読書会LOG

R読書会/Zoom読書会

『パラソルでパラシュート』一穂ミチ(講談社)

Zoom読書会 2022.02.26
【テキスト】『パラソルでパラシュート』一穂ミチ講談社
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦の理由(参加者G)>
Zoom読書会では、男性作家の手による、現代以外や海外舞台の作品が続いていたので、たまには女性作家が書いた(作者の性別はあまり関係ないかもしれないが)現代日本が舞台の作品を取り上げてもいいかなと推薦した。舞台は大阪なので、関西近郊に住む私たちには想像しやすいだろう。
一穂ミチさんは、私が「こんな文章を書きたい」と憧れている人の一人。綺麗な描写がたくさんあって、でも登場人物の設定がすんなり入ってきて、すらすら読めるというのはとても巧いからだろう。過去作はほとんど読んでいたが、推薦した時点で『パラソルでパラシュート』は未読。しかし、この作者なら大丈夫という安心感があった。
直木賞の候補になった短編集『スモールワールズ』は、ミステリー風などわかりやすい起承転結がある作品が多かったけれど、この作品はまた違うタッチでよかった。あと、帯の煽り文とはイメージが違った。
合う/合わないはあっても、巧い作品なので書き方の参考になればと思う。

<参加者A>
◆さっき読み終えた。図書館で借りようとしたら20件~30件待ちで、ネットで購入したところ届くのが遅かったので。
◆読みやすく面白かった。文章や表現も巧い。自分では手に取ることがないだろうし、そうするとこの作者を知ることはなかったので、読書会に向け読めてよかった。
◆物語の舞台の一つであるシェアハウスは、南海電鉄汐見橋線沿線の木津川駅汐見橋線に乗ったことはないが、汐見橋駅の近くに大阪市立図書館があり、車でよく行く。知っている地名が背景にあると想像しやすい。大阪の街を知っているので非常に楽しかった。
◆主人公が作品に合ったキャラクター。感受性が豊かで、芸人相手に反射神経もある。主人公として申し分ない。おっとりして、ボケてていいキャラを作ったなと思う。
◆芸人世界の丁々発止のやりとりが巧く書かれている。素人と芸人の違いがよく出ている。芸人の感覚は独特で、そう簡単にはなれない。素人が面白いことをしようとすると笑わせようというのが前面に出てしまう・芸人の芸とは全然違う、というのがよく書き込まれている。芸人を描くために素人の視点を選んだのだろうか。
◆登場するのは、一線で活躍しているギラギラした芸人ではなく売れない芸人。又吉直樹『火花』も売れない芸人の話だが、そういう世界しか小説にならないのだろうか? 一線で活躍している芸人は作品にできないのか? そこでもうひとつ何かあってよかったのでは。
◆謎という謎はなく、最後まで読み終えて「よかったな」という感じ。
◆夏子の正体が何なのかが一つの謎掛けになっており、コントネタに絡んでいて、巧く扱っている。
◆コントのネタがいくつも出てきて、よく書けている。しっかり書き込んでいるのがすごい。作者には、もともと素養があったのだろうか。

<参加者B>
◆最初、ふわっとした恋愛ものかと思って読み進めたらそんなことはなかった。25%のところでワイン飲んでチーズ食べてセックスするんだろ、みたいな偏見があったので。
◆コントのネタが書き込まれており、大変な作業量。私だったらやらないなと思う。
現代社会で生きる者がしがみついている、いろいろなパラシュート。生きづらさを、ふわっとシビアに嫌味なく書いている。現代は、告発調で書いたら読者に受け入れられにくいのだろう。女性の生きにくさが描かれているが、経済的に自活しなければいけない雰囲気は、男性である私自身身につまされる。
◆恋愛ものかと思ったら、ちょっと変わった人たちが暮らす家の話だった。切実だが、悪人はあまり出てこない。コミュニティが救いになる、こういう作品を読みたい人もいる。人間のコミュニティは現代において解体されがちだから受けるのだろう。
◆リフレインが効果的。ラスト、あべのハルカスで、大阪城ホールでの靴擦れや、弓彦の自転車に乗ったことを思い出したり。
◆大阪には以前住んでいたので懐かしくなった。汐見橋駅は聞いたことはあるけれど、どんなエリアか思い浮かばない。複雑な都市だったと思う。
◆あまり語らないけれど印象的なシーンでキャラクターを浮かび上がらせている(浅田さんなど)。弓彦だけ掴みにくい。彼だけ地に足がついていない印象。話を運ぶ役目だからかもしれないが。

<参加者C>
◆こういう設定でいくか、ありきたりだと思って読んでいくと、ありきたりな展開じゃなくなっていく。会話が多く文章が読みやすい。辛子が利いている。くすっと笑えるところもあった。
◆私の世代は恋愛至上主義。恋愛して、結婚して子どもを作る、みたいな生き方がいいとされていた。30歳までに結婚して、親の介護をして……。レールから外れると後ろ指を指されるような風潮だった。
だから、この作品に出てくるような生き方(恋愛にもならず、三角関係にもならず、コミュニティの中で生きていく、というふうな)がすごくいいなぁと思うようになった。親の介護も、今は公の機関があるし。
◆程よく貧しく、なんとか食べていって、毎日面白いことを考えて生きていく。将来のことを考えない生き方はいいなぁ、と思う。
◆定型的ではない人間関係が新しく生まれてくる。恋愛でもないし、三角関係で争うわけじゃない、なんとなく一緒に生きていきましょう、という柔らかな関係。
◆実際にはパラソルではパラシュートのように降りられない。計画性のある人生を歩む人からしたら、「じゃあ将来どうするの?」となる。

<参加者D>
◆舞台になっている場所に、(読書会メンバーの中で)現在進行形で一番近いのは私じゃないかな。南海汐見橋線高野山方面へ行く列車は、現在では難波駅から発着するけれど、昔はあの辺りが起点だった。コアな大阪。
◆大枠としては、「比較的古い価値観ではあるが、まっとうな人生を送ってきたにも関わらずキャリアに行き詰まっている主人公の女性が、異なるカルチャーに触れて前進する物語」。主人公の内面が、刺激を受けて変わっていく。
◆メインは恋愛ではなく、連帯とか横の繋がり。
◆私はスタンダードに会社に入りたかったが失敗した人間なので、芸人の男の子の気持ちがわかる。入りたくて入ったわけじゃないけれどここにいる、というような。
◆個人的に気になったところ。「主人公・美雨は『夏子(亨の女装)』に惹かれていく。『夏子』の元ネタは亨が憧れていた義理の母親・葉月であり、亨は彼女を自分自身の姿に反映している」という複雑な設定。
美雨は「夏子」に惹かれて、その周囲の人々とも仲良くなっていくが、後半で「夏子」の元ネタとなった葉月が現れ、嫌悪感や嫉妬心のようなものを抱く。
 美雨:今までキャリアを積んできたが、この先どうなるかわからず気晴らしをしていた。
 葉月:想定されるコースで生きてきたが、行き詰まっている。
 ☆葉月に対して、「いや、あなたもっとやれたでしょう」と口に出さないが思っている。
  ⇒同族嫌悪。鏡に言うような構造。
  ある種、最初に惹かれた女装姿はある面で自分の延長線のようなもので、
  自分がひた隠しにしていた弱さを見て嫌悪⇒そこに核がある。
◆古典文学で三角関係というと、一人を二人で奪い合う。亨は秘めたる欲望を自分が女装することで解消している。ナルシシズムなど複雑な形で。
◆スタンダードな恋愛要素はないが、屈折した想いを感じられる意外な作品。
◆作中にもあったが、「パラシュート」で思い浮かぶのはメリー・ポピンズ。異邦人としてやってきて、引っかき回して、新たな秩序を吹き込んで帰っていく。
◆複雑で整理しきれていないが面白い作品。

<参加者E>
◆168Pまで読んだ。図書館では30人待ちだったのでネットで古本を買った。
◆同時進行で別の本を読んでおり、重い文体に傾いてしまったため読み切れなかった。
◆透明感がある。ドロドロはないが途中から面白くなった。恋愛が始まるかと思わせて、始まらないのがよかった。
汐見橋駅から韓国語の教室に行っていたことなどを思い出した。
私は主人公と同じくミナミが苦手で、ミナミの場面は現実感が湧かなかった。
◆(受付嬢の仕事を)30歳で切られるという部分にリアリティを感じなかった。私の学生時代の友人は卒業後、総合職に就いた人が多く、25歳で子どもを産むという人がほぼいなかった。また、その後に知り合った人たちは、無職やフリーターなどレールから外れている人ばかりだったので、「30歳で切られる受付嬢」は異次元的で不思議な感じがした。
◆私の息子は現在28歳と22歳。就職しているが、2人とも「ずっと同じところで働くことはない」と言っている。
主人公は29歳で、まだいろいろできるので、崖っぷちという感覚はない。受付嬢はそうなのかな。現代的な感覚ではないように思う。
◆ネバーくんが実家に帰る決断をしたのは潔くて好感が持てた。
折った5000円札をくれた先輩(栄作にいさん)のほうが現実を直視できていない。若い人はネバーくんのような感覚を持っているのかなと思った。
◆私の若いころにはシェアハウスがあまりなかった。若いころにあったら入っていた。芸人がシェアハウスをしているのは現代的。いろいろな価値観が混ざっていてパラレル。自分だと思いつかない新鮮な設定だった。

<参加者F(提出の感想)>
「芸人さん」の実生活とその内奥を描いたお話。社会的マイノリティの福音書という印象を持った。あるいは「いばしょ」の物語。自己表現が生活の糧に直結している人間やその生き様の困難さや崇高さがあざやかに描き出されている。何だかひとにやさしくしたくなる気分にさせる。
 この作品の登場人物たちは冒頭からラストまで、それから恐らく「今後」においても安定とは呼べない生活を送っており、一般に流布している「幸福」、はなばなしい「成功像」やだれもが焦がれる「理想像」とはほとんど無縁な日常を歩いているが、けれどもその内面はとてもゆたかで心地のいい充足感に満たされているように感じた。それは、作中のことばにもあったように、彼らが「自分に殉じて」生きているからだと強く思う。もちろん、社会に生きる多くのひとびとはだれだって自分というものに責任を負っているものだが、しかし、決まった時間決まった作業をこなすことで月々に安定した収入を得ていくタイプの人間たちと、ここに描き出されている人物たち――、固定化された時間や仕事への依存度が低い――、が「体感」している責任や覚悟の重みや苦しさはやはり質がちがうと思う。すくなくとも、後者は一歩間違えれば明日の飯に事欠いてしまうのだから。極端にいえば受動的な生き方と能動的な生き方のちがいがそこに現れていると思う。あるいは農耕か狩猟か。でも、毎日毎日ぎりぎりの生き方をしているからこそ、その人生はうつくしい輝きを放ってみえるんじゃないかと思う。安定して咲く造花の花は、やはり美とは無縁だと思うから。もちろんそれは「自分で選んで決めたことだから」という強靭で不屈な意志が反映されてはじめて成り立つ美なのだと思うけど。
 彼らはちゃんと生きている。じぶんの力で生きていこうとしているように思う。そこに、強い憧憬と感銘をおぼえた。「安全ピン」がひっそり放った希望のひかりはたしかにとても安らかだった。「本人たち以外にはとてもしょうもない奇跡」という文章には胸がつまる。また、大手企業の受付に容姿をみこまれ採用された主人公と、かのじょが負った「暗黙の制限」は、キャラクターバランスとして彼らと好対照を成しているだけでなく、「社会的マジョリティ」を表現する寓話的イメージとして、それから、直線的で切断的で虚栄的な現代への非難と虚しさを表すものとして巧みかつ闇が深い。その主人公が属する社会を浮彫のかたちで表現していく千冬というキャラもまたすてきな補足点だった。(浅野さんという、また別種の生き方を体現した支柱もよかった)傘をひろげて笑いながら落ちていく、という意味がこめられていると思う今作のタイトルは、他者よりも敏感に、そして切実に「生きづらさ」を感じているタイプの人間にはあたたかく穏やかな救済のメッセージがこめられているように思う。「ひとと違う生き方」を選択したものたちの深く強靭な絆の表現にもまた心を深くなぐさめられる。
 肌感覚の高い文章表現や描写もすばらしい。詩情もゆたかで目にあざやか。作品の主題を反映させるかのごとく、この作家さんは「じぶんのことば」で書いている、という印象がとても強い。「感じたものをそのまま描いた」ようなみずみずしい体感表現やじつにゆたかな色彩感覚、それから各種のリズミカルな擬音には胸がはげしくたかぶった。同時に、読み手の理解と共感を安定して維持するための客観的でクリアな語り口もみごとと思った。もしかしたら、この作者もまた、「じぶんのことば」の限界に息詰まり、大いに修練を積んだのかもしれない。亨が弓彦という客観視あるいは境界を得て自己表現の術に磨きをかけたように、やはりどんな世界でも、ひとりよがりの世界観では生活が成り立たないのだろうと痛感。
 プロットとしてもっとも効果的に思えたのは「ぐるぐるさん」の存在だった。彼がはらんだモチーフはさまざまに解釈されておもしろい。亨の本音が「ぐるぐるさん」をとおして美雨をつつむ一夜のシーンには肌がふるえた。涙さえ出そうになった。ポール・ギャリコの『七つの人形の恋物語』を彷彿。大阪弁で自己主張した主人公にも胸を打たれる。
 その後の「安全ピン」の腹をわった会話シーンもよかった。それと、たったいちどだけ(と思うけど間違ってたらすみません)「美雨」と呼んだ亨のすがたは演出として印象的。「雨」で幕となるさいごのコントもまたすてき。ひとりの人間として、希望と救いをまざまざ感じる。「はるさめスープ」を熱愛する主人公像とその変容はキャラの立体性だけでなく、その人生岐路を象徴する表現としてすてきだった。しだいに「お笑い」に慣れていくところも読み手として心弾ませる点のひとつ。「夏子」という幻影がつなぐ男ふたりと女ひとりのあいまいで微妙なバランスもまた魅力だった。さいごまで直接的な恋愛性を表さなかったところは個人的にとてもうれしい。作風的に、やはり「安定」は好ましくないだろうと思うから。また、さりげなく、あくまでもやんわりと演出される性的な表現も巧いと思った。距離感と熱量が絶妙と思う。
 何事にもニュートラルでつかみどころのない「亨」の、描かれていない水面下の時間(たとえば大阪弁の取得とか絵にかたむけた情熱とかひとり葉月を想う深さとか)はキャラとしても設定としても心をゆさぶるものがある。人物像の「弓彦」というキャラの牽引力はすさまじい。また、「葉月」の人生は迫真性があっておそろしい。
 それから「郁子さん」という作品土台がとても圧倒的だった。魔女というか山姥というか。(包容力という意味で)人生的なカオスというものを背負っている印象。いや、あるいは「大阪」というカオスそのものか。その過去に深く切り込まないところがまたよかった。(ちなみに文校のチューターと同名。むっちゃ似てる。イメージとして)魔法といえば「浅田さん」が現実補償として夢中になっているコラボカフェも印象的。「魔法はかけられるものじゃなくて自分でかかるもの」名言だと思う。「鶴」はとてもあたたかい。また、主人公のつぶやき、「現実を見てるからこそ、非現実を愛してんのに」もすばらしかった。
「生きづらさ」を抱えながら日々を送っているひとに真心から勧めたくなってしまう作品。心の暗い部分もふくめた、あらゆる存在、あらゆる認識にはそれぞれ居場所があるものなのだとやさしくいたわってくれる安らかな物語だった。

<参加者G(推薦者)>
◆何も解決していないけどほっとする、不思議な作品。
◆恋愛小説という括りではなく、人生について書いた作品だと思った。重く書けるテーマを敢えて軽く書いている感じがする。
ものすごい波乱があるわけでもない。葉月が亨演じる夏子のコントを観るところがたぶん一番の山場なのだろうが、それにしたって大きな衝撃があるわけじゃない。でも、「夏子」について丁寧に積み重ねられているから響くシーンになっている。
◆「葉月」は8月の別名だから「夏子」になるのだろうか。
◆美冬ちゃんのキャラクターがいい。
◆美冬ちゃんの言っていることが実現可能かは置いておき、セーフティーネットの話(296P)がとてもいいと思った。そこが裏テーマかな?
◆温かいけれどずかずか土足で踏み込まない関係が心地いいというのはよくわかるし、現代的だと感じる。
◆この作品はどんな人も受け入れやすいようになっているが(反発が少ないと思う)、この作者の、もっとエグい人間関係や、気持ち悪い人間を描いた作品を読んでみたい。

<フリートーク
【設定について ①なぜ芸人の世界を描いたのか?】
C:今の若い人は恋愛しないの?
G:ほかにいろいろな楽しみがあるのでは。趣味とか夢とか。
D:この作品は、男女の在り方などに変にこだわる枠組みがなくて、「どういうふうにやっていこうか」「利害が合えば協力し合う」みたいな程よい距離感が基軸になっている。それぞれが息詰まって、とりあえずやることがあって、行ける人は一緒に行こうか、みたいな。抜ける人は簡単に抜けられる。寄り合い所帯というか、空港のトランジットのような都会的な小説。
亨は北海道出身で後天的に関西弁を板につけたビジネス関西人であり、厳密な意味において土地に根付かない。そこだけ現代的。この作品では恋愛が主人公じゃないんですね。
A:恋愛を避けるために芸人の世界を使った。普通の男女なら恋愛になるが、芸人だからダサいことはできない。一般手的な現代の縮図ではない。そのためにこういう設定を考えた。現実は、そこまで時代は進んでいない気がする。
(主人公が勤めている会社のように)変な重役がいる企業はたくさんあって、とくに古い企業や同族企業などに多い。こういう切り取り方をするために芸人の世界を使ったのでは。

【設定について ②読者によって共有できる部分が異なる】
D:読む人によって、部分的に「ここ知ってる/知らない」があるんじゃないかな。
◆私の場合、どうやったら正社員になれるか、
(正社員として働く人は)どういう面接を乗り越えたのかがわからない。
明日から住むところが無くなるかもしれない芸人の状況のほうが想像しやすい。
◆舞台になっている場所も。私たちは大阪に住んでいるから想像しやすいけど、
東京の人が読んだらおそらく異次元だろう。ex)大阪は芸人・素人の境界が曖昧。
シェアハウスのある場所は都心だけど最寄りの木津川駅はボロい。知られざる南海電鉄の駅。南海ユーザーとしては「そこを使うか」と思った。取材が巧い。
A:私も場所は知っているが、そこから電車に乗ったことがない。殺風景なところからどう行くのか、確かに冒険的なものを感じる。場所を知らないと特殊設定が通じない。
D:桜島線安治川口は、あの辺りの冷凍倉庫や物流倉庫で働いたことがないとわからない。取材で相当歩いたのだろうか。
G:作者は大阪の人だそう。
D:南海あるいは阪堺ユーザーかな。
A:あそこは仕事をする場所ってイメージだったので新鮮だった。
D:私も焼却場や物流倉庫で知っている。行くのも大変、帰るのも大変、みたいな。
A:大阪を知らない人が読むと、観光案内のように、知らない土地を知る楽しみがある。
D:関西以外の人は、文章から関西弁のイントネーションを想像しにくいそう。実際に目の前で話しても「テレビと違うからわからない」と言われた。
E:関西弁ネイティブじゃない人からしたら関西弁ってどうなんだろう?

【設定について ③都会と田舎の対比】
D:この作品では、大阪のいろいろな場所に行くんですよね。シェアハウスはあるんだけど、USJで遊んだり、街を闊歩したりする。東京の人から見たら異次元の小説だと思う。
気にかかった言葉として、葉月の「地方には概念がない」(269P)がある。都会に住んでいるとキャリアを選択できるけど地方ではその概念がない。そういうのも盛り込まれている。
ちょうど、花房尚作『田舎はいやらしい 地域活性化は本当に必要か?』(光文社新書)という新書を読んでいたところなので「お」と思った。田舎の人間はいつもと違うことをやりたがらないので現状維持になってしまい、人間も産業も衰退していく。
葉月は美雨を「都会的」と言う。それを聞いて美雨は必要以上に腹を立てる。それも都会対田舎かなと。その意識の差はよく出ていた。
A:柴崎友香も大阪を舞台に作品を書いている。御堂筋とか。
C:大阪の中心ってどこかな。
D:梅田でしょう。
A:梅田だと大阪っぽくなくなる。
C:天王寺とか難波とか。
D:和歌山の人は、大阪に行くときは天王寺になるんですよ、交通アクセスの関係で。その人から見たら、大阪=天王寺ということになる。
関東に置き換えると、埼玉の人にとっての東京は池袋。どこをベッドタウンにするかで変わってくる。
A:私は箕面出身なので梅田になる。浜寺に住んでいた祖父にとっては難波。昔は映画館がある場所が街だった。
E:今は都市って、どこも同じようになってますよね。
D:地方から出てきた人には、その都市を使っているのが信じられないものに見える。それが、北海道から来た葉月の姿に出ていた。美雨は、そこが鼻についた。
私が地元の友人に「東京に行っていた」と言うと、「東京って行けるの」と帰ってくるんです。東京はブラウン管に映るもので、行けるものではないと思っている。
自分を中心にして、ある程度充足する層がいる。地元でいいポジションにいて、楽しくやっているから、外部の人には来てほしくない。世界が狭く、身内の論理が法律。それが通じない都会は異世界であり、行く場所ではない。都会に出るのは、地元ではやっていけない層。
C:私が住んでいるのは大阪でも地方のほうだが、開けたところに住んでいるので夜でも寂しくない。居酒屋もあるし、スーパーも0時まで開いてるし。田舎はどうしているんだろう。
D:暴走族とかそう。そのカーストが続いていく。
町興しで外部の人間が入ると「余計なことせんといて」となる。選挙も誰に入れるか決まっている。同じ人が立候補しているし。

【作中の三角関係について】
C:この三角関係、理想ですよね。
D:屈折を感じる。作者がBL出身と聞いて腑に落ちた。BLの方法論。強い繋がりはあるけどそれを口に出さない関係、同性間の意識や、性の捻じ曲がりを感じた。異性装の元ネタである年上の女性を演じて凝る。オートガイネフィリアまではいかないが、元ネタとなった女性の目線が錯綜する。後半、怒涛のラッシュで何だと思った。
G:弓彦にもBLみがある。
B:弓彦を見てると「こんな男がいるのか?」と思う。
A:物語が終わった5年先、10年先はどうなっているのだろう。
D:そう思うとポジティブに考えられない。
A:この先、どう壊れるかを想像するのも楽しい。今は安定しているが、芸人を辞めたとき関係が保てるかどうか。壊れたあと、「このままではいられないな」となってしまう変化を読んでみたい。
D:この小説の中の人間関係は一時的なもので、確かなものではない。それが独特。
A:主人公が仕事を辞めた途端、何か変わっていくのでは。踏み出したと言えば聞こえはいいが、バランスが変わってきている。
D:地上げや耐震の問題などで、あのシェアハウスもいつ取り壊しになるかわからないし。
A:どういう壊れ方をするのだろう。安定した関係を見せるというのは、壊れたあとを想像させる。
C:人間関係として面白い。彼らが(芸人として)売れなくなり、食べられなくなるということもある。
A:落ちるのは自覚の上。いずれは破綻する。どう落ちるかに関心がある。
E:シェアハウスのメンバーは常に流動している。
B:登場人物は性欲ないし、幽霊もいい人だし。
A:今は住人が同質だから安定しているけど、異質な人物が入ってきたら……。この作品はシェアハウスの安定期を書いている。
C:老人だと誰かが死んで終わるんですが。老人ホームでの三角関係は、上手くバランスを取っていたり。
E:介護士が操っていることも。その人が辞めたら破綻する。
C:この作品の登場人物は性欲がないから年寄りっぽいなって思う。
A:これも同じ。誰かが芸人として「死ぬ」。ネバー君はきれいに脱退したけど、ほかの人が上手く抜けられるかどうか。
亨が遺産の分割協議に応じていたとしたら、それがシグナル。応じていなかったら芸人を続ける。彼がどちらを選択したかを書いていないのが面白い。
芸人として続ける自信があれば放棄する。何とか背伸びしてでも頑張って、コンビを続けるかどうか。
G:一穂先生には、奇妙な三角関係が壊れたあとを描いている『off you go』 (幻冬舎ルチル文庫)という作品がありまして……。BLなんですが。

【その他/雑談】
D:万人受する作品。
G:BLのほうでは、賛否両論ありそうな作品も書いている作家さんだと思う。なんか、応援してたロックバンドがメジャーデビューしてポップス寄りになったみたいな感情を味わっていて……(笑)。
D:私は、昔よく行っていた本屋さんのオーナーが直木賞作家になっていました(笑)。今も通ってるんですが、テレビの取材が来ていて。
A:きのしたブックセンター、昔はダイエーにあったんですよね。

 

★R読書会でも、一穂ミチさんの他の作品を取り上げました!

『黒牢城』米澤穂信(KADOKAWA)★Zoom読書会

Zoom読書会 2022.01.22
【テキスト】『黒牢城』米澤穂信KADOKAWA
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者F)>
『黒牢城』は、「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」のすべてで1位になっており、読んでみようと思った(昨年も、ランキングを網羅していた辻真先『たかが殺人じゃないか』を読んだ)。
作者である米澤穂信は、2014年刊の『満願』で史上初のミステリーランキング3冠に輝いている。『満願』は評価されるだけあって面白かったので、『黒牢城』も手に取った。
『黒牢城』を読んで、直木賞の候補作になるのではと予想し、実際そうなった。この作品と、今村翔吾『塞王の楯』、どちらが選ばれるのかと考えていたが、同時受賞となってよかったと思う。(直木賞を)受賞した二作ともが時代小説というのは珍しい。
宮沢賢治作品やオルダス・ハクスリーすばらしい新世界』のような、長く読み継がれている名作もいいし、肩を張らずに読めるものもいい。とくに、エンタメを好んで書く人にとってお手本になるのではと思い推薦した。

<参加者A>
米澤穂信は『満願』でも直木賞候補になったが、そのときは黒川博行『破門』が選ばれた。『満願』のほうが面白かったと言う人が何人かいて、私もその一人。
◆『黒牢城』も読むのが楽しみだった。荒木村重がどんな人物だったかは謎に包まれている。織田信長に反旗を翻して、有岡城に籠城し、負けが決定的になると皆を残して逃げたことで知られている。有岡城では、幽閉されていた黒田官兵衛が有名だが、荒木村重のイメージは悪い。それをどう覆すのか期待していた。
◆この作品では、荒木村重を人柄のいい武将として書いている。
今までは、源義経織田信長豊臣秀吉徳川家康などはイメージよく描かれ、平清盛明智光秀などは退治されることが多かったが、最近はそういう人物像を覆す作品が多い。
◆村重から人心が離れていく過程が上手く書かれている。
◆物足りなかったのは、村重が信長を裏切った動機がよくわからなかったところ。そこにもう少し筆を割いてほしかった。
私が30歳くらいのときに読んだ遠藤周作『反逆』には、その辺りがもっときっちり書かれていたと思う。

<参加者B>
◆私は「荒木村重が籠城して、黒田官兵衛を幽閉し、最後は逃げ出した」という、本当にざっくりしたことしか知らなかったが(謀反の背景や、北摂の勢力などは知らなかった)、すらすら読めて、とても面白かった。
歴史小説としてよりも、舞台が戦国時代のミステリーとして読んだ。話を聞いて事件を解決する安楽椅子探偵、というような。
官兵衛が、『羊たちの沈黙』のレクター博士のようだと思った。
◆第一章「雪夜灯籠」と第三章「遠雷念仏」が密室トリックになるのだろうか。
◆千代保が関係しているというのは第一章でわかった。火鉢を持ちこんだのが千代保だったので。その中に矢が隠されているのでは考えたが、それはまったく外れだった(あの中は調べたのだろうか?)。
第二章でも、死化粧を施したのは女房衆だったし、誰が首をすり替えたかという謎がスルーされていたので、絶対千代保だろうな、と。
◆よく調べている。鱸(第四章P363)とか……
F:実はけっこう嘘がある。
B:信じてしまうくらい上手く書いてますね。どれが嘘かわからない。
ものすごく歴史に詳しいように感じたが、作者は他に歴史小説を書いてるのか?
F:米澤穂信は、京都アニメーション制作でアニメ化された『氷菓』がデビュー作。これまで歴史小説は書いていない。

<参加者C>
米澤穂信の作品では『さよなら妖精』も読んだ。
◆『黒牢城』は、(時代小説畑とは)“別の畑”の人が書いた時代小説、だろうか。冲方丁が書く時代小説のように。
◆『このミステリーがすごい!』大賞で選ばれた作品には、いまひとつと思うものもあるが、『黒牢城』はよかった。
ミステリーとして読むと、そんなに大した謎は解いていないが、有岡城という舞台を持ってきたのが成功している。
◆文体が気持ちいい。徹底して戦国時代っぽい雰囲気。台詞のキレが素晴らしい。ビシビシ叩きつけるよう。
◆官兵衛を安楽椅子探偵にした時点で勝っている。目先に謎を用意し、凄みのある官兵衛が牢で解くというサイクルの作り込み。ミステリーでなくても、「謎」の管理ができるので自分の作品にも取り入れたい。
◆当時の武士の作法を“それっぽく”書いている。相当研究している。エンタメは、楽して書けないと感じた。
◆それらしい雰囲気が出る文体を磨いて、それらしい雰囲気が出る研究をして、得意ジャンルを2つくらいミックスすれば新しいエンタメ作品ができる。

<参加者D>
◆時代小説を読み慣れなくて、武家の言葉遣いや作法に慣れるのに時間がかかった。
第二章くらいから慣れてきて、戦国時代とか武士とか主従関係とか……進むことしかできないという世界観を受け入れられた。
◆エンタメ作品を読んで、(自分自身の)死生観・宗教観を持ち出すのは間違っているとわかっているが、戦国時代って大変だなと思った。やたら人は死ぬし、血塗られている。自分の奥さんも家臣も信用できない。拠り所は、やはり宗教になるのだろうか。こんなに殺して極楽に行けるのかな。
現代では、「家」や子々孫々栄えることは、大した問題ではない。子どもを作る/作らないも個人の自由。だから戦国時代の「家を継がせる」とか違和感がある。
武士は逃げたり投降したりしているけど奥さんは磔になっている。そういう世界に憤りを覚えた。
そういう読み方は間違っているとわかっている。「ミステリーを取り込んで、史実に忠実に仕上げた」。その力量について話さねばならないが、世界観を好きになれなかった。
◆官兵衛が、村重の恥になるように持っていこうとしている策略はわかるが、いまひとつぴんとこない。村重は官兵衛の策略を見抜いているのに、なぜ乗るのか? 戦国の世の中ではそうするのかもしれないけれど。

<参加者E(提出の感想)>
 ミステリ調の歴史小説という異色作。宗教というものの意義について深く考えさせられた。時代ものを読んだのはほんとうにひさしぶり。司馬遼太郎さんにどっぷりだった十代後半を思い起こしながら読み進める。若いころと同じように夢中になってページを繰った。命というものを日々天秤にかけていた当時の人間たちには敬愛の念。「生き延びる」ということばの意味が現在のそれとは重みも深みもちがうと思う。ほんの些細な判断ミスひとつで、彼らは己のみならず、家族はもちろん臣下や民の命すらことごとく風前にさらしてしまう。であるからこそ、彼らは真剣に思案し真剣に行動する。「まじめ」では決して務まらなかっただろう。当時と現代のライフスタイルを比較することに実際的な意味はとぼしいだろうが、けれどもやはり身がひきしまる。生きるということは本来どういったことだったのか、死とはいったい何だったか。じぶんと呼ばれるものや人生に対してふだんよりも切実に、そして神妙に想いを馳せる。
 そんな、ただでさえ血肉があわ立つ歴史ものにミステリ調を取り入れられてはかなわない。作品世界にじぶんの生き様を重ねつつ、記憶にしずんだ史実をたどたどしく手繰り寄せ、さらには形ながらの「推理」にも頭を使ってしまうからとにかく忙しい読書となった。おかげさまで頭も心も充足だった。この本は、お話として純粋におもしろい。小説はやはり構成とキャラクターだなとつくづく思う。今作のワトソン役は武力もあって華がある。熟練したもの書きの技なのか、作品後半、無辺の密室殺人の段にて、容疑者のひとり、与作を一時語り手に据えるところはおもしろかった。くわえて、そのあたり一連の流れ、【硝煙蔵から出火→警護が強化→無辺が街へ→村重の迷いと茶器への執着の描写→曲者登場→庵に兵を派遣→目につくようになる】といった、細い糸を巧みに絡めてつぎの事件のトリガーとする構成力に胸がふるえる。また、一般的なミステリとちがい、「事件」じゃなくてもひとの命がつぎつぎと消えていく背景は、時代とミステリを掛け合わせた今作ならではの特色じゃないかと感じた。
 それから、この本は「読者の居場所」の大切さを教えてくれた。(もっともミステリの場合はそこが重要なのかもしれないが)お話のはじまりから終わりまで、ぼくはひたすら作者の手のひらに囚われたままだった。たとえば第一章の自念の刺殺は、矢に紐をつけるとか直接刺すとかたいていの読者が考えつきそうなことはちゃんと書いてくれている。ここにちいさな満足を覚えて、読み手はますます没入していくのかなと思う。各「事件」はそれぞれちいさな謎を残したまま幕を閉じるが、その深層を千代保という一本の糸でつなげたラストはとてもきれいだと思う。この場合、一般的なミステリのいわゆる「真犯人」のように作者が巧妙にその動きをひた隠すのでなく、あの女も恐らくどこかで絡んでくるだろうと読み手にうっすらと印象づけておくところが肝なんだろうと思う。
 また、読者の関心を散らすために用意された背景の仕掛けに作者の卓越した技を見た。大前提としての「籠城」、一歩間違えれば即家中もろともの死という恐怖、ひたひた迫る足音のようなこの背景がひややかな緊張感を作中に絶えず演出している。それを強化、あるいは扇動するさまざまな波がまたよかった。来ない援軍と内通者という暗い影。食料の問題。臣下や民のモチベーション。知恵者ゆえの猜疑と孤独。そして官兵衛という不気味な男。彼がここを生き延びることは知っていたが、その思惑そのものをこのお話の本流に据え、題して『黒牢城』とした作者のセンスに心打たれた。冒頭の官兵衛への尊崇や憐れがラストまで引っ張っていくことも見事と思う。語り出しの熱はほんとうに大事なんだと思う。
 もちろん、「信長の逆を為す」ことに拘泥したため、結果的に落城という命運を迎えてしまった村重そのひとも物語として胸にしみる。現代に生きる読者にとって、先の分かっている負け戦、大波に逆らおうとする岩のような村重や有岡城の「もののあわれ」もまた、読者の心を惹きつけるお話の一因であったと思う。ラスト付近、村重がどちらが牢に入っているか分からないと戸惑う場面はものすごく印象深い。
 
 そしてまた、このお話は宗教というものの意義について深く考えさせられる作品だった。作中、キリスト教を含めたいくつかの宗派が登場するが、それらをお話の伏線として絡ませるだけでなく、それそのものの必要性や具体的な発展段階、それから存在証明を読者の胸にひじょうに色濃く訴えかけているように思う。乱世というあまりに不条理な環境の補償機構としての宗教。死後の安寧を夢みさせてくれる心の救い。これらを想うと切なくなる。作中、ところどころに挿入される信長の非道ぶりは「世の不条理」のシンボルとして途方もなく象徴的。第三の主人公、千代保の心的外傷であり、かつ、人生的な「救いと再生」を見出すきっかけとなった「長島の一揆」はあまりにも酷烈すぎるが、しかしまた、そうした見せしめを行わなければ命危うくなってしまう信長の考えも説得力がある。そんな彼も暗殺された。人間五十年、と「敦盛」が耳をかすめる。ひとの世は、よくも悪くもほんとうに儚いと思う。

 細かいところだが、各章がアラビア数字で表されていたことは印象深い。
 さいごに、この本にこのタイミングで触れたことに奇縁を感じた。
 現在の住まいは篠山、お話の舞台である北摂は他の土地よりはなじみがある。けれどもぼくはいつまでもここに住もうと思っていない。恐らく終の住処になるだろうつぎの居住地は和歌山と決めているが、今月はじめ、祖母の三回忌の折に下見のつもりで泊まったホテルは和歌の浦の小雑賀というところだった。雑賀。作中でひそやかな活躍をした名前。そろそろ篠山から出ようと考えていたいまのぼくに、こういった偶然は深く染み入る。アナトール・フランスは「偶然にこそ神が宿る」と言ったそうだが、文学の神さまという存在に思わず頭を下げたくなった。

<参加者F(推薦者)>
◆史実に基づいて書かれているこの作品を、歴史小説として見たらどうだろうか。
*『黒牢城』の荒木村重はあれこれ悩んでいる。視点人物の内面を書くと、内向的で神経質なキャラクターになってしまう(村重を豪放磊落な人物として設定したとしたら内面の描写はできない)。
*村重の視点で書くならば、彼のその後の人生を書かなくてはならない。しかし、なぜ彼が裏切ったのか、生き延びたか、動機が書かれていない。村重視点の限界がそこにある(千代保や官兵衛の視点で村重を描けば、村重のその後は書かなくてもいい)。
*官兵衛を探偵役として設定したので村重視点にしなくてはならなかった。歴史小説としては弱い。
◆第一章は密室殺人。矢を操って人を殺す機械仕立て。場面設定がお誂え向き。春日灯籠が置いてあって、雪が降っていて……現実ではあり得ないが、そう設定しなければ密室は作れない。
(すべては密室を作るための設定だが、小説として読んだとき)もっと簡単に殺せるのに、なぜそこまでしなければならなかったのかがわからない。
そのようにした理由を「神の罰だとしなければならない」という理由付けは巧いが、それなら、千代保や御前衆の五本鑓が結託して口裏を合わせれば、もっと簡単に密室が作れたはず。
歴史小説としては弱い、ミステリーとしては首を傾げる。『このミステリーがすごい!』大賞ではどこが評価されたのか。部分的なエンタメとしての出来が良かったのでは。
D:歴史小説の中にミステリーを取り入れたからでは。
F:そういう作品はたくさんある。物語として良かったのだろう。
D:官兵衛はただ謎を解いていただけでなく、籠城を長引かせていた。どんでん返しで意外性がある。
B:千代保は最初から怪しい。火鉢を持ってきたのは彼女だし、自念の安らかな死を願っていた。
D:でも、自念を死なせている……。
B:千代保は自念を武士らしく死なせてあげたかった。
F:村重の行為は武士にとっては残酷。だから森可兵衛が動いたのだけど、彼が動くなら他の者も動くのでは。
村重が、わざわざ護衛をつけなくてはならない、庭に面した納戸に自念を放り込むのもよくわからない。密室を作るのに都合がいい場所を選んだようで。作者の都合なのだけれど、「神仏の為せる技」みたいに巧くごまかしたな、と。あまり出来の良くない密室。

<フリートーク
【大津を討ったのは本当に村重だったのか?】
D:第二章「花影手柄」で首をすり替えていたのはなぜ?
F:仏が罰を与えていると思わせるため。
D:村重が大津伝十郎長昌を討ったことにしたのは良い判断。高山大慮と鈴木孫六、どちらか一方の手柄にしないためにそういうことにした。
B:城平京『虚構推理』みたいに、(作中の)多数が納得するような結論を導くっていう。
C:殿が手柄を取ることになるのは、逆に説得力がないような気が。
B:他の可能性を排除していって、たぶんこうだった、みたいな。
F:誰も大津の顔を知らないから言いくるめられる。
C:ミステリー作品として考えると、官兵衛がそう言ったので、本当に村重が討ったのだと思う。
D:官兵衛は、家臣にこう言えばうまく収まると教えたのでは。
F:P151、村重が弓を引くときに兜を脱ぐのを読み飛ばしていたが、それが伏線になっている。叙述を見せたかっただけでは。そのためだけの第二章なのかと。
B:官兵衛も村重も、それが真実だと知っていたのか、あるいは落としどころを見つけたのか……。
C:安楽椅子探偵のお約束としては、処世術ではなく真実を与える。「あいつは犯人じゃないけど、犯人にすれば上手く収まる」とか言わない。歴史小説として見れば、官兵衛のような老獪な人はやりそうだけど。

【ミステリー小説として見ると】
C:ミステリーとして見たら、針と糸を使うような機械トリック。目新しいトリックを追求するのは90年代で潰えたのか。
F:出来のいい本格ミステリがあまりないかな。
C:ゼロ年代からコズミックなほう(※清涼院流水に連なる系譜)に行って、キャラ小説に行って、ここに収束した、みたいな。
F:島田荘司占星術殺人事件』。アイデアはいい。ただ、初めて読んだとき「お」と思っても、やはり無理を感じる。
C:そう思うと、要素だけ取り入れて、舞台を追求するのはいいかもしれない。
雷に打たれるのはアリなのか。第四章の書き方なら、鉄砲の玉は村重のフカシかなと思った。実際は見つけていないのに鎌をかけたとも取れる。

【村重の描き方について】
F:謀反人の村重を書くなら視点人物を決めないと。明智光秀にしても松永久秀にしても、なぜ裏切ったのかわからない。本人視点にすると裏切った理由を書かなくてはならなくなる。
A:村重が妻子や家臣を有岡城に残して、茶壺〈寅申〉を持って逃げたのは皆知っている。官兵衛の策略にまんまとはまって出ていったほうが面白かったのではないか。官兵衛の言うことには説得力がある。「〈寅申〉を毛利に渡せば勝てるかも」というところで筆を置いたほうがよかったと思う。籠城していては100%負ける。「もしかしたら勝てるかも」と思っているところから卑怯者の汚名を着たほうが面白い。
F:私はそういうふうに終わったら嫌だと思って読んでいた。村重はこれまでクレバーだったから、策にはまって終わったら嫌だな、と。「毛利を待っている」とあるが、海路を使えば催促の使者を送れるのでは。でも送っているように見えない。だから城内の人たちも不安になる。また、〈寅申〉をもっと早く毛利に渡せばよかったのに、とも思う。
D:使者を送るなら、無辺の代わりはいるのでは。
C:作中では唯一無二の存在として書かれている。
D:無辺の話は弱いと感じた。最初から無辺を殺すつもりだったならわかるが、突発的に殺してしまったというところが。
F:咄嗟にあそこまで用意できるものか。
C:口論で……というのも想像。そこは重要ではない。
F:ミステリー的に面白いのは、〈寅申〉ではなく行李が狙われていたこと。無辺に化けるために行李を使いたかったという引っ掛けが唯一のトリック。
D:先に殺されたのはどちらか、というのも。
C:無辺、無理のあるキャラですよね。
D:この章は伏線もあった。瓦林能登が念仏は唱えられないとか、きちんと書いてある(P231)。
F:そこはあとで書き足せる部分だから辻褄合わせできる箇所。
それより、村重はあそこでなぜ〈寅申〉を使って、毛利に届けないのか不思議に思った。有能な人物として描かれているのに、何もしないで待っているだけになっているので。毛利を繋ぎとめるよう交渉に行かなければ。行けないなら行けない理由を書かねばならない。
A:あのころ茶道が発達していたのは上方だけでは。(〈寅申〉が)交渉の道具として織田に通用しても、毛利には通用しないのでは。Fさん、どうですか?
F:そうかもしれない。私が書くのだったら、「安国寺恵瓊が秀吉と会談するとき、茶の湯を持って帰った」という話を作ってしまうかも。恵瓊はお公家志向じゃないですか。
C:歴史好きとしては毛利が来なかったのに違和感はなかったが、村重は来ると思って謀反を起こしたというふうに書いてもよかった。
F:木津川の戦いで負けたあとなので毛利は来ない。
C:(村重の謀反は)史実的には謎の謀反なんですよね。
F:そのあたりの説明がもうちょっとほしい。
D:村重は、官兵衛の「茶器を持って毛利に行け」と言うのが策略だと見抜いたが、なぜ行ったのか。官兵衛の復讐で策略であると知っていたら行かないのでは。
F:好意的に解釈すれば、「頭の片隅に残っていて、だんだんそういう気になってしまった」。
D:純文ならある。でもエンタメ作品における大きなターニングポイントでそう持っていったら駄目なのでは。
C:「本当にそれが最善の手ではないか? 八割方、名誉を失くして終わるが、もしかしたら……」それを見せたのが官兵衛の老獪さ。
F:官兵衛の戯言なのでは。官兵衛自身も、まさかそれで動くとは思っていなかったかも。私なら、「そんなつもりはなかったのに村重は実際にしてしまった……」と二行くらい書くかな。『黒牢城』は官兵衛の視点で書けばよかったと思う。
D:村重の心は、既に戦場に飛んでいるんですよね(P420)。
A:やはり、策を授けられたところで終わったほうが収まりとしてはよかったのでは。村重より官兵衛が一枚上手だった、という。
F:そうするなら、村重を官兵衛よりも愚かに書かねばならなくなる。
C:村重に有能感があるから面白かった。策とわかってて乗るのがミステリーっぽい。もっとノリノリで吹き込まれていると面白かったと思う。(読者が読んで)村重騙されてるわぁ、みたいな。

【登場してほしかった人物】
D:村重のその後は惨めですよね。
F:茶人として生きて、出家後は道糞と名乗った。
ちなみに、村重の子・岩佐又兵衛は生き延びている。のちに絵師として成功しており、国宝に指定されている「洛中洛外図屏風(舟木本)」などを描いた。その話も書いていたら面白かった。
C:私は、村重の臣・河原林越後守治冬を書いてほしい。有岡城に使者として来た秀吉を「殺したほうがいい」と進言していたことが秀吉本人の耳に入って、その場では許されたが、秀吉が世を平定したあと、探し出されて殺された。(秀吉は)にっこり笑ってプレゼントまで渡していたのに、年を取ってから怒り出すという……。晩年の秀吉のどす黒さがよく出ている逸話。
D:年を取った人にありがち。過去を掘り返して怒るんです。
F:秀吉は若いころには、面白いことをした人は喜んで許してますよね。羽柴秀吉にとっては良かったけれど、太閤秀吉にとっては良くなかった。
A:賤ヶ岳の戦いあたりがターニングポイント。そこからは自分の地位を守ることに躍起になって、猜疑的になっていった。
F:自分の地位は守れても、豊臣家がどうなるかは見越していたと思う。一代限りだと。

【その他、作品に関すること】
C:信長や秀吉を出していないのがいい。城内だけで話が進んでいく。
D:家臣が多くて覚えられない。私が印象に残っているのは郡十右衛門くらいで、あとのほうは覚えていない。
F:そこは覚えなくてもいいと思う。
C:五本鑓はたぶん創作。武将級は史実だけれど、他は舞台装置。召使いのジェームズとかチャールズとか、そういう扱いでいいのでは。
F:雑賀衆鈴木孫六が面白かった。高山右近の父親の大慮やだしの方(作中では千代保)も実在。だしの方が長島一向一揆の現場にいたのは作り話かもしれないけれど。
C:側室の来歴まで残っていないでしょうね。磔になる人って、出てくるの可哀そう。処刑まであと何人、って……。
F:大河ドラマで――『軍師官兵衛』だったかな――尼崎城から七松での磔が見えるシーンがあったが、どこで磔にされても尼崎城からは見えないはず。
尼崎城は、源義経が船を出したことで知られる大物浦の近くにあった。今は小学校になっているけれど。

【武士の時代のどこに魅力を感じるのか?】
D:織田信長って武将の中で一番人気だけど、たくさん人を殺している。他の武将もそう。見当違いかもしれないが、男の人は、殺し合いばかりの武士の生き様のどこに魅力を感じているのか訊いてみたい。
F:私は、男子が戦国のどこに魅力を感じるかより、歴女がどこに魅力を感じるのか訊いてみたい。性別関係なく、人間はそういうものが好きなのでは。
歴史はもう物語になっている。だから、信長の時代は架空の世界。残虐なことをしていても「架空の世界」での出来事なら受け入れやすい。
現代を生きる自分たちの考え方でドラマを作るとおかしくなる。大河ドラマのように、ホームドラマにしてしまうと無理が生じる。ドラマなら観れるけれど、本にしたら読めないと思う。本で読むなら言葉も歴史的言葉遣いにしないと。
D:子どものころの大河ドラマは『黒牢城』のような言葉遣いでしたね。
F:今の大河ドラマは違いますよね。今は等身大で書かなきゃならない。
D:国盗り物語』は知っている。国を広げるには人を殺さなくてはいけない。かなり残酷。そんな時代のどこに惹かれるのか?
C:私は(自分の作品で)虐殺される側も書いたことがある。男には――と限定するのもよくないかもしれないが――征服欲がある。敵を篭絡して奪った女を犯すのを好む本能、自分以外のものを打倒したい本能というか。チンギス・ハンみたいな。
D:古代人は別の集落を滅ぼしていた。私たちはその子孫ですよね。
C:創作物で扱うと、(人物の)残酷な面もさらっと流せる。いい面だけを書ける。臭みを抜こうと思ったら抜ける。明智光秀など戦国武将をいい人に描く風潮もあるが、私はそれを胡散臭く感じている。
魅力は、と訊かれると「人間だから」。武将というシチュエーションで一生懸命生きている姿に惹かれる。
F:たとえば食料として殺すのであれば仕方ない。現代でも牛を殺して食べている。マンモスを追うのは生きるためにしていたこと。
戦国時代は、(生きるためにしている面もあるが)相手を凌ぎたいから戦っている部分がある。名誉や名を残すことを拠り所に戦っていた。名を残すことを第一にする。そのために戦う。
現代では、格闘技などゲームとしてルールが決まっているから、その中で相手より上回れば名誉が得られる(古代では相手が死ぬまで続けていた)。ゲームとして相手を打ち負かす。それで闘争心を満たしている。そういう時代になった。
A:どちらにしろ、強い人に憧れるという部分からスタートしていると思う。小・中学生は、名誉や倫理的にどうとかではなく、謙信と信玄が戦った川中島の戦いや、桶狭間で信長が義元を討ち取った……など、そんな英雄譚を通して興味を持ち始めるはず。
小説を読むと、現代と違う価値観に慣れてくる。今は今、昔は昔。
(創作する上で)厄介なのは幕末とか。政治思想などが現代に直結してくるので迂闊に書けない。戦国時代なら自分の好きなように書けばいいかな、と思う。Cさんの作品のように名もない人が戦に翻弄されるところにスポットを当ててもいいし、英雄を書いてもいいし。
ただ、書いたり読んだりするぶんにはいいけれど、実際に(武将が)やっていることは残酷。頭の中で(現実と物語を)住み分けできていればいのでは。
D:食料があって、豊かであればこういうことはしなかった。俸禄を与えなくては、でも領地では賄えないから、隣の国を攻めて自国を広げたり……。征服欲だけではない。
F:農村では水争いが絶えなかった。この池の水はどちらが取るのか、境目がないから争いになる。小さい子どもがお人形を奪い合うみたいな、そういうところから始まっているのでは。現代は、盗んではいけないとルールで決まっているけれど、ルールがなければ盗みが横行するかも。倫理観で縛ることで今の社会ができているだけ。それ以前は、動物の本能として争いがあったのでは。
D:動物には上下のルールがある。ボス犬、中間犬、部下みたいに。
F:ペットの犬や猫は飼い慣らされているから闘争心はない。
C:戦国時代と江戸時代で生産力は変っていない。武士同士の争いは三幕府とも将軍が捌いていた。室町幕府は力がなく、江戸幕府は長い間、力を持っていた。
F:室町幕府にも、山名氏を滅ぼす(1391年・明徳の乱)など、力がある時代もあった。

 

米澤穂信『黒牢城』はR読書会でもテキストになりました! 読み比べたら、メンバーが変わると、出る意見も変わるんだなとわかって面白いです。

「銀河鉄道の夜」他1編(『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より(宝島社文庫)

Zoom読書会 2021.12.19
【テキスト】「銀河鉄道の夜」他、参加者が自分で選んだ1編
      (『読んでおきたいベスト集!宮沢賢治』)より
      別冊宝島編集部 編(宝島社文庫
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
私は読書量が少ないので、好きな作家の作品を推薦することにした。やはり宮沢賢治の代表作は銀河鉄道の夜ではないかと思う。20年ほど前に、登場人物を猫に置き換えて描かれたアニメ(『銀河鉄道の夜』1985年制作/監督:杉井ギサブロー、原案:ますむらひろし)を観たことが、宮沢賢治を好きになる切っ掛けになった。

<参加者A>
銀河鉄道の夜
◆「銀河鉄道の夜」に初めて触れたのは小学生のころ。死んだ人ばかりだと思って怖くなり、全部読めなかったが、そのあと何回か読んだ。
◆透明感ある描写がきれいで、独自のオノマトペも印象的。文法は終結していないものもある。宮沢賢治だから許されるのかも。
オノマトペだけじゃなく独特の表現も印象に残る。Eさんも独特の表現を上手く使われるけれど、私は使えないのですごいと思う。
◆生きているジョバンニがなぜ銀河鉄道に乗れたのだろう。彼の切符だけ万能券(「ほんとうの天上へさえ行ける切符」)だし。読み返すたび不思議に感じるのだが、今回も思った。
◆「らっこの上着」について。現在、ラッコは絶滅危惧種になっている。作中の時代では、ラッコの上着をよく作っていたのだろうか。
◆私も息子とアニメを観ていたので、「銀河鉄道の夜」というと、やはり猫のイメージがある。

<参加者B>
◆久しぶりに読み返した。原稿が欠けていて、ページが飛んだりしているのは新鮮だった(決定稿ができる前に作者が亡くなっており、編集者が遺稿をまとめた)。
◆私は宮沢賢治の出身地である岩手県と近い秋田県に住んでいる。岩手の人は、宮沢賢治がとても好き。
◆私も、ますむらひろし宮沢賢治作品を原作として描いた漫画などが好き。
銀河鉄道の夜
◆子どもが死ぬ作品には、無条件で興味を引かれる。この作品集には載っていないが、「銀河鉄道の夜」の原型であると思われるひかりの素足もよかった。
◆SF的モチーフが用いられている。その後に作られたSF作品に繋がるのかな。鳥や岩石の描写など、多くの作品に影響を与えている。現代に通じる、元祖のような作品。
◆キャラクターの生死を通して論理的に語っているのは鼻につくが、観念的ダウナーな感じが心地よい。国民的作家だと思う。
「紫紺染について」
◆ドキュメンタリーのように見せかけて、大ぼらを吹くみたいなところを真似したい。

<参加者C>
銀河鉄道の夜
◆小学生のころ、全集に載っており読んだが、そのときは面白いと思わなかった。私は、ジョバンニが授業で銀河を習ったことに影響され夢を見て、また、それが死者を運ぶ列車だったのは、別の何かに影響されたためだと考えた。面白いと感じた箇所は、実はカムパネルラが死んでいたという種明かしのところ。それだけの話として読んだ。「子どもが読むものじゃない。大人になったらわかるのかな」と。
◆ずっとそう思っていて、数十年ぶりに、ほぼ真っ白な状態で再読した。
◆「天気輪の柱」「三角標」など、言葉が独特。
◆ラッコの上着がなぜからかいの対象になっているのだろう。父は漁に出ているのか、監獄に入っているのかわからない。説明がなく雰囲気で読ませようとしている。
◆しかし、ファンタジックな描写、これだけのものが命を持っている理由はある。
◆神、死生観、宗教観など語ればきりがないくらい材料が転がっている。機会があればまた読みたい。有名な作品を読んで、多数に迎合することに抵抗はあるが。
宮沢賢治はここまで文章で表現するのに苦労しているが、アニメの描写力には負けると思う。
よだかの星
◆小学生のとき、学芸会の劇の題材になった。学芸会の脚本では、星になったよだかを見て鷹が「見直した」というようなことを言う。子どもにはそのほうがわかりやすいから。
でも、大人になって改めて読んでみると違う。誰にも認められなくても星になっている。子どものころと、また異なる感想を抱いた。
風の又三郎は、学校の講堂で映画を観て、そのイメージがあった。
一番気に入っているのは注文の多い料理店。面白い。

<参加者D>
銀河鉄道の夜
◆私はだいたい本は最初から読むので、巻頭の解説から読み始めたが、解説の途中で「引っ張られるからだめだ」と思って中断し、「銀河鉄道の夜」を読んで、そのあと読んだ。解説は作品より後ろに載せてほしい。
◆「銀河鉄道の夜」は小学校か中学校の教科書に一部抜粋のかたちで載っていた。全部きっちり読んだのは初めて。
◆たぶん死者を運ぶ汽車なんだろうけれど、ジョバンニはなぜ乗れて、また、最上の切符を持っていたのだろうか。読みながら、ジョバンニも死んでいる、あるいは死にそうな状態にあるのだろうと思っていたが、最後まで読むとそうでもなかった(丘の草の中で眠っていただけ)。死に近い精神状態にあったから? それなら、そういう人は他にもいるはずだが、なぜジョバンニだけが乗れたのか不思議。
風の又三郎
分析しながら読むとすごく楽しそう。方言は難しかった。又三郎(三郎)だけが標準語を話しているのが、彼が異質な存在であることを表していると思った。
注文の多い料理店」「セロ弾きのゴーシュは面白い。
「北守将軍と三人兄弟の医者」は終わり方に余韻があって好き。文章もリズムがあって、声に出して読むと楽しい。

<参加者E(提出の感想)>
銀河鉄道の夜
 深い悲哀に満たされた幻想物語。あるいは空想的寓話。行間から伝わってくる無常観、あるいは圧倒的な孤愁感にいたたまれなくなってしまう。
 たいていの幻想作家や喜劇作家はじつはペシミストであったという逸話はよく目にするが、この作者もまた例外ではなかったのだろうと思う。ドストエフスキーが遺したように、やはり「地獄はこの世」なのだろう。宮沢賢治は、恐らく、内なる自己、あるいは「心」の「救い」「慰め」もしくは「支え」を、世俗という眼前の現実では見いだせなかったのではあるまいか。当物語だけでなく、この文庫におさめられたどの作品からも一様に感じられるのは底なしの孤独感だった。彼の世界はとにかく内向的だと感じた。そうしてひどく寒々としている、ように思う。なぜなら行間から感じられる彼の、おそらく農作業中や散歩時の感慨、夢想、想念、思惟、洞察力には「他のだれの意識」も読み取ることができなかったから。いや、しいていえば「人知を超えた」概念または存在だけはそこに許されていたかもしれない。それこそ彼の、「救い」や「なぐさめ」だったのだろうか。つまるところ、彼のゆたかな空想性やアニミズムに満ち満ちた魔術的な世界観は、孤独のみじめさ、切なさの補償だったのではないかと思う。心理的防衛機制でいえば「退行」か。そして「昇華」か。思い通りにいかない世の中、あまりにみじめ、どこまでも空虚でしかない人生を、彼はそうすることでしか受け入れることができなかったのではないかと考えてしまう。このような反応は、いちどでも画や文字を衝動的に描きたいと思ったひとにはよく分かることではないかと思う。苛酷できびしい北国での農作業――それはつらい肉体労働、しかも彼は重い病を抱えていた――、そうした彼の社会的、実際的役割、要するに「表」のじぶんを補うために現れ出た空想夢想を、ありのままに、感じたままに表現したからこそ、彼のことばは現代に生きる同種のひとびと、「生きにくさ」を感じる読み手の胸をつかむのではないかと思われる。そこに、人生としての普遍性が成立しているような気がする。そのような観点に立ってみると、いちど乗ったらあとにはけっして引き返せないこの鉄道は人生そのもののメタファーのような気がしてくる。(そういえば映画『千と千尋』の電車も「行きっぱなし」だったはず)
 行く先々であらわれる世界、出会うひとびとに、作者の投影像・少年ジョバンニは高い感受性をもとにいつも心を乱しているが、そのなかで、とくに力をこめて書かれているのは「前書き」にあったとおり信仰もしくは価値観の「ちがい」についてだろうと思う。
 作者は熱心な日蓮宗信者であったということだが、あくまでも個人イメージとして「攻撃的」「排他的」「閉鎖的」といった同宗に属していた彼が、他の信仰、異なる神、本作ではキリスト教というものに出会ったときの葛藤、戸惑い、根源的懐疑のようなものが、ここには翳深く描かれているように思った。
 あくまでもぼく個人のイメージで「異教徒はすべてそれだけで罪」ととらえている、ように感じられる「日蓮宗」と「キリスト教」(これを象徴しているのが日本人であるというところがまたおもしろい。ものの本によれば、ぼくらは文化的背景上、生涯決して、「原罪」という概念を理解することができないという)それらふたつの属性を背負ったものが同じ電車の同じ席で同じ方向に向かって同じ時間を共有する、というところはひじょうに示唆的だと思う。そうして、彼らそれぞれの「降車駅」が別々である、ということも。サザンクロスの駅で降りる異教の信徒たちを窓越しにみつめるジョバンニ、その前のひとこまで彼らの神を「うそ」と否定した彼のすがたはほんとうに印象深い。そこに敵意はさほど強く感じられず、悪意はなくて、ただたださびしさ、やるせなさがあるばかり。人生あるいは心の「救い」や「なぐさめ」「支え」といったもの――、銀河鉄道という狭く限られた時空間内でたまたま出会った彼らというのは、恐らく同じものを求めて「生きている」「生きていた」はずなのに、けれども双方、すっかり心打ちとけることはなく、じつに冷ややかなしこりを残したままであっさり道が分かれてしまう。ここに底なしの空漠感が出ていると思う。いわゆる「価値観」のちがいによって、世の中にはさまざまな苦悶が生まれているが、けっきょくのところ、少なくとも「信仰上」では、ひとびとが求めているものの究極は同じじゃないか。それなのに、どうしてぼくらはこんなにも切ない想いを共有しなければいけないのだろう。信仰する神がちがえども、あるひとつの線路を走るこの銀河鉄道はだれかれかまわずみんな乗っけて同じ方向に駆けていく。けれどもどうして、ぼくらの心はうまくひとつに溶け合わないのか。日蓮宗、大きな意味でいうところの禅宗は、宇宙そのものを象徴するビルシャナの声に耳を傾けてやがて同一化することを目指しているが、その「ビルシャナ」が象徴しているものは、ヤハウェと同根なのではあるまいか。ぼくらはけっきょく、同じものを見、同じものを求めて同じ道を進んでいるだけじゃないのだろうか。それなのに、ひとびとはどうしてこうも分かり合うことができないのだろう……。こうしたところが、作品がもたらす寂寥感や切なさの源であるように感じた。
 そもそもにして、ギリシア神話由来の星座がお話の背景に使われているところにまたおもしろさがあると思う。当時はすべて(少なくとも西欧諸国)の文明の礎と固く信じられていたといわれるギリシア文化、あるいは地球という一惑星の外に広がる宇宙を舞台にすることで、人間たちのちいささが浮き彫りになり、その「ちいささ」が営む世界ですらうまく息をすることができないじぶんを、作者はひっそり、描きだしているように思う。作中で重複するテーマ「おぼれる」はほんとうに奥が深いと思う。タイタニック号の犠牲者を彷彿させる青年のことば、「助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方が幸福」には強く共感。「ちがい」といえば親友同志であるジョバンニとカムパネルラがラスト、同じ光景のなかにそれぞれ「ちがう」ものを見ているところもまたおもしろい。「親より先に死ぬと地獄」観が強い仏教の影響なのか。それからたぶん、すでに母親を亡くしているカムパネルラを使って、「マリア」のような慈悲深い母性像を同時に表現したかったのか。
 色彩ゆたかな描写同様、このお話は構成もきれいだと思う。先に「ケンタウル祭の夜」という背景を示しておいて、銀河鉄道をいて座の手前、さそり座で終わらせるところ。汽車で再会したカムパネルラの衣服が濡れていたり「青ざめて苦しそうな」顔をしてみせたり、あるいは含みのある言動をさせること。
 自己犠牲や罪の意識、それから貧困や欠落(たとえば父性不在)という暗いテーマと色彩ゆたかな幻想性、心ほどける空想性がうまいこと共存した作品だと思う。暗い宇宙をきらびやかに飾った花々、宝石、もちろん星々、それから音楽には心を深く魅了された。
「お調子者でちょっと嫌なやつ」を思わせるザネリのためにカムパネルラが溺れ死ぬことに想いを馳せるとまた切ない。ほんとう、人生はただ無常と思う。
 意気地はないくせに自尊心だけはやたらと高く、たいてい卑屈でいたく頑な、感受性がじつに鋭いジョバンニ少年――、クラスのなかで(恐らく)ただひとりだけ働く子ども=ひとりの異邦人、の孤独が何も解決されないままお話が幕となるところに作者の深い闇を感じる。親友をからかう同級生たちのじつに拙い行動原理と、彼らにまっこうから抗えないカムパネルラの心の弱さ。それらすべてを「それでもいいか」と包み込んだうえで陥ってしまう空虚感もまた胸が痛い。けっきょくのところ、世俗には安寧が生きる余地などないのかと心を重くふさいでしまった。
 
 併録作品で好きなものはよだかの星。感情移入がしやすい。セロ弾きのゴーシュも親しみやすくて好き。ひと以外のものと関わることで音楽が上達するというのは示唆が深いように思う。(人間のことばの前に動物たちの音楽があったのだと、そういえばどこかの学者が言っていた)「虔十公園林」には救われる。鹿踊りのはじまり」はじつに愉快。「やまなし」の世界観には子どものころから魅了されつづけている。ここにはなかったが「月夜のでんしんばしら」も個人的には印象深い。資本者階級と労働者階級と関係をユーモラスに描いたと思われるオツベルと象はメタファーが深くておもしろい。「氷河鼠の毛皮」「なめとこ山の熊」でとくに顕著に描かれているように思う「犠牲と罪」のテーマには胸を重たくするばかり。生きていくためには犠牲を避けることはできないが「よわきもの」を一方的に搾取しつづけているぼくらにできることといえば感謝すること、敬意を持つこと、それから罪の意識をつねに意識し、そのうえでできるかぎり慎ましく生活することぐらいなのだろう。やはり人生は切ないと思う。「洞熊学校を卒業した三人」を読んでさらに悲しくなってしまった。花とみつばちが示すものもまた空虚。仕事柄、フランドン農学校の豚はひじょうにつらい作品だった。ユゴーの『死刑囚最後の日』よりもよっぽど強く心に迫った。前に屠殺場で聞いたが、豚や牛たちはその眉間に鉄の円柱を打ちこまれるまえ、死を覚悟して泣くそうだ。スーパーに並べられた肉しか知らないぼくらというのはとてもおめでたい連中だと思う。「土神ときつね」もつらいお話。「税務署長の冒険」はわくわくしながら読むことができた。詩ではやはり「永訣の朝」。「あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ」ここに作者のありのままの心をみた。それから「林と思想」にもいたく共感。春と修羅の行間に抑圧された蒼い激情には胸が共鳴してしまう。

(Eさんの感想を読んで)
C:Eさん、評論を出せばいいのに。
D:詩を書く人の文章っていいですよね。

<参加者F>
◆私の中で宮沢賢治とは、自発的に読むというより、教科書的に押し付けられる印象があって。オツベルと象も、作品より担当教員の顔が浮かんできてしまう。教員と相性が合わなかったのが切っ掛けで国語を学ぶのがいやになり、英語に切り替えた経緯があるので。
銀河鉄道の夜
◆再読。大きくは童話なんだろうけれど、死者の話という印象が強い。
◆非常に神話的な、垂直的世界観。
◆モチーフとなっているのが“川”。銀河も川。一貫して流れている。
ジョバンニの母の「川へははいらないでね。」という台詞があるが、川は“俗世とあの世を繋ぐ境目”のメタファーではないか。そして、天の川が線路となり、そこに登場する汽車は、死者を送る舟の代わりのように読める。
◆結末を見ると、銀河鉄道はあの世に魂を運ぶ汽車であり、SFでよく見る設定の起点はここなのだと思う。
◆死者ではないジョバンニがなぜ乗れたのか?⇒祭りの日は次元が歪み、あの世と一瞬繋がるとされている。作中のケンタウル祭は、盆や彼岸を拡大解釈したような祭りなのかもしれない。天界があって、地上があって、地獄なりなんなりがあって……仏教でもキリスト教でも、他の世界がある。和洋折衷で取り入れたのだろう。
◆乗客は、それぞれの人生により下車する場所が違う。仏教の六道も取り入れている。
◆「天気輪」こそ、輪廻の輪の転輪から派生したのだと思う(「天気輪」は宮沢賢治の造語で、辞書には載っていない)。モデルは輪廻とか転輪かな。
ビルシャナ仏は、輪廻から抜け出した人なので、Eさんの仰ることは一理ある。
◆ダンテの地獄巡りの天上版みたいな感じ。行って戻ってくる巡礼譚。川に落ちて、川に戻ってくる。地上の川、天上の川が繋がって円を描いている。よくできている。
◆私は、ジョバンニとカムパネルラの友情はあまり感じなかった。“身近にある死”を感じさせてくれた。間違っても子ども向けではない。
◆文章は古いけれど上手い。
宮沢賢治が教員として培った理科系・農業系の知識を、オーナメントとして使っている。
◆「らっこの上着」。私は、ジョバンニの父が密漁者なので囃されていると読んだ。宮沢賢治の実家は質屋で、人から搾取しているという思いがあり、そこへジョバンニの“父が密漁で儲けていることの後ろめたさ”を重ねたのでは。推測だけれど。

<参加者G>
銀河鉄道の夜
◆私は授業中に外ばかり見ていたから、先生の影響を受けておらず、押し付けという感じはしない。教科書の印象もなくて。アニメから入って、30代か40代のころに読んだ。
大人として「銀河鉄道の夜」に接して感動した。アニメの美しい世界もよかった。今回も3回は号泣した。死に近い年になって、死者の世界が身近になってきたら、この死生観に共感する。
◆解説できない。なぜかわからないけれど感動して泣いてしまう。腹の底から感動がこみ上がってくる。
宮沢賢治は、大正11(1922)年に最大の理解者である妹のトシを亡くし、その2年後に「銀河鉄道の夜」の初稿を書いている。死んだらどこへいくのだろう、死者はこういうところへ行くのではないかと、自分の悲しみを乗り越えていったのでは。
◆表現方法、描写方法を自分の作品にも取り入れたい。
◆以前、文学学校の講師から「宮沢賢治を受け付けない人が一定数いることを忘れてはならない」と聞いた。ほかで児童文学を学んでいたときもあったが、そこにも「死んだ人のことばかり書いているから」宮沢賢治をきらいな人がいた。
◆敬遠されるのは、どの作品にも宗教くささがあるからだと思う。宮沢賢治日蓮宗に傾倒していたので。
◆現代では定番のようになっているけれど、宮沢賢治の作品が見直されたのはバブルの後で、そんなに定型な人でもない。
◆私は宮沢賢治村上春樹の作品に癒しを感じる。気持ちがしんどい人はそうじゃないかな。健全な人は拒絶反応を起こすのかも。

<フリートーク
【「誰か/何かに影響を受けて書く」ということ】
C:宮沢賢治村上春樹の文章や表現を参考にしたい気持ちはわかるけど、しないほうがいい。誰に影響を受けているかバレるから。換骨奪胎するのならいいけれど。
私は真似をしてしまいそうなので、村上春樹は読まないようにしている。
G:心酔すると作風が似ちゃいますね。村上春樹っぽい作品を読んだことがある。
C:司馬遼太郎的なものや松本清張的なものを書く人もいる。読者としてはいいけれど創作者としては気をつけないと。鑑賞者として読むのと、創作者として読むのは違う。とくに長く残っている作品を読む場合は。
G:書き方がわからないとき、人に「オリジナルはない。脳内の情景はオリジナルで見られるわけがない。だから真似していい」と言われた。ほとんどの芸術は模倣から始まる。
C:それは正論ですけど。やはり自分が好きな作品を取り入れてしまう。
G:いろいろなところから取り入れて、元がわからないようにすればいいのでは。
C:境目が難しいですね。

【国語教育の中の「感想」】
◆C:高校では「現代文」が「論理国語」と「文学国語」に分かれるようになる。賛否はあるが、会社に入ってきて文章を書けない人がいると、なぜ学校で教えないのか、と思う。
◆F:国語教育は、感想文を書かせますよね。私は批評文なら書けるけれど、ですます調の国語感想文が苦手。
ちなみに大学生に批評を書かせたら、ですます調の感想文が出てくる。社会人になる前にやめろ、と言うんですが。
C:修学旅行も、行く前から感想文が決まっている。白紙の状態で書かせない。原爆ドームに行っても、知覧特攻平和会館に行っても感想は同じ。でも、原爆ドームには原爆ドームの、知覧には知覧の感想があるはずなんです。知覧には特攻隊員の前向きな遺書がたくさんある。教師は「これは書かされたのだ」と教える。教え方が決まっている。
F:修学旅行へ行く前に感想文を書かされたりしましたね。当日お腹を壊したと書いたら、本当にお腹を壊したふりをしろよ、という罰ゲームみたいな企画で。
C:私は引率する先生の視点で三十枚くらい書いた。やっぱりこいつは遅刻した、みたいな。それが私の最初の小説かも。
G:私は感想を書かされなかった。
F:私のころはすごく書かされた。だから、大学の評論の課題にも“感想文”を書いてくる学生が多い。

【作者と作品について】
G:「注文の多い料理店、何が面白いのかわからない。
C:わかりやすい。どんでん返しだし。
F:起承転結、絵に描いたようなどんでん返しがある。3分で人形劇にしやすく、コストパフォーマンスがいい。
銀河鉄道の夜に関しては、それが通用しない。宗教くささ・説教くささがある。「動物である以上、何らかの搾取から逃れられない。どう折り合いをつけるのか?」と煩悶している作者の思想が垣間見える。ジャンルは違うが、レフ・トルストイの説教くささを思い出した。
宮沢賢治夏目漱石は気の毒だと思う。作家や作品が定型化しているというか、「安全ですよ」「安心ですよ」というブランドになっているのは、ある意味の権威。国語教育に“スタンダード”として取り入れられて、現代国語とか、そっちに引っ張られてしまうのじゃないかと。アニメになったり、NHKの人形劇になったり……子どもに見せても安全という“パッケージ化”“陳腐化”されて。
実際に作品を読んでみたらそうでもないんだけど。現状では、大事なところを見落としてしまいそうで。手記とか詩のほうが本質に迫れるはず。
死後、大量の春画が出てきたんだけど、死ぬまで表沙汰にできなかった。
G:農民にも肉は食べてはいけないと説いていたけれど、自分は鰻を食べていたし、矛盾を抱えていたと思う。
F:教員だから、(ジョバンニの父が行っていたかもしれない)密漁のことなどは知っていたはず。「自分は後ろめたいお金で生きている」「搾取せずには生きていけない」という思いがあり、逃れるべき銀河、天上を書きたかったのでは。
G:実家が質屋で、貧しい農民たちの着物や質草を扱い、そのお金で生活して……宮沢賢治は熱心な日蓮宗徒だから、罪の意識はあったと思う。
C:肉を食べてはいけない、というのは仏教の教えではない。日本では、天武天皇が肉食禁止令を出したことで混ざってきた。
F:もともとの仏教では、利益のために殺生をしてはならない、としか言っていない。
C:お釈迦様も牛乳を飲んでいたし。断食明けにスジャータから乳粥を与えられている。
宮沢賢治を読書会で取り上げるのは難しいですね。もう語り尽くされているから。銀河鉄道の夜自体では、質屋や妹に触れられていないので絡めていいものかどうか。
G:初めて読む人に、そういう解説はしちゃだめですね。
C:夢から覚めたら、こうなっていた。「不思議の国のアリス」みたいな。銀河鉄道の夜も、それで読んだらいいと思う。

【施すということ】
G:このベスト集には載っていないけれど、私が好きな作品は「蜘蛛となめくじと狸」(※収録の「洞熊学校を卒業した三人」は「蜘蛛となめくじと狸」を改稿した作品)。蜘蛛もなめくじも狸も、みんな死ぬ。最初に「三人とも死にました。」と書かれている。

『100日後に死ぬワニ』ってあったじゃないですか。死ぬのがわかっていると、作品の味わいや風合いが変わってくる。
「蜘蛛となめくじと狸」では、他の生き物を食べて、大きくなって、死んでしまうんですが。
F:宮沢賢治のそういうところが苦手という人が多い。家畜は家畜という線引きがない。共感しすぎている。私は共感しないほうなので、自分の本棚には置かないな、と。
C:線引きは下手かもしれない。生と死も……
F:そこをぼかせる存在を使っているんじゃないかと。この時代、子どもの死亡率は高い。=半分死の世界と繋がっている。だからこそ、銀河鉄道の夜の主軸にあるのは子ども。ジョバンニは生きて、カムパネルラは帰ってこない。
物語はよくできているし、日本語をうまく使っているし、日本文学の宝だと思うし、教科書に載るのもわかるが、人物を調べていくと個人としては苦手。作者についての解説を読むとアレルギー反応が出る人はいると思う。宗教に凝り固まっているというか、実家が裕福な人がやっているな、と鼻につく。作者が見えづらい作家だと、そういうのは少ないんだけど。
(作者が見えてしまうから)私は太宰治も好きじゃない。
G:どこにでも行ける切符は“想像力”。亡くなった人にも会える。農民の気持ちがわからなくても、想像することはできるんじゃないかな。
F:想像を人に押し付けるな、と。色眼鏡で見てるし、農民と同じ生活をしようとしても長く続かない。「農民芸術大綱」とか頑張ってるんだけど。目につく場所にあるから気になるのかなとは思う。
G:マザー・テレサも裕福な家で育った。
F:マザー・テレサも好きではない。功績は認めるけれど。あなたは米を作れないでしょう、私たちを見下しているでしょう、と思ってしまう。
C:偽善っぽく感じてしまうんですよね。
オードリー・ヘプバーンは後半生をユニセフでの仕事に捧げた。彼女のファンであれば好意的に取るけれど……
F:チャリティは施すほうが選ぶんです。選ばれなかったほうはどう思うのか。
C:受け取るほうも、オードリー・ヘプバーンなら受け取る、というような部分はあるので一概には言えない。天皇陛下の被災地訪問も、受け取るほうは感動している。
B:盛岡に「いわて銀河鉄道」という鉄道事業者があって。この名付けは農民側の復讐じゃないですかね。
C:有名だから。恐竜で町おこしみたいな。
F:知名度抜群ですからね。結果としてはそうなっているかな。
ほかの作家にも言えるけど、ある種の押し付けがましさは、健全なら名作につきまとうもの。

【解釈は読み手に委ねられている】
C:ジョバンニの切符。ジョバンニは死んでいないから、あれがないと途中で下りられない。そのための設定として万能な切符があると考えるのはだめでしょうか。意味付けを考えるとファンタジーは成り立たない。
F:どこまでファンタジーとして受け止めればいいのか、調節に時間がかかった。脈絡なくいきなり汽車に乗るので。
C:子どもはそれでいいんです。大人は理屈で読んでしまう。「不思議の国のアリス」だって子どもは受け入れている。
B:ジョバンニの切符は三次元から持ち込んでいる。敢えて語らないことで深みを持たせるというテクニック。未定稿だからかもしれないけれど。
G:鉄道が走っているのは幻想第四次世界ですよね。三次元ではない。
F:そこは深く考えず、夢、でいいかな。
C:みんな理由を求めますよね。「明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか」とか。事実を受け入れればいいのに。
銀河鉄道も、気づけば座席に座っていればいい。文学学校の合評なら、乗り込むところを書けと言われると思う。ファンタジーは理屈を問い詰めないほうが読めるんじゃないかな。
G:ライトノベルの作家さんが仰っていたんです。純文学は理屈を求める、と。
また、リアリティの問題も。背が低い男性と女性を書くとき、男性150cm、・女性170㎝のほうがリアルだろうけれど、ファンタジーなら男性140cmで女性2mのほうが面白い、とも。
C:たとえば、八月に桜が咲いている作品を書いたら「間違い」と指摘されるんだけど、八月に桜が咲くような異世界なのかもしれない。そういう世界だというオチがあるかもしれない。
理由なく書き始めて、発想が出てきたときに、その発想のまま書いたらいい。
F:こういうジャンルと思って読むから受け入れることができる。宮沢賢治の作品は起承転結がはっきりしているので、銀河鉄道の夜は彼にしては珍しい作品だなと思った。解釈は読む人に委ねられている。

『共喰い』田中慎弥(集英社文庫)

Zoom読書会 2021.11.27
【テキスト】『共喰い』田中慎弥集英社文庫) 
【参加人数】出席6名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者G)>
◆読んでいて、風景がとても想像しやすかった。映画は観ていないのに、「映画を観たんだっけ?」と錯覚してしまうくらい頭に浮かぶ。作者は家に引きこもっていたそうだが、それでも新鮮な景色を描けるんだと驚いた。このような作品を取り上げるのも面白いかなと思い、推薦した。
◆非常に綿密に推敲されている。
◆仁子さんのキャラクターが魅力的ですごくいい。

<参加者A(提出の感想)>
「父と子」あるいは「母と子」を題材にした中編。もしくは単純に「血」がテーマだろうか。はじめ「父殺し」がモチーフだと思っていたが読後の印象は「解呪」のように感じた。冒頭から張られた圧迫感や閉塞感がやんわりほどけるラストはすてき。「戦争のきずあと」が色濃く反映された町が舞台というのはひじょうに奥深い設定だと思う。 
 文章表現は「特異」という印象で、作者が持ち前の感性のままに世界を写し取っていると感じた。そのくせ、物語の構成はよく鍛錬された文学的理性の力がひじょうに強い。主人公・遠馬がみずからの「血」を意識しめざめていく過程や「祭りの大雨」をピークに持っていくためのプロット上のしたたかさや周到さは感覚だけでつくりあげられるものではないと思う。「降らない雨」がもたらす作品全体への抑圧感はとてもよかった。感性と理性、あるいは鍛えられた思考力、それらの共生する作品はやはりいい。
「血」と「父と子」ですぐに思い浮かんだのは沢木耕太郎の『血の味』だったが、こちらは同テーマを取り扱っていながらもそれまでの、少なくともぼくが知っているかぎりの「父殺し」譚の様相とはずいぶん違った。このお話を支配しているのは水の力、しずかでかつしたたかな女性原理の力であるとぼくは思う。物語終盤に用意された大雨もまた女性性の象徴だろう。あらゆるものを受け入れ、包みこみ、もしくはおおいつくし、大地と水との境界線さえもあいまいにしてしまうその力はただただ崇高だと思う。性交時に痛みをおぼえながらもがまんしつづけ、その父から暴行を受けても遠馬を責めず、表面上はもの穏やかにじぶんを保とうとする千種の強さと深さはまさに水。魚もごみも排泄物も、水はすべてを受け入れる。そんな千種のセリフ「殺してくれるなら誰でもいい」は胸がしめつけられるほどに鮮烈だった。さらにまた、彼女が遠馬のひとつ年上であるという設定は印象深い。
「青年」を主人公に据え、「父なるもの」を怪物あるいは神になぞらえてそれを退治する「試練」譚は豊富にあるが、今作は本来男性性の力であるはずの「切断」が女性によって行使されている。ここが、この物語の最大の特徴だと思った。切断役の仁子はそもそもとしてみずからの「手」がすでに切断されている、という点も物語としての魅力のひとつ。グリムの『手なし娘』を彷彿させるかのじょは、義手という新しいじぶん=金属(切断や加工をイメージ)の存在と、魚をさばく(やはり切断)のが生業、というふたつの設定を備えており、いま思えば物語冒頭からすでにラストの配役が違和感なく遂げられるよう、粛々と準備されていたことがうかがえる。遠馬からみた「橋の上の両親の影」はひじょうに示唆的だと思った。どこか神話的だとも感じた。はじめ、タイトルの『共喰い』は子が「父殺し」をするさまを象徴しているのだと思っていたが、ひとりの「息子」からみれば、「親」というあるひと組の男女のすがた、そのけっして理解できない異質さや奇怪さという意味では「同類」だったのかもしれない。(残念ながらぼくにはタイトルの真意が分からなかった)あるいは、『共喰い』をしようともして実現できなかった青年の無力さや空虚さを強調するための選択だったのだろうか。雨によって境界線がとろけた世界、「橋」というふたつのものをつなぐ場所で「影」となった男女が命をかけて混じり合うさまは人間としての普遍性を暗示しているように思えてならない。
「負の連鎖」を止めるために罪(あくまでも社会的な)を犯したかのじょ、仁子は、しかしながらけっきょくのところ、やはり「子」の「母」であったことはけっして揺るがず、そんなかのじょが「しごと」後にはなったひと言、「終わったけえ、帰ろういね」には目元をあつくしてしまった。このことばにはかのじょというものがすべて詰まっているように思う。また、ここで義手を失ったこと、そしてしばらくなかった月経が再開したという点はものすごく印象深い。(そもそもこの「義手」という負い目を持ったじぶんをひとりの「女」してみてくれた「父」に対するかのじょの想いはとても切ない)まるでおとぎ話のように、人生寓話としての知恵が深いように感じた。このお話は作品後半の「祭り」と「大雨」に合わせてだんだんと上昇曲線を描いていくが、この「祭りの大雨」(=神なるものを背景にした女性性の象徴)はいわゆるところの「死と再生」を司っているのだろう。ここでひとつの死があって、そうしてひとつの再生が行われる。であるからぼくはこのお話のテーマを「解呪」と受け取ったのだろう。
 気の毒なのは主人公の遠馬であって、彼がこの作中で主だってあてがわれている役割はただただ観察と内省である、という印象。ほとんど傀儡。作者に、あるいは物語にとっての。いつも周囲、もしくは内的な衝動に流されそしてひたすら追われているだけ。みずからの意思で能動的に行ったことは性欲を満たすことと父に対する反抗だけ。それもあくまでも態度だけ。実際的な意味において、なにか周囲に大きな影響を与えることはとくに何もしていないような気がする。(読み方が浅いだけだろうか)ラスト、母によってその「呪われた」血の力に何かしらの変化はあったかもしれないが、ぼくにはそれが、かんぜんに消え去ったように思えない。なぜなら血は血だから。それは経験や意思や精神力でどうにかなるほど軽薄なものではないだろう。そういう点もひどく気の毒。父を殺そうとしたときの母のことば、「お前には無理だ。殴られたこと、ないんじゃろうかね」はあまりにも痛烈すぎた。ただ、彼がうなぎ釣りをやめない理由、「親子三人で過ごせる」というところは心から共感できたし胸をつかれる切実さも感じた。
 そもそもこのお話に出てくる男性たちの無力さや愚鈍さといったらほんとうに救いがないと思う。けれどもこれは現在田舎に居を置いているぼく自身がひしひしと感じていることでもある。田舎の男というのはとにかく自立していない。まったく子ども。いつまでも子ども。生き方がだらしないし考えは浅いし行動は軽い。それもこれも、「母性」があまりにあまやかしすぎるから。そういう意味では作中の舞台となったちいさな町はいま現在のこの国をうまくあらわしていると思う。ここに作者のなげきと諦観と、あるいは他でもない自己に対する虚しさや失望感を強く感じた。そして同時に深く共鳴。この国の太陽神は世界的にめずらしく「女性」であるが、それにしたって男どもの頼りなさ、思慮の浅さはほんとうになげかわしいことだと思う。本来の意味でいう「父なるもの」が不在の家、そしていつまでも「過去」が滞留しつづける町、というのはまさに言い得て妙だと思った。作中に用意されたもうひとつの母性、琴子ではないが、腹に「子」を宿した後、ひっそりと去っていくのがじつは賢明なのかもしれない。少なくともその独立心・自由意思に強い好感。
 この作品はまた描写がとてもよかった。作者がみたものを感じたままに書き出した、という印象。個人的には油絵のように感じた。あるいは水銀のようだと思った。重く、分厚く、どこかなめらか。そして沈黙。重苦しい沈黙の画。「時間」に関する描写もすてき。その緩慢さ、鈍重感は懊悩する青年によく似合う。それから、「雨」によって境界があいまい、カオスになったラストの世界観はほんとうにすばらしかった。圧巻。マジックレアリズム的な表現は大好き。多くの芥川賞作品同様、ここでもやはり、夢とうつつが入り乱れた幻想怪奇表現が取り入れられている。もっとも、今作はあくまでも遠馬個人の観念的世界観にしか過ぎなかったのだろうけど。作品を飾る声なき登場「人物」たち、蝸牛、熊蝉、蟹、鷺、赤犬、虎猫たちの存在感もまたおもしろかった。漢字のインパクト以上に文学作品的役割をみごとに果たしていると思った。活き活きとした方言もまた魅力。「死にゆくことば」を大切にしたいというのは同じ考え。
「少年時代のある成長」を取り扱ったように思う併録作品は胸をほんのりとつかまれる印象だった。じぶんが一歩、「おとな」と呼ばれる年代に踏み出したのはいつだったろうと淡い郷愁感にとらわれた。瀬戸内寂聴さんとの対談はなかなか興味深かった。田中慎弥さんの「言葉というのは蓄積」ということば、そして寂聴さんの(私小説は)「本当は三分、あとの七分はつくりもの」には感銘を受ける。また、宇野千代さんの言であるという「文学の究極は宗教につづく」にも胸を突かれた。
 どことなく寓話的なにおいを放つ、「死と再生」の雨のお話。

<参加者B>
◆そんなに長くない作品なのに濃度が高く、非常に読み応えがあった。私は読むのは遅いほうではないと思うが時間がかかった。読みにくいが嫌な読みにくさではなく、噛み応えがあるという感じ。私は普段はさらさら読める小説を読むことが多いので、久々に歯応えのあるものを食べたな、という印象。
◆内容も描写も生々しくて綺麗なものは出てこないのだが不思議と不快感は覚えず、逆に神聖にすら思えた。ある種神話のような。
◆Aさんが書面で述べられたように橋は「境界」。川辺の物語であるというのが象徴的だと思う。母は橋で父を殺すことによって、川辺にいる息子を踏み止めさせたのか。
◆P57からは夢かと思った。結果的に夢ではないのだけど、白昼夢というか、この血からは逃れられないのではという怖れが見せた悪夢であるように感じた。
◆P81。父を刺したあと、仁子さんの義手から、ぽこん、という音がするところがいい。
◆映画では遠馬を菅田将暉さんが演じているそう。上手い俳優さんなので、ちょっと観てみたい。
◆併録の「第三紀層の魚」。「共喰い」のすぐあとに読んだので、読み始めたときは、「共喰い」と同じく少し昔が舞台だと思っていたが、P95で第一次安倍内閣と思われる記述が出てきて、2006年から数年後の話だとわかった。釣りとか魚とか詳しくないけれど、この話は結構好き。この作品も「共喰い」も、時間というものへの想いが打ち出されていたと思う。
◆巻末に瀬戸内寂聴さんとの対談が載っている。今月、寂聴さんが亡くなって間もないので巡り合わせを感じた。

<参加者C>
◆正直、全然合わなかった。まず「ああ、“文学”だな」と思った。序盤、川にゴミが溢れているのが丁寧に書かれていて、“不快さ”そのものを提示してくるのが文学的。エンタメ作品だと、描かれたシーンはのちのちストーリーに関係してくるが、純文学にはそれがない。また、テーマ性にぶら下がっているのではない。取っ掛かりを潰している堅牢な城のような印象。「わかりにくさが文学だよね」というふうな。この作品を読んで、私の中にある“文学”に対する毒を理解した。
◆描写については刺さるところがあった。吊り上げられた鰻の描写(P33~34)など。
“不快さ”を前面に出す部分は、村上龍限りなく透明に近いブルー』に近いものを感じた。『限りなく透明に近いブルー』の描写は不快さを前面に出しているにも関わらずスタイリッシュで(私に)刺さったので、『共喰い』のねばつく描写も刺さる人には刺さるのだと思う。

<参加者D>
◆先ほど読了したばかりなので、Aさんのように精緻なことは言えない。
『共喰い』は話題になりすぎ逆に手が伸びなかったので、いい機会を与えてもらった。
◆すごい作品。場面が生々しく描かれている。
かつて佐藤春夫石原慎太郎太陽の季節』を批判したが、現代では、「こんな性的な描写が許されるのか」など野暮なことを言う人はいないだろうから開き直って書ける。
◆子が、父世代をどう乗り越えていくのかという父と子の物語。主人公は反抗的でありながら宿命的にも考えており、新しい。
タイトルが「共喰い」なので、遠馬が父を殺すのだろうと思って読んでいたら、父を殺したのは母だった。小説的には遠馬が殺さなければならないのでは。遠馬に、母が父を殺してしまったという感慨があればいいのだが、それもなかったので引っかかった。
◆父と子の話を書くのに、これほどえげつない世界を書かなくてはならなかったのか? 中上健次作品の舞台になった「路地」をイメージして書いたのだろうか。「川辺」は、読者に世間と離れたイメージを湧かせるために設定された街だと思うが、「(被差別部落である)路地」ほどの必然性はあるのか。
◆ストーリーがあるような、ないような、詩的な作品。この作品を詩的というとギャグみたいだが、「ストーリーがないこと」が詩的。
以前、川上チューターが「きみらの小説には詩心がない」とおっしゃったとき、私は「詩人の小説にはストーリーがないじゃないか」と言い返した。小説にはいろいろな書き方がある。
◆描写は丹念で(自分が書く上で)参考になるところがたくさんあった。読み飛ばして差し支えのない部分もたくさんあるのは、文学作品だからだろう。
エンタメ作品ではストーリーに関係ない精密な描写はできない。ストーリーを追うためには、どこまで描写するのかという問題を考えさせられた。

<参加者E>
◆忙しい中読んだので、読み飛ばしているところがあるかも。
◆大きくは「父殺し」の物語(ex:ソポクレス『オイディプス王』)。父殺しを経て男性がアイデンティティを確立していくと想定される。
◆気になったのは特異な風景。とくに、魚屋の魚や鰻など、食用の魚のイメージが核心になっているのでは。主人公の異性に対する露骨な制欲、同じような意識を持つ父親への嫌悪が、魚と重なる。ぬめぬめとした川の様子や船虫等の生物が、体液・血・体・性行為と関わってくるのではないか。
主人公が行き来する川辺には生活排水や排泄物がそのまま流れ込んでいる。現代ではクリーンアップされて表には出てこないが、もともと魚は生活排水や汚物を糧にしていた。主人公の父がその魚を糧にして、また排泄する。⇒循環
主人公は表層意識では父を嫌悪しているが、逃れられないという煩悶がある。自分も父と同じようになってしまうのではという煩悶がメインテーマ。しかし、父を殺したのは主人公以外の人間なので、主人公は嫌悪するものから脱せられずループになってしまうのでは。
◆嫌悪感はそうなかった。絶賛する気持ちにはなれないが悪くない。(この作品は)これはこれでありだなと。
私が子どものころは昔ながらの田舎の生活がぎりぎり残っていて、動物の死骸を川に流し、それを食べて育った魚を人間が食べるということがあった。今考えると気持ち悪いなと思う。
血と同じように逃れづらい、田舎の土地の閉塞感も書かれていたような気がする。

<参加者F>
◆読むのは2回目。1回目は芥川賞を受賞したとき。作者が「もらっといてやる」と言っていたので、気になって読んでみた。その発言は文学に対する矜持からくるものなんだと思う。
◆再読して、最初に読んだときの気持ち悪い感覚がよみがえってきた。ここに描かれているような目を背けたいもの(排泄物を食べた魚、臭い、人間くささ、閉塞感、生々しい人間の欲)をすべて詰め込んでいる。
今はトイレで立ち上がった瞬間に水が流れるので排泄物を見ることがない。現代で排斥されようとしている原始的なもの、汚いものを全部書いている。
◆私は純文学を書いていたが、ミステリーや時代小説などのエンタメ作品へ転向した。エンタメは汚いところを見なくてすむから楽しい。純文学を書いていたときは、自分の心を抉りながら本質的なものを絞り出すように書いていて、それを思い出した。純文学とは、こういうのを言うんだ、と。作者が痩せているのは、絞り出すように書いているからではと感銘を受けた。
◆読んで最初に感じたのは、女性の逞しさ。たとえば琴子さんは、遠馬に「ひどく頭の悪い女」(P15)と思われているが馬鹿ではない(ただ、身重で逃げるのは体に負担がかかるので、この部分は、作者が妊娠した女性について知らないなと思った)。
作中の男性は本能に従うだけ。遠馬も父を乗り越えていない(父を殺したのは仁子さんなので)。女の強さ、男の不甲斐なさが描かれている。
◆男のどうしようもない性欲とサディズム・血の宿命など、世界観を作り込み、書き込んでいったのだろう。
◆「親を乗り越える」のような、テーマを書かないのが純文学。答えがないところを追求しているんだと思う。そこがエンタメ的な読み方と異なる。
◆印象としては「青い」。すごく力を入れて書いたのでは。描写は精密すぎて、隙間もないように書かれている。
一つの小説にこんなに力を注ぎ込んだら、多産できない。作者は就職もアルバイトもせず小説を書いていた。そこまでしないと、これほどの描写は書けないんだと思った。
◆食べ物の描写がいい。ご飯が美味しそうで。世界観に合わない食べ物は出てこない。たとえばグラタンとか。

<参加者G(推薦者)>
◆描写は細かいけれど嫌悪感はなく、気持ち悪くもなかった。汚い部分や灰汁を絞り出しているとも感じない。リアリズムを感じるだけ。20年くらい前、雨季のマニラにいたことがあり、その風景を思い出した。
また、DVに関してもリアリティがあって、醜悪なものをフィクションで書いているという気もしない。だから、露悪的だと思わなかったし、汚さも感じなかった。
◆女性が魅力的。とくに仁子さん。義母になるはずだった人が差別的な発言をしたとき掴みかかったり。また、琴子さんに対しての嫉妬もない。
琴子さんもまとも。遠馬に「自分と、自分の親のこと、ばかって思うくらいなら出て行ったほうがいい」と真っ当なことを言う。
◆私は、主人公は仁子さんだと思っていた。遠馬の影が薄いから。遠馬は作中の出来事を通して精神的に何かを乗り越えるわけではないし、養護施設で暮らすようになって生活が変わったという感じもない。
◆遠馬が父と同じように女性を殴るようになるのかはわからない(スイッチはあるが)。答えはない。
◆川と川でないところの区別がなく混じり合ってしまっている場面は秀逸。何かが起こって、水が引くと元に戻る。赤犬が恐らく溺れ死んでいるという描写もよい。
◆作者の他の作品でも、緻密な描写を少しずつずらしていって、世界がおかしくなっていく過程を描いている。緻密だからこそできるのだと思う。

<フリートーク
【「川辺」のような地域はあるのか? また、「川辺」を設定した意味とは?】
F:汚さを感じなかった? 私は汚さを書こうとしていると思った。
E:汚さというか生々しさ。露悪的までは行かないかな。「嫌悪感は抱かれるだろうな」という書き手の意識を感じる。
F:昭和中期はこんな感じだった。日本で一番汚いと言われる大和川の辺りに住んでいたが、作中に出てくる川のようで。そのあと、尼崎の神崎川近くに居を移して、そこもものすごく臭かった。
D:あれは工場排水。通学のとき見ていたけど、確かに見ただけで臭ってきそうだった。でも作中の川の汚さは、私たちの見た戦後の汚さとはまた違う。高度成長を遂げたあとでもこういう場所が残っている、というイメージ。それをどう捉えるか。このような内容を書くために、このような世界を作り出した。作者が閉鎖的な地域の出で、それを書いているとは思えない。引きこもりの閉鎖的とは違うから。でも、読者は作品と作者を結び付けて読む。それが作者の企みではないか。
「今どきは批判的に読む人も少ないだろう」と、敢えてこういうものを作り出したのでは。
F:必死に世界観を作ろうとしている努力の跡が見える。
D:こんな異常な地域はないし、こんな異常な家族はない。でも、もしかしたら……と思わせる実力がある。ニュースで出てきたら騒がれるだろうけれど、小説の世界だと異常だと感じない。
F:私は、DVは小説世界だけでなく日常的にあるんじゃないかと思う。殴られている親とか子どもとか、たくさんいるのでは。
D:たくさんはいないと思う。過大に報道されているのでは。作中のような状況はよくあることと読むのか、ありえないことと読むのか、どちらが正解かはわからない。ただ、作品世界のように、みんながその状態をある程度受け入れているという状況はたぶんない。殴られていることを、本人や周りが批判しないという状況は在り得るのか? 私はないと思う。小説的虚構で、読者に「ある」と思わせるのが作者の意図じゃないかと。
E:作品の舞台となっている川辺だったり、その釣りをするところだったりが、現実云々ではなくフィクションを大前提と考えて、有機的な存在として完成度が高く感心した。
魚を捌いたり、船虫がたかったり、雨が降って土が崩れて……その循環が、一つひとつの細かな描写で表されている。ミクロでは、個人の排泄物や精液も循環している。描写が塩臭かったり生臭かったりするから生々しくはあるが、観念的な捉え方もできる。
個人的に、私は小さい頃、虫がたかるところを見る機会が多かったので、そういう部分にこだわりがある。作者も見ていたのでは……という共感性を持った。「それはどう分解されるんだろう?」という興味。そのようなミクロ/マクロを描いている部分が評価されたのだとうと思う。
F:この小説は、川の臭いより、血の臭いが強い。経血とか、仁子さんが捌く魚の血とか。魚って、すごく血生臭いんです。
E:ここは、川っていうか河口なんですね。鰻は回遊魚だから。海水と淡水が混在した汽水域で、いろいろなものが混じるところ。「臭い」が強調されるのは地理的要因もある。
先週、河口の街に行く機会があったが、潮の満ち引きはすごいと思った。作中でも、海との境界線上である川辺に神社があったり、祭りをしたり、生理中は鳥居を避けたり……聖域の循環を、体の循環と重ねている。
B:「川が女の割れ目」(P19)とありましたね。
E:それがメタファーになっている。生活排水や排泄物などが大地に溶けたあと、どう自分に還るのかが描かれているので。
F:かつて仁子は生理中には鳥居を避けていた。父を殺したあと、生理が再開する。伏線がすごい。

【タイトルについて】
F:何が「共喰い」だろう? 鰻の頭と父親の男性器、それが共喰いだと単純に思っていたけど、もっと深いんですよね。
D:家族全員が共喰いし合っている。遠馬も仁子も。
E:町全体が小さな虫かごなのかなと。虫かごに入れると共喰いし合う。私が目についたのは、排泄物を食べた魚を食べるところ。掘り下げたら何かあるんだろうな、と。基本は二重以上の意味で使っているんだと思う。

【小説の小道具としての「魚」について】
F:私は併録の「第三紀層の魚」は読む気がしなかった。魚ってタイトルだし。
D:肉はイメージとして生臭くない。魚は多くの人が自分の手で捌くから臭いを知っており、作品に使いやすい。
E:魚は捌くと赤身が見えるから、自分の内面や粘膜下の性器と類似する。また、鰻についてくるぬめりの、意味のわからない気持ち悪さ。
F:魚は漬け置きしないと、いつまでも臭い。内臓とか。
昔は、店で「魚を下ろしてください」とは言えない雰囲気があった。主婦はできて当たり前、のような。今は自分で処理している人はあまりいない。
E:自分で動物を潰すこともなくなりましたね。昔は、鶏なら自宅で潰していた。私は、むごいとも残酷とも思わないが、今だと動物虐待に見える人もいる。初めて見る人はグロテスクに感じるかもしれない。
G:私は魚を捌いたことがない。ベジタリアンだったので。肉は息子のためだけに買っていた。
D:「魚は生臭い」というイメージが使えるのは、あと10年くらいかもしれない。
G:常識は変わりますからね。昔は電車で煙草を吸っていたり……
E:映画館でも煙草を吸っていましたね。
煙草と言えば、遠馬が煙草も酒も嗜まない、というのは、「父親と同じではない」というアイテムでは。「放っといても、いずれやるようになるよ」と示唆しているのかも。
D:遠馬はまだ17歳だから、どちらとしても使える(同じではない/いずれやるようになる)。

芥川龍之介賞受賞について】
F:私は、芥川賞の候補に挙がった作品を読んで受賞作を予想するというイベントに参加していて、この作品もその際に取り上げたのだが、選考委員が評価するだろうなと思った。
(選考委員の)宮本輝『泥の河』も生々しい作品。
D:『泥の河』は小説より映画がよかった。子どもたちが可愛くて、生々しさが中和されている。

【巻末の、作者と瀬戸内寂聴さんとの対談について】
E:電子書籍には瀬戸内寂聴さんとの対談は収録されていないので、皆さんの話を聞いて知った。一番合わなさそうな人と対談してるなって(笑)。
瀬戸内寂聴さんの作品は読んだことがあるが、頭の中が恋愛だけという印象を受けた。もっとほかのことに目を向けてもいいのでは、と思った。
この二人の対談はどんな感じだったんだろう。
F:「共喰い」のあとだったので、対談を読んで救われた。
G:田中慎弥さんは)好青年ですよね。
B:(寂聴さんは)あなた恋愛しなさい、みたいな……
F:「早く孫をみせてあげるのも孝行ですよ。……これは尼さんのことば。ほんとは恋愛はじゃんじゃんして、結婚なんかしない方が、いい小説が書けると私は信じています。……これは小説家のことば。」(P205)。いい感じの対談になっている。田中慎弥さんは素直だと思う。
D:こういうのは、お酒でも飲んでやったら楽しいんですよ(笑)。

【周囲との関係について】
D:作中、琴子さんは家を出て行くけど、遠馬が出て行く物語は書けないのだろう。
小学校のころ、学級委員の女の子がいろいろ世話を焼いてくれたのを思い出す。多分、私のことを好きだったんだと思うけど。
E:私は「あなたのために」というのが透けて見えるのがいやで。後々、何か買わされるんじゃないかと(笑)。
F:母性は無償なんです。
D・E:だから煩わしい。
E:私はお金を払っているときのほうが安心する。一番の愛情表現は「声を掛けないこと」だと思っているので。
人の言葉を額面通りに受け取らない人が一定数いる。私がそうなんですけど……話していて、次はどういう手で来るか予想する。我が家では家族で読み合いをするので、長考しているときは沈黙が続く。だから一定時間、一人にしてもらえないと疲弊するんです。
仕事で人と話すことが多いので、帰ったら疲弊して動けなくなる。フランクな会話は苦手ですね。
もしかしたら田中慎弥さんも同じなのではと考えつつ。作中で近所の人が「馬あ君」と呼んでくるのを主人公が快く思っていないのは「裏に何かあるのでは」と探っているからかも。
F:仁子さんと琴子さんは温かく見てくれている。
D:母親が二人いる。違うテイストの母親が二人。それぞれが、もう片方からの逃げ場になっている。
E:(仁子さんと琴子さんは)「売り場が違う」。それぞれに対する振る舞いをしなくてはならない面倒さがある。
D:遠馬が二人を取り持っている部分もある。遠馬の存在が家族のバランスを保っている。
E:どちらにもいい顔をしながらバランスを取って、どちらの母にも父を挟んで子どもとしてバランスを取っている。
私も自分の母と祖母の間を行き来していたところがあるので、この人の前ではこうしよう、こちらの人の前では……と考えていた。どうすれば大人が喜ぶのか、子どもは学習するというのが実感でわかる。コミュニケーションは戦略だと学習した。
D:田中慎弥さんに母は1人。想像で書いたなら大したもの。
E:大したものですね。「もらっといてやる」と言った背景には、相当な思いがあったはず。

『流浪の月』凪良ゆう(東京創元社)

R読書会 2021.11.27
【テキスト】『流浪の月』凪良ゆう(東京創元社) 
【参加人数】7名
※今回はオンラインでなく、久しぶりの対面形式でした。

<推薦の理由(参加者A)>
凪良ゆうの『滅びの前のシャングリラ』を読み、ページを繰る手が止まらなかった。「読ませる力」がすごい。出来事に想いを乗せて語っているように感じたから、読みやすかったのだろうか。
読書会や合評会で「読みやすい」と言うと、肯定的な意味で取る人と、否定的な意味で取る人がいる。(否定的な人は)「読みやすいけど漫画的、アニメ的」というふうに。私自身は読みやすいほうが好きなのだが、なぜ人によって違いがあるのかと思い、この作者の作品を推薦した。
参加者G:Aさんは『滅びの前のシャングリラ』を挙げられたが、私は『流浪の月』のほうが、より人間が書けていると思い、こちらをテキストに推した。

<参加者B>
◆今回で読むのは2回目。去年の11月(1年前)は、今村夏子『むらさきのスカートの女』、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』、村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』、凪良ゆう『流浪の月』の4冊を読み、その中で一番印象が薄かった。
◆私は表紙にこだわるのだが、『流浪の月』の単行本の表紙はアンティークで素敵だと思った。
◆読みやすかった。一章「少女のはなし」が頭に入らなかったが、終章「彼のはなし」を読んだとき、一章がリフレインで響き渡った。一章だけを読むと誰の話なのかわからない。こういうふうな、かき乱される書き出しがあるのだと感心した。
◆一章はルビが多く、なんでこんなに振るのかと思っていたが、章が進むと減っていき、(一章のルビの多さは)9歳の少女目線だからだとわかった。
◆一章で、更紗の父が亡くなり、母がいなくなるという急展開をさらりと書いているので、もっとすごいことが起こるんだと予感させられた。
◆テーマは【事実と真実の間には月と地球ほどの隔たりがある】だと思う。(物語の中で)人々の憶測と偏見が続くのだと読み取れた。
◆結末にも事実と真実が両方入っていると思った。
更紗と文が社会に晒されて(2人以外から見れば)不幸な境遇だけれど[=事実]、2人は不幸ではない[=真実]。
また、タイトルにも真実が隠れていると思う。表紙の英題は『The Wandering Moon』で、「wandering」には「流浪」のほかに「漫遊」という意味がある。更紗と文が流離いを楽しんでいることを表しているのでは。:流浪[=事実]、漫遊[=真実]
⇒更紗と文は世間から見ると可哀想な存在だが、2人にとっては世間などどうでもよくて、2人でならどこへでも行ける。そんなテーマが隠されているのでは。
◆子どもがいないから自由だというのがある。子どもがいると社会と対決していかなくてはならないので。更紗も文も性的対象者がいないという設定が巧い。

<参加者C>
[事前のレジュメより]
 読み終わって、人間って複雑なんだな、めんどくさい生き物なんだなと思いました。梨花が彼等の理解者でいてくれてほっとしました。
 《1》ストーリーを紡ぐ密度が濃く、展開が巧い
亮が更紗の態度の変化に気付き『calico』まで尾行してきた場面から物語の進行が速くなります。私はどきどきしながらページをめくりました。
 《2》繊細な人物描写
  どの頁を開いてもこの作者独自の表現があり、人物の心理をこれでもか、これでもかと深掘りする手法に圧倒されました。
 《3》登場人物の設定
 同じような環境で育った人物を揃えました。トラウマを抱え、自分が何者であるかを探っているような人物たちです。この中で、安西さんは、適当に雑さがあってちゃらちゃらしているようで芯の強い部分があります。私はこの人物に好感を持ちました。DV男の本質を知っており更紗の力になる人物です。更紗と文は繊細すぎるところがあるので、彼女がいることでこの小説の質を高めたように思います。
 谷さんの存在も大きいと思います。彼女がいることで、ノーマルな男女の恋愛とロリコンの違いがクローズアップされ、谷さんの言葉や行動が、文の苦悩を理解する上でとても大切な役割を果たします。最終盤で、文は第二次性徴のときに発達が停まってしまう病気を抱えていたことが分かります。
 《4》各章につけられた小見出しに違和感
 「彼女のはなし」など、抽象的な小見出しにした理由が分かりません。四章を「彼のはなし」にして文の視点で描くためかな、と邪推しちゃった。四章だけが説明調になっているのが気になりました。二十年もの期間を書くには、説明が多くなるのは仕方ないでしょうが、違和感は残ります。終章「彼のはなしⅡ」も、視点は更紗で書いた方がいいように思いました。
 《5》心に残る文章はいくつもありましたが、店を辞めるときの更紗の想いが胸に刺さりました。「優しい人だ。だからこそ、こんな優しい人ともわかり合えないことに絶望してしまう」(P256)

[以下、読書会にて参加者Cの発言]
◆この本を読んでショックを受けた。
◆まず残ったのは亮くん。執拗なDVにびっくりした。彼の父親もそういう傾向なのが興味深い。
◆次に、週刊誌による暴露とインターネットでの中傷。この2つが文と更紗を社会から排除していく。
◆そして、どのページを開いても人間が掘り下げられていること。作者の文章力はすごい。
◆一番の悲劇は、更紗が孝弘から猥褻行為を受けたところ。その成育歴が、セックス抜きの人間関係を求めていくことに繋がる。そういう意味では清潔感のある作品。
◆私が背伸びをしているのかもしれないが批判的に思う部分もある。「彼のはなし」をなぜつけたのかということ。私は、文の説明調の四章ではなく、あくまで更紗の視点で書いたほうが深みが出るのではと思う。
B:私は四章の「彼のはなし」で文の事情がよくわかった。文学的にどうとかは置いておき、読みやすかった。
E:四章の内容を、更紗視点の本編に入れるといいのだろうか。
B:文の事情は、これまでの更紗視点である程度わかっているから、敢えて入れたのでは。
C:大人になれない、裸になれないという話を集中的に書きたかったのだろうが、私は本編に入れてほしかったと思う。

<参加者D>
◆オンライン環境が整っていなかったので、久しぶりに参加させていただく。
◆読みやすい。読ませるだけの文章力がある。女性作家の作品は巧いと思う。表現も巧いし、(読んでいて)まいったと思わせられる喩えが入っていたり……。見たことのない表現が多く、プロの力を感じた。
◆作者は「事実と真実の違い」に視点がいき、この作品を書くことを思いついたのだろうか。
監禁、DVなど現代の社会問題をうまく取り込んで読者を惹きつける。
◆キャラクターを上手に作れば、小説としては半分成功したようなものだと聞いたことがある。作者は、更紗と文という対照的なキャラクターを形作った。2人以外の登場人物も「ここまでの人はいないだろう。でも、もしかしたらいるかも」とぎりぎり思わせる設定で巧いこと書かれている。
◆私もCさんと同じで四章はいらないと思った。
LGBTはよく小説で取り上げられるが、第二次性徴が来ない病気を扱った小説はこれまでなかったのでは。
C:(登場人物の)安西さんのことはどう思った?
D:子どもを置いて遊びに行く人はいても、ここまでの人は……と思うが、いるかもしれない。
B:安西さんが沖縄旅行から帰ってこない場面はシングルマザーへのバッシングみたいに感じて私は嫌だった。
D:実在し得る限界というか、実在するかもしれない、そういう人ばかりが出てくるのが小説なのかな。
G:デフォルメしている。
C:亮くんの従妹の泉ちゃんもいいキャラクターですね。更紗(と読者)に、亮くんの過去を伝える役割を担っている。
D:亮くんもいい。好きだからやってしまうというところが巧く書かれている。
谷さんも極端。登場人物は極端な人ばかり。
G:みんな欠けてるんですよね。

<参加者E>
◆二章「彼女のはなし」は9歳の更紗視点なので、子どもが知らないであろう慣用句などは使わないように書かれていた。
◆更紗と文の認識も違っているところが面白かった。更紗は、文は少女しか好きになれないと思っているが、実はそうではない。
C:(2人の認識が)すれ違っている。読者には四章で、文が抱える問題が明かされるけれど、更紗にはわかっていない。いろんな角度から人間を描いている。
E:キャラクターを立てるために特徴をつけたのかなと思う。
◆ラストで文が「どこでもいいよ」と答えるのなら、文の孤独をもっと掘り下げるべき。例えば文が、亮くんに殴られる更紗を、身を挺して助ける場面などがあれば想いを描けたのでは。
あるいは、「彼のはなし」の中で、更紗のおかげで自分の気持ちが変わったと書かれていたら、はっきりわかるかなと思う。
◆私はこの本を物足りなく感じた。書き方のせいだと思う。
A:あっさりしすぎてるとか。
E:「赤い薔薇」というと赤い薔薇を思い浮かべるが、「赤い薔薇」を別の言葉で表現してほしい。私は純文学をたくさん読んできたから、頭の中でイメージを作っていくほうに慣れている。そこが物足りないんだろうと。

<参加者F>
◆今、皆さんの意見を伺って、タイトルについて考えた。登場人物はみんな欠けている。欠けているから「月」。欠けている登場人物全員が「流浪の月」なのかなと思った。
◆すごく巧みな作品。紹介していただいてよかった。
◆展開は意表をつくものではなく、例えば、亮くんがサイトで文のことをばらすのは予想がつくのだが、そのとおりになっても目が離せないし、飽きさせない。心の動きを描くのが巧みなのだと思う。現実にあり得る/あり得ないじゃなく、この世界ではこうなのだと読者に納得させる心理描写が見事。
◆それだけではなく、プロットがとても精密で、谷さんが更紗をストーカーとして派出所に突き出したところが、のちのち警察署のシーンに生きてくるところなど、すごく練られている。設計図を見てみたい。自分で書き出してみたら勉強になるだろうなと思った。
私の場合、プロットを立てて書いたらプロットに引っ張られてしまい、登場人物の行動に無理が出てしまう。プロにはそれがない。登場人物が自然に動いている。
◆書き方もいい。亮くんなど、もっと悪者にもできるのに、人は一面ではないということをちゃんと表している。最近、エッセイ漫画などで、明らかに相手を悪役として描写している作品が多く違和感を感じていた。エッセイは主観的なものなので仕方ないかもしれないが、小説だと、より人を多面的に描けるのだろう。
亮くんの苦しみも伝わってきて、彼もどこかで救われたらいいなと思う。そう感じさせるほど立体的に描けている。
◆エンタメを意識して書かれた作品は、ひっかからず、すらすら読めるから印象に残りにくいというのはあるかもしれない。同じくBL出身である作家・一穂ミチ『スモールワールズ』を読書会で取り上げたときも「印象に残らない」という意見があった。ただ、忘れたと思っていても、何かの折に強く思い出すというのは(エンタメ作品に限らず)あるのではないか。
◆感想としては、人間関係のかたちに名前をつける必要はないというのに納得した。私はもともと「友達」とか「親友」とか、自分で定義したり、お互いで言い合ったりしていることが不思議だった。「一緒に○○したい人(ご飯を食べたい、こんな話をしたい、など)」でいいと思っている。
だから文と更紗と梨花(安西さんも含めるかもしれない)、その関係がとても心地よかった。善意を寄せてくれる人とでさえ隔たっていく世界だけど、救いがある。

<参加者G>
◆アイスクリームはご飯ではないというところ(=固定観念の話)から始まるのが示唆的。「普通に」社会へ出て、恋愛して、結婚して……そこから弾き出された人間はどうするのか? という問いかけ。
◆事実と真実の乖離を描き、キリキリする雰囲気を醸し出している。
◆一番印象に残ったのは亮くん。DVをする人間の本質をよく捉えた描き方がなされている。読んでいて、ぎょっとしたのが、P208「どうして許可されなくちゃいけないの?」と更紗が返すと「え?」となる場面。自分がマウントを取っている自覚がない。亮には、「(自分が)許してやっている」、自分は絶対善だという潜在意識がある。自分が相手より上であると思っているDV加害者の特徴がよく出ていた。
DVは連鎖する。亮くんの父親も、かつてDVをしていた。自分が心底愛したり愛されたり、同等の人間関係を築いたことのない人間を巧く描いている。
2022年公開予定の実写映画で、亮くんを横浜流星さんが演じるそうなので頑張ってほしい(更紗は広瀬すずさん、文は松坂桃李さん、谷さんは多部未華子さんが演じる)。
◆更紗も谷さんも、文の真実(体のこと)を知らない。その秘密が剥がれていく四章を読んで私は附に落ちたが、ぼかしたほうが考える余地ができて、文学的価値は上がるのかもしれない。なにもかも説明してしまうので、Eさんが仰られたような「物足りなさ」を感じるのだろう。作者にはっきりとしたイメージがあり、言葉遣いにも若者言葉(「やばい人」など文学的ではない言葉)が多いから、軽いエンタメになってしまうのかも。
私自身は、エンタメと純文学を分けるのは好きではない。人間が描かれていればいいと思う。

<フリートーク
【タイトルについて】
B:タイトルの『流浪の月』が小説中に出てこない。私はエッセイを書いているが、作品の中にタイトルに使われている言葉が出てこなければならないと講師に言われた。
G:エッセイは目的を持ってテーマについて書いているから内容を示す必要があるのでは。小説は暗示するもの。
B:私は『流浪の月』というタイトル、すごくいいと思う。
G:私はこの作者はタイトルをつけるのが下手だと思った。安っぽく感じるというか。
C:私もタイトルはいまいちだと感じる。

【登場人物の造形について】
◆B:小説の書き方を習っているとき、「(作品に)悪者を投入したら面白くなる」と教わった。プロの作品はよく考えて書かれている。

◆B:更紗が誘拐されたと報道されていたのに、(更紗の母親の)灯里さんが出てこないのがショックだった。結局、最後まで出てこない。
C:確かに最初にしか出てこない。
G:彼女はまったくべたついていない。
F:作中で更紗が考えたように外国にいたのかも。灯里さんが最初しか出てこないのは、更紗の状況を作るための、作劇上の都合なんでしょうけど。
D:(読者が)ついていけるギリギリの人ばかりが登場するが、一番ついていけなかった展開は、文が更紗を家に置いていたところ。もうちょっと裏付けがほしかった。
C:私は、その部分はよかったと思う。文は、自分を成長しないトネリコと重ねていて、女の子に興味があるわけではないのに女の子を見ていて。自分と同じような目をした更紗を放っておけなかったのだ、と。
A:文が9歳の更紗を放っておけなかった理由は第四章でわかる。第四章は蛇足的と感じる部分もあるが、腑に落ちた。
D:文の問題は、少女が好きなことではなく、体のこと。どこかで打ち明けないと心が保たないですよね。
B:でも、文も更紗も「言えない」。だから惹かれ合う。
G:更紗が文についていったのはシンパシーを感じたから、だと。
C:更紗は文の家で自由を発散していた。
A:文の家にいたときの更紗は、彼女の母親のように自由だったのに、三章で真逆になって。三章くらいから、面白いなぁと思って読んでいた。

【作中で扱われている社会問題について】
B:9歳の更紗が、孝弘に猥褻行為をされたことを言えないのはわかる。でも24歳になったのだから、(文に対する誤解を解くために)警察で説明するべきだと、読んでいて苛立ちを感じた。こんなふうに読者をもどかしく感じさせるのもテクニックかな。本当のことを話して、みんなが納得する展開になっても違うと思うし。
日本の性暴力に対する認識は諸外国と比べて遅れている。家族間の性暴力は、「嫌がっていなかった」というような理由で無罪になることも多い。被害者は、(加害者以外の)家族のことを考えてしまい、強く主張できるはずないのに。作中では、そういう問題提起もされている。
G:立場を利用しての虐待は、海外ではとても嫌われますよね。
B:そして、ソーシャルメディアでの誹謗中傷。今、社会が抱える問題を扱っている。この作品が書かれたのは2019年。何年かあとには、誹謗中傷への対処が適切になされるようになっているかもしれない。
E:イムリーな問題を扱っているから映画化もされるのだと思う。
D:最初から映画化を狙って書いているのかも。
B:作中にいくつかの問題(性暴力、誹謗中傷、DV、身体の問題など)が描かれるが、どんな人も、どこかに引っかかるのでは。
私の知人の女性は、子育てが一段落したので仕事復帰しようとしたら、それをよく思わない彼女の夫が口をきかなくなるということがあった。これもDVだと思う。
A:私は夫の立場ですけど、なぜ反対するのかわからない。世帯収入が増えるのに。
D:日本の男性は、まだそういう人が多いかも。
G:妻のほうがDV加害者である場合もある。事実と真実は、実際に入っていかないとわからない。
D:亮くんが『calico』で梨花の写真を撮ってサイトに投稿する場面には感心した。確実に文へダメージを与えられますよね。
C:亮くんの再教育は大変だと思う。
A:亮くんも苦しんでいる。
B:ストーカーにならないように別れないと。彼女が何も言わずに去ったら「何で?」となる。
G:亮くんの場合は未練じゃなくてDV。
ストーカーというと、今は、昔の恋人をネットで検索しない人は少ないんじゃないかな。
A:ネットのデジタルタトゥーは刺さりますね。半永久的に消えない。
D:匿名で好き勝手書ける世界を作ったのがおかしいと思う。新聞などには、まだ社会的責任がある。

【書き方について】
◆B:更紗と文の再開が自然で巧い。職場の苦手な先輩にカフェに連れていかれて……という展開は、私だったら思いつかない。
一章は9歳の更紗の視点で書かれているが、9歳はP27の2行目「自分を律して(中略)大変な労力を必要とした。」とは言わないのでは。
E:ただ、子ども視点になるよう、気をつけて書いているのがわかる。

◆B:P21「湊くん、わたしもぎゅってして」のあたりなど、作者は筆が乗って、流れるように書いていると感じる。
この作品は文学的ではないけど内容は濃い。
G:タイプ的には桐生夏生さんに近いかな。桐生さんよりも軽くて現代的だけど人間の心理を書いているところが。
B:人はしばしば、他人に取り扱い注意のシールを貼りたがる。「あの人には近づかないほうがいい」というような。私はそれによって先入観を持たないように気をつけている。

◆A:一人称で、語り手が感じたことだけ書いている。読みやすいけど残らない、面白くないという人もいる。
B:「薔薇は赤い」と書いたほうがいいという人もいる。そこは読者の好み。
A:意味があるなら、わかりづらかったり、読みづらかったりしてもいいと思う。
G:文体に酔わせるスタイルとかもありますしね。

『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ、斎藤真理子訳(筑摩書房)

R読書会@オンライン 2021.10.31
【テキスト】『82年生まれ、キム・ジヨン』 
      チョ・ナムジュ、斎藤真理子訳(筑摩書房) 
【参加人数】8名

<推薦者の理由(参加者A)>
女性史に詳しいFさんが参加してくださるということで、女性に関わる作品を取り上げようと話をしていた。
『82年生まれ、キム・ジヨン』はフェミニズムの入り口のような作品。フェミニズムに詳しい人もそうでない人も、作品を通して話し合えればと思った。

<参加者A>
◆印象に残った部分はたくさんあるが、とくにP98。就職がなかなか決まらないジヨンが父から「おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」と言われたとき、母オ・ミスクが言い返す場面で、本当にこの人は逞しいなと思った。
◆ジヨンが結婚したチョン・デヒョンは理解のあるいい夫なのだが、ジヨンが心を病んだとき、「家事を手伝う」と言ってしまう。P137の、「その「手伝う」っての、ちょっとやめてくれる?(中略)この家はあなたの家でしょ? あなたの家事でしょ? 子どもだってあなたの子どもじゃないの?」というところがとても刺さった。夫自身の家事でもあるのに「手伝う」というのが腹が立つ。
私自身も家で主人といる時間が長いが、この作品を読んで目が覚めた。
◆小説中に、現実の統計や初任給などの数字を入れているのが新しいスタイルだと思った(日本の小説の書き方には縛りがあるので)。言いたいことのためには形式にこだわらないというのを新鮮に感じた。
◆啓蒙小説のような社会的メッセージを持った作品は、書かれた時代には読者に切り込んでくるが、文学的価値や普遍性はあるのか、つい考えてしまう。
たとえば小林多喜二蟹工船』(昭和4年発表)は、今読んでも新しいとは感じない。あるいは、今も搾取の構造があるので普遍性があると受け入れられているのか。
「社会的な旬」というのはどうなのか、皆さんの意見を聞きたい。
◆女性解放を扱った、イプセン『人形の家』は今でも読まれているし、十年後、二十年後にも読まれていると思う。時代を超えた普遍性がある作品には、どのような要素があるのか。
◆夫婦で『82年生まれ、キム・ジヨン』の映画を観て、主人は嫌がるだろうと思ったのだが、そんなことはなかった。ジヨンの夫チョン・デヒョンを俳優のコン・ユが演じていたからでは。
映画では、ジヨンに寄り添うデヒョンが本当に優しかった。男の人にはジヨンの気持ちはわからないのではと思う。わかろうとすることが大切なのだけど。男性からの意見を聞きたい。

<参加者B>
◆この本は、日本で出版されてすぐに買って読んだ。内容は忘れていたが、読み終わって自分の人生に引き付けて考えたとき、私自身の個人的な問題だと思っていたことが、社会的・政治的問題なのだとわかって涙が出そうになったことを覚えている。
夫婦間で問題があっても、個々の性格や考え方などいろいろな要素があるのだからと考え、それが社会問題だとは気づいていなかった。
◆この作品を読んで私の人生が変わるかというと、変わらないだろうという気もした。
◆「キム・ジヨン」とは、韓国の82年生まれの女性に一番多い名前。平均的な女性を取り上げて、率直に問題を提示している。書き方は凝っておらず、精神科医のカルテという形でキム・ジヨンの人生を辿っていく。技にとらわれない力強さがある。
◆小説として生き残れるかと考えると、人物がステレオタイプであり不満足な部分もあると思った。
◆男性からの視点はどうか、気になった。

<参加者C>
◆読むのは今回で2回目。
◆私が書くということを最初にしたのは男女共同参画のレポート。それは表などを入れて結論へ導くものだった。始まりがレポートだったので、その後小説を書き始めたとき、小説は描写や模写が大事だと言われて戸惑った。この作品には数字がたくさん出てくるので、小説とはどういうものか考えた。
◆この作品のような形なら自分にも書けると思ったのだが、やはりこの作品は文学的にも優れている。憑依という導入で、話を引っ張っていくという手法など。
◆読んで実態としては納得するだろうけれど、日本人男性には受けないだろうし、文学として納得されるのだろうか。
◆書いてあることは全部“あるある”。私は主人公のジヨンより上の世代だが、正社員として働いていたとき、会社の若い女性は「女の子」と呼ばれていた。当時は「セクハラ」という言葉もなかった。
◆ジヨンの母が娘二人の部屋に世界地図を貼ったのが印象的だった。
私の母親は、親から「本を読むな」と言われてショックを受けたそうだ。かつて女は賢くないほうが好ましいとされていたが、時代はどんどん変わっているんだと思う。

<参加者D>
◆この作品の舞台は韓国だが、日本でも同じようなことはあると感じた。セクシャルな意図はないが女性の体に触れる人(そういう人は男性には触らない)、明らかにセクシャルな意図で女性に卑猥な質問を投げかける人などに遭遇したことがあるので。もちろん男性が、女性あるいは同性からセクハラ被害を受けることもあるので、片方の性だけが被害者になるとは言わないが。
この作品の感想をいくつかネットで読んだが「日本も昔はこんなことがあった」という意見を見て、「今もある!」と思った。
◆私は86年生まれで、高校までの出席番号は男子が先だったと思う(今は男女混合の出席番号も増えているのだろうか)。作品中にあるような不利益を被らなかったので、疑問を持つことはなかった。
◆学校で記憶に残っているのが、修学旅行の説明の後、女子だけ残されて、生理になったときの対応を話されたこと。その後、男子が「女子だけお菓子食べてる」って言っていてちょっと面白かった。
体が違うので、その差を勘案した役割を振ることは必要だと思う。力の差もあるので。
でも「女性だからスポーツ詳しくないよね」みたいに、男女に関係ないはずのことを言われると引っかかる。
擦り合わせというか、お互いの違いを認めた上で差別をなくしていかなくてはと思う。
◆『82年生まれ、キム・ジヨン』は、小説としてはメッセージ性が強すぎると感じた。
ただ、どんな女性も主人公に共感できる作りになっているのがよい。もっと文芸っぽくしてしまうと、そのキャラクター自身の問題で、読者が「私には関係ない」と思ってしまいそうなので。ジヨンを個性的に書きすぎてもいないし、でもちゃんとリアリティーがあるように造形している。誰にでも当てはめられるようなバランスが絶妙。
◆文学的価値や普遍性について。私は、この作品の作者は、未来に残そうとして書いているのではないと思う。この本をきっかけに、一人でも多くの人が考える切っ掛けになって、男女差別がなくなればいいと考えているのでは。
男女差別がなくなっても、また新たな差別が生まれたとき、差別を扱った作品として再び読まれることがあるかもしれない。

<参加者E>
◆とても話の構成が見事。冒頭はジヨンの中に義母や友人が現れる憑依から始まり、その後は数年ごとを1章としてジヨンの人生が語られ、韓国社会の問題が明かされる。それらはすべて精神科医の目線である。最終章で、精神科医は自分の家庭に思いを馳せる。彼は妻の気持ちを理解したつもりでいるが、最後に、無意識下にある女性への無理解が暴かれる(P166、6行~P167)。巧く書いていると思った。
女性蔑視の描写を積み重ね、それを韓国社会の問題へと繋げる構成が一番素晴らしく、文章もわかりやすい。
◆情景描写や心情描写が少なく、そういった意味での感動は薄いが、さらっと書かれているのが効果的。

<参加者F>
◆読むのは2回目。
◆1回目はすごくブームになっているときに読み、とても怖かった。何が怖かったと言うと、キム・ジヨンの話だけで終わるのではなく、精神科医が納得して理解したようなことを語っておきながら、ドアから1枚外に出ると彼も同じだったというところ。出口がない結末になっているというのが怖い。その怖さが伝わってくることが怖い。
◆でも、読んでいて、どこか救いがあるところもある。母オ・ミスクが父にぽんぽん言うところ、痴漢に遭ったら一人で抱え込まずに「痴漢が悪い」と納得するコミュニティ、会社での先輩女子社員の関わりなど。「女の敵が女」にならない。姑や姉がジヨンの味方をしてくれるのも救い。
被害者であるのに怒られたら、言い返す術を身につける。⇒ドアを開けて外に出ることはできないけれど、窓はある。ドアを開けたら壁なのはわかっているので読むのは辛いが、窓があるので読み返そうと思った。
◆私自身は創作をしないが、創作をする人のご意見に頷くことがあった。
◆文学的評価について。
ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムの小屋』(1852年)はかつて文学的価値が低いとされていたが、70年代に再評価され、現在に至っている。
シャーロット・パーキンス・ギルマン『黄色い壁紙』(1892年)もフェミニズムに寄りすぎているという声があったが再評価されるようになった。この作品は、ある女性が産後に精神を病んで追い詰められていく話である。医療という名目で監禁されて活動を禁じられ、彼女はどんどん精神を蝕まれていく。医者の言うことを受け入れているのが『82年生まれ、キム・ジヨン』と似ている。
奴隷制度やフェミニズムを真っ向から書いていると「文学的にどうなのか」という理由をつけて抑圧されたりする。私は自分が読んで面白かったらいいと考えている。
◆SFや推理小説も含め、翻訳文学が読まれない時代が続いているが、『82年生まれ、キム・ジヨン』を切っ掛けに、女性が登場する海外文学を読もうという人が増えており、画期的な出版物だったのではないかと思う。

<参加者G>
◆参加した後で男性が私だけだと気づいて怖くなっているのですが(笑)。
◆私自身に遅めの韓流ブームが来ておりドラマなどを観ているので、今回の作品を紹介していただいてよかった。
◆実態としては変わりきれないところがたくさんある、ジェンダーのうねりがある時代を引き継いだ「今」を生きる女性を描いているから、共感を呼んだのかなと思う。
◆韓国らしい物語だと思った。競争社会の中を必死に生きていく女性が、男女平等はあるのかと苦しんでいるドラマに引き込まれた。
◆救いのあるエピソードがあまりないので、しんどいなと思いながら読んだ。ここ数ヶ月、仕事について悩むことが多く、心が弱っているからだと思うが、ジヨンの就職から退職に至るまでに共感した。
救いのあるエピソードは、「1982年~1994」年の、出席番号順に給食を食べることに意見して、順番を変えられたところか。
キム・ジヨンにはさまざまなことが降りかかってくる。社会に対抗できない女性がゆらゆらと揺られていくというのは読んでいて辛かった。
「女性だからかな」「もうちょっと何とかできないのかな」と考えてしまう自分が、デヒョンや精神科医と同じに感じられて落ち込み、トラウマのようになった。
もっと女性の強さとか成功体験があればと思ったが、これが頑張る女性がぶつかってきた壁なのか。読んで勉強し、自分の誤った壁を正さなければならないと感じた。
参加者A:男女問わず、いろいろな人の中に入って抉るという、作者の意図が成功している。

<参加者H>
◆刊行されてすぐに読んで、自覚していなかった辛さに気づかされた。
結婚していたころ、旦那の付属物のような自分に違和感があった。仕事をしながら家のことを回して……思い返すと無理をしていた。「家庭に馴染めない私が欠落しているのかな」と思っていたが、私だけがそう感じているのではないのだとわかった。
◆何をフェミニズムと見なすのかを考えさせられた。
専業主婦であること・仕事をしないことを良しとして、そこに幸せを見出す人もいる。一人ひとりの立場も性格も違うのに、何を以て「恵まれない」と言うのかと。
◆韓国は日本に似ている。少し前の日本かとも思うが。
精神科医の視点で書いたのが成功していると思う。普通、データなどは小説中に入れられないが、カルテという形でジヨンとジヨンの家族の話を描きながら、エビデンスを与えている。
◆「キム・ジヨン」は、82年に韓国で出生した女の子の中で一番多い名前。主人公は、虐げられている大勢の中からはみださない、類型的な人物に造形されている。
多くのフィクションでは、もっと悲惨な境遇にある人をピンポイントで抉るように書いてあり、読者に「私より辛い人がいる」という救いを与えるが、この作品は逆。
女性だけでなく世間一般の男性も当てはまるように(自分のことだと思えるように)設定されている。
◆すごく細かく書かれているので人物が記号になっていない。母のオ・ミスク、姉のキム・ウニョンのキャラクターも秀逸。そして、歳の離れた弟を設定しているのが素晴らしい。キム・ジヨンの家族に男の子がいないと、この物語は成立しない。伝えたいことがあって、登場人物たちを作っている。
一回目に読んだときはただ抉られ、二回目を読んでこれらのことを考えた。
◆映画も観たが、映画ではジヨンの祖母世代・母世代が描かれておらず、旦那も優しいので、彼女が我儘に見えてしまう。旦那を男前の俳優が演じているから尚更。
小説では、祖母、母、娘……世代を重ねて迫ってくる。祖母世代より母世代、母世代よりジヨンのほうがましな環境に身を置いている。そこに救いを見出した。
次の世代は、もっと変わっていればいいなというメッセージを感じた。作中に提示されているデータも含め、二回目はものすごく入ってきた。
◆作っていることが成功している。感動するような小説ではないが、広く読者にアピールして、考えさせる力がある。
◆私自身が男女差を感じたのは社会人になってから。高校は理系のクラスで女子が少なかったから大事にされたし、大学は逆に女子が多かったので男子が小さくなっており、それまで女性だから損をしたということはなかった。
社会人になって勤めた会社で、女性だけがトイレ掃除をしなくてはならなくて、それがとても惨めな気がした。男子トイレを掃除しているときに男性が入ってきたりして。上司に言うと、女だからだというふうな言われ方をして悔しかった(ちなみに、その上司の後任は海外経験がある人で、それからは女性が大事にされるようになった。日本とアメリカはこんなに違うのかと思った)。
あのとき悔し泣きしたことは忘れていない。そういうのが度々あったら病むな、と思う。読者がそれぞれの経験を喚起させられるのだろう。

<フリートーク
【データを入れる書き方について】
A:統計などのデータを入れるのは小説より随筆の書き方に近いかも。以前、Eさんの作品を読ませていただいたとき、随筆だと思って読んでいて、ご本人にそうお伝えしたら「随筆に見えるように書いたんです」と仰られたことがあって。
『82年生まれ、キム・ジヨン』もカルテに見える効果を狙ったのだろうけれど。Eさんはどう思われますか?
E:作り方に成功していますよね。カルテだから情緒に偏ったりしない。精神科医という設定だからこそできたんだと。

【日本のジェンダーギャップについて】
A:フェミニズムのラインは難しい。この作品の主人公は、ごく普通の人。ジェンダーギャップは必ずあるし、気づかないままのことを気づかされるので、読んでいて辛いのでは。
私は内助の功を発揮するのが当たり前だと思って生きてきたので、家父長制の被害者というより加害者かもしれない。正直、フェミニズム運動というのに眉を顰めていたこともある。
しかし、人間として選んで生きる権利は、誰しもが平等に持っている。女性が自分で選んで家庭に入っている場合もあるが、女だからと押し付けられている場合もある。
『人形の家』のノラは家を出て、クリスティーネは愛する人のために生きることを選ぶ。男性のサポートに回ることがフェミニズムに反しているわけではない。自分で選んだかどうかである。
◆文学的価値の有無より、一つの差別がなくなることが大切だし、そうなっても次の差別が生まれて……物事は流動的だなと感じた。
◆Fさん、韓国のジェンダーギャップと日本の違いは感じましたか? 日本は、権力側にいる人の意識も低い。「わきまえない女」など反発があったが、なぜ悪いのかわかっていない。韓国と比べたら、韓国のほうが進んでいるのではと私は思う。
F:私は仕事柄、女子学生の就職活動や、彼氏との関係などの話を耳にする機会が多いが、この作品を読んだらとても身につまされる。全部“あるある”で、日々起こるいろいろなことはすごく似ている。韓国人女性はずばりと抗議するし、表現も直截的だが、日本ではやんわり言わないと総スカンになるので、日本人女性は真綿で包んだような言い方になる。日本のほうが進んでいるとはまったく思わない。
C:英会話の先生が言うには、「自分は英語ができない」と言う日本人は、「自分は英語ができる」という韓国人よりも、英語を話せる場合が多い。自分を表現する力や発言力は、韓国の若い人のほうがしっかりしている。ジェンダーギャップ指数も日本は120位、韓国は102位。(ここでは韓国も決して高くないが)日本は遅れていると思う。

【作中における「憑依」の意味】
A:気になるのは「憑依」について。大学で一緒だったチャ・スンヨンがデヒョンに告白したことなど、ジヨンが知らないはずのことも語っている。
H:私もそこだけがわからなくて。「憑依」というのも作られた状況ですよね、精神科医にかかる状況へ持っていくための。「憑依か、憑依でないか断定できない」とするために先輩の話を入れたのかな。実際にジヨンが知らなかったかはわからないし。夫がそう思っていただけかもしれない。
C:憑依現象を伏線として期待していても解決しない。そこに文学的意味があるみたい。
E:私は、「女性が一人の人間として見られていない」という象徴かなと思った。
H:憑依を解決するための話じゃなくて、あくまで材料ということか。
A:映画ではジヨンは回復する。ジヨンが小説を書くことで自己実現し、元気になって終わる。小説の、精神科医によるラストもないので、また違った作品になっているんです。
H:エンターテイメント映画の観客は、病気に対する結末を描いていないと納得しない。
フェミニズムを意識した映画だと『はちどり』(2018年、韓国)のほうが深いし抉られる。『はちどり』は一人の人間を掘り下げるような、いわゆる文学的な描き方かな。
F:私は映画の『82年生まれ、キム・ジヨン』を観ていないんだけど、レビューを見ていたら、小説のいいところが消えているような気がする。映画では、夫がいい人で、病気が治れば解決する……みたいな。誰にでも当てはまる話じゃなく、キム・ジヨンの話に落とし込んでいる。それだと「夫がいい人でよかったね」「病気が治ってよかったね」ってなってしまう。
原作小説だと、(夫のデヒョン以外の)男性には名前が付いていないんですよね。映画だと俳優のビジュアルのインパクトで話がそちらに引っ張られていっちゃうような気がして。だから観ていない。

【表紙について】
C:表紙に描かれている女性に顔がないのは「あなただけが特別な人じゃない」ということを表しているそう。表紙に、誰の顔を当てはめてもいい、と。
A:深い。「アイデンティティがない」という意味かと思っていた。

【日本における、ジェンダーを取り巻く環境】
C:日本って、いろいろ盛り上がらないな、と。ハッシュタグ#MeTooとかもあったけれど、そこまでじゃなかった。欧米では社会現象になったんだけど。
F:医大に女子が入れなかった事件でも、デモはあったけど、集まった人はそんなに多くなかった。
H:日本の女性は女性差別について、どの程度問題視しているのかな。
F:今の女子学生に意見を求めると、「(女性差別は)絶対だめ」と即答する。
私たちの時代は差があるのが普通だったから、当たり前に受け入れていたけれど。私が通っていた高校も、男子と女子で定員が違った。女子と男子の定員は1:2。だから概して女子のほうが成績がよかった。今でも都立高校は男女同数入学させるという理由で、女子のほうが成績がよくないと入れないところがある。
H:当時は納得していましたよね。
F:だから、昔より良くはなってる。でも、(「女性差別は絶対だめ」と言った学生に)「そのためにあなたは何をするの?」と訊くと、答えが返ってこない。LGBT差別についても「おかしい」と即答するけれど、「デモがあるけど行く?」と訊くと「わからない」と言う。
私たちは「(差別は)仕方ない」と流してきた世代だから、自分がデモに行ったりポスティングをしたりしたとき、それを若い人たちに伝えていきたい。デモは決して特殊な人がやることじゃない、と。
A:男性社会に染まりすぎて、フェミニズムの進行を阻んでいる女性もいる。私自身、良妻賢母が当たり前だったから、男性社会・女性社会というベクトルがまったくなかった。男性社会をバリバリ支えていた加害者だったかもしれない。
H:私も加害者側の気がする。
A:加害者と被害者が一人の中にある。女性だから得した面もあるし。
H:今勤めている会社は、女性が働きやすい環境。でも男性に比べて給料は下がるし、ステップアップもしづらい。それで良しとしている女性もいる。
F:男性の中にも、給料が下がっても無理のない働き方をしたいという人もいるから、裏を返せば、男性にも選択肢がないということ。
H:忙しくて病んでしまった男性もいる。
F:自分で選んだのではなく、「男性はがむしゃらに働け」と誘導されているなら、加害者ではなく被害者。全員が被害者。
H:男性でも女性でも、本人が選んで、上手く回っているなら押し付けることはない。そう思ってしまうことは加害者側かな。
E:コロナ禍で食べていけなくなって売春をした女性が摘発されたというニュースを聞いた。売春した側を罰する法律はあるけれど、買春した側を罰する法律はない。生きるための最後の手段として体を売らなくてはならなかった女性は罰せられるのに、なぜ買ったほうは罰されないのか。
C:ある大学の先生が、「危険な商売をしているのはよくないから国営にするべきだ」とか言っていて。なんだそれは、と思った。

【性差別以外の差別を扱った文学について】
A:社会が変われば女性が解放されるというが、それに見合う責任も発生してくる。
C:ジェンダー」とは「女性差別」という意味ではなく、生物学的な性別に対して、社会的・文化的につくられる性別のこと。
H:男女とも「人間として」ということですよね。性別・人種問わず、同じ条件で選ばれなければならないと思う。
C:トニ・モリスン『青い眼がほしい』はとても胸に迫ってきた。「秘密にしていたけど、1941年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。」という書き出しが怖いと思った。
F:『青い眼がほしい』は大学のときに読んで、すごいと思った。卒論のテーマにトニ・モリスンを選んだ。私の人生を変えた本。授業で学生に紹介したら涙ぐんでいた。
C:誰かが悪者なんじゃなくて、悪者は誰もいない。
F:最初は通常の文体から始まって、それがだんだんぐちゃぐちゃになっていくのが気持ち悪い。
C:なぜマリーゴールドは咲かなかったのか。自分が悪かったと。深く植え過ぎたのかと思ったけれど、町と土が合わなかったせいだと……
F:語り手である少女は、黒人であるため酷い目にあい続けている同級生の女の子を見ていることしかできない。壊れていく彼女を見ているしかない。壊れていく少女は家庭が崩壊するのは自分のせい、「私がもっと可愛ければ両親は喧嘩しないのに」と思い込んでいる。
C:この作品にはデータとか出てこなくて。それがすごい。少女の設定が残酷で怖かった。社会の矛盾をあれこれ書くのではなく、一人に焦点を当てている。
F:卒論を書くために読んだときは、黒人で同じ境遇にいる人に向けて書いているんだと思った。刺さる人にだけ刺さればいい、と。
トニ・モリスンの作品にも憑依や幽霊が出てくる。登場人物たちはそれについては流していて、(なぜ憑依が起こったり幽霊が出てきたのかという)説明もつくんだけど、オチはない。
『ビラヴド』(Beloved、1987年)という作品がある。生まれた赤ちゃんを殺す話で、赤ちゃんはその理由を知っていて幽霊として帰ってくる。そこから話が始まる。

【その他】
C:『SKY 캐슬』という韓国ドラマがあって(邦題『SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜』)、とても面白い。韓ドラはいいですよ。『ミセン』という、雇用形態の格差などを描いた作品もお薦め。
C:女性の生きづらさを描いた作品だと、レティシア・コロンバニ『三つ編み』もよかった。インド人・イタリア人・カナダ人、境遇が違う女性たちの人生が交わっていくところが面白い。

『ダーティホワイトボーイズ』スティーヴン・ハンター、公手成幸訳(扶桑社ミステリー)

Zoom読書会 2021.10.30
【テキスト】『ダーティホワイトボーイズ』
      スティーヴン・ハンター、公手成幸訳(扶桑社ミステリー) 
【参加人数】出席5名、感想提出1名

<推薦者の理由(参加者F)>
読書会に参加させてもらったので、自己紹介的な意味で推薦した。森見登美彦『熱帯』(文春文庫)も考えたが、他のメンバーが推薦しないであろうこの作品のほうを選んだ。
『ダーティホワイトボーイズ』を読んだとき、書き手として衝撃を受けた。ちらっと登場するお菓子のメーカーに至るまで丹念に作りこまれており、どのシーンを書くにも相当な手間がかかっているはず。精度の高い工芸品のような小説であり、読んで得るものが多いのではと思う。

<参加者A(提出の感想)>
 現代アメリカ社会の闇とそのひそやかな灯火の系譜について書かれた大作。シンプルにおもしろい。作者の構成力と作中にしかけられた様々な「対比」には胸があつくたかぶった。また、日本人にはなじみの薄い問題、「銃」「差別」「絶望的に圧倒的な格差」について深く考えさせられる作品でもある。いくつもの意思や風習や利害の糸がカオスにからまる多民族国家ならではの濃い暗やみを、作者はするどく洞察しているように思う。映画『アメリカンヒストリーⅩ』同様、いちど触れると、「差別」や「銃問題」についてうかつに意見することができなくなってしまうだろう。
 冒頭から張られた伏線、「ライオン」「不倫」そして「ルータ-ベイスの過去」の本編への絡ませ方が絶妙にすばらしかった。さらに、「多視点型」の特性を活かした作者のストーリー展開も秀逸。読者の気持ちを心地よくもてあそぶ。巧妙に張られた「糸」の扱いと回収に身がふるえた。ひとつの視点ですこし先の「みらい」をわざわざ見せておいてから、別の視点で当該のエピソードを深く掘り下げ、たいていの読者が予想した絵とは異なる結果を示してみせる。小説の神髄は構成という考え方を痛感。それと、このお話は見かけこそ男性性あるいは父性原理のはたらきが明白に強化されているが、しかし、逆にいえば、それだけ女性性の受容力が背景で深くはたらいているともいえると思う。その境界にたたずむリチャードという「未成熟」の成長はこのお話の裏のテーマだったかもしれない。それぞれの登場人物の掘り下げはひじょうに深く、感情移入がわきやすい。それから、各人物に設定された機能と役割は分かりやすくて親しみ深い。「力」のオーデル、「魔法」のリチャード、という印象。お話としてはあきらかに端役であるはずの人物にすら、作者はひとつの深い人生を用意している。それぞれが織り成す糸たちが作品自体を多彩にしていくように思った。作者は椅子に深く身をしずめるタイプなのだろうか。
 個人的に、この作品でもっとも感銘を受けたのは「対比」の力のはたらきだった。寓話的でとても好き。血と汗と泥のにおいがしみついた暴力的な世界観でありながら、この作品は文章表現がひじょうに詩的。色彩豊かでたびたび恍惚。まずはこの対比に強く惹かれた。車中からの情景描写はナボコフの『ロリータ』に比肩するものがあると思う。純情でうつくしい。詩情豊かな情景描写を示したあとで展開される活き活きとしたスラング=けっしてきれいとは呼べないことば使いの対比もよかった。
 ときおり出てくる観念的な文章表現もたまらない。作者もひとりの詩人なのだろう。それから、なんといってもふたりの主役、ラマーとバドの対比がすばらしい。彼らはある意味、ひとりの男性性として扱うことができると思う。社会的にはどう考えても害悪だがひとつの小集団の父としては圧倒的な魅力を誇るラマーと、その反対に社会的には立派で安定している立場でありながら、小集団の父としては堕落、精神的にも軟弱で頼りない人物として描かれているバド。彼らに共通しているのはやはり、抑制をうしなった個人主義と揶揄される現代アメリカ社会が抱える「闇」だろう。自分自身にうそをつかないラマーとその対極に位置したバドの構図もまた寓話的。そこに人間としての普遍性な絵が描き出されているように思う。ラマーの強い意思力があらわれたことば、「やらねばならないことはやらねばならない」を、ラスト、バドの口にのぼらせたことは非常に印象深い。また、ふたりはそれぞれ、おのれの選んだ「しごと」になみなみならぬ熱意と誇りを持って生きているように思う。ふたりそれぞれの経験則から導き出された言動には笑みがこぼれた。皮肉なのは、その「しごと」に打ち込む姿勢が家庭に濃い影を落としているのがバドであり、ラマーは逆に円満と呼べる環境をつくり上げているという点。ひとの心を読むのが巧い「カリスマ」としてのラマーと、実直なたたき上げの一般人、バドの対比がここにも出ている。あわれにもなるがおもしろい。また、「冷酷だがどうも詰めがあまい」といった印象のあるラマーの人間性はいいなと思う。あきらかに知識階級に属していないラマーが「絵」というものに強く心を惹かれる、それが「心の支え」として定着する、といったシーンはとても印象的に残っている。「対極するふたつの概念のあいだでつねに均衡を保とうとする」とされる心のはたらき、その不可思議さがぼくにとっては魅力だった。
「看守ハリーの死」「ケーキによる家庭的な一体感」「息子のホームランによる出血」(事前に行った性交では血は出なかった)「バドの平手打ち」などなど、心を打たれるシーンが多かった。妄想に過ぎないが、作者の本作のモチーフは「ドラクロワのライオンの絵」と「不倫相手を救ったヒーロー像」なのではないかと考えている。こういったジャンルの小説ははじめて読んだが、じぶんでも驚くほどに深く熱中してしまった。構成力と対比がひかる、心浮き立つ作品だった。

<参加者B>
◆私の読書の原動力は興味と好奇心だから、「読書会で皆さんの意見を聞いて、いろいろな視点を持てるのは楽しいな」と、Aさんの感想を伺って思った。
◆『ダーティホワイトボーイズ』はドラマを観ているようで淀みがなく、読みやすいけれど、進んでいくとしんどかった。なんでだろうと考えた。男性性の部分に疎外されているからだろうか。私は、女性性についてはそこまで深く感じなかった。
◆いろいろな人の人生が書かれているのが面白い。ルータ-ベイスとか。
リチャードは、かつて母親の言うことを奴隷のように聞いており、今なお幼稚なフラストレーションを持っていた。彼には女性経験もない。でも、P713で「とうちゃん!」と言うところで決定的な変化が訪れる。
ラマーにも優しい部分があったが、彼にもリチャードのような決定的な変化の瞬間があったのだろうか。
◆皆さんの意見を聞いてみたい。

<参加者C>
◆面白くて一気読みした。私は小説でも漫画でも、動きのあるシーンを読むのが苦手なのだが(格闘シーンやカーチェイスのシーンなど)、この作品のアクションシーンはスピード感や迫力を感じられて楽しめた。
◆長いけれど中だるみがなく、緊張感が保たれていると思った。途中、バドが車のタイヤを調べに農場へ来たときは本当にはらはらした。この時は見つからなかったけど、ここでバドが農場の様子を知ったことが最後の戦いで役立ったり、伏線がすごい。長いけれどストーリーの上で無駄がないと感じる。
◆バドが煮え切らなくて、読んでいてもどかしかった。どっちでもいいからはっきり決めやがれ、と(笑)。最後まで読むと、バドのその態度は終盤のカタルシスへ導くための積み重ねだとわかる。わかるんだけど、対照的にきっぱりさっぱりしたラマーを魅力的に感じる。
◆ラマーたちが「家族」でケーキを囲むところがすごく好きで、この生活がいつまでも続いてほしい……と思わせられてしまった。それは展開として絶対ありえないし、ラマーは必ず死ぬ役どころなんだけど、だからこそ魅力的というか。
◆はっきりしないバドも含めて、キャラクター造形がとてもいい。序盤のバドは煮え切らないけれど、最初にラマーたちと戦ったときはカッコいいと思ったし、「これはモテるな」と納得した(フィクションの中では、なぜモテるかわからないキャラクターがモテたりしていることも多いので)。オーデルもいいし、リチャードもいい。ラマーの魂や血はリチャードに受け継がれたのかな。ラマー・パイは死なず、みたいな。

<参加者D>
◆こんな分厚い小説を読んだことがないので無理かなと思い、章に分けて、少しずつ読んでいこうと決めて読み始めたが、面白さに惹かれてどんどん読み進めてしまい、結局一週間もかからず読み終えてしまった。私は純文学などを味わいながら読むことが多く、ストーリーに引きずられて読むことはあまりないけれど、この作品は続きが気になった。
◆私は面白いと感じただけで、ディテールをあまり分析できなかった。ただ「面白かった」の一言に尽きる。夢中になって読んだので書評的なことは言えないなという感じ。
◆食べ物もおいしくなさそうだし、人が死んでいくのもえげつない。そして私は銃社会で人が死ぬことは嫌い。でも面白い。とくにオーデルは読ませる。ラマーの死に方も、顔が半分なくなったとか、えげつないのだが、それでも読める。自分の中の悪に気づいた。
◆ラマーは人でなしの大悪党だけど、バドよりラマーのほうが好き。読んでいてラマーを応援してしまう。悪人に感情移入してしまうのが不思議。
◆読者として見たとき、バドのほうが嫌い。美味しいところだけとって、自分が破滅するのもいやで、ジェンにもホリィにもいい子ぶって……私はこういうタイプの人が苦手なので。
オーデルはいい。台詞の訳し方もいい。死に方もオーデルらしい。
◆ルータ-ベイスも危うくていい。自分が惨殺した両親のベッドで寝ている。こういうキャラクターは好き。
◆面白いだけじゃなくて感動もある。いつもラマーの後ろについていってるだけだったリチャードがラスト、ラマーのようになって尊敬を集める。こういう終わり方があるのか、と思った。
◆自分自身、見てはいけないダークサイドを見てしまった。新しい世界を切り拓いていただいたので感謝しかない。

<参加者E>
◆私の主観的なところから見ると(論理ではなく感情的な部分で)、爽快感はなく嫌悪感が続いていた。「ファミリー的なもの」「男らしくしろ」という部分に抵抗があったので。ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』に嫌悪感があったのと似ている。
◆感情とはある程度別にして、見えたこととして。もっとも目についたのは、銃とかじゃなく「人種主義」。白人的な“絶対的な優位性”が貫かれている。白人の権威主義に固着するのはラマーやバドの個々人に限ったことではなく、オクラホマ州の州立マカレスター重犯罪刑務所という場所の特性にある。オクラホマ州はかなり田舎で白人が多い。ざっくり言うと、トランプ前大統領の支持層が強いような地域。有色人種がいても住む場所は分かれている。自分ではレイシストではないと思っていても、有色人種と一緒にいたくないと考える人がたくさんいる風土。
マカレスター重犯罪刑務所でピンときたのは、ジョン・スタインベック怒りの葡萄』。主人公がマカレスター重犯罪刑務所から出てくるところから始まる。貧しい白人層ばかり登場し、彼らは、優遇されている異人種への抵抗感を持っている。
『ダーティホワイトボーイズ』では名言されていないが、白人でプロテスタントでヨーロッパルーツで社会的に不利で……その人たちがどうやって自分のアイデンティティを守っているのかがキャラクターの奥に見えた。
◆また、ラマーやバドは男性でいることに固着している。男性が女性をリードして家庭を築いていくという価値観、「自分は強くあらねばならない」という想い。
バドは子どもに付き添うなど、家族を大切にしている体で振る舞っている。男性と女性のアンバランスな関係性。そこが侵されたら猛烈に怒り出すなど、ある種の暴力性がある。
ラマーの場合、黒人の男性に襲われることを一番危惧している。ドッグスタイルで抑え込まれて、絵面的にも下に置かれるのはもっとも屈辱的であり、無自覚なアイデンティティに関わる。
「よき夫でなくてはならない」という強迫観念、「とうちゃん」としての立ち居振る舞い、強くあるために銃で武装すること。その象徴として銃や、ライオンのイメージがある。ラマーはリスクをわかっていても、ライオンのタトゥーを入れようとしている(=強さの象徴を身体に刻もうとしている)。
◆以上は浅はかな「強さ」の追求であり、ラストはなるべくしてなったんだろうと思う。
◆リチャードは重要なキャラクター。彼にはラマーのような男らしさはないが、ラマーの想いを言語化できるメンターとしての補助役であり、作品においてはトリックスター的な役割を担っている。
◆リチャードはラストで銃の引き金を引く。「銃の引き金を引くことで男性になれる」というのはアメリカ的なマッチョイズムであり、黒人への威圧的な態度で終わるのは、異人種より優位にありたいという想いの表れである。
◆この作品には、作者のアメリカを見る眼差しがよく出ている。
◆現在、仕事で、ロビン・ディアンジェロ『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』を取り上げているので、このタイミングで『ダーティホワイトボーイズ』を読んでよかったと思う。

<参加者F>
◆10年ぶりに読み返したが、やはり面白い。忘れている部分もあり、「後半どうなるんだっけ」と思いながら読んだ。Aさんの感想も楽しく読ませていただいた。
◆ネットでいろいろな人の感想を読んでいると、「すごく面白かった」と書いている人が、バドのことをずっと「パド」と書いていて、最初から最後までパドって読んでたんかい、と思ったり(笑)
◆『ダーティホワイトボーイズ』は、スティーヴン・ハンターが手がけるスワガー・サーガの外伝的な位置づけの作品。スワガー・サーガは、ラマーの父親を射殺したハイウェイパトロールの息子、ボブ・リー・スワガーが主人公である。
◆リチャードが印象に残る。彼は読者に一番近く、狂言回し的な役割を担っている。
この作品は、何者でもなかったリチャードが通過儀礼を経て、ダーティホワイトボーイズになるという物語でもある。
◆よくあるハリウッド的なストーリーだがディテールの作り込みで読ませる。物を書くときの参考になると思う。
スティーヴン・ハンターには『四十七人目の男』という日本を舞台にした作品があるが、私には今一つで、この作者はアメリカしか書けないのかなと思った。その点、この作品はすべてアメリカなので自信を持って薦められた。
◆Aさんは感想にて「絶望的な格差を感じた」と仰られたが、ラマーはもっとましな環境に生まれていても、やることは変わらなかったという示唆が作中にある。
◆社会問題に触れずに抽出しているところが職人芸だ。
◆バドは自分が権威主義者であることに自覚的で、自分の考えが古くなりつつあることも理解している。
◆締め方にも余韻があり、いい。(P730「ああ、ライオンよ。」)

<フリートーク
【作品の舞台である土地について】
D:作品の俯瞰的な構造どうこうより、こんなアメリカ、こんな社会には住みたくないと思った。
E:オクラホマは、あまりテレビに映らないアメリカという感じ。近くのショッピングセンターまで数十キロ。マカレスター重犯罪刑務所はそんな中にあって、難攻不落の刑務所として知られている。
D:作品に情緒的なものが少なく、男性性が強調されている。
E:脱走したあとは情緒的。「とうちゃん」「かあちゃん」という家族的な在り方が、田舎の人間関係みたいで。これもバドとの対比になっている。脱臭が巧い。本当はすごく臭いんだけど。血抜きをして「記号」にしている。
D:家族としての在り方がティピカルで。
E:「西海岸はアメリカではない」と言う人もいる。リアルなアメリカには絶対的な格差がある。
オクラホマが舞台になる小説には、丁寧に「お母さん」「お父さん」と訳していても、原文ではオクラホマ弁で「かあちゃん」「とうちゃん」のような感じ。べっとりとした人間関係で、横の繋がりがある。そういう層には受ける作品だと思う。
D:広大な土地にハイウェイが続いて、車でデニーズやショッピングセンターに行って。私たちの場合は飲食店に行こうと思ったら10分歩けば行けるんだけど。
E:だから、一度にいっぱい買えるコストコが便利。オクラホマシティだとまだ街だけど、ちょっと離れると本当に田舎。一番怖いのは、何もない平原で車が動かなくなること……。
使ってはいけない言葉だけど、英語で“Okie(オクラホマ野郎)”というと田舎者という意味になる。他の作品で、白人同士で協力しあって、教会とか出てきて、寄った先で田舎者と言われる、みたいなものがある。あと、そこにもマッチョイズムが現われている。
D:ドラマ『大草原の小さな家』を思い出した。父性と母性。子どもがいて、生きていかなければというところでは父性が大事になってくるんだろうな、と。
E:自分たちで開拓して。だから自分の身を守るために銃を持つんだ、となる。
D:すごく怖い世界ですよね。銃はすぐ人を殺せる。
E:この作品の(アメリカの)読み手は、それなりに銃に親しんだ人が多いはず。成人するまでに射撃実習に参加したり、女の子は誕生日プレゼントに小さい銃を貰ったりする。
リチャードの「銃を撃ったことがない」というのは「男じゃない」を意味する。「撃って一人前になれ」は「いい加減童貞を捨てろ」みたいな意味合いになる。私はそこに暴力性のようなものを感じたのだけれど。
ラマーにしろバドにしろC・Dにしろ、コーチ的なところがある(C・Dはバドと息子たちを飲みに誘っていた)。ある意味で上下をつけながら世界を紡いでいく。いくら脱臭されていても臭いな、と。

【作品における男性性、父性について】
D:私が一番臭いと思ったのは冒頭。男性の性的魅力に重きを置いている。ホリィにしてもバドを褒め称えるし。
E:冒頭は白人と黒人との対比。黒人は肉体的に優位にいるんだけど、ラマーはもっと上だ、という。黒人に負けないぞという強さの誇示的な部分もあるのでは。
最初(P10)と最後(P728)に「ダーティホワイトボーイズ」という単語が出てきて、構成的にすごく技工を凝らしているなと思った。「ダーティホワイトボーイズ」はチンピラ、くらいかな。アメリカでは肌の色はとても重みがある。白人のチンピラを指すときには「white……」とつくけれど、黒人のチンピラは「黒人」のままで、一般の黒人と区別しない。
D:男性性、父性が強調されているのと同時に、女性性も強調されている。男性から見て女性はこうあってほしい、というような。男性であるラマーやオーデルはキャラが立っているから想像しやすいけど、女性のジェンやホリィからは無理やり作った女性神話みたいなものを感じる。ホリィは最後に頬をぶたれるし。
B:ホリィ、アホみたいですよね。旦那が殺されても平然としているし。
D:ホリィは男性の理想では。性的魅力に富んで、ちょっとお馬鹿で、旦那がラマーに殺されたのに、バドを褒め称えて……。
B:年齢もバドの22歳下で。
E:私は男性だけど、積極的に電話してって言われたらうんざりしますね、個人的には。
D:私の世代にはこういうタイプの女性が多い。演歌の世界みたいな。
E:ものの考え方の単位が「家」なんです。その人に尽くすのがベター、みたいな。個々人同士の信頼関係というより、昔から決まっているキャラクターを演じてください、みたいな。私はそういうのがしんどい。父親、母親以外のものになってはいけない、というようなものが。
男はガス抜きができる。バドは家庭に収まりきらない感情をホリィで発散している。それが黙認される風土がある。女性が同じことをすると、一回で姦通罪的に見られるであろう息苦しさが鼻についた。私の感情的なしこりは、そこに端を発している。
D:ルータ-ベイス以外の女性は人物像が作り込まれておらず、お人形のようだと感じた。それが、しんどい人にはしんどい。私はここに描かれている男性を面白いと思えるから楽しめたけれど。
E:私はこういうタイプの男性と喧嘩して。10年20年経っても、やっぱり喧嘩している。「兄貴」的なものを持ち出されて、話がまとまらない。
D:岸和田とか、イメージに近いよね。
E:結婚も早かったりしますね。そして横の繋がりが強い。それが苦手で出る人もいる。
D:俺が面倒見てやる、みたいなものが。
E:刑務所や牢獄の人間関係って、ある種、兄弟分のような、家族的な関係性がなくはないと思う。
B:ケルアックの『オン・ザ・ロード』、私も苦行だった。あと、ドラマ『ウォーキング・デッド』も苦行で。サバイバルのところで銃を持ちだすのが父性的で、抒情がなくて。ゾンビ映画は好きなんだけど。
E:オン・ザ・ロード』は、そういうものを出して、移動していくのが醍醐味なんだろうなと思う。ヒッピー世代の人が見るとまた違うかも。
D:エンターテイメントとしては面白かったけど、父性や男性性を考えてしまうと……
E:アナザーアメリカみたいなものへの、取っ掛かりになるかも。

【「肉体」的なキャラクターと「精神」的なキャラクター】
D:今までこういう作品を読んだことがなかったけど、すごく面白かった。私は銃社会とか父性とかライオンとか嫌いなんだけど、本当に面白くて。
E:肉体と精神とを分けると、ラマーはすごく肉体的な人。タトゥーにこだわるところからも、それがわかる。ラマーは自分を言語化できない。だから拳にタトゥーがある。彫るとき、痛いのは嫌なんだけど、それでも彫ろうとする。ラマーには自分を表現する手段が他にない。その意を汲んで表現するのがリチャード(タトゥーのデザインなど)。
「肉体」はラマーやバドで、それをある種観念化しているリチャード(:いろいろな意味でグレーゾーンな存在)は、この作品におけるトリックスターである。
D:リチャードの使い方が巧い。
E:(この物語は)ある種の怪談なのでは。リチャードはラマーに執着し、最終的にラマーに取り込まれてしまう。私はそこに爽快感を覚えなかった。怪物に憧れて、自分も怪物になってしまったように感じた。
D:ラストにカタルシスを感じるか感じないか、人によって違う。
E:感じなかったら怪談なんです。

【映像化を意識?】
B:バドは死ななかった。何回も死にそうだったのに助かるのがアメリカ的。
D:ラマーとの最後の戦いで死んだみたいなミスリードがあるけど、結局自分だけ家族のもとに戻って、いいようになって……
F:一回死んだように思わせる演出って、映画でもよくある。
E:シルヴェスター・スタローンシュワルツェネッガー的な。
F:作者は商業作家なので、映画化を見越して書いていると思う。脚本に起こしやすそう。
E:登場人物が使う銃の指定があるとも見れる。

【作中の料理など、ディテールの作り込みについて】
D:料理。アメリカ的に、美味しそうに書いてるつもりなんだろうけど、なんかぱさぱさしてる。
F:ホーホーケーキとか食べてみたい。そういうディテールが好き。
B:ホーホーケーキ、自動販売機のケーキだから味はどうなんだろう。
E:アメリカは味よりも、お腹が膨れたらいい、みたいなところがある。油ものを油で揚げたり、一番小さいサイズを頼んでも日本での大盛りくらいの量だったり。
B:作中に出てくるお店もデニーズだし、特に食べてみたいとは思わなかった。
E:デニーズで客がいくら払って、金庫にいくらあるかがリアル。(客が)ホームフライドやパンケーキをちまちま食べて……というのが、数字として生々しい。
D:食べ物含めて、ディテールを作り込んで、独特な世界観を構築できている。たとえばここにシーザーサラダとか出てきても似合わない。
E:サラダを食べるのは富裕層。ここでは、とりあえず安くてお腹にたまるものを食べる。アメリカには、ハンバーガーを食べたら野菜を摂ったことになる、と言う人も。ハンバーガーにはトマトが入ってるから。