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『ブロークバック・マウンテン』E・アニー・プルー 、米塚真治訳(集英社文庫)

Zoom読書会 2022.08.21
【テキスト】『ブロークバック・マウンテン
      E・アニー・プルー 、米塚真治訳(集英社文庫
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者E)>
◆まず『ブロークバック・マウンテン』の映画を観て、そのあとに原作小説を読んだ。小説は文庫で80ページほどと短いけれど、映画は134分と長く、人物の背景がしっかり描かれている。小説と映画の両方に触れて、話の作り方などの勉強になった。
◆BL小説を書かれているCさんにこの映画と小説の話をして、それがきっかけで今回参加させていただくことになった。

<参加者A>
◆視点がくるくる変わり小説としては読みづらい。
◆掴みづらいところがあったが物語として面白い。ひたすら下り坂。若いころが一番美しくて、あとはすれ違い、劣化コピーを重ねていくだけ。
◆いきなりセックスから始まるのがアメリカ的だと感じた。私が馴染んだ恋愛ものでは、セックスは物語の最後に描かれることが多い。
◆最初にセックスを描き、その後の2人の関係を追っていくのが面白い。
◆イニスとジャックはなぜ地元を出て行かないのか。地元を抜け出せない、ある種の呪いがあると思う。私の故郷の秋田県でもそうだが、地元を出る発想がない人は結構いる。
◆社会に影響を与えた作品。文学で戦って社会を動かすのはすごい。闘いの武器としての小説。本物の武器を振り回すよりいい。
◆余談だが、トレーラーハウスに住んでみたい。チェックのシャツを着て、ショットガンを持つような生活に憧れる。

<参加者B>
◆短いから甘く見ていた。今朝から読んで昼過ぎに読み終わって、映画を観た。確かにアメリカ映画になりやすいと思った。
◆映画と小説は違う。映画は映像が綺麗なので、それだけでも楽しめる。小説は読者が自分で情景を想像しなければならない。だから脚本家と自分の、小説の解釈の違いが気になった。
◆男同士の恋愛と友情。友情からどうして恋愛になっていったのか。変化の部分を詳しく知りたい。友情が恋愛に変わっていくまでの描写が短い(寝袋のシーンまでが短い。小説では22P)。急に始まって、それがずっと尾を引いている。映画は、そういう観点で作られているのでは。小説では、変化していくのを読んでもらいたかったんじゃないかな。
◆男同士の恋愛とは何なのか。競合関係にあるのか、よくわからなかった。今のBL小説でもそれがわからない。
◆イニスの妻・アルマが、イニスとジャックが抱き合うのを目撃するが、アルマにとって何がショックだったのか。自分以外の愛人ができたという嫉妬か、男同士の関係に対する嫌悪感か、あるいはその両方か(夫の相手が女性なら、同じ反応になっただろうか?)。映画では嫉妬を前提としていたのではと思うが、作者の意図はどうなのだろう。アルマの中では、どちらの感情も複雑に絡み合っているのでは。そこをどう整理するのか期待したのだが、出てこなかった。
◆展開としては、なぜ目撃し得る場面を作ったのか。話が進まないから、わざと目撃させたのでは。私は、立ち聞きで話を進めるような手法は嫌いなので、小説の在り方としては抵抗があった。
◆イニスとジャックに序列があるとか、もっと作り込んでいけば不自然さがなくなるのではと注文をつけたい。

<参加者C>
◆ネットで映画や小説の感想を読んでいたら「不倫だ」という意見が結構あった。確かに、現代日本の男女間でのことなら、私も「別れてから付き合え」と言うだろうが、時代や国が変わるとそうはいかないと思う。
同性愛者がヘイトクライムの対象となり、生命も脅かされる状況で、二人が結ばれるのは難しい。現代の日本でも独身だと奇異な目で見られることがあるが、当時のアメリカ南部ではもっと大変だったのでは。
作品の舞台になっているワイオミング州は今でも保守的な地域。また、カウボーイ文化も同性愛を許容しない。その設定がすごい。
また、イニスが「普通の暮らし」を捨てられないのは、父親が同性愛者を殺したことが深く影を落としているから。ここを忘れてはいけないと思う。
◆友情と恋愛などの感情は、くっきり分かれているというよりもグラデーションになっているのではと思う。そこに線引きをするのは難しい。同性へのさまざまな感情は特別なものではなく、それを特殊にしてしまっているのは、周りから迫害されるのではという(イニスが父親から与えられたような)恐怖心などではないか。
◆文庫の訳者あとがきを見て気付いたこともあった。一読したとき、鼻から出血したイニスにジャックが救いの手を差し伸べ、イニスに打ち倒された……というのがよく読み取れなかった。
◆映画は時系列やどんな状況かがわかりやすかった。字の文や会話で説明されている部分が場面としてあったので。
そのぶん解釈が狭まっているかなと心配したが、ジャックの妻・ラリーンなど、小説で印象が薄かった人物の造形に深みを感じられてよかった。小説だと、ジャックの死についてイニスと電話で語る場面の彼女は「冷静な声」「その小さな声は雪のように冷たかった」としか表現されていないが、映画では(ラリーンを演じる)アン・ハサウェイの表情から、ラリーンはジャックを大切に想っていたのではと感じられた。そのあたりの解釈は映画ならではだろうか。
◆解説にあったとおり、映画では描かれていない部分もあって、小説との解釈の違いを感じた。
◆「普通」とか「まっとうに生きる」とはどういう意味か考えた。
◆2000年代、保守的なユタ州や、中国では『ブロークバック・マウンテン』が上映禁止になったそうだ。現在でも、国や地域によって根強い差別がある。
社会情勢は年々変わってきているが、差別などはなかなか消えないし、また無かったことにもできない。同性愛以外の差別についても同様だ。そんな中で文芸は何ができるのか考えていきたい。

<参加者D>
◆論理的に言えないが、すごく悲しかった。私は普段平坦に過ごしており、めったに笑ったり泣いたりしないが、重い悲しみが胸に残った。動物が死んだ作品で号泣するとかではなく、胸に残るような悲しさ。短い物語だが、短き中に愛と人生があると思った(映画も)。
◆若いときにそういう関係になって、イニスは愛だと気付いていない。ブロークバック・マウンテンの焚き木の前でイニスがジャックを抱きしめる。愛の交流。二人とも気付いていないが、深い愛が刻まれてしまっている。エロティシズムだけではなく、相手の人格に関与し合う。魂が交流し合う深いセックスで愛が生まれた。
◆背景が荒涼としている。羊ばかりで、あとはコヨーテや熊。文明の香りがまったくしない。Aさんが仰った田舎の呪い。保守的なのも含めて。荒涼としている中、二人の人間が出会って、人間同士として混じり合う。原始的な部分も含まれている。
◆男女だと、結婚して、子どもを産んで……となる。子どもがいたら作業分担して次世代を育てなければならない。それが情や家族愛に形を変えていくが、男同士はそれがない。純粋な愛だと思う。
◆愛を一生貫く。ジャックは他の男を連れてくるが、心はイニスにある。イニスは気付いていないがジャックを心から愛している。体は感じているが心は気付いていない。作品に描かれた時代では同性愛が認められていない。生活がある、子どもがいると言いながら、本当はジャックと一番暮らしたがっていたのはイニスでは。自覚がない、男特有のわかってなさ。悲哀を感じる。ラスト、トレーラーハウスで「永遠に一緒だ(※映画字幕)」と言うが、社会的にイニスの人生は終わっている。冷暖房もない、荒涼としたトレーラーハウス。そんな男が夢を見たり、枕を濡らしたり、シーツを濡らしたり……体はわかっている。一番寂しい。
◆映画を観てすぐは原作のほうがいいと思ったが、そのあとご飯を食べていると涙が出てきた。うまく説明できないが、話し合うことで理解していければと思う。

<参加者E>
◆少し話が変わるのですが……皆さん、レイチェル・カーソン沈黙の春』は読まれましたか? 1960年代に書かれた、殺虫剤や農薬などの化学物質の危険性を訴えた作品です。
癌になる人は60年前に比べて増加している。また、ヒトの精子が半減しているという報告や、発達障害の患者数が増え続けているというデータもある。
レイチェル・カーソンが警鐘を鳴らしたように、化学物質が生物に影響を与えているのかもしれない。文学作品が未来を予言することもあると思う。
ロシアのウクライナ侵攻、核戦争の危機……手には負えないテーマだが、書けたらいいと思う。テーマがきっちりとした話を作ることはなかなかできない。
◆『ブロークバック・マウンテン』の原作小説では、イニスとジャックの、20年に渡る付かず離れずの関係が描かれるが、映画に比べて筋書きのように感じた。映画は背景がしっかり作られている。ゲイへの偏見、ゲイだと自覚しているジャックが社会から浮いていること……当時のアメリカがどうだったのか印象づけられる。
筋書きを物語に作り変えるヒントがあり、映画を観たことによって大切な作品になった。
◆この作品を通して、ゲイの人たちも私たちも変わらないなと感じた。人間には食欲、性欲、愛情欲などいろいろな欲求があるが、自分ではどうしようもできず、他人が興味本位で語ることではない。また、「こちらではなくこちらを好きになれ」と言うべきではない。それを気付かせてくれる力があった。
◆ホルモンの撹乱が起きて、男性が女性化する。本人の意思の外にあることだから仕方ない。それに、映画を観て気付かされた。
◆Dさんの仰られた「深い悲しみ」。人間と人間、好きとか嫌いとかを通り越して離れられない関係を主人公たちで表している。それでLGBTを差別するのはまったく別の話。
◆訳者あとがきにもあったように、アメリカ人のゲイに対する認識を変えた作品。
◆一番好きなシーンについて。イニスが仲良くなった酒場の女性に「面白いから惚れるんじゃない」と言われる。押し付けられて好きになるんじゃない、と。イニスはそこで喧嘩別れしたジャックを思い浮かべる。話のテーマを固める場面だと思った。
◆映画の美しい映像はカナダで撮影されたそうだ。映画として美しいなと思った。

<参加者F(提出の感想)>
 性的マイノリティを主題にした悲劇。社会問題提起作品。ひややかな二元論を根とする世の中における、「異端」たちの過酷で困難な現実が描かれている。時代や文化背景はちがえと、バイセクシャルのリアルを知れたことは大きな実り。(ほかの性的少数者たちとちがい、彼らは単なる快楽至高主義者だと考えていた)他民族・多文化を受け入れる先進的・多様性国家という外見を持ちながら、じつのところ狭量で浅薄で無責任な個の集合に過ぎない、という作者の声はひどく切ない。社会的弱者(性的な意味でも、生き方としても)にスポットを当てることで大衆を啓蒙、世論を動かし、法を整えさせ、もってすこしでも多くの人間に安寧をあたえる、という「作家」ならではのしごとの尊さに心から敬服。
 ただし、個人的にこの物語はあまり深く入れなかった。同性愛・異性愛にかかわらず、濃密な粘度に満ちた性作品は苦手。というより嫌悪。頭から拒絶してしまっている。むかしのぼくなら気持ち悪くて吐いていただろう。触れることすらできなかったかもしれない。性的なコンプレックスはいまだに晴れず。なまなましい粘液や湿気、汗や吐息、皮膚の感触、何より肉体的な絆の体感、それらの想像すべてがぼくを冷たく苛む。
 しかしまた、作中で表現された寓意的対照には感銘を受けた。「山上」における禁じられた関係と、「下界」における閉塞した結婚生活。X軸上の別世界――無垢なよろこびに満ちあふれた天上異界と醜く息苦しい俗世の対比、そのコントラストはあざやかですてき。このモチーフが宿した普遍性と多層性にはいつだって心酔いしれてしまう。
 また、タイトルにもなっている「ブロークバック・マウンテン」が孕んでいると思われる暗喩のかずかずを想像するのは楽しかった。内的時間が止まった場所、人生の契機、価値観の反転点、持って生まれたじぶんを知り、そして受け入れたところ。失われた楽園、あるいは自由、それから居場所。幸福の記憶。心の支え、もしくは慰め。それから安らぎ。世間で生きていくためにはだれしもペルソナが必要だが、それだけでは身がもたない。たとえマイノリティでなくとも、だれにだって秘密の花園があり、また、アニマ・アニムスを宿して生きていると思う。外側からの圧力が強ければ強いほど、内圧が増していくのは自然の道理。目の前にある人生や世の中が生きづらい、息苦しいと感じれば感じるほどに、主人公のふたりが「ブロークバック・マウンテン」というエデンに心惹かれていく、という展開は胸を打たれた。「夢」が心に安らぎを与えている点も印象深い。
 ジャックの閉ざされた自室の「重ねられたシャツ」も悲哀をさそう。
 イニスとジャック、それぞれの心的外傷とコンプレックスにも胸を痛める。
(割礼についての当時の常識は勉強になった)
(下世話な話だが、読み進めるうち「相棒」という語句がだんだん深みを帯びていった)
 どちらの「親父」像も印象的。とくにジャック方。ちいさな社会の絶対者であり、多くの種をまき散らせながら無責任で無思慮、そうして冷酷。有無をいわさない絶対的な切断力が己にとっての「異物」を徹底的に排除・粛清しようとはたらく。「モンスターとして殺されなければならない」という文章はインパクトが強かった。キリスト教的二元論文化の背徳と反省がうまく象徴されていると思う。太った妻の微妙な立ち位置も印象に残った。
 ジャックの死と同様の事件はきっとあまたあったのだろう。あらかじめ予期されていたとはいえ、物語として衝撃的なこの展開は、世の風潮に波紋を投げかけ、意識改革をうながし、結果としてマイノリティを擁護するためのシンボルとして不可欠であったことは明白と思う。よくも悪くも、悲劇の死は大衆に受け入れやすいから。
 寓意深い構造を背景に、濃密な粘度でマイノリティの現実を描いた作品。古い常識や頑なな理不尽にちいさな石を投じることこそ、作家たるものの使命でありよろこびと感じた。

 特異な視点で描かれる文章表現はおもしろかった。比喩や擬人法が自由でゆたか。また、心のすがたを行動であらわす描写が巧いと感じた。じぶんのことば・己の感性で書いているひとだと思う。一般的でない作風は非難の的にされてしまうのが常だが、だれかの真似をするくらいならわざわざ文章など書かなくていいだろう、と思う。作品の主題同様、持って生まれた気質や価値観が少数派に属していても、できる限り、ありのままの自己を表現していこうとする生き方は深く共感。(ただし、訳者の腕かセンスのためか、ところどころぎこちない表現があったことも事実)
とくに感銘を受けた表現は以下のとおり。
「風はたき火の炎にざっくりと鎌を入れ」
「風は草地のあいだに櫛を通し」
「猫のしっぽをした穂が、水面に花粉で黄色い指紋をつけた」
「火花と共に、二人の真実と嘘とが舞い上がった」
「家屋はみな雑草に埋もれ、うつろな目をして座りこみ」
「雪のようにつめたい声」
「天使は大の字になり翼をたたんだ」

 地の文に()で注釈が入ると読みにくい。リズムが乱れ、話が途切れる。かといって説明なしでは円滑に進めない箇所もあった。訳本ならではのもどかしさ。光文社新訳のスタイルに慣れてしまったからなおさらだろうか。

<フリートーク
B:現代は発言に注意しなくてはならない。夫婦別姓同性婚に反対する人は間違っているという風潮があるが、それらは「間違い」ではなく「別の意見」。マスコミも過剰に騒いで、少数者への差別だとしてしまっている部分がある。だから小説というかたちで提示しないと発言できない。
D:ネットの世界でも、しょうもないことを言ったらボコボコにされるから、皆ナーバスになっていますね。社会全体がピリピリしている。
Bさん。アルマの、イニスとジャックへの感情は嫉妬と嫌悪感どちらか……と仰ってましたよね。(映画で)アルマは「男同士で汚らわしい」みたいな表情をしてなかった?
B:映画は製作者の考えが反映される。この映画ではどちらにもとれるが、嫉妬に偏ってるなと思った。嫉妬としたほうが映画は作りやすいし、万人受けする。大衆にウケる映画づくりがあったのでは。
D:ラリーン(演:アン・ハサウェイ)もアルマ(演:ミシェル・ウィリアムズ)も乳房を出していてびっくりした。乳房に象徴される女性性をすごく感じた。男同士の恋愛と、男女の恋愛は違う、という表現。
B:「これが男と女だ」という。その違いはここにあるんだよ、って。慣れっこになってるから見過ごしているけれど。
D:有名女優のアン・ハサウェイが脱ぐのにびっくりした。迫力があって。
イニスとジャックが裸で崖の上から飛び降りるシーンでは純愛を感じて、女性の乳房には不純を感じた。孕んでしまうじゃないの、って。孕むのが不純ではないけれど……。
B:これ、「体の関係を忘れられない」とも取れる。山の上での経験が忘れられない。純愛として忘れられないというものあるかもしれないけど、一度覚えてしまった快楽を忘れられないとも読める。読む人次第。私は純愛とは読まなかった。もたもたしてるな、って。
D:私は深い体の関係から生まれる純愛を信じている。本気で肉体関係を持てば愛が立ちのぼる、という信奉者(笑)。
B:それは主体的な考え方。人間はどうしようもなく物質的な存在。Eさんが仰ったように、(化学物質など)外からの影響もあるかも。でも今の風潮は「多様性」の尊重。それでは逆差別になるのでは。大きな問題提起をしていると思う。
D:Cさんも私もBLが好きなんですよ。差別じゃなく。「BL好きって、けったいな女の子やな」って思ってたんだけど(笑)、半年前に『おっさんずラブ』(2016年、テレビ朝日系列)を観たら急にハマって。
E:私は逆。『ブロークバック・マウンテン』を観て、一切差別がなくなった。体はホルモンに影響されて、ホルモンに左右されるから。(個人の性的指向について)人が言うことじゃない。
B:理屈ではそうでも、もし自分の子どもが同性愛者だった場合、受け入れられるのだろうか。部落差別にしても、自分の子どもが被差別部落の人と結婚したと言ったらこうなる。
E:今、戦争してますよね。何ができるのか考えたとき、周りの人に優しくするしかできないと思って。寄付とかはできるけど……。身内に優しくすることしかできない。
もし子どもが被差別部落の人と生活することになっても、私は差別しちゃいけないなと思った。
B:それは正常だし、(映画を観て)そうなる人にいてほしい。それが作品の存在価値だから。でも、いざとなったとき、どうするか。そこまで作品は面倒を見てくれない。人間は論理的動物じゃなく感情的動物だから。「原発を近所に作ります」と言ったら反対する人が多い。それをいけないというつもりもない。難しい。
E:そこに芸術の重要性がある。
B:これを読んで、そういう気持ちになるところまではいい。
A:今の論点は差別ですか。私もBLや少年ものが好きだがファンタジーとして見ている。この作品のように生々しく書かれると抵抗はあった。(BLや少年ものが)性的消費じゃないかという議論もある。距離感が大事かな。
C:私もBL小説を書くので、性的消費ではないかということに悩んでいて。ゲイの中にもBLが好きな人もいるようだし難しい。私はバイセクシャルの友人が結構多いんですが、その中にもBLや百合を好きな人がいる。どこまでが性的消費なんだろう。男女の過激な描写も性的消費になるのでは、とも思うし。
D:目先の快楽を追い求めずに、原始的な美しさがあったら性的消費ではないのではないかな。
私はエロティシズムを書いてもエロくないって言われる。やっぱり人によって性的指向とかエロティシズムは全然違う。
B:(創作物に対する)経験値ですよ。どの程度慣れているか。頑固な人は考えを変えようとしない。世間一般がどう評価するかとは別に。
私は、手塚治虫リボンの騎士』や江口寿史『ストップ!! ひばりくん!』が好きだったので、好き嫌いで言えば受け入れないタイプでもない。
リボンの騎士』の主人公は、男の心と女の心、どちらも持っている。跡を継げるのは男だけなので王子になったけれど、喜んでなっているのか、仕方なくなっているのか。男の心も持っているなら喜んでいるかもしれないけれど。手塚治虫の意図はわからないが。