った。受ける印象の違いは何なんだろう。また『虐殺器官』を読もうと思う。
◆だから『屍者の帝国』に対して感想的なものは全然ない。引用とか、知ってないとあかんよ、とか、本歌取りみたいな楽しみがあるのかな。
C:馬鹿にされてる気がしますよね、お前知らんのか、みたいな……(笑)。伊藤計劃円城塔の違いを感じる。

<参加者E>
◆全部読めなかった。毎日少しずつ読んでいったけど、見たというレベルで読めたとは言えない。
◆プロローグで面白いと思ったが、第二部くらいから「何この蘊蓄本は」となった。自分自身の知識と教養が問われている気がして。ウィキペディアで調べながら読んだ。実在か、どういう時代かわかっていればたまらなく面白いだろうな、と。わかっていなければ上滑りになって、わからなくなる。
ページを捲ろうとする力がダウンして、一所に留まりすぎて、蘊蓄や説明、ニヒリズムに引っかかった部分が多かった。
とにかく心の中の物語を読者に聞かせたいという情熱が、伝えるパワーを削いだのだろうなという感じはする。
◆屍者が戦闘員として使われる。屍者をAIに変えても成立しそう。
◆読む人によってはめちゃくちゃ面白いはず。学問的な素養がある人や、行間を楽しむ人が1ページ1ページを楽しみながら読んでいったなら。
◆私は正直わからなかった。結局、歴史改変になるのか? 興味深い世界観でも、思想を入れると読んでいてブレーキがかかる。私の力が追いつかず、良い読者でなくて申し訳なかった。

<参加者F>
◆面白かった。ラスト、ザ・ワンが一人の女性を蘇らせるために……というところは『シン・エヴァンゲリオン劇場版』っぽいなと思った。
◆昔ちらっとシャーロック・ホームズシリーズ読んでたり、007シリーズ観てたり、『青天を衝け』観てたり(グラント来日のくだりをイメージしやすかった)、あの辺りの時代が舞台の漫画をいろいろ読んでいたおかげで、なんとかすんなり入っていけました(笑)。
◆あの時代のイギリスってすごくエンタメで馴染みがある。出てこなかったところでは切り裂きジャックとかもあの頃でしたっけ。
ヴィクトリア朝って、ゴシック・アンド・ロリィタとも親和性が高いんですよね。個人的にはすっと世界観に入り込めました。
◆『カラマーゾフの兄弟』とか『フランケンシュタイン』とか『風と共に去りぬ』とか、元ネタを読み込んでおけばもっと楽しかったんだろうなと思う。知らないことはネットで調べながら読んだけど、なくても楽しめるようになっている。
◆いろいろな国で小さい事件を解決……はしていないか、小さい事件に遭遇していくところは面白かったけど、哲学とか思考に話がいくと少ししんどかった。納得がいくような、いかないような。SFはいいけど、思索みたいな話が苦手なので。
◆でも、思索の部分にも、はっとする文章がたくさんあったし、自分とは何かを考えるきっかけにもなったので有意義だった。
◆個人的にクラソートキンが好きすぎたので『カラマーゾフの兄弟』を読みたくなった。読んでおけばクラソートキンの内面をもっと理解できたかもしれないので、そこが悔しい。
E:クラソートキンのどこがいい?
F:めっちゃ格好いい(笑)。
B:アニメでもいい感じのビジュアルですよ(笑)。
G:ちなみにアニメのフライデーは美少年。
E:ビジュアルで見たら絶対面白い。
G:アニメはシャーロック・ホームズシリーズの『緋色の研究』に当たる部分で終わる。あと、ハダリーの腕が撃たれたとき、がっつり金属が見えている。
B:私は先にアニメを観ていて、原作を読むと端折られているところがわかるかなと思ったらそうでもなかった。

<参加者G>
◆2015年のアニメ化に際して興味があり、そこから入った。冒険小説で、エンターテイメントとして優れている。
◆読んだ最初の印象は面白かった。
◆細かいあたりは知っていないと面白くないかといえばそうでもない。私もシャーロック・ホームズシリーズと『フランケンシュタイン』くらいしか知らない。
◆固有名詞のルビは確かにしんどい。ライトノベルでよくあるんですが。
◆普通に日本語を書いたのではなく、翻訳を強く意識して書いた印象。テキストは日本語だけど、(読んでいて)後ろで英語が流れる人を意識している。変な語り口や、唐突に名前が出てくるのはそのため。英語を無理やり訳した文章を円城塔は再現した。
円城塔は結構好き。『道化師の蝶』とか。裏に外国語とか、多言語を透かして読むのを意識して書いている。『屍者の帝国』では、その悪癖が出ているのかな。
ヴィクトリア朝末期の英文は、訳すとこんな感じになる。関係代名詞が1つの文に4つくらいある、みたいな悪文。
◆最後は観念的になるが、そこに一番力を割いたのでは。円城塔伊藤計劃のテーマは「認知と言語」。二人とも言葉や文法にこだわりがある。
私たちはどう世界を認知して語っているのか。私たちが意識や魂と呼ぶのは進化の産物、脳神経・物質的な化学変化の産物。意識を持って喋っている――その裏側にはメタニカルなシステムがあり、人間や尊厳や魂を唯物的な見方で相対化するというテーマがある。
⇒劇中では菌株(strain)いくつかのせめぎ合い
ダイバーシティがなくなり、多様性がなくなるから菌株を説得する。
*立証するためにワトソンが自分をリライトして、魂的なものである菌株を書き換え、感染源であるフライデーも変えてしまう。
私たちの意識、人間を人間たらしめているものを解体していく面白さ。これが売りなのでは。
◆個人的な感想として。なぜこの作品を好きなのかというと、言葉や文法を扱っているものに惹かれるから。人間の脳内、あるいは意識を構築する部分とも言えるものには、普遍的な言語や文章を構成するシステムがある(※米国の言語学者ノーム・チョムスキーなどが提唱している「生成文法」というものを意識しての発言)。[注1]
円城塔入門編と呼べる作品。
◆枝葉を見ていく楽しみもある。どの部分で本家と分岐しているのか。二次創作を前提として書かれているのは、今のゲームの作りに近い。
◆最後のシーンで『緋色の研究』に繋がるところがある。ワトソンが書き換わったあと、フライデーの語りになる。私だけの考えかもしれないが、そこが冒頭(プロローグの1つ手前)の英文と繋がる。大意としては、
「古き友ワトソン。君は何年たってもまるで変わらないな。それでもなお、イングランドには未だ吹かない東風が吹いている。冷たく、厳しいものになるだろう。善良なる我々の多くはその風の前にひとたまりもないだろう。しかし、それでも神の御意志というものだ。清らかでより良く、頑強な大地が、嵐がやむころには広がっているだろうと思う。車のエンジンをかけておいてくれワトソン。出発の時間だ。」[注2]
これがエピローグと繋がっているのでは。私自身、考え中だが。

<フリートーク
【現実世界への「代入」について】
G:屍者の帝国』の「屍者」の下地はロボット。「フランケンシュタイン三原則」も、アイザック・アシモフSF小説に登場する「ロボット三原則」から来ている。
また、「屍者」の発想の大元はゾンビ。植民地では、黒人やネイティブアメリカンを働かせて、死んでも蘇らせて使うという発想があった。
つまりこの作品の「屍者」とは、ゾンビとロボットを組み合わせてヴィクトリア朝に落とし込んだもの。
C:Dさんが「屍者に働かせてまで労働力がいるのか疑問」と仰っていたが、労働力=権力。産業革命では労働力が必要。屍者は、労働力・産業力として搾取される女性や子どもにも置き換えることが可能。この世界ではゾンビ的な屍者になって、グレート・ゲームの駒になっている。だから言葉遊び。
「フライデー」は、『ロビンソン・クルーソー』に出てくる登場人物で、主人公が従僕にするネイティブ・カリビアンの名前。金曜日に出会ったからフライデー。書き換えや読み替えをするのも植民地的。もともとあった言葉を混ぜて別のものにする。
二派に分かれて、いろいろな組織があって、背景には戦争。グレート・ゲームというのは今の時勢にも重なる。ロシアとウクライナに置き換えても充分成り立つ。『屍者の帝国』が書き継がれたり、ちょうどメディアミックスされたりしたのは、オレンジ革命から始まるウクライナ政変の頃だから、そこも重なる。2014年のクリミア併合も。クリミアといえば、『屍者の帝国』でもナイチンゲールの名前が登場したが。

【菌株について】
C:物語としては面白いが、「あたかも菌類が言語を持っていて、人の意思をコントロールするようなある種の怪物である」というところは作り話めいており勿体ない。もうちょっと説得力や辻褄合わせがほしい。『パラサイト・イヴ』を読んだときも思ったのだが、(ミトコンドリアや菌株が)あたかも知性を持ったみたいに反逆しているのに違和感。
G:私は、『ハーモニー』の中で語られる意識の起源や生成の話との繋がりの話と繋がりを感じて好感を持った[注3]。そういうものかもしれないし、違うかもしれない。もやっとしてしまう感じ。
E:魂は菌株ってこと?
G:そうではなくて。
フランケンシュラインは、人間の魂についてある仮説を出す。人間は意識・魂を持っていて、他の動物とは違う。人間の中に微細なウイルス・菌のようなものがあり体を循環する。複数の菌が体を巡ることによって言葉を発するためのシステムを構築する。
⇒屍者はこれがない。菌自体はあるが1種類しかない。その違いは何なのかが、最後のほうでうじゃうじゃ言ってること。
C:人は物事を決めるとき迷う。そんなとき、菌株が議論しているように書いているのかな。
屍者に注入された疑似霊素は1種類。でも生者が持つ菌類は複数あるから迷う、という。
G:マルチタスクとモノタスクの違い。
B:ワトソンはどうなった?
G:それは本人にしかわからない。観測者となったのが同じ菌株を持っているフライデー。個人的にはこの、もやもや感が好き。

【書き方について①】
C:ハダリーがなぜ屍者を操れる? 
G:ハダリーは人為的に作られているから(ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』)。
C:説明が入っていない。あからさまな説明じゃなくていいから、せめてヒントがあれば。読み返して「そうだったんだな」と納得できるようなものがほしかった。
ハダリーが人造人間であると示されていない。ひと言、「エジソンが作ったアンドロイド」だと書いていたらよかった。私はたまたま『未来のイヴ』のあらすじを知っていたから予測がついたが。
G:説明不足というか、「このキャラクターはここで繋がっている。興味ある人は調べて」というリンクテキストみたいな感じかな。
F:そういえば276Pに「ハダリーの氷のような唇」って書いていた。なんでだろうと思ったけど、今わかりました(笑)。
リンクテキストの件、私はサブカルチャーに触れてたから違和感はないですね。ゲームなんかでは元ネタがあるキャラクターがたくさん出てくるんですが、その元ネタを調べて二次創作をするのが楽しい。衒学的なのにも慣れてる。90年代後半からゼロ年代サブカルはそんな感じだった。
読んで、ただ一人で完結するんじゃなく、「みんなで楽しんでね」ということかも。ネットで考察したり、読書会で話し合ったりして。実際、私も「氷のような唇」の意味を皆さんの話を聞いて気づいた。
G:確かに、そういう読み方は排除できない。サブカルといえば、90年代のライトノベルで、全部の文章にルビを振っているものがあった[注4]。
B:ワードだけ散らしておく、みたいな。セカイ系のにおいがする(「セカイ系」って何にでも通用するマジックワードだという気もするけれど)。ハダリーにとってワトソンは交換可能であるところとか。
F:セカイ系といえば『新世紀エヴァンゲリオン』とか、何と戦っているのかわからない。いろいろ思わせぶりに出てくるけれど。『最終兵器彼女』も、何で戦争しているのかわからない。
C:実際の戦争もそんなものですよ。
E:ジブリ映画の『ハウルの動く城』も何の戦争か説明がなかった。
B:作品では、政治的なことや細かいことを書かず、戦争のヒロイックな部分だけを描くことができる。感動的だったり、悲劇的だったり。

【書き方について②】
C:円城塔のスタイル、英語を透かして読めるというのも試みとしては面白いが、やはり伊藤計劃に書いてほしかった。
E:虐殺器官』や『ハーモニー』が面白かったから余計に。
G:私の感触として、伊藤計劃円城塔、どちらもわかりにくいとは思わない。
C:物語が入り組んでいるのもあるが、この作品は省略も多いから余計にわかりづらい。固有名詞が人名なのか組織名なのか判断がつかないということも。
また、描写の意味がわかるまで間が空く。110P「馬車の中には――わたしは自分が目にしたものを信じられない。」とあるが何を見たかわからず、10ページくらいそのまま。(戦場に似つかわしくない)ハダリーが乗っていた、ということなのだろうが、間に違う話を混ぜられてしまうとわかりづらい。
F:私、それ「巧いなぁ」って思った。
C:「巧いな」って思うのは、自分で小説を書いているから。小説を書いていない読者にとってはどうか。
G:19世紀くらいの小説ってすごく伏線が張られていて、それを模している。
C:読者に対してフレンドリーではない。読者に対するフレンドリーさはリーダビリティとも言える。気づいていない伏線があるかも。見つけられていたら「巧いな」と思うけれど、見つからなかったらアウトではないか。
112P、クラソートキンの「美しいな」という台詞も、何が美しいのかわからない。
B:私はあの場面、いいと思った。クラソートキンは戦場を「美しい」という人物だとわかって。クラソートキンが何を美しいと思ったのか、問題にすることはない。
G:屍者の存在が「美しい」ということかな。
C:短編ならいいんだけど、500Pある作品だと脈絡が浮かんでこないとしんどい。
G:個人的にはそういうもやもやが好き。また読み返せる、って。『屍者の帝国』は今回で5回目。1回で終わらないのがいい。読んでいて、リズムや触覚を脳に感じる。
C:それはいいんだけど、わかりにくいものは1種類にしてほしい。説明不足のわかりにくさ、菌株のわかりにくさ、物語のわかりにくさ、3つのわかりづらさが組み合わさってしまって。
G:その組み合わせが面白い。
E:平行線ですよね。お二人の読書に対する姿勢が違うから。向いている人と向いていない人がいる。
C:納得性のいくものか解析したい人、早くページの先へ進みたい人……
G:解析するのが楽しい人。
B:私は、他人の会話が明瞭でないことも含めてリアルだな、と。自分で書くときはちゃんと繋がるように書くけれど。
F:現実の会話は噛み合ってないですよね。エンタメ作品の会話は論理的になってる。
E:この作品の受け取り方は年代によって違いがありますね。肯定的なのは相対的に若い世代(参加者G、B、F…年齢順)。
F:触れてきたカルチャーの違いですかね。

【他の作品からの引用や、「遊び」について】
B:1ヵ所、明らかにアニメからの引用があった。「下着ではないから恥ずかしくない」(187P、バーナビーの台詞)の元ネタは「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」(アニメ『ストライクウィッチーズ』の販促キャンペーンの名称およびキャッチコピー)。他にもアニメからの引用があるのかな。
G:出版社的なサービス。アニメ化のとき、どの出版社に持っていくか一悶着あった。
C:(『風と共に去りぬ』の)レット・バトラーは登場する意味があったのか。レット・バトラーじゃなくてもいいし、いなくてもいい。
大村益次郎肖像画はおでこが大きい。確かに何かを埋め込んでいるみたいだから使ったと思うのだが、そこを除けば彼もいらないかな。意味ありげに出すんじゃなくて、遊びの部分ははっきりそうだとわかるようにしてほしい。
G:無駄なものや余剰を好んで入れている。名前は出てくるけど意味はない。アララトとかイルミナティとか。私は、本質はどこかと探しながら読む変な遊びも好き。
C:たとえば今の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。遊びが視聴者に伝わってきて笑える。どこが遊びか伝わってきたほうが面白い。エンターテイメント作品はそっちのほうがいいかな。私は、知っていて初めて楽しめる。カラマーゾフが出てきたところで遊びが入っていると気づくべきなのかもしれないけれど。
G:「知らなかったな」と思って楽しむ読み方もある。サブカルチャーの世界の、その種の軽いノリを感じる。遊びが楽しい。ここから先の二次創作の余地を残している。

<注釈(Gさんから頂いた補填資料より)>
[注1]生成文法についてざっくりというと、このような感じ:
人類には、SVO(主語・動詞・目的語)、 SOV (主語・目的語・動詞)、 VSO(動詞・主語・目的語)のようにいくつか語順パターン体系(統語の体系)、そして、表現の体系をもった言語があるが、どのような言語の話者であっても共通して、意味を伝えるための言語の文法体系を生来持っているという説です。
具体的な例:ブロークンな英語(例えば、アフリカの言語が母語だが英語を片言で母語とチャンポンで話すような)しか話せない話者を両親としてもつ子供がいたとして、その子供は両親のブロークンな表現の影響を受けつつも、それなりに体系的に整った文法体系を自分の意識の中に取り込み、相応に洗練された言語を獲得し、解するようになる。
→いわゆる植民地のクレオール語などはこういう経緯で誕生しています。

[注2]「死者の帝国」の警句の英文について
“Good old Watson! You are the one fixed point in a changing age. There’s an east wind all the same, such a wind as never blew on England yet. It will be cold and bitter, and a good many of us may wither before its blast. But it’s God’s own wind none the less, and a cleaner, better, stronger land will lie in the sunshine when the storm has cleared. Start her up, Watson, for it’s time that we were on our way.” 
                                                   
His Last Bow      John H. Watson, M.D. 

まず、比較的一般的に良く知られた訳を記しておきます。これ自体はホームズシリーズの「最後の挨拶」というタイトルからの引用だったと思います。(His Last Bowはそれを指します。)

古き友ワトソン。君は何年たってもまるで変わらないな。それでもなお、イングランドには未だ吹かない東風が吹いている。冷たく、厳しいものになるだろう。善良なる我々の多くはその風の前にひとたまりもないだろう。しかし、それでも神の御意志というものだ。清らかでより良く、頑強な大地が、嵐がやむころには広がっているだろうと思う。車のエンジンをかけておいてくれワトソン。出発の時間だ。

ざっくばらんに言うとこのような感じです。タイトルを検索すれば、もう少し善良な日本語での翻訳はあると思います。ちなみに、最後のHis Last Bow(最後の挨拶)は出典作品タイトル、John H. Watsonは書名、M.D.(Doctor of Medicine)は医学博士の学位の略号です。(これがあると主に内科医の資格を持ってることが示されます。外科医は別の学位、肩書が使われることが多いです。)当時の慣例上、名前のあとに身分や肩書のある人はこのような書き方で記載があります。
詳細は最近出た、次の資料に詳しいです。英国の階級や社交慣例の英語の本で、著者は英文学会の重鎮です。寄宿学校や英国の風俗研究、英文学絡みの著書があります。
新井潤美『英語の階級: 執事は「上流の英語」を話すのか?』講談社 2022年

•個人的に物語の何らかの関係があると思われる点→以下は個人的な見解と英語読解のようなものです。
特に最初の以下の文が意味深なような気がします
You are the one fixed point in a changing age.
普通の訳では、あなたはthe one fixed in a changing age、つまりどんなに時間がたっても変わらない、相変わらずというものですが、英語を分解するとちょっと気になる点もあります。
英語の構造的には
the one 人物の代名詞 あの者
後ろのfixed point in a changing ageは過去分詞の形容詞的な用法でthe one に後ろからかかります。(なので、和訳の時は後ろから解読した方が良いというやつです。)
まずfixed ですが、このfixは固定する、修理する、定着するなどの意があり、過去分詞の形を取ると、受け身の意味が発生して、固定された、定着させられたなどの意味になります。
そしてさらに後方の point in changing age ですが、これは変わり行く時に、時代にという意味となります。(厳密には変わり行く時代のある点)
ここまでを整理すると the one fixed point in a changing age は変わり行く時代の流れの中で固定されたもの、定着させられたものという意味になります。ここから普通は意訳して「あなたは相変わらずですね」「かわらないですね」という意味となりますが、私はこの辺りを英文が気になって、恐らくthe oneは劇中のザ・ワンともかかっていて、それでいてかつ、fixの定着した、固定などの意味を少し汲んで、次のように解してもいいんじゃないかと思っています。
You are the one fixed point in a changing age. 
あなたは流れ行く時代のなかで固定化された(定着させられた)ものだ。
おそらく最後の死者のプログラムのインストールによる書き換えがここに反映するのではないかと思っています。(もちろん、本来の意味とのダブルミーニングです。)

[注3]補足:『ハーモニー』の話の中では、人間の意識は、宗教的、神話的な話とともに定義されがちな概念とは違って、物理的な脳の発展に伴って出来上がって来たという話になっている。ネタバレを避けるためにグレーな書き方をしますが、簡単に言うと、脳内の複数の電気信号や刺激物質の流通が対立、交錯することによって人間が魂や意識と考えるものが成立しているという話です。逆に言うと、複数の信号や物質の錯綜や葛藤、流通が脳内に存在しなくなれば、意識というのは基本的には存在し得ないという話です。これは今回の作品の菌株の多様性が意識を生成するという話と接続性をもっているという形です。

[注4]これにはいくつか候補があるんですが、このとき想定してたのはちょっと古いラノベで次のものになります。厳密には全部ではなくて、キャラクターの台詞でした。それでも量としては膨大でした。
吉田直トリニティ・ブラッド Reborn on the Mars Ⅲ 夜の女皇』(2002年 角川書店
アニメ化もされた作品で、作中でルーマニア語公用語の国に主人公が潜入する話があるのですが、そこで使われる台詞の多くには日本語の台詞にルーマニア語のカタカナ表記が使用されています。出版当時はろくな学習書がなく、専門書や洋書を当たらないと難しいものだったので、表記を見た時は非常に画期的だった印象があります。改めて今見ると、とくに間違いも目立ってないのもすごいところ。
シリーズものなのですが、基本的に専門用語や大事な用語には日本語表記と同時に、何かしらの外国語が当てられていました。ヨーロッパが舞台だったので、場面場面にそった各国語か古典のラテン語だった記憶をしています。
※ちなみにこの作品は未完。途中で作者が急逝したためです。その点ではちょっと伊藤計劃と近いものがあるかもしれません。内容もわりと込み入ったあたりで共通性があったかもしれません。

『雪国』川端康成

R読書会 2022.03.21
【テキスト】『雪国』川端康成(出版社の指定なし) 
【参加人数】9名
※オンラインでなく対面形式でした。

<推薦の理由(参加者A)>
◆日本文学の中では有名な作品。読書会に際して改めて読み直し、非常に勉強になった。
◆再読して印象に残ったのは駒子ではなく葉子。ページを開くと、まず葉子が出てくる。「悲しいほど美しい声」から先に登場し、「涼しく刺すような娘の美しさ」と続く。それに惹かれて読み進んだ。最終的に葉子は亡くなってしまうのだが、彼女が島村をどう思っていたのか、作中では書かれていない。駒子は「やきもち焼き」と評しているから、葉子は島村をとても気にしているのでは。「東京に連れていって」とまで言ってしまう。三つ巴の三角関係になるのかと思ったら、そうはならなくて驚かされる。
◆表現がびっくりするほど美しい。重要な場面では文章に技巧を凝らしている。
例:
*葉子との出会いの場面。窓に夕景色が映り、葉子が映る。評論家によると、当時の映画でそのような技巧があり、それを小説に取り入れたのだそうだ。
*駒子が三味線を弾く場面。音を文章で表すのは難しいが読者に訴えかけてくる。
*葉子と対面する場面。尿瓶を持って出てくるところも技巧的。
*ほか、雪国の生活や暮らしの描写に、しっかり手をかけている。
◆葉子を書きたいのかと思ったら駒子も入念に描写されており、島村が駒子と心を通わせる理由が納得できた。
◆駒子はどうして行男の話になると拒否反応を示したのかがわからない。申し訳ないと思ったのか、お師匠さんのことがあったのか……。皆さんに教えていただきたい。

<参加者B>
◆1年ほど前、文学学校のチューターから「洗練されていて非常にいい」と教えていただいて読んだ。チューターは、冒頭から2文目「夜の底が白くなった。」という表現をしきりに褒められていた。今回、読書会があるので再読した。
◆表現は洗練されているがストーリーらしいストーリーはない。お金に余裕のある中年男が芸者を揚げて遊んでいるだけ。なぜノーベル賞作家なのか、ノーベル賞を受賞できるような作品なのか、いまひとつわからない。
G:島村って中年なんですかね?
H:太っているとは書いていますね。
D:中年とは書いていないけど、子どもはいる。
◆文章力があるから読ませるけど、ストーリー的には大したことは書いていない。また、芸者という立場がピンとこなかった。
F:体を売ることが前提にはなっていないようですね。そこまでひどい目で見られていない。
D:でも、売られて来るんですよ。駒子も15歳で東京に売られ、受け出された。
G:伊豆の踊子』では、宿屋の女将さんが旅芸人に差別的なことを言っていた。
F:旅芸人は低く見られますね。
G:でも芸者である駒子には選ぶ権利がある。
F:そこが突きにくい。遊郭とかではなく、宴会に伴う音曲の人とたまたまいい仲になって、一晩過ごしてもいいよ、というような感じ。
I:必ずしもアフターに行くわけではない。
C:「線香代」と言っていたから遊郭の流れは汲んでいる。たぶん1時間あたりいくらと決まっている。そういう言葉がちらちらと入っているから相場はあると読み取れる。
◆一番興味をそそるのは葉子。精神的に脆そうに描かれていたので自分で火をつけたのかと思ったが、そうではない。死ぬところが綺麗に書かれている。それで作品が締まった。
駒子と切れたことを示唆しているのも巧い。
◆『雪国』も好きだが『伊豆の踊子』も好き。嫌味がない。文章もやわらかく魅力がある。

<参加者C>
川端康成は高校3年~大学1年くらいのときハマって読んでいたが覚えていなかった。読み返して「エロい。こんないやらしいの読んでたんだ」とわかった(笑)。角川文庫10P「この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている」など。高校のときの自分に、どうして好きだったのか聞いてみたい。
◆表現が綺麗。表現に魅了されて読んだんだと思う。

<参加者D>
◆(私も)ヨウコです(笑)。ドキドキしながら読んだんですが(笑)。
川端康成といえば『雪国』。読んでいたはずだけど記憶になく、初めてみたいな感じで読んだ。三十歳くらいの無為徒食の男がトンネルを抜けたら、地獄のような異国の地で。住んでいる人たちにとっては逃げられない世界。そこへ、ぶらぶらした男がやってくる。
◆男性がどう感じるか聞いてみたい。
島村が葉子をガラス越しに見るとか変態じゃん、と思った。汽車で欲情していて気持ち悪いし、ありえない。女性を(駒子も含め)そういう目で見ている。
駒子とは出会ってから3年。彼女は北国の芸者で、逃げようにも逃げられない中、必死に生きている。彼女と島村には、近づきたくても近づけない階級の差がある。ぶらぶらしている男に、15歳で売られた駒子の境遇がわかるわけない。
◆終わり方が素晴らしい。駒子と2人で葉子のもとへ行こうとしたら島村は男に押し退けられる。お前なんか来るんじゃないよ、と。
◆描写が綺麗。日本語ならではの描写。すごい、そんな描写があるんだと思った。わかりやすく浮かんでくる。何ヵ所も書き写した。これがノーベル賞(を受賞する力)なんだろうな、と。
◆今行っている小説の学校で、モチーフとコンセプトとテーマを分けて考えろと言われた。書くにしろ読むにしろ、それを分析しろ、と。
*モチーフ…物語を展開していくアイテム、コンセプト…モチーフを使ってどう展開していくか、テーマ…伝えたいこと
この作品でいうと、「モチーフ…雪国の芸者、コンセプト…徒労、テーマ…階級によって近づけない壁がある」だろうか? 皆さんの意見を聞いてみたい。
I:読む人によって、解釈が違う作品のほうがいい。
F:作者がそのつもりで作ったとしても、そのまま受け取られることは少ない。作り手が意図していなかった解釈で人気が出たりする。作り手としては戦略性を持っていたほうがいい。こう受け取られるから、こう持っていけば……という作戦を立てる材料になる。

<参加者E>
◆初めて読んだ。読書会がなければ読まずに死んだのではと思う。
◆読み始めて、島村の「指が覚えている」などに引いてしまった。ずんぐりむっくりして、生っ白い、ちょっと身勝手な男が芸者を揚げて、そういう話なのかと。男は本気ではなく、すぐ「徒労だ」と冷めている。この性格設定が効いているといえば効いている。
異世界を訪問する話(異郷訪問譚)。どこか冷めた傍観者的な男が、閉じられた世界で何かを経験する……と読めば面白い。
◆1965年公開の映画では、駒子を岩下志麻、島村を木村功、葉子を加賀まりこが演じている。雪に閉じられている狭い世界で女性が必死に暮らしているが、哀れという感じはしなかったのでよかった。この映画では、葉子は火事のときでなく、駒子に看病されながら死ぬ。なかなかいい映画だった。
C:葉子が加賀まりこってイメージと違うような。
E:エキセントリックなところが合ってましたよ。
I:加賀まりこ、出始めたときはフランス人形みたいでぴったりだな、と。
ちなみに4月に放送されるドラマでは島村を高橋一生、駒子を奈緒、葉子を森田望智が演じるそう。
G:島村は高橋一生くらいの年齢設定なんですね。
I:1957年の映画では八千草薫が葉子。
F:池部良の島村は品が良すぎる(笑)。
I:ちょっと甘いですよね。

<参加者F>
◆何年か前に読んだはずが記憶になく、読み直す機会があってよかった。
◆この当時、こんな感じの、売れない文人と芸者の交流を書くのが流行っていたのだろうか。志賀直哉『暗夜行路』とか。このころの小説の状況を知らない後の世の人間が読むと、なぜドラマチックでもない情景を書いているのかわからないと思う。
谷崎潤一郎のような、しっかりした物語がある物語小説とはジャンルが違う。小説はストーリーを読むものと思っている人には非常に苦痛な作品。伏線は回収しているのか、など物語小説として見ると不十分。
◆最初、長編にするつもりはなくて、雑誌掲載時は別のタイトルがついていた。そのままのほうがわかりやすいのでは。本文で4行空きになっているところが境目だろうか。せめて章番号をつけてほしいと思うが、つけないのが川端康成の美意識なのかな。
◆窓外の女が得も言われぬ美しさだった、とか、それを書きたかったのだと思う。
◆ある程度セクシーな要素がないと文章は美しくならない。当時としては抑えて、相当品よく書いていると感じる。
◆「ストーリーがないので漫画化できるのか?」と思って調べたら漫画があった。島村がイケメンで、内容も上手に描かれているなと思った。

<参加者G>
ノーベル賞を受賞し、素晴らしいと言われている文学。夜空の描写、儚い蛾の描写など、近い将来を暗示させるように、綺麗な文章で表現していく。文章の美しさが評価されたのだろうか。
◆鋭くて感じやすい魂を、詩的に抒情的に表現している研ぎ澄まされた文章。女性の色気だったり、甘さだったり、切なさだったり、(書き手として)敵わないと思った。
◆最初は読みにくい。会話が噛み合わなかったり、場面が転換したり。読み進めるうちに世界観に入っていけた。中盤(角川文庫P50~)からいい表現があって引き込まれた。
◆テーマは何なのかと考えたとき、昭和初期に書かれて読者は男性だったのではと思った。
皆さんは地獄と仰ったが、私は桃源郷だと感じる。性の表現はそこそこに抑えながら男女の美しさを描くという商業的テーマがあるのでは。男性読者に「こういう宿があれば行ってみたい」と思わせる、甘美な世界観が作られたのかもしれない。
I:男のロマンみたいな。
◆人物で思ったのは駒子の素敵さ、というか強かさ。島村から見ると「都合のいい女」と言われるが、駒子から見ると島村は「金を持っている、いい鴨」なのではないか。上客を持って生き抜く強さ・美しさを感じた。
◆駒子も行男が好きだったのでは。島村なんか論外(ただの客)。だから行男のことに島村が介入してくるのが嫌だったのかもしれない。
島村がどこか離れて徒労感を感じていたのは、駒子が自分のものにならないのに気づいていたからではないか。島村はそのうちに駒子を好きになったのでは。
男が読むのに都合よく書いてあるけど幻想的で美しい。
若いころ、水商売の女性に入れ上げて散財した過去を思い出して切なくなった。純愛だと思っていたのだけど(笑)。
C:純愛だと思っていたのはGさんだけかも。
(一同笑)

<参加者H>
◆文章がとにかく美しくて引き込まれた。味わいながら読んだのだけど、意味の取りづらいところや、少し先を読んで「さっきのあれはそういうことか」とわかった部分もあった。ただ、全体的に読みづらいわけではない。
◆美しく逞しく描かれている女性に対し、島村は細かく書き込まれておらず、駒子と葉子を浮かび上がらせるための人物だと思った。三角関係ではなく、駒子と葉子を書きたかったのだな、と。個人的には島村しょーもないな、と思った。
◆でも、葉子の内面についてはわからない。
◆火事になって、まだ中に人がいると読んだとき、葉子がいるんだと直感的に思った。物語をまとめにきたな、と。
◆雪国は異世界のような場所で島村は異邦人。いずれ帰っていくと決まっている。
◆私は「指が覚えている」というところは気持ち悪かったが、ネットでいろいろな方の感想を見ると「素敵」と書いている人もいて、感じ方は人それぞれだなと思った。

<参加者A(推薦者)>
[事前のレジュメより]
≪葉子が気になって仕方ない≫
 この小説の結末は壮絶です。葉子が活動写真を観に行って、火事に巻き込まれ犠牲になってしまいます。冒頭で印象的な出会いをする二人ですが、結末も読者にとってどきっとします。
 火事に遭う何日か前、二人は「東京へ行くので一緒に連れて行って」と葉子が頼むような仲になっていました。島村と駒子、葉子の三角関係の要素が濃くなっていたので、島村は駒子から葉子へ乗り換えるのかな、と思いながら読み進めていたのです。この結末、どたばたと物語をおしまいにして、つまらないと思いました。葉子は駒子をより純化した美しさをもつ女性として描かれているので、このような結末はもったいないです。(言い過ぎかな)
≪重要場面は文章に技巧を凝らした表現をしている≫
 ①葉子と出会う冒頭(P8~P9)
  窓ガラスが鏡の役割をして夕景色に葉子の表情が二重写しになる表現
 ②駒子が三味線「勧進帳」の曲を弾く場面 →P61~P71
 ③葉子と対面する場面、結末
 ④雪国の生活・暮らしを描写する場面
  はぜに稲をかける場面、萱の描写、紅葉を門口に飾る場面、
  麻の縮について触れる場面など
※ある評論家が、新感覚派の表現方法の特徴は、擬人法や映画的手法を多用したことだと述べていました。美文がぞくぞく登場するこの作品、なるほどと思いました。これが彼らの主張だったのでしょう。
≪島村と駒子が心を通わす様子が細やかに描かれている≫
 島村が歌舞伎や日本舞踊、三味線に精通しているので、駒子が彼に惹かれていくのは自然に感じた。彼女が美しいだけでなく、純粋で自由な人物であること、それが魅力だった。
≪駒子が行男と関わるのを頑なに拒否する理由が分からなかった≫
 行男の話になると、棘のある言葉を発する駒子。芸者になってまで彼の医療費を負担した彼女が、なぜ世間の噂を気にするのだろう。読みが浅い証拠なんでしょうが、そこが分かりませんでした。島村への遠慮があるのでしょうか。

[以下、読書会にて参加者Aの発言]
(皆さんの発言を聞いて)葉子と駒子の関係や、行男とのことを口にすると嫌がられるのはわかる。Gさんの「男にとっての桃源郷を書いた」という意見。言われてみれば、(作中の雪国で)暮らしてみたいかな。自分の奥さんにないものを求めてふらふらしたい、みたいな。だからGさんの意見にビクッとした。
B:現代だったら不倫だと叩かれますね……。

<フリートーク
【描写の美しさについて】
B:川端康成の最高傑作なのかな。
I:ノーベル文学賞は作品ではなく作者に与えられる。この作品が評価されたのかな、とかはあるけれど。
川端康成が受賞したときの「美しい日本の私」(※授賞記念講演の演説より)といった言葉はどこに掛かっているのか。
C:選考委員は訳された作品を読むんですよね。これを訳されたとき、日本語ではどうなっているのかわかるのかな。
I:作品が優れていればいるほど訳も優れている。一見良さそうに見えても、訳してみたら駄作ということもある。
G:雪国の風景描写が美しくて。フランス映画でありそう。『髪結いの亭主』とか。
C:「雪晒し」を見たことはないが、これがどんなふうに美しいかわかる(角川文庫P155)。それは英文で読んだ人でも同じだと思う。

【「目」としての存在である島村について】
A:私には島村が淡白な男に見える。
C:それがすごくいやらしい。
I:色っぽいけどいやらしくはない。
F:冷めた目で書いていますよね。でも、女性の唇を「蛭」っていやらしいなと思う。
会話がキャッチボールになっていない部分にリアリティーを感じる。
A:私もそう思った。噛み合っていないのがいい。
F:島村は思っていることの1・2割しか言わない。駒子も本心は明かさない。行男とのことなど、読者が知りたいことも明かされない。
物語小説なら会話の7・8割は通じている。そのような物語小説的なリアリティーをリアルだと思いがちだが、本当はこちらのほうがリアルなのでは。それが読みどころ。
ただ、それにしても、もうちょっと知りたいと思う。知りたいけど知ることができないまま過ぎていくのは徒労。それを書いたのだろうか。
I:川端康成はクラブに行くと女性を目で口説いたそう。とにかく気に入った女性を見つめた。そうすると女性は落ちる。口数が少なく、じーっと見るから女性が参ってしまう。三島由紀夫が嫉妬したくらい。
島村は「目」としての存在。目と耳、感覚だけの存在。
放蕩息子のおじさんの話かと思って読んだが勉強になった。小説と文学の違いを見せつけられた。

【ストーリーについて、あるいは駒子と葉子の同一性について】
I:ストーリーがあると言えばある、ないと言えばない。自分の概念を言葉にするために、彫刻のように削っている。覚悟みたいな、迫ってくるものを感じた。一文字たりとも無駄がない。作者は、この情報量・この分量にしたかった。
何を伝えたかったのだろう。「美」や「徒労」?
私も高校時代に読んだと思うけれど覚えがない。美やエロスは、読んで味わうことはできても残らない。ストーリーでどんでん返しがあったとか、犯人はこの人だ、とかなら覚えられるが。
C:でも惹かれますよね。言葉で概念を構築するのは大変なこと。私は、葉子は死んでいないと思う。
流れているサブテーマとして、葉子と駒子の友情がある。男が思っているほど女は男に惚れておらず、駒子は葉子を守ろうとしており、女同士で連帯している。駒子は葉子を介護して余生を終えるだろうと解釈している人もいる。駒子と葉子の関係性は明かさないでおきたかったのでは。
I:「トンネルを抜けると雪国であった」、ここから始まる異次元に、なぜ島村は惹きつけられたのか。この物語は新橋の芸者では成立しない。異次元に咲いていて、三味線も上手くて。こんなところに美しい花が……という驚きが島村にはあった。
D:雪国という閉鎖的な設定がいい。舞台が南国ではだめ。ハワイだったら違う。
駒子はたくさん本を読んでいて、外の世界があることを知っているけれど、それを羨むことがない。
ところで、これといった事件は起きないのは、現代の小説の展開の仕方と比較してどうなのだろう。
B:現代の人が読んだらびっくりするかも。
G:現代の小説では、もっとロジックとか伏線とか、しっかりしていないと。
F:現代だと、行男と3人の関係が明らかにならないといけない。
I:これは一人ひとりのアイデンティティーではなく雪国のイデア。各々のアイデンティティーが癒着している。現代みたいに個人として生きているわけではない。
C:駒子と葉子は一つ。
I:割と重なり合うところがある。島村は窓に映り込む葉子(影、shadow)に惹かれた。計算されている。
F:一人の人間の裏と表に惹かれた。人に会うときは駒子だけど、裏では葉子。最初は窓の幻影として現れるが、映画館の消失とともに消えていく。構成として整っている。
読んでいて思ったのは、「何でも明け透けに語り合える女がいて、彼女とは別の、影があって自分に振り向きそうな女に惹かれる」って『新世紀エヴァンゲリオン』じゃん、男って結局こうかよ、と(笑)。男の夢と幻想がてんこ盛りになっている。
D:男の悲しい性だわ、と(笑)。
F:駒子と葉子は、『エヴァ』のアスカとレイより、もっと近くて。島村って、今で言えば「百合に挟まる男」ってやつで。女の子の間に挟まる無粋な男。島村は最初からのけものだったんだ、と。
G:悲しい……(笑)。
I:Gさん、島村になってます(笑)。

<後日、チャットワークでGさんが共有してくださった記事>
川端康成の「雪国」異なる展開も構想か 残されていた創作メモ(NHK 2022年4月1日掲載)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220401/k10013562811000.html
------以下、引用------

最後は火事の明かりの中で、主人公が流れ落ちてくるような「天の河」を見上げる場面で終わりますが、今回のメモには「狂つた葉子、駒子のために島村を殺さんとす」と記された部分があり、川端が主人公を巻き込んだ修羅場を構想していたこともうかがえます。

------以上、引用------

川端康成『雪国』のヒロインには実在のモデルがいた 川端から送られた生原稿を焼き捨てた元芸者の思いとは(Book Bang編集部 2022年4月16日 掲載)
https://www.bookbang.jp/article/730365

------以下、引用------

ヒロイン・駒子のモデルは湯沢町の芸者だった 夫が語った『雪国』の真実
 モデルとなったのは小高(こたか)キクさん(1999年1月、83歳で没)。1915(大正4)年、新潟県に生まれた彼女は10人きょうだいの長女。家は貧しく長岡へ芸者奉公に出され、湯沢町に落ち着いたのは1932(昭和7)年のことだった。
 一方、1899(明治32)年生まれの川端は、すでに『伊豆の踊子』を発表し好評を博していた。芥川龍之介梶井基次郎小林秀雄らと交流する文学界のホープだった。
 その川端が執筆のために湯沢を訪れ、温泉芸者をしていたキクさんと出会う。川端35歳、キクさん19歳。1934(昭和9)年のことだ。二人の関係は深まり、その後、川端は数度にわたり湯沢を訪問。『雪国』の断章を発表することになる。
 いってみれば彼女は、『雪国』への貢献度ナンバー1の存在だ。
(中略)
 そうなると、どこまでが「モデル」なのか。そもそも許可を得て書いたのか。現代ならば「プライバシーの流出問題」が取りざたされそうな話なのだが……。
 じつは彼女は、小説のモデルになっているとは思いもしなかったようだ。作品発表後、初めてそれを周りから指摘されて知ったのである。
「相当、癇に障ったようです」(久雄氏)
 その後、川端からは詫び状と第一回目の生原稿が送られてきたものの、芸者をやめる時、日記などと一緒に全部、焼き捨ててしまったという。
「湯沢を出る時に持っていたのは、本だけでした」(久雄氏)
(後略)

------以上、引用------

G:雪国のニュース、最近多い。再び注目されてるのでしょうかね。
欠席だったメンバー:私も昨日、そう思っていました。NHKの昨日の番組もすごく多かったです。日本初のノーベル文学賞作家の没後50年だからでは?

『パラソルでパラシュート』一穂ミチ(講談社)

Zoom読書会 2022.02.26
【テキスト】『パラソルでパラシュート』一穂ミチ講談社
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者G)>
Zoom読書会では、男性作家の手による、現代以外や海外舞台の作品が続いていたので、たまには女性作家が書いた(作者の性別はあまり関係ないかもしれないが)現代日本が舞台の作品を取り上げてもいいかなと推薦した。舞台は大阪なので、関西近郊に住む私たちには想像しやすいだろう。
一穂ミチさんは、私が「こんな文章を書きたい」と憧れている人の一人。綺麗な描写がたくさんあって、でも登場人物の設定がすんなり入ってきて、すらすら読めるというのはとても巧いからだろう。過去作はほとんど読んでいたが、推薦した時点で『パラソルでパラシュート』は未読。しかし、この作者なら大丈夫という安心感があった。
直木賞の候補になった短編集『スモールワールズ』は、ミステリー風などわかりやすい起承転結がある作品が多かったけれど、この作品はまた違うタッチでよかった。あと、帯の煽り文とはイメージが違った。
合う/合わないはあっても、巧い作品なので書き方の参考になればと思う。

<参加者A>
◆さっき読み終えた。図書館で借りようとしたら20件~30件待ちで、ネットで購入したところ届くのが遅かったので。
◆読みやすく面白かった。文章や表現も巧い。自分では手に取ることがないだろうし、そうするとこの作者を知ることはなかったので、読書会に向け読めてよかった。
◆物語の舞台の一つであるシェアハウスは、南海電鉄汐見橋線沿線の木津川駅汐見橋線に乗ったことはないが、汐見橋駅の近くに大阪市立図書館があり、車でよく行く。知っている地名が背景にあると想像しやすい。大阪の街を知っているので非常に楽しかった。
◆主人公が作品に合ったキャラクター。感受性が豊かで、芸人相手に反射神経もある。主人公として申し分ない。おっとりして、ボケてていいキャラを作ったなと思う。
◆芸人世界の丁々発止のやりとりが巧く書かれている。素人と芸人の違いがよく出ている。芸人の感覚は独特で、そう簡単にはなれない。素人が面白いことをしようとすると笑わせようというのが前面に出てしまう・芸人の芸とは全然違う、というのがよく書き込まれている。芸人を描くために素人の視点を選んだのだろうか。
◆登場するのは、一線で活躍しているギラギラした芸人ではなく売れない芸人。又吉直樹『火花』も売れない芸人の話だが、そういう世界しか小説にならないのだろうか? 一線で活躍している芸人は作品にできないのか? そこでもうひとつ何かあってよかったのでは。
◆謎という謎はなく、最後まで読み終えて「よかったな」という感じ。
◆夏子の正体が何なのかが一つの謎掛けになっており、コントネタに絡んでいて、巧く扱っている。
◆コントのネタがいくつも出てきて、よく書けている。しっかり書き込んでいるのがすごい。作者には、もともと素養があったのだろうか。

<参加者B>
◆最初、ふわっとした恋愛ものかと思って読み進めたらそんなことはなかった。25%のところでワイン飲んでチーズ食べてセックスするんだろ、みたいな偏見があったので。
◆コントのネタが書き込まれており、大変な作業量。私だったらやらないなと思う。
現代社会で生きる者がしがみついている、いろいろなパラシュート。生きづらさを、ふわっとシビアに嫌味なく書いている。現代は、告発調で書いたら読者に受け入れられにくいのだろう。女性の生きにくさが描かれているが、経済的に自活しなければいけない雰囲気は、男性である私自身身につまされる。
◆恋愛ものかと思ったら、ちょっと変わった人たちが暮らす家の話だった。切実だが、悪人はあまり出てこない。コミュニティが救いになる、こういう作品を読みたい人もいる。人間のコミュニティは現代において解体されがちだから受けるのだろう。
◆リフレインが効果的。ラスト、あべのハルカスで、大阪城ホールでの靴擦れや、弓彦の自転車に乗ったことを思い出したり。
◆大阪には以前住んでいたので懐かしくなった。汐見橋駅は聞いたことはあるけれど、どんなエリアか思い浮かばない。複雑な都市だったと思う。
◆あまり語らないけれど印象的なシーンでキャラクターを浮かび上がらせている(浅田さんなど)。弓彦だけ掴みにくい。彼だけ地に足がついていない印象。話を運ぶ役目だからかもしれないが。

<参加者C>
◆こういう設定でいくか、ありきたりだと思って読んでいくと、ありきたりな展開じゃなくなっていく。会話が多く文章が読みやすい。辛子が利いている。くすっと笑えるところもあった。
◆私の世代は恋愛至上主義。恋愛して、結婚して子どもを作る、みたいな生き方がいいとされていた。30歳までに結婚して、親の介護をして……。レールから外れると後ろ指を指されるような風潮だった。
だから、この作品に出てくるような生き方(恋愛にもならず、三角関係にもならず、コミュニティの中で生きていく、というふうな)がすごくいいなぁと思うようになった。親の介護も、今は公の機関があるし。
◆程よく貧しく、なんとか食べていって、毎日面白いことを考えて生きていく。将来のことを考えない生き方はいいなぁ、と思う。
◆定型的ではない人間関係が新しく生まれてくる。恋愛でもないし、三角関係で争うわけじゃない、なんとなく一緒に生きていきましょう、という柔らかな関係。
◆実際にはパラソルではパラシュートのように降りられない。計画性のある人生を歩む人からしたら、「じゃあ将来どうするの?」となる。

<参加者D>
◆舞台になっている場所に、(読書会メンバーの中で)現在進行形で一番近いのは私じゃないかな。南海汐見橋線高野山方面へ行く列車は、現在では難波駅から発着するけれど、昔はあの辺りが起点だった。コアな大阪。
◆大枠としては、「比較的古い価値観ではあるが、まっとうな人生を送ってきたにも関わらずキャリアに行き詰まっている主人公の女性が、異なるカルチャーに触れて前進する物語」。主人公の内面が、刺激を受けて変わっていく。
◆メインは恋愛ではなく、連帯とか横の繋がり。
◆私はスタンダードに会社に入りたかったが失敗した人間なので、芸人の男の子の気持ちがわかる。入りたくて入ったわけじゃないけれどここにいる、というような。
◆個人的に気になったところ。「主人公・美雨は『夏子(亨の女装)』に惹かれていく。『夏子』の元ネタは亨が憧れていた義理の母親・葉月であり、亨は彼女を自分自身の姿に反映している」という複雑な設定。
美雨は「夏子」に惹かれて、その周囲の人々とも仲良くなっていくが、後半で「夏子」の元ネタとなった葉月が現れ、嫌悪感や嫉妬心のようなものを抱く。
 美雨:今までキャリアを積んできたが、この先どうなるかわからず気晴らしをしていた。
 葉月:想定されるコースで生きてきたが、行き詰まっている。
 ☆葉月に対して、「いや、あなたもっとやれたでしょう」と口に出さないが思っている。
  ⇒同族嫌悪。鏡に言うような構造。
  ある種、最初に惹かれた女装姿はある面で自分の延長線のようなもので、
  自分がひた隠しにしていた弱さを見て嫌悪⇒そこに核がある。
◆古典文学で三角関係というと、一人を二人で奪い合う。亨は秘めたる欲望を自分が女装することで解消している。ナルシシズムなど複雑な形で。
◆スタンダードな恋愛要素はないが、屈折した想いを感じられる意外な作品。
◆作中にもあったが、「パラシュート」で思い浮かぶのはメリー・ポピンズ。異邦人としてやってきて、引っかき回して、新たな秩序を吹き込んで帰っていく。
◆複雑で整理しきれていないが面白い作品。

<参加者E>
◆168Pまで読んだ。図書館では30人待ちだったのでネットで古本を買った。
◆同時進行で別の本を読んでおり、重い文体に傾いてしまったため読み切れなかった。
◆透明感がある。ドロドロはないが途中から面白くなった。恋愛が始まるかと思わせて、始まらないのがよかった。
汐見橋駅から韓国語の教室に行っていたことなどを思い出した。
私は主人公と同じくミナミが苦手で、ミナミの場面は現実感が湧かなかった。
◆(受付嬢の仕事を)30歳で切られるという部分にリアリティを感じなかった。私の学生時代の友人は卒業後、総合職に就いた人が多く、25歳で子どもを産むという人がほぼいなかった。また、その後に知り合った人たちは、無職やフリーターなどレールから外れている人ばかりだったので、「30歳で切られる受付嬢」は異次元的で不思議な感じがした。
◆私の息子は現在28歳と22歳。就職しているが、2人とも「ずっと同じところで働くことはない」と言っている。
主人公は29歳で、まだいろいろできるので、崖っぷちという感覚はない。受付嬢はそうなのかな。現代的な感覚ではないように思う。
◆ネバーくんが実家に帰る決断をしたのは潔くて好感が持てた。
折った5000円札をくれた先輩(栄作にいさん)のほうが現実を直視できていない。若い人はネバーくんのような感覚を持っているのかなと思った。
◆私の若いころにはシェアハウスがあまりなかった。若いころにあったら入っていた。芸人がシェアハウスをしているのは現代的。いろいろな価値観が混ざっていてパラレル。自分だと思いつかない新鮮な設定だった。

<参加者F(提出の感想)>
「芸人さん」の実生活とその内奥を描いたお話。社会的マイノリティの福音書という印象を持った。あるいは「いばしょ」の物語。自己表現が生活の糧に直結している人間やその生き様の困難さや崇高さがあざやかに描き出されている。何だかひとにやさしくしたくなる気分にさせる。
 この作品の登場人物たちは冒頭からラストまで、それから恐らく「今後」においても安定とは呼べない生活を送っており、一般に流布している「幸福」、はなばなしい「成功像」やだれもが焦がれる「理想像」とはほとんど無縁な日常を歩いているが、けれどもその内面はとてもゆたかで心地のいい充足感に満たされているように感じた。それは、作中のことばにもあったように、彼らが「自分に殉じて」生きているからだと強く思う。もちろん、社会に生きる多くのひとびとはだれだって自分というものに責任を負っているものだが、しかし、決まった時間決まった作業をこなすことで月々に安定した収入を得ていくタイプの人間たちと、ここに描き出されている人物たち――、固定化された時間や仕事への依存度が低い――、が「体感」している責任や覚悟の重みや苦しさはやはり質がちがうと思う。すくなくとも、後者は一歩間違えれば明日の飯に事欠いてしまうのだから。極端にいえば受動的な生き方と能動的な生き方のちがいがそこに現れていると思う。あるいは農耕か狩猟か。でも、毎日毎日ぎりぎりの生き方をしているからこそ、その人生はうつくしい輝きを放ってみえるんじゃないかと思う。安定して咲く造花の花は、やはり美とは無縁だと思うから。もちろんそれは「自分で選んで決めたことだから」という強靭で不屈な意志が反映されてはじめて成り立つ美なのだと思うけど。
 彼らはちゃんと生きている。じぶんの力で生きていこうとしているように思う。そこに、強い憧憬と感銘をおぼえた。「安全ピン」がひっそり放った希望のひかりはたしかにとても安らかだった。「本人たち以外にはとてもしょうもない奇跡」という文章には胸がつまる。また、大手企業の受付に容姿をみこまれ採用された主人公と、かのじょが負った「暗黙の制限」は、キャラクターバランスとして彼らと好対照を成しているだけでなく、「社会的マジョリティ」を表現する寓話的イメージとして、それから、直線的で切断的で虚栄的な現代への非難と虚しさを表すものとして巧みかつ闇が深い。その主人公が属する社会を浮彫のかたちで表現していく千冬というキャラもまたすてきな補足点だった。(浅野さんという、また別種の生き方を体現した支柱もよかった)傘をひろげて笑いながら落ちていく、という意味がこめられていると思う今作のタイトルは、他者よりも敏感に、そして切実に「生きづらさ」を感じているタイプの人間にはあたたかく穏やかな救済のメッセージがこめられているように思う。「ひとと違う生き方」を選択したものたちの深く強靭な絆の表現にもまた心を深くなぐさめられる。
 肌感覚の高い文章表現や描写もすばらしい。詩情もゆたかで目にあざやか。作品の主題を反映させるかのごとく、この作家さんは「じぶんのことば」で書いている、という印象がとても強い。「感じたものをそのまま描いた」ようなみずみずしい体感表現やじつにゆたかな色彩感覚、それから各種のリズミカルな擬音には胸がはげしくたかぶった。同時に、読み手の理解と共感を安定して維持するための客観的でクリアな語り口もみごとと思った。もしかしたら、この作者もまた、「じぶんのことば」の限界に息詰まり、大いに修練を積んだのかもしれない。亨が弓彦という客観視あるいは境界を得て自己表現の術に磨きをかけたように、やはりどんな世界でも、ひとりよがりの世界観では生活が成り立たないのだろうと痛感。
 プロットとしてもっとも効果的に思えたのは「ぐるぐるさん」の存在だった。彼がはらんだモチーフはさまざまに解釈されておもしろい。亨の本音が「ぐるぐるさん」をとおして美雨をつつむ一夜のシーンには肌がふるえた。涙さえ出そうになった。ポール・ギャリコの『七つの人形の恋物語』を彷彿。大阪弁で自己主張した主人公にも胸を打たれる。
 その後の「安全ピン」の腹をわった会話シーンもよかった。それと、たったいちどだけ(と思うけど間違ってたらすみません)「美雨」と呼んだ亨のすがたは演出として印象的。「雨」で幕となるさいごのコントもまたすてき。ひとりの人間として、希望と救いをまざまざ感じる。「はるさめスープ」を熱愛する主人公像とその変容はキャラの立体性だけでなく、その人生岐路を象徴する表現としてすてきだった。しだいに「お笑い」に慣れていくところも読み手として心弾ませる点のひとつ。「夏子」という幻影がつなぐ男ふたりと女ひとりのあいまいで微妙なバランスもまた魅力だった。さいごまで直接的な恋愛性を表さなかったところは個人的にとてもうれしい。作風的に、やはり「安定」は好ましくないだろうと思うから。また、さりげなく、あくまでもやんわりと演出される性的な表現も巧いと思った。距離感と熱量が絶妙と思う。
 何事にもニュートラルでつかみどころのない「亨」の、描かれていない水面下の時間(たとえば大阪弁の取得とか絵にかたむけた情熱とかひとり葉月を想う深さとか)はキャラとしても設定としても心をゆさぶるものがある。人物像の「弓彦」というキャラの牽引力はすさまじい。また、「葉月」の人生は迫真性があっておそろしい。
 それから「郁子さん」という作品土台がとても圧倒的だった。魔女というか山姥というか。(包容力という意味で)人生的なカオスというものを背負っている印象。いや、あるいは「大阪」というカオスそのものか。その過去に深く切り込まないところがまたよかった。(ちなみに文校のチューターと同名。むっちゃ似てる。イメージとして)魔法といえば「浅田さん」が現実補償として夢中になっているコラボカフェも印象的。「魔法はかけられるものじゃなくて自分でかかるもの」名言だと思う。「鶴」はとてもあたたかい。また、主人公のつぶやき、「現実を見てるからこそ、非現実を愛してんのに」もすばらしかった。
「生きづらさ」を抱えながら日々を送っているひとに真心から勧めたくなってしまう作品。心の暗い部分もふくめた、あらゆる存在、あらゆる認識にはそれぞれ居場所があるものなのだとやさしくいたわってくれる安らかな物語だった。

<参加者G(推薦者)>
◆何も解決していないけどほっとする、不思議な作品。
◆恋愛小説という括りではなく、人生について書いた作品だと思った。重く書けるテーマを敢えて軽く書いている感じがする。
ものすごい波乱があるわけでもない。葉月が亨演じる夏子のコントを観るところがたぶん一番の山場なのだろうが、それにしたって大きな衝撃があるわけじゃない。でも、「夏子」について丁寧に積み重ねられているから響くシーンになっている。
◆「葉月」は8月の別名だから「夏子」になるのだろうか。
◆美冬ちゃんのキャラクターがいい。
◆美冬ちゃんの言っていることが実現可能かは置いておき、セーフティーネットの話(296P)がとてもいいと思った。そこが裏テーマかな?
◆温かいけれどずかずか土足で踏み込まない関係が心地いいというのはよくわかるし、現代的だと感じる。
◆この作品はどんな人も受け入れやすいようになっているが(反発が少ないと思う)、この作者の、もっとエグい人間関係や、気持ち悪い人間を描いた作品を読んでみたい。

<フリートーク
【設定について ①なぜ芸人の世界を描いたのか?】
C:今の若い人は恋愛しないの?
G:ほかにいろいろな楽しみがあるのでは。趣味とか夢とか。
D:この作品は、男女の在り方などに変にこだわる枠組みがなくて、「どういうふうにやっていこうか」「利害が合えば協力し合う」みたいな程よい距離感が基軸になっている。それぞれが息詰まって、とりあえずやることがあって、行ける人は一緒に行こうか、みたいな。抜ける人は簡単に抜けられる。寄り合い所帯というか、空港のトランジットのような都会的な小説。
亨は北海道出身で後天的に関西弁を板につけたビジネス関西人であり、厳密な意味において土地に根付かない。そこだけ現代的。この作品では恋愛が主人公じゃないんですね。
A:恋愛を避けるために芸人の世界を使った。普通の男女なら恋愛になるが、芸人だからダサいことはできない。一般手的な現代の縮図ではない。そのためにこういう設定を考えた。現実は、そこまで時代は進んでいない気がする。
(主人公が勤めている会社のように)変な重役がいる企業はたくさんあって、とくに古い企業や同族企業などに多い。こういう切り取り方をするために芸人の世界を使ったのでは。

【設定について ②読者によって共有できる部分が異なる】
D:読む人によって、部分的に「ここ知ってる/知らない」があるんじゃないかな。
◆私の場合、どうやったら正社員になれるか、
(正社員として働く人は)どういう面接を乗り越えたのかがわからない。
明日から住むところが無くなるかもしれない芸人の状況のほうが想像しやすい。
◆舞台になっている場所も。私たちは大阪に住んでいるから想像しやすいけど、
東京の人が読んだらおそらく異次元だろう。ex)大阪は芸人・素人の境界が曖昧。
シェアハウスのある場所は都心だけど最寄りの木津川駅はボロい。知られざる南海電鉄の駅。南海ユーザーとしては「そこを使うか」と思った。取材が巧い。
A:私も場所は知っているが、そこから電車に乗ったことがない。殺風景なところからどう行くのか、確かに冒険的なものを感じる。場所を知らないと特殊設定が通じない。
D:桜島線安治川口は、あの辺りの冷凍倉庫や物流倉庫で働いたことがないとわからない。取材で相当歩いたのだろうか。
G:作者は大阪の人だそう。
D:南海あるいは阪堺ユーザーかな。
A:あそこは仕事をする場所ってイメージだったので新鮮だった。
D:私も焼却場や物流倉庫で知っている。行くのも大変、帰るのも大変、みたいな。
A:大阪を知らない人が読むと、観光案内のように、知らない土地を知る楽しみがある。
D:関西以外の人は、文章から関西弁のイントネーションを想像しにくいそう。実際に目の前で話しても「テレビと違うからわからない」と言われた。
E:関西弁ネイティブじゃない人からしたら関西弁ってどうなんだろう?

【設定について ③都会と田舎の対比】
D:この作品では、大阪のいろいろな場所に行くんですよね。シェアハウスはあるんだけど、USJで遊んだり、街を闊歩したりする。東京の人から見たら異次元の小説だと思う。
気にかかった言葉として、葉月の「地方には概念がない」(269P)がある。都会に住んでいるとキャリアを選択できるけど地方ではその概念がない。そういうのも盛り込まれている。
ちょうど、花房尚作『田舎はいやらしい 地域活性化は本当に必要か?』(光文社新書)という新書を読んでいたところなので「お」と思った。田舎の人間はいつもと違うことをやりたがらないので現状維持になってしまい、人間も産業も衰退していく。
葉月は美雨を「都会的」と言う。それを聞いて美雨は必要以上に腹を立てる。それも都会対田舎かなと。その意識の差はよく出ていた。
A:柴崎友香も大阪を舞台に作品を書いている。御堂筋とか。
C:大阪の中心ってどこかな。
D:梅田でしょう。
A:梅田だと大阪っぽくなくなる。
C:天王寺とか難波とか。
D:和歌山の人は、大阪に行くときは天王寺になるんですよ、交通アクセスの関係で。その人から見たら、大阪=天王寺ということになる。
関東に置き換えると、埼玉の人にとっての東京は池袋。どこをベッドタウンにするかで変わってくる。
A:私は箕面出身なので梅田になる。浜寺に住んでいた祖父にとっては難波。昔は映画館がある場所が街だった。
E:今は都市って、どこも同じようになってますよね。
D:地方から出てきた人には、その都市を使っているのが信じられないものに見える。それが、北海道から来た葉月の姿に出ていた。美雨は、そこが鼻についた。
私が地元の友人に「東京に行っていた」と言うと、「東京って行けるの」と帰ってくるんです。東京はブラウン管に映るもので、行けるものではないと思っている。
自分を中心にして、ある程度充足する層がいる。地元でいいポジションにいて、楽しくやっているから、外部の人には来てほしくない。世界が狭く、身内の論理が法律。それが通じない都会は異世界であり、行く場所ではない。都会に出るのは、地元ではやっていけない層。
C:私が住んでいるのは大阪でも地方のほうだが、開けたところに住んでいるので夜でも寂しくない。居酒屋もあるし、スーパーも0時まで開いてるし。田舎はどうしているんだろう。
D:暴走族とかそう。そのカーストが続いていく。
町興しで外部の人間が入ると「余計なことせんといて」となる。選挙も誰に入れるか決まっている。同じ人が立候補しているし。

【作中の三角関係について】
C:この三角関係、理想ですよね。
D:屈折を感じる。作者がBL出身と聞いて腑に落ちた。BLの方法論。強い繋がりはあるけどそれを口に出さない関係、同性間の意識や、性の捻じ曲がりを感じた。異性装の元ネタである年上の女性を演じて凝る。オートガイネフィリアまではいかないが、元ネタとなった女性の目線が錯綜する。後半、怒涛のラッシュで何だと思った。
G:弓彦にもBLみがある。
B:弓彦を見てると「こんな男がいるのか?」と思う。
A:物語が終わった5年先、10年先はどうなっているのだろう。
D:そう思うとポジティブに考えられない。
A:この先、どう壊れるかを想像するのも楽しい。今は安定しているが、芸人を辞めたとき関係が保てるかどうか。壊れたあと、「このままではいられないな」となってしまう変化を読んでみたい。
D:この小説の中の人間関係は一時的なもので、確かなものではない。それが独特。
A:主人公が仕事を辞めた途端、何か変わっていくのでは。踏み出したと言えば聞こえはいいが、バランスが変わってきている。
D:地上げや耐震の問題などで、あのシェアハウスもいつ取り壊しになるかわからないし。
A:どういう壊れ方をするのだろう。安定した関係を見せるというのは、壊れたあとを想像させる。
C:人間関係として面白い。彼らが(芸人として)売れなくなり、食べられなくなるということもある。
A:落ちるのは自覚の上。いずれは破綻する。どう落ちるかに関心がある。
E:シェアハウスのメンバーは常に流動している。
B:登場人物は性欲ないし、幽霊もいい人だし。
A:今は住人が同質だから安定しているけど、異質な人物が入ってきたら……。この作品はシェアハウスの安定期を書いている。
C:老人だと誰かが死んで終わるんですが。老人ホームでの三角関係は、上手くバランスを取っていたり。
E:介護士が操っていることも。その人が辞めたら破綻する。
C:この作品の登場人物は性欲がないから年寄りっぽいなって思う。
A:これも同じ。誰かが芸人として「死ぬ」。ネバー君はきれいに脱退したけど、ほかの人が上手く抜けられるかどうか。
亨が遺産の分割協議に応じていたとしたら、それがシグナル。応じていなかったら芸人を続ける。彼がどちらを選択したかを書いていないのが面白い。
芸人として続ける自信があれば放棄する。何とか背伸びしてでも頑張って、コンビを続けるかどうか。
G:一穂先生には、奇妙な三角関係が壊れたあとを描いている『off you go』 (幻冬舎ルチル文庫)という作品がありまして……。BLなんですが。

【その他/雑談】
D:万人受する作品。
G:BLのほうでは、賛否両論ありそうな作品も書いている作家さんだと思う。なんか、応援してたロックバンドがメジャーデビューしてポップス寄りになったみたいな感情を味わっていて……(笑)。
D:私は、昔よく行っていた本屋さんのオーナーが直木賞作家になっていました(笑)。今も通ってるんですが、テレビの取材が来ていて。
A:きのしたブックセンター、昔はダイエーにあったんですよね。

 

★R読書会でも、一穂ミチさんの他の作品を取り上げました!

『黒牢城』米澤穂信(KADOKAWA)★Zoom読書会

Zoom読書会 2022.01.22
【テキスト】『黒牢城』米澤穂信KADOKAWA
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者F)>
『黒牢城』は、「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」のすべてで1位になっており、読んでみようと思った(昨年も、ランキングを網羅していた辻真先『たかが殺人じゃないか』を読んだ)。
作者である米澤穂信は、2014年刊の『満願』で史上初のミステリーランキング3冠に輝いている。『満願』は評価されるだけあって面白かったので、『黒牢城』も手に取った。
『黒牢城』を読んで、直木賞の候補作になるのではと予想し、実際そうなった。この作品と、今村翔吾『塞王の楯』、どちらが選ばれるのかと考えていたが、同時受賞となってよかったと思う。(直木賞を)受賞した二作ともが時代小説というのは珍しい。
宮沢賢治作品やオルダス・ハクスリーすばらしい新世界』のような、長く読み継がれている名作もいいし、肩を張らずに読めるものもいい。とくに、エンタメを好んで書く人にとってお手本になるのではと思い推薦した。

<参加者A>
米澤穂信は『満願』でも直木賞候補になったが、そのときは黒川博行『破門』が選ばれた。『満願』のほうが面白かったと言う人が何人かいて、私もその一人。
◆『黒牢城』も読むのが楽しみだった。荒木村重がどんな人物だったかは謎に包まれている。織田信長に反旗を翻して、有岡城に籠城し、負けが決定的になると皆を残して逃げたことで知られている。有岡城では、幽閉されていた黒田官兵衛が有名だが、荒木村重のイメージは悪い。それをどう覆すのか期待していた。
◆この作品では、荒木村重を人柄のいい武将として書いている。
今までは、源義経織田信長豊臣秀吉徳川家康などはイメージよく描かれ、平清盛明智光秀などは退治されることが多かったが、最近はそういう人物像を覆す作品が多い。
◆村重から人心が離れていく過程が上手く書かれている。
◆物足りなかったのは、村重が信長を裏切った動機がよくわからなかったところ。そこにもう少し筆を割いてほしかった。
私が30歳くらいのときに読んだ遠藤周作『反逆』には、その辺りがもっときっちり書かれていたと思う。

<参加者B>
◆私は「荒木村重が籠城して、黒田官兵衛を幽閉し、最後は逃げ出した」という、本当にざっくりしたことしか知らなかったが(謀反の背景や、北摂の勢力などは知らなかった)、すらすら読めて、とても面白かった。
歴史小説としてよりも、舞台が戦国時代のミステリーとして読んだ。話を聞いて事件を解決する安楽椅子探偵、というような。
官兵衛が、『羊たちの沈黙』のレクター博士のようだと思った。
◆第一章「雪夜灯籠」と第三章「遠雷念仏」が密室トリックになるのだろうか。
◆千代保が関係しているというのは第一章でわかった。火鉢を持ちこんだのが千代保だったので。その中に矢が隠されているのでは考えたが、それはまったく外れだった(あの中は調べたのだろうか?)。
第二章でも、死化粧を施したのは女房衆だったし、誰が首をすり替えたかという謎がスルーされていたので、絶対千代保だろうな、と。
◆よく調べている。鱸(第四章P363)とか……
F:実はけっこう嘘がある。
B:信じてしまうくらい上手く書いてますね。どれが嘘かわからない。
ものすごく歴史に詳しいように感じたが、作者は他に歴史小説を書いてるのか?
F:米澤穂信は、京都アニメーション制作でアニメ化された『氷菓』がデビュー作。これまで歴史小説は書いていない。

<参加者C>
米澤穂信の作品では『さよなら妖精』も読んだ。
◆『黒牢城』は、(時代小説畑とは)“別の畑”の人が書いた時代小説、だろうか。冲方丁が書く時代小説のように。
◆『このミステリーがすごい!』大賞で選ばれた作品には、いまひとつと思うものもあるが、『黒牢城』はよかった。
ミステリーとして読むと、そんなに大した謎は解いていないが、有岡城という舞台を持ってきたのが成功している。
◆文体が気持ちいい。徹底して戦国時代っぽい雰囲気。台詞のキレが素晴らしい。ビシビシ叩きつけるよう。
◆官兵衛を安楽椅子探偵にした時点で勝っている。目先に謎を用意し、凄みのある官兵衛が牢で解くというサイクルの作り込み。ミステリーでなくても、「謎」の管理ができるので自分の作品にも取り入れたい。
◆当時の武士の作法を“それっぽく”書いている。相当研究している。エンタメは、楽して書けないと感じた。
◆それらしい雰囲気が出る文体を磨いて、それらしい雰囲気が出る研究をして、得意ジャンルを2つくらいミックスすれば新しいエンタメ作品ができる。

<参加者D>
◆時代小説を読み慣れなくて、武家の言葉遣いや作法に慣れるのに時間がかかった。
第二章くらいから慣れてきて、戦国時代とか武士とか主従関係とか……進むことしかできないという世界観を受け入れられた。
◆エンタメ作品を読んで、(自分自身の)死生観・宗教観を持ち出すのは間違っているとわかっているが、戦国時代って大変だなと思った。やたら人は死ぬし、血塗られている。自分の奥さんも家臣も信用できない。拠り所は、やはり宗教になるのだろうか。こんなに殺して極楽に行けるのかな。
現代では、「家」や子々孫々栄えることは、大した問題ではない。子どもを作る/作らないも個人の自由。だから戦国時代の「家を継がせる」とか違和感がある。
武士は逃げたり投降したりしているけど奥さんは磔になっている。そういう世界に憤りを覚えた。
そういう読み方は間違っているとわかっている。「ミステリーを取り込んで、史実に忠実に仕上げた」。その力量について話さねばならないが、世界観を好きになれなかった。
◆官兵衛が、村重の恥になるように持っていこうとしている策略はわかるが、いまひとつぴんとこない。村重は官兵衛の策略を見抜いているのに、なぜ乗るのか? 戦国の世の中ではそうするのかもしれないけれど。

<参加者E(提出の感想)>
 ミステリ調の歴史小説という異色作。宗教というものの意義について深く考えさせられた。時代ものを読んだのはほんとうにひさしぶり。司馬遼太郎さんにどっぷりだった十代後半を思い起こしながら読み進める。若いころと同じように夢中になってページを繰った。命というものを日々天秤にかけていた当時の人間たちには敬愛の念。「生き延びる」ということばの意味が現在のそれとは重みも深みもちがうと思う。ほんの些細な判断ミスひとつで、彼らは己のみならず、家族はもちろん臣下や民の命すらことごとく風前にさらしてしまう。であるからこそ、彼らは真剣に思案し真剣に行動する。「まじめ」では決して務まらなかっただろう。当時と現代のライフスタイルを比較することに実際的な意味はとぼしいだろうが、けれどもやはり身がひきしまる。生きるということは本来どういったことだったのか、死とはいったい何だったか。じぶんと呼ばれるものや人生に対してふだんよりも切実に、そして神妙に想いを馳せる。
 そんな、ただでさえ血肉があわ立つ歴史ものにミステリ調を取り入れられてはかなわない。作品世界にじぶんの生き様を重ねつつ、記憶にしずんだ史実をたどたどしく手繰り寄せ、さらには形ながらの「推理」にも頭を使ってしまうからとにかく忙しい読書となった。おかげさまで頭も心も充足だった。この本は、お話として純粋におもしろい。小説はやはり構成とキャラクターだなとつくづく思う。今作のワトソン役は武力もあって華がある。熟練したもの書きの技なのか、作品後半、無辺の密室殺人の段にて、容疑者のひとり、与作を一時語り手に据えるところはおもしろかった。くわえて、そのあたり一連の流れ、【硝煙蔵から出火→警護が強化→無辺が街へ→村重の迷いと茶器への執着の描写→曲者登場→庵に兵を派遣→目につくようになる】といった、細い糸を巧みに絡めてつぎの事件のトリガーとする構成力に胸がふるえる。また、一般的なミステリとちがい、「事件」じゃなくてもひとの命がつぎつぎと消えていく背景は、時代とミステリを掛け合わせた今作ならではの特色じゃないかと感じた。
 それから、この本は「読者の居場所」の大切さを教えてくれた。(もっともミステリの場合はそこが重要なのかもしれないが)お話のはじまりから終わりまで、ぼくはひたすら作者の手のひらに囚われたままだった。たとえば第一章の自念の刺殺は、矢に紐をつけるとか直接刺すとかたいていの読者が考えつきそうなことはちゃんと書いてくれている。ここにちいさな満足を覚えて、読み手はますます没入していくのかなと思う。各「事件」はそれぞれちいさな謎を残したまま幕を閉じるが、その深層を千代保という一本の糸でつなげたラストはとてもきれいだと思う。この場合、一般的なミステリのいわゆる「真犯人」のように作者が巧妙にその動きをひた隠すのでなく、あの女も恐らくどこかで絡んでくるだろうと読み手にうっすらと印象づけておくところが肝なんだろうと思う。
 また、読者の関心を散らすために用意された背景の仕掛けに作者の卓越した技を見た。大前提としての「籠城」、一歩間違えれば即家中もろともの死という恐怖、ひたひた迫る足音のようなこの背景がひややかな緊張感を作中に絶えず演出している。それを強化、あるいは扇動するさまざまな波がまたよかった。来ない援軍と内通者という暗い影。食料の問題。臣下や民のモチベーション。知恵者ゆえの猜疑と孤独。そして官兵衛という不気味な男。彼がここを生き延びることは知っていたが、その思惑そのものをこのお話の本流に据え、題して『黒牢城』とした作者のセンスに心打たれた。冒頭の官兵衛への尊崇や憐れがラストまで引っ張っていくことも見事と思う。語り出しの熱はほんとうに大事なんだと思う。
 もちろん、「信長の逆を為す」ことに拘泥したため、結果的に落城という命運を迎えてしまった村重そのひとも物語として胸にしみる。現代に生きる読者にとって、先の分かっている負け戦、大波に逆らおうとする岩のような村重や有岡城の「もののあわれ」もまた、読者の心を惹きつけるお話の一因であったと思う。ラスト付近、村重がどちらが牢に入っているか分からないと戸惑う場面はものすごく印象深い。
 
 そしてまた、このお話は宗教というものの意義について深く考えさせられる作品だった。作中、キリスト教を含めたいくつかの宗派が登場するが、それらをお話の伏線として絡ませるだけでなく、それそのものの必要性や具体的な発展段階、それから存在証明を読者の胸にひじょうに色濃く訴えかけているように思う。乱世というあまりに不条理な環境の補償機構としての宗教。死後の安寧を夢みさせてくれる心の救い。これらを想うと切なくなる。作中、ところどころに挿入される信長の非道ぶりは「世の不条理」のシンボルとして途方もなく象徴的。第三の主人公、千代保の心的外傷であり、かつ、人生的な「救いと再生」を見出すきっかけとなった「長島の一揆」はあまりにも酷烈すぎるが、しかしまた、そうした見せしめを行わなければ命危うくなってしまう信長の考えも説得力がある。そんな彼も暗殺された。人間五十年、と「敦盛」が耳をかすめる。ひとの世は、よくも悪くもほんとうに儚いと思う。

 細かいところだが、各章がアラビア数字で表されていたことは印象深い。
 さいごに、この本にこのタイミングで触れたことに奇縁を感じた。
 現在の住まいは篠山、お話の舞台である北摂は他の土地よりはなじみがある。けれどもぼくはいつまでもここに住もうと思っていない。恐らく終の住処になるだろうつぎの居住地は和歌山と決めているが、今月はじめ、祖母の三回忌の折に下見のつもりで泊まったホテルは和歌の浦の小雑賀というところだった。雑賀。作中でひそやかな活躍をした名前。そろそろ篠山から出ようと考えていたいまのぼくに、こういった偶然は深く染み入る。アナトール・フランスは「偶然にこそ神が宿る」と言ったそうだが、文学の神さまという存在に思わず頭を下げたくなった。

<参加者F(推薦者)>
◆史実に基づいて書かれているこの作品を、歴史小説として見たらどうだろうか。
*『黒牢城』の荒木村重はあれこれ悩んでいる。視点人物の内面を書くと、内向的で神経質なキャラクターになってしまう(村重を豪放磊落な人物として設定したとしたら内面の描写はできない)。
*村重の視点で書くならば、彼のその後の人生を書かなくてはならない。しかし、なぜ彼が裏切ったのか、生き延びたか、動機が書かれていない。村重視点の限界がそこにある(千代保や官兵衛の視点で村重を描けば、村重のその後は書かなくてもいい)。
*官兵衛を探偵役として設定したので村重視点にしなくてはならなかった。歴史小説としては弱い。
◆第一章は密室殺人。矢を操って人を殺す機械仕立て。場面設定がお誂え向き。春日灯籠が置いてあって、雪が降っていて……現実ではあり得ないが、そう設定しなければ密室は作れない。
(すべては密室を作るための設定だが、小説として読んだとき)もっと簡単に殺せるのに、なぜそこまでしなければならなかったのかがわからない。
そのようにした理由を「神の罰だとしなければならない」という理由付けは巧いが、それなら、千代保や御前衆の五本鑓が結託して口裏を合わせれば、もっと簡単に密室が作れたはず。
歴史小説としては弱い、ミステリーとしては首を傾げる。『このミステリーがすごい!』大賞ではどこが評価されたのか。部分的なエンタメとしての出来が良かったのでは。
D:歴史小説の中にミステリーを取り入れたからでは。
F:そういう作品はたくさんある。物語として良かったのだろう。
D:官兵衛はただ謎を解いていただけでなく、籠城を長引かせていた。どんでん返しで意外性がある。
B:千代保は最初から怪しい。火鉢を持ってきたのは彼女だし、自念の安らかな死を願っていた。
D:でも、自念を死なせている……。
B:千代保は自念を武士らしく死なせてあげたかった。
F:村重の行為は武士にとっては残酷。だから森可兵衛が動いたのだけど、彼が動くなら他の者も動くのでは。
村重が、わざわざ護衛をつけなくてはならない、庭に面した納戸に自念を放り込むのもよくわからない。密室を作るのに都合がいい場所を選んだようで。作者の都合なのだけれど、「神仏の為せる技」みたいに巧くごまかしたな、と。あまり出来の良くない密室。

<フリートーク
【大津を討ったのは本当に村重だったのか?】
D:第二章「花影手柄」で首をすり替えていたのはなぜ?
F:仏が罰を与えていると思わせるため。
D:村重が大津伝十郎長昌を討ったことにしたのは良い判断。高山大慮と鈴木孫六、どちらか一方の手柄にしないためにそういうことにした。
B:城平京『虚構推理』みたいに、(作中の)多数が納得するような結論を導くっていう。
C:殿が手柄を取ることになるのは、逆に説得力がないような気が。
B:他の可能性を排除していって、たぶんこうだった、みたいな。
F:誰も大津の顔を知らないから言いくるめられる。
C:ミステリー作品として考えると、官兵衛がそう言ったので、本当に村重が討ったのだと思う。
D:官兵衛は、家臣にこう言えばうまく収まると教えたのでは。
F:P151、村重が弓を引くときに兜を脱ぐのを読み飛ばしていたが、それが伏線になっている。叙述を見せたかっただけでは。そのためだけの第二章なのかと。
B:官兵衛も村重も、それが真実だと知っていたのか、あるいは落としどころを見つけたのか……。
C:安楽椅子探偵のお約束としては、処世術ではなく真実を与える。「あいつは犯人じゃないけど、犯人にすれば上手く収まる」とか言わない。歴史小説として見れば、官兵衛のような老獪な人はやりそうだけど。

【ミステリー小説として見ると】
C:ミステリーとして見たら、針と糸を使うような機械トリック。目新しいトリックを追求するのは90年代で潰えたのか。
F:出来のいい本格ミステリがあまりないかな。
C:ゼロ年代からコズミックなほう(※清涼院流水に連なる系譜)に行って、キャラ小説に行って、ここに収束した、みたいな。
F:島田荘司占星術殺人事件』。アイデアはいい。ただ、初めて読んだとき「お」と思っても、やはり無理を感じる。
C:そう思うと、要素だけ取り入れて、舞台を追求するのはいいかもしれない。
雷に打たれるのはアリなのか。第四章の書き方なら、鉄砲の玉は村重のフカシかなと思った。実際は見つけていないのに鎌をかけたとも取れる。

【村重の描き方について】
F:謀反人の村重を書くなら視点人物を決めないと。明智光秀にしても松永久秀にしても、なぜ裏切ったのかわからない。本人視点にすると裏切った理由を書かなくてはならなくなる。
A:村重が妻子や家臣を有岡城に残して、茶壺〈寅申〉を持って逃げたのは皆知っている。官兵衛の策略にまんまとはまって出ていったほうが面白かったのではないか。官兵衛の言うことには説得力がある。「〈寅申〉を毛利に渡せば勝てるかも」というところで筆を置いたほうがよかったと思う。籠城していては100%負ける。「もしかしたら勝てるかも」と思っているところから卑怯者の汚名を着たほうが面白い。
F:私はそういうふうに終わったら嫌だと思って読んでいた。村重はこれまでクレバーだったから、策にはまって終わったら嫌だな、と。「毛利を待っている」とあるが、海路を使えば催促の使者を送れるのでは。でも送っているように見えない。だから城内の人たちも不安になる。また、〈寅申〉をもっと早く毛利に渡せばよかったのに、とも思う。
D:使者を送るなら、無辺の代わりはいるのでは。
C:作中では唯一無二の存在として書かれている。
D:無辺の話は弱いと感じた。最初から無辺を殺すつもりだったならわかるが、突発的に殺してしまったというところが。
F:咄嗟にあそこまで用意できるものか。
C:口論で……というのも想像。そこは重要ではない。
F:ミステリー的に面白いのは、〈寅申〉ではなく行李が狙われていたこと。無辺に化けるために行李を使いたかったという引っ掛けが唯一のトリック。
D:先に殺されたのはどちらか、というのも。
C:無辺、無理のあるキャラですよね。
D:この章は伏線もあった。瓦林能登が念仏は唱えられないとか、きちんと書いてある(P231)。
F:そこはあとで書き足せる部分だから辻褄合わせできる箇所。
それより、村重はあそこでなぜ〈寅申〉を使って、毛利に届けないのか不思議に思った。有能な人物として描かれているのに、何もしないで待っているだけになっているので。毛利を繋ぎとめるよう交渉に行かなければ。行けないなら行けない理由を書かねばならない。
A:あのころ茶道が発達していたのは上方だけでは。(〈寅申〉が)交渉の道具として織田に通用しても、毛利には通用しないのでは。Fさん、どうですか?
F:そうかもしれない。私が書くのだったら、「安国寺恵瓊が秀吉と会談するとき、茶の湯を持って帰った」という話を作ってしまうかも。恵瓊はお公家志向じゃないですか。
C:歴史好きとしては毛利が来なかったのに違和感はなかったが、村重は来ると思って謀反を起こしたというふうに書いてもよかった。
F:木津川の戦いで負けたあとなので毛利は来ない。
C:(村重の謀反は)史実的には謎の謀反なんですよね。
F:そのあたりの説明がもうちょっとほしい。
D:村重は、官兵衛の「茶器を持って毛利に行け」と言うのが策略だと見抜いたが、なぜ行ったのか。官兵衛の復讐で策略であると知っていたら行かないのでは。
F:好意的に解釈すれば、「頭の片隅に残っていて、だんだんそういう気になってしまった」。
D:純文ならある。でもエンタメ作品における大きなターニングポイントでそう持っていったら駄目なのでは。
C:「本当にそれが最善の手ではないか? 八割方、名誉を失くして終わるが、もしかしたら……」それを見せたのが官兵衛の老獪さ。
F:官兵衛の戯言なのでは。官兵衛自身も、まさかそれで動くとは思っていなかったかも。私なら、「そんなつもりはなかったのに村重は実際にしてしまった……」と二行くらい書くかな。『黒牢城』は官兵衛の視点で書けばよかったと思う。
D:村重の心は、既に戦場に飛んでいるんですよね(P420)。
A:やはり、策を授けられたところで終わったほうが収まりとしてはよかったのでは。村重より官兵衛が一枚上手だった、という。
F:そうするなら、村重を官兵衛よりも愚かに書かねばならなくなる。
C:村重に有能感があるから面白かった。策とわかってて乗るのがミステリーっぽい。もっとノリノリで吹き込まれていると面白かったと思う。(読者が読んで)村重騙されてるわぁ、みたいな。

【登場してほしかった人物】
D:村重のその後は惨めですよね。
F:茶人として生きて、出家後は道糞と名乗った。
ちなみに、村重の子・岩佐又兵衛は生き延びている。のちに絵師として成功しており、国宝に指定されている「洛中洛外図屏風(舟木本)」などを描いた。その話も書いていたら面白かった。
C:私は、村重の臣・河原林越後守治冬を書いてほしい。有岡城に使者として来た秀吉を「殺したほうがいい」と進言していたことが秀吉本人の耳に入って、その場では許されたが、秀吉が世を平定したあと、探し出されて殺された。(秀吉は)にっこり笑ってプレゼントまで渡していたのに、年を取ってから怒り出すという……。晩年の秀吉のどす黒さがよく出ている逸話。
D:年を取った人にありがち。過去を掘り返して怒るんです。
F:秀吉は若いころには、面白いことをした人は喜んで許してますよね。羽柴秀吉にとっては良かったけれど、太閤秀吉にとっては良くなかった。
A:賤ヶ岳の戦いあたりがターニングポイント。そこからは自分の地位を守ることに躍起になって、猜疑的になっていった。
F:自分の地位は守れても、豊臣家がどうなるかは見越していたと思う。一代限りだと。

【その他、作品に関すること】
C:信長や秀吉を出していないのがいい。城内だけで話が進んでいく。
D:家臣が多くて覚えられない。私が印象に残っているのは郡十右衛門くらいで、あとのほうは覚えていない。
F:そこは覚えなくてもいいと思う。
C:五本鑓はたぶん創作。武将級は史実だけれど、他は舞台装置。召使いのジェームズとかチャールズとか、そういう扱いでいいのでは。
F:雑賀衆鈴木孫六が面白かった。高山右近の父親の大慮やだしの方(作中では千代保)も実在。だしの方が長島一向一揆の現場にいたのは作り話かもしれないけれど。
C:側室の来歴まで残っていないでしょうね。磔になる人って、出てくるの可哀そう。処刑まであと何人、って……。
F:大河ドラマで――『軍師官兵衛』だったかな――尼崎城から七松での磔が見えるシーンがあったが、どこで磔にされても尼崎城からは見えないはず。
尼崎城は、源義経が船を出したことで知られる大物浦の近くにあった。今は小学校になっているけれど。

【武士の時代のどこに魅力を感じるのか?】
D:織田信長って武将の中で一番人気だけど、たくさん人を殺している。他の武将もそう。見当違いかもしれないが、男の人は、殺し合いばかりの武士の生き様のどこに魅力を感じているのか訊いてみたい。
F:私は、男子が戦国のどこに魅力を感じるかより、歴女がどこに魅力を感じるのか訊いてみたい。性別関係なく、人間はそういうものが好きなのでは。
歴史はもう物語になっている。だから、信長の時代は架空の世界。残虐なことをしていても「架空の世界」での出来事なら受け入れやすい。
現代を生きる自分たちの考え方でドラマを作るとおかしくなる。大河ドラマのように、ホームドラマにしてしまうと無理が生じる。ドラマなら観れるけれど、本にしたら読めないと思う。本で読むなら言葉も歴史的言葉遣いにしないと。
D:子どものころの大河ドラマは『黒牢城』のような言葉遣いでしたね。
F:今の大河ドラマは違いますよね。今は等身大で書かなきゃならない。
D:国盗り物語』は知っている。国を広げるには人を殺さなくてはいけない。かなり残酷。そんな時代のどこに惹かれるのか?
C:私は(自分の作品で)虐殺される側も書いたことがある。男には――と限定するのもよくないかもしれないが――征服欲がある。敵を篭絡して奪った女を犯すのを好む本能、自分以外のものを打倒したい本能というか。チンギス・ハンみたいな。
D:古代人は別の集落を滅ぼしていた。私たちはその子孫ですよね。
C:創作物で扱うと、(人物の)残酷な面もさらっと流せる。いい面だけを書ける。臭みを抜こうと思ったら抜ける。明智光秀など戦国武将をいい人に描く風潮もあるが、私はそれを胡散臭く感じている。
魅力は、と訊かれると「人間だから」。武将というシチュエーションで一生懸命生きている姿に惹かれる。
F:たとえば食料として殺すのであれば仕方ない。現代でも牛を殺して食べている。マンモスを追うのは生きるためにしていたこと。
戦国時代は、(生きるためにしている面もあるが)相手を凌ぎたいから戦っている部分がある。名誉や名を残すことを拠り所に戦っていた。名を残すことを第一にする。そのために戦う。
現代では、格闘技などゲームとしてルールが決まっているから、その中で相手より上回れば名誉が得られる(古代では相手が死ぬまで続けていた)。ゲームとして相手を打ち負かす。それで闘争心を満たしている。そういう時代になった。
A:どちらにしろ、強い人に憧れるという部分からスタートしていると思う。小・中学生は、名誉や倫理的にどうとかではなく、謙信と信玄が戦った川中島の戦いや、桶狭間で信長が義元を討ち取った……など、そんな英雄譚を通して興味を持ち始めるはず。
小説を読むと、現代と違う価値観に慣れてくる。今は今、昔は昔。
(創作する上で)厄介なのは幕末とか。政治思想などが現代に直結してくるので迂闊に書けない。戦国時代なら自分の好きなように書けばいいかな、と思う。Cさんの作品のように名もない人が戦に翻弄されるところにスポットを当ててもいいし、英雄を書いてもいいし。
ただ、書いたり読んだりするぶんにはいいけれど、実際に(武将が)やっていることは残酷。頭の中で(現実と物語を)住み分けできていればいのでは。
D:食料があって、豊かであればこういうことはしなかった。俸禄を与えなくては、でも領地では賄えないから、隣の国を攻めて自国を広げたり……。征服欲だけではない。
F:農村では水争いが絶えなかった。この池の水はどちらが取るのか、境目がないから争いになる。小さい子どもがお人形を奪い合うみたいな、そういうところから始まっているのでは。現代は、盗んではいけないとルールで決まっているけれど、ルールがなければ盗みが横行するかも。倫理観で縛ることで今の社会ができているだけ。それ以前は、動物の本能として争いがあったのでは。
D:動物には上下のルールがある。ボス犬、中間犬、部下みたいに。
F:ペットの犬や猫は飼い慣らされているから闘争心はない。
C:戦国時代と江戸時代で生産力は変っていない。武士同士の争いは三幕府とも将軍が捌いていた。室町幕府は力がなく、江戸幕府は長い間、力を持っていた。
F:室町幕府にも、山名氏を滅ぼす(1391年・明徳の乱)など、力がある時代もあった。

 

米澤穂信『黒牢城』はR読書会でもテキストになりました! 読み比べたら、メンバーが変わると、出る意見も変わるんだなとわかって面白いです。

「銀河鉄道の夜」他1編(『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より(宝島社文庫)

Zoom読書会 2021.12.19
【テキスト】「銀河鉄道の夜」他、参加者が自分で選んだ1編
      (『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より
      別冊宝島編集部 編(宝島社文庫
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
私は読書量が少ないので、好きな作家の作品を推薦することにした。やはり宮沢賢治の代表作は銀河鉄道の夜ではないかと思う。20年ほど前に、登場人物を猫に置き換えて描かれたアニメ(『銀河鉄道の夜』1985年制作/監督:杉井ギサブロー、原案:ますむらひろし)を観たことが、宮沢賢治を好きになる切っ掛けになった。

<参加者A>
銀河鉄道の夜
◆「銀河鉄道の夜」に初めて触れたのは小学生のころ。死んだ人ばかりだと思って怖くなり、全部読めなかったが、そのあと何回か読んだ。
◆透明感ある描写がきれいで、独自のオノマトペも印象的。文法は終結していないものもある。宮沢賢治だから許されるのかも。
オノマトペだけじゃなく独特の表現も印象に残る。Eさんも独特の表現を上手く使われるけれど、私は使えないのですごいと思う。
◆生きているジョバンニがなぜ銀河鉄道に乗れたのだろう。彼の切符だけ万能券(「ほんとうの天上へさえ行ける切符」)だし。読み返すたび不思議に感じるのだが、今回も思った。
◆「らっこの上着」について。現在、ラッコは絶滅危惧種になっている。作中の時代では、ラッコの上着をよく作っていたのだろうか。
◆私も息子とアニメを観ていたので、「銀河鉄道の夜」というと、やはり猫のイメージがある。

<参加者B>
◆久しぶりに読み返した。原稿が欠けていて、ページが飛んだりしているのは新鮮だった(決定稿ができる前に作者が亡くなっており、編集者が遺稿をまとめた)。
◆私は宮沢賢治の出身地である岩手県と近い秋田県に住んでいる。岩手の人は、宮沢賢治がとても好き。
◆私も、ますむらひろし宮沢賢治作品を原作として描いた漫画などが好き。
銀河鉄道の夜
◆子どもが死ぬ作品には、無条件で興味を引かれる。この作品集には載っていないが、「銀河鉄道の夜」の原型であると思われるひかりの素足もよかった。
◆SF的モチーフが用いられている。その後に作られたSF作品に繋がるのかな。鳥や岩石の描写など、多くの作品に影響を与えている。現代に通じる、元祖のような作品。
◆キャラクターの生死を通して論理的に語っているのは鼻につくが、観念的ダウナーな感じが心地よい。国民的作家だと思う。
「紫紺染について」
◆ドキュメンタリーのように見せかけて、大ぼらを吹くみたいなところを真似したい。

<参加者C>
銀河鉄道の夜
◆小学生のころ、全集に載っており読んだが、そのときは面白いと思わなかった。私は、ジョバンニが授業で銀河を習ったことに影響され夢を見て、また、それが死者を運ぶ列車だったのは、別の何かに影響されたためだと考えた。面白いと感じた箇所は、実はカムパネルラが死んでいたという種明かしのところ。それだけの話として読んだ。「子どもが読むものじゃない。大人になったらわかるのかな」と。
◆ずっとそう思っていて、数十年ぶりに、ほぼ真っ白な状態で再読した。
◆「天気輪の柱」「三角標」など、言葉が独特。
◆ラッコの上着がなぜからかいの対象になっているのだろう。父は漁に出ているのか、監獄に入っているのかわからない。説明がなく雰囲気で読ませようとしている。
◆しかし、ファンタジックな描写、これだけのものが命を持っている理由はある。
◆神、死生観、宗教観など語ればきりがないくらい材料が転がっている。機会があればまた読みたい。有名な作品を読んで、多数に迎合することに抵抗はあるが。
宮沢賢治はここまで文章で表現するのに苦労しているが、アニメの描写力には負けると思う。
よだかの星
◆小学生のとき、学芸会の劇の題材になった。学芸会の脚本では、星になったよだかを見て鷹が「見直した」というようなことを言う。子どもにはそのほうがわかりやすいから。
でも、大人になって改めて読んでみると違う。誰にも認められなくても星になっている。子どものころと、また異なる感想を抱いた。
風の又三郎は、学校の講堂で映画を観て、そのイメージがあった。
一番気に入っているのは注文の多い料理店。面白い。

<参加者D>
銀河鉄道の夜
◆私はだいたい本は最初から読むので、巻頭の解説から読み始めたが、解説の途中で「引っ張られるからだめだ」と思って中断し、「銀河鉄道の夜」を読んで、そのあと読んだ。解説は作品より後ろに載せてほしい。
◆「銀河鉄道の夜」は小学校か中学校の教科書に一部抜粋のかたちで載っていた。全部きっちり読んだのは初めて。
◆たぶん死者を運ぶ汽車なんだろうけれど、ジョバンニはなぜ乗れて、また、最上の切符を持っていたのだろうか。読みながら、ジョバンニも死んでいる、あるいは死にそうな状態にあるのだろうと思っていたが、最後まで読むとそうでもなかった(丘の草の中で眠っていただけ)。死に近い精神状態にあったから? それなら、そういう人は他にもいるはずだが、なぜジョバンニだけが乗れたのか不思議。
風の又三郎
分析しながら読むとすごく楽しそう。方言は難しかった。又三郎(三郎)だけが標準語を話しているのが、彼が異質な存在であることを表していると思った。
注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュは面白い。
「北守将軍と三人兄弟の医者」は終わり方に余韻があって好き。文章もリズムがあって、声に出して読むと楽しい。

<参加者E(提出の感想)>
銀河鉄道の夜
 深い悲哀に満たされた幻想物語。あるいは空想的寓話。行間から伝わってくる無常観、あるいは圧倒的な孤愁感にいたたまれなくなってしまう。
 たいていの幻想作家や喜劇作家はじつはペシミストであったという逸話はよく目にするが、この作者もまた例外ではなかったのだろうと思う。ドストエフスキーが遺したように、やはり「地獄はこの世」なのだろう。宮沢賢治は、恐らく、内なる自己、あるいは「心」の「救い」「慰め」もしくは「支え」を、世俗という眼前の現実では見いだせなかったのではあるまいか。当物語だけでなく、この文庫におさめられたどの作品からも一様に感じられるのは底なしの孤独感だった。彼の世界はとにかく内向的だと感じた。そうしてひどく寒々としている、ように思う。なぜなら行間から感じられる彼の、おそらく農作業中や散歩時の感慨、夢想、想念、思惟、洞察力には「他のだれの意識」も読み取ることができなかったから。いや、しいていえば「人知を超えた」概念または存在だけはそこに許されていたかもしれない。それこそ彼の、「救い」や「なぐさめ」だったのだろうか。つまるところ、彼のゆたかな空想性やアニミズムに満ち満ちた魔術的な世界観は、孤独のみじめさ、切なさの補償だったのではないかと思う。心理的防衛機制でいえば「退行」か。そして「昇華」か。思い通りにいかない世の中、あまりにみじめ、どこまでも空虚でしかない人生を、彼はそうすることでしか受け入れることができなかったのではないかと考えてしまう。このような反応は、いちどでも画や文字を衝動的に描きたいと思ったひとにはよく分かることではないかと思う。苛酷できびしい北国での農作業――それはつらい肉体労働、しかも彼は重い病を抱えていた――、そうした彼の社会的、実際的役割、要するに「表」のじぶんを補うために現れ出た空想夢想を、ありのままに、感じたままに表現したからこそ、彼のことばは現代に生きる同種のひとびと、「生きにくさ」を感じる読み手の胸をつかむのではないかと思われる。そこに、人生としての普遍性が成立しているような気がする。そのような観点に立ってみると、いちど乗ったらあとにはけっして引き返せないこの鉄道は人生そのもののメタファーのような気がしてくる。(そういえば映画『千と千尋』の電車も「行きっぱなし」だったはず)
 行く先々であらわれる世界、出会うひとびとに、作者の投影像・少年ジョバンニは高い感受性をもとにいつも心を乱しているが、そのなかで、とくに力をこめて書かれているのは「前書き」にあったとおり信仰もしくは価値観の「ちがい」についてだろうと思う。
 作者は熱心な日蓮宗信者であったということだが、あくまでも個人イメージとして「攻撃的」「排他的」「閉鎖的」といった同宗に属していた彼が、他の信仰、異なる神、本作ではキリスト教というものに出会ったときの葛藤、戸惑い、根源的懐疑のようなものが、ここには翳深く描かれているように思った。
 あくまでもぼく個人のイメージで「異教徒はすべてそれだけで罪」ととらえている、ように感じられる「日蓮宗」と「キリスト教」(これを象徴しているのが日本人であるというところがまたおもしろい。ものの本によれば、ぼくらは文化的背景上、生涯決して、「原罪」という概念を理解することができないという)それらふたつの属性を背負ったものが同じ電車の同じ席で同じ方向に向かって同じ時間を共有する、というところはひじょうに示唆的だと思う。そうして、彼らそれぞれの「降車駅」が別々である、ということも。サザンクロスの駅で降りる異教の信徒たちを窓越しにみつめるジョバンニ、その前のひとこまで彼らの神を「うそ」と否定した彼のすがたはほんとうに印象深い。そこに敵意はさほど強く感じられず、悪意はなくて、ただたださびしさ、やるせなさがあるばかり。人生あるいは心の「救い」や「なぐさめ」「支え」といったもの――、銀河鉄道という狭く限られた時空間内でたまたま出会った彼らというのは、恐らく同じものを求めて「生きている」「生きていた」はずなのに、けれども双方、すっかり心打ちとけることはなく、じつに冷ややかなしこりを残したままであっさり道が分かれてしまう。ここに底なしの空漠感が出ていると思う。いわゆる「価値観」のちがいによって、世の中にはさまざまな苦悶が生まれているが、けっきょくのところ、少なくとも「信仰上」では、ひとびとが求めているものの究極は同じじゃないか。それなのに、どうしてぼくらはこんなにも切ない想いを共有しなければいけないのだろう。信仰する神がちがえども、あるひとつの線路を走るこの銀河鉄道はだれかれかまわずみんな乗っけて同じ方向に駆けていく。けれどもどうして、ぼくらの心はうまくひとつに溶け合わないのか。日蓮宗、大きな意味でいうところの禅宗は、宇宙そのものを象徴するビルシャナの声に耳を傾けてやがて同一化することを目指しているが、その「ビルシャナ」が象徴しているものは、ヤハウェと同根なのではあるまいか。ぼくらはけっきょく、同じものを見、同じものを求めて同じ道を進んでいるだけじゃないのだろうか。それなのに、ひとびとはどうしてこうも分かり合うことができないのだろう……。こうしたところが、作品がもたらす寂寥感や切なさの源であるように感じた。
 そもそもにして、ギリシア神話由来の星座がお話の背景に使われているところにまたおもしろさがあると思う。当時はすべて(少なくとも西欧諸国)の文明の礎と固く信じられていたといわれるギリシア文化、あるいは地球という一惑星の外に広がる宇宙を舞台にすることで、人間たちのちいささが浮き彫りになり、その「ちいささ」が営む世界ですらうまく息をすることができないじぶんを、作者はひっそり、描きだしているように思う。作中で重複するテーマ「おぼれる」はほんとうに奥が深いと思う。タイタニック号の犠牲者を彷彿させる青年のことば、「助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方が幸福」には強く共感。「ちがい」といえば親友同志であるジョバンニとカムパネルラがラスト、同じ光景のなかにそれぞれ「ちがう」ものを見ているところもまたおもしろい。「親より先に死ぬと地獄」観が強い仏教の影響なのか。それからたぶん、すでに母親を亡くしているカムパネルラを使って、「マリア」のような慈悲深い母性像を同時に表現したかったのか。
 色彩ゆたかな描写同様、このお話は構成もきれいだと思う。先に「ケンタウル祭の夜」という背景を示しておいて、銀河鉄道をいて座の手前、さそり座で終わらせるところ。汽車で再会したカムパネルラの衣服が濡れていたり「青ざめて苦しそうな」顔をしてみせたり、あるいは含みのある言動をさせること。
 自己犠牲や罪の意識、それから貧困や欠落(たとえば父性不在)という暗いテーマと色彩ゆたかな幻想性、心ほどける空想性がうまいこと共存した作品だと思う。暗い宇宙をきらびやかに飾った花々、宝石、もちろん星々、それから音楽には心を深く魅了された。
「お調子者でちょっと嫌なやつ」を思わせるザネリのためにカムパネルラが溺れ死ぬことに想いを馳せるとまた切ない。ほんとう、人生はただ無常と思う。
 意気地はないくせに自尊心だけはやたらと高く、たいてい卑屈でいたく頑な、感受性がじつに鋭いジョバンニ少年――、クラスのなかで(恐らく)ただひとりだけ働く子ども=ひとりの異邦人、の孤独が何も解決されないままお話が幕となるところに作者の深い闇を感じる。親友をからかう同級生たちのじつに拙い行動原理と、彼らにまっこうから抗えないカムパネルラの心の弱さ。それらすべてを「それでもいいか」と包み込んだうえで陥ってしまう空虚感もまた胸が痛い。けっきょくのところ、世俗には安寧が生きる余地などないのかと心を重くふさいでしまった。
 
 併録作品で好きなものはよだかの星。感情移入がしやすい。セロ弾きのゴーシュも親しみやすくて好き。ひと以外のものと関わることで音楽が上達するというのは示唆が深いように思う。(人間のことばの前に動物たちの音楽があったのだと、そういえばどこかの学者が言っていた)「虔十公園林」には救われる。鹿踊りのはじまり」はじつに愉快。「やまなし」の世界観には子どものころから魅了されつづけている。ここにはなかったが「月夜のでんしんばしら」も個人的には印象深い。資本者階級と労働者階級と関係をユーモラスに描いたと思われるオツベルと象はメタファーが深くておもしろい。「氷河鼠の毛皮」「なめとこ山の熊」でとくに顕著に描かれているように思う「犠牲と罪」のテーマには胸を重たくするばかり。生きていくためには犠牲を避けることはできないが「よわきもの」を一方的に搾取しつづけているぼくらにできることといえば感謝すること、敬意を持つこと、それから罪の意識をつねに意識し、そのうえでできるかぎり慎ましく生活することぐらいなのだろう。やはり人生は切ないと思う。「洞熊学校を卒業した三人」を読んでさらに悲しくなってしまった。花とみつばちが示すものもまた空虚。仕事柄、フランドン農学校の豚はひじょうにつらい作品だった。ユゴーの『死刑囚最後の日』よりもよっぽど強く心に迫った。前に屠殺場で聞いたが、豚や牛たちはその眉間に鉄の円柱を打ちこまれるまえ、死を覚悟して泣くそうだ。スーパーに並べられた肉しか知らないぼくらというのはとてもおめでたい連中だと思う。「土神ときつね」もつらいお話。「税務署長の冒険」はわくわくしながら読むことができた。詩ではやはり「永訣の朝」。「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」ここに作者のありのままの心をみた。それから「林と思想」にもいたく共感。春と修羅の行間に抑圧された蒼い激情には胸が共鳴してしまう。

(Eさんの感想を読んで)
C:Eさん、評論を出せばいいのに。
D:詩を書く人の文章っていいですよね。

<参加者F>
◆私の中で宮沢賢治とは、自発的に読むというより、教科書的に押し付けられる印象があって。オツベルと象も、作品より担当教員の顔が浮かんできてしまう。教員と相性が合わなかったのが切っ掛けで国語を学ぶのがいやになり、英語に切り替えた経緯があるので。
銀河鉄道の夜
◆再読。大きくは童話なんだろうけれど、死者の話という印象が強い。
◆非常に神話的な、垂直的世界観。
◆モチーフとなっているのが“川”。銀河も川。一貫して流れている。
ジョバンニの母の「川へははいらないでね。」という台詞があるが、川は“俗世とあの世を繋ぐ境目”のメタファーではないか。そして、天の川が線路となり、そこに登場する汽車は、死者を送る舟の代わりのように読める。
◆結末を見ると、銀河鉄道はあの世に魂を運ぶ汽車であり、SFでよく見る設定の起点はここなのだと思う。
◆死者ではないジョバンニがなぜ乗れたのか?⇒祭りの日は次元が歪み、あの世と一瞬繋がるとされている。作中のケンタウル祭は、盆や彼岸を拡大解釈したような祭りなのかもしれない。天界があって、地上があって、地獄なりなんなりがあって……仏教でもキリスト教でも、他の世界がある。和洋折衷で取り入れたのだろう。
◆乗客は、それぞれの人生により下車する場所が違う。仏教の六道も取り入れている。
◆「天気輪」こそ、輪廻の輪の転輪から派生したのだと思う(「天気輪」は宮沢賢治の造語で、辞書には載っていない)。モデルは輪廻とか転輪かな。
ビルシャナ仏は、輪廻から抜け出した人なので、Eさんの仰ることは一理ある。
◆ダンテの地獄巡りの天上版みたいな感じ。行って戻ってくる巡礼譚。川に落ちて、川に戻ってくる。地上の川、天上の川が繋がって円を描いている。よくできている。
◆私は、ジョバンニとカムパネルラの友情はあまり感じなかった。“身近にある死”を感じさせてくれた。間違っても子ども向けではない。
◆文章は古いけれど上手い。
宮沢賢治が教員として培った理科系・農業系の知識を、オーナメントとして使っている。
◆「らっこの上着」。私は、ジョバンニの父が密漁者なので囃されていると読んだ。宮沢賢治の実家は質屋で、人から搾取しているという思いがあり、そこへジョバンニの“父が密漁で儲けていることの後ろめたさ”を重ねたのでは。推測だけれど。

<参加者G>
銀河鉄道の夜
◆私は授業中に外ばかり見ていたから、先生の影響を受けておらず、押し付けという感じはしない。教科書の印象もなくて。アニメから入って、30代か40代のころに読んだ。
大人として「銀河鉄道の夜」に接して感動した。アニメの美しい世界もよかった。今回も3回は号泣した。死に近い年になって、死者の世界が身近になってきたら、この死生観に共感する。
◆解説できない。なぜかわからないけれど感動して泣いてしまう。腹の底から感動がこみ上がってくる。
宮沢賢治は、大正11(1922)年に最大の理解者である妹のトシを亡くし、その2年後に「銀河鉄道の夜」の初稿を書いている。死んだらどこへいくのだろう、死者はこういうところへ行くのではないかと、自分の悲しみを乗り越えていったのでは。
◆表現方法、描写方法を自分の作品にも取り入れたい。
◆以前、文学学校の講師から「宮沢賢治を受け付けない人が一定数いることを忘れてはならない」と聞いた。ほかで児童文学を学んでいたときもあったが、そこにも「死んだ人のことばかり書いているから」宮沢賢治をきらいな人がいた。
◆敬遠されるのは、どの作品にも宗教くささがあるからだと思う。宮沢賢治日蓮宗に傾倒していたので。
◆現代では定番のようになっているけれど、宮沢賢治の作品が見直されたのはバブルの後で、そんなに定型な人でもない。
◆私は宮沢賢治村上春樹の作品に癒しを感じる。気持ちがしんどい人はそうじゃないかな。健全な人は拒絶反応を起こすのかも。

<フリートーク
【「誰か/何かに影響を受けて書く」ということ】
C:宮沢賢治村上春樹の文章や表現を参考にしたい気持ちはわかるけど、しないほうがいい。誰に影響を受けているかバレるから。換骨奪胎するのならいいけれど。
私は真似をしてしまいそうなので、村上春樹は読まないようにしている。
G:心酔すると作風が似ちゃいますね。村上春樹っぽい作品を読んだことがある。
C:司馬遼太郎的なものや松本清張的なものを書く人もいる。読者としてはいいけれど創作者としては気をつけないと。鑑賞者として読むのと、創作者として読むのは違う。とくに長く残っている作品を読む場合は。
G:書き方がわからないとき、人に「オリジナルはない。脳内の情景はオリジナルで見られるわけがない。だから真似していい」と言われた。ほとんどの芸術は模倣から始まる。
C:それは正論ですけど。やはり自分が好きな作品を取り入れてしまう。
G:いろいろなところから取り入れて、元がわからないようにすればいいのでは。
C:境目が難しいですね。

【国語教育の中の「感想」】
◆C:高校では「現代文」が「論理国語」と「文学国語」に分かれるようになる。賛否はあるが、会社に入ってきて文章を書けない人がいると、なぜ学校で教えないのか、と思う。
◆F:国語教育は、感想文を書かせますよね。私は批評文なら書けるけれど、ですます調の国語感想文が苦手。
ちなみに大学生に批評を書かせたら、ですます調の感想文が出てくる。社会人になる前にやめろ、と言うんですが。
C:修学旅行も、行く前から感想文が決まっている。白紙の状態で書かせない。原爆ドームに行っても、知覧特攻平和会館に行っても感想は同じ。でも、原爆ドームには原爆ドームの、知覧には知覧の感想があるはずなんです。知覧には特攻隊員の前向きな遺書がたくさんある。教師は「これは書かされたのだ」と教える。教え方が決まっている。
F:修学旅行へ行く前に感想文を書かされたりしましたね。当日お腹を壊したと書いたら、本当にお腹を壊したふりをしろよ、という罰ゲームみたいな企画で。
C:私は引率する先生の視点で三十枚くらい書いた。やっぱりこいつは遅刻した、みたいな。それが私の最初の小説かも。
G:私は感想を書かされなかった。
F:私のころはすごく書かされた。だから、大学の評論の課題にも“感想文”を書いてくる学生が多い。

【作者と作品について】
G:「注文の多い料理店、何が面白いのかわからない。
C:わかりやすい。どんでん返しだし。
F:起承転結、絵に描いたようなどんでん返しがある。3分で人形劇にしやすく、コストパフォーマンスがいい。
銀河鉄道の夜に関しては、それが通用しない。宗教くささ・説教くささがある。「動物である以上、何らかの搾取から逃れられない。どう折り合いをつけるのか?」と煩悶している作者の思想が垣間見える。ジャンルは違うが、レフ・トルストイの説教くささを思い出した。
宮沢賢治夏目漱石は気の毒だと思う。作家や作品が定型化しているというか、「安全ですよ」「安心ですよ」というブランドになっているのは、ある意味の権威。国語教育に“スタンダード”として取り入れられて、現代国語とか、そっちに引っ張られてしまうのじゃないかと。アニメになったり、NHKの人形劇になったり……子どもに見せても安全という“パッケージ化”“陳腐化”されて。
実際に作品を読んでみたらそうでもないんだけど。現状では、大事なところを見落としてしまいそうで。手記とか詩のほうが本質に迫れるはず。
死後、大量の春画が出てきたんだけど、死ぬまで表沙汰にできなかった。
G:農民にも肉は食べてはいけないと説いていたけれど、自分は鰻を食べていたし、矛盾を抱えていたと思う。
F:教員だから、(ジョバンニの父が行っていたかもしれない)密漁のことなどは知っていたはず。「自分は後ろめたいお金で生きている」「搾取せずには生きていけない」という思いがあり、逃れるべき銀河、天上を書きたかったのでは。
G:実家が質屋で、貧しい農民たちの着物や質草を扱い、そのお金で生活して……宮沢賢治は熱心な日蓮宗徒だから、罪の意識はあったと思う。
C:肉を食べてはいけない、というのは仏教の教えではない。日本では、天武天皇が肉食禁止令を出したことで混ざってきた。
F:もともとの仏教では、利益のために殺生をしてはならない、としか言っていない。
C:お釈迦様も牛乳を飲んでいたし。断食明けにスジャータから乳粥を与えられている。
宮沢賢治を読書会で取り上げるのは難しいですね。もう語り尽くされているから。銀河鉄道の夜自体では、質屋や妹に触れられていないので絡めていいものかどうか。
G:初めて読む人に、そういう解説はしちゃだめですね。
C:夢から覚めたら、こうなっていた。「不思議の国のアリス」みたいな。銀河鉄道の夜も、それで読んだらいいと思う。

【施すということ】
G:このベスト集には載っていないけれど、私が好きな作品は「蜘蛛となめくじと狸」(※収録の「洞熊学校を卒業した三人」は「蜘蛛となめくじと狸」を改稿した作品)。蜘蛛もなめくじも狸も、みんな死ぬ。最初に「三人とも死にました。」と書かれている。

『100日後に死ぬワニ』ってあったじゃないですか。死ぬのがわかっていると、作品の味わいや風合いが変わってくる。
「蜘蛛となめくじと狸」では、他の生き物を食べて、大きくなって、死んでしまうんですが。
F:宮沢賢治のそういうところが苦手という人が多い。家畜は家畜という線引きがない。共感しすぎている。私は共感しないほうなので、自分の本棚には置かないな、と。
C:線引きは下手かもしれない。生と死も……
F:そこをぼかせる存在を使っているんじゃないかと。この時代、子どもの死亡率は高い。=半分死の世界と繋がっている。だからこそ、銀河鉄道の夜の主軸にあるのは子ども。ジョバンニは生きて、カムパネルラは帰ってこない。
物語はよくできているし、日本語をうまく使っているし、日本文学の宝だと思うし、教科書に載るのもわかるが、人物を調べていくと個人としては苦手。作者についての解説を読むとアレルギー反応が出る人はいると思う。宗教に凝り固まっているというか、実家が裕福な人がやっているな、と鼻につく。作者が見えづらい作家だと、そういうのは少ないんだけど。
(作者が見えてしまうから)私は太宰治も好きじゃない。
G:どこにでも行ける切符は“想像力”。亡くなった人にも会える。農民の気持ちがわからなくても、想像することはできるんじゃないかな。
F:想像を人に押し付けるな、と。色眼鏡で見てるし、農民と同じ生活をしようとしても長く続かない。「農民芸術大綱」とか頑張ってるんだけど。目につく場所にあるから気になるのかなとは思う。
G:マザー・テレサも裕福な家で育った。
F:マザー・テレサも好きではない。功績は認めるけれど。あなたは米を作れないでしょう、私たちを見下しているでしょう、と思ってしまう。
C:偽善っぽく感じてしまうんですよね。
オードリー・ヘプバーンは後半生をユニセフでの仕事に捧げた。彼女のファンであれば好意的に取るけれど……
F:チャリティは施すほうが選ぶんです。選ばれなかったほうはどう思うのか。
C:受け取るほうも、オードリー・ヘプバーンなら受け取る、というような部分はあるので一概には言えない。天皇陛下の被災地訪問も、受け取るほうは感動している。
B:盛岡に「いわて銀河鉄道」という鉄道事業者があって。この名付けは農民側の復讐じゃないですかね。
C:有名だから。恐竜で町おこしみたいな。
F:知名度抜群ですからね。結果としてはそうなっているかな。
ほかの作家にも言えるけど、ある種の押し付けがましさは、健全なら名作につきまとうもの。

【解釈は読み手に委ねられている】
C:ジョバンニの切符。ジョバンニは死んでいないから、あれがないと途中で下りられない。そのための設定として万能な切符があると考えるのはだめでしょうか。意味付けを考えるとファンタジーは成り立たない。
F:どこまでファンタジーとして受け止めればいいのか、調節に時間がかかった。脈絡なくいきなり汽車に乗るので。
C:子どもはそれでいいんです。大人は理屈で読んでしまう。「不思議の国のアリス」だって子どもは受け入れている。
B:ジョバンニの切符は三次元から持ち込んでいる。敢えて語らないことで深みを持たせるというテクニック。未定稿だからかもしれないけれど。
G:鉄道が走っているのは幻想第四次世界ですよね。三次元ではない。
F:そこは深く考えず、夢、でいいかな。
C:みんな理由を求めますよね。「明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか」とか。事実を受け入れればいいのに。
銀河鉄道も、気づけば座席に座っていればいい。文学学校の合評なら、乗り込むところを書けと言われると思う。ファンタジーは理屈を問い詰めないほうが読めるんじゃないかな。
G:ライトノベルの作家さんが仰っていたんです。純文学は理屈を求める、と。
また、リアリティの問題も。背が低い男性と女性を書くとき、男性150cm、・女性170㎝のほうがリアルだろうけれど、ファンタジーなら男性140cmで女性2mのほうが面白い、とも。
C:たとえば、八月に桜が咲いている作品を書いたら「間違い」と指摘されるんだけど、八月に桜が咲くような異世界なのかもしれない。そういう世界だというオチがあるかもしれない。
理由なく書き始めて、発想が出てきたときに、その発想のまま書いたらいい。
F:こういうジャンルと思って読むから受け入れることができる。宮沢賢治の作品は起承転結がはっきりしているので、銀河鉄道の夜は彼にしては珍しい作品だなと思った。解釈は読む人に委ねられている。